司馬遷 「史記」2    乱世の群像

奥平卓・久米旺生訳   徳間文庫(2005年11月15日初版)

春秋時代(BC770−BC403年)には200を超す国家があったが、烈しい変革期を経て戦国時代(BC403-BC221)にはいるとわずか20カ国を残すのみとなった。あの死闘を演じた呉、越も消え去っていた。やがて戦国七雄(秦、楚、斉、燕、韓、魏、趙の七強国)の対立抗争に移る。春秋時代から戦国時代にかけて著しい生産力の向上と社会制度の変革に耐えたものだけが生き残り強大な国家形成にいたる。春秋時代には周王朝の権威は形式的にもまだ存在していたが、戦国時代には覇者による会盟は単に軍事同盟になり、周王室を無視して秦以下の強国の君主もみな王を名乗るようになった。戦国時代の特徴は周の封建制度(氏族制の政治組織)と貴族階層の没落がはじまりいわゆる下克上の時代になった。鉄製農機具と灌漑設備の進歩により飛躍的に農業生産力が高まり、農民の家族単位の土地私有制が現実的になった。また鉄製兵器の進歩と経済力の発展により戦争時の動員兵力は数万人から百万人規模に膨張した。そして経済力を背景にした国家総力戦となった。弱小国家はもう存在すらできない。貴族制の氏族兵団は農民から徴兵した国王の統率による新国軍に取って代わられた。軍隊のみならず、行政政治機構も国王を頂点とする中央集権制度を支える官僚制に移行した。行政単位は官僚が統治する郡県制となり国王の直轄地となった。これらの官僚制の基礎となる法律の整備が急速に進んだ。こういった社会組織の変革に成功した秦が最終的に歴史上最初の中華帝国を建設できたのである。

T体制を変えるもの

1) 文候の中央集権化と富国強兵策ー西門豹、李克、呉起将軍(魏世家、滑稽列伝、孫氏呉起列伝)

封建貴族勢力を倒して君王を頂点とする中央集権化に成功してまず強国の地位を固めたのが秦と魏である。戦国初期の開明君主といわれるのが魏の文候(BC424-BC387)であった。文候は田子方や段干木、西門豹を登用して地方勢力を一掃し、農地灌漑事業を推進した。西門豹の言葉に「民は成楽しむべし、共に初めを慮るべからず」がある。政策は当初理解できなくとも、事業の成果を共有すれば良いとする考えである。つぎに李克は中国における法治主義の先駆となった。土地私有制を保護して富国強兵の実を挙げた。呉起将軍兵法「呉子」の著者として名高く、魏を強国に押し上げたが、武候のとき讒言にあって楚に逃れた。そして魏の立地条件から強国の度重なる侵略を受け魏の政治改革は結局流産した。

2) 孝王の中央集権化と法治主義ー商鞅(秦本紀、商君列伝)

秦の孝王(BC361-BC338)のとき徹底した近代化政策を推し進める基礎を作ったのが、法治主義者の商鞅である。商鞅は伝統路線を墨守する貴族勢力との抗争において、改革を進めるには初めには強い抵抗があるが「疑行は名なく、疑事は功なし」という強い信念で、氏族制を突き崩していった。貴族の特権を奪ってこれを官僚化し、個人を単位とする納税、軍役、順法といった社会システムを作り上げた。10年間宰相を務めて西の蛮国秦を名実ともに強国にしたが、讒言にあって死刑になった。

3) 文候の合従策ー蘇秦(蘇秦列伝)

当時秦は商鞅の変革によって諸侯の雄としてゆるぎない地位を確立した。他の諸国は秦に対抗して軍事同盟を結ぶか(合従)、秦に従属して存立を図るか(連衡)か二者択一を迫られた。策士・論客が暗躍する時代である。蘇秦は燕の文候に説いて趙との同盟を薦めた。秦は千里の外趙は百里の内にあり「百里の患を憂えよ」として趙と連合して秦にあたることを主張した。また蘇秦は韓の宣恵王に「鶏口となるも牛後となるなかれ」と説いて、また魏、斉、楚をも同盟に入れて六カ国同盟を成立させ六国の宰相を兼任することになった。まさに蘇秦の舌先三寸で危うい同盟が出来たわけだが、「臣の不信は王の福」という悪智恵の権化を自称した。

4) 恵王の連衡策ー張儀(張儀列伝)

蘇秦の合従策に対抗して連衡論を掲げて各個撃破を図ったのが張儀である。張儀は蘇秦以上の詭弁家で、合従連衡はいわば権謀術数の代名詞である。斉、趙、燕を説き伏せて六カ国同盟から離脱させ、同盟の崩壊によって秦を盟主とする連衡が成立した。

5) 武霊王の騎馬戦術改革(趙世家)

北方騎馬民族の騎馬戦術を導入しようとしたのが、趙の武霊王(BC325-BC299)である。最初は胡の軍服の着用からつよい旧勢力の抵抗にあったが、ようやく騎馬戦術の採用によって著しく戦闘力を高めたのでしばらく秦も手が出せなかった。しかし跡継ぎ問題で失敗して恵文王により餓死させられた。

6) 昭王の富国強兵策ー郭隗、楽毅将軍(燕召公世家、楽毅列伝)

燕の?王の国権委譲により国力は混乱し、これに乗じた斉に敗れた。郭隗は昭王の諮問を受けて「まず隗より初めよ」として、楽毅、鄒衍、劇辛らの人材を集め、国力の回復を図った。楽毅将軍は趙、韓、楚、魏、燕の五カ国連合軍の総司令官となって斉に侵攻した。しかしこの楽毅も恵王の代になると斉の離間策によって追放され趙へ逃れた。燕昭王への義理を守った楽毅の言葉「君子は交わりを断つとも悪声を出ださず」が有名である。

U食客の時代

戦国の七雄が抗争した時代も末期に入るころ、力のバランスは大きく崩れ西の大国秦の強大化が著しくなった。そのような戦国最後の動乱期華やかな活躍をしたのが舌先三寸で生きる食客である。またその食客を多く抱え込んでいたのが四公子(斉の孟嘗君、趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君)であった。

1)鶏鳴狗盗ー(斉王) 孟嘗君 (孟嘗君列伝)

斉のびん王25年(BC299年)、孟嘗君は王命で秦に使わされた。多くの食客を連れての旅であったが、秦の昭王は孟嘗君を監禁したので孟嘗君は盗人の食客を使って毛皮のコートを盗んで王の愛妾に送って釈放を得た。そして函谷関まで逃亡し、鶏の鳴き声の名人を使って夜明けを告げ騙して関を開かせ逃亡に成功したという「鶏鳴狗盗」のお話。いろいろな食客を養っておけばとんでもない時に役に立つことがあるという例え話だ。

2)刎頚の交わりー(趙恵文王) 廉頗と藺相如 (廉頗藺相如列伝)

趙の恵文王は楚の名玉「和氏の璧」を手に入れたが、秦王より土地と引き換えに璧を要求された。秦王はもともと土地を与える気はなく璧を詐取してトラブルを引き起こすことが目的であった。そこで趙から藺相如は使者に立ち見事秦王の策略を暴いて璧を持ち帰った。また秦王と趙王の会談においても丁々発止と渡り合い趙の面子を保つ駆け引きに成功した。これらの功により藺相如は廉頗将軍より順位が上の大臣に任命された。面白くないのが廉頗将軍であるが、藺相如は謙って廉頗将軍と不仲になることを極力回避するよう勤め、趙の国力分裂を防いだ。この藺相如の意を知った廉頗将軍はいたく藺相如を評価し「刎頚の交わり」を結んで、秦の圧力をはね返した。

3)遠交近攻ー(秦昭王)  范 しょ (范しょ 蔡沢列伝)

秦昭王に採用された范 しょはまず王の中央集権を確立するため、王より威勢の良かった王族宰相穣候、太后、華陽君、高陵君などを国外へ追放する王の政権奪取クーデータに成功した。この功によりBC271に范 しょは宰相に任命された。外交策としては遠国と結んで近隣国を攻撃する所謂「遠交近攻」策を提言し、さしあたり韓・魏と親交を結んで、趙・楚をせめる策を進言した。この策に基づいて白起将軍は趙を完膚なきまでに打ち破った。

4)長平の戦い(秦昭王ー趙恵文王) 白起と趙括 (白起王翦列伝、廉頗藺相如列伝)

BC260年秦と趙の間で争われた「長平の戦い」はけだし戦国時代最大の規模の決戦であった。趙恵文王のとき孟嘗君は韓を攻めて秦の干渉を招いた。まさに范 しょの思う壺にはまった。秦軍の総司令官は白起将軍、趙の指揮官は廉頗将軍から代わった趙括であった。長平の戦いで敗れた趙は40万人の兵を失い、秦は捕獲した兵40万人を生き埋めにした。白起将軍の赴くところ敵を知らず、韓、魏、趙、楚を悉く破った。将軍の名声はいやがうえにも高まり武安君に昇格した。これに不快感を持った宰相范 しょの策略により遂に自殺に追い込まれた名将の末路はあわれなり。

5)趙楚同盟ー趙の平原君と食客(毛遂、李同) (平原君虞卿列伝)

趙の平原君は趙楚同盟を成功させようと食客を連れて楚に乗り込んだ。煮え切らない楚王に対し平原君の食客毛遂は剣を持って迫りみごと同盟にこぎつけた。そして楚は春信君を将軍とする旧援軍を派遣し、魏でも信陵君が王命と偽って救援軍を派遣した。

6)魏の信陵君と食客(候生、朱亥) (魏公子列伝)

魏の信陵君は趙の平原君と義兄弟の関係にあった。秦の昭王が長平の戦いで趙軍40万人を壊滅させた勢いで趙の首都邯鄲を包囲した。趙からは魏王と信陵君に救援要請の使者を送ったが、魏王は10万の軍を進めたものの秦の脅かしにあって進軍をとめた。あせった信陵君は義兄を助けるため食客候生の勧めで魏王の如姫に賄賂を送って王の兵符を盗ませ、朱亥をつかって軍司令官を撲殺して軍を掌握した。秦は魏軍の救援の動きを知って軍を引いた。これによって邯鄲は守られたのである。命に背いた信陵君は当然魏には戻れず趙に10年も留まった。その間信陵君は魏、楚、趙、韓、燕の五カ国連合軍を率いて秦軍を撃破した。しばらくは秦は鳴りを潜めた。

V滅亡を彩る人々

BC246年に即位した秦王政はBC230年にまず韓を滅亡させた。そして以後10年間で次々と他の諸国を滅ぼし、BC221年全国を統一して秦の始皇帝となる。諸国の滅亡の過程を見てゆこう。

 
1)斉王建と名将田単(安平君) (田単列伝、田敬仲完世家)

楽毅将軍が率いる燕軍は瞬く間に斉を蹂躙し、僅かに二城を残すのみとなった。宰相の 歯は斉王びんを殺して守りをかため、田単が流した楽毅将軍を貶めるデマによって燕の将軍が交代した。そして精鋭五千人によって血路をひらいて燕軍を敗走させた。そして襄王を立てて内政に務めたので襄王の在位期間(BC283-BC265年)は斉は安定した。BC259年秦が趙を攻めると趙は斉に救援を要請したが、斉王はこれを無視した。襄王が死んでが斉王になって40数年(BC264-BC221)、斉は韓、魏、趙、燕、楚が秦に侵蝕されるのをよそにして局外中立を決め込んだ。五カ国が滅亡すると秦軍は突如斉都臨 に進入した。

2)趙王遷と名将李牧 (廉頗藺相如列伝)

長平の戦いで秦に大敗した趙は再び廉頗将軍を起用して国力の回復に努めたが、趙の悼襄王はBC244年再び廉頗将軍を解任した。このあと趙軍を率いて孤軍奮闘したのが名将李牧である。李牧は秦軍を宣安に破って武安君に任じられた。趙王遷のとき(BC229年)秦は名将王翦を総司令官として趙を攻撃したが、趙は李牧、司馬尚を将軍として迎え撃った。そこで秦は李牧、司馬尚将軍が秦に内通しているというデマを流して趙王遷を欺き、信じた王遷は李牧を断罪した。そして趙は滅亡した。

3)楚孝烈王と春信君 (春信君列伝)

楚孝烈王(BC262-BC238年)のとき春信君は宰相に任命された。長平の戦いで秦が邯鄲を包囲したとき楚は春信君を将軍とする援軍を送ったので秦は兵を引いた。楚は魯を滅ぼして再び強勢になった。BC248年秦荘襄王は東周を討ってここに周は完全に滅んだ。BC240年韓、魏、趙、衛、楚五カ国は同盟を結んで秦の侵略に対抗した。同盟の長は楚の孝烈王、総指揮官は春信君である。ところが李園の妹に迷った春信君は、妊娠した女を孝烈王の側室として入れ子を太子にしようとした李園の陰謀を見抜けず李園に刺殺された。宮廷の実権を握った李園は幽王を立てたがついに楚は滅亡した。

4)燕太子丹と刺客荊軻

燕王喜の太子丹は強国秦を傾ける起死回生の策として、逃亡した秦の将軍の首と割譲する土地の地図をもって秦王政に刺客荊軻を送った。「風は蕭蕭として易水寒し 壮士ひとたび去ってまた還らず」暗殺は成功せず、燕に対する怒りを爆発させた秦王政は名将王翦と李信の軍に侵攻を命じた。燕王喜と太子丹は殺害され燕は滅亡した。


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