小林秀雄全集第17巻   私の人生観

鉄斎 U、中原中也の思い出、私の人生観、蘇我馬子の墓 

鉄斎 U

鉄斎(1836-1924)は幕末から大正時代まで活躍した、京都在住の長寿の南画家である。南画には私は興味が無く江戸時代の文人画と考えている。日本画ではなく中国画である。本当は南宋画のことで歴史は古い。昭和では河合玉堂がその末につながっている。本来は繊細な墨彩色画のことである。最近ではテレビで鶴太郎が先生をやっている淡彩墨絵が近いか。色といっても天然岩絵の具でせいぜい数種類の色に過ぎない(朱、緑青)。ところが鉄斎の絵は墨の線がほとんど感じられない厚い塗り方である。繊細と縁のない画風だ。なにかもこもこした塊感がある。いいかどうかは趣味の問題で私は感心しない。小林氏が西洋画以外の日本の絵というと鉄斎だけしか挙げない。他の絵には興味が無いのかな。

中原中也の思い出

小林氏と中原氏(1907-1937)は妙な三角関係で情人を奪い合った関係で、ほぼ絶交状態が続いた。しかし一番中原氏を知っているのは小林氏かもしれない。「中原の心の中には実に深い悲しみがあって、それは彼自身の手に余るものであった。」、「人々の談笑の中に悲しい男が現れ、双方が傷ついた。善意ある人々の心に嫌悪が生まれ、彼の優しい魂の中に怒りが生じた。彼は一人になり、救いを悔恨のうちに求めた。汚れちまった悲しみにが彼の変わらぬ詩の動機だ、終わりの無い繰り返しだ。」30歳で中原氏は狂死した。

よごれちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
よごれちまった悲しみに
今日も風さえふきすぎる

私の人生観

この文章はなにかの講演会での話を文にしたものであろう。量は60頁もありかなり長い講演だったようだ。こういう場合小林氏は詳細なメモをご用意されるのか、話の流れだけのメモであとはアドリブでこなされるのか知らないが、内容からして詳細な原稿がないと話が出来ぬような気がする。前半は仏教の観について、後半はベルグソンの哲学と宮本武蔵の生き方についてであろうか。話が多岐に及んでいるが、多少分裂気味で話の連絡が取れないが聞いている人は分かったのだろうか。なおここでいう「私の人生観」という題は「生き方の哲学・思想」というぐらいの意味である。小林氏の生き方が語られているわけでない。
観という言葉には日本人独特の語感があります。そしてそれは仏教の思想を抜きには語れません。「感無量寿経」、「般若心経」、恵心僧都「往生要集」、美術から唐招提寺「鑑真和尚像」、高山寺「明恵上人像」、高野山密教「二十五菩薩来迎図」、仏教教理から禅の「止観」、密教の「見仏」などなど仏教の知識をご披露されている。結局仏教の認識論は「無」である。般若心経の全文を下に示す。読める人は読んでください。いかに無が多いか。否定の論理が横行しているか。意味については書評7)柳澤桂子著 「生きて死ぬ智慧」を読んでください。
観自在菩薩 (かんじざいぼさつ)
行深般若波羅蜜多時 (ぎょうしんはんにゃはらみたじ)
照見五蘊皆空 (しょうけんごうんかいくう)
度一切苦厄 (どいっさいく)
舎利子 (しゃりし)
色不異色 (しきふいしき)
色即是空 (しきそくぜくう)
空即是色 (くうそくぜしき)
受想行識亦復如是 (じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ)
舎利子 (しゃりし)
是諸法空相 (ぜしょうほうくうそう)
不生不滅 (ふしょうふめつ)
不垢不浄 (ふくふじょう)
不増不減 (ふぞうふげん)
是故空中 (ぜこくうちゅう)
無色 (むしき)
無受想行識 (むじゅそうぎょうしき)
無眼耳鼻舌身意 (むげんにびぜつしんい)
無色声香味触法 (むしきしょうこうみそくほう)
無眼界 (むげんかい)
乃至無意識界 (ないしむいしきかい)
無無明 (むむみょう)
亦無無明尽 (やくむむみょうじん)
乃至無老死 (ないしむろうし)
亦無老死尽 (やくむろうしじん)
無苦集滅道 (むくしゅうめつどう)
無智亦無得 (むちやくむとく)
以無所得故 (いむしょとくこ)
菩提薩た (ぼだいさった)
依般若波羅蜜多時 (えはんにゃはらみったこ)
心無けい礙 (しんむけいげ)
無けい礙故 (むけいげこ)
無有恐怖 (むうくな)
厭離一切顛倒夢想 (おんりいっさいてんとうむそう)
究竟涅槃 (くきょうねはん)
三世諸仏 (さんぜしょぶつ)
依般若波羅蜜多故 (えはんにゃはらみったこ)
得阿耨多羅三藐三菩提 (とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)
故知般若波羅蜜多 (こちはんにゃはらみった)
是大神呪 (ぜだいじんしゅ)
是大明呪 (ぜだいみょうしゅ)
是無上呪 (ぜむじょうしゅ)
是無等等呪 (ぜむとうどうしゅ)
能除一切苦 (のうじょいっさいく)
真実不虚 (しんじつふこ)
故説般若波羅蜜多呪 (こせつはんにゃはらみったしゅ)
即説呪曰 (そくせつしゅわつ)
羯諦 羯諦 (ぎゃてい ぎゃてい)
波羅羯諦 (はらぎゃてい)
波羅僧羯諦 (はらそうぎゃてい)
菩提薩婆訶 (ぼじそわか)
般若心経 (はんにゃしんぎょう)

なお面白い小林氏の意見がある。「仏教者の観法という根本的な体験が、審美的性質を持っていた。観法はそのまま西行の歌に、雪舟の水墨画に、利休の茶に、宗祇の連歌に通じるものがあると芭蕉は言っている。」日本人の生き方や芸術に仏教の観法がいかに根底に流れているかということである。
後半の話は実に西洋哲学とくにベルグソンの哲学と日本しかも宮本武蔵の武芸と絵画にわたるちゃんぽんで頭の中が混乱するほど話題が飛ぶ。煩雑なので省略したい。特に筋を立てた論理構成ではなく、あくまで相似を連想させるだけの話である。

蘇我馬子の墓

奈良島の庄に、伝島の大臣蘇我馬子の巨石墳墓がある。(石舞台とも呼ばれる)場所を知りたい方は地図サイトへをクリックしてください。小林氏はこの石舞台を訪れて、曽我氏の先祖竹内宿禰から馬子と聖徳太子の思想を振り返り歴史について考察を廻らす。
蘇我馬子の祖先は竹内宿禰という古事記・日本書紀に現れる国家の重鎮で大和朝廷六朝(景行、成務、仲哀、応神、履中)に仕え齢三百歳を超える不思議な政治家であった。その末裔の蘇我氏は稲目、馬子、蝦夷、入鹿と続いた。壬申の乱で蘇我氏は中大兄皇子に討たれ消滅した。馬子の権力は天皇を超え崇峻天皇を殺害し、推古天皇と聖徳太子(厩皇子)を摂政に立てた。傀儡に過ぎないが理想に燃えた聖徳太子は勉強家で「経疏」という仏典の注釈書を著すほどであったが、十七条の憲法という誰も省みない理想を掲げたが無視され、斑鳩法隆寺夢殿に閉じこもってしまった。変死らしいが聖徳太子死亡後は蘇我氏は太子一族を滅ぼし斑鳩を焼いた。なぜか小林氏は飛鳥・天平のいらか群が石つくりだったらという変な空想をする。彼は冗談だというが、歴史にタラレバは禁句であることを百もご承知のはずがどうしたの。


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