小林秀雄全集第15巻   モーツアルト

モーツアルト、ランボーV、光悦と宗達

モーツアルト

小林秀雄氏が始めて音楽関係に口を出した記念すべき文章である。文章は平易で彼独特の捻りや嫌味は少なく分かりやすい。その代り内容が少ない。これは氏の音楽的知識の不足にもよるが、結局音楽は言葉では伝わらないという当たり前の理屈に従ったまでのことである。書簡や伝記をいくら詮索しても音楽の周辺をうろうろするだけで、音楽の心髄に迫れるわけも無い。モーツアルトの手紙をいくら解析してもモーツアルトの痴呆性が見えてくるだけである。その痴呆性は創造のテンションがなせる業に過ぎないので、まともに取り付く必要は無いといった代物である。なぜか絵画は文学が侵入しやすい領域である、特に現代絵画はその狙いを口で言ったほうが早いような抽象画に毒されて以来、文学の植民地化したといえる。音楽とくにクラシック、ジャズなどはもう言葉が進出できる領域ではない。音楽は絵画の色感覚と同様に、言葉ではなく人の感覚の領域に存する。ただひたすら聴くことが理解の早道である。では小林氏の文章は無駄な努力に相当するのだろうか。
いよいよ小林氏の本文に入ろう。小林氏の論点は幾つかある。美と様式について「美と呼ぼうが思想と呼ぼうが、要するに優れた芸術作品が表現する一種いい難いあるものは、その作品固有の様式と切り離すことが出来ない。」、「モーツアルトの悲しさは疾走する。低音部の無い彼の短い生涯を駆け抜ける。」、モーツアルトの音楽の魅力について「モーツアルトの単純で真実な音楽は僕らの音楽鑑賞の試金石であるといえる。」、「モーツアルトの美しいメロディは実は一息で終わるほど短い。心が耳と化して聞き入らなければ、ついて行けぬようなニューアンスの細やかさがある。一度この内的な感覚を呼び覚まされ、魂のゆらぐのを覚えた者は、もうモーツアルトを離れられない。」など頷ける論である。また挙げている作品には、交響曲第40番、ハイドンセット弦楽四重奏曲、弦楽五重奏曲K.516、交響曲39番,41番、弦楽四重奏曲K.465、魔笛、レクイエムなどである。もちろん多くの曲を聞かれての一例に過ぎないであろう。これでモーツアルトの魅力が語れるとは思えない。
私もモーツアルトの曲はほぼ全曲CDを持っているし一度以上は聞いた。特にモーツアルトの心髄といえる曲はピアノ協奏曲、管楽器協奏曲、三大交響曲、弦楽五重奏曲、レクイエム、歌劇にあると考えるが、ほぼ小林氏と同意見である。私のHPの「クラッシク音楽とCDページ」でもモーツアルトは何回も取り上げている。私はピアノ協奏曲と弦楽五重奏曲、レクイエムをモーツアルトの白眉とする。その魅力についてはHPのクラッシク音楽とCDページをご覧ください。
そしてモーツアルトについて結論を言おう。明るい悲しみのピアノ協奏曲、躍動する主題の弦楽五重奏曲、恐れおののくレクイエム、もうこれで充分、言葉は要らない。

ランボーV

小林秀雄はフランスの詩人ランボーについて三回著述した。1926年に「ランボーT」、1930年に翻訳「ランボー詩集地獄の季節」と「ランボーU」、1947年に「ランボーV」を著した。再度そのポイントを記して復習する。

ランボーTは「この孛星(はいせい)が、不思議な人間厭嫌の光を放ってフランス文学の大空を掠めたのは、1970年より1973年まで・・・」というあの有名な文句で始まる論文であった。ランボーは自分をパリに呼んでくれたボオドレールにピストルで撃たれて、その年にパリを出奔し文学的生命に終止符をうった。その歳19歳であった。驚くべき早熟な天才であろうか。凡人の言葉で言えば「直情怪気」、実行家精神でアフリカの砂漠に消えた。小林秀雄は「ランボーの詩弦は・・・触れるもの全てを石断することから始めた。」、「ランボーが破壊したものは芸術の一形式ではなかった。芸術そのものであった。」、「彼は美神を捕らえて刺し違えたのである。」とランボーの宿命を賛美して、ランボーの美とは破壊者の作り出した光芒であるとした。この初めのランボー論のモチーフをなしたのは「宿命の理論」であって、当時の小林秀雄の文学活動を貫くライトモチーフであった。かくして小林秀雄も日本の文学界を破壊し、否定する作業を開始する。

小林秀雄氏はランボー詩集の翻訳の前書きで「自分が数年前に書いたランボー論(ランボーT)の如きは見るのもいやだ」と書いている。氏のランボー感はかくのごとく日を追って変化しているので、文面にあまりこだわっていると損をする。今回の前書きでは「ランボーの表現はどこを見ても極点に彷徨する態の緊迫性を持っております。・・・生々しい人間叙情の調べをその絢爛な衣の下に隠しているのです。」 相変わらず名調子だ。地獄の季節は詩集であるので、内容を抽象するような理解を拒否し、無意味であることを教えている。従って私としては纏めようがない。読んでいただくしか方法がない。そこで錯乱U、言葉の錬金術より「一番高い塔の歌」を掲載するに留める(第2巻 頁55〜56)。ここに歌われた情景が具体的に何を意味するのか、象徴するのかなどは考えないほうが得策である。どんな感情になるかだけが問題であろう。いやなことが吹き飛んで、期待に胸が膨らむ情景だけを思い起こせば満点だ。

さて1947年にこのランボーVが初論から20年以上たって突如として現れた。何かすばらしい発見があったのか、それともまわりからおだてられて再度筆を執ったか。恐らくランボーの手紙の発見が彼のランボー感を強化したと思われる。ランボーは作品が人の読まれることを願って書いたわけではない。一切の出版を拒否し原稿を焼いて砂漠に消えた。読まれない以上彼の文章はいわゆる心象メモであっていい。晦渋という言葉は既に読まれて分からないということを意味しており欺瞞に満ちている。もし小林氏が晦渋をうたい文句にして文章を売る商売をやっているとしたらそれは詐欺であるペテンである。まして晦渋を真似ているとしたら児戯に等しい。晦渋論はこれくらいにして、マラルメの炯眼に入ろう。マラルメはランボーを「途轍もない通行者」と呼んだ。しかしランボーを印象主義、ダダイズム、シュールレアリズムと関係ない視点で理解した唯一の詩人であった。小林氏はマラルメの視点を次の2点に集約された。「第一にランボーの詩形の不安定さは、主題の曖昧さから来ているのではない。それは或る物の厳密な観察に由来する。第二にランボーは或る普遍的な純潔な存在である。」

ランボーが詩人について語った1871年の手紙に「詩人は千里眼でなければならない。あらゆる感覚の長い限りない合理的な乱用によって千里眼になる。自分の見るものが理解できなくても彼は将に見たものは見たのである。これを普遍的知性という。」
ランボーは「地獄の季節」において「飾画」で見たものはあまりに遠くてどんな言葉を発明しても(言葉の錬金術師)伝えることは出来なかったと反省?しているようだ。ランボーが見た狂った世界とは、現代文明の社会組織が崩壊する有様であり、それが原始性という大海に漂うさまであった。それがフランスの熟爛した文学に対する破壊であったが、誰も理解することはできなかった。最後に小林氏はランボーの心境をこう推測した。「ただ、もう俺は厭になった。地獄の季節に明らかな論理や観念を渇望しても無駄だ。自分の無邪気からくる嫌悪と渇望との渦を追う。]
眩くような詞藻の生活とこれに続く文字どうりの砂をかむような蛮地の労働と取引の生活が評者の理解を混乱させるのである。

光悦と宗達

江戸時代の初期はまだ桃山文化が支配していた。三代将軍家光までは豪華絢爛たる日光陽明門、二条城の狩野派障壁画や長谷川等伯派の障壁画が全盛期の時代であった。その中で本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳のいわゆる琳派が絵画や襖絵、蒔絵などに職人芸の美の極地を見せていた時代である。なかでも職人の共同作業として有名な本阿弥光悦書、俵屋宗達絵の「四季草花下絵和歌卷」がつとに有名である。宗達の金銀泥で描いた草花下絵のうえに、光悦が光悦流といわれる豊麗な書を展開した。「四季草花下絵和歌卷」以外にも「四季草花下絵和歌短冊画帖」や「光悦色紙貼交秋草図屏風」を共同で製作した。「四季草花下絵和歌卷」のなかで、竹図、梅図、千羽鶴図などが単純斬新な構図で見る者を楽しませてくれる。
私はこのHPのどこかで書いたが日本画は写実ではなく架空の世界を描くものといったが、これらの天才職人はそのデザイン性で群を抜いており、そのデザインは京都の友禅染めや織物に現在も生きている。小林氏の文章は特に変わったことは言っていないありふれた美術展の印象記なので、小林氏の文章とは関係なく私の経験で記述した。
蛇足ながら本阿弥光悦は徳川家康に睨まれ、京都郊外鷹が峰の麓に光悦一族と芸術集団の部落に閉じ込められた。彼自身も家康をひどく嫌った。また俵屋宗達の絵画ははるかに尾形光琳の上を行くものと見る人が多いのになぜこの流派が琳派と呼ばれるのか誰も知らない。ある意味では日本画の美は桃山時代から徳川初期で頂点に到達し、それから現在にいたるまでこれを超えた美を創造した人はいない。


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