小林秀雄全集第23巻    考えるヒント 上

考えるヒントシリーズ(プラトンの「国家」、歴史、言葉、役者、ある教師の手記、ヒットラーと悪魔、平家物語、プルターク英雄伝、忠臣蔵T、U)、本居宣長ー「物のあわれ」の説について

考えるヒントシリーズ

プラトンの「国家」

プラトンの「国家」において師ソクラテスが語る人間社会の不可思議さ、政治の難しさ、指導者の問題について小林氏は次のように指摘した。「プラトンは凡そ物を考える出発点も終わりも汝自身を知れということを悟ることにあった。プラトンは人間の奇怪さ、愚かさ、惨めさから一瞬も眼をそらしたことは無い。ソクラテスは人間が集まって集団となれば、それは一匹の巨大な獣になるり、それにはどうしても勝てぬものだということをよく知っていた。この巨獣の欲望の動きは正不正には関係の無い必然の動きに過ぎず人はこれの勝てるわけがない。ソクラテスは民主主義政体について、この政体の最大の特徴は平等と自由であるが、直ぐに専制君主政治に転落する危険性を孕んでいる。政治とは社会という巨獣を飼いならす術だ。それ以上のものではありえない。理想国は空想だ。」
小林氏は人間社会の御し難さを語った。1959年は60年安保闘争中のことでもあり、小林氏の発言は民主主義社会をめざす戦いを愚弄するものである。私は小林氏を政治的には選民思想に立った右翼とみている。もっともらしいことを言いながら客観的には左翼を嘲笑する発言が多いのは遺憾だ。

歴史

河上徹太郎氏の「日本のアウトサイダー」の読後文である。小林氏はこれを変わり者列伝と呼んだ。この短い文章でテーマの分裂が出ているのは不思議なことだ。「変わり者」から個性・人格と精神分析上の自我の問題へ話が展開し、「列伝」から歴史意識の問題に話が飛んでいる。変わり者からフロイト・ニーチェ・ショーペンハウエルへ、列伝から司馬遷へという風に学識のご披露がはじまる。どちらかに話を絞ってくれないか。

言葉

本居宣長(1730-1801)の歌論の中で言葉の第一義的役割を言った小文で、これは後の「本居宣長論」へ受け継がれてゆく。小林氏の著述ではじめて本居宣長が出現した記念すべき論文である。本居宣長は契沖を師として源氏物語のもののあわれ論を展開し、34歳で賀茂真淵を師として古事記伝を手がけ死ぬまで注釈に30年をかけた。彼自身は下手な和歌を数千首作った歌人?(歌人とは誰も評価していないが)であり、とくに桜の歌だけでも千首余り作ったことで有名な江戸中期の国文学者である。宣長の言葉を示す。「姿は似せ難く、意は似せ易し。姿詞の髣髴たるまで似せんには、もとより意を似せん事は何ぞ難からん。」
宣長は「歌は言辞の道なり」と言う。歌は言葉の働きの根本の法則を自ずから明かしている。これを小林氏はこ指摘した。「自然の情は不安定な危険な無秩序なものだ。これを整えるのが歌である。悲しみに対して精神はその意識を、その言葉を求める。歌とは情を整える行為である。言葉にはその浄化作用がある。歌は情を整える順序即ち礼という形式である。」
つまり歌は言葉で分かるものではなく、言葉が醸す味わいで癒されることである。なるほどこれは名言だ。

役者

文士劇と言う、今では死語になった同業者の慰安会での役者を演じて、小林氏は演劇特に観客と役者が共同して作る演劇についてなにか得るところがあったようだ。それにしても新劇運動(これも死語)のような一方通行劇のつまらなさを坦懐しておられる。観客と役者が共同して作る演劇とは上方どたばたお笑い劇にはなくてはならぬものである。「がめつい奴」(1959年初演 菊田一夫作 三益愛子主演 中山千夏など   覚えておられる方は関西でも少なくなった。関東では恐らく誰も知らないだろう)の大ヒットの秘密もこの観客と役者が共同して作る演劇のことだ。

ある教師の手記

あるまじめな教師が見た、文部省・教育委員会と日教組・講師団およびやる気の無い現場中学教師の三つ巴の馬鹿さ加減に唖然とする小林氏の感想文である。1960年ごろは私は高校生で受験勉強にあくせくしていたころである。高度経済成長路線が定着し、日本はテイクオフの状態だった。優秀な高校生は理科系を志望し日本の産業界に夢を見ていた時期であった。確かにある意味では何も考えなくても生活は所得倍増計画に乗って右上がりにあり、ひたすらがんばればいいと言う「期待される人間像」が振りまかれていたころである。京都ではまだ男女共学、進学高校地域制が忠実に守られており、大学受験は個人指導で、受験戦争を煽ることは堅く戒められていた。尊敬に足る先生方も多く、公立校はまだ自滅していなかった。少なくとも京都ではこのような教育崩壊は無かったと私は信じる。全体像は知る由もなかったが。

ヒットラーと悪魔

この小論は「十三階段への道」(ニュールンベルグ裁判)という映画を見た小林氏の「獣性の人ヒットラー」論である。ヒットラーの著書「我が闘争」には「人性の根本は獣性に、闘争にある。」と述べている。かれが浮浪者から暴力闘争によって政権に就くまで彼の頭脳を支配した言葉である。なぜこの暴力の男をドイツ社会が合法的に権力者にしたのか、あやふやな共和主義より凶暴な暴力による征服と奴隷根性を渇望していたとしか言い難い。ここにも小林氏の抜きがたい大衆蔑視がとぐろを巻いている。ヒットラー免罪論にならないか。

平家物語

平家物語は大山祇神社に奉納された甲冑に象徴される、華やかに着飾った美しい鎧武者の合戦描写と、其処に生き死んだ武士たちの爽やかな動きの魅力であろう。今は無い「平曲」という琵琶法師の語り口と和漢混淆文の持つリズムと雄雄しさと言う音楽的要因も寄与しているが。

プルターク英雄伝

小林氏はこのプルタルコスの古代偉人列伝を読んで、「暦史とはまさしくこんな様子で、単調に蜿蜒と流れてきた。」と言う観を強く持った。イギリスの歴史家アーノルド・トインビー氏もツキジデスの政治を読んで、「一般生活人の歴史意識も、世の中は移り変わるが、人間と言うものは変わらぬものだ」という感慨を持った。「人性は変わらぬ」ということと、「人間とは限りなく弱いものである。」は「英雄伝」のテーマかもしれない。
しかし政治を取り巻く環境は生産手段の進歩、体制、法的制度、組織の変遷によって変化する。プルタルコスの英雄たちを悩ました大問題はいつも民衆の問題であった。政治家ペリクレスの民主主義制度の奮闘を描いて、性急な対応は生活を破壊すると忠告している。このところを小林氏は「民衆の傲慢を押させることの難しさ、豊かになれば人心は腐敗する。民主主義には貴族主義や社会主義の萌芽が見られる。」とかいう。
ここに小林氏の大衆蔑視が露になり、自分を賢人に擬すような観が見え隠れするのは私の偏見か。氏はよくドストエフスキーの主人公の大衆蔑視、貴族性、醜悪性や観念を作者の分身として理解されている。これは私もそう思う。しかし小林氏は大衆蔑視はするが、自分のことは知らん振り。自身の卑怯さ、醜悪性など明らかにしなければこんな大衆蔑視論は信用に足らない。民主主義、大衆などという言葉がでれば俄然牙を剥く小林氏の反動性は軽視できない。ドストエフスキーは自身の醜悪性を含めて凡てさらけ出して人間の深遠に迫ろうとする姿勢である。小林氏は自分の立場を隠して大衆の醜悪性につばを吐く。まるで貴族、聖人なのか。

忠臣蔵T、U

12月になると忠臣蔵の映画がテレビに流れる。赤穂浪士はそれほど国民的英雄だったのだろうか。主君の仇を討つということは、親兄弟の仇を討つことは盛んであった江戸時代でも稀有のことであった。堀部安兵衛は二度のあだ討ちに成功した庶民の英雄譚であった。菊池寛の「ある抗議書」、シェークスピア「ハムレット」を例にして小林氏は復讐心の観念を見た。当時の社会背景は元禄時代の平和と繁栄を受けて文藝学問が開花した時期であったが、武士の貧窮化と商人の社会進出により社会の主人公が入れ替わる時代であった。武士は生活の貧窮とバランスするように「武士道」に見られるような支配階級意識と観念化、知識人化に活路を見出そうとした。主君の乱心で活路を断たれた武士団が最後の武士の名誉を得るために復讐劇に走らざるを得なかったと言うのが真相のひとつだろうか。それを太平時代の歌舞伎浄瑠璃を楽しむ庶民が忠臣蔵芝居にやんやの喝采をしたのだろう。芝居と実話が一体になってしまった。

本居宣長ー「物のあわれ」の説について

師契沖には「古書にこそ本来の面目がある。妄説を離れよ。」という言葉がある。この言葉に本居宣長は俄然目を覚まして、源氏物語の研究に没頭した。「紫文要領」、「石上私淑言」、「玉勝間」、「あしわけ小舟」に宣長のもののあわれ論が著されている。「あわれとは、ああ+はれと言う感嘆詞である。意識してあわれの感情を見ることが、物のあわれになる。特に悲しい時、憂き時、心にかなわぬすじなど悲哀の感情に使われる。」、「意識を通して事の心、物の心のあわれを知ることが情の働きである。

前半1/3が「物のあわれ論」で、後半の2/3が「歌の道の言葉論」で占められる。これについては本卷の「言葉」で既に取り上げたので下にその概要を記す。
宣長は「歌は言辞の道なり」と言う。歌は言葉の働きの根本の法則を自ずから明かしている。これを小林氏はこう指摘した。「自然の情は不安定な危険な無秩序なものだ。これを整えるのが歌である。悲しみに対して精神はその意識を、その言葉を求める。歌とは情を整える行為である。言葉にはその浄化作用がある。歌は情を整える順序即ち礼という形式である。」
私は和歌をやらないのでそうかなと思う程度であり、是非はない。本文でも宣長の歌論を小林氏は長々と引用しているが、宣長は師賀茂真淵からたびたび叱責されていたように、新古今和歌集(藤原定家選)を最上とする歌の言葉のことである。宣長自身の歌は何の感激も無く淡々とした平凡な歌を多く作っているが彼を歌人だとは誰も考えていない。また江戸時代の和歌なんぞ当時でも新興俳句に比べると誰も感心を持たなかった。いまでも再評価する気配も無い。明治時代の鉄幹・与謝野晶子の歌のほうが著名である。誰が見ても宣長の和歌が優れているとは思わない。ということで歌人でない宣長の歌論は理屈はともかく無視しよう。言っていることが正しいかどうか歌から判定できないからだ。小林氏が感心して長々と引用する意味がわからない。小林氏は宣長の歌をうまいと思っているのだろうか。素人の野球評論を聴くようなものだ。


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