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坪内稔典著 「俳人漱石」

 岩波新書(2003年5月)

近代人の自我を説いた夏目漱石は、小説家の前は新進の俳人であった。

夏目漱石は作家になる前は俳人であった。英語教師として松山、熊本に赴任した時代、友人正岡子規の影響もあって句作に熱中し、新進の俳人としてときめいていた。2500首を超える漱石の俳句から百句を選んで漱石俳句の世界に遊ぶことが本書の稔典さんの楽しみである。なお著者坪内稔典氏は京都の仏教大学文学部教授で俳句グループ「船団の会」代表である。自身の句集「月光の音」ほか、子規、漱石俳句の紹介者である。俳句は作者を離れて一人歩きすることが大事な要素である。俳人はたいてい俳号を名乗っていたが、現実の人格や身分から離れて遊ぶ世界での名が俳号である。句会では俳句は無署名で提出される。作者より作品が大事だという俳句の思想を示しているのである。そういうつもりで夏目漱石の俳句と見ないで、ユーモア溢れる俳句百首を味わうべきであろうか。本書は著者坪内稔典と、夏目漱石と正岡子規の三人の鼎談形式で漱石の俳句を味わう会になっているが、それはそれで面白い趣向だが煩雑になるので今回の書評では言及しない。ただ漱石の俳句を味わってもらうつもりで、百首の句について坪内稔典氏のコメントをつける。

夏目漱石 百句
1期 俳人になるまで(1889-1894)

1.  帰ろふと 泣かずに笑え 時鳥
時鳥とは肺病の代名詞。子規の肺病が判明し国に帰って静養しようとする子規を励ました句。解説なしには判明しない下手な句。夏
2.  聞かふとて 誰も待たぬに 時鳥
不幸に見舞われた子規を慰めた句。時鳥とは結核にかかった子規のこと。月並みな句の代表。夏
3.  寝てくらす 人もありけり 夢の世に
漱石がトラホームにかかって本も読めず昼寝ばかりしてきた時期の句。本人はしゃれたつもり。季語なし
4.  峰の雲 落ちて筧に 水の音
漱石は句を子規にみせて添削をしてもらっている。雲の峰なら入道雲で夏の季語だが、峰の雲では季語なしとなる。大小の変化があって面白い。といっても子規の添削があってのこと。季語なし
5. 東風吹くや 山いっぱいの 雲の影
変化の激しい早春の空模様を捉えて漱石会心の作といえそうだが、実は秋の箱根旅行のときの歌。つまりこの頃の漱石には季節感が乏しい。春
6.  蛍狩り われを小川に 落としけり
漱石の句は殆どが子規の添削を受けている。つまり子規との共作といっていい。分りやすくてユ-モアに満ちた句。夏
7.  世をすてて 太古に似たり 市の内
世捨て人が世間にまぎれて住んでいる。禅や中国の賢人のながれにある。季語なし
8.  朝顔や 咲いた許りの 命哉
25歳で逝去した兄嫁の死を悼む句。江藤淳の漱石伝では漱石は兄嫁に恋をしていたようだ。喪失感が月並み。夏
9.  こうろげの 飛ぶや木魚の 声の下
兄嫁追悼の句で通夜の風景。このときは漱石は「俳道発心」で子規とは長文の手紙のやり取りをして、子規側に保存された。夏
10. 鳴くならば 満月になけ ほととぎす
時鳥は子規のこと。満月とは卒業のこと。子規に大学卒業を薦めている。夏時鳥は子規のこと。
11. 弦音に ほとりと落ちる 椿かな
この頃漱石は風邪にかかり肺病の疑いもあったが無事回復した。弓の稽古をしたりしていた。春時鳥は子規のこと。
12. 鳥帽子着て 渡る禰宜あり 春の川
虚子、子規、鳴雪らと「神祇」という題で俳句二葉集に出ている。子規が勝手に採用した句。春

2期 俳人・愚陀佛(1895)

13. 将軍の 古塚あれて 草の花
松山の俳句の会「松風会」に松山赴任中の漱石は毎日参加していた。松山の「海南新聞」に寄稿。秋
14. 鐘つけば 銀杏ちるなり 建長寺
子規の句「柿くえば鐘がなるなり法隆寺」にそっくり。実は漱石の句のほうが早いが、秀句は子規にあり。秋
15. 乗りながら 馬の糞する 野菊かな
松山の中学校赴任中の句。野菊が題の句会だろうか,毎日句会が漱石下宿の一階でもよされていた。秋
16. 馬に二人 霧をいでたり 鈴のおと
松山の中学校赴任中に子規は喀血で松山に帰郷した。そして同じ家に50日ほど同居した。峠の茶屋の風景で秀句。秋
17. 風ふけば 糸瓜をなぐる ふくべ哉
糸瓜は子規、瓢箪は漱石ともみえる。この頃漱石の下宿先に居候していた子規は蒲焼などを漱石のおごりで食って養生していたようだ。丁々発止の二人の関係が知れて面白い句。秋
18. 稲妻や をりをり見ゆる 滝の底
稲妻と滝壺の組み合わせの妙が面白い。子規は句に感情の露骨表現は句の世界を縮め読む人の創造力を歪ませると説いた。秋
19. 夕月や 野川をわたる 人はたれ
与謝野晶子のロマンチックな歌を念頭に入れた句だが漱石の特徴でもある。秋
20. 秋の山 南を向いて 寺二つ
子規は仲間の秀句を「承露盤」というノートにメモしている。これによって漱石の句が残ったといえる。漱石は「愚陀佛庵主」と名乗って俳号とした。秋
21. 一里行けば 一里吹くなり 稲の風
漢詩の対句的表現で風の心地よさを表現。子規は評価せず。また漱石の俳号「愚陀佛」を公表せず「漱石」で通している。秋
22. この夕べ 野分に向いて 分れけり
子規は松山での静養を終え東京へ帰る。送別句である。秋
23. お立ちやるか お立ちやれ新酒 菊の花
これも送別会の句。漱石という名は負け惜しみの強い性格で、響きもよくすっきりしていると子規は好んだ。漱石が松山の中学校へ赴任した理由は今も謎。秋

3期 二人句会(1895-1896)

24. 凩に 裸で御はす 仁王哉
子規が東京へ帰ってからの漱石は句作に熱中する。いわずもがなの表現があって陳腐と子規は評する。冬
25. 思う事 只一筋に 乙鳥かな
乙鳥は燕のこと。子規が2重丸を付けた評価作。物語性や言葉遊びに富んでいて、ツバメの飛び方が一直線が面白い。春
26. 赤い哉 仁右衛門が背戸の 蕃椒
蕃椒はとうがらし。漱石の「童謡」という詩を連想する物語。秋
27. 客人を 書院に寝かす 夜寒哉
漱石が子規の親戚近藤家に泊まったときの句。書院が当たり前で陳腐だが品はいい。秋
28. 雲来たり 雲去る瀑の 紅葉かな
子規も評価した、快さが出た句。この頃漱石は松山に飽きて孤独であったようだ。秋
29. 唐黍を 干すや谷間の 一軒家
淋しさがよく出ている秀句。懐かしい田舎の風景。 秋
30. 三十六峰 我も我もと 時雨けり
芝居がかった時雨の顔見世。月並みの名句。冬
31. 雛に似た 夫婦もあらん 初桜
漱石の句は見たままの体験や風景をありのままに表現したものが多く、子規の「写生」の趣旨には合わない。桜と雛祭は時期的に合わない。春
32. 卯の花や 盆に奉捨を のせて出る
奉捨とは巡礼に対するお布施。「傾城阿波の鳴門」を踏まえた句で子規も評価した。殆どが虚構の句で物語を創作する句態度。夏
33. 星一つ 見えて寝られぬ 霜夜哉
神経衰弱の句で暗い。この頃多作で、子規に69句も送って添削を乞うた。子規はこの句は評価しなかった。秋
34. 達磨忌や 達磨に似たる 顔は誰
達磨の繰り返しがリズムを生む。冬
35. 愚陀仏は 主人の名なり 冬籠
愚陀仏は漱石の自称俳号。「我輩は猫である」の言葉の世界が広がって楽しい句。冬
36. 白馬遅遅たり 冬の日薄き 砂堤
この時期漱石は月に184句を子規に送って添削を受けている。言葉の世界によっているようだ。子規は「薄き」を余計だという。冬
37. 雪の日や 火燵をすべる 土佐日記
このころ子規だけでなく虚子にも句を見せている。冬
38. 雛殿も 語らせ給え 宵の雨
源氏物語の雨夜の品定めに空想が流れる雛祭。言葉は時空を超えて広がってゆく。春
39. 叩かれて 昼の蚊を吐く 木魚哉
江戸時代の東柳という人の句のパロディ。太田南畝の書「一話一言」を読んで作ったようだ。夏
40. 行く年や 膝と膝とを つき合せ
だれとだれが膝を突き合わせているのかは不明にしておくのが俳句の特色。読者の観賞の楽しみを残すことになる。句会のことかもしれないが。冬
41. 干網に 立つ陽炎の 腥き
漱石帰郷の折の根岸子規庵での句会(運坐)の句。題は春の干し網。漱石、子規、鴎外、鳴雪、虚子、碧梧桐、瓢亭、可全。漱石自信の名句、陽炎から生臭きと飛ぶところがよい。春
42. 半鐘と ならんで高き 冬木哉
2回目の運坐の句。題は冬木で、一番人気となった。この頃漱石は見合いをした。冬
43. 日は永し 三十三間 堂長し
漱石松山に帰ったが、望郷やまず句作少なし。この句は不評。春
44. 断礎一片 有明桜 ちりかかる
国分寺跡に夜明けの桜が散りかかる。想像させてくれるところが多いので秀作。春
45. 春暮るる 月の都に 帰り行く
子規は「月の都」という小説を書いて小説家を志す。文飾過剰の駄作。漱石は結婚して流産の妻を残して熊本へ転勤した。春
46. 奈良の春 十二神将 剥げ尽せり
現実の意外な面を見つけるのも俳句的な発想。春
47. 落つるなり 天に向って 揚雲雀
天に向かって落ちるという言葉が新鮮。俳句は時代の時空を超え、魂の活動に応じて愉快になる。それが詩だ。春
48. 永き日や おくびうつして 分れ行く
太田南畝「一話一語」にある天弓の句のパロディである。松山中学校から熊本第五高等学校へ転勤になる送別会での句。春

4期 俳人漱石(1896-1900)

49. 駄馬つづく 阿蘇街道の 若葉かな
熊本第五高等学校赴任の句。街道の賑わいが聞こえてくるよう。大阪の俳人露石宛の手紙に記されていた。夏
50. 衣替えて 京より嫁を 貰いけり
漱石の結婚通知に記された句。夏
51. 仏壇に 尻を向けたる 団扇かな
扇子ではなく団扇というところに庶民性がみえる。仏壇に背を向けるや団扇を煽いで胸をはだける様子。子規はこの頃後継者を虚子に定めたが、虚子は嫌がり決裂。夏
52. 吹き井戸や ぽこりぽこりと 真桑瓜
虚子は淡泊、のんき、不器用な性格であったらしい。この句のぽこりぽこりというところが虚子的である。虚子は漱石の俳句を教師の余技程度に見ていた。俳人漱石を軽視していた。夏
53. すずしさや 裏は鉦うつ 光琳寺
光琳寺は漱石熊本での居の裏にあった寺。漱石は松山時代の2年間に737句、熊本時代の4年間に998句を作った。全体の70%が松山熊本時代の作である。夏
54. ひやひやと 雲が来る也 温泉の二階
旅の楽しさがよく出ている。二階の雲は「三四朗」にも出てくる漱石好み。秋
55. 枕辺や 星別れんと する晨
七夕の夜明けでロマンチックな句。小説「道草」の夫婦が連想されるのである。ヒステリーの細君を介護する話。秋
56. 長けれど 何の糸瓜と さがりけり
長いけれど平然とぶら下がっている糸瓜。このふてぶてしさが漱石の理想。神経衰弱の夫とヒステリーの妻の対決。典型的な近代の夫婦像、秋
57. 見送るや 春の潮の ひたひたに
王朝風な恋の歌。忍恋、絶恋、恨恋、初恋、逢恋、別恋など言葉から発想して詠むのが古典和歌の世界です。春
58. 配達の のぞいて行くや 秋の水
何気ない日常の姿を切り取った水彩画。子規写生の基本。写生と理想の二つを旺盛に作った俳人漱石。秋
59. 秋高し 吾白雲に 乗らんと思う
これは理想の句。陳腐そのもの。仙郷に遊ぶ漱石。子規は実あらずという。秋
60. 累々と 徳孤ならずの 蜜柑哉
論語「子曰 徳不孤 必有隣」をふまえている。重なり合う蜜柑ということ。秋
61. 紡績の 笛が鳴るなり 冬の雨
紡績工場の写生の句。目に浮かぶ風景を写し取ることも写生である。冬
62. どっしりと 尻を据えたる 南瓜かな
小説「吾輩は猫である」に出る句。漱石渡英中に子規に「墨汁一滴」で励まされたことへの返礼として「吾輩は猫である」を子規の墓前に捧げるとある。秋
63. 詩を書かん 君墨を磨れ 今朝の春
漱石結婚半年後の正月の句。新妻に磨らせる墨の香が漂ってくる。春
64. 人に死し 鶴に生まれて 冴返る
「冴返る」とは立春後に寒さがぶりかえすことです。鶴の孤高の美のような子規絶賛の句。春
65. ふるい寄せて 白魚崩れん 許り也
其角の句「白魚をふるい寄せたる四つ手かな」に比しても互角。繊細な白魚の姿が絹ごしの網に掬い取られている。春
66. 木瓜咲くや 漱石拙を 守るべく
木瓜(ぼけ)は実直で頑固で拙を守る陶淵明の詩に現れる。理想の句。春
67. 菫程な 小さき人に 生まれたし
漱石のきれいなものへのあこがれであろう。子規も草花の詩人であろう。二人の感性は妙に響きあう。春
68. 菜の花の 遥かに黄なり 筑後川
菜の花のはるかに黄なりというのどかな風景で好きなことをしていたいという漱石は、脱教師から文学者の生活へ踏み出しているのである。春
69. 山高し 動ともすれば 春曇る
「動ともすれば」とは「ちょっとしたことで」という意味。久留米旅行の作品である。春の気候の変化の激しさを表現した言葉。明治29年子規は新聞に俳句界を評論して初めて漱石を俳人として「活動的、奇想天外、滑稽思想を有する」と紹介している。春
70. 若葉して 手のひらほどの 山の寺
カメラ視線の動きを言葉にしたような句。熊本市成道寺での歌で、初夏の風景画。夏
71. 秋風や 棚に上げたる 古かばん
秋風と古鞄の関係がやや感傷的。秋
72. 水仙の 花鼻かぜの 枕元
水仙の花は清楚で軽快なので鼻かぜに合う、贅沢な病人である。俗と雅の組み合わせが芭蕉的。春
73. 行く年や 猫うずくまる 膝の上
「吾輩は猫である」のくしゃみ先生のぐうたら世界である。この年山川氏と熊本県小天温泉に旅行し、数点の句を残している。冬
74. 三条の 上で逢いけり 朧月
大いなる月並みな句。通俗的で京都案内の句、あきれてものも言えない。春
75. 湧くからに 流るるからに 春の水
熊本市水前寺公園の湧く水を詠んだ。名所旧跡を詠むと月並みを逃れるのは難しい。写生の美と定まった歌枕の美の対抗。春
76. 風呂に入れば 裏の山より 初嵐
風呂と裏山の嵐はまさに俳人の句になっている。この年寺田寅彦が漱石のもとに現れる。秋
77. 道端や 氷つきたる 高箒
明治30年代の俳句界で子規は漱石も含めて「俳人の錚錚たる者」の中に入れた。明治30年以降は句作数はすっかり足踏み状態である。耶馬溪の風景で谷間の冬の道のいかにも寒そうな情景になっている。冬
78. 親方と 呼びかけられし 毛布哉
久留米の追分にて車夫から「親方乗ってゆかんかのー」と呼びかけられたのがおかしかった。旅の防寒具をケット(毛布)という。おのぼりさんと直ぐ分るのである。冬
79. 夫子貧に 梅花書屋の 粥薄し
夫子とは孔子のことで、論語「夫子の道は忠恕のみ」(まごころとおもいやり)をふまえている。書斎雅号「梅花書屋」は意味難解、「貧に、粥薄し」は同じ内容である。春
80. 瑠璃色の 空を控えて 岡の梅
早春の孤独な瑠璃色がきれいな句であるが、きれい過ぎて定型的陳腐。「梅花百五句」のひとつ。子規は評価していない。春
81. 馬の子と 牛の子と居る 野菊かな
熊本五高の同僚山川氏と阿蘇山を旅行した折の句。名句である。秋
82. 草山に 馬放ちけり 秋の空
阿蘇山旅行の戸下温泉での句。放たれた馬の自由の気持ちが表現されている。子規の「春夏秋冬」に採用された。構図もいい。秋
83. 秋の川 真白な石を 拾いけり
これも子規の「春夏秋冬」に採用された。漱石は昼間の河原に幻想の真っ白石をみた。秋
84. 行けど荻 行けど薄の 原広し
阿蘇山で道を失ったときの感想句。この情景は小説「二百十日」にある。秋
85. 南窓に 写真を焼くや 赤蜻蛉
題は熊本高等学校秋季雑詠。物理教室の暗室や写真焼きと赤とんぼの会合が妙。このころ子規庵では障子からガラスにきりかえ子規は明るくて満足顔。秋
86. 安々と 海鼠の如き 子を産めり
五月、漱石の長女誕生。漱石動転して季語の意識がなかったようだ。冬
87. 秋風の 一人を吹くや 海の上
俳人時代最後の句である。明治33年漱石はロンドン留学に出発した。留学前に寺田寅彦にあてのはがきに書いた送別の句。孤独の決意がにじみ出ている。秋

5期 俳人から小説家に(1900-1916)

88. 日は落ちて 海の底より 暑さかな
英国への途上紅海あたりでの句。すごく暑く漱石閉口。「倫敦消息」という題で「ホトトギス」に掲載。子規は要求して漱石と二人句会を続けていた。夏
89. 吾妹子を 夢みる春の 夜となりぬ
半年で英国がいやになり、妻への愛の句。ところが妻からは殆ど返事が来ない。春
90. 筒袖や 秋の柩に したがわず
倫敦にて子規の訃を聞き、虚子よりの要求で書いた追悼句。秋
91. 旅に寒し 春を時雨れの 京にして
明治40年漱石は朝日新聞社入社により京都に出向く。新聞社に入って小説家になるということへの漠然とした不安が、京都をさびしく寒くしている。神経衰弱がひどく気分転換に書いた「吾輩は猫である」が爆発的な人気を呼び、漱石は小説家になる決意をした。春
92. 時鳥 厠半ばに 出かねたり
「虞美人草」の執筆中、時の首相西園寺公望公からの招待を断るはがきに書いた句。風流な時鳥に俗な厠をだして俳句的にいなした反骨の句作。夏
93. 別るるや 夢一筋の 天の川
明治43年修善寺での喀血以降、漱石は病床で俳句と漢詩を作るようになった。天の川は七夕伝説で隔てる川。夢一筋が良く出来た名句。秋
94. 秋の江に 打ち込む杭の 響きかな
澄んだ音が響く、川の水も澄んで、空も高く蒼く、俳句の空間が広々としている名句。年来俳句には疎くなってゆく漱石だが、ときには実生活から逃れた心が本来の自由を得て浮かんだ天来の彩紋であると述べている。秋
95. 秋風や 唐紅の 喉仏
すさまじい光景、真っ赤な切り裂かれた喉仏に秋風が吹くとはいかなることか。子規の末期も凄まじいが、漱石の言葉遊びも鬼気迫るものがある。秋
96. 有る程の 菊抛げ入れよ 棺の中
だれへの追悼句かは知らない、これも言葉遊びかも。激しい気持ちが「抛げ入れよ」に現れている。死すべき人間の運命への激しい抵抗の心かも。秋
97. 灯を消せば 涼しき星や 窓に入る
漱石胃潰瘍で入院中に東洋城に出したはがきの句。事態を受け入れる優しい態度。東洋城は漱石小説家時代の俳句の仲間である。子規逝去後は寺田寅彦、小宮豊隆、鈴木三重吉、東洋城、高浜虚子、坂本四方太らが漱石宅に集まった。秋
98. 紅梅や 舞の地を弾く 金之助
金之助とは祇園の芸者。画家津田青楓が漱石の世話をした。金之助は夏目金之助で自分のことでもある。図柄は古い月並みだが、空想に遊んでいるようだが、また漱石は喀血した。春
99. 耳の穴 掘って貰いぬ 春の風
いい気持ちの句。この快感は俳句を作ることに通じると漱石はいう。春
100. 秋立つや 一巻の書の 読み残し
大正5年9月芥川龍之介あての手紙に書かれた俳句。「木曜会」で芥川を励ましたが、12月漱石は他界した。後事を若い人に託する気持ちが正直に出ている。秋


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