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鹿野政直著 「日本の近代思想」

 岩波新書(2002年1月)

二十世紀の日本の思想的問題を日本、マイノリティ、日常性、人類の四つの主題から総括する

明治時代富国強兵の近代化を成し遂げた帝国日本は、軍事大国を目指して数々の戦争を戦い植民地も手に入れて、ついにアメリカと闘うに到りそして敗戦。戦後は米国の軍事的支配下においてひたすら経済大国を目指した。そして1990年代のバブル崩壊による経済破綻から来る閉塞観に10年以上も悩まされることになった。このような歴史を背負い百年余にわたる日本の近代は思想においてどのような経験を重ねてきたというのだろうか。戦争と平和・民主主義の問題から、暮らし・命の問題まで日本の近代化が経験した思想の情景を描くことが本書の目論見である。鹿野政直著 「日本の近代思想」は、たとえば丸山真男の「日本の思想」は政冶の観点からの思想史であるのに対して、どちらかといえば代表的書物に描かれた日本の時代描写の走馬灯のような映像である。

著者鹿野政直氏は日本の歴史学者で専門は日本近代史、思想史。1960年代以降に盛んになった民衆思想史研究の第一人者。長く早稲田大学の教授を務め、現在は早稲田大学名誉教授である。著書には「戦前家の思想」、「戦後沖縄の思想像」、「日本の現代」、「健康観にみる近代」など多数。1901年福沢諭吉は68歳の生涯を終えた。そして中江兆民も54歳の生涯を終えた。それぞれが19世紀後半の思想家意を指導してきた巨人が相次いで世を去った。19世紀後半に、日本は文明開化・富国強兵の近代化政策を邁進して東洋で始めての近代国家が生まれた。それから20世紀の百年、前半は日本は軍国主義の道を歩み、後半の敗戦後は経済大国の道を歩んだ。そういった歴史の功罪に向き合ってきた人々は、思想のどんな経験をしてきたのだろうか。本書は9つの個別テーマを立てた20世紀の思想の軌跡である。過去を丹念に解きほぐし、自らも陥っている偏見を意識化することで歴史を見つめる価値は出てくる。本書は9つのテーマに71の項目を盛り付け、1つの項目は3頁でコンパクトにまとめている。項目が多すぎて個々に紹介はできないが、項目の立て方がやはり著者らしく独特である。一味違う切り口である。

日本論

20世紀は世界が国という単位に再編成されていった時代である。その中で日本は日清戦争から日露戦争を勝利し「膨張的日本」の時代に入って列強との競争になった。その日本を西欧列強はアジアでの日本の指導的立場に期待と危惧の念を強めていった。英国のチェンバレンは「ミカド宗教国家の出現」と述べ、インドの詩人タゴールは日本が単に西欧の模倣なら期待は裏切られると危惧した。西欧文明の摂取で近代化に成功した日本が列強との競争に入るときニッポンイデオロギーがにわかに台頭してきた。その中心になったのが第日本帝国憲法と教育勅語であった。つまり西欧から日本への回帰が始まったのである。唯一つの価値体制(天皇中心の国粋主義)に対して戦後には加藤周一が「雑種文化論」を著して多種多様な日本文化の潮流を主張し、島尾敏雄も「ヤポネシア論」で日本を対大陸、対西欧という捉え方ではなく環南太平洋の諸国の中に日本を位置づける試みをした。近代日本を形成するとき、統一した国語の造出が欠かせない条件であった。これも一つの言語ナショナリズムで、国語は人為的な作物であることを脚本家井上ひさしは見抜いた。戦後アメリカの援助の下で経済大国化を達成した後、「Japan as No.1」と自信をつけた1980年代に再び日本論が隆盛を見た。その中で網野義彦は日本論の再考を主張して、日本島国論、稲作一元論、単一民族論を虚構と断定して、他者に同化をせまり排除を強いる日本一元論イデオロギーとなずけたものに今までいかに囚われていたかを示した。

民主主義

不抜の民主主義者は足尾鉱毒事件に対抗した田中正造翁であった。彼の思想は人民国家というべきもので、人民の生存権をかけて闘った。20世紀の日本の民主主義にとっての課題は、天皇神権説と天皇機関説である。美濃部達吉は天皇を最高機関とするがそれも憲法によって制約されるという解釈をだした。大正デモクラシーを主導したものは吉野作造の民本主義で、「一般民衆の利福と意向を重んじる」という提唱で、選挙権拡大(普選)と責任内閣制、脱帝国主義の要求となった。天皇機関説も民本説も1935年治安維持法によって国体に飲み込まれてしまった。新しい女を目指した平塚らいてうは家制度との戦いに挑んだ。市川房枝は女性選挙権の獲得を目指した。しかし思想言論の自由は1925年治安維持法、1938年国家総動員法、1941年元論出版集会等臨時取締法によって特高が踏みにじった。戦後1947年の日本国憲法によって軍国日本は民主国家へ転身した。オピニオンリーダー丸山真男は超国家主義の呪縛を解き放った。そして自由なる日本の主体となるのは日本国民となった。小田稔は反権力主義に徹し、直接民主主義、住民運動、国際連帯を打ち出し「ベトナムに平和を(ベ平連)」活動は人々の運動を起した。憲法25条の生存権を巡って朝日茂などの運動は権利としての社会保障の観念を根付かせた。ルポライター鎌田慧は権力に屈せずNOを主張して行動する人たちを取材した。自衛官の護国神社合祀拒否訴訟は最高裁で破れたものの、湾岸戦争以降の国益の名が人々を押しつぶしてゆくことへの警告である。

戦争と平和

20世紀はまさに戦争の世紀であった。日露戦争時のキリスト教者の内村鑑三、日中戦争時の矢内原忠雄の戦争反対にも拘らず、日本帝国は植民地戦争に邁進した。兵士の戦場での気持ちを詠んだ宮柊二、15年戦争での黒羽清隆の「戦死の諸相」は戦争というものの実態を暴きだした。戦争はいやおうなしに女性をも戦争に協力させていった。「大日本国防婦人会」の結成は、市川房枝をも戦争協力に傾かせた。しかし中国人と結婚したエスペランティスト長谷川テルのように抗日運動に身を投じた人もいた。天皇制軍国国家に騙されたひとは戦後免責されるかといえば、映画監督伊丹万作は「無知の責任」を問題にした。あまりに弱い日本民衆の力は何故戦争に抵抗できなかったか永久に自問しなければならない。

沖縄・在日

ここはマイノリティ(少数民族)のテーマである。19世紀までは琉球王国で薩摩藩に征服されて沖縄県になったが、戦後米軍統治下での「不沈母艦沖縄」の琉球時代、そして1972年の日本復帰後の沖縄県と琉球民族の歴史は翻弄された。文化の根の喪失感を味わい、後進県の生活の苦しさ、気後れが沖縄の人々を捉えている。生活を求めて本土(ヤマト)へ出てきた人々は差別に苦しんだ。沖縄人を見る目は痛かった。米国統治下で大城立裕らは自らが主権者となる祖国復帰運動(琉球独立運動)をめざした。サンフランシスコ条約で沖縄を売り飛ばした日本政府への反感は根強い。「沖縄は日本にとって足裏に刺さった一本の釘であった」 1999年読谷村での国旗(日の丸)を実業化知花昌一が焼く事件があった。これは米国では「市民的不服従を示すための熟慮の上の行動」と捉えられた。
戦争中在日朝鮮人の数は250万人になった。戦争中は被支配民族としての在日朝鮮人は、「在日」の自己を問う思索は、そのまま日本社会の矛盾を問う視線でもあった。詩人金時鐘、文藝評論家安宇植らは日本人を告発するだけでは不毛の思想対立のみを拡大し、犯された側の責任を問題にした。それは500年続いた李王朝という天皇制への戦いがなかったということであり、安易に李王朝から日本天皇にのっとられた悔悟である。作家金達寿は「日本の中の朝鮮文化」を探し求め、日本古代王朝で働いたのは帰化人ではなく、渡来人だといった。サンフランシスコ条約後外国人登録制法によって指紋押捺と登録証明書の携帯が義務づけられた。1980年指紋押捺拒否運動が始まり、国連人権委員会でも取り上げられ、ついに指紋押捺は廃止された。これは日本人が異文化圏の人に同質化を迫るのではなく、違いを認めつつ生きるという思考が育てる必要を迫るものである。

女性の問い

生む性としての婦人問題は20世紀の劇的な変化の世紀となった。男性本位の価値基準から立ち上がったのが歌人与謝野晶子である。平塚らいてうの「元始女性は太陽であった」に始まる青鞜社の旗揚げ大きな波紋を起して「人形の家」から「人間の家」へという女性自立運動の幕開けとなった。婦人雑誌の刊行によって母性保護論争が与謝野晶子と平塚らいてうによって始まった。1955年第一回日本母親大会は「子供を戦争の危険から守ろう」とい一点で結ばれた画期的な運動となった。戦後の経済成長に伴って核家族化が進行し、家事・家計・育児担当者としての「主婦」論争が顕在化した。評論家石垣綾子は「女は職場という第一の職業と、主婦という第二の職業を兼ねてゆかねばならない」といい、職業を持つ主婦がにわかにクローズアップされた。1960年代米国では黒人の公民権運動と並んでマイノリティとしてのウーマンリブ運動は資本主義下で抑圧された女性の運動となった。1975年国際婦人年は日本の女性達の運動が世界の運動とつながる機会となった。女性を階級支配と性支配の二重の抑圧からの解放はジェンダー(社会文化的な性差)という言葉が導入され、共同参画社会の実現に向けて動き出した。労働基準法における女性保護の撤廃は果たして進歩なのか、労働強化なのか。

暮らしの思想

富国強兵という目標は日本の近代化の型を決定したが、日本の近代化は果たして人々の幸せを増進したのだろうか。むしろ貨幣経済の浸透で啄木の言う「働けど働けど我が暮らし楽にならず」というように、格差が拡大しているのだろうか。ここからが著者鹿野政直の民衆思想史研究家の面目が出る分野である。抽象的思想でなく生活の現場での思想である。その源は柳田国男の民俗学である。人々の日常態への精緻な堀下げが必要になる。常民のレベルでの検証が必要なのだ。1916年京大の河上肇は「貧乏物語」を書き、貧乏を文明国が持つ病気といった。そして21世紀に到るまで文明は世界的な規模で、最富国と最貧国への分解を促した。深刻な農村婦人労働者の問題は細井和喜蔵の「女工哀史」に描かれている。生活を見つめる運動は1920年代に綴り方教室が影響を与え貧乏を見つめることとほぼ同意味であった。戦後無着成恭氏が「山彦学校」で戦争の実相を見つめた。思想に暮らしを主題化したのは、「思想の科学」と大橋鎮子・花森安治の「暮らしの手帖」であった。日常性の表現を目指す運動となって、鉛筆を握る主婦が活躍した。暮らしにおける民主主義思想は「私生活優先」に流れ、「快適さが善ということ」と大量消費時代が結びついて果てしない欲望を絶つことが出来るのかが問題となった。1980年経済白書は「先進国日本」と位置づけ、大量生産/大量消費・大量廃棄のシステムとなった。しかしバブルの崩壊でこの豊かな生活は見直すことを余儀なくされた。

社会主義という経験

1901年は日本で最初の社会主義政党「社会民主党」が片山潜、安部磯雄、木下尚江、幸徳秋水らによって結党されたが、治安警察法ですぐに禁止された。そこで幸徳秋水らは社会主義、平和主義を唱えて「平民新聞」を発刊した。政府の弾圧は運動をアナーキズムへ変容させ、大逆事件と落とし込まれた。山川シズエは無産婦人運動を興した。知識人の間ではマルクス主義は労農派(高坂逸郎、櫛田民蔵)と講座派(野呂栄太郎、平野義太郎、大塚金之助ら)と呼ばれた。1930年代は厳しい政府の弾圧拷問で佐野学らの転向を生んだ。「極左から大衆日和見主義への転向」は戦後吉本隆明「転向論」に解析されている。鶴見俊輔は「転向はさまざまな条件の変化に耐えて思想を行動化する大人の思想」と解析した。1990年のソ連と社会主義の崩壊は、「日本人が近代に経験した全ての中で再吟味すること」を塩川伸明は提唱する。

核時代の思想

広島・長崎におとされた原爆は平和運動の主題であるとともに思想的課題となった。冷戦時代、核開発競争のもとに人々は核戦争の恐怖に曝された。原爆文学というジャンルの樹立は日本の文学・思想の消しがたい特徴となった。太田洋子「屍の街」、林京子「祭りの場」は原爆の光景を通じていのちの問題を提起した。1954年ビキニ諸島で行われた米国の水爆実験で被爆した第5福竜丸と久保田愛吉さんの死亡は、水爆禁止署名運動を日本中に拡げた。原水爆禁止世界大会など日本は原水爆禁止運動のメッカになった。そのなかで原子力発電の平和利用がはじまった。スリーマイルズ島、チェルノブイリ事故は、原子力発電安全神話の崩壊と人々の命がどんな危険に曝されているかを白日の下に明らかにした。巨大科学技術は底なしの管理社会を導く恐れがあり、それを阻止するために高木仁三朗は「市民の科学」の構想を提案した。核問題は核廃棄物の処理という技術問題が未解決なまま、地球温暖化防止策の救世主になろうとしているのである。

いのちの現在

20世紀の時代日本は産業革命の途上にあり、古くは足尾銅山鉱毒事件、そして水俣病の発生、1960年代の高度経済成長による公害問題の発生は、生態系や自然の凄まじい破壊につながった。これは自然のいのちの問題として近代文明の再検討への意識へ導いた。1922年の全国水平社の創立で始まった部落解放運動は1967年の同和対策法の成立から2002年3月をもって国の同和対策事業特別法が終焉し、1997年ごろより各自治体の同和対策事業は年年大幅に縮小され事業は終結した。部落問題は色々なひずみを残しながら一応の解決を見た。工場労働者の健康問題は通産省・厚生労働省をうごかして、結核をはじめ疾病予防が重要で健康保健制度の導入につながった。乳幼児の健康を守ろうとする運動は森永砒素ミルク事件で大きな展開となり、松田道雄は「私は赤ちゃん」で育児と母親のを支援する姿勢が貫かれている。平均寿命が戦後大幅に向上したのは乳幼児の死亡率が激減したためであることはよく知られた事実である。医学の進歩のお陰である。1980年代には学校が荒れ、尾崎豊「卒業」に象徴された校内暴力事件が頻発した。学校のものさしは崩壊し、ついで「積木の家」で家庭が崩壊した。何の解決策もなしに子供達は無気力と登校拒否、引きこもり、いじめ、援助交際などの泥沼に引き込まれているのである。高度経済成長と引き換えにこころの病が急増した。その反動で精神医学が急にフットライトを浴びるのである。正常と病気の境界が不鮮明になったのと、鬱病になる人も急増した。障害者が施設から地域へつまり町の中で生きる権利が認識されてきた。ボランティアという言葉は障害者から、いまでは災害復興に力強い運動に成長した。日本の平均寿命が世界一になって高齢化社会に直面した。老人性痴呆は既に社会問題となって、介護保険が健康保険制度とともに実施された。老いということは実は辛いことである。人間としての救いは何処にもないのだろうか。脳死臨調をきっかけに臓器移植と脳死がセットで天秤にかけられた。そして生命倫理が議論になりだした。特に生殖工学という言葉にはしなくも現れているが、遺伝子操作とともに未だ何一つ回答がない状態である。臨床では「尊厳死」や「延命措置」も議論されているが、医者は殺人者になるので逃げている。かくていのちの問題は今技術の前で危険に曝されている。


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