小林秀雄全集第18巻   表現について

雪舟、表現について、ペストT、U、金閣焼亡、ニーチェ雑感、偶像崇拝 

雪舟

小林氏はここで伝雪舟作(恐らく贋作)「慧可断臂図」と国宝「山水長卷」、伝雪舟作(恐らく贋物)「破墨山水図」の三点を取り上げて感心している。私には雪舟の絵で最高なのは「山水長卷」で全体が淡色で色付けられ、岩は強く、水は静かに、建造物は定規をもちいて几帳面に描いた破れの無い秀作であると見る。雪舟は48歳まで京都にいたが京都五山から認められず、箔をつけるため(明治以来の画家がフランスへ行くのと同じ)明に行って絵の修行するため山口の大内氏を頼った。明には学ぶべき師はいなかったと雪舟は嘯いているが、半分は本当で半分は嘘だ。大内氏の遣明貿易船で短い観光旅行をして何が分かるというのだろうか。とにかく雪舟は水墨画の日本化に成功した先覚者であることに間違いない。中国へ行く必要は無かったなら、箔をつけることには成功した。
小林氏ももてあましておられるように、雪舟には贋作があまりに多い。これは人気作家雪舟ということではない。戦国大名や江戸時代の大名が贈り物のために、贋作を大量生産したのだ。最初は模作と断ったかも知れぬが、それがまことしやかに雪舟作となっていった。すなわち模作が贋作へ転換したのだ。秋田藩佐竹氏のお宝博物館「千秋文庫」へゆくと、模作展をよくやっている。大名は手に入らぬ中国の絵画や書を借りては模作していた情況がわかる。成り上がり大名が自慢したいために贋作を注文しそれに答える贋作プロ集団がたくさんいたようだ(現在の中国と同じ情況)。大名のお宝は贋作の海に真珠を探すようなものだ。
小林氏の文章はこの危ない橋を渡るようなもので、伝雪舟作について心をこめて書いたとして、真作と後世分かれば氏の目が本物だったと評価されるだろうが、やはり贋作だとしたら氏はどういう責任を取るのだろうか。それとも自分の生きているうちは真偽は判明しないと高をくくっているのだろうか。今は氏も居ない。そんなものはお宝探偵団に任せたら。

表現について

この論文の主題はフランス印象派詩の再建と音楽との関連についてである。音楽についてその運動の歴史を概説したのは初めの数頁で、ほとんどはフランス印象派詩の運動についてである。
「美の形式を確立した絵画や音楽の古典派の時代(17,18世紀の全般的なヨーロッパ芸術の状態、絵画では古代ギリシャを理想としたラファイエット、レンブラント、音楽では調和の取れたポリフォニーの美を追求したモーツアルトまで)に対して浪漫派の時代は表現の時代であるといえます。」
「ベートーベンは自己表現という問題を最初に明らかに自覚した音楽家であった。今日から見てベートーベンが古典派と浪漫派との間を結ぶ大天才と映るのも、音と言葉、音の運動の必然性がもたらす美と、観念や思想に関する信念の生む真との間の驚くべき均衡。その最高の範例としてシンフォニー第9番」
「浪漫派音楽の骨組みは、どんな複雑な美妙な感動でも情熱でも表現できるという磐石の信頼はワーグナーに至って頂点に達し、その饒舌と舞台効果ため音楽を破壊する寸前まで来た。」
小林氏の説は概ね当たっているように思えるが、これを追求しだすと仮説はすぐに破綻するのが常だ。なぜなら絵画の運動と詩・文学の運動はフランスでは似ているように見えるが、音楽はオーストリアとドイツ・イタリアが中心なためおのずと自立運動の目的も時期もずれている。またベートーベンを形式から古典派に入れる人もおり、浪漫派はシューマンやシューベルト、メンデルスゾーンからとする意見もある。そして浪漫派がそして音楽が破綻したのは20世紀音楽の無調性音楽からであろう。ワーグナーではまだ破綻の兆しというよりは標題音楽に堕落したというべきで、その後も名作曲家マーラーや民族音楽、ジャズ、オペラなどが輩出している。形式から逃れようとして形式を破壊し美が無くなった。美の無い音楽なんて教師の説教みたいなものでクソ食らえ。さらに印象派とか言うような音楽は存在しない。ドピッシーを例に出すが何であれが印象派なのか首をかしげる。要するにいいたいことは、音楽、絵画、文学には各々限界と役割とから来る自立運動が違うので、一時的相似現象はあっても相関はない。関連つけようとすると破綻が来るだけだ。小林氏の話は面白いが議論に堪えない。

音楽との関連つけはこれくらいにしてさて本論のフランス印象派の運動について見てみる。浪漫主義の動きは18世紀の啓蒙思想という批評精神から生まれ、理性を尊重する主知派、個人主義、自然主義であった。ビクトル・ユーゴの浪漫主義は饒舌な告白文学であって、詩はその中ではちきれんばかりに自由な散文形式へ逸脱しようとする傾向にあった。ボードレールは音楽的要素を詩に導入しようとして「悪の華」を著した。フランス語では「悪の華」が音楽的なっているのかどうか私には不明にして分からない。
さて人は何を表現したいのだろうか。苦痛をか、欲望をか、意思希望をか、憎しみをか、理想をか、真理をか人さまざま。小林は「生活しているだけでは足りぬと信じる処に表現が現れる。表現とは認識なのであり自覚なのである。いかに生きているかを自覚しようとする意思的な作業である。」文筆家は表現だけが目的化した一種の化け物か。中身の無い自己をぶら下げたワープロなのか。表現とは生活の中での自己を生かす道だ。黙っていてはいけない。何もよくならない。声を上げよう。まるでどこかの政党のスローガンなのか。読まれることを期待しない表現はどうなるのか。

ペストT、U

第二次大戦後フランスに不条理の哲学を旗印に新星アルベルト・カミュが現れた(今テレビで活躍中のタレントのカミュ氏はその末裔らしい)。小説「ペスト」は、アルジェリアのオラン市がペストに襲われ隔離状態になり、市民の恐怖、連帯を描いて人間の不条理をつく虚構の小説である。人間の実在とは虚構によりしか描けないとするデフォーの考えを地で行ったフィクションである。
この世「娑婆」をこの世で無いもの「修羅場」から発言する。これを実存主義の小説だといわれている。人間の存在は不条理だということ(自分の努力では如何とも仕方ない状態を不条理という。封建時代の武士みたいなもの)であれば、今までの歴史でみても、ほとんど全ての人間は自分の努力では如何とも仕方ない状態にあるほうが多い。それを限界状態の虚構で言ったほうが危機感迫って分かりやすいという手法であろうか。人よ意識せよ、自分の力ではどうしようもない世界が多いことを!!力ない私たちには当然過ぎて面白くないな。

金閣焼亡

1950年京都衣笠の金閣寺が狂人の青年僧の放火により焼失した。彼の自供によると「金閣を見に来る閑な人間を見ていると、金閣の美は私には醜に見える。そんな人間を憎む私も醜い。なぜこう人嫌いになったのかそれは私のどもりから来ている。いらいらした気持から放火したが、これは社会革命の端緒だ。」
要するにどもりを人にからかわれて人間不信になった。これがかれの倫理観の欠如(人とのつながり、信頼感)である。これでは人間生活は営めない。人間信頼は人のかかせぬ常識でなければならない。常識を欠けば狂気といわれる。生理的な病理的な欠陥もこれを後押しする。彼の場合は前者が原因であろう。
ここに徒然草第八十五段を引用する。「人の心素直ならねば偽りなきにしもあらず。されども、自ずから正直の人、などかなからん。己れ素直ならねども、人の賢を見て羨むは、尋常なり。至りて愚かなる人は、たまたま賢なるひとを見て、これを憎む。・・・・・・・・狂人の真似とて大路を走らば、則ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば悪人なり。驥を学ぶは驥の類、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢と言ふべし」
ここで説いているのは人の性である。倫理である。また真似をすることの重要性で人の教育論でもある。常識を逸すれば狂人だ。人はいかに危ういことか。

この文章で意外にも、小林氏の論の持って行き方を勉強した、この章は徒然草第八十五段の模倣である。なるほど小林氏の文章作成の秘密が分かった。彼は学習能力が高い(いいと思えば直ぐ真似をする。)ただ最後に書かれた方丈記の論はいただけない。方丈記を読んで確かめたが、安元の大火の記述はあるが、その顛末の記述は小林氏は源平盛衰記から引用している。方丈記には間違っても狂気に関する記述は無い。「人間の狂気の広さに比べれば、人間の正気は方丈くらいのものだと彼は(鴨長明)言っている。」この条は小林氏の創作であって、鴨長明はそんな事はどこでも言っていない。方丈記に変な因縁をつけているのは彼のレトリック(修辞)であろう。

ニーチェ雑感

私はニーチェ(1844-1900)の「この人をみよ」、「ツアラトストラはかく語りき」などを学生時代によく読んだが、今小林氏のこの文章に接してもうニーチェのことは覚えていない。もう一度読み直す気力は恐らく無いだろう。従ってこの文のコメントは出来ないので、小林氏の言うところを列記するに留める。確かに良く分からない相手に対して私たちは生半可なラベルを貼って片付けたことにしておく嫌いがある。たとえばニーチェに対して、反道徳、反キリスト、超人、ニヒリズム、孤独など濫用してきた。これで何が分かったのか。好き嫌いを述べるほど勉強したわけでもないので、棚上げしただけである。

「ニーチェが一生で本当に驚いた本が3冊ある。ショーペンハウエルの主著、スタンダールの「赤と黒」、ドストエフスキーの「地下室の手記」である。」
「ニーチェはワグナーを理解したという言葉を誰にも許さなかった。ただひとりボードレールを除いては。悪の華を書いた半気違いだけがデカダンスの心理学に通暁していたからだ。」 

偶像崇拝 

小林氏が高野山の「赤不動」と「阿弥陀二十五菩薩来迎図」を見ての感想である。彼が言いたいのは審美眼だけではこういう宗教画の良し悪しは分からない。礼拝的態度が必要なのではないかと。それが出来たのは折口信夫氏である。折口氏はこれを画因と呼ぶ。その画の製作動機、喜び、其処から感じられるある種の力のことである。美術史家に審美眼が有ってもその宗教的歓喜のよさは分からない。小林氏はさらに敷衍して「審美的経験には何かしら礼拝的な性質がある。美術愛好者は皆偶像崇拝者だ。凡ての原始宗教は偶像崇拝から始まったが、三大宗教は偶像崇拝を否定した。ところが、キリスト教も仏教も膨大な偶像の群れを引き連れて発展したのは面白い。そこには偶像でなければ表現できない宗教的悦楽があるのだ。そこで絵画彫刻の果たした役割は大きい。」


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