小林秀雄全集第20巻   ゴッホの手紙

ゴッホの手紙

最初から私事で恐縮だが、私がゴッホに出会ったのは高校生のころ京都市美術館でゴッホ展があって「アルルの夜のカフェテラス」を見たときである。誰でもかような出会いは常にあるものでその時ゴッホの補色関係の強い色彩感に強い衝撃を与えられた。つまり黄色の光と濃いブルーの対比が極めて美しいと感じたことである。それ以来私の絵にもこの補色関係がついてまわるようになった。ある意味ではあくどく調和を破る色彩感であるがなにか強い意思を感じる色彩である。私事はそれくらいにして小林氏がゴッホの絵に傾倒されるに至った契機を記そう。

1947年3月上野東京都美術館で読売新聞社主宰の「泰西名画展覧会」でゴッホの「鳥のいる麦畑」(ただし複製画)を見られた時のことである。「ただ一種異様な画面が突如として現れ、僕はとうとうその前にしゃがみ込んでしまった。熟れ切った麦は、金か硫黄の線条の様に地面いっぱいに突き刺さり、それが傷口の様に稲妻形に裂けて、青磁色の草に緑にに縁取られた小道の泥が、イングリッシュレッドというのか知らん、牛肉色に剥き出てきている。空は紺青だが、風を孕んで、落ちたら最後助からぬ強風に高鳴る海原のようだ。・・・・烏の群れが音もなく舞っており・・・僕は一枚の絵を鑑賞していたという事は、余り確かではない。寧ろ、僕は、或る一つの大きな眼に見据えられ、動けずにいた様に思われる。」
この不思議な感興が何処から起こるのかを考えるために小林氏はゴッホの史料読みを始められたようである。この、まず感激そして勉強して、謎をとくために書物を著すというパターンは小林氏一流の手法になったようだ。1952年親友の今日出海氏と欧州旅行の出かけられたとき本物の「烏のいる麦畑」を見られた時の感動を小林氏はこう記されている。「印象は、実に強いもので、私はかって彼の絵を見たときの感動を新たにしたが、かって見たものは不完全な画面であったが、それから創り上げた感動は、感動というものの性質上、どうしょうも無く完全なものであったと思った。私はどの絵も、熟読した彼の書簡を思わずに、眺めることは出来なかった。どの絵を裏返してもみても、手紙の文句が記されている様な気がした。」(「近代絵画」より)

小林氏はゴッホのどの絵を見ても、ゴッホの手紙の文句を思い出すようだ。その書簡とはゴッホから弟テオ(画商で、一枚も売れなかったゴッホの画家生活と病院生活を支えた)へあてた手紙集である。小林氏はその書簡を手紙を超えて稀に見る告白文学だといい、「手紙を読まなければゴッホは分からぬ」と感じていたようだ。ゴッホの絵は初期のものは確かに明るく美しい部類に入る絵もあったが、癲癇で入院している時期の絵は美しいという部類の絵には入らない。ある意味では不安なタッチ、不気味な構図、あくどい色彩感で満ちた「美しいという観点で見てはいけない絵」であった。従ってそのまま見れば、精神異常者の形象が歪んで陽炎のように揺らめく世界を表現しているようで(糸杉の絵など、ムンクの世界の色彩を強くしたもの)、気持ちが悪い絵である。
小林流の、興味を持った人やモノへの接し方は、対象と一体化することによって、その相手ととことん付き合ってゆくことだった。この姿勢は終始一貫したもので、ドストエフスキー、ベルグソン、本居宣長と続いた彼の歩みに真っ直ぐつながる。特にモーツアルトとの再会はゴッホと同じようにいうに言われぬ(私は一時これは彼独特のレトリック、修辞だと判断していた)感動から始まった。「あれを書く四年前のある五月の朝、僕は友人の家で、一人でレコードをかけ、弦楽五重奏曲K.593を聞いていた。夜来の豪雨は上っていたが、空には黒い雲が走り、灰色の海は一面に三角波を作って泡立っていた。・・・・・・・・・突然感動がきた。もはや音楽はレコードからやってくるのではなかった。海の方から、山の方からやってきた。」(ゴッホの手紙)、「もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいのかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然このト短調のシンフォニー(交響曲第40番)の有名なてテーマが頭の中で鳴ったのである。」(モーツアルト)

たしかに絵の背景にはなにかしらストーリがあることは否めない。しかし絵を絵としてみるには、余り身辺事項や心悩に立ちいらないほうがいい。情状酌量的な言い訳が前に出るのはどうかと思う。まずい絵はまずい。気持ち悪い絵は気持ち悪い。その前に言葉が出るのは本末転倒だ。理解は出来ても好きななれない。小林氏はゴッホの手紙を告白文学として読んでおられる。それはそれでいいと思う。しかしそれを絵の解説にしてはいけない。例えば発狂による自殺寸前の絵「ドービニーの庭」を弟への告別として描いておられるのは或いは真実かもしれないが、絵は完全に破綻している。


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