小林秀雄全集第14巻   無常という事

伝統、「カラマンゾフの兄弟」、当麻、無常ということ、平家物語、徒然草、西行、実朝

伝統

志賀直哉氏が1928年に「夢殿の救世観音を見ていると、その作者というような事は全く浮んで来ない。それは作者というものからそれが完全に遊離した存在となっているからで」と述べた文章があるが、小林氏は見事この文章を伝統という言葉に置き換えた。はたして志賀氏が伝統を意味したのかどうかは別として。美しい仏像を見て美しいと感じる我々の心が綿々と続いていることが伝統なのだろう。仏像がいつ誰によって作られたかではなく、いわば時代に制約されないで日本人の美しいと思う心が連続していることが日本の伝統である。私もまさに正しい定義だと思う。しかしながらこの伝統も意識しないと直ぐに忘れられる運命にある。万葉の伝統を回復したのは鎌倉の実朝と明治の正岡子規であった。かく努力するという行為が鑑賞であり伝統である。私見だが、推古時代の仏像は私は嫌いだ。なぜかというとこの時代の仏像は朝鮮から直輸入した金ぴかの騎馬民族由来の衣装をしており、しかも硬質の冷たい形式で技術が稚拙であるからだ。これがダイレクトに日本の美意識の伝統だとは思えない。日本の仏像の美が完成するのはもう少し時代を待たなければならない。

「カラマンゾフの兄弟」

1980年に発刊されたドストエフスキー最後の長編作品である。扱われる主題は二つあり、ひとつは次男イヴァンの「大審問官」というキリストを審問にかけるという驚くべく手法で信仰問題を扱う。もうひとつは長男ドミトリイの「偉大なる罪人」を描いた悲劇である。父親殺しの犯罪とその直截的支離滅裂な生活の悲劇はドストエフスキーの生涯描き続けた人物像でいわば彼の分身とも言える。
筋書きを要約すれば。万事金を増やすことに長けたカラマンゾフ家の父親フョオドル・カラマンゾフは居候から小地主にまで成り上がった男で飽くことを知らぬ好色漢(いつもドストエフスキーの小説に出てくるキャラクター)の家には三人の息子があった。兵隊の長男ドミトリイ、モスクワの大学生の次男イヴァン、神学生の三男アリョオシアらはお互いに長い間父親から離れて成人したので良く面識がない間柄だった。あるとき全員が一家に集まり物語が始まる。親子四人と女たちが絡んで燃え上がるような敵意と憎悪の仲で父親殺しの推理小説が展開される。父親を殺したのは三千ルーブルの金を無心にいった長男のドミトリイがつまらぬことから父親を激しく嫌悪して殺さなくてもいいのに殺してしまう。というストーリであるが、父親フョオドル・カラマンゾフは頑丈な男でどうしょうもない強い肉欲を持ち堂々たる悪役を演じる。
長男ドミトリイ(愛称ミイチャ)がこの小説の主人公である。支離滅裂な言動で小説をぐんぐん引っ張り、恋愛を悪夢と悲劇と感じる彼は良く描かれた人物でドストエフスキーの作品では一番生き生きと描かれている。長男ドミトリイの性格は一度も己を振り返ることなくまっすぐに地獄のどん底へ突き当たってゆく。空想、思想、思慮分別や自己制御といった智恵から開放された彼はまさにドストエフスキーの作品ではおなじみの確実な実在であるが、その直截的性情のために喜劇・悲劇を演じながら転落する。
次男イヴァンは否定と懐疑の子である。「大審問官」という劇詩は16世紀のスペインの宗教裁判を舞台とした。キリストの非を大審問官が問い詰めるという形式である。この面白さに私は驚いた。1500年以上も経ってキリストがひょこひょこ現れてくる滑稽さ。そして人間を決して救えなかった現状からキリストの誤りを問い詰める審問官と黙って答えないキリスト。キリストは人間に愛と自由を説いた。ところが現実の人間を見れば、不安と惑乱と不幸が人間の運命だ、人間は服従とパンと幸福しか求めない奴隷だ。キリストは人間の本性に対して無智きわまりない。真理はキリストにはない。この問答はおそらくドストエフスキーの苦しんだ末の思想だろう。「カラマンゾフの兄弟」で神の存在という命題を追求したが、最後のうめき声は「真理はキリストのうちにはないとしても、僕は真理とともにあるより、むしろキリストと一緒にいたいのです。」どうも支離滅裂な結論です。論理的にはつながりません。

当麻

世阿弥作能「当麻(たえま)」は、当麻寺に詣でた念仏僧が老尼より「中将姫が山に籠って念仏三昧の末に弥陀の来迎を拝したという生き仏の伝説をもつ寺の縁起」を聴くうちに中将姫の精魂が現れては舞う筋立てである。能役者はなぜ皆面をかぶるのか。肥満した役者の顔を隠すためか。いやそうではない、世阿弥の美学「風姿花伝」にある「秘すれば花」による。小林はこの年になって始めて能を見たのか。そんなおおげさな表現をするまでもなく能とはそういうものだ。驚愕して納得するまでのことはない。能はいつも夢現の生を舞うものだ。

無常ということ

小林氏が比叡山山王神社に詣でた時、ふと浮んだ「一言芳談抄」の文章に心打たれたいう手順で書かれているが、舞台効果を狙っただけで順序は逆だろう。こういうテクニックを労するのがいかにも氏の嫌味になっている。という岡目八目手評論は別にして本論に入る。この文章の美しさは何処から来るのだろう。やはり人は常に無常に曝されている動物だと感じるところに哀れさといとほしさがにじみ出るものである。

平家物語

平家物語の冒頭の文章「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色盛者必衰の理を現す、驕れる者久しからずただ春の夜の夢の如し・・・・・・・・」に騙されるなと小林氏は言う。騙された人がいたのかな。私は平家物語は声を出して読めと教わった。眼で読むものに有らず、吟じるものだという風に。あの気持ちいリズム、躍動する馬と武者の筋肉、笛の悲しい調べなどが眼に浮ぶように聞こえてくるはずだ。小林氏が心配するような線香くさい哲学でないことは自明であった。いわれるまでもなく日本が誇るにたる叙事詩である。

徒然草

「徒然なる儘にひぐらし、硯に向かいて、心に映り行くよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、怪しゅうこそ物狂ほしけれ」で始まる徒然草は鎌倉末期吉田兼好(歌人)の作である。兼好は仁和寺の南にある双ヶ丘の近くにその住居があった。先日京都にいって住居跡(寺になっている)を見てきた。それがどうしたわけではないが、其処から仁和寺に通う兼好の姿を想像すると面白い。「紛るる方無く、ただ一人あらむ」と頭は冴えいよいよ物が見えすぎる辛さは「怪しゅうこそ物狂ほしけれ」であったに違いない。先日岩波文庫の徒然草を読了した。何回目の読書か知れないがとにかく平易で読み飛ばせる。同じ随筆集である枕草子の読みにくさに比べれば比ではない。小林氏は兼好をモンテーニュより200年も前にそのレベルの仕事をしたとべた誉めである。同じ批評家としての愛着を感じるのであろう。有職故事家であった兼好は基本的には貴族の慣例を重んじた。だから徒然草の内容の半分ぐらいは古式を正すことで占められる。其処は現在の私達には興味を感じないところである。むしろ仁和寺の坊主の失敗談や巷の風説談に惹かれる。文筆家の材料として枕草子が読み続けられるが、「今昔物語」とはおのずと趣旨が違うので同列には論じられない。

西行

「心なき身にもあわれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮」  (西行)
「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮れ]  (定家)
「さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮」 (寂蓮)
まずはこの三者のいわゆる「三夕の歌」を見ていただきたい。西行の歌のみが心を歌っている。あとの二者は景色を歌っているに過ぎない。西行は思想歌人だというのが小林氏の見解である。その観点から五十首ほどの歌を列記して解説を加えたのが本論である。西行の歌集「山家集」には1560首あるので厳密な統計を取ったわけではないだろうといっても、そんな事はどうでもいいと小林氏からどやされそうだ。平安時代末期の武士の台頭時期に北面の武士(西行の父は佐藤康清といい奥州藤原氏の祖藤原秀郷の九代目)を捨て、世捨て人としての歌の道にはいった。といっても坊主ではないさすらいの歌人として、日本全国を旅する歌人の原型は西行に始まった。世を捨てることの意義や悲しさ、孤独、未練などを綿々と綴ってゆく歌に「心深く悩む」歌の心髄が現れているというのが小林氏の見解である。ところで下賎な話を付け加えると、西行の時代には歌人が旅をする際の経済的援助は、芭蕉のように江戸時代の俳壇が形成されて援助者が各地にいたというわけではない。人の話によると佐藤家や奥州藤原氏の援助は見逃せないし、情報通としての役割もあったという。特に時期が時期だけに源頼朝の奥州征伐(義経追討にひっかけた奥州藤原氏打倒の狙い)には西行のような奥州藤原氏につながる血縁のものは危険であった。そういう時代を見越して世を捨てたのだから命を全うできたという解釈も成り立つ。恐らく武士のままであったら源平の戦いで早くに命を落としていたであろう。命を切り取りする武士の社会に見切りをつけた歌人の成果を誉めるべきか、西行は複雑な人間である。

実朝

鎌倉幕府三代目将軍源実朝の実像と歌に迫る前に実朝が置かれた背景を一覧しよう。平安末期の源平の戦いは平家物語に、美しくも力強く活写されている。衰退した藤原貴族社会(荘園制度)はすでに地頭・地侍により食い荒されており公家が治める制度は空洞化していた。そこで天皇の権威に寄らない荒らしい力のみの武士権力が時代を乗っ取る過程が平家物語の由縁でもある。源頼朝が挙兵した後ろ盾は言うまでも無く平家一族の北条家である。(危険な子供頼朝を平清盛が預けた先は平家北条家である)これは源平でなく平平の戦いである。要するに源平などという貴族社会の武家部門の構図で捉えるべきではないと言いたいのである。関東武士団が京都公家勢力を(平家はすでに公家化していた)を滅ぼすことが新時代の曙であった。
1192年に鎌倉幕府が成立した後は、傀儡政権源頼朝を擁した北条政子と義時が覇権を確立する過程になる。頼朝がなくなると北条家は二代将軍頼家の外戚を始め、有力な御家人を次々と討伐してゆき、幕府は陰謀と暗殺が渦巻く権力闘争の修羅場と化した。梶原景時、阿野全成、頼家の長男一幡、頼家の次男栄実を擁した泉親衡、比企能員、畠山朝雅、和田義盛を討伐し、その連関にいた二代将軍頼家、三代目将軍実朝ももはや無用の長物となっていた。頼家は幽閉先の伊豆修善寺で、そして実朝は鶴が丘八幡で頼家の子公暁に暗殺され、その公暁も三浦義村が討ち取った。かくして北条義時と大江広元が鎌倉幕府の基礎を固めた。三代目将軍源実朝は将軍に祭られために二代目将軍源頼家の子三人に深く恨まれる因果の連鎖の只中にあった。その心情は極めて哀れで暗殺の恐怖に苛まれていたものと理解される。無論これは源頼朝のスポンサーだった北条家の覇権確立の過程であって、詩情をさしはさむ余地の無い非情な武士社会の権力闘争である。北条政子も自分の子・孫を次々と暗殺するストーリの立案者であって、彼女自身の心悩は筆舌には著しえない。皆が阿鼻叫喚の地獄絵の真ん中で生きていた。
そして本論文に入ろう。小林氏は定家所蔵本「金塊和歌集」より21首を引用して、子供のままの無邪気な実朝が28歳で命を落とすまでの心の不安を愛情をもって解説されている。実朝の心は正岡子規がスローガンとした「万葉集の広き直き心」の系列には無い。また佐々木信綱氏の定家所蔵本「金塊和歌集」の発見から、金塊和歌集(663首)は22歳までの実朝の歌であることを明らかにした。23歳から28歳までの歌は散逸したのか、もう実朝は歌を忘れたカナリアになったのか一切は不明である。引用された21首の歌だけからは実朝の憂悶の歌であることは明であるが、先の西行論でも小林氏は50/1560のサンプルで西行を思想歌人と断定したが、実朝についても21/663のサンプルで憂悶の歌人と断定していいものかどうか。いずれもサンプル率は母集団の3%以下である。やはり自分で確かめなくてはいけないが、小林流批評精神は実朝をそう感じたのだから、それはそれで誤ったものではないだろう。


この14巻で小林氏の戦前1945年(昭和20年)までの作品は終了である。フランス文学からロシア文学、日本私小説批判、プロレタリア文学批判を経過して氏が現代小説の文藝批判に興味を失い、古典に回帰してゆく姿が如実に分かるであろう。また戦争中の5年間で一冊の本しかかけなかったという作品数の少なさにも当時の天皇制軍事政権という時代を思いやられる。さて次からは傑作が多く現れる戦後の小林氏の活躍を見てゆこうではないか。


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