司馬遷 「史記」5    権力の構造

大石智良・丹羽隼兵訳   徳間文庫(2006年2月15日初版)

本卷は高祖劉邦が没したBC195年から第七代武帝の時代およそ100年間の漢代の歴史を扱う。高祖が敷いた体制は王と候によるいわば封建封土制と郡県制の折衷案である。秦の始皇帝のあまりに急激な皇帝専制による中央集権体制(郡県制)が一代でもろくも崩壊したのをまの当たりに見て、高祖は劉一族の王候封土制に戻した。しかしこの百年の間、漢朝は曲折をえながらも中央集権を推し進め、武帝の時代(BC140-BC86年)にいたって、絶対君主としての皇帝権を確立した。官僚機構が整備され、儒教を国教とした法整備が進んだ。このような統治機構はその後2000年の中国王朝に継承され、漢時代が中国に与えた影響は計り知れない。武帝は内政面では農業・商工業の発展を導き、民生を安定して国力を充実させ、積極的な対外政策をとった。朝鮮、匈奴、西域まで領土を広げ、シルクロード地域とさらにインドまでも文化交流した。こうして漢朝は世界に君臨する大帝国にまで発展した。いわば中華帝国の原型が形成された意義深い時代であった。

戦国時代・秦・漢楚覇権時代の戦争による荒廃のため人口は激減した。農村経済の復興は民生安定の第一歩であった。税率を一挙に十五分の一税に軽減した。次第に農村経済は回復し第6代景帝の時代には人口は約四倍まで回復した。また経済政策として塩、鉄、銅銭、絹織物などの手工業も活発化した。功して武帝のころには社会の生産力は飛躍的に拡大し国力は充実してきた。

漢朝は一族と功臣を王候(九王と約百候)に封じたが、政治組織としては基本的に郡県制をしく秦の行政組織を踏襲した。しかしこれらの劉一族による九王国が次第に独立政権化する傾向がったので、文帝の時代(BC179-BC157年)から徐徐に王国領の削減・改廃をおこなっていたが、恵帝の時代(BC156-Bc141年)に晁錯が出て一層厳しく王国領削減を実行した。そのため呉楚七王国の乱が起きるが、乱を収拾した王朝は王国に中央から官僚を派遣するなど直轄地である郡県制となんら変わりないものとなった。

戦後社会の安定と充実のため、思想的には道家思想による無為の考えにより、半世紀にわたって文帝・景帝は専ら内政の充実に力を注いだ。だが中央集権制が巨大化するにつれ儒教による社会の上下関係が固定化し、支配と服従の理論的支柱となった。そして「天から命を授かるのは天子ただひとり、万民は天子より命を授かる」という絶対君主制の統治原理を提供した。武帝は儒教を国の柱として、五強博士をおいた。儒教に基づく人材推挙制度によって新しい官僚群が形成された。武帝が次々と外征事業をおこしたのも、あまねく皇帝の徳を世界に知らしめるところにあった。

T女傑君臨  呂后とその一族の専横

BC195年高祖が崩じると、恵帝を擁した皇后呂后とその呂一族の専横が始まった。呂后は男勝りで高祖の天下統一を助けた。またその後功臣たちを次々に抹殺して漢王室の安泰を導いたのも呂后の力によるころが大きい。一族の呂台、呂産、呂釈子は候になっている。呂后の影に隠れた第二代皇帝恵帝はBC188年に崩御した。恵帝の子供たちは成人していないので、このころから呂氏一族の専権簒奪の動きが始まった。呂一族が南北両軍指揮権を手にし、幼い新帝(恵帝の妾腹の子)に代わって呂后が事実上の天子になった。従って司馬遷は呂后本紀を書いているが、第二代、第三代、第四代皇帝の本紀は書いていない。時の宰相陳平は漢の社稷を守るため、一時的に呂后の言いなりにならざるを得なかった。呂后はこの新帝をも殺害し、弘(恵帝の妾腹の子)を立て国事一切を取り仕切った。その呂后もBC180年に崩じると、劉一族の斉王は各王国に呂一族打倒の決起を呼びかけた。漢王朝の宰相陳平、周勃、陸買は陰謀をめぐらせ、まず北軍を掌握して、呂一族を誅殺した。そして代王を迎えて第五代文帝を擁立した。呂后とその一族の専横とは日本の歴史では、源頼朝の妻北条政子と北条一族に相当する。政子は自分が産んだ源氏二代を滅ぼし、北条家の執権制度を確立した。これは簒奪であろう。ただし源頼朝が政権を取れたのも北条家のバックアップがあってのことだから、実権はさほど移動していないともいえる。傀儡としての源頼朝なきあと、北条の実質権力に政権が委譲したということか。

U再建への道  文帝、景帝の時代 内政の整備

文帝誕生後には宰相陳平(BC178年没)に代わって周勃(BC169没)が丞相になった。混乱した内政を立て直すべく新しい官僚群が登場する。直諫で有名な袁おうと晁錯は協力に中央集権化に尽力した。晁錯は王国領の削減・改廃を急ぎすぎたため、呉楚七国の反乱を招いて帝に誅殺された。文帝、景帝の治世に中央集権を推し進め、勢力伸張を図る王候貴族に対して仮借ない法の執行をおこない、「酷吏」列伝で取り上げられたのが、しっ都、寧成、周陽由である。しっ都の法適用は過酷そのもので蒼鷹と呼ばれて怖れられた。寧成、周陽由は武帝の時代の官僚で、司法は寸分たがわぬ条文どおりの法執行を至上任務と考えた。疑獄事件が後を絶たず、過酷な刑法の割には抜け穴だらけで盗賊、腐敗官僚が跋扈する世であった。

V大帝の治世

BC140年第七代武帝が即位した。武帝が君臨した54年間は中国史の最も輝かしい時代であった。国力の充実を背景に四方の異民族を征服し空前の大帝国を建設した。しかし司馬遷がこの武帝をどう見ていたかは定かではない。「孝武本紀」を司馬遷は書いたであろうが残っていない。恐らくは司馬遷が書いたものの、司直の手で抹殺されたか、司馬遷が筆禍を怖れて隠匿して紛失したものと考えられる。帝の気に入らない表現が一つでもあれば即死刑は免れなかった情勢では書き様がない。そこで本書では漢代の経済史である「平準書」と官僚の列伝から武帝の時代を見ることになる。

BC127年漢は匈奴から内蒙古を奪い朔方郡をおき、朝鮮を直轄地として滄海郡を置き、越(福建)、巴、蜀へ郡を拡大した。この拡大策のため国家財政は窮乏した。ためにいろいろな経済政策が採られたのであるが、売官制度が軍費献納策として新設され官吏の登用制度が乱れた。公孫弘、張湯が「春秋」の政治哲学を掲げて登場し、帝の寵愛を得て公孫弘は丞相となった。法を犯したものを見逃したら罪になる「見知の法」や法令を無視する罪、上役を誹謗する罪などなど容赦のない罪科が課せられた。公孫弘は70才を過ぎて登用され、武帝の信頼厚い宰相として儒学の振興に功績があったが、他人からは「曲学阿世の徒」と非難された。公孫弘が儒学を看板とすれば、汲黯は黄老の学説を信奉し無為を政治理念とした。剛毅直諫の士であったのでたびたび帝を怒らせた。汲黯は非戦論者で政治の要諦は平安を守ることだと説いたが、帝は公孫弘、張湯を重んじていたので汲黯は結局失脚した。

BC120年中原は水害に襲われ人民は飢餓にさらされた。くには生業資金を貸し付けたので、ために国家財政は危機に瀕した。しかし豪商らは銅銭鋳造、製塩、製鉄の事業で巨利をあげた。そこで武帝は国家財政の健全化のために貨幣制度の改革、私鋳は死罪とし、製塩、製鉄事業の国営化に着手した。民間より東郭咸陽孔僅を大農丞(経済次官)に抜擢して製鉄製塩事業にあたらせ、経理に明るい桑弘羊を秘書官に任用した。経済官僚の思い切った登用である。以来商人出身の官吏が増加しますます官吏任用制度は混乱した。商人に対しては財産税制度「びん銭令」、「告びん法」を実施した。また大司農となった桑弘羊は「均輸・平順の法」を制定し、物価安定を口実に商業活動から利潤を得て国庫は益々潤った。こうして次第に国庫収入は増え長安の宮殿が修築され、武帝の独裁者たる地位は確固たるものになった。

ところでこの民活導入により官吏や民間が私利をむさぼるようになりこの取締りが急務になった。御史大夫の張湯は酷吏を使って摘発に乗り出した。腹の中で非難する罪「腹誹の法」というおかしな法まで作って人を陥しいれた。武帝統治の前半最も多事多難だった時期にその爪牙として活躍したのが酷吏と呼ばれる司法官僚だった。高祖が「法三章」といった時代に比べると隔世の感がある。この峻烈を究めた張湯といえど、ついに丞相府の三人の長史の陰謀にかかって賄賂の罪をかぶせられ自殺に追い込まれた。あとで冤罪であることが判明するが既に遅かった。司馬遷は酷吏列伝のなかで「張湯の死後、法の網の目はますます細密になりその適用も厳しくなる一方であったが、それがかえって漢王室の統治力を低下させる結果になった。」と言う。たとえば盗賊出身の官吏がその情報網を使って盗賊逮捕の成績を上げて出世したり、弱いものいじめに走ったり、犯罪が起きてもなかったように文書を作ったりまるで江戸時代の岡っ引きか現在の警察まがいの様相を呈した。

W漢世界の拡大

秦の始皇帝は中華を統一後、将軍蒙恬み匈奴の討伐を命じて内蒙古(オルドス)の地を占領し、黄河にそって延々と万里の長城を築いた。劉邦と項羽の決戦中に匈奴の冒頓は東胡、オルドス、月氏を討って、さらには燕や代にまで進入した。冒頓はさらに北方の諸国を征服して匈奴の覇王になった。漢の高祖が天下を統一したのが丁度この頃であった。高祖は自ら匈奴討伐軍を編成して向かったが、白登山で包囲されかろうじて逃げ帰った。それ以降の高祖の時代は匈奴とは停戦協定を結んだが、たびたび辺境を侵された。漢は高祖から第六代景帝に至る数十年間は匈奴に対して常に受身の立場に立たされた。武帝にいたって初めて匈奴討伐策に転じた。名将列伝から衛青、霍去病、李広の三人の将軍による匈奴討伐戦を見て行こう。

まず大将軍衛青については、彼の姉が武帝の愛妾になるにおよんで急に運命が開け車騎将軍に取り立てられた。まずBC127年にはオルドス奪取の立役者になって長平候に取り立てられた。度重なる匈奴の代郡侵入に対して、武帝は車騎将軍衛青に騎兵三万を率いて出撃させた。この戦いで衛青は匈奴の右賢王を下して大勝利をあげた。この功績で衛青は大将軍に抜擢された。公孫傲ら部将五名も候に任じられた。BC124年にまた匈奴が代郡に侵入した。衛青は六名の武将を率いて出撃し、匈奴一万人を捕虜として撃退した。

つぎに登場した将軍は衛青の甥の霍去病である。彼は初めから若きプリンスとして登場し、BC123年の討伐で功績をあげて驃騎将軍に出世した。霍去病にたびたび蹴散らされた匈奴の渾邪王は単于から誅罰を受けそうになったので漢に降伏した。このとき投降した匈奴の軍は十万人ともいわれた。BC119年の討伐戦では衛青と霍去病を司令官とする騎兵五万、歩兵輜重数十万人で戦い、衛青の軍は一万の匈奴軍を包囲したが単于は逃亡した。霍去病の軍は左右の匈奴軍を蹴散らし七万人を捕虜とし敵軍の3割を撃滅するという大戦果をあげ、衛青の戦果をはるかに上回った。この戦果により衛青と霍去病はともに大司馬の官位に登ったが、衛青の権威は日に日に低下し、霍去病の声望はいやが上にも高まった。

匈奴との戦いで大きな武功を上げたのは衛青と霍去病であった。もうひとり悲運の将軍として李広将軍がある。景帝の時には李広将軍は匈奴との戦いに明け暮れた。彼は匈奴から「漢の飛将軍」と怖れられたが、匈奴に負けて捕虜になるところを逃亡して生還した。一時罪に問われたが、BC119年の討伐戦で衛青の軍の前将軍として出陣した。衛青は李広将軍を戦闘からはずして迂回路を取らせたため道に迷い戦闘に間に合わなかった。李広将軍は潔く自殺した。

匈奴掃討戦において、匈奴が月氏を討って王を殺害したため月氏は匈奴を深く恨んでいるとの情報を聞いた武帝は、月氏と手を結んで匈奴の挟撃を図ろうとして張騫を使者として派遣した。途中匈奴に捕虜になり十年余足止めをくらったが、ようやく脱出して大宛に到着した。大宛の道案内で康居にいたり、そして大月氏についた。大月氏は漢があまりに遠いためと豊かな食糧に恵まれ外敵の侵攻もなかったので漢との同盟により匈奴を討つ気はさらさらなかった。張騫は月氏から大夏にいって画策したが結局月氏を動かすことは出来なかった。大月氏に一年あまり居て帰途についたが、また匈奴に捕縛され一年の抑留生活を送った。十三年を経過したすえやっと漢に帰還した。張騫は武帝に、大宛、康居、大月氏、大夏に関する詳細な報告をした。大宛には血の汗をかく名馬がいるとか武帝の興味を掻き立てることばかりであった。そして大夏でインド経由の蜀の織物を見たことから、蜀から大夏へゆく南のルートを開発必要を武帝に説いた。また烏孫国との匈奴挟撃作戦をといて同盟締結を武帝に進言した。張騫は烏孫国への使者に立ったが、結局烏孫国を動かすことは出来なかったが、副使を大宛、康居、大月氏、大夏、安息、インドなどに派遣した。武帝の名馬好きから大宛の汗血馬を「天馬」、烏孫の名馬を「西極」となずけ珍重した。これらの成果により張騫は大行に任じられ大臣の列に加わった。博望候張騫と呼ばれた。漢の西域への根拠地として酒泉郡を設置し、大宛の名馬ほしさから武帝は李広利を将軍として三万の軍を率いて大宛征伐を命じた。酒泉郡には十八万の兵を置いて防衛に当たらせた。李広利将軍はこの戦いに勝利し名馬三千余を得た。大宛遠征の成功によって漢の西域経営はさらに進展し、酒泉に代わってさらに西の敦煌が前進基地になり、塩沢(ロブノ-ル)までの各所に宿駅が設置された。こうしてペルシャにいたる交易ルート(シルクロード)が開発され文物の交流が始まった。まさに漢は世界帝国の概念を広げた。


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