司馬遷 「史記」6    歴史の底流

村山孚・竹内良雄訳   徳間文庫(2006年3月15日初版)

司馬遷 「史記」5までに前漢の歴史をのべて、「本紀」と「世家」の記述は終了した。いわば時間軸の著述は終わったのであるが、司馬遷の史記の面白さは横の関係つまりテーマ別の「列伝」とクロスさせるところにある。縦と横の人間の歴史をからませる魅力である。史記「列伝」は帝王や諸侯以外で、歴史に大きな役割を果たした人物の伝記と、循吏列伝、遊侠列伝、佞幸列伝、貨殖列伝、刺客列伝、滑稽列伝、外戚列伝など帝王のような華やかな人物ではないが極めて個性的な人々が登場する。本書は、信義を守る人間像を「侠の精神」で、頑固でまじめな人々を「中流の砥柱」で、人と人の繋がりを「人間のきずな」で、后妃の家を記述した外戚列伝より「女人群像」で、崇高な精神から物欲までの人間性を「心か物か」でテーマ別に取り上げる。この「史記」の複眼的史観は、「紀伝体」という司馬遷独特の編集内容から生まれた。「史記」に登場する人物は有名無名をとわず、約4千人と言われる。この人々が生き生きと描かれるのが官製史書にはない司馬遷「史記」の最大の魅力である。

T侠の精神

遊侠の徒とは日本のやくざ、まして暴力団のことではない。侠は官の体制論理に対する野の論理である。人間の結合を絶対とする論理である。「侠の精神」とは一口で言えば身の危険を顧みず人の窮境を救おうとするものである。漢の高祖が天下を取った組織は「侠」を中心に結合した集団であった。勿論天下統一後、この結合は官僚的、服従的関係に変容する。漢創成期の忠臣は殆ど滅ぼされ、官僚が国家の中心を占めるようになるのであるが。司馬遷は、遊侠の徒の行動が実際に効果を上げ信義を貫いているので、彼らの存在意義は決して軽視されるべきではないと強調した。儒家や墨家は侠の精神を是としなかったため秦以前の市井の遊侠の徒の記述は全く残っていなかった。そこで漢代になってからの遊侠の徒として、朱家、田仲、王公、劇孟、郭解の五人が有名である。また刺客も義に命を賭けた。刺客列伝より有名な刺客には曹沫、専諸、予譲、聶政、荊軻がいる。

1)朱家

魯の朱家は敗れた項羽の将軍季布をかくまったことで有名になった。季布はさんざん高祖を苦しめたので懸賞金つきで行方を追われた。季布は奴隷に身を変えて魯の侠客朱家のもとに身を潜めた。朱家は洛陽の汝陰候夏候嬰を訪問して、高祖に季布を追い詰めることの非を説き赦免を依頼した。高祖は悟って季布を許し郎中に取り立てた。この件で朱家も天下に名を挙げた。

2)劇孟

漢の景帝のときに、王候の封土削減・おとり潰し政策でついに呉楚七国の乱が起きた。漢は周亜夫が最高司令官で鎮圧に向かったが、洛陽の遊侠の徒劇孟が反乱側についていなかったのを知って安堵し「これを得るのは一国を得るが如し」といった。遊侠の徒の向背が乱の行方を支配したほどであった。

3)郭解

郭解は若いときはすごい悪事を働いたが、年をとってすっかり町の顔役になって仲裁役を引き受けた。筋の通らぬことは身内でも許さず、自然に尊敬されないときには自分の徳を恥じた。衛青将軍にも気脈を通じていたが、司法酷吏公孫弘によって罪に落とされ刑死した。

4)予譲

BC五世紀の春秋末期、強国晋も三国に分裂した。張、韓、魏の三晋である。そのとき智伯は趙襄子に殺された。智伯権力欲が強く悪名高い男であったが、そんな人物でも予譲を評価して臣としたので、予譲は「士は己を知る者のために死す」といって趙襄子の命を狙った。何回も暗殺に失敗し遂に返り討ちにあって死んだ。

5)聶政

韓の哀候のとき、大臣の厳仲子は宰相の侠累と刃傷沙汰をおこして、厳仲子は逃亡した。なんとか侠累に仇を返したい厳仲子はは刺客を求めていたが、聶政をしり母の誕生祝をしてやって暗殺を依頼した。聶政は母がなくなってから侠累の暗殺に成功したが、自身も殺害された。特に之と言った利害関係もない厳仲子のために「男と見込まれたからには」と暗殺を請け負うというのも侠の世界なのだ。

U中流の砥柱

黄河の三門峡に大岩が厳として立つ有様を「中流の砥柱」という。信念を固守し、時流に流されない者の喩えである。いわば頑固、律儀な精神の権化である。清廉潔白に法律を忠実に守って人民を治める「循吏列伝」より、公儀休、石奢、李離をとりあげる。そのほかに律儀な信念の人として、李離、朱建、周文、介子推、万石君を取り上げた。

1)公儀休

公儀休は魯の宰相であった。彼が意を用いたのは、庶民の利益を奪わないこと、高級官吏は賄賂を絶対に受け取らないことであった。自分の欲をも客観的にとらえ、絶対に進物を受けなかった。

2)石奢

石奢は楚の昭王の宰相であった。殺人犯を捕えてみれば自分の父であったので、その父を逃がして自分は自殺して責任を取った。

3)李離

李離は晋の文公のときの司法長官であった。部下の取調べのミスで無実の人を死刑にしたことがあとで判明し、誤審の責を取って自殺した。

4)直不疑

直不疑は漢の文帝の宮中顧問官であった。弁解するのが嫌いな簾潔の士で、呉楚七国の乱の時は将軍として鎮圧して副宰相に昇進したが、次の武帝には嫌われて免職になった。

5)朱建

漢の呂后の寵愛を受け権力を一身に集めていた審食期が長安の清貧の士朱建に交際を求めたが相手にされなかった。しかし朱建の母親が死んだとき大金を贈ったことで朱建は審食期の恩義を感じた。遂に景帝が審食期を逮捕して誅殺しようとした時、朱建は恵帝が寵愛する少年をくどいて助命に成功した。また呂后が崩じて呂一族が滅ぼされた時も審食期が殺されなかったのは陸買と朱建の力があってのことらしい。文帝のとき審食期は捕えられて策害された。朱建も逮捕されたが潔く自殺した。頑固者の報恩の話である。

6)周文

漢の景帝の侍従長であった周文は身なりも粗末なきわめて口の堅い男であった。景帝の信頼厚く後宮にまで入ることが許された。臣下の人事には一切口をださず、贈り物も受け取ったことはなかった。武帝からも重んじられ故郷に隠棲した。

7)介子推

晋の文公(重耳)が19年の亡命生活から君位についたとき、これまでずっと従ってきた一人の忠臣が文公から去っていった。これが介子推である。主君の運が開けたのは天のお陰だ。周りの人間の忠臣面して功績を誇り報酬を要求する態度に我慢がならなかったので母親とともに山に入って隠遁した。遂に出てこなかった。

8)万石君

謹直に漢王室に仕えた石奮は、若いとき高祖が姉を後室に入れたときセットで小姓に取り立てられた。文帝の時には太中大夫にのぼった。大使の教育係りである。これといった能力はないのだが謹直なだけがとりえといえる。景帝末期に石奮は引退した。彼の子石建、石慶も郎中令、内史に取り立てられた。石慶は武帝のとき太子太傳となりさらに丞相に昇進した。このころ武帝の拡大策と富国策、法律の強化策などで多事多難な時期であったが、丞相石慶はなんらなすところなく九年間在職しただけで、実務は実力派官僚になすがままであった。要するにこの一家は無能ではあったが謹厳なだけで家の隆盛が誇れたという変な話だ。

V人間のきずな

人と人の絡み合いこそ、歴史を形作ってゆく最大の底流であろう。史記には人間関係の基本的な型が濃縮して記述される。二千年前とは思えないほどに生き生きと描かれ人間関係のありようは現代と相通じるものがある。科学やシステムの発展を別とすると、人間自身の進歩が果たしてあったのかと考えさせられる。四千年から二千年前の人間と同じことを今でもやっている。脳細胞の進化には十万年以上必要だと言われるので、考え方の基本は何も進化していないようだ。人間の考えの基本はそのままにひたすら量的拡大に努めてきたようだ。壁にぶつかって人類絶滅に瀕した時、はじめて人間の体や脳の遺伝子に突然変異ができて新次元へ進化するのかもしれない。それまではこのままの思考でやっていくしかないかも。

1)管仲と鮑叔

相手をよく理解しあった親しい交友関係を「管鮑の交わり」という。覇者となった斉の桓公を支えた宰相管仲は友人鮑叔の理解によるところが大きい。確かに管仲の賢才は偉大だが、そこまで支えてくれた鮑叔の方を賞賛する人は多い。宰相管仲は経済振興と富国強兵に努め、君主の倹約と徳を重視した。

2)孟嘗君と馮驩

孟嘗君は斉の宰相を務め、食客三千人といわれほど人材を集めていた。その食客のなかに何のとりえもない馮驩という男がいた。秦と楚は強国斉の力をそごうと斉王と孟嘗君の離間を図った。斉王はまんまとその手にかかり孟嘗君を罷免した。するとさしも多かった孟嘗君の食客は潮が引くようにいなくなったが馮驩だけは残って、斉の危機を打開すべく秦の使節にたった。秦を欺いて孟嘗君を招く使節を送るように仕向け、斉王には孟嘗君が秦の宰相になったときの危険性を説いて再度孟嘗君を宰相に復帰させることに成功した。

3)滑稽列伝より優孟、淳于こん、優旃

楚の荘王の時代、優孟と言う道化師が宮中に居た。荘王の愛馬が死んだので王は大夫の格式で葬儀を出そうとしたが、否定するのでなくもっとでかい規模でやったらと薦めてその馬鹿馬鹿しさを王に諭したのが優孟であった。楚の宰相孫叔傲の死後その子孫の窮乏を救ってやったのも優孟であった。斉の威王の時代、王が政務を顧みずに遊んでいるのを揶揄して「鳴かず飛ばず」と言って発奮させた。また楚が斉をせめた時趙に援軍を要請する使節の礼物が余りに少ないことに歌を歌ってやんわり王のけちをなじって気付かせた。そして援軍派遣に成功した。とんちに満ちた話で君主を怒らせることなく気付かせる智恵は彼の得意とするところだ。秦の宮廷の俳優で小人だった優旃は、始皇帝が御料牧場を拡大する案を審議した際に「馬や羊が敵を防いでくれましたらいいですが」とやんわり諭した。このような説得法は同調説得法といって真っ向から反対せずに止めさせることである。自分の非に気がついて苦笑させながら同意させることである。

4)李札

呉の公子李札は末子であったので、その賢才を見込んで世継ぎにしようとしたが絶対に受けず義の人と言われた。李札が徐の国に立ち寄ったとき国王が李札の剣を欲しがったので、任務が終わってから進呈するつもりで帰途徐の国に立ち寄ったら既に国王はなくなっていた。信義の人李礼は国王の墓に剣を捧げた。

5)韓安国

漢の監察長官にまでなった韓安国は呉楚七国の乱で名を馳せ、孝王が中央から叱責されたとき使節にたって巧みな弁舌で孝王を擁護した。その韓安国も罪を犯して獄吏に辱められたが、最後まで希望を捨てなかった態度が立派であった。そして再度高官に返り咲いた。

6)東郭先生

東郭先生は「ぼろを着てても心は錦」のような人であった。漢の大将軍衛青の姉は武帝の妃であったが、東郭先生は衛青に妃のライバル王夫人の親の長寿の祝い金を送るよう薦めた。危険な関係になる前にうまく人間関係を修復する手であった。人の鑑定はその姿だけからは分からないという話だ。

7)鄒陽

戦国時代斉の出身で遊説の士鄒陽は魏の国で讒言で投獄されてしまった。そこで弁明のために提出した文が「釈明文の模範」といわれる文章である。長文なので省略したい。

8)越石父

斉の宰相晏嬰が賢人越石父を救ったが、その後それらしい待遇をしなかったので「理解しながら、遇しないのは非礼である」と越石父になじられ、恥じた晏嬰は越石父を最高の食客待遇とした。

9)王先生

武帝が北海郡の太守に質問したときの受け答えの仕方を王先生が太守に伝授した。「君子は言葉を贈答し、小人は金を贈答する」人を喜ばせるテクニックだ。

10)近親の絡み合い1 魯荘公 (近親相姦、私通)

BC7世紀のはじめ魯の国で近親相姦、私通といった一連のスキャンダルによって斉との関係まで影響した事件が起きた。魯の桓公は斉より后文姜を迎えたが、なんとこの文姜は兄の襄公と近親相姦の関係にあった。これが露見すると文姜は兄の襄公に告げて魯の桓公を殺させ、自分は斉に帰ってしまった。弱国の魯はこのような仕打ちにも、覇王斉の桓公に対していかんともできなかった。魯の桓公の子は魯の荘公で愛妾が生んだ班を跡継ぎにしたかった。正夫人哀姜は(これも斉桓公の妹)がいたが子はなかった。しかも正夫人哀姜は荘公の弟慶父と私通していた。荘公にはさらに斉桓公の妹叔姜を妃にして開(のちびん王)という子がいた。斉桓公が亡くなると弟李友の働きで班が即位したが、慶父は叔姜が生んだ開を王にすべく、班を殺害して開すなわびん王を立てた。哀姜と慶父の愛人関係は目に余るものがあり、ついにびん王を暗殺して慶父が王位を奪う計画を立てたびん王が殺害されると、陳に亡命していた李友が?王の弟申を担いで反慶夫運動を起こして慶夫は亡命した。叔姜のご乱行を聞いた斉の桓公は叔姜を呼び戻してこれを殺害した。じつにすさまじい血肉の乱れである。

11)近親の絡み合い2 漢衡山王のお家騒動

漢の高祖の末子に脂、がいて淮南王に立てたが、反逆を起こしたのでこれを廃し、文帝はその子三人を王にとりたてた。衡山王賜は兄の淮南王の謀反計画に翻弄され、さらに太子の位の争奪戦、妃位の争奪戦がはじまり、内外の問題を賜はうまくさばけず、ついに衡山王けのお取り潰しという悲劇を迎えた。この微妙かつ複雑な人間関係は限られた紙面では現わしづらいので興味をもたれた方は本書を読んでください。

12)ケ通、韓嫣、李延年(佞幸列伝) 

皇帝お気に入りの男色伝(佞幸列伝)から三人を紹介する。高祖は籍少年を愛し、恵帝もこう誌ュ年を愛した。文帝の時にはケ通、宦官として趙同、北宮伯子が帝の寵愛を受けた。さしもケ通は罪を得て貧困のうちに世を去った。武帝は韓嫣、宦官として李延年を寵愛した。韓嫣は皇太后によって罪を得て死んだ。李延年は妹が武帝の側室になったことから帝の作曲家として寵愛されたが、妹が死ぬと誅殺された。このように男色、佞幸の末路はあわれである。帝の秘かな遊楽のためのみに存在するからである。

W女人群像

史記には権力闘争と支配をめぐる女性の存在が鋭く描かれている。漢の高祖の皇后だった呂后は際立って大きな存在であった。呂后のみは本紀で帝王並みに扱われている。史記には夫婦の問題は人間道徳の基であるからきわめて慎重に処すべきと言う訓が述べられている。夫婦の問題と漢の外戚の系譜を記録した「外戚列伝」をみてゆこう。

女の問題を娘、妻、母、乳母の例を提起する。
鄭の詞は先代荘公よりの寵臣祭仲が煙たくて、祭仲の娘婿擁糾に暗殺を命じた。娘はこれを知って夫か父かの選択を迫られたが、母の「父はひとりしかいないが、男はすべて夫とすることが出来る」という言葉から父を守った。
斉の宰相晏子の御者の妻は宰相の威を着た威張った夫の姿を見て愛想をつかした。
鄭の武公の后武姜は次男段を溺愛したが、長男寤生(荘公)が即位した。荘公は母の意を汲んで段を候に封じたがついに段は反乱した。走行は乱後母を移して絶交した。
孔子の弟子で親孝行で有名な曾参に話だが、「曾参が人を殺した」と言うデマを人が三回母に告げた。最初は耳を貸さなかったが、さすがの母も三回目に腰を上げたと言う話。これは親孝行の話と言うよりデマの心理学と言う話だ。
漢の武帝は乳母を大変大事にし贈り物や食事を供したり、土地を下賜した。ところがこれをいいことに乳母の子や孫が長安の町で無礼の限りを尽くしたので、辺境への移住を裁可した。乳母の別れの挨拶で武帝は哀れみを催し移住を取りやめた。

漢の「外戚世家」
高祖の后呂后は高祖死去後、恵帝を二代皇帝にして、高祖の愛妾を皆殺しにした。そして呂一族は軍や宰相に地位を独り占めにした。平家一門の如く后の出身一族が顕職を独占した。殺害を逃れたのは高祖の寵が薄かった薄后(子は五代文帝)のみであった。二代から四代皇帝は幼年であったので呂后は実質皇帝として采配を振るった。司馬遷はこの時代を「呂后本紀」とした。二代から四代皇帝の本紀は書かなかった。呂后の死後呂一族は宰相陳平らの働きで呂一族をねだやしにして、劉王室の復興に成功した。
五代皇帝文帝の后になったのはとう姫であった。とう姫には幼いころ生き別れした長君と小君という兄弟があった。再会がかなったが、警戒した文帝の重臣周勃と灌嬰は二人に教育を施し徳を身につけさせて、次の恵帝のときには二人は候に任じられた。
六代皇帝恵帝の后は王后である。王后は武帝を生んだ。恵帝は太子時代に正室を薄后としたが、子に恵まれず正室からおろされた。側室栗姫は栄という長男を産んだが、あまりに嫉妬深い正室から帝に嫌われ栄は太子を廃され栗姫は憤死した。こうして王后はライバルの間をすり抜けて正室の地位を安泰とした。
第七代皇帝武帝の后は衛后である。字は子夫といった。子夫は平陽公主の合唱隊の一員であったが、武帝に見初められて後室に入って武帝の寵愛を一身に集めた。武帝が太子の時代に陳后を正室にしていたが、子夫を妬んで呪をかけたことが発覚し皇后を廃され、衛子夫を皇后に立てた。子夫の兄に衛青がいて匈奴討伐に功を立て大将軍にまで出世した。また叔父に霍去病がいて軍候により驃騎将軍に取り立てられた。

X心か物か

史記は列伝の最初に精神主義を表現する「伯夷列伝」をおき、最後に物質を重視する」貨殖列伝」をおいた。人は物と心を両極において、その間を揺れ動きながら生死するのである。「司馬遷は精神主義でもなく物質主義でもなく、彼は人間を描く歴史家である。」と武田泰淳が言うがけだし名言である。

1)己の心に殉じた兄弟ー伯夷・叔斉

周の武王が殷の紂王を討ったことを許せなかった伯夷・叔斉は義として周の粟を食うことはできないとして、首陽山に入って蕨を食って遂に餓死した。「天道、是か非か」司馬遷は「善人必ずしも報われない、悪人でも繁栄する」と深い絶望感に襲われる。

2)衣食足りてこそー貨殖列伝

人間だれしも自分の才能に基づいて力を尽くし、欲望を満たそうとする。この人間の本質的な営みが経済活動なのである。物はあたかも自然法則のように高きから低きへ流れる。誰が命じるまでもなく財貨は流動するのである。「周書」にもいうように、農業、工業、商業、山林鉱山の四つが国家を富ませ、個人を潤すのである。貧富は結局この経済の運用の巧拙からくる。経済は政治・道徳の基礎となる。「衣食足りて栄辱を知る」という言葉は管仲の名言である。孔子の活動を支えたのも子貢の金である。勇士が戦場で戦うのも恩賞を期待するからであり、医者などの技能者が技を磨くのも高い報酬を得られるから、高級官僚が賄賂の誘惑に勝てないのも金の力である。人間の生活様式・風俗もその地方の経済の特徴から説明できる。

3)素封家ー白圭、ら氏、清女、卓氏、へい氏、ちょう氏、任氏、無塩氏

白圭は商品の相場に変動で物を動かした。豊凶にも循環の法則がある。其処を利用するのが金儲けの秘訣だ。白圭は利殖の祖と仰がれている。ら氏は牧畜業で大をなし始皇帝も諸侯なみの待遇を与えた。巴の清女は水銀鉱山で産をなし始皇帝も一目置いたほどである。蜀の卓氏は製鉄業で巨利を得た。曹のヘい氏はけちで有名で転んでも何か拾えというぐあいに、鍛冶屋から身を起こし巨万の富を築いて金融や信用取引で全国に活躍した。斉のちょう氏は奴婢を使って魚や塩の商売で成功した。奴婢のやる気と成功報酬を確保したからだと言われる。任氏は農業牧畜で節約に励み郷土の模範になった。無塩氏は漢の呉楚七国の乱で諸侯の軍費を貸しつけ、元金を十倍する利益を上げた。素封家とは王候貴族のように王から封土を貰えるわけではなく、自分の働きで財をなして裕福となった人のことである。節約と勤労は暮らしを営む基本であるが、富をなしたものは必ず奇策を用いて勝負に出るものだ。

4)范れいー実業家宰相

紀元前五世紀に越王勾践に仕えて呉を打ち破った忠臣范れいは越王が覇業を成し遂げたのち、引退して他国で実業家として何回も成功した。越王勾践を助けてよく艱難辛苦に堪え雌伏二十年、ついに呉を滅ぼして会稽の恥をすすいだ范れいの本領は「栄誉は禍のもと」として成功の絶頂期に転身したその明哲さにある。勿論越の国内富国強兵策(計然の理論)にも既に経済人としての手腕は歴然であった。突如の辞任は「狡兎死して走狗烹らる」という逃げの考えもあったであろうが、むしろ経済人として第二の人生を生きようとする強い自信と意志があった。まず斉にゆき農耕牧畜に励むと同時に物資の商業で手堅く儲けていった。その財産を郷土の人に分け与えて、つぎに陶に移住した。こうして三度移住して各地で成功し、二度まで財産を散じて徳を積んだ。このため今日まで陶朱公といえば経済人の鑑と仰がれているのである。

五)理想の政治ー民衆の心

古代中国の理想の政治とは「政治を感じさせない政治」であった。この考えは老子の無為を理想としている。いまや人間の生活の安楽と権勢を追い求める習性は抜きがたく、こうした民衆の本性に従って治める者こそ理想の政治家である。利を持って誘導する政治家は次善の政治家であり、民衆を教え導こうとするものはその次、法によって統制しようとする者はさらにその下、腕力で民衆を支配する者に至っては下の下で政治家とは言いがたい。


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