随筆  04.09.18
    

母の老後と共に生きる 
息子として、母の人生を思い静かな余生を願う

 

今回は母のことを書こうと思いますが、別に母が特別な人間や波乱万丈の人生を過ごしたわけではありません。簡単に言えば「誰でもない私の母」だからです。私の記憶のなかに刻み込んでおくためです。

1:母の生まれた所・・・明日香村の思い出・・・

明日香村豊浦

母は大正3年3月30日(寅年)に左の地図に星印で示す場所(奈良県高市郡明日香村字豊浦)に生まれました。京都からは近鉄奈良線に乗り樫原神宮前で降ります。駅の東へ一本の道路がまっすぐ伸びています。バスはありましたが昔は母と30分ぐらい歩いて実家によく行ったものです。道の右側には鬱蒼とした森の中に暗い濠がある孝元天皇陵が見えます。左には天理教の教会がありました。道が飛鳥川にぶつかるT字路の角の農家が私の母の実家である豊田家でした。(今はありません)この地は飛鳥時代の豊浦宮の跡地です。飛鳥に関する歴史と風物地理については飛鳥資料館に行くといいでしょう。 また参考書を次に記します。


飛鳥川は万葉集にも歌われていますのでさぞかし大きな河かなと思いきや細い浅い流れです。小さい頃ここで水浴びをしていると上流からスイカの皮が流れてきていやな思いをしました。夏にはアイスキャンディ屋が自転車に青いボックスを積んで旗をなびかせ鐘を鳴らしながらやってきたものです。実家の裏には飛鳥寺や甘樫の丘(今では飛鳥歴史公園)があり、母に連れられて上ったものです。母は歴史が好きでどこへ行ってもそこに関する万葉集の歌を暗誦できました。母の暗記力はすごいと思いました。飛鳥川を渡って東へ行くと雷が丘の麓に飛鳥浄御原離宮の水落遺跡群がある。母は兄と養子の弟の3人兄弟でした。いまでは兄も弟も従兄弟も亡くなっていますので、この地には親戚がいなくなってしまいました。淋しい限りです。石舞台、壺阪山霊源寺(浄瑠璃お里・沢市で有名なところ)、樫原神宮の秋祭りは母とよく行った場所です。母は飛鳥小学校を出てしばらくして大阪に奉公に出され、娘時代は京都へ働きに出ました。京都で友禅職人だった父と結婚した。


2:母の生活・・・京都市下京区中堂寺・・・

母は結婚後は京都市下京区の現在の住所に住み着いた。昔からの長屋の一軒です。ここで戦前から戦後にかけて2男5女の7人の子供を生んだ。一番上の姉は現平成天皇と同じ日に生まれたが、私の中学生のときに心臓弁膜症で京都大学病院でなくなりました。今は69歳から54歳までの6人兄弟姉妹が健在です。なくなった一番上の姉がよく出来たらしく京都女子高から京都外国語大学に行き母の自慢の娘でした。あとの娘は勉強は苦手らしく、また生活も苦しかったためか中学校で終え働きに出た。父は戦後しばらくは運送会社のトラックに乗っておりました。あっちこっち父のトラックに乗って行ったこと、そして帰りに父と飯屋で食べたご飯のおいしかったことは忘れられない。また父は友禅職人に復帰しましたが、子沢山のうえ給料が少なく居酒屋で酒を飲むためいつも夫婦喧嘩が絶えなかったことも幼少の記憶に焼きついています。したがって母はいつも内職をしていた。記憶では唐辛子袋詰めなどを戦後やっていましたが、父が友禅職についてからはずっと友禅染め和服の仮縫い(留袖がほとんどでした)です。いまも家には使い古した作業台が残っています。このおかげで私は大学を出ることが出来たようだ。小学校や中学校の運動会には奈良の祖母と母が見に来てくれた。この私は結構出来がよく母の自慢の息子だったようです。京都大学理学部(当時医学部についで最高に難しかった)に入学できたときは父と二人で入学式に見に来てくれた。その父も私が大学三年生のときに亡くなり、私は茨城の日立に入社して京都を離れましたが、さぞ母の思いは淋しかったことだろう。ほんとうに親不孝な息子だった。あとには妹と(すでに働いていた)と高校生の弟が残った。母親の愛情が弟へ傾斜したためだろうか弟はどうもマザコンでわがままに育った。それもこれもみんな私が親を捨てたためだ。その弟も家を出て働き、母は70歳くらいから京都で一人暮らしになったが、友禅縫いの内職は2年前まで続いた(88歳まで)。もちろん遺族年金などは入っていたはずだがほとんど使わず貯金に廻り、内職だけで生計が成り立っていた。


3:母の老後・・・加齢と体の状態・・・

3年前に母は87歳になり米寿記念をやろうということになった。これまで母と兄弟で有馬温泉などに旅行へいったことがある。今回は旅行社のバスパック旅行に便乗して能登半島へ出かけた。輪島で一泊したがそのときの写真を上に掲載した。そのとき母の腰は曲がってはいたがまだ自分の足で歩けた。ところが2年前の2月に母が家で倒れ入院したという連絡が入り、急きょ京都へ帰った。私は会社務めのとき年に3〜4回は関西へ出張があり、実家にはかならず寄った。どうも冬の寒さから体が動かなくなったようだ。発見したのは弟だった。壬生回生病院に入院したが見舞いに行ったら結構元気なので安心した。母は冷暖房は一切使用しないのが自慢だったが、その年の寒さにははや耐えられないようだ。これまで何回となく私は茨城での同居を口どいてはいたが、一向に母にはその気はなく家を離れることは念頭に無かった。そこに母のすべての記憶が染み付いている場所から離すことは、おそらく難しい言葉で言えば「存在を否定する」ことにつながった。特別な自分ではなく、唯一の自分の存在とは関連付けの記憶にあるとは誰か哲学者の言葉にあった。そうすれば私のほうから母に接近するしかないようだ。幸い昨年2003年11月に私は定年を迎えたので時間はいくらでもある。ただし女房や子供がいるので茨城にも生活の拠点がある。遠距離介護というか、母親の老後を一緒に過すため出来るだけ京都に行こうと決心した。いざとなれば病院という手もあるが、自分で生きる気のある限り母の好きなようにやってもらうことを心がけたい。母は自立した女性でなので私が母の面倒を見るというのはおこがましい。母とともに人生を送ってこれまでの空白を埋めたい。私は母との会話で母がトンチンカンな記憶違いといっても逆らわないことにした。「それは違うよ」とか、「間違っている」なんてことを言えば母の頭は記憶の齟齬で混乱するに違いない。ますます自分が疎外され憂鬱症か錯乱に陥れることになりかねない。うまく取り繕って話をあわせてやることが母の自尊心と誇りを満足させ、穏やかな中でゆっくり自分を取り戻せばいいのではないか。母と二人で話をしていると母は実によくしゃべる。また一緒にテレビのニュースを見ているとテレビの中の記事を繰り返して読み上げる。これは頭のいい体操ではないか。体については足がすっかり弱ってきたようで5分と連続して歩けず、道端でお休みする。デイケアーから戻るとごろごろ横になっている。横にならずになるべく座っているようにと注意しているのだが、立ち上がると立ち眩みをするというので医者からクスリをもらっているがあまり効果はなさそうだ。

4:母のデイケアー生活

そのためのいい手段がデイケアーシステムである。歩いて3分のところに入院した壬生回生病院がありそこでデイケアーをやっているのでそのサービスを受けることにした。最初は母は公的援助を受けることは恥だと考えていたが、これまで税金を納めてきた者が当然受けていいサービスだと説得して、2004年3月に母と一緒にデイケアーの見学に出かけた。母は興味を示してくれたようだ。だれか知り合いか友達がいたようだ。これは大切なことだ。最初は週1回の契約でスタートしたのだが、風呂にも入れるということでよほど母の気に入ったのだろう、母の意思で次々と回数を増やして2ヵ月後には週3回のハイペースでデイケアーに通うことになった。通所は朝9時にバスが来て介護士さんが母の家の玄関まで来て、母を呼び出し手をとってバスまで連れて行ってくれる。雨が降っても傘はいらない。デイケアーの介護士さんの話では私の母の頭脳と口の回転は仲間では一番だそうだ。もちろん年のせいで近時の記憶は忘れやすく、尿の漏らしが常態化しパンツを毎回持参している。それでも声はよく通るし元気がある。会話では何の異常も痴呆も見られない。忘れやすいだけだが、昔のことは実によく覚えて話してくれる。10月からは週4回にサービスをアップするそうだ。週に2,3回入浴がありこれによって体の清潔と血行がよくなり、皮膚や顔がめっきりきれいになったと評判である。一人だと不規則で栄養不足になりがちな食事を、所での昼食とおやつが改善することになる。そして一番精神的にいいことはレクレーションやリハビリ体操のなかで友達との会話である。デイケアーの様子をこれまで2回見学したが、反応の遅い老人が多い中で私の母は一番活気がある。そして我々兄弟としても一緒に生活しているわけでなく、少なくともデイケアーに通所しているときは介護士の目が行き届いているわけだし安心である。それが1週間に4日であれば、兄弟が顔を出して様子を伺う必要があるのは週に3日くらいである。それについては姉と妹と弟が協力して食事の供給と元気かどうかのチェックをしてくれる。変わったことがあれば茨城の私のほうへ電話を入れることになっている。せっせと兄弟がおかずを差し入れてくれるので母は食べきれないほどである。給食センターと契約すれば食事の確保も出来るが、今は兄弟の協力に頼ることにする。食事を差し入れることだけが重要なことではなく母と話をすることが最重要なことだと思う。今年の冬は私も数ヶ月京都で母と生活を共にするつもりである。母もいまが一番楽が出来て幸せだとも行ってくれた。自立して人の世話になるのがいやな母にはいまの生活スタイルでいこうと考えている。母の介護ではなく母と生活を共にする時間を持ち、記憶にとどめることが母の存在の意義なのだろうと思う。



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