養老孟司著 「バカの壁」

    

新潮新書(2003年4月)

   

環境書評コーナーで養老孟司著 「いちばん大事なことー養老教授の環境論」を紹介した。「バカの壁」は本書の半年前に刊行された。したがって内容的に同じような話の展開となっている。「バカの壁」は「人間の理解の壁」というべき内容で、解剖学者の立場から少しは科学的に人の意識を解析し、世の中で大事なことは「相手の立場を考えることだ」ということを述べた。 「いちばん大事なことー養老教授の環境論」は昆虫観察者の立場から人の自然との付き合い方を提案した。解剖学者も昆虫観察者も養老孟司の一面である。結論は似ているではないか。相手が社会(人間)か自然かということで、態度は相手の立場を思いやることである。

蛇足であるが、両書とも超忙しい先生のことなので、先生の口述録音をさる同一人物が原稿を起こして先生が筆を入れるというやり方でできている。内容的には重複するところも多い。どちらにしても専門的話を避けて、養老先生のやさしい語り口でソフトに分からせようとするところが受けているようだ。しかしながら哲学、経済、宗教、教育、スポーツや、神経細胞と多岐にわたる内容が突っ込み不足で、これで一定の結論に導くのは無理があるが新書という限られた頁ではやむをえないか。

「バカの壁」とはなにか

人の間の言葉による説明、コミュニケーションには「話せば分かる」ということにはおのずと限界がある。それだけでは伝えられないこと、理解されないことがたくさんある。誰にでも理解の壁が存在する。それはその人たちの生い立ち、立場、脳への既情報量が異なるからだ。したがって事実の見方にも180度違った見解が生じることがある。これを「バカの壁」と呼ぼう。対処法も複数あることを認める社会がよい社会であろう。画一的解法を押し付けるほうが間違っていると理解することが常識というものだ。正解はなくともとりあえずの解でやってゆけるはずである。
また脳を入出力装置と考え、状況というインプットXに対する人の反応や対処法YにはY=aXという直線関係があるとしよう。このレスポンス係数aにはマイナスからゼロ、プラスまでひとそれぞれによって異なるはずである。人さまざまな応答が出ることを認め、寛容することがコミュニケーションの第一歩である。

バカとか偉いとかは脳の構造や機能から判定することは不可能である。偏った能力(記憶、計算など)を有する人には社会的適応力がない場合が多い。つまり賢い人とは「社会に適応する能力に優れた人で、バランスのとれた常識人」だということになる。

安易に「分かる」、「話せば分かる」、「絶対の真実がある」などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちてゆくはずだ。一元論にはまれば強固な壁の中に住むことになる。すると自分と違う立場の人のことが見えなくなり、当然話は通じなくなる。

脳(意識)と情報(言葉・文明)

人間の脳は言葉によって徹底的に共通性を追求することで、他の動物をぬきんでて文明を生み出した。文明は効率よい生産と生活をするために都市文明を生んだ。したがって意識は徹底的に個性を排除するもので、人の個性とは主として無意識の心体的特長のことと定義する。人の身体をめぐる環境は日々に変化するが、脳が生み出した言葉(情報・文化)は個個の人にかかわらず固定される。脳がそれぞれの情報の同一性を認めないならば世界はばらばらになってしまう。

無意識(脳の中)・身体(個体)・共同体(社会システム)・・・・一元論を超えて

我々人間の脳が生み出した都市文明は、無意識の脳部分を忘れ、身体をおろそかにし、虚の経済指標である合理化というリストラ一辺倒で共同社会を崩壊させてしまった。しかしながら老人やがん患者にも「人生には生きる価値がある」と思わせるものは、自分の追及ではなく(孤独になるだけ)常に周囲の人、社会への関係の中でしかない。

現代人がいかに考えないままに己の周囲に壁をきずいて原理主義や一元論に陥っているか、そもそもいつの間にか大事なことを考えなくなってしまっている。金と経済の虚構、リストラによる社会の崩壊などがあべこべの状況を作り出した。経済の虚構が人を排除し社会を崩壊の危機に曝している。戦争も劇場化しキリスト教徒とイスラム教徒がお互いに悪魔と断定してテロと原理主義の戦いが行われている。企業活動もグローバル化と称してアメリカ一国主義が全世界に横行している。それに対して欧州の抵抗が見られるだけ。地球温暖化防止問題は石油利権をめぐるメジャーの争いを隠すだけのものになった。

教育の怪しさ・インチキ自然教育

「環境や自然は教壇から教えられるものではなく生き方の次元にさかのぼる必要がある」と「いちばん大事なことー養老教授の環境論」で述べられている。今幼稚園や小学校で行われている自然教育は事なかれ主義からインチキなことを教えている。その原因は教師がサラリーマン化して給料をくれる人の方を向いて生徒に顔が向いてないことにある。教師は自分自身が生きていることに夢を持っていないのではないか。自然と付き合いそこから考えようとする現地現物主義がおざなりにされている。「こうすればああなる」型の環境教育はむしろ害になる。


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