小林秀雄全集第19巻   真贋

真贋、政治と文学、「白痴」について U

真贋

骨董なんぞに興味のない人には無縁だろうが、贋物をつかまされた無念さと馬鹿さ加減を描いた自嘲風の小論である。真贋に一喜一憂するばくちの世界のことである。其処にまともな真・美の世界があろうはずも無く、小林氏の芸術的心眼などという芸当は信用するに価しない。相場や競馬に血が上ってしまった哀れな人のこっけいな話。健全な常識人は決して手を出すなという教訓だけが残るお話であるが、二、三面白い話があるので参考までに引用する。
「本物は増えない。需要はあるというところからインチキ商売が始まった。例えば、専門家の話では雪舟の本物は数点しかないのに雪舟をかけたい人は数万人いる。其処に贋物の存在理由がある。贋物と大きな声を出せば書画骨董界は危機に瀕する。」
「裸茶碗や表装のない書画に本物はあるが、箱や鑑定書のないような贋物はない。」
「仏教美術の世界は物知りの講釈で持っているような世界。」

政治と文学

ドストエフスキーが雑誌「作家の日記」で、プーシキンの「オネーギン」という作品に関する論争で、始めて見せた激しい怒りに作家の創作動機が見られる。「ヨーロッパは外的現象に救いを求める人で満ちている。道徳の根本がもう崩壊しているのだから、社会的理想に関するスローガンを叫ぶたびに事態は悪化するのだ。20回も憲法を変え10回も革命を起こしたではないか。総決算の時期は必ず来る。誰も想像できないような大戦争が起きるであろう。」

「文化を政治によって意識的に支配しようとする大国家(旧ソヴィエトのこと)、自由、平等、友愛の精神は自由主義というイデオロギーが良く似合った経済上の自由競争のことにすり替える中で腐敗した。」とどちらもばっさりと切り捨て、私は政治というものは虫が好かないと小林氏は公言する。「政治とは集団の多数に幸福を分配することであれば、個性には関係なく出来合いの思想を集団の間に分配することだ。もともと政治思想は人格とは相関関係には無い。」
そういう政治状況は無数の人に悲劇をもたらすことは、第1次大戦後のローレンスの「チャタレイ夫人」で「責任を何処へも持っていきようのない悲劇でも人は生きなければならない。」、第二次大戦の「きけわだつみのこえ」で「人は歴史は進歩しているのだろうかという疑問」に明白に示される。

「19世紀ヘーゲル、マルクスの歴史主義は、本当の人間、個人をイデオロギーで押しつぶした。それに抗して19世紀の芸術家たちによって芸術の意味が熱烈に意識的に問われたのは芸術史上空前の出来事であった。彼らは歴史や社会の動きの裡に全面的に解消できない人間の本質なり価値なりを信じていたのであった。進歩の概念など無視して自由に逆行し思うままに理想的人間像を蘇らせた。」と小林氏は芸術の力を絶賛している。政治嫌いがここでは救われている。「文学者はその思想を育てていくのである。美は思想になった。美はもはや文明の装飾たることを止め自ら進んで文化の意味を問おうとした。」ちとほめすぎではないか。戦後の文化再建という時期での自負が感じられるが、文学芸術の力はそんな大きくはない。

「白痴」について U

小林氏は1934年に「白痴」についてTを書いてから17年ぶりに「白痴」についてUを書いた。今回の重点はストーリーの展開ではなく、主人公を含む端役の言動に表れている作者自身の分身や作者の思想の断片を深く追求しているところが味噌であろう。小林氏はドストエフスキーの作品を実に長い間読み続けて新たな発見に努めているようで敬服する。まずは全作品集第五巻より「白痴」についてTの要点とストーリーを復習しておく。

「白痴」について Tより
ドストエフスキーは「罪と罰」に続いて「白痴」を書いた。「罪と罰」の延長上にあるが、はるかに円熟した語り口で登場人物も多くなった。ドストエフスキーは製作の意図を「この小説の根本の観念は一人の真に善良な人間を描くことにある。」しかし世界中に真に善良な人間はキリストただ一人であろう。その他はこっけいと言う名で善良なのだ。主人公ムイシュキン公爵は周囲の人に同情しながら誰一人慰めることが出来ない、ただの生活無能力者なのだ。
筋書きを書いてしまえば馬鹿馬鹿しくなるほど荒唐無稽である。「主人公ムイシュキン公爵は子供のころ癲癇に罹って以来、26歳まで精神病院の患者であったが、なかば健康を取り戻してペテルブルグに帰ってくると、捨てられた商人の妾ナスタアシャと将軍の娘のアグラアヤと同時に恋愛関係に落ち、彼は二人の女に同じ愛を誓う。一方ナスタアシャにほれた商人ラゴウジンがからんでくる。ムイシュキン公爵の態度が朦朧としているためナスタアシャの心は二人の間を揺れ動く。アグラアヤはナスタアシャとの恋愛合戦に敗れるが、ナスタアシャは昔受けた恥辱から自己虐待にあり結婚式の日になってラゴウジンの元へ走る。嫉妬のあまりムイシュキンを殺そうとして果たせなかったラゴウジンは今度は逃げてきた女を殺してしまう。ラゴウジンとムイシュキンは仲良く女の通夜をしてやるが、通夜のなかで一人は発狂し、一人は元の白痴にもどる。」

「白痴」について Uより
「白痴」に関する作者の創作ノートからは六通りのストーリーが試行されているが、結局一切のプランを放棄し「無条件に美しい人間を表現したい」という動機で無計画に書き始め役者の運動に任せた結果がこの作品である。ドストエフスキーはこの作品の出来はよくないかも知れないが作品の思想は弁護したいと言っている。
ドストエフスキーは自身の監獄生活に基づいて「死人の家の記録」を書いたが、以降の作品には「死」の一点を見つめた人間の生活の内部と外部の深い断絶を自身の動機とした作品が多い。十字架からおろされた醜悪な無慙なキリストの死体を描いたホルバインの画を見て、白痴の登場人物イポリットにこの画の描写をこまごまとやらせる。ここにはドストエフスキーの思想が何回も繰り返し現れてくる。この画に少年イポリットが見たものは世界の必然ではなく、暗愚で傲慢な無意味で永久の力である。聖書には生きることに関する強い素朴な畏敬の念が一貫して流れている。十字架上でキリストが言ったという七つの言葉とは(クラシック鑑賞のページでハイドンの「十字架上の七つの言葉」を参照ください)神に対する神の生きたいという絶望的な叫びです。神キリストでさえ何がなんだか分からぬ力を感じ叫び声を挙げています。いわんや俗人をや。

  1. 父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているか判らないのです。
  2. よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に天国にいる。
  3. 母よ、ごらんなさい。これがあなたの子です。
  4. わが神、わが神どうして私をお見捨てになるのです。
  5. 私はのどが渇いた。
  6. すべてが終わった。
  7. 父よ、私の命を御手にゆだねます。

ドストエフスキーが掴んだ思想とは自身の体験の深化であり、拡大であり、再構成であったといえる。見た世界とは強い美しい人がいますが、社会にはひたすら生きてゆくだけの単純性には全くの異常性、全くの不可測性が付きまとう。
主人公ムイシュキン公爵に自身の死の一点を見つめて発狂に精神が何処まで耐えられるかという彼の経験を三度まで語らせている。反合理、反真理の絶望的な力に根源的な視点が宿ることを繰り返し語らせている。
またドストエフスキーの宿病癲癇症をムイシュキン公爵に引き継がせている。このように登場人物に作者の体験を引き継がせてはいるが、其処には決して言えない告白があり、自然不透明な性格を帯びてこざるを得ない。これが作者の政政策の動機である。
主人公ムイシュキン公爵は白痴から復帰して、また終局には白痴に戻る悪夢のような人生を背負って行かせるようだ。主人公の告発者・観察者であるエヴゲイニーにこういわせている。「白痴とは外見にすぎず、実は賢い人間であるが、誰一人慰めることが出来ない、ただの生活無能力者だと断定して可哀そうな白痴め」
端役かもしれないが、三枚目の道化役者レベチェフに強い生活力を与え、嘘つきの老人イヴォルギンに空想力を与えてどちらも「一生を台無しにした人間」の生き方の例を示したいようだ。この二人の会話は実にグロテスクな笑いが漂う。「人生は現実的であればあるほど、いよいよ信じがたいものになる」みんななかなかの役者だね。それにしても主人公ムイシュキン公爵の力なさが際立つ。なんか影のような観念のおばけだ。


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