書評  041204

嵐山光三郎著 「芭蕉紀行」

    
新潮文庫 (2004年4月)
 
「奥の細道」にみる真実・・・芭蕉は危険人物、曾良は幕府隠密・・・
 

のっけから副題に曝露記事で申し訳ないが、確かに芭蕉は俳聖と崇められている(俳諧の文学性・歴史性は私には役不足なので言及しない)。近代の芭蕉評価は精神的な要素が強調されて、崇高な詩人として崇められた結果、かえって芭蕉のじつの人間性が見えにくい。まくらを旅する虚構的・抽象的な芭蕉になってしまった。暇つぶしに買った嵐山光三郎著「芭蕉紀行」という文庫本に芭蕉の3面記事が出ていた。信じられるかどうかは私には実証する意欲もないのでどうでもいいようなものだが、実に知的にスリリングなので紹介したい。

著者は曝露のみに興味があるわけではなく、芭蕉の紀行文「奥の細道」を「歌枕を旅する虚構の文学」と定義してその完成度・芸術性の高さを絶賛している。「奥羽地方と日本海側」を旅してから紀行文「奥の細道」が完成するまでに5年を費やしている。文章・構成を練りに練って推敲を重ねて文学的完成度はいやがうえにも高まったが、じつは虚構に満ちており、何のために旅をしたか、旅の訪問地やスケジュールの矛盾など疑問だらけの紀行文である。その文間を探偵するのがこの本の目的であった。筆者の論点は大きく次の2点に集中している。1つは旅の同伴者・曾良のスケジュール管理役割と目的と金の出所。2つは芭蕉および弟子たちの人間的危険性である。

1)曾良の役割
曾良は吉川神道の出で、幕府とのつながりが深く晩年は幕府巡見使九州班員になっている。当時日光工事普請で伊達藩と日光奉行の対立があり、その調査が曾良に命じられた。したがってまず日光から始まり仙台へ行く調査が計画された。旅費などの金は幕府から出る。目的をカムフラージュするため芭蕉の歌枕の旅が利用されたわけである。日光工事が遅れたため当初の2月の出発が3月になり、かつ千住で一週間も足止めを食らっている。また黒羽に2週間も逗留したのは日光奉行と仙台藩の確執を調査するためであったろう。さらに曾良は日光仙台以外にも各地の動向を調べる職務があった。社寺や港の荷役の動きである。北前舟が立ち寄る日本海沿岸の港として酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀の調査報告が任務である。その任務と芭蕉の歌枕の地の折り合いの上に旅が成立していた。このことを芭蕉が知っていたと考えられる。芭蕉が行きたい所を無視されたり、必要も無いのに長逗留しなければならないのは不自然だからである。旅のお供というか従者というか世話人という曾良に牛耳られていた芭蕉は滑稽ではないか。恐らく幕府支度金が潤沢にあって反抗できなかったのが理由であろうか。各地の俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の興行収入だけでは不安定だったに違いない。

2)芭蕉一門は危険人物
芭蕉が男色家であったことは公然の秘密である。俳聖に対して公言できないだけである。男色は当時の武士・坊主の世界では当たり前の美学に近いもので人間性を貶めるものではなかった。特に芭蕉と伊賀上野藩主藤堂良虎(蝉吟)や美男の弟子杜国の間柄は有名である。さらに木曽義仲を慕う芭蕉の性格は文学性ではなく、荒らしい無頼の徒への共感に有るのではないかと私は考える。次に直接芭蕉には関係ないかもしれないが、芭蕉の門人で罪に問われるものが多いことが不審に思われる。名古屋の杜国は米問屋であったが米の先物取引(空売り)をやって島流しの刑にあい、膳所藩士の曲水は家老を殺して切腹お家断絶、凡兆は無頼の罪人と交わったとして5年の入牢などである。芭蕉自身も無頼の徒いわゆる幕府体制での危険人物と見なされていたのだろうか。その結果曾良という幕府隠密が弟子という形で接近したとみるべきか。なんと芭蕉の「奥の細道」はぎりぎりの所で成立した虚構の文学ではないか。なお蛇足ながら、芭蕉が死んだ時、曾良は公務のため参列しなかった。


随筆・雑感・書評に戻る   ホームに戻る
inserted by FC2 system