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永六輔著 「大往生」ほか岩波新書著作集

 岩波新書

永六輔の洒脱な世界 ラジオテレビ界の寵児が書き残す無名人語録

永六輔氏は放送作家で、タレント、作詞家、エッセイスト。本名は永孝雄(えい たかお)。角刈り頭と細長い顔、大らかな表情がトレードマークで知らない人はいない。略歴を示す。江戸時代に渡来した中国の学僧を先祖に持つ。代々江戸→東京・浅草の浄土真宗の寺の住職を勤めていた永家の息子として生を受ける。東京府東京市→東京都下谷区(現在は台東区)の小学校に通っていたが1944年に学童疎開により長野県北佐久郡南大井村(現在は小諸市)の小学校に転校しそこで終戦を迎える。1946年長野県立上田中等学校に入学するが翌年東京へ帰り早稲田中等学校に2年編入で転校。この間同校が学制改革により早稲田中学校・高等学校となったため3年で高等学校に昇級進学して卒業する。この頃からNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』にネタを投稿するようにな。1952年に早稲田大学第二文学部(夜間)へ入学。在学中に三木鶏郎(『日曜娯楽版』の発案者)にスカウトされ、トリローグループのメンバーとして放送作家、司会者としてデビューする。早稲田大学は1954年に中退。
以後、ラジオ・テレビ番組の企画・演出や、ピアニストで作曲家の中村八大らと組んでの歌曲作詞、また軽妙な語り口を生かしたタレントとしての活動など、非常に多芸なマルチプレイヤーとして活動を続けてきた。ラジオパーソナリティーとしての知名度は特に高い。古今の芸人についての研究や、政府によるメートル法の厳しすぎる施行で過度に排除された尺貫法の復権を志すなど、ユニークな取り組みも多い。芸人研究を中心としてエッセイの著作が多数ある。
1983年6月、第13回参院選に比例代表区から出馬(無党派市民連合)、落選している。1994年には『大往生』を発表。日本のあちこちの無名の人々の生、死に関する様々な名言を集めたこの本は、200万部を超える大ベストセラーとなる。2000年に、全業績で菊池寛賞を受賞。岩波新書に「大往生」、「二度目の大往生」、「芸人」、「 商人」、「職人」、「夫と妻」、「親と子」、「嫁と姑」、「伝言」 など多彩な語り口で市井の人の言葉を紹介してきた。
有名な作詞ヒット曲には「黒い花びら」   「黄昏のビギン」   「上を向いて歩こう」  「帰ろかな」  「見上げてごらん夜の星を」  「幼ななじみ」  「こんにちは赤ちゃん」  「遠くへ行きたい」  「ふたりの銀座」  「今夜はヘンな夜」  「夜はひとりぼっち」 がある。1985年御巣鷹山でなくなった歌手坂本久とは長い交際であった。中村八大、いずみたくが永六輔の育ての親とも言われるが、永い親交であったが2人には先立たれてしまった。永は1974年に野坂昭如・小沢昭一と中年御三家を結成するなど交際範囲が実に広い。久米宏、黒柳徹子や俳優中山千夏と大の親友である。好き嫌いの激しい人で、出ないテレビ局もあり、大阪お笑いタレントは大嫌いだそうだ。CMは浅田飴だけ。本人は自分のことを「マスコミの寄生虫」と呼んでいます。
永氏の政治スタンスは徹底した反権力・反極右主義。実家がお寺という事情から万民平等主義であるがこれは子供の頃から培われたものであるといえる。また、担当していた光子の窓の台本執筆をすっぽかして60年安保のデモに参加したため同番組から下ろされたという逸話があるほど主義・思想・信条は筋金入りである。極右的な風潮、特に東アジアから来た人々を排撃する風潮を嫌い、それを主張する者には烈火の如く怒るという。そのため、安倍晋三内閣総理大臣や安倍内閣には徹底的な批判を加えている。私は永氏の尺貫法擁護運動は伝統を守るという話題つくりには役に立ったかもしれないが、科学における時代錯誤観は隠し様がない。IT関係でもそうだが、科学技術にあえて背を向けていることは頷けない。

私はなぜか岩波新書の永六輔氏の著書はかならず買って読んできた。肩のこらない読みやすさに惹かれたのかもしれないが、有名な人、市井の人の発言を脈絡なく集めただけなので、何処からでも読んでいいし、連綿たる論理の展開もないので気楽である。その書評となると論理がない分難しい。抽象化したらカスみたい。ある意味、感動する言葉だけがある。といって愚痴を言っていてもしかないので、簡単だけどまずは「大往生」から時代を追って読後感をまとめてゆこう。なお永六輔氏が岩波新書に書かれた本は全部で九冊であるが、「夫と妻」、「嫁と姑」は買っていない。いまさら買う気もないので以下に紹介する七冊の本で勘弁してください。

「大往生」岩波新書(1994年3月)

人は皆死ぬ。死ぬでは生きているわけだから、人間らしい死を迎えるためにどう生きたらいいのだろう。深刻ぶらずに気楽に「老い」、「病い」、「死」を語り合おうという趣旨で、全国の人々から聞いた言葉をかき集め寸言をちりばめつつ、自在に書きつづられた人生の智恵が湧き出ている。死への確かなまなざしが生の意味を語るのである。なお永氏は最近奥さんを見送られた。今は独り者である。しょぼくれずなおかつ明るく達者に生きておられる。徹子の部屋で久しぶりに永六輔節を聞いて安心した。「大往生」とは「浄土へ往って生まれる」と書く。そう思えば気が楽になる。本書は1992年に中村八大氏といずみたく氏を立て続けに親友を失って、永六輔氏が氏について考えることから生まれた。「老い」、「病い」、「死」、「仲間」、「父」という構成で有象無象の人の言葉と座談会での発言や永氏の寸言がちりばめられている。一つ一つの言葉は紹介しないけれど、本当に心を打つ言葉、わけのわからぬ言葉、受けをねらった悪ふざけの言葉、出来すぎの落ちがある話など真贋入り乱れて面白い。
「老人は好きな物を好きなだけ食べればいいんだ」
「昔お母さんにオムツを取り替えてもらったように、お母さんのオムツを取り替えるのが老人介護なんだ」
「告知は、告知に耐えられる患者と告知が出来る医者がいなければ成り立たない」
「医者は病気を治すことではなく、病人を治すことなんだ」
「医者と仲良くなるには、医者の愚痴を聞いてやれる付き合いができれば、患者としては一人前だ」
「死にたいように死なせてあげたい。それにはどういう風に死にたいかというイメージをもってほしい」
「死者を弔うことは人間にしかできないことです。だからきちんと弔うことが大事です」
「中村八大こそ、永六輔の生みの親なのだ」
「呆けも一つの死への準備かもしれません。やはり家族とか友人とか自分とかかわってくれた人に感謝して死ぬことができたらいいなあ」
「病院が人間の生と死を、人の目から隠してしまった。死ぬことと最後まで生きることが完全に一致する」
「生きるということは燃焼であり、そして燃焼の跡には何も残らない」
「生まれてきてよかった、そう思って死ぬことを大往生といいます」

「二度目の大往生」岩波新書(1995年10月)

第一作つまり前作の「大往生」という本は200万部を売り上げるという岩波新書にしては空前のヒットとなった。そこで悪乗りをして二匹目のどじょうをねらったのが本書である。相変わらず支離滅裂の構成で、本人に言わせれば「バラエティー・ショー」のつもりで作っているそうなんで文句も言えない。そこで私も支離滅裂に本書を読むことになる、本書は前半で前作と同じように「生命」、「病気」、「死」について有名無名の人の作り話を乗せ、後半は宗教についての概論と「御巣鷹山事故遺族講演会」からなる。この講演会の内容も殆どが易しい宗教概論になっている。1995年という年は、1月に阪神大震災がおき、3月にはオーム真理教の地下鉄サリン事件という世界を驚愕させた事件がおきた年で、そして御巣鷹山日航機墜落事故10周年であった。そういった社会背景が本書が書かれた強い動機となっている。
「オウム真理教事件は、日本人は判断力を失った民族だと実感する」
「何かしていないとねー、何もしていないでただ生きているってのは難しいよー」
「今熱心に新聞を読んでいるのは老人だぞー 新聞社はそこを忘れているぞ」
「大事なのは思い出すことではなく、思い出そうとする努力が必要なのだ」
「豊かさを超えている貧しさってあるんだよなー」
「私達障害者はね、自分が他人に迷惑をかけていないかどうか、とても気にして生きているですよ」
「自分が誰かの役に立っているという自信のある人は絶対にむなしくならない」
「人間は病気で死ぬんじゃない、寿命で死ぬんだよ」
「還暦を過ぎたら仕事は一つに絞り込みなさい、その仕事に満足して死ぬのが大往生ですよ」(山口瞳の言葉)
「原爆でなくなった10人に一人は朝鮮半島から強制労働に連れてこられた人です」
「特攻隊員の母親の自殺が実に多いことが分かった。隊員の心残りにならないようにという親心から」
「散る桜 残る桜も 散る桜」(維新の志士雲井龍雄の辞世の句)
「かけがえのない一日だから、今日もニコニコ笑って生きていよう」(淀川長治の言葉)
「戦時中の日本は神の国で負けるはずはないと思い込んでいた。日本人全部、オウム真理教だったんですよ」
「学校給食のとき、いただきます、ご馳走様でしたという生に対する感謝の教育が必要ではないか」
「人間は結局、人間でしかありえない悲しみ、その悲しみのなかにこそ、南無阿弥陀仏という六文字がある」

「職人」岩波新書(1996年10月)

本書は職人衆語録。昔永六輔氏がやっていた「尺貫法復権運動」をご存知の方も多いでしょう。この話は「寅さん映画」第18作にもとり上げられ、寅さんが曲尺・鯨尺を売るテキヤ役で、永氏がそれを取り締まる警察官役であった。計量法という法律で長さはメートル、重さはグラムで、時間は秒で言う単位で取引するというものです。ところが建築物とくに住宅の場合は今でも尺や間が基本である。(1尺30cm、1間90cm) 扉や襖、窓枠などは柱の間隔単位はいまも1間である。重量は1貫が3.75Kg、容積では1升が1.8リットル、1斗が18リットルであった。重量はまずグラムで取引される。容積もリットルで取引されるが、まだガラス瓶や樽では4合瓶、1升瓶や1斗缶などの容器は残っている。これがプラスチック容器になるともうだめである。これを計量法では尺間を使ってはいけないと建前上は言うのである。しかし1メートル単位の戸・窓は存在しない、現状は1間単位の戸・窓である。これを禁止すれば混乱は必死である。何百年という時間をかけてメートル単位で住宅も設計されるときがくるだろう。本書は「語る」、「怒る/叱る」、「つきあう」、「尋ねる」(内海好江師匠、一澤信夫氏インタビュー)、「受け継ぐ」(金沢職人大学校開校式講演)という章分けが為されているが、そこはいつもの支離滅裂のバラエティーショウ仕立てに話は前後左右しながらジグザグに進む。
「僕は職人というものは職業ではなく生き方だと思っている」
「私もいっぱしの大工になりましたと威張っているが、いっぱしとは一番端という意味で威張っていうせりふじゃねー」
「苦労なんて耐えるものじゃない。苦労は楽しむものです。昔夫婦になるときいっしょに苦労がしてみたいというセリフがあった。いまじゃ亭主がリストラされたらはいさよならといって出てゆく女房が多い。時代だねー」
「職業に貴賎はないと思うが、生き方には貴賎がありますねー」
「貰った金と稼いだ金ははっきりと分けとかないといけねー。なんだか分らない金はもらっちゃいけねーよ。政治家と官僚によく味あわせたいことばだねー」
「藍にも18種類ほどの種類があって、職人はこれだけの色を見分けたのよ」
「職人の仕事なんてものは進歩はない。昔からの道具を使って一番いい仕事ができます」
「職人の仕事を支える道具を作る職人が滅びつつあるんです。紙を漉くときにつかう簾桁の竹製のヒゴをつくる職人がいなくってきた。」
「徒弟制度の世界はモノもつくってきたけれど、人もつくってきたんだ」
「わたしゃ名もない職人です。売るために作ったことはありません。こしらえたものがありがたいことに売れるんでさー」
「安いから買うのは買い物じゃない。必要なものは高くても買うのが買い物です」
「職人気質と下町感覚は深くつながっているんです」
「芸人も職人も痩せ我慢の世界なんだよね。損をしてもいいカッコする」
「職人と作家、役者と俳優、芸人と芸術家、商品と作品、民芸と工芸、これらは微妙に違う」
「職人さんっていうのは棟梁、親方のちょっと下に見られてる。ようこんなもの手間かけて作ったなーアホちゃうか」(一澤帆布店主)
「通産省伝統工芸品200点のうち、京都16点、沖縄13点、金沢10点・・・・・・」
「仕事というものは、現場があって初めて伝えられるものです。よい観客になるにはよい役者になるのと同じくらい勉強が必要だ。よい物を買うことで職人を支えるのだ」

「芸人」岩波新書(1997年10月)

芸人については永六輔は実に10冊以上もの本を書いている。自分が芸の世界にいたから話題に事欠かないので当然かもしれないが、今回岩波新書で「芸人」をわざわざ書いたのは、本人曰く「芸人と一歩距離を置いて、芸人以外が芸人をどう見てきたのか、そしてテレビ以降の変化という点についてポイントを置いた」といっている。芸人という言葉はほぼ死語である。芸能人、タレント、アーティスト、俳優、役者、歌手、音楽家、パーソナリティ、エンターティナーなどなど呼び名はいくらでもある。そして大阪人はみんなお笑い芸人の素質を持っているし、カラオケで一億総歌手になってプロより歌のうまい人はいくらでもいる。プロとアマの違いは成功したかそうでないかである。いわゆる河原乞食と蔑まれた歌舞伎や白拍子といった賎民階層はもういない。歌舞伎役者なんぞは梨園といって貴族になった。売れるタレントは億万長者である。タレントになりたい目的の第一は「金持ちになりたいこと」だそうで、芸なんかどうでも言いそうだ。つまり昔あった芸人かたぎの中の職人意識はすでにない。テレビではタレントや歌手は大量消費商品ですぐにスクラップにされる。本書は芸人の周辺語録である。内容はあいかわらずの言葉の切れ味だけの支離滅裂で筋も道理も何もない。といっても一応、本書は「芸」、「テレビ」、「スポーツ」、「光と影」、「歌」(永六輔作詞・南春夫が歌った「明日咲く蕾に」の舞台裏)、「芸人」(南春夫へのインタビュー)からなる。
「不条理とかリアルだとかを乗越えて納得させるところに、芸があるんです」(三木のり平の芸について)
「芸人でよかった。だってこんなに悲しくても、笑っていなければならないんですもの」
「客がよくなきゃ芸人は育ちません。芸人が育つような客は少なくなりました」
「芸人といえばどこか危ない色気があったものですよ、今の芸人は危ないところもなく色気もない」(破滅型芸人には、藤山カかん美、勝新太郎、横山やすしなど)
「家元制度ってのは徹底して守りだけだよ。天皇制みたいなもんだ」
「昔ハンパモノはやくざに入ったが、いまじゃハンパモンを拾ってくれるとこは吉本興業とちゃいまっか」
「ドラマというのは監督の生理で作るものなのに、最近は役者の生理でドラマを作っている」
「テレビは下手な芸がよく似合いますね。テレビタレントに一番大切なものは魅力です」
「観るのに金を払わない、だから客が芸人を育てないという世界がテレビである。何も出来ない芸人が生まれています。」
「タレントになって売れるようになったときこんなにお金がもらえるのかって驚きました。これじゃ、人間直ぐダメになるって思いました」
「騒ぎを作って騒ぐ。それがテレビ界の常識です」
「テレビのCMで、テレビを見ている人の半分がその商品を認知するには10億円かかります」
「郵政省はテレビ局を許可しチェックもできます。だから天下り役人が民放にいるのです」
「プロレスなんて本気でやったら何度死んでも間に合わないね。もう演技以外は考えられない」
「巨人ファンは強い巨人が好きなのだが、阪神ファンは弱い阪神も好きなんです。これが地元密着型野球の原点だ」
「テレビ中継だけで持っているスポーツには相撲がある。国技というのは不当表示に当りませんか。これは芸能もしくは神事ですよ」
「オリンピックの入場式の役員の数は何であんなに多いんだ。天下りの時に役に立つだって」
「スポーツ中継の芸能化は、そこに新しい芸人を生んでいる。リタイヤーしたら殆どがタレントになれそうだ」
「錦着て、布団の上の 乞食かな」(団十郎)
「もののけ姫には46億という制作費がかかりましたが、そのうちなんと24億が宣伝費ですよ。宣伝すれば売れるという時代になっているわけです」

「商人」岩波新書(1998年4月)

商人とは「しょうにん」ではなく「あきんど」と読むのだ。商人なら難波の商人と相場が決まっているようだが、実は大阪商人には江州滋賀県と甲州山梨県出身者が多いらしい。自然の恵みの少ない土地柄に生まれた人は頭と体を使って、どうしたら儲かるか神剣に情報をあつめたのがよい商人になったようです。伊勢商人も有名で松坂屋、松屋、伊勢丹などのデパートも伊勢商人系です。永六輔氏は経済には弱いと白状しておられるので、ここで言っている話も半分に聞いておく必要がある。商人にはどうも古い商売人や個人商店主のイメージが強く、とても現在の経済界や流通界に通じるような話ではないようです。あきんどノスタルジアーといってもいいでしょう。その程度の話として面白がっていればいいのです。また永六輔氏の話や言葉を真に受けて受け売りすると恥をかきます。本人は冗談と逃げるすべを持っていますが、いい加減な話が多いのでご注意、ご注意。そこでこの「商人」という本に限って、出所の明らかでない話は永六輔の創作とみなし引用しないことにし、出所の明白な話だけを掲載する。
「商人の心得を一言で言うと相互信頼です。約束を守る、嘘をつかない、言い訳をしない」(大阪北浜笹倉玄照)
「大阪の商売人はお上を当てにせず、自らの才覚ろ行動で稼ぎます」(大阪北浜笹倉玄照)
「家訓 一つどぜう以外はうるな、一つ暖簾を分けるな、一つ武術をたしなむな」(浅草駒形どぜう越後屋助六)
「商売で学ぼうと思ったら、お客様同志の声を受け止めなければいけません。重要な情報はそこに有ります」(松阪FREX中西進)
「私達は地べたに杭を打ち込んで、この土地で商売をさせていただいている」(松阪FREX中西進)
「家訓 一つしまつしてきばる、正直、三方よし」(大津の老舗)
「道歌 堪忍の袋を首にかけ 破れたら縫え破れたら縫え」
「商人はどこからでも養分を吸い上げる浮き草でなけれがあかん、他人の道は自分の道ではないというのが商人の道」(北浜の老舗)
「商店街ばかりじゃありません。農林業、みんな辛い仕事は後継者不足です。楽な仕事なら後継者はいまっせ、たとえば政治家、タレント」(これは永氏の創作くさい) 

「夫と妻」岩波新書(2000年1月)

本書は男と女に関する永さんの薀蓄である。「結婚、一夫一婦制について、哲学者、心理学者、社会学者、多くの人が論じてきたがどれも納得が行かない。所詮夫婦論というものは意味がないような気がする」と永さんは嘆息する。あとがきに永さんの妻永昌子への献辞がある。実はこの本のなかでこの部分が一番真実味があって面白いのである。「わがままで旅暮らしを売り物にする男」と「放し飼いをするよく出来た奥さん」の夫婦関係が、ありえないようで長く続いているのだから不思議だ。まず昌子さんは夫に期待しないで「何もしなくてもいいの」というらしい。夫にプレッシャーをかけないのである。そして自分は家の掃除と読書を幸せと念じている。ありがたい女房ではないか。夫、親としての義務を放棄して殆ど家にいない亭主を追いかけもせず、期待もせず、存分に遊ばせているのである。永さんには出来すぎた奥さんであろう。金婚式をおえてしばらくしてから奥さんは昨年他界されたそうである。夫婦とは理屈では分析できない面白い人間関係なのだろう。

もうここで本書の書評は終わっていいのだが、従前通りひととおり本書をレビューする。まずは無名人の語録である。面白いところを二つ三つ挙げておこう。
「結婚という形は、小規模な天皇制です」
「好きで家事や子育てやってるんじゃない。その労働がどんなものか男は理解できるのか」
「夫婦の愛情ねー。愛はもうありません。今は情でつながっています。愛より情のほうが優しいのですよ」
「年をとったら女房の悪口をいったらいけません。ひたすら感謝する。これは生きる智恵です」
「妻を失った夫の平均寿命は三年、夫を失った妻の平均寿命は十五年」
「男の考えている女なんてやっていられない。もう女じゃなくて、人間を演じたいわ」

江戸時代、嫁を儒教で縛るために書かれた貝原益軒「女大学」を辛淑玉さんと笑い飛ばした章である。女大学に有名な言葉「七去」というのがある。一つ舅・姑に従わざるは去るべし。一つ子無きは去るべし。一つ淫乱なれば去るべし。一つ悋気深ければ去るべし。1つ悪しき病あれば去る。一つ多言は去るべし。1つ物を盗む心あるは去る。というものだがこれを書いた貝原益軒という人はただひとへに女が怖かったようだ。自由に生きた女に対処できるすべを知らなかったようだ。男の勝手な儒教社会は閉塞した、議論のない、情報を男が独占する社会で、男性だけの組織は後がない。労働組合もそうだ。

永さんの友人、歌手淡谷のり子さんの語録
「惚れている時の歌は生きています」
「口惜しかったら私みたいに男を捨てて生きて御覧なさい」
「奥さん ダンナはおだてて使いなさい」

古代史に興味を持つ女優で("がしんたれ"で天才子役といわれた)元代議士の中山千夏さんとの会談で、古代の女性の生き方を検証した。
「古事記に書かれた神代の時代、女は男と対等であった。女性の力というのが、今と違って随分強かった」
「昔は一夫多妻制というよりは多夫多妻に近かった。つまり妻問婚は相互乗り入れですね。両性が自由で子供や家は女のものというのが自然であった」
「権力を握った男が女性を独り占めにするため、一夫多妻制に変っていった」
「奈良時代の天皇の半分は女性でした」

「親と子」岩波新書(2000年1月)

本書は「夫と妻」に続く「親と子」の流れにあるそうだ。つまり「親と子」が縦の関係とすれば、「夫と妻」は横の関係にある。それらの関係が現代ではどんな様になっているのかを見てみようという趣旨らしいのだが、残念ながら私は「夫と妻」という本は読んでいない。いまさら買う気もしないので、「親と子」だけで勘弁させていただきたい。20世紀に壊れてしまったのは経済・社会・教育だけではなく、「親孝行」もなくなって、21世紀には「親と子がどのように向かい合うか」を模索しなければならない。時代とともに社会通念が変化するのはいたしかたのないことで、何千年にわたって親からみれば子の事は分からない。「ちかごろの若者は」という言葉は世代がづれるごとに執拗に繰り返されてきた。どんなに良い親子関係であってもこれだけは変らない。永遠の人間の業であろう。「昔は良かった」とは親の世代のノスタルジアで、子供は親を乗越えることで大人になってゆく。子供は親を乗越えたつもりかもしれないが、それも社会の進歩があるかぎりのことである。永遠の矛盾的弁証法である。永さんの愚痴もご苦労様。本書は「見つめる」で永さんの親父さんの子を見るエッセイを採録、「聞き取る」で語録コレクションを、「語り出す」で無着成恭さんのお寺でのトーク(辻説法)の記録から、「読み直す」再度永さんの親父さんの手紙を採録、「話し合う」では広島呉のお寺での「親と子」を語るトークの記録を、「記録する」では母の死を語る。なお永さんの親父さんは浅草最尊寺(浄土真宗)16代住職で、「歎異抄の心」などの仏教書や、「老いの繰言」といったエッセイ集を出されている。寺で「永住亭」という寄席を開いてきた。1991年90歳で逝去された。ところで永六輔さんのモットーは「字で読むのではなく、耳で聞くからこそ、話に想像力が膨らむ」ということで、話術が全てである。その人が岩波新書で本を書くという矛盾はいかに。出来うる限り会話体で本書のいいところを紹介したい。
「子供が生まれることによって親になったのでしょう」(父の言葉)
「子供たちは覚えているかどうかは分らないが、子供の思い出はそれは宝物のような思い出なのだ」(父の言葉)
「何一つ、満足なことをしてやれませんでしたというよりほかに、返事のしようがないのである」(父の言葉)
「子供の世話になってもいいじゃないかな。子供の世話にならないとか、嫁の世話にはなりたくないとかこれは絶対に口にしてはいけません」
「孫が出来てはじめて子供というものが見えてきます。親としての子育ては初心者で反省することばかり」
「嫁の負担が大きすぎる。多くは押し付けられて他人の親をみなければならない」
「孫の器量を誉めながら、嫁の悪口を言っている姑の気がわからない」
「生んでくれただけじゃないよ。なんども命を助けてくれた人なんだよ、それが母さんだ」
「子供を文部省にあずけていいのかな。教育を国家から取り戻そう」(無着成恭)
「家族が多いと子供はそれぞれ自分が何をすればいいのかがわかって、老人もいれば年寄りの扱いにも慣れてきます」
「一人っ子だとそのうちに、叔父さん、叔母さん、いとこもいなくなります。子供が孤立しています」
「私は人づくりと言う言葉くらい嫌な感じのする言葉はない」(父の言葉)
「いつの時代でも子供は大人を理解できないし、大人は子供を理解できないものです」
「いまの日本の文化は全部横に区切られていて、世代を超えて語り合うことがとても難しい」
「子供達にとって親から信用されることはすごくうれしい」
「自分の体験というものをどうやって体験していない人に伝えるか、これはとても難しいことです。戦争を知らないから伝えられないというのは間違っています。伝え方です」
「広島・長崎の原爆の悲劇は、時の政治家がもうこれは負けるから早く戦争を終結すると言う決断をすれば、なかったことです。誰も決断せず責任をとらなかったからこうなったのです」
「大人は子供に本気のところを見せなければいけません。先生は尊敬されるだけのことはしなければならない」
「政治家は現場を知らない。知らば過ぎます。そこで違いますよといいましょう」
「同じ悲しみなのに、父のときは無性に淋しく、母のときは無性に虚しかった」
永六輔氏は「宗教」の「宗」の字を「家のなかで示すこと」というふうに「語源的」に解説しているが、これは我田引水の駄洒落です。宗という寺は白川静氏によると家のなかにある祭壇です。つまり先祖の霊を祀る祭壇が宗ということです。こんな近代的な語源解説は間違っています。蛇足まで。

「伝言」岩波新書(2004年2月)

本書は「駅の伝言掲示板」ではなく、「言葉を伝える」という意味で「伝言」である。できれば優しく、美しく、楽しく、伝えることが出来たらという意味である。本書でよく引用されるのが民族学者の宮元常一さんの言葉である。永氏が放送の仕事に入る時の励ましの言葉である。「電波の届く先に行って話しを聞き、人々の言葉を届ける仕事をしてください」 人に言いたいことや体験を伝えるのは非常に難しい。伝わらないと思っていい。聞いていないのだから。「親は子供の言葉を聞いていない」、「先生は生徒の言葉を聞いていない」、「医者は患者の言葉を聞いていない」、「政治家は国民の言葉を聞いていない」 ではどうしたら伝えられるのだろうか。難しい言葉は易しく、笑いを含ませて楽しくなど本書が永六輔氏の話術の神髄をを披露してくれる。半分は冗談ですから、そのまま取るほどバカではないでしょうが。そんな感じで本書を読むと実に楽しいものです。
「政治家は討論会でも人の話を聞いていませんね、自分の言いたいことしか考えていないようです。だから討論にならないのです」
「国会議員はみんな地元のことしか考えていません。県会議員は地元の市町村のことしか考えていません。市町村議員は自分の利益しか考えていません。つまりだれも日本のことを考えていないのです。」
「そもそも憲法というものは夢でいいのです。夢に近づく努力をすればいいのです。夢を改正する必要はどこにもありません」
「戦争体験を、分るように語り伝えられると思いますか、死の体験が伝えられないのと同じです。出来ませんね」(野坂昭如氏の言葉)
「年をとってきたら、言葉で支えなきゃいけない。自分の意識を自分の言葉で確認する作業が必要なのさ」(精神科医北山修氏の言葉)
「ワイドショー化した政冶や国会で、野党こそ言葉の力を信じ、本音をユーモラスに伝える話術を身につけないといけない」
「方言は活字にならないし、活字にしてはいけない」(伊那かっぺい氏の言葉)
「その土地の言葉、その土地の食事、その土地の祭りを大事にしてきた老人が、その土地の文化を守ってきた人たちです」
「言葉を使えるのは唯一人間だけ。ところが最近まともな言葉を話せない、ケータイを持った猿がいる」
「文部省のサー、ゆとり教育っておかしいんだよ。ゆとりなんてものは、厳しさに耐えて出てくるもんだ。」
「今の子供達は文字を知らない。文字で理解しないから、言葉が少なくなってくるんです」
「幸田露伴の五重塔という小説には粋なルビが振ってある。技量:うで、好色漢:しれもの、義理:すじみち、待遇:あしらい、行状:みもち、突然:だしぬけ・・・・・」
「昔はいい仕事をして有名になったもんだが、テレビからこっちは、ただ有名という有名人ばかりになりました」
「ラジオ、テレビ、インターネットの時代へと、情報の運び方の質が変った。ラジオは地域密着型でしかいきられない」
永六輔氏はラジオ作家でデビューし、テレビ界の草分けで「夢であいましょう」、「遠くへ行きたい」がヒットしたが、直ぐにテレビがいやになったそうだ。どちらかというとテレビ文化批判家である。いまでは年に一回程度「徹子の部屋」、「筑紫哲也のニュース23時」にでるだけである。やっぱりテレビよりラジオだそうだ。番組「誰かとどこかで」を遠藤泰子氏と38年間もやっている。いわばアナログ人間である。自動車を運転も出来ず、パソコンにも背を向け、ケータイも持たないで生きているそーだ。いわばシーラカンス。永六輔氏はいまやテレビ批判が多い
「テレビ開局50年記念といっているけど、この50年でこれだけ堕落した分野って、珍しいんじゃないのかな。テレビ番組って悪ふざけをしているか、何か食べているだけとい番組ばっかりね」
「水俣病のような悲惨なことを語り伝えるにも笑いが大きな要素であることも確かです。戦争、災害、公害、拉致 勿論悲惨なのだが、そこにも笑いがあるのだ」
「南無阿弥陀仏ということは、誰かを救うことによって自分も救われるという考え方を信じますということでしょう」


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