小林秀雄全集第22巻   近代絵画

近代絵画、ゴッホの病気、論語

近代絵画
ボードレール

念のためにボードレール(1821-1867)は画家ではない。ここでボードレールから始めるのはボードレールが絵画批評家として近代絵画を明確にした詩人であるからだ。
中世期には絵画は宗教のために奉仕する普遍的な精神を、忠実に現すことが画家の任務であった。ルネッサンス期に存在の秩序から視覚の自由に委ね、人間性の解放に立った遠近法の発明が出現した。「本当が退屈で嘘がこんなに美しいなら、画家としては嘘のほうを択ぶ自由が自分にあるだろう。」
近代絵画の運動には少し早いが、レンブラント(1606-1669)の「夜警」という作品は注文主の束縛から離れ、絵としての美的調和を優先させた。つまり絵が独立性、自主性を主張し始めた点が革新的である。

フランスの近代詩の創始者ボードレールは詩から余計なものを剥ぎ取って純粋に詩の魅力を作ろうと苦労した。「悪の華」で実現した。そしてボードレールは絵画は絵画であれば足りるという明瞭な意識で絵画を見た最初の絵画批評家であった。ボードレールが尊敬した画家ドラクロア(1798-1863)は絵の主題と無関係に純粋な色彩の魅力を現した。もっといえば、自然には線も色もない、線も色も画家が作り出すものであるという、今日からすれば当たり前の態度が近代絵画の基本である。
19世紀には意識的な色感の組織化による官能性を目指す印象主義が出現した。つまり遠近法も印象主義技法も在るがままを書かずに、見るがままを描くということになった。主題、形(構図)からの独立が近代絵画の特徴であり、堕落の道でもある。

モネ

印象主義の一つの流れに光を分解しようとするモネ(1840-1926)と、光を点で表現するスーラーの点描派を小林氏は失敗したと極めておられる。それは光学と科学の援用に成功しなかったためとされるが、はたしてそうだろうか。寧ろ失敗しているのは小林氏の光学の理解のほうである。書かれた文章の8割ほどが比喩で理解しようとする間違いだらけの光学にある。これでは小林氏が何を言いたいのか、モネに何を期待したのかさっぱり不明である。現在の光学は波動説と古典光学で説明できる。光と影ということであれば古典光学で説明できるし絵画上も簡単に表現できる。画面上での光の分解とはどういうことか、意味不明としか言いようが無い。光は連続した電磁波のことである。色とは物質の光波長成分の部分吸収による結果である。小林氏には科学の顧問が居なかったのか。そうすればこんな変なモネに対する要求は無かったはずである。モネは色彩と戯れるような睡蓮の絵で充分ではないか。基調は暗い色調に光と色の不安そうな揺らめきがなんと幻想的でもある。

セザンヌ

小林氏はこの「近代絵画」において、内容はともかく分量だけで言いと、「ピカソ」が第一、第二がこの「セザンヌ」であるが、絵画論としての白眉はいうまでも無くこのセザンヌ論である。私もこのホームページでアップしているように趣味で絵を描いている。最近ではもう趣味という領域ではなくなってきた。もちろんえで生計を立てるというようなけちな話ではないが、精神と生活時間の大半をえが占領しているという意味である。絵画論もたくさん読んできたがほとんどが美術評論家、美学者の著したもので、今回のような文学者(小林秀雄は美術評論家ではないですよね)の書いた絵画論は始めてである。
印象として実に言葉が多い。絵そのものの解説がほとんど無い。そして絵画はほとんど文学の植民地化している有様だ。時代の流派で試みられた技術を時代に固定して書くというのはやむをえないだろうが、大体絵描きには言語的には白痴が多いし、歴史にはほとんど無関心な人が多い。自分の客観的位置づけを拒む人ばかりである。また一人の絵描きのなかにいろいろな流派、技術が雑居している。まずこんな風にきれいに文学的ストーリでは語りえないと思われる。小林氏のやり方はほとんどの場合は否定から始まる。そしてごく一部の(天才といわれるような)人に対しては全面肯定から入る。セザンヌに関しては全面肯定である。

セザンヌ論を纏めるについては、出来るだけフランス文学との関連は排除した。そして科学とくに光学理論との関連も排除した。文学運動と絵画の流れは技術手法が隔絶しているし、画家が文学書を読んで自分の手法に反映させるなんてことは不可能である。また光学理論は小林氏の生半可な趣味であって当時の画家が科学を理解しているとは思えないからだ。また光の古典力学・波動論・量子論を理解してどうなるのか。そして小林氏は19世紀の音楽、絵画、文学を出来たら同じストーリで展開したいという下心(ボードレール、ワーグナー、セザンヌの奇妙なトライアングル)が見え見えであるが、それはフランス文学者たる小林氏の文学趣味の問題であろうか。
ヴェラスケス(1599-1660)の晩年の大作「メニナス」を見て小林氏はこういう。「ヴェラスケスの画の主題は構図から、真の主題マチエールは色であるという感じが直に伝わってくる。」  確かに画は遠くから見ると、何が書かれているかという構図は消えぼんやりした色の配置の世界になる。しかしこの結論は余りに予言的であって決してヴェラスケスの先進性をいうのは間違いである。まだこの時代は貴族の注文主の要望により製作する画家の生活ではやはり構図が第一である。つまりデッサン力が重視されていた古典時代である。色は画家の命であることは誰も疑わないが、構図が消え、色の世界になったというのは小林氏の早とちりである。まだ印象派の時代までに200年以上も前のことである。
次にセザンヌの面構成つまりタッチのことについて小林氏はこういう。「セザンヌにとって凡ては色彩だ。セザンヌの手法は写実的であるというより構成的である。かれは独特のタッチで平たい段階をなす小さな面で絵を作っている。これをセザンヌは小さな感覚と呼んで、物の明度、量感、形態、遠近、など凡ての性質が必ず現れることを信じた。」 
これは絵画が筆やナイフやパテで描かれる以上一定の面積を持った最小単位が存在する。その最小単位を小さな感覚ととよぶのは妥当である。しかしその小さな面(点)の上にさらに別の顔料で上塗りしてぼかしてゆくと点は連続した変化になる。それを極力排してもとの小さな面を維持すれば絵は断続した段階的な色の変化(色調変化)になり、セザンヌ的、点描的になる。セザンヌはこの色調変化を徹底的に調和した変化にした。これを美しいというか、或いは単調なモノトーン変化(つまり茶系統、赤系統という単色系の色しか使わない)になることは自明である。
現在でも女性の絵にはこういう絵が多い。補色や鮮やかな色は全体の調和を破るため恐ろしくて使えない。穏かな同系色の段階的変化を重ねて行き全体の調和を維持するやり方である。私事で恐縮だが、私のホームページの日本画を見てお分かりのとおり私はこんなかったるいやりかたはしない。
セザンヌも言っているようにこれは大変な作業である。「私の絵で行き当たりばったりに塗られているところは何処にもない。うっかり塗ればもう一度全体を描きなおさねばならない事になるだろう。」 そのとおりだ。この段階的色調変化(個性的色調変化)は連続した作業で全体との調和を見ながら進めるからだ。

セザンヌの絵として、「セザンヌ婦人の肖像」と「カルタをする二人の男」が掲載されているが、色調は赤系、茶系の範囲から逃れられない宿命にある。セント・ヴィクトアール山の絵も茶一色である。絵の具にはこんなにたくさんの種類があるのにどうしもっと使わないのだろうか退屈な絵だという人がいて当然だ。これを美しいというのも感性なので、とやかくいえないが。

ゴッホ

この小文は三章からなる。第1章はゴッホの病気についてである。これは次の文でも詳細に取り上げているので省略する。第二章はゴッホの人生についてであるが、これも第20巻「ゴッホの手紙」で詳細に取り上げているので省略する。第三章は短いが、ゴッホの色彩を述べているので紹介したい。
「ゴッホが大色彩家として現れるのはアルル以降である。アルルの焼け付くような黄色の高い色調には、あれは黄金色の緊張を必要としこれに達し得たというのも、心が狂わなければ不可能な事だったのであろう。」また最後の「麦畑」の絵のカンバスの裏側にはゴッホの手紙に文句が記されているという。「絵の中で、僕の理性は半ば崩壊した。」つまりゴッホの色彩には精神病という彼の個性が無ければ理解しえない。

ゴーガン

1888年ゴーギャンはゴッホの招きでアルルにおける共同生活に同意したが、強い個性がぶつかって僅か2ヵ月後には決裂した。ゴッホはゴーギャンを殺そうとしたらしいが、自分の耳を切って精神病院に入院した。この辺の事情はゴーギャンの「私記」に詳しい。そんなスキャンダルには興味は無いが、絵画をめぐる激しい個性の激突によると理解しておこう。ゴーギャンは職業や妻子を捨ててまで絵を描く決心をしたが、ゴッホと別れてからの彼は放浪の人生であった。挫折、貧窮、病苦、憤懣、絶望のゴーギャンの人生は彼の書「ノアノア」に書かれているとおりである。ゴッホと別れてから彼の画風に著しい変化が起き、ブルターニュにおいて描かれた「ヤコブと天使」、「黄色いキリスト」は決定的な印象主義への否定が読み取れる。セザンヌとの対立もそのことを物語っている。印象主義を返上して、なにか原始性へ帰ったような感じがする。これを抽象主義とか象徴主義、総合主義とか言う人も居る。平坦な色彩で「抽象化された悲しみ」が描かれた。そして、タヒチからオア島へ移住し、フランスへ帰る希望も断たれて1903年に死亡した。

ルノアール

まず結論となるルノアールの意見を聞こう。「絵は愛すべきもの、見ていて楽しい、きれいなものでなければならない。だが、きれいな絵で偉大な作品を描くのは難しいことだ。」、「私の意見では、絵というものは、人に見てもらうために描くものですから。絵描きは、好んで自分の絵の機嫌をとっているということが分かる様でないといけない。」 「絵画における進歩、そんなものは無い。技術の進歩、考えの進歩、何の進歩も無い。昔からの技術があるだけだ」 なにか通俗的な人気作家の言を聞いているようだが、これは芸術のため、独創的でなければとかいう考えを戒め、絵画という術の基本が「手の職」に在ることを肝に銘じるよう言っているのである。ゴッホに対しても独創性であることよりその技術の無さを嘆いているようだ。逆に通俗的といわれるヴェラスケス、ゴヤの絵に磐石の技術を認め、繊巧や魅惑の域を賞賛している。つまりルノアールは徹底的に絵の職人であろうとした。文学や思想や印象派などという概念を全く無視した地道な人である。人を驚かすことはしないが、言葉のいらない、手ごたえのある鑑賞に堪える絵画を目指した時代に超越したひとであった。稀有の古典派といってもいい。「浴女」の絵が古典派的とかアングル風のとかいわれるのもむべなるかな。

ドガ

ドガ(1834-1917)といえば競馬か踊り子のデッサンと定評が決まっている。しかしドガは変に頑固な禁欲主義者のところがあった。1860-1870年代は古典的肖像画家として、イタリア旅行から帰ってきてから十数年は全くアングルの世界に孤立し歴史画や肖像画を描いていた。そして一時期、画家と文学者のサロンに出入りしていたかと思うと1886年から死ぬまでの30年間世間からまったく絶縁し絵を公表することも無くデッサンとパステル画の習作にふけった。まるで孤高の禁欲主義者の様であった。
ドガとデッサンは切り離すことは出来ない。彼は印象主義者が物の形を軽んじるのを我慢できなかった。将に彼は線描画家であった。これは言うまでも無くアングルの教えを忠実に守ったからである。アングルはドガに「なんでもいいから、線を引く勉強をし給え、記憶に頼っても、実物を見てでもいいから、出来るだけたくさんの線を引いてみることだ。」、「色は輪郭に沿って塗ってはならない。輪郭の上に塗らなければならない。」といったそうな。
ドガは比類の無い観察家として競馬場や劇場や盛り場、カフェ、洗濯場などに出かけては風俗画家のように人の動きと姿態をスケッチした。彼がスケッチしたものは静止したものではなく、常に動く物体を捕らえようと苦心した。「踊り子」や「入浴」をみればあきらかに人体は動いている。風俗作家として、戦後浅草の劇場に出入りしていた日本の永井荷風を思い出す。

ピカソ

小林氏は印象主義からピカソ(1881-1973)のキュービズムの理解をめぐって、ヴォリンゲル「抽象と感情移入」(1907)をたたき台にしながら、美学の発祥を抽象性に求める論に頼ったようだ。評論家とは実に楽な商売だ。人の論をコピーアンドペースト(切って貼る)で引用して人の論の間を接着することが商売なんだから。まるで商社だ。(これは冗談です。其処から新しい論を引き出すのだから大変なんです)このピカソ論に実に多くのページを費やしている。ということは彼のやり方からして、随分難渋しているなということが伺える。
ヴォリンゲルの美学書に従って論を進めると、近代美学の考えは美的客観主義から美的主観主義へ決定的に移行し、対象から出発せずこれを観照する主観の態度から出発するようになった。いわゆる感情移入の考えかたである。感情移入とは私達の生命力の対象への移入なのである。なぜそうなのかはギリシャ、ルネッサンスの芸術規範があまりに完璧であったからだ。それに対してゴーギャンはギリシャへの反旗を翻し(1897)、エジプト美の原理(抽象形式)を掲げて自然主義から抽象作用の美を主張した。「つまり彼は芸術上の自然主義と共にある感情移入の概念に対して、芸術の様式というものと一体をなす抽象作用の概念をもうひとつの美の原理として主張した。」と小林氏は纏めた。
ヴォリンゲルはもともと芸術にある装飾性が抽象性へ発展し、20世紀絵画の諸運動(キュービズム、フォーヴィズム、未来派、表現派、抽象派、シュールリアリズム・・・・)が理解できるというものだ。私の持論だが、芸術の装飾性や抽象性は日本美術にはなじみの深い要素であった。陶器、漆器、襖、家具調度、着物などなど凡て実用品の装飾から発展して美術になった。日本画の装飾性は際立っており、最初から自然を模倣するなんてことは一度も考えたことは無かった。逆にロマン主義や自然主義などという主観主義の時代(芸術の独立、主体性)は発展せず、明治になって輸入されるという歴史の逆行ばかりが目立つのであるが。

という風に小林氏の議論はピカソを前にして堂々巡りをやってようやくピカソ論に入る。ピカソにはスペインの習作時代、パリで初期の青の時代があった。スペイン時代のピカソをニーチェやランボーと乱暴にも結び付けようとする小林氏の我田引水は無視しよう。セザンヌがモチーフ(彼はこれを感覚という)を一点に絞ったが、ピカソは視点が複数でかつ対象が内部へ深化する。複数の視点は日本画の得意とするところだが、間違うとへんてこな絵になる。ピカソ自身は「抽象芸術などというものは無い。まずあるものからいつもはじめねばならない。その後実在を消すことは出来ようが、物の観点は消すことの出来ない痕跡を残すだろう。」つまりピカソの絵のフォルムは、真に至るためのフォルムである。それをキュービズムと呼ぶのだろう。
「文学から逃れて視覚芸術としての純粋を期そうと動いてきた近代の絵画は、感覚を誇示することによって再び文学をその周囲に招きよせた。なぜ絵を理解しようとするのかというピカソの言葉は、勿論そういう傾向に対して言われたのであるが、一方ピカソは彼の言うように現在のためにしか製作していないという作家である。」という小林氏の纏めである。

ゴッホの病気

ゴッホの絵は生前一枚も売れなかったことは有名な事実である。そのための彼の絵が逸散しなかったことは幸運なことだった。ゴッホの絵の本質は見る者を不安にさせる脅迫観念の権化のようなものである。人々が容易に近づけなかったことの真相が、彼の精神病ににあったことは疑いが無い。
ゴッホの絵がまさしくゴッホらしいとされる個性を描いたのは、アルルの1888年からオワズで自殺する1890年の3年間であった。彼は短い期間に40枚の自画像を描いたが、これは正気の自我と狂気の自我をしっかり見つめる鋭い自己批評のなせる業であった。彼は自分に振られた狂人の役を素直に受け入れようとしたらしいが、この追い詰められた人間の強烈な自我意識がゴッホの全人格であり、全芸術活動となった。

ゴッホの精神病を精神分裂症と言ったり、癲癇と言ったり、どちらでもないものだとする鑑定があったりするが、ゴッホ自身は「絵の仕事を狂気に対する避雷針」と呼んでいる。発作の時は正気を失って叫び暴れ、回復期には憂鬱と妄想と自殺の誘惑と戦いながら絵を描き続けることが、彼にとって病気に対する鋭いセンサーになっていたのかもしれない。絵を描くことが狂気でないことを証明する唯一の証、避難場所なのかもしれない。

論語

論語が空文化してから久しい時間が経つ。なんせ紀元前6世紀の中国戦国時代の孔子という遊説家の言行録であったのだから。仁だの徳だのという治政国家を説いて、或る時は諸侯に採用され、国家権力の基礎となった時期もあった。
私はいつも疑問に思うのだが、孔子、ソクラテス、ブッタ、キリストのような道徳の大宗派を築いた人が、自分では何も書かなかったことである。弟子なり後世の人が創り上げた教国の聖典だけが嘘のように残っていることが疑問だ。夥しい注釈書と解説と理論書(経文)が本人が知らないところで作られた。私の仮説ではこれらの人物の存在さえ疑わしい。例えば本当にキリストが居たのか。都合のいい全能力者のでっち上げでは無かったのか。その影で得をした人がストーリを作ったのではないかなどなど。根拠が無いのでこの辺で止めておこう。

さて小林氏の「論語」に戻ろう。日本でも論語は大和朝廷の成立時期に輸入されており、以降権力機構を補佐するよう貴族の教養として読み継がれている。特に江戸時代には朱子学として幕府に学問所(林家の湯島聖堂)も設けられ国家権力に貢献したようだ。民衆には何の関係も無かった。明治時代になってもエリートの教養として読まれていたようだが、その精神はどうだか分からないが修辞として政府行政(軍人勅語、教育勅語など)に採用されている。天皇制道徳になくてはならぬものであった。さすがに戦後には論語は解体し、書物文献にしか見られない空文となった。
フランス文学・ロシア文学者の小林氏がなぜ論語を今頃持ち出してきたのか真意は不明である。氏の日本回帰の一現象なのであろうか。従って論旨の突っ込みは浅く批評に耐えるものではないので無視しておく。


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