070730

斉藤孝著 「読書力」

 岩波新書(2002年9月)

この国には読書文化の伝統があった。これは日本の含み資産である。

若者の活字離れが指摘されて久しい時間がたった。テレビ、アニメ、漫画、そして携帯やパソコンの動画などのメディア媒体に流れて、ますますその傾向は進んだようだ。日米の大学生の勉強振りも比較され、日本の学生は大学に入ったとたんに本を読まなくなるそうだ。それに比べて米国の学生はレポート作成と進学試験のために膨大な資料を読み必死に勉強するそうである。最近の日米の国力の差をこの勉強振りに求める評論家も多い。かって戦前の日本人の識字率は世界でトップであった。識字率だけでは今でも日本はトップかも知れないが、仕事の成果・創造力など内容がまるでダメになったそうだ。それは何故であろうか。本書は本を読む力が失われているからだという。本を読む力即ち読書力とは考える力・思考力・生産力でも有る。要するに人間活動の全ての基礎となるのである。偏狭な経験主義は技術の停滞を生み、思考停止は絶対的宗教の魔力に蝕まれる。多くの本を読んで理解することは経験の確認であり、擬似経験であり、思想の相対化にもつながる効果がある。読書の効用とは何だろうかということに本書がさまざまな解を用意している。是非一読しておきたい本である。小学生から高校生相手にわかりやすく「読書のすすめ」(学問のすすめ)を書いてあるのだから、短時間で読みきれる内容である。

著者斉藤孝氏は明治大学文学部助教授で、「国語入試問題集」、「声に出して読みたい日本語」とか「三色ボールペンで読む日本語」、「理想の国語教科書」という著書でおなじみの国語学者である。私も何冊か読んできた。私が国語入試問題を不得意とした理由がわかった。出される問題が変だったのである。自分の考えを書いては×で、回答のないような問題ばかりだったとは昔のことが悔やまれて仕方なかった。また三色ボールペンで線を引きながら読むという先生の教えは尤もながら三色は多すぎるので、私は一度目と2度目に読むときのサインペンの色を変えている。理解度で重点が違って見えるのである。当然2回目の線引きが決定版である。などなど斉藤孝先生のお話は平易で具体的で面白い。いまでは国語を勉強する必要もないが、もっと早い時期に読んでおけば国語入試はもっとうまくいったかもしれない。冗談はこれぐらいにして、読書はやはり重要である。幸い日本には強力な近代的出版業界がいて需要も高密度に集中しているのである。年間およそ4万種類、15億冊の本が出版・生産されている。出版社の数も約5000社にものぼるのである。本の生産力は世界随一だが問題はその内容と読者である。

斉藤孝先生の書かれた本書の対象層はどの辺にあるのだろうか。「読書のすすめ」であるからには、小中学生あたりからであろう。岩波新書を読む層は大体高校生から大学生であろうか。斉藤孝先生が本書の前書きで書いているように「読書力さえあればなんとかなる。数多くの学生達をみてきて切実にそう思う」といっておられるので、本書は大学生に向けて書かれたようだ。「読書とは娯楽のためではなく、多少とも精神的緊張を伴う読書」が本書のテーマになっている。本書の内容は序章で読書力の定義と意義を、第一章では読書が自己形成にとって強力な武器であることが書かれている。第二章は多少おふざけなところもあって面白い読書上達ハウツーについて書かれている。この上達法は私の経験では読書のみならず、勉強すべてについて成り立つハウツーである。第三章は自己の経験を相対化して人と会話できる能力の形成(人間にとって一番重要なこと)について書かれている。年配の方もいまさら自分には関係ないことだと言わないで、易しい言葉に耳を傾ければ、あーそうだと頷ける。

序章:読書力とは何か

何のために読書をするかという問いに対する斉藤孝先生の答えは「読書は自己形成のための糧だからである、読書はコミュニケーション力の基礎になるからだ」だそうだ。別に読書を効用論から説く必然性はないが、無意味なことを一杯している人間が読書の意義と効用を聞いてきたらこのような意味があるのだよと諭すことは出来るが、はたしてわかるかな。私達が人間や世の中や自然に興味を持てば、経験と読書は認識への両輪となる。絶対宗教の教えを信じないなら、それ以外に答えがあるのか。本は歴史的な先人や今の世における碩学先達が書いたものであるからには、彼らの考えを聞いてみることは必要である。即ち読書は自分の疑問と思考活動における素地を作るものだ。ここで著者は面白い設定をする。「読書力があるラインとは文庫本百冊・新書五十冊を読んだことであり、ほぼ4,5年の読書生活を経験することである。」という。文庫本には名作文学が多い。新書とは岩波新書や中公新書のようにさまざまな分野に対する認識を高めることを狙いとした質の高い啓蒙書である。文学に興味を抱き始める児童文学書時代の小学生、西洋や日本の古典文学を読み始める中学生から高校生時代をスタート地点にして、社会的な関心や専門分野の入門書である新書を読み始める高校高学年から大学生時代が読書の習慣をつける年代である。ところがいまや大学生が新書を読む習慣がもはやないらしい。何を持って本を読んだことになるのか(見たこと、眺めたこと、流したことも含めて)というと、読んだという本が何を書いている本で内容を簡単に要約できることである。本の見出しだけでもそれは出来る。帯だけ見ても分る。しかしそれは何について書いてあるかとうことで、著者が言いたいことは何であったかを纏められなければ読んだことにはならない。目を通すという情報処理能力を養う点でも、また仕事が要求する膨大な情報を理解するためにも読書はその基礎となる。膨大な読書が脳細胞にどう蓄積されるかは知らないが、少なくとも読書は蓄積である。蓄積して関連付ける能力が脳細胞である。次に読む本の内容であるが、よく言われるように「骨のある本」(咀嚼力を鍛える)を読むことが重要だ。流動食や離乳食ではいけない。

第一章:自分をつくる

「読書は自己形成のための糧だからである」ということは、「自分をつくる最良の方法は本をよむに如かず」ということである。人間の幅が狭いと一つのものを絶対視することになる。教養があるということは幅広い読書をして総合的な判断が出来るということである。色々な他人の体験や考えをどんどん取り入れて自己を形成する頭の柔らかさが、読書で養われる強靭な自己となる。戦前から続いてきた「教養主義」は(何を隠そう、私も京都大学の全人教育、教養主義で育った古いタイプの人間である)1970年以降は明確な衰退した。携帯動画、漫画などのサブカルチャーというエンターテイメント文化になった。金儲け思想も結果第一で教養を吹き飛ばした。読書は独りになって賢人と向き合うことである。人間の総合的な成長は優れた人間との対話を通じて育まれる。そのためには有る程度の集中力も必要だ。当たり前のことだが、人は考えるとき言葉(書き言葉)で考えるような脳の構造になっている。ひらめきもあるが、論理の積み重ねは書き言葉で行う。言葉をたくさん知っていなければ思考の幅・深さもままならない。読書を続けて蔵書も増えてゆくと、本から本への連鎖が生じる。興味の対象が少しづつずれてゆくのである。だけど読む本と本の間には関連と系譜が生じる。それがその人の執着力であり、興味のある分野である。本棚に並べる時の整理法も楽しい。どういう関連でどの本の横に置くかはその人の頭脳のみが知ることである。生きる力は自分を肯定すると頃から生まれて来るそうだ。どんな辛い経験も自分を相対化してみれば耐えられる。そういう意味では読書も体験である。幅広く読んでおくことが、困った時の智恵となるのである。私自身も最近悟ることがあって、読書をしていて分らない部分があってもあまりこだわらないで前に進むことが多くなった。後で分るとか2度目に読んだら氷解することが多いのである。局部の論理のつながりが理解できなくとも文脈で読むようになった。これで大分楽になった。

第二章:自分を鍛える

この章は読書上達のプロセスを述べた面白いところである。まず子供のころは読み聞かせで想像力を養うことは重要だ。宮沢賢治の文学は読み聞かせ文学の最大の宝庫である。著者の書いた「声に出して読みたい日本語」は、声を出すことが黙読よりは脳の活性化に役立つらしいという。別に脳の活性化を言わなくとも私は朗読文学(語り文学)という分野は声を出して読むべきと思う。たとえば弾き語り話である「平家物語」、説教話である「徒然草」は朗読でこそ美しいし、分りやすくなるのである。また政治学者丸山真男氏が推薦したように福沢諭吉著「文明論の概略」も声を出して読むと文明開化の響きと志の高さがよく分るのである。大昔江戸時代にはお経や論語の素読は分らなくとも大声で読み覚えるものであった。今では笑われる教育法だが当時は大真面目で覚えたのが後になって骨肉化していたのである。本を自分のものとするために線を引いて読む方法は効果的であると著者は言う。別に先生が言わなくとも殆どの学生は重要だと思うところには大昔から線を引いてきた。ただ先生は「三色ボールペンで読む日本語」で、一番重要と思うところは赤のボールペン、まあ大事と思うところは青のボールペン、主観的に面白いところは緑のボールペンで線を引くとのたまわれる。しかしこれはおかしい、呼んでゆく過程で一番大事なところとは全部読まなければ分らないはず、まあ大事と思うところも相対的なもので簡単には決められないし、主観的に面白いとは意味不明である。そこで私は纏めるべき本は2,3回読むことにして、1,2,3回目ごとに蛍光サインペンの色を変える方法でやっている。読むたびに理解の度は増すのだから大事さの相対性もわかってくる。別に先生にやり方を批判するつもりはないが、私なりの線の引き方でやっている。それだけのことである。最後に先生は読み方に緩急をつけろといわれる。速読、精読を使い分ける。そのとおりである。精読の時には万年筆で本に疑問やまとめの書き込みを行うことも私は大昔からやっている。難しい論理のつかめないところは飛ばしてゆくことも先ほど書いたように、要は本は文脈で読むことが最重要で、些細なことに拘っていては前に進まない。最後に先生は「斜め読み」をいわれるが、私は「斜め読み」は出来ないし、それで文脈がつかめたためしはない。これはいただけない。

第三章:自分を広げる

読書をしてきた人間かどうかは、会話において脈絡のある書き言葉で話せるかどうかということだ。最近の高校生の会話は脈絡なく自分のことしか言っていない「携帯を持ったサル」同然の会話である。会話は相手に言っていることをよく聞くことから始まる。そして自分の言葉に直して相手の話を確認することが会話のスムーズな流れになるのである。そのためには語彙が豊富でなければならない。駄洒落も言語遊びとしては高等テクニックを要する。会話での話言葉は単語だけの支離滅裂な脈絡では内容のあるコミュニケーションは出来ない。書き言葉としてきちんと文章になっていることを話しているだろうか。抽象度の高い内容では漢語の語彙は重要である。少しの文語体も使えるようであってほしい。話に格としまりが出るのである。
読書力をつけるためとコミュニケーションで人の考えを知るため、読書会や学校での朝読書時間は極めて有効である。私も大学生の頃「資本論読書会」、「万葉集読書会」などを作っては楽しんだことを思い出す。学校、職場、地域で気の会った友達と読書の楽しみを分かち合い意見を聞くことは大変意義深いことである。本を読んだら人に話そう、文章にしよう。そうしているうちにあなたも本が書けるようになるかも。


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