小林秀雄全集第24巻    考えるヒント 下

考えるヒントシリーズ(学問、徂徠、弁名、考えるという事、ヒューマニズム、福沢諭吉、還暦、天という言葉、哲学、天命を知るとは、歴史)

第24巻「考えるヒント 下」のほとんどが、還暦を前にした小林氏がこの年あたりから(1961-1963)勉強し始めた儒教とくに江戸時代の朱子学に関する小論である。還暦を前にすると儒教という古い日本の学問に興味を持つのであろうか。年をとることもそう悪いことではない。私自身論語は読んだものの、朱子学は勉強したことがないので気が重い。戦後儒教を勉強している人がいるのだろうか。そこを何とか付き合ってください。まずはじっくり小林氏の勉強振りをみてゆこう。

学問

この小文は伊藤仁斎(1608-1701)という江戸初期の儒学者独自の学問の方法に関する論である。戦国時代が終わって徳川家康が文治主義の象徴として、儒学なかんずく林羅山の朱子学を国家統治の基として官学に定めた、無用となった大多数の武士の戦争能力を官僚機構として利用すべく、武士の知識人化(文人化)教育に儒学を利用した。
孔子・孟子の儒学は紀元前五、六世紀に成立した治世国家の説であり、ご存知のように論語は孔子自身の著でなく言行録のために、孔子の言葉に対して無数の解釈が生まれるは当然であった(親鸞の著した教行信証に対してさえ門徒の間に疑義が生じ、嘆異抄が書かれる始末だ)。学者の数だけ孔子がいると言うわけである。
朱熹らの宋学が五山文学として室町時代に禅宗と共に輸入され、儒釈不二(儒教も仏教も究極は同じだ)という考えが一般化した。つまり朱子学は日本では最初から禅宗化した概念であったと小林氏は指摘する。従って学問の方法も禅宗の悟りの影響を色濃く受けざるを得なかった。その系譜を山鹿素行(1622-1688)古学、中江藤樹(1608-1648)の心法、熊沢蕃山(1619-1691)、伊藤仁斎(1627-1701)、荻生徂徠(1660-1728)の古文辞学へと展開される江戸時代に儒学にたどる。

江戸時代の学問とは限られた古典を読むことに終始した。現代の実証主義学問とは異なり、ただひたすら読んで眼光紙背に徹することで読みの深さを競ったものであった。発展性とかいうこととは無縁の世界であった。従って学問の方法とは中江藤樹・熊沢蕃山の心法・心学といういわゆる悟達者の心理(内観)にあって学問の真理にはなかった。これに対して伊藤仁斎の心法とは、訓古注釈を否定して「自己の心裏に固有な」心法であった。すなわち読書法では文脈を重視し、「心目の間に瞭然たらしむ」まで読むことであった。孔子と交わることを楽しみ、仁斎は論語を50年間読み続けた。

徂徠

荻生徂徠は仁斎の文献学的手法の後継者だとよく言われる。徂徠の学問観を見てみよう。「見聞広く事実に行きわたるのを学問と言うから、学問は歴史に極まる。」宣長が「漢心によって国文を読んではいけない」とい言ったように、徂徠も「今言をもって古言を視るな」とくどくど教えた。要するに今の学者が書いた注釈を介して経書を読んではいけない、本文を年月久しく詠めておれば意即ち通じるということである。
また徂徠は「書を読んで理を求める、歴史に理を求める」のは学問の邪道であるという反理知主義を主唱した。変化極まりないのが歴史であり、理は定めなく人の数だけ理屈は存在するものだ。反理知主義を言う学問とは一体なんだろうかというと、「生きることが根底で、知るより行うが先である。」という経験主義、即物主義のことであった。徂徠の「格物到知」とは「物に親しむことが長ければ、事の情、心に移り、感発するという経験の問題」であった。さて皆さんはこれをどう考えられるか。たしかに理屈を抜いて物に親しむことは、偏見を排して正確に対象を知ることにつながる。それは正しいとしても、それだけで良かった時代ははるかかなたにある。現在の科学は、現在の事実と理論を総覧して問題点を解決する仮説を立て実験・計算して検証することにある。そして万人が確認できなければ、それは実証不可能と言われ捨てられる。まあそういう時代の学問もあったのかと言う程度に理解しておけばいい。

弁名

荻生徂徠の「弁名」(儒教の経典に出る道、徳などの言葉の意義を究明した書)は言葉の問題を突き詰めて考える書である。徂徠の古文辞学というのも古典の書だけが対象の学問であるので、あやふやな言葉の問題を避けては通れない学問である。まず言語の学でなければならないというのが徂徠の確信であった。彼から視ると宋儒の学は雄弁に過ぎず、曖昧な言葉で理を極めることは覚束ない、理とは言葉ではないかという堂々巡りの矛盾から抜け出るために、徂徠は「統名」と言う人間経験全体を発見した。道という「統名」の発見により始めて人間の経験に脈絡が就き、人間の行動派一定の意味を帯びてくる。
私が考えるに、なんだ徂徠が言う「統名」とは言語の抽象機能ではないか。これも言語に過ぎないとしたら曖昧さは永久に解消できていない。小林氏はとんでもないところで徂徠を投げ出す。こんなことで矛盾を解決したと錯覚する江戸時代には批評家は居なかったのだろうか。批判する門弟なんて存在自体が不可能な時代だからしかたないか。

考えるという事

本居宣長の「かんがふ」と言う言葉は「かむかふ」、「むかえる」ということで、考えるとは「かれとこれを合い校えて思い巡らす」という意だ小林氏は類推した。すなわち物と親身に交わることで、物を身に感じて生きる経験だと解釈した。これは私も卓見だと思う。また宣長は正しい学問とは「ただ物に行く道」であるという。荻生徂徠も「思」、「慮」、「謀」を持たなければ学者としてだめだと言う。しかし福沢諭吉が指摘したように、かれらの古文辞学は急速に腐敗した。これはなぜだろう。孤高の学問とか個人の経験に頼るところが大で普及しなかったとか、いろいろ言い分はあろうが、要するに時代のなせることである。江戸時代には武士の教育に儒教を用いたが、明治維新後は西欧文物の移入に急で儒教は無用の学問とされ、かつ実用に耐えなかったことも事実で日本全体が儒教を捨て去った。小林氏がこの時点でいくら儒教と学者のいいところと思う点を持ち上げて弁護したところで後の祭りでしょう。後の世に人類を救う思想に化けるかどうかは、まず可能性は無いとみる。これらをさっぱり捨てて省みなかったことで、無用な残滓を引きずることなく明治の近代化が遂行されたことは事実なのだから、儒学や日本学を綿密に検証しながらいいところは採っていく選択肢(和魂洋才)は文明の近代化に無用の混乱と遅滞を招いたであろう。

ヒューマニズム

エリオットのヒューマニズム論を読んで、これを儒学の人倫と師弟の結びつきに関連つけて論をなそうとする小林氏のたくらみであるが、残念ながら何の関係も無い我田引水の論だ。こんな持って回った衒学をてらわなくとも(ごめん、同義反復でした)、素直に儒学者の師弟関係の以心伝心(特に藤樹ー蕃山、仁斎ー徂徠)を言えばすっきりしたのに残念だ。

福沢諭吉

福沢諭吉は幕末に大阪の適塾で学び、明治維新後は西洋文化の啓蒙者、実学を説いて慶応大学の創設者であった。その著にはよく知られた「学問の勧め」、「文明論の概略」、「福翁自伝」が有名である。私もこの書は何回も読んだが、迷信を打ち破るため一つ一つ実証してゆく態度には驚かされた。特に岩波新書の丸山真男の「文明論の概略講座」では声を出して読む魅力を教わった。この本は確かにリズムがあり名文だなという感を強くした。
小林氏はこの書から、幕末から明治維新を経験した思想人(?そんな思想人なんていたのかな。行動家ならいっぱい居たが)が味わった日本独特の経験を述べておられる。幕末の武士社会と西洋化による近代社会を二度経験するこの僥倖を言っているのである。そして幕臣で明治維新後の顕官になった勝海舟と榎本武揚の変節を批判する「痩我慢の説」、「丁丑公論」を引用して福沢の道徳観を展開したつもりだ。戦前の共産主義者の獄中転向と同様に、この勝海舟と榎本武揚の変節もすべて道徳問題である(彼らの果たした役割功績は実に偉大である)。思想ではない。きわめて難解な問題であるが、私はそんな時代に勝や榎本の道徳を公的に問うても意味の無いことで、公的なかれらの功績は充分に余りあるものだった。福沢の意見は道徳問題として個人に宛てて発信すべきものだったと思う、実に軽率な行為と残念でならない(本人はこの書を隠していたそうだが、誰のすすめからにしても出版したのはやはりまずかった)。それを取り上げて人間の複雑性を坦懐される小林氏の意見はいただけない。
そして小林氏は最後に「士道は私立の外を犯したたが、民主主義は私立の内を腐らせる」という訳の分からない感想を述べている。私立とは個人の活動と理解してください。これは福沢諭吉の著書の何処をどう読んでも出てこない小林氏一流のデマゴギーである。明治の初めに民主主義なんて存在するはずも無く、芥川龍之介ばりの腐ったようなニヒリズムの文句が明敏な啓蒙行動家福沢の口から出るはずも無い。民主主義を敵視する小林氏のいつものやり口である。本論の趣旨から関係の無い結論を書かれるのは実にまずい。私が裁判官なら意見の取り下げを命令する。

還暦

還暦を迎えての感想である。孔子の「耳順」、円熟、忍耐、隠居と市隠、哲学とは「死の学び」、近代科学と口真似の徒など思いつくままに綴った小文である。

天という言葉

「天命を知るとは、生活するだけでは足りない、生活の意味を知りたいと考えた人、即ち自分が生を受けた意味と役割を自覚したい人にはこの言葉が浮んでくるはずだ」と言う小林氏の出だしの文は正しいと思う。
ところが天命については僅か三頁で、急に話は福沢諭吉に転調する。要するに本文の趣旨は、先に書いた「福沢諭吉論」に対する批判・質問に答える形をとった弁明書である。それにしても小林氏の福沢諭吉論は複雑怪奇だ。福沢は西欧文明の実践的導入者であって複雑なディレッタント(悩める思想家)ではない。それ以外に彼に課された天命は無いと信じる。小林氏はどうしても福沢を旧文明擁護の思想家に仕立て上げたいらしい。福沢は旧文明について「これを棄つるや殆ど惜しむ所なし」と明言している。
小林氏は福沢諭吉の精神を「問題意識とか危機意識とかには関係なく、日本の文明が見舞われているのは、歴史的個性が生き生きと前進していることが信じられる」というわけの分からない修辞で、限りなく不透明にしようとしている。
さらに小林氏は「古いものから新しいものに変わるのは歴史の鉄則であり、一般には伝統主義は歴史のパラドックスだ」という。と言っておきながら、旧文明を伝統主義という言葉にすり替え、なお残存を図ろうとするようだ。「伝統とは精神だ。無私の精神のみが伝統を捕らえる」という。儒教などの旧体制の残滓が伝統になり、いとおしむべき対象にすり替わった。「私」と言うのは無常の穢れたものか。急に無私という禅の業界用語が出てきたが、伝統とか旧文明とかとどう関係するのだろう。論理のすり替えによる誘導効果ははっきりしている。
最後に小林氏は福沢諭吉の教養の根底について、「仁斎派の古学があった」とし、その根拠を福沢の「天は人の上に人を造らず、人の下に人造らず」と仁斎の「人の外に道なく、道の外に人なし」が似通っているからという。これは笑止千万だ。この類似関係は漢詩における対句関係であって形式を踏んだまでのことで内容は全く関係ない。似ているのは対句のリズムであって漢詩の常套手段である。ばかばかしくて聞いていられない論だ。最後に気の利いた修辞を言って煙に巻くのは小林氏の常套手段だが、そこでいつも馬脚が出る。小林氏の文章を読むときの注意点は全作品リストの注に書いたが、さらに言えば、あらゆるところに前もって言い訳がしてあり、かつトリック的なレトリック(修辞)があちこちに地雷のように埋め込まれている。これは挑発なのである。陥穽に捉らないようにまず文脈だけ理解することが肝要である。

哲学

この小論も西洋哲学の紹介者西周(1829-1897)と哲学の祖ソクラテスのことを論じているのかなと思えば、たった二頁で伊藤仁斎の孔子論に転じる。西周のなかでは哲学の祖ソクラテスと孔子は結びついているという。何が似ているのか分からないのでそうかなという事にしておこう。まあ話の枕で度肝を抜こうとする手だ思えばさほど腹も立たない。
「仁斎の学問の新しさは孔子と言う人間を見出したところが根本だった。」、「仁斎の学問のやり方は、学んで知るではなく、疑って知ることであった。」、「凡そ学問とは道徳学のことであり、道徳とは真理のことである。」、「彼の学問は今日使われている意味での実用性も経験主義もないので、彼がひたすら伝えたかったことは精神の高貴性にあった。」、「彼は孔子の研究者とは言えない。むしろ孔子の模倣者なのである。」つまり道徳家、実践的教祖ということだろうか。私は仁斎を読んだことはないのでコメントできない。

天命を知るとは

宋の朱熹は天命について「天命とは天の理のことで、窮理を進めれば必然でもあり当為でもある人生の根本原理に達する」、徂徠の師伊藤仁斎は天命を知るについて、「知るとは経験を重ねることで、非常時に際して少しも心を動かんさないこと。」と言う意味に解した。徂徠は師の考えを否定し独自の天命論を展開したようだ。
徂徠は孔子について、「民を安んじると言う現実的な先王の道を説いてやまなかった人で、天から先王の道を説けという命を受けた人であった。五十にして天命を知るとはそういう意味である。」
またについて「大事なのは天地の原理とか人間の規範とかいう名ではなく、天地の間に暮らしている人間の基本の実である。」
出会いという経験的事実をあるがままに容認することを、「天地も活物、人も活物。天地と人との出会い、人と人の出会いの無限の変動がが窮極の実である。」といった。
もうひとつの経験について、「普通体験と呼ばれている全的な生きた体験は直感でしか捕らえられない。」
について、「各人千差万別の出会いの総括的表現が統名でいう道という象徴的な名となった。」
と言う言葉を小林氏は引用している。これで天命を感得できたでしょうか。もともと合理を排した分野なので分かったということはいえない。最後の数頁で小林氏はフロイト心理学批判をやっているが、天命と何の関係が在るのか。西と東の思想の屋台を見せたかったのか。

歴史

荻生徂徠の学問は歴史に極まると言ったが、その辺を整理すると「自然(天地)と人間の出会いが人間の生活経験の基本形であり、これに人と人と出会いが加わり無尽の変動?が出来するところに歴史がある。」ということだが、本書p.189ではといい、p.191ではといった。こんなにころころ表現が変わるのは問題だが、「歴史」=「実」=「路」と理解せざるを得ない。結局は経験的事実のことであろう。
そしてこの小論の標題「歴史」の提起は分かったが(歴史に言及しているのは始めの二頁のみ)、これも話の枕或いは刺身のつまであろうか。九頁を費やして自然の法則から人間の歴史を関連つけようとする試みは全く理解に苦しむ。ましてニュートン力学から初めてダーウインの進化論の時間との関連付けなんぞは正気の沙汰とは思えない。私はさる大学の理学部の出だが、評論家小林氏の科学的理解にはつねづね唖然とさせられた。小林氏に科学顧問をつけろといったこともあった。ばかばかしいと思いながら一応間違いは指摘する。

* 「ニュートンの自然システム(恐らく古典力学のことだと思う)は時間の入らない惰性系だという。」 とんでもない時間は微分方程式に入っている。ただ観測の間に物質の重量などは変化しないだけである。小林氏の論のように変化したら捉えようが無いではないか。
* 「ニュートンにとって一番大事な問題は人生の意味であった」、「世界に歴史は、彼の人生観からすれば尤も貴重なものだったに違いない」 という説は、少なくともニュートン力学にとって何の関係も無い事項である。彼が一人のときに瞑想する主題であったかどうかは私は不勉強で知らない。恐らく小林氏の一流のデマゴギーであろう。
* 「科学史にダーウインが現れるにいたって、自然の法則はまた歴史の法則でもあるという確信は、少なくとも実証を重んじる学問にとって動かされぬものになった。」 何を言っているのか我田引水に唖然とする。ダーウインを自説の救世主と思っているのか。ダーウインは種の遺伝と進化を研究したのであって、当時の遺伝子解析の無い時に良くやったと思える。現在もなおダーウイニズムには諸説紛々あり、突然変異と選択的淘汰の組み合わせで何処まで種の進化が説明できるか(ダーウイン説には時間厳密性がない、一千万年か一万年か精度が悪い)統計的選択圧力で計算する一派がある。自然の法則といえばあるがままのシステムの理解であり、そこへ文学部的言語である歴史の法則が入り込むとはどういう頭をしているのか。学会の発表でこんなことをいえば間違いなく狂人だ。
* 「アインシュタインはニュートン的時間の自然システムへの立ち入りを解いた。」なんのことやらちんぷんかんぷん。自然科学を学ばなかった一般人にこういうことを言えば煙に巻けると思う根性がなさけない。
* 「今日の核物理学は素粒子を明らかにしたが、歴史を客観的に規定しょうとすれば、粒子の無秩序な状態すなわちエントロピーの増大と言う決定的な時間の矢になることを語った。」  いやはや核物理と熱力学の第三法則に何の関係があるのだろうか。一方的な拡散(これを矢というのか)が即ちエントロピー増大であるが、状態を示す尺度であって其処には時間の観点はない。ところが物質間には凝縮力(引力)があってさまよえる宇宙の塵がビックバンにより太陽系などを生み出した。この物質の離合集散が宇宙の歴史である。
* 「生物進化の学説の革命性と影響力とは、いわば自然的時間と人間的時間との間の架橋工事であったところにある。」 現時点の時間をいえばどちらも同じある(時間と簡単に言うが、時間は地球が太陽を1週するのを1年と言っているに過ぎない)。しかし自然の時間とはなんだろうか。何処から始まり何処へ行くのだろうか。人間の時間なんていっても文明が生まれてからまだ1万年しか経っていない。太陽系が生まれて50億年である。この太陽系もあと30億年で死滅(太陽が燃え尽き引力がなくなって惑星もガス化する)する運命にある。時間に対する本質的考察が不足している。
* 「ダーウインの学説の力は、人間の歴史の特殊性を否認するように働いたが、進化が止まった動物界で人間だけがその全く特殊な遺伝的安定性を許している。」 動物界と人間界は遺伝的に異なるのか。それは難しいことだが、今日の遺伝子解析によれば人間の遺伝子も激しく(大多数の生命に直接影響しないところで)変異している。またこれが免疫獲得や進化にとって極めて重要な因子である。安定な遺伝子では困るのである。動物と人間が違うとは簡単にはいえない。何の根拠でこう小林氏がいうのかは知らないが、進化が止まった動物界とは笑止千万である。
この辺で止めておこう。切りがない。小林氏は恐らく歴史意識を自然科学から因縁つけようとする試みであろうが、それは不毛である。人間の歴史意識は現時点では科学では説明のつかない人間大脳皮質の高度な営み(或いは科学的思考に比べると、やくざな脳機能かも)である。


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