小林秀雄全集第27巻    本居宣長 上

本居宣長(第1章ー第31章)

いよいよ小林秀雄全作品の最終巻に入ってきた。第27,28巻は本居宣長論である。これは小林秀雄が10年間連続してある雑誌に掲載した長大論文である。恐らく彼の代表作であり、集大成であり、最終作品になるだろう。これで小林秀雄の全作品も終わりだと思うと、身の引き締まる思いである。心して読むぞ、手を抜かないで徹底的に評論するぞという気になるのも不思議だ。なお編集工学の松岡正剛氏が千夜千冊というページに書いた小林秀雄「本居宣長」に関する評論を参考までにあげる。かなり長いが興味のある人は読んで下さい。なお各章の題名は分かりやすいように私の独断でつけたもので、小林氏の言ではない。

第1章  遺言書1 墓、葬儀、法事、桜の歌

本居宣長(1730-1801)の出だしでいきなり遺言書から始めたのは奇策だ。これが小林秀雄の個性である。遺言書に墓の設計から葬式の仔細を指示するのは本居宣長の個性である。
彼は松阪の人であり、彼は自分の墓所を山室の妙楽寺と定めたが、本居家の菩提寺である樹敬寺にも墓がある。面白いのは妙西寺の墓所の設計書を残したことである。七尺(2.1m)四方中央の塚に花の見事な桜を植え、前に高さ(台は別)四尺(1.2m)の山型の碑を建て「本居宣長之奥津紀」とし、境には延石を敷くこと(なおこれは後でもいい)。
そして命日の定義(前夜九時から当夜九時まで)をし、遺体の処理仕方(沐浴、髭剃り、経帷子、木の脇差)と棺への収め方(座布団、詰め物、、蓋、釘等々)を定めている。そして当時の風習に従い両墓制を取り、遺体は妙楽寺へ、空荼毘を樹敬寺とした。
葬儀の行列は、妙楽寺へは次男の子西太郎兵衛と門弟の二人で夜ひそかに収めること、菩提寺である樹敬寺へは空送で僧を先頭に長男春庭が続き提灯行列を行う(この行列の図も描かれていた)。位牌は「高岳院石上道啓居士」と自分で定め、後に妻と入る墓(自分は入っていない)を定めた。この本居宣長の遺言に対して松阪奉行所は、夜陰に死体を妙楽寺へ運ぶことに異議を立てたが結局どうなったのかは不明である。
遺言書には妙楽寺への墓参りは年一度の命日でいいとして、命日の霊前の位牌のおくり名は「秋津彦美豆桜根大人」として、花、灯、魚、酒を用意し、宣長の自画像をかけること、門弟たちに歌会を開くよう要請した。この宣長自画自賛の肖像画には有名な「しき嶋の やまとごころを 人とわば 朝日ににおう 山さくらかな」の賛がある。
本居宣長に桜の歌が多いことはよく知られるところだが、吉野百首に続いて、「まくらの山」と題する三百首の桜の歌がある。年をとると朝が早いので枕もとで桜の歌を書き付けて三百首になったというものである。へたくそな歌だが桜が好きだという個性があった。

第2章 遺言書2 辞世の歌

「これは遺言書というよりはむしろ宣長の独り言であり、信念の披露だと」小林氏は考える。宣長自身は日ごろから「亡き後のことを思い図ることはさかしらごと」と言っていた。まあ何か悟るところがあって自説を無視したのだろう。人はそんなもんだ。宣長の辞世の歌二首とは以下である。
「山室に ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め」
「今よりは はかなき身とは なげかじよ 千代のすみかを もとめえつれば」

第3章 本居家の昔話、小児科医開業

本居家は松阪の城下町を築いた蒲生氏郷の家臣であったが、会津で討ち死にし、妻は小津の油屋源右衛門に身を寄せその子供が小津家の養子になり別家を立てた。宣長は1730年享保十五年に生まれ、一時紙屋に養子に出されたが家に帰った。1752年23歳の時京都にのぼって堀景山に弟子入りし医術を武川幸順に学んだ。四年の京留学の後松阪に帰り小児科医を開業した。そこでかっての本居家を名のった。学問の志は捨てないもののやはり生計をたて、家を興すことが先決と考えた。これが宣長のこころざしであった。彼の学者生活を終始支えたものは医業であった。

第4章 宣長の学問の系譜 学びの力

本居の養子大平が書いた「恩頼図」は宣長の学問の系譜を列記したものだが、徳川光圀、堀景山、契沖、賀茂真淵、紫式部、藤原定家、頓阿、孔子、荻生徂徠、太宰春台、伊藤東崖、山崎闇斎、そして父母と書かれている。実に雑多な人名が挙げられているが、影響を受けたというよりは勉強したに過ぎない。京都に留学したしたときの師堀景山は藤原惺窩の門で代々芸州浅野家の儒官であった。堀景山は徂徠を尊敬し国学にも友人があった一級の教養人であった。宣長は景山の儒書会読会で闊達に遊んで教養を深めたようだが景山の影響は特筆するものは無い。つまり小林氏は「宣長については環境から思想を規定することは出来ない。宣長一人の学びの力により独創的な思想を育んでいったようだ」と結論する。

第5章 青年宣長の儒教観

青年宣長が京都遊学時代の友人に宛てた手紙のなかで聖人の道を排する気持ちが大きい。聖人の道は「天下を治め民を安んじる」道のことであるが己の身は天下国家を治める身分ではない。孔子の言は信じるが孔子は道を行うのに失敗した人である。道を行うことの不可能を知った人だ。したがって宣長は「好信楽」という態度から風雅に従うという基本的な学問態度を貫いた。当時の儒学の通念を攻撃したが、自分は自分の身の丈にあった生活態度を維持した。

第6章 契沖の大明眼と歌学

宣長は「あしわけをぶね」に契沖(1640-1701)の大明眼を賞賛して近世の学問の師と崇めた。契沖の画期的業績とは古歌や古書に接するに後世の解釈を介せずその本来の面目を見ることであった。いわば近世における日本の学問のルネッサンスと言える物であった。契沖は「万葉代匠記」が最大の業績である。契沖、宣長ともに歌詠み(歌道)であったが、契沖のほうが歌はうまく宣長の歌はさっぱり面白くないという評判であった。平田篤胤は宣長の歌の面白くないのは彼の業績にとって幸いだったと妙に感心している。宣長はなぜ下手な歌を「石上稿」に八千首も作り続けたかといえば、「自らよむになりては。我が事なる故に、心を用いること格別で、深き意味を知ることになる。」というためであった。やはり宣長にとって契沖に出会ったことが学びの道に邁進する人生を決定つけたようだ。

第7章 契沖「万葉代匠記」

加藤清正家のお取り潰しとともに契沖の家は没落し、契沖の幼年から青年期の生活は実に哀れを誘うほど暗い。一家の兄弟姉妹はあちこちの家に転々と盥まわしにされ、まるで「さそりの子」の様な境遇に育った。高野山で修行後室生山で自殺を図ったが、30歳で和泉に閑居し万葉代匠記の稿を起こした。こんな契沖には同じような境遇で育った年長の下河辺長流という唯一の親友がいた。ここで二人の強い個性が結びついたことが、近世の万葉研究の基礎を作った。長流の学問が契沖に流れ込んで契沖の才がこれを完成した。水戸徳川家より万葉注釈事業を依頼され、契沖の万葉歌学は完成した。

第8章 私学の祖 近江聖人中江藤樹

契沖から宣長の学問の概要を述べてから、小林氏の著述は時代を遡る事になる。即ち日本近世(江戸時代)の学問の系譜を詳らかにしたいためであろうか。まづは日本の学問のルネッサンスといわれる古典重視の学問を築いた中江藤樹(1608-1648)の儒学の系譜について小林氏の弁を聴く。
中江藤樹は近江の貧農の生まれで大成して近江聖人と呼ばれた。愛媛の大州の武家に養子に入り勇猛であったが、学問の志と国の老母を養うため脱藩し近江に帰った。大阪夏の陣で「国家安康」の言いがかりを見つけた林羅山が幕府の官学の祖となったのに対して、中江藤樹は儒家の理想主義と学問の純粋性を求めて私学の祖となった。そもそも私学というものが勃興したこと自体、個人の実力時代の幕開けでも在った。

第9章 儒学新学問の潮流 中江藤樹と伊藤仁斎

中江藤樹の学問の目的は「人間第一義の意味を考えること」にあった。藤樹の良知説といわれるものは結局学問は一人で考え練るしかないことを言っている。私学が出来たのも、学問を独占した公家の博士家が戦国の時代に崩壊し、民の力が充実したからである。藤樹の最大の革命性は遅ればせのルネッサンスにように「古典に帰れ」を提唱したことにある。(そのため心の目をひらく「心法」という怪しげな訓練を課した)
古典の復活は儒学では熊沢蕃山、伊藤仁斎、荻生徂徠へ受け継がれ、日本学では契沖(万葉)、賀茂真淵(万葉)、本居宣長(源氏、古事記)などが輩出した。まさに近世のルネッサンスといわれる所以である。
伊藤仁斎は「論語」、「孟子」を先人の注解なしに読むことで語孟の信を回復した人であり、今日的に言えば近代文献学の先駆者とされる。仁斎は「「学んで知る、思うて知るは学問の基本だが、書が持つ含蓄して露さざるを読みぬく力、すなわち眼光紙背に徹するを工夫した人であった」と小林氏の評価である。このあたりについては私は全くの門外漢なのでコメントできない。

第10章 荻生徂徠の学問(歴史)

伊藤仁斎の学問を継承した一番弟子は荻生徂徠というこれまた独学者であった。仁斎の「古義学が徂徠の「古文辞学」に発展した。彼らの学問は「道」である。したがって「人生いかに生きるべきかという問題は、帰する所歴史を知るということあると信じるに至った」と徂徠は「答問書」に述べている。「歴史を知るとは、言葉を載せて遷る世を知るにしかず。言は遷るが、道は古今(歴史)を貫く。即ち変わらぬものを目指す「経学」と、変わる「史学」の交点が「古文辞学」だという訳だ。しかし歴史は定義され対象化されることを拒絶している。徂徠は自己の内的経験が純化されたものが歴史だという確信をもった。私にはなかなかこの独特の悟りが分らない。歴史は内面化されてこそ一躍生気あるものになる。利口な輩が見たとする形骸化した歴史は死んでいる。ということであろうか。

第11章 宣長の学問と徂徠

第4章から第10章まで長々と宣長の学問にいたる背景や潮流を述べてきた。これで概ね近世の私学の学者の目指すところと伝統は見えてきたはずである。23歳で京都に遊学に上った宣長の学問への興味は殆ど万学に渉っていた。「好信楽」に従い雑学に励んでいたに違いない。堀景山という一流の知識人に師事したおかげで、儒学・和学を勉強し、徂徠の見解の殆どすべてを学んだようだ。

第12章 本居宣長 賀茂真淵に入門

本居宣長が賀茂真淵の門人になったのは、1764年宣長35歳、真淵68歳で時であった。このときまでに宣長の「もののあわれ」論は出来上がっていた。1757年に著された宣長京都在住時代のメモ「あしわけ小舟」や1763年に著された「石上私淑言」、「紫文要領」にもののあわれ論が展開された。そして次の章からそれをつぶさに見てゆこう。

第13章 もののあわれ論 

もののあわれという言葉は勿論宣長の専売特許ではなく、古くは紀貫之「土佐日記」に「楫とり もののあわれも知らで」と使われ、古今集序に「やまと歌は ひとつ心をたねとして」の心を宣長はもののあわれを知る心と読んだ。もののあわれという言葉は、貫之によって発言されて以来、歌文に親しむ人によって、長い間使われてきて当時ではごく普通の言葉だったのである。
藤原俊成も「恋せずば 人は心も なからまじ 物のあわれも これよりぞしる」とある。宣長29歳に著した「阿波礼弁」に、人からもののあわれの義を質問され「大方歌道はあわれの一言より他には、余義なし」と答えた。これが幽玄や有心といよいよ細分化してゆき衰弱する。
宣長は「玉のおぐし」で「世の中の、もののあわれのかぎりは、この物語(源氏物語)に、残るなし」、「紫文要領」では「この物語の他に歌道なく、歌道の他にこの物語なし」と述べている。

第14章 源氏「蛍の巻」 物語論とあわれ認識論

「源氏蛍の巻」で、源氏が絵物語を読む玉鬘を訪れ物語について話し合う。ここは下心として、作者紫式部がこの源氏物語の大綱を述べるものと宣長は解した。物語は空言ながら物のあわれを写すのが作者の腕ということが言いたいのであろう。その時の習いを知るには源氏は最高の物語だと宣長は考えた。
「石上私淑言」で宣長は、「見る物、きく事、なすわざにふれて、情の深く感じることを阿波礼と言うなり」と分析した。小林はこの心の動きを解析して、「思うに任せる時は心は外に向かい内を省みることは無いが、心にかなわぬ筋の時は心は内の心を見ようと促される。これを意識という。宣長のあわれ論は感情論であるというよりは認識論とでも呼べるような色合いを帯びている。」
「紫文要領」では、「よろずの事の心を、わが心にわきまえしる、これ事の心を知るなり。わきまえしりて、其のしなにしたがいて、感ずる所が、物のあわれなり。」そして宣長はあわれをさらに解析して、あわれとあだなる事、情と欲を混合してはならないが互いに遷ることがあることなどを述べている。ただこのあたりの小林氏の解説はやたら難しくかえって分からなくしているのは私のひがみか。 源氏物語「帚木」の「雨夜の品定」において、理想の女性論として「実なる」と「あだなる」との道徳的比較が行われるが、あわれを知ることをよきほどのに保つ難しさ、つまり紫式部はあわれは理想であるが押し通すものでないことを自覚していた。

第15章 源氏「浮舟」、「夢浮橋」 式部の表現のめでたさ 

源氏「雨夜の品定」で夫の世話をする女の備えるべき資質に「物のあわれ」を入れようとした宣長は明らかに間違っていた。そして宣長はこの「うしろみに方の物のあわれ」を取り下げるのだが、しかし日常生活に物のあわれの意味を検証しようとする宣長の姿勢は源氏物語に一貫している。宣長の感情論(こころ、情)は物語のうちからあわれの言葉を拾い集めることから始まったのだが、空言(物語)によろずの物に感じる人のこころ(情)のありようを味わうことが出来るのが物語のめでたさつまり作者の才であると宣長は悟り、「この物語の外に歌道なし」と言わしめたようだ。
「浮舟」、「夢浮橋」という物語で、匂宮というあだなる人(行動人貴族)と、薫という実なる人(内省的貴族)を対して、無性格な浮舟というあわれな女を置いて人のこころを描いた式部の腕をみてみよ。

第16章 源氏物語の批評 式部の創作動機

源氏物語に触れた文や批評は、江戸時代1673年北村季吟「湖月抄」まで殆どない。「更級日記」に源氏を読む少女の楽しみ、「無名草子」、俊成、定家に僅かな言及があるのみである。宣長は旧来行われてきたいわゆる準拠説(源氏の記載事項を史実に当てはめる説)はさほど重要と思えないと軽くいなしている。すなわち式部の物語りの世界は式部の現に生きた生活世界を超えたものだという考えを宣長は確信した。式部の動機はただ語らうことに集中される。宮中であった出来事をそのまま移すことが目的で無く、式部のこころの感じることを(あわれと宣長はいう)言いたかったまでのことだ。 

第17章 源氏物語 今昔の批判

本居宣長は源氏物語「帚木」の冒頭文に、これから始まる光源氏の恋物語の序を聞いた。陰翳と含蓄とでうごめくような文体に宣長は式部の物語の始まりに心をときめかしたようだ。ところが今昔の批評家の源氏に対する風当たりは強い。とくに江戸時代の国文学者は儒教の道徳から脱することあたわず、公式には否定せざるを得なかったようだ。
契沖は「源氏拾遺」において、反道徳書としてあらゆる道に違うとして批判した。ただ定家の言うように「可玩詞花言葉」としての用は認めたが。
賀茂真淵は「源氏物語新釈」において、上代より文は劣り続け源氏物語は其の劣の極まりと批判した。「万葉のますらお」は「源氏の手弱女ぶり」を許せなかった。
上田秋成(1834-1804)は「ぬば玉の巻」において、学者の立場から契沖と同じく其の反道徳性を非難したが、読み本作家としては式部の文才をいたく激賞している。源氏から学んだ文は自作「雨月物語」に生かしたようだ。
森鴎外、夏目漱石は完全に無視してコメントをしていない。さすが明治の高踏派である。
谷崎潤一郎氏は「雪後庵夜話」で、自分が源氏の現代語訳を試みたのは、光源氏のねじけた性格は好きになれないが、紫式部の作家の偉大性に感心したためだとする。やはり作家としては秋声と同じ立場から其の文体に注目したようだ。
正宗白鳥は鴎外と違ってはっきり源氏悪文論者であるが、源氏とくに宇治十帖は欧州近代の小説に酷似すると其の小説の特異さを強調している。
なを私は源氏を原文で読むことは高校生いらい拒否している。トンチンカンプンで息が続かない。そういう意味では源氏悪文論者かもしれない。私が読んだ源氏の訳本は谷崎潤一郎、与謝野晶子、瀬戸内寂聴、田辺聖子らである。

第18章 物語論

坪内逍遥はその「小説神髄」において、「小説の作意が娯楽、歓懲であるという誤りから醒め、専ら人情世態の描写にあることを早く認識すべきである。その点で源氏玉のおぐしにある物語論はまことに卓見である」と述べた。
宣長は源氏に対する自分の経験の質を感性から入って源氏の「詩花言葉をもてあそぶ」感性を得て出てきたといえる。したがって彼はこういわざるを得なかった。「そもそもいましめの心を持てみる時は、この物語の魔也という。いましめの方にて視る時は物のあわれを醒ます故也。」
世の批評家は物語を実と勘違いして批評するようだ。物語はあくまで現実生活の事実とは縁を切った、創り出された「夢物語」である。その創りは式部という才によって歌の道に従った用法により作り出された調べに迫真性があるからだ。当然の事だが儒の心(からごころ)で読んで批判するのはお門違いであろう。

第19章 賀茂真淵 冠辞考

1764年宣長35歳のときに、たまたま松阪に来た賀茂真淵に面会し入門を果たした。そのとき宣長は真淵から「神の御典をとかむとおもえば、まず古言をえるべし、古言を知るには万葉にしかず、ひくきところよりかためてたかきところにのぼるがすじなり」(「玉かつま」二の巻)という助言を得たようだ。これが古文辞学の原則であった。
真淵の「万葉体翫」(体で覚える万葉学習法)とは「返り仮名のついた点本で意を求めずに5回読む、1回意を大まかに吟味する、無点本で読む(点本をみてもよろしい)、このような訓練を他の古書にも応用してまた万葉の無点本にもどる、そうすればいろいろな考えが出てくる」(万葉解通釈)ということであった。学者にしてそのような訓練をしているとは思わなかった。
宣長はその回想において真淵の冠辞考にいたく感心したようだ、「冠辞とは、ただ歌の調べのたらぬを整えるよりおきて詞をかざるものである。真淵の基本的な考えは、おもうことひたぶるなるときは言たらず、したがって言霊の佐くるをもって詞の上に飾る詞が冠辞または枕詞という」万葉に限らず日本の歌には意味の定かでない五文字の形容詞がある(黒にかかる「ぬばたまの」、母にかかる「たらちねの」、大和にかかる「あおによし」などなど)。最近の巷の説ではこれは古代朝鮮語と解する説があり説得性を持っている。

第20章  真淵の万葉考と師弟問答

小林は「彼の万葉研究は、今日の私たちの所謂文学批評の意味合いで最初の万葉批評であった。後世の批評もこれに付加できるものはないだろう。彼の前に万葉なく、彼の後に万葉なし」と絶賛した。
真淵は万葉六巻(1,2,11,12,13,14巻)を橘諸兄選としこれを万葉集原型と考え,他14巻は家々の歌集と見た。真淵の万葉考は批評というよりは賛歌の形をとったのは真淵の感情が激しかったためといえる。万葉の「ますらおの手振り」の剛毅、古雅の頂点が柿本人麻呂となる。真淵は寄る死の足音を聞きながら、最後まで万葉の「実」、「道」を求め続けたが「高き直きこころ」以外に適切な言葉は発見できなかった。
真淵の激しい感情に、宣長は時折これを無視したかのように,下手な歌を歌っては添削を乞うたり、契沖説にしたがって万葉集を全巻大伴家持私選説を持ち出したりして、真淵の怒りを誘発し破門同然となった。

第21章 本居宣長の歌論

真淵の破門状に接して、ほうほうの態で侘びを入れ無事仲直りをしたものの、宣長の歌論はそれからも継続される。真淵の万葉至上主義で後の時代の歌は堕落の一途という図式ではなく、宣長は確かにその崩れは承知しながらも新古今和歌集に(定家選)そのよさを認める見解である。これは師と議論するとまたけんかになるので、黙って歌論を研究したようだ。
頓阿の歌集「草菴集」の注解書「草菴集玉箒」が彼の最初の注解書になった。その外に「古今集遠鏡」(古今集の意訳、現代語訳)、「美濃家づと」(新古今)があって、なかでも「古今集遠鏡」の意訳はとても面白い大衆向けの歌紹介になった。宣長の歌史論はメモ「あしわけ小舟」に詳しいが、「歌が時代の人情風俗につれ変易するのでこれを味わうことが普遍を求めることより大切で、なかで歌うを旨く歌おうとする意識が最高潮になったのが新古今である。したがってまずい歌もあるが優れた歌も多いというのが宣長の見解である。しかしながら既に俊成よりその衰えの兆しは顕著になり、歌道と家筋(父子相伝)という考えになっては完全に停滞し堕落した。」と小林は纏めた。

第22章 宣長の歌論 歌の実と実の心

師真淵がなくなって、宣長の歌論はいよいよ「うい山ぶみ」より本格的に展開される。へたないにしえ礼拝者は復古復古といいながら、歌の伝統の姿をしらないがために、そのいにしえが定まらないと批判した。「私たちは今の世に生きている。今日では俳諧こそ情態言語であり便利極まりない。どうしてこのことが分からないのか」と宣長の批判は厳しく師に迫るものがある。
私は、小林氏の議論の展開を逆にして、分かりやすいようにこの章を説明する。歌に限らず、人が考えるということは言葉の適切な誘導が無ければなしえない。人間(サルではない)の思考活動は最初に言葉ありきである。ましてや歌というものは漢詩に見ればよく分かるように、歌の言葉が先行し誇張し、調子を整えるもので、実の心はたわいないことであるかもしれないが、その詩が評価されるのは詩の言葉とリズムである。詠歌の最高の形は自足した言語表現の世界を作り出すことにある。実の心と歌の実は質の異なる秩序に属し直に結合してはいない。したがって「和歌は言辞の道也。心に思う事を程よくいう事」である。和歌を学ばんとする人には藤原定家の「専ら三代集(古今、後選、拾遺)を用いて手本とすべし」という考えは中古いらいの伝統である。和歌とは中古以来の長い伝統の上を今日まで生き続けた言葉の操作術である。
どうであろうか、この逆展開のほうが演繹法的で見通しがよく分かりやすいのではないか。

第23章 詩歌の歌謡論

あわれ・「ああーはれ」という感動はこの声を長く・「ながむる」ことによって歌になる。長息するという意味の「ながむる」が、つくづく見るという意味の「ながむる」に成長する、それがそのまま歌人の実の意識となって歌になる。喪において哭するの礼と同じくその実を導くの仕方である。「歌道の極意は物のあわれを知るところになる。物のあわれに耐えぬところより、ほころび出ておのずから文ある辞が歌の根本」と宣長は言う。これは今でも宮中で行われている歌会始の歌の謡い方に引き継がれ、長ーく言葉を伸ばして意味がつかめぬくらいに歌っている。また祝詞などの言葉もしかりである。歌の原始的形を言っているが、はたしてそんな歌謡論で意味のある歌が説明できるのだろうか。
宣長の「古今集遠鏡」(古今集の意訳、現代語訳)について、小林氏は宣長は随分さばけた柔軟で鋭敏な心を持っていたと指摘する。しかし宣長の歌の現代語訳はいただけない。まるで中・高学校の参考書のような現代語訳が果たして大衆の歌心を刺激するだろうか。歌の言葉はその時代の響きを持った味わい深いものでありたい。歌全体を砕いて平易な言葉に置き換えてとしても歌のリズムや美的趣は失われる。言葉の意味が判らなければ脚注で知ればいい。やはり歌は声を出して歌うべきだ。とすれば宣長の主張は前と後ろで矛盾している。

第24章 てにをは論

この章は短いにもかかわらず、前半と後半に何の関係も無い。前半は「てにをは」論、後半は源氏物語歌論になっている。「詞の玉緒」は宣長50歳の作だが、詩歌の作例を引用して「てにをは」のととのえが発見され、「いともあやしき言霊のさだまり」がいわれている。「てにをは」は助詞ではなく文意、文脈を貫くなくてはならないものという今日の文法についての論である。「てにをは」の働きは日本語になくてはならぬもの、これこそ日本語の特徴であるという論議は文法学者で長く論じられてきた。たとえば大野晋、丸谷才一は「日本語で一番大事なもの」という本を出している。(中公文庫)
つぎに源氏歌論であるが、「宣長は源氏とは歌ではない、日常言語の表現が人生という主題を述べたものである」という。しかし第13章に、「紫文要領」では「この物語の他に歌道なく、歌道の他にこの物語なし」ともいっている。どっちが本当なのか小林氏に聞きたい。やはり自分で「紫文要領」を読まなければいけないのだろう。

第25章 漢才と和学の論争 やまと魂

賀茂真淵は「やまと魂」という言葉を万葉歌人らによって詠まれた「ますらおの、ををしく強き、高き直きこころ」という意味に解した、しかし「やまと魂」とか「やまと心」という言葉は上代に使われた形跡は無い。源氏物語に出てくるのが所見である。宣長はこの言葉の用例を文献に追って、やまと魂を漢才、漢学の知識に対する、これを働かす心ばえと理解し、「そもそもこの国に、上代より備わった人の道、皇国の道」という意味に押し上げた。師より随分拡大した解釈である。これより後に宣長は「直毘霊」という書にはじめて「古道」を取り上げた。ここから宣長の「皇大御国」信仰が始まる。これについては激しい儒学者との論争があるが省略する。
儒学は現権力者のお抱え論者とすれば、「やまと魂」は今は無き皇国のまぼろしか。そういう意味では復古主義は反権力闘争に利用され、最終的には右翼天皇主義に堕落する反動理論であるといえる。これは私の説です。

第26章 宣長「直毘霊」から篤胤神道へ

真淵の学問の方法は「文事」すなわち、古意、古語を得るための方法論であった。しかるに宣長が古道という国粋主義を唱えてからは、平田篤胤の神道とか霊の世界へ堕落するのに時間は要しなかった。篤胤には学問は無く宣長の言葉だけを金条にして神秘的なあやしげな神道をでっち上げた。彼は宗教家である。
以下は私の独り言です。・・・・・・・・やまと魂の古意は「勇武を旨とする心」である。真淵もいう「ただ武威を示して、民の安まる皇威盛んな時代」の言葉である。「やまと魂」を言うのは明らかに支配者の武力支配の論理である。とすれば漢心は仏教・儒教で国を治める文治政策ではないか。なのに専制武力支配を求めるとはなんと言う時代錯誤であることか。上代の支配者の論議は私達素人には分からないが、大陸・朝鮮半島の王族の興亡から日本への民族移動の歴史と理解しても当たらずといえども遠からずと思う。すれば上代の日本人の心ををなぜ神聖視するのかさっぱり不明だ。よく言えば西部開拓パイオニアの精神ともいえる。

第27章 平安時代 和歌の復興と源氏物語成立の意味

奈良・平安時代の漢文・漢詩政策によって和歌は傍流に追いやられた。しかしその言語伝統はしっかり生活に根ざした流れに生きていた。和歌は歌合せの流行という好機を捉えてようやく復興の道を開いた。漢才が和歌を傍流に追いやった時、和歌はしっかり反省と批評精神を養っていたわけである。古今和歌集の勅撰が始まったとき紀貫之はその仮名序において「やまと歌は人の心を種としてよろずの言の葉となれりける」といったが、「あわれを知る」という内省の意識を身に付けていたのである。
さらに貫之は「土佐日記」において「男もすなるという日記を女もしてみむ」とい画期的な仮名による散文の試みをした。日本語によるの仮名文学の誕生である。とうぜん源氏物語がその流れの上に仮名文学を完成した。ここに日本最古の小説が生まれ,世界に誇りうる文学の誕生となった。

第28章 古事記序 稗田阿礼の誦習について宣長の意見

さていよいよ古事記伝に入る。古事記序について論争に入るので序を引用しておく。
「是に天皇詔りたまわく、朕聞く、諸家のもたる所の、帝紀及び本辞、既に正実に違い、多くは虚偽を加ふと。今の時に当たりて、その失を改めずば、未だ幾ばくの年をも経ずして、其の旨滅びなむとす。これ即ち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故れ惟れ帝紀を撰録し、旧辞を討かくして、偽りを削り、実を定めて、後葉に流へむとすとのたまう。時に舎人あり。姓は稗田、名は阿礼、年是れ二十八、人となり聡明にして、目に度たれば口に誦み、耳に払れれば心に勒す。即ち阿礼に勅語して、帝皇の日嗣及び先代の旧辞を誦み習はしむ。」
この稗田阿礼が誦習したところを安万侶が撰録して和銅四年九月十八日に献上したのが古事記である。安万侶は全文を仮名書きにすべきしたかったのだが、まだひらがなはなかった。そこで、音と訓を交えたり、全く訓でもって表記しよう努めた。彼は表記法の基礎となるのは漢字の和訓であることを実行した。古事記内の和歌は、其の表記は一字一音の仮名である。この日本語表記法の発明はひとりの人間により一日でなったとは思えないから、安万侶だけの成果にするのは、明らかに間違っている。
宣長は稗田阿礼が誦習したを大変大切なことと考えた。「ただに義理をのみ旨とせむには、まず人の口に誦習はし賜うは、無用ごとならずや」 すなわち古事記の修史の目的が内容ではなく古辞の表現に在ると宣長は断定したのである。それ以降にも柳田国男氏の稗田阿礼を語り部猿女君の流れに見る意見や、折口信夫氏の口承文藝の伝統を祝詞や宣命に原点を求める意見があり、二人は宣長派直系ともいえる。
難しい問題であるが、時の権力者である天皇が昔の言葉の意味を保存するためという文学趣味で、勅命で古事記を編纂するとも思えない。やはり宣長の言う「内容より言葉だ」という見解は頂けない。ただ日本書紀が漢文で書かれたことと古事記が日本語(音訓読みの漢字)で表記されたことは、編纂目的を異にするはずである。律令制の国体が整備された後で中国を強く意識して、国史を書き直したのが日本書紀だという現代の意見もうなずける。     

第29章 古事記序 稗田阿礼の誦習について津田左右吉の意見

津田左右吉氏の「神代史の新しい研究」の「記紀研究」(大正2年)では、徹底した科学的批判が行られ津田史学はその後の歴史研究に多大の影響を与えた。津田氏は「宣長の古事記研究の成果は無視できないし、是については感嘆のほかはない」ともいっているが、ここで問題にするのは古事記序の稗田阿礼の誦習についてである。津田氏は日本書紀から引用し「帝紀及び上古諸事」とあるのを引いて、「辞」を「事」とする考えを動かさない。つまり古事記は言葉ではなく事跡を記録したものである。誦習とは暗誦ではなく、「誦む」は「訓む」つまり解読という意味である。宣長と同じ問いかけ「便利な漢字があるのになぜ、記録するためになぜ口うつしの伝誦が必要なのか」から出発して、宣長とは違う見解に達した。

第30章 古事記撰録の目的、 「訓法の事」

古事記撰録の理由については「是に天皇詔りたまわく、朕聞く、諸家のもたる所の、帝紀及び本辞、既に正実に違い、多くは虚偽を加ふと。今の時に当たりて、その失を改めずば、未だ幾ばくの年をも経ずして、其の旨滅びなむとす。これ即ち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故れ惟れ帝紀を撰録し、旧辞を討かくして、偽りを削り、実を定めて、後葉に流へむとすとのたまう。」と述べられていることは第28章にも述べた。
是を宣長は「そのかみ世のならひとて、万の事を漢文に書き伝ふとては、その度ごとに、漢文章に牽かれて、もとの語は漸に違いもてゆく故に、かくては後遂に、古語はひたぶるに滅はてなむ裳のぞと、かしこく所思看し哀しみたまえるなり」という風に、言葉が漢字に毒されて失なわれてゆ事を天皇が哀しんで撰録を命じられたといっている。何処にそんなことが書いてあるのか。宣長は紙面にないことを言っている。また序の書き方も典型的な官僚用語で誤りを正すという書き方である。是もうそ臭い。官僚はいつももっともらしい能書きで下心丸見えの文章を書く。
小林氏は「支配者大和朝廷が,己の日本統治を正当化使用がための構想に従って、書かれた物で、上代のわが民族の歴史ではないと言っても、何を言ったことにもならない。編纂が政策によったものにしても、歴史事実を無視しては進めない」という風に極めて物分りのよさそうな出だしで訳の分からないことをいっている。現代の意見も尤もだけれど宣長に間違いはないという立場を固守する。これは津田左右吉氏の論に対しても全面的肯定を示しながら、むにゃむにゃの訳の分からない言葉で宣長賛美の立場を崩さない。一度信じ込もうとしたら、形勢悪しといえど操は守る律儀さには感心した。
宣長の訓法のいさぎよさは、有名である。例として倭建命の嘆きのセリフを見事な決断で読み下されるのである。ちょっと強引ではないですかと言いたいとこだが、その訓み下し文は分かりやすい。名人の技といえよう。是には感心した。

第31章 古事記神代之巻

古事記神代之巻の荒唐無稽な内容は近世の多くの史家を悩ました。儒学者特に朱子学者は合理主義者であり、古事記の非合理的解釈を拒否して、水戸光圀編纂「大日本史」や、林鵞峯編纂「本朝通鑑」にしても神代は敬遠して神武から始めている。ところがなぜか江戸幕府の儒者新井白石は将軍家宣の要請で「古史通」を著し、そこで神代の合理的解釈の一例を示したが、納得できるものではない。
津田左右吉氏は記紀研究において「新井白石は、元来不合理な話を合理的に解釈しようとして牽強付会に陥っている。宣長は一字一句文字通り真実とみなしているが、人間として不可能でも神としては可能と言う説は人間に関しては一種の合理主義かも。しかしいまどき宣長を継承する人はいないが、追従するものはいる。」と言う立場である。


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