司馬遷 「史記」4    逆転の力学

和田武司・山谷弘之訳   徳間文庫(2006年1月15日初版)

BC206年項羽が秦の子嬰皇帝を殺害して秦が滅亡してから、劉邦が漢の高祖として即位する八年間がこの史記4の内容である。主題となる項羽の楚と劉邦の漢の死闘は僅か五年に過ぎない。しかし「史記」が対象とした二千数百年の歴史の中で、司馬遷は最大の筆力でこの緊張と波乱に満ちた時代を雄渾に描き出している。高祖本紀と項羽本紀を中心に英雄豪侠の列伝を綾に織り込んでまさに息を呑むスペクタクルの迫力である。

BC208年陳勝・呉広の乱に始まる反秦勢力の勃興で、まず実権を掌握したのは鉅鹿の戦いで秦を破った項羽である。抜群の戦闘力を誇る項羽は四十万にふくれあがった大軍をひきいて西進し秦都咸陽を目指したが、別ルートで一瞬の隙で先に劉邦が咸陽を制圧し、項羽の到着を待った。遅れて入った項羽は秦王と其の一族を殺害して秦都を略奪破壊した。ここに項羽の残虐なイメージが定着する。項羽は自ら西楚覇王を称え、十八人を各地諸侯にに任じた。その体制派戦国時代の群雄割拠に逆戻りする危険を孕んでいた。先に関中入りをした劉邦を冷遇して漢中に封じたことが項羽と劉邦の間の足かけ五年に渡る決戦の引き金となった。

項羽を覇王とする体制にさっそく反乱を起こしたのが西の田栄と趙であった。項羽が鎮圧に乗り出している隙を狙って、劉邦は東進し関中を占領した。項羽がそれまで戴いていた楚の懐王を暗殺したことで劉邦は項羽討伐の絶好の口実を得た。劉邦は五十六万の大軍をひきいて彭城を攻略しようとしたが三万の項羽の精鋭軍に大敗を喫した。このように決戦当初は天才的な戦闘能力を有する項羽に対して劉邦は敗走を重ねたが最後には逆転した其のわけを分析してみよう。項羽が政治的あまりに粗雑であったため常に大義名分は劉邦側にあった。戦闘能力を過信した項羽は戦略的な働きかけを殆ど労したことがない。従ってもぐら叩きのように鎮圧に走り回る以外に能がなかった。中立諸侯への働きかけは劉邦側が優位に立った。また敵の内部分裂を誘う働きかけも劉邦側の知力が優り、多くの武将・諸侯が項羽側から劉邦側へ鞍替えした(季布、陳嬰、陳平、黥布、韓信、張耳)。経済面では劉邦の後方を担当した丞相蕭何の物資人的補給能力がものをいった。軍事戦術面では速決戦を挑む項羽に対して劉邦は持久戦の方針で、韓信が北から、彭越が東の背後を突き、黥布が南から牽制し、張良が正面を守るという劉邦の全面包囲戦術に項羽は奔走に疲れはてた。このように項羽は自分個人の戦闘能力におぼれ、戦略的見地から多くの人材を使いこなすことが出来ず劉邦に敗れ去った。

しかしながら劉邦(高祖)も天下統一直後から相次ぐ反乱に悩むことになる。かっての諸侯を部下にして天下を取ったが、漢は秦と同じように郡県制の中央集権制(官僚制)をとって功臣を次々に粛清していった。

T項羽と劉邦 

この章は項羽と劉邦が秦を滅ぼすまでの両雄の働きを記述する。司馬遷は紀伝体という方式で個人を中心とした歴史を語ろうとした。必然などは何処にもない。強烈な個人のエネルギーが歴史を作るのだという考えである。項羽と劉邦はともに今の江蘇省に生まれた。項羽は楚の名将の末裔、劉邦は名もない一農民の出身である。BC209年陳勝が蜂起した時、項羽の叔父項梁は会稽群の長官を切って蜂起した。黥布、蒲将軍、陳嬰が項梁の支配下に入り、知恵袋の范増の「楚の王家再興を名目に反秦勢力を糾合すべき」という意見に従い、項梁は懐王を立て、自身は武信候を称した。こうして項梁・項羽の勢力は次第に増大した。一方劉邦も沛県で役人蕭何、曹参に担がれて反秦蜂起に加わった。秦の将軍章邯によって項梁が討たれた後、懐王は楚軍の上将軍に宋義を、項羽を次将に、范増を末将にして趙の救援に向かった。その途中項羽は宋義を殺して自分が上将軍となって黥布蒲将軍を幕下とした。鉅鹿の戦いで章邯を敗退させた項羽は諸侯のなかで絶対的な地位を確保した。抜群の戦闘力を誇る項羽は四十万にふくれあがった大軍をひきいて西進し秦都咸陽を目指したが、張良の協力で別ルートで一瞬の隙で先に劉邦が咸陽を制圧し、項羽の到着を待った。遅れて函谷関を渡った項羽は劉邦殺すべしという范増の警告によって、劉邦を暗殺すべく「鴻門の会」という両雄の会談を開催したが、うまく劉邦に逃げられて范増は甘い項羽をさして「豎子ともに謀るに足りず」と嘆いた。

U楚漢の決戦

秦を滅ぼして名実ともに天下の覇者となった項羽は十八名の諸王侯を新たに任命して、自身は西楚覇王を任じた。一応体制が整ったかにみえたが、この人事には魏王豹、趙王歇、燕王韓広、斉王田の左遷と自分の部下の昇進が中心になっていたたため、BC206年漢王劉邦は韓信の進言を入れて体制が安定を見ぬうちに直ちに反楚行動を開始した。反楚の乱は劉邦だけでなく左遷された斉王田の宰相田栄は三斉を支配下に納めた。そして趙の将軍陳余は斉趙同盟に成功した。BC205年項羽は斉を攻めて壊滅させた。

項羽が斉を平定している間に、劉邦は三秦・魏・殷を征服した。関中を平定して後顧の憂いをなくした劉邦はいよいよ楚の攻略をめざした。BC205年五十六万の大軍をひきいて楚の都彭城に攻め入ったが、三万の精鋭をひきいた項羽に大敗し,劉邦はかろうじて落ち延びた。そこで劉邦は蕭何の働きで黥布を見方に入れることに成功した。またたびたび楚の包囲を受けて窮地に立たされたが、陳平の謀略で范増と項羽の離間に成功した。こうして劉邦側には人材がそろい、楚漢両軍の膠着状態になった。こうした戦局に決定的な影響を与えたのが韓信であった。韓信は蕭何の推薦で大将軍に抜擢された。諸侯は楚と漢の勢いに応じて背服を繰り返した。韓信と張耳は趙を討って張耳を趙王とした。さらに韓信は斉王田広と楚の将軍龍且の軍二十万人をも討伐した。BC203年韓信は斉を悉く平定して、自身は斉王になった。項羽をして「天下の権は韓信にあり」と言わしめた。

劉邦の漢軍はここの戦いで項羽の軍にひとたまりもなくつぶされ逃げ回っていたのであるが、蕭何の働きで背後に関中の豊かな補給源を持ち回復が早かったのと、斉での韓信の大勝がきっかけになって秦軍が激減したことにより、北部戦線は韓信が、東部戦線は彭越が、西からは漢軍張良が包囲して戦略的に優位に立った。BC202年ついに項羽追撃が開始された。項羽は垓下に立てこもったが、敵陣から聞こえてくる歌が楚の節であったので「四面楚歌」、楚の殆どが漢に寝返ったものと思い天の運命をさとった。観念した項羽は愛姫虞姫に対して「力は山を抜き 気は世を蓋う 時利あらず 騅逝かず 如何にすべき 虞や虞や汝を如何せん」と歌って、部下の精鋭八百騎で最後の脱出を図ったが、ついに自殺した。

V悲喜の様相

劉邦(高祖)による天下統一は遂に完成した。しかし新たな支配秩序をめぐって、様々な葛藤や反抗が起き多くの功臣が謀反のかどで粛清され、一族は歴史から抹殺されていった。ざっと粛清の過程をまとめておこう。
1)BC202年      臨江の旧王驩反乱 虞綰と劉買が攻略
2)BC202年10月  燕王蔵荼が反乱 高祖が鎮圧 虞綰を燕王に任じる
3)BC202年秋   利幾反乱 高祖が鎮圧
4)BC201年12月  楚王韓信反逆のうわさ 逮捕したが許して淮陰江におとす
5)BC200年     韓王信匈奴と同盟して反乱 趙利が王を称して反乱 高祖親征
6)BC198年      趙の貫高が高祖暗殺狙うが発覚処刑される 趙王張傲を宣平候におとす
7)BC197年8月   趙の陳き反逆 虞綰出撃、高祖親征  虞綰匈奴に亡命客死
8)BC196年春    淮陰江韓信反逆し処刑される
9)BC196年夏    梁王彭越謀反のかどで蜀に流刑、処刑
10)BC196年7月  淮南王黥布反逆 高祖親征
このように漢の功臣特に将軍の粛清が著しい。功臣第一等の韓信、彭越、黥布が全て粛清された。これを「狡兎死して良狗烹らる」という。武力を持つものは権力を狙うためであろう。劉王室の安泰を図ったのが陳平であった。かれはなんらの理由をつけて陰謀に巻き込んで粛清した。

漢帝国成立後のポストの割り振りは、王と候の二つの身分が定められ、劉姓の高祖の同属で王となったのは九カ国(漢王室、燕、代、斉、趙、梁、淮南、楚、長沙)、異姓で王となったのは燕王虞綰と長沙王のみである。劉邦の幼馴染燕王虞綰は結局図られて匈奴へ亡命し脱落。功臣で候となったものは百人あまりいる。諸候の地は異民族と接する地域であり、国の守りとなった。百年の後にまで候の家を保持できたのは、蕭何、曹参、周勃、灌嬰ら五家にすぎず、後はみな法に触れて滅んだ。

W幕下の群像

項羽攻略の功臣は全て粛清されたが、内政面での名補佐役蕭何、名参謀長 張良、智謀の陳平は王朝成立後は国家の重鎮となった。
1)名補佐役  蕭何
高祖の宰相を務めたのが蕭何である。戦場には出なかったが漢中にいて金庫番と兵隊と物資輸送のロジスチックを担当し、よく負けて帰ってくる劉邦の兵力の充実に努めた。また韓信を高祖に推薦したのも蕭何である。高祖は蕭何を功績第一と評価した。「獲物を追って仕留めるのは犬だが、その犬を指示するのは人である。軍人はいわば犬の手柄で蕭何は人の手柄だ。」韓信や黥布が反乱を起こして粛清されるのを見て、いづれわが身におよばないように蕭何は全財産を戦費に寄付したり、高祖に嫉妬されないようにわざと自分の評判を落としたりしながら、高祖の疑い深い性質から逃れ、生を全うし、BC193年に死去した。
2)名参謀長 張良
留候張良は韓の宰相の門に生まれた。秦の咸陽に侵攻したとき、劉邦が秦の王宮の財宝に目がくらんだ時、諫言をして「忠言は耳に逆らえども行に利あり、毒薬は口に苦けれども病に利あり」と諌めた。咸陽から兵を引いて、項羽の入場を待ったのは張良の策による。負け続きの劉邦軍を攻勢に転換するため、黥布、彭越。韓信を説得して漢軍にいれたのも張良の策による。高祖が崩御して八年目に留候張良も没した。
3)智謀の   陳平
天下統一への貢献という点では陳平は蕭何、張良、韓信には遠く及ばない。しかし漢王室の安定に尽くした点では優るとも劣らない。陳平は楚に対する裏面工作で暗躍し、張良の引退後は陳平の奇計は重要性をました。韓信をだまして逮捕するなど、韓王信の謀反、虞綰の謀反などに陰謀の限りを尽くした。王や候が本当に謀反の心を持ったかどうかはわからないが、陳平のストーリーによって謀反したことにされたのではなかろうか。

 
作品リストへ 随筆・雑感・書評に戻る   ホームに戻る
inserted by FC2 system