小林秀雄全集第21巻   美を求める心

菊池寛、ハムレットとラスコオリニコフ、ドストエフスキー七十五祭に於ける講演、美を求める心、鉄斎 V、W

菊池寛

小林氏は1937年の一度菊池寛氏について感想を述べている。本全作品集第9巻でとりあげたので再度振り返ってみよう。

昭和の始めの通俗小説なぞ今では読む人もいないだろう。菊池寛作「父帰る」という劇は今でも上演されることがあるのだろうか。この小論は私にとっては今ではどうでもいいような話題である。ただ菊池寛、志賀直哉などの人が書いた通俗小説(主に新聞小説の形をとった)は100%大衆向けの娯楽読み物であった。間違っても当時流行の芸術至上主義や、告白小説、感覚派、自然主義文学などという冠はかぶっていないところが爽やかだ。そこが世の動きに超然とした大御所たるところである。菊池寛氏の作品は「人間的興味の小説」といわれる。文学的意匠もなく人生だけを知っている人の小説でさすが手堅いと評判であった。と言われてもいまさら読む気はしないが。

という内容で纏めたが、再度取り上げる必要も無いと思うが、どうも今回登場したのは面白い話「お化け騒動」があったからのようだ。菊池氏は決して自分を語ることをしなかった。また小説の内容は逸話(ストーリテイラー)の範疇にあり、対象の面白さにあって、ものの見方には無い。純文学や夏目漱石・芥川龍之介らをほとんど歯牙にもかけなかった。というような小説論をお飾りにやっておいて本論となるお話に移る。昭和14年の講演旅行で、今治市の旅館で出た幽霊を菊池寛氏が見たという話である。小林氏は変に感心して菊池氏をリアリスト(事実をそのまま見る人)というが、はたしてそうだろうか。私はこのような神秘現象に遭遇したことは一度もないので、小林氏に言わせれば科学的観念論者(頭が硬くて、事実を事実として信じない)といわれそうだ。

ハムレットとラスコオリニコフ

イギリスの詩人エリオット(1888-1965)はシェークスピアの悲劇「ハムレット」について、これを主人公の性格が不透明で駄作だという。父親の亡霊を見てハムレットが言うせりふ「この世の関節が外れてしまった。なんという因果だ。これを直す役目をおしつけられるとは」について、ゲーテは柄でもない復讐という大仕事を負わされて苦しむ人間を描くところにシュークスピアの意図があると見た。
「ハムレットの性格は確かに独白に力強さと意識の権化が感じられるが、ハムレットの行為は衝動的、機械的、ほとんど自己防衛的の様な形にしかならない。何の因果で復讐劇を演じなければならないのか、良く分からないところにハムレットの不透明さがある。」と小林氏はみた。まさにハムレットのように「to be or not to be......」と髪をかきむしって独白する所はかっこいいが、復讐という具体的行動は極めてお粗末で、王を殺したつもりが誤まって重臣ボローニアスを殺し、恋人オフェリアを狂死させても何の感情の動くこともない。熱心なのは反省と復讐という観念のうちだけで、他人に対して全く白痴である。
そういうところはドストエフスキーの「罪と罰」の主人公ラスコオリニコフと類似していると小林氏は指摘する。「ラスコオリニコフの様な男の犯罪は。たとえばマクベスの殺人の真実味に比べると、夢幻の如きものである。ラスコオリニコフの生活は内省に賭けられている。世界は心理的事実に還元される。ラスコオリニコフは金貸婆さん、その妹リザベータを殺し、母親を狂死させるところはハムレット同じ無表情な人間、何も感じていない白痴だ。」
それにしてもこの不完全燃焼、固定観念のハムレット劇は成功したといえるのだろうか。小林氏は役者の力量に期待するというが、脚本に言葉で書かれていないことを役者がどう表現するのか意味不明の期待ではないか。能のような幻想劇ならともかく。

ドストエフスキー七十五祭に於ける講演

小林氏はドストエフスキー没後75周年講演会で、次の三点について話をした。ドストエフスキーの作品論は本講演では省かれている。全般的なロシア思想史の流れが本題である。

  1. ロシアの文学史の本質  プーシキンからトルストイまでの系譜
  2. ロシア正教史とツアー支配  分離派とニヒリズムの系譜  バクーニン
  3. ロシアの社会主義  空想社会主義ベリンスキーからレーニンの革命まで

まずロシア文学史である。ツアーの独裁するロシアには西欧のルネッサンスも宗教改革も経験しなかった。19世紀中ごろ革新的な思想がロシアに押し寄せた。インテリゲンチャには政治思想の自由は無く、哲学さえ禁止されていた。外来思想によって掻き立てられたインテリの思いはもっぱら文学の中でしか生きられなかった。従ってあらゆる思想問題が文学のうちに渦巻いたわけである。ロシアの近代思想史とは即ちロシア近代文学史の様相のことになった。ロシアの近代文学はプーシキン(1799-1837)から始まった。プーシキンやレルモントフは教養と才能を抱いて身を滅ぼすインテリの悲劇的な典型であった。ゴオゴリ(1809-1852)の悲劇がトルストイにいたってさらに大きな悲劇となった。トルストイの最大の問題は宗教問題であって、否定的な思想は文明というものに対する全面否定と嫌悪にまで成長した。

悪霊の舞台背景となったネチャーエフ事件はバクーニンという「破壊の情熱に燃えた」ニヒリストが組織した秘密結社にあった。なぜロシアにニヒリズムが出たかという問題はロシア正教史の分離派までさかのぼる必要がある。ロシアにおけるキリスト教史は歴代のツアーの信仰史に過ぎない。まことに保守的で頑固な宗教であった。ツアー権力は教権の上に立った。上からの宗教改革は分離派という異端を生み出した。デカブリストもフリー・メイソンであった。彼らの憤懣と絶望がリアリストとニヒリストを生み出したのであって、決して科学的社会主義でもなんでもない。

ロシアには成長した社会などもともと存在していなかった。あくまで空想の文学の中に存在していただけである。ロシア型社会主義はベリンスキーのフーリエ主義に始まる。ドストエフスキーもこのフーリエ主義からスタートしたが、シベリア送りになってロシアのインテリの悲劇を語り始めた。つまり神と無神論の袋小路に入ってゆくわけでである。ドストエフスキーが死んだあと、1980年以降は思想が政治運動に結びつき、そして天才レーニンが出るに及んで革命的社会主義者が組織されツアー打倒のクーデタと上からの官僚的社会主義に成功したことは良くご存知のことである。両時代を生きた作家はゴーリキただ一人であった。このときも人民が疎外されていたことはツアー時代と同じこと。わが国の明治維新もそうであった。

美を求める心

「絵や音楽を頭で分かる分からないということは間違いだ。だから眼を慣らすことが第一だというのです。頭を働かせるより、眼を働かせることが大事です。見るとは美しさを見ることです。言葉の邪魔の這いらぬ花の美しい感じをそのまま持ち続けることです。美には人を黙らせる力があります。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。歌人は言い難い感動を、絵描きが色を、音楽家が音を使うように言葉を使って現そうと工夫するのです。」
小林氏の言葉はそのとうりでなんらけちをつけるつもりは無い。しかしこの話は誰を対象としているのだろうか。恐らく子供向けだと思われる。話の論理展開があまりにプリミティブでそれ自体は正しいのだが、そんな単純なものではないと反例がいっぱい出てくる。まず美の定義である。古典的形式美の範囲ではそのとうりだが、たとえばピカソの絵はどう見ても美しい概念ではない。これは20世紀の美術が美しさから脱皮し、もとの美を破壊したからである。音楽についてもしかりで、古典的形式美はことごとく破壊された無調性、12音階などの現代音楽(シェーンベルグ、アルバンベルグ)などは聴いていると頭が痛くなること請け合い。そして詩は死滅した。散文になった。これらを進歩というのだろうか。混乱・無秩序・退歩といってもいい情況だ。子供にどう説明したらいいのだろうか。

鉄斎 V、W

小林氏の鉄斎の話は、どうも書画骨董商の贋作につながる下世話な話ばかりで美術論ではない。本全作品集第17巻に鉄斎 Uを取り上げているので、もう一度振り返ってみよう。

鉄斎(1836-1924)は幕末から大正時代まで活躍した、京都在住の長寿の南画家である。江戸時代の文人画、日本画ではなく中国画、南宋画のことで歴史は古い。昭和では河合玉堂がその末につながっている。本来は繊細な墨彩色画のことである。最近ではテレビで鶴太郎が先生をやっている淡彩墨絵が近い。色といっても天然岩絵の具でせいぜい数種類の色に過ぎない(朱、緑青、群青)。ところが鉄斎の絵は墨の線がほとんど感じられない厚い塗り方である。伝統的南画の繊細と違う画風だ。なにかもこもこした塊感がある。

という風な纏めをやったが、今回の鉄斎V、Wについても小林氏は碌な絵画論を述べていない。鉄斎の片言知識でも挙げておくことにしよう。「鉄斎は扇面書きの名人。鉄斎に絵は晩年のものがいい。とくに80歳以後の作品は池大雅を抜くよう絵を描いた。彼にとって絵画は余技。」要するに鉄斎の晩年の絵は変幻自在で化け物的な絵が多くて評価を定めがたいのが真相だろうか。葛飾北斎、川端龍子、川鍋暁斎など天才的に絵のうまい人は晩年絵が崩れるようだ。


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