書評  041022

尾形仂著 「鴎外の歴史小説ー史料と方法」

    
岩波現代文庫 (2002年8月)
 
・・・・・史実文献(藍本)の翻訳によって鴎外が課題としたこと・・・・・
(1)権力と個人の対立(天皇絶対主義へのアンチテーゼ)
2)救済の思想(献身の倫理)
 

のっけから私事の回想で失礼する。私は高校生のとき文学開眼をするが、好んで読んだ作家は芥川龍之介と森鴎外であった。評論家では小林秀雄である。前の2者には歴史物が多い。皮肉屋芥川と謹厳な鴎外では史実に対する取り扱いはずいぶん違うと私は考えていた。

1)鴎外歴史小説の世界と史料

森鴎外は大正元年から4年12月までに16部の歴史物を書いた。取り扱った材料は近世から幕末明治維新にいたる期間に限られている。当時の文学界で芥川龍之介などは歴史物において、現代人としての作者の意識が過去の歴史を支配した。森鴎外は歴史史実の文学性に没頭するタイプと見られていた。それは鴎外の傍観者を持って評される抑制の効いた観照的態度、徹底した歴史考証主義的手法、また作品の文学的完璧性からきている。

尾形仂氏が書いた表題の本を読んで鴎外について考え直す機会が得られた。鴎外の歴史小説の材料は以外に正史というよりは実録(実話読み物やメモに近い書付)に求めている。この実録に含まれている文学性の高い部分を忠実に採集して自分の文学に翻訳していったというのが尾形氏の説である。材料を磨き上げてみごとな文学的叙述で薫り高い小説に仕立て上げた鴎外の天才を感じる。実録から史実としての正確さの美をさらにおし進めるところに彼の歴史考証学的実力が伺える。下の表に鴎外の歴史小説の藍本(史料)と狙いを纏めた。

2)鴎外歴史小説の一貫した課題

ここで考えなければならないのは、鴎外はかび臭い歴史実録書を閑に任せて読んでいたということばかりではなく、その創作の契機には、結構当時の時代背景や事件世相が色濃く反映しているという。野木大将の殉死事件に触発されて「興津弥五右衛門の遺書」が殉死5日後に成った。「大塩平八郎」や「堺事件」は明治の大逆事件に密接に関係している。「魚玄機」は平塚らいてうの恋の逃避行(煤煙事件)に触発されたようだ。「興津」、「安部」、「佐橋」、「大塩」、「堺事件」、「栗山大膳」、「最後の一句」、「高瀬舟」、「寒山拾得」のおいて一貫して取り扱われているのは、権力対個人の問題である。時には調和もあるが対立の形をとり、時には官僚への懐疑批判という形で取り扱われている。一方、新しい救済の思想としての献身の倫理を歴史の中に検証する試みでもあった。天皇制絶対権力は封建社会の領主絶対権力への批判で暗喩されおり、明治政府の忠君愛国の精神は封建社会の武士の倫理を基礎としている。権力者は変わったが、支配される側の個人はいつの世も悲惨の一語である。つまり鴎外は自分の課題を追求する意図を隠蔽するためにいわば隠れ蓑として実録を使った。

鴎外の歴史小説の藍本(史料)と狙い
鴎外の歴史小説題名 主史料 参照史料 鴎外の動機・狙い
興津弥五右衛門の遺書 神沢貞幹「翁書」 徳川実紀、金地院崇伝「異国日記」、興津家由緒書、細川家記 明治天皇崩御の乃木大将殉死事件が発端となり、殉死という君臣関係の極地というべき封建的慣習に対する冷徹な批判がテーマ。これを徹底した鴎外独特の歴史考証主義で固定した。乃木大将殉死を功利主義を超越した献身の倫理で捉え直した。
安部一族 安部茶事談 細川氏系譜便覧、肥後国志、明良洪範、細川公御以来御三代殉死之面々抜書 「興津弥五右衛門の遺書」と同様、乃木大将殉死事件が発端となり、殉死という君臣関係の極地というべき封建的慣習に対する冷徹な批判がテーマ。天皇絶対権力に対する近代人の自我に目覚めた高級官僚の課題。官僚社会で功利に走る小才への嫌悪感。切腹には義腹、論腹、商腹がある心理分析が面白い。
左橋甚五郎 林大学「通航一覧」 朝鮮通信総録、続武家閑話、甲子夜話 君臣関係の相克。家康の邪心・不仁を難詰して迫害されても自分の意地を貫ぬくことに共感。
護持院原の敵討 山本復讐記 天保風説見聞秘録、異聞雑稿、巷街贅説 軍国主義的政策として生まれた武士道賛美・義士熱に対する批判として執筆。敵討ち賛美を徹底した考証で実生活面から懐疑と批判を行った。
大塩平八郎 幸田成友「大塩平八郎」 咬菜秘記、伝習録、大阪大塩平八郎万記録 明治の大逆事件に端を発する。未だ覚醒せざる社会主義として大塩の乱を考証した。偶発的契機に支配された大塩の集団の非合理的動きとして事件の流れを追跡。訳の判らないままに進行する事件の無力さ、むなしさ、無残さ。明治時代と江戸時代の主役が変わっただけの封建的構造。まさに歴史を借りた現代小説。
堺事件 佐々木甲象「泉州堺烈挙始末」 幕末に土佐藩士とフランス兵との衝突事件により切腹させられた藩士の生殺権を握るフランス大使という絶対権力者。大逆事件の死刑求刑者24名のうち、天皇の名において12名を救命した絶対権力者天皇。時期的にこの2つがダブっている。生殺与奪権を前にした下級兵士の無念さ、哀れさに同情。
魚玄機 唐女郎魚玄機詩 温飛卿詩集、魚玄機事略 平塚らいてうと青踏社女性解放運動を目の当たりに見て、歴史に借景した現代小説といわれる。現代の女の新しい生き方が史実を支配し、史料は隠れ蓑に過ぎない。
栗山大膳 栗山大膳記 盤井物語、西木子紀事、益軒全集、加藤肥後守忠広配流始末
山椒大夫 説経節
津下四郎左衛門 津下文書 小楠遺稿、小楠先生小伝
安井夫人 安井息軒先生 安井小太郎氏談話・書簡
じいさんばあさん 「一話一言」所収「黒田奥女中書簡写」 元大御番美濃部伊織並妻留武始末書
最後の一句 「一話一言」所収「大坂堀江橋近辺かつらや太郎屁兵衛事」
椙原品 大槻文彦「伊達騒動実録」
高瀬舟 神沢貞幹「翁書」所収「流人の話」
寒山拾得 寒山子詩集 宋高僧伝

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