小林秀雄全集第11巻    ドストエフスキーの生活



「ドストエフスキーの生活」は翻訳文を除いてこれまでの小林秀雄氏の評論文では一番長い。(最後まで見ると一番長いのは「本居宣長」であるが)内容量も200頁を越すが、ドストエフスキーの伝記風作品論である。従ってこれを一言では表せるわけもない。各章毎に纏めてみるしか方法はない。

序(歴史について)

歴史上(過去の)人物と作品を考察するに当たって、歴史に肉薄する方法論の序として実に格調の高い文章である。いくら志が高くても技術が未熟では覚束ないが、それはさておきその志を聴こうではないか。「歴史とそれを考える人間の曖昧さにはいつも驚かされる。自然は人間が存在する間にその仕組みを変えることはありえない。ところが歴史は人間が作り出さねば存在するものではない。つまり人間の想像力が史料に働いて作ったものが歴史と呼ばれる。歴史は物理的時間では一回きりの事実であるが、形而上学的時間で意義・価値を理解することが出来るであろうか。ドストエフスキーという歴史的人物を蘇生させるのが本論の目論見である。」結構ではないか。ではゆるゆるとその展開を眺めてゆこうか。

1.処女作まで

ドストエフスキーは1821年モスクワの軍医の家に生まれ、中産階級出のインテリとして育った。ペテルスブルグの陸軍工科学校に入学したが、途中父が農奴に殴り殺されるという横死事件で死亡し、工兵隊に職を得たが当時の西欧ロマン主義文学に傾倒していた彼は職を辞した。七人兄弟のうちドストエフスキーを含めて四人が何らかの精神衰弱傾向にあった(ドストエフスキーは生来癲癇に苦しめられた。又それが作品創造の原動力でもあった)。1846年「貧しき人々」が批評家ペリンスキーの「社会への抗議」という激賞を得て一躍文壇(文壇と言っても狭いサロンに過ぎなかったが)に出た。ところが彼持ち前の尊大さと気難しさでこんな狭い文壇も泳ぐことが出来ず、ツルゲーネフのいびりに会って直ちに飛び出した。そのため第二作「二重人格」はサロンから総スカンを食い天国から地獄へ突き落とされた。かかるときにペトラシェフスキー事件が口をあけて彼を待ち伏せていたのである。

2.ペトラシェフスキー事件

ペトラシェフスキー事件が起きるまでの社会的背景を描いておこう。1825年農奴解放を目指した武装蜂起「デカブリストの乱」は貧弱な工業資本主義が農奴解放を求めるほど成熟していなかったため、無残にも圧殺されかえってニコライ一世の憲兵団によるツアー専制恐怖体制が確立した。常に監視されるインテリは当然狭隘な世界に逼塞せざるを得なかった。1848年フランスで二月革命とパリコンミューンが勃発したが、その熱波はついにロシアには届かなかった。政治的党派を実現する可能性が絶無なロシア社会の情況で青年インテリが自由な意見を交換するために結社が生まれた。ペトラシェフスキー会は決して革命的結社ではなく空想的社会主義者フーリエを信奉していただけである。しかし専制政府は1849年スパイの報告で事件をでっちあげ、ペトラシェフスキー会の三十四人が検挙された。ドストエフスキーの逮捕理由は会でゴーゴリーに宛てたベリンスキーの手紙を朗読したということであった。軍法会議では21人が銃殺であったが、ツアーのご慈悲によりドストエフスキーは四年の懲役と兵役服務に減刑された。そして西シベリアのオムスクに流された。一人は発狂したが、ドストエフスキーは平静を維持して流刑先でデカブリストの家族に温かく迎えられた。

3.死人の家

1850から1854年の4年間オムスクの監獄での生活から、ドストエフスキーは「死人の家の記録」(1861年発表)というルポを書いた。零下40度以下の過酷な労働・生活、耐え難い人間関係にドストエフスキー独特の直截的なリアリズムが躍動するのである。戦後ソ連に連行された満州の日本軍・民間人のシベリア抑留生活以上のものであったに違いない。「誰でも人間嫌いになるような集団生活、その全くの異常性、全くの不可測性」とドストエフスキーは訴えている。ここでドストエフスキーが得たものを小林氏はこう要約した。「彼が後年作中で創造した驚くべき人間の数々の原型が、死人の家の記録中に見られる人間素描の内にある。彼が人間観察について独特の自信を得た場所、人間心理の異様さを表現するあの精緻を極めた独特の技術を得た場所は、非社会的分子からのみ成立した一つの社会であった。」

4.セミパラチンスク

1854年2月刑期を終えてセミパラチンスク(現キルギス共和国)という地で兵役についた。この地にいたのは1859年までで、この間最初の恋愛と結婚があった。その辺の事情は書くほどのこともないので省略するが、この間何も著してはいない。

5.「ヴェレミヤ」編集者

1859年ペテルスブルグに帰ったドストエフスキーは兄ミハイルとともに雑誌「ヴェレミヤ」を起こした。ニコライ一世がクリミヤ戦争(トルコとの)に敗れて自殺し、アレクサンドル二世がツアーを引き継いだ。1860年代のロシアの社会状況はアレクサンドル二世の諸改革(といってもツアー専制になんら変わりはないが)に期待が集まり、インテリの間にもスラブ愛国主義と従来の西欧主義インテリが手を握って楽天主義が横行した。各種の雑誌がいっせいに刊行され雑誌「ヴェレミヤ」は「ロシアの土地に帰れ」をスローガンとしたが、曖昧でドストエフスキーの論戦の無能とあいまって議論を混乱させただけであった。この雑誌によってドストエフスキーは「死人の家の記録」と「虐げられし人々」を発行し成功した。

6.恋愛

1863年に起きたポーランド騒乱の余波を受けて雑誌「ヴェレミヤ」は発刊停止処分となった。雑誌経営で健康を害した兄ミハイルはその年の七月に亡くなったため雑誌は廃刊となったが、ドストエフスキーの悪戦苦闘の末翌1864年に新雑誌「世紀」が許可され「地下室の手記」が発行された。しかしこの雑誌もすぐ廃刊になった。この間1863年から1864年の間に二人の女性との恋愛沙汰と賭博狂い(これは一生続く)が有ったが、私は興味がないので省略する。ただ彼の個人的生活は乱脈を極め、彼の無秩序な性格を小林氏は「芸術に悪魔の協力が必要」という芸術至上主義(芥川龍之介にみられる)で擁護されるが、倫理上許されるものではない。(もちろん私が許そうが許さなくても何の関係もない歴史的事実なのだから、ただこのような醜悪な性格でないと天才は生まれないという結論には首を縦に振るわけには行かない。) 悲惨な経験に狂わず自殺せず観察を続け、醜悪な人生と人間を描きつくそうとする気迫は尋常な性格からは生まれないだろうなという気はする。

7.結婚・賭博

1864年に「地下室の手記」が発刊されてから出口を見つけたかのように、ドストエフスキーの堂々たる悲劇となって1866年に「罪と罰」、1868年に「白痴」、1872年に「悪霊」、1875年に「未成年」、1880年に「カラマンゾフの兄弟」の長編小説が発行されていった。しかしドストエフスキーの作品は社会生活の広い絵巻をみるような小説というより、人間の情熱の権化、人間化した理知の力、思想と肉体が分裂した男、心理の極限をさ迷う男というものであった。それはドストエフスキーの性格によるところが大であるが、なかば芸術から独立した哲学の伝統を持たないロシアの苦渋とも言える哲学的傾向小説であった。1867年ドストエフスキーは二度目の結婚をした。借金取りの催促から逃げるように、その妻との外国旅行でまたドストエフスキーの狂ったような賭博熱が再燃した。妻が残した回顧録から小林氏はドストエフスキーの賭博について長い記述をするが、私は賭博者の心理や生態は知りたいとも思わないので割愛する。

8.ネチャーエフ事件

1860年代のロシアにいわゆるナロード二キ革命運動が起き、ツアー一人を狙うテロ活動の秘密結社が澎湃した。1870年モスクワ農業大学で起きたネチャーエフ事件を再度振り返ってみよう。1869年モスクワ大学生だったネチャーエフの手により革命的秘密結社が組織された。彼は当時スイスにいたバクーニンらと連絡を取り結社の綱領を定め翌年二月の農奴解放9周年を期して大衆蜂起を呼びかけるものであった。秘密結社も例の漏れず党組織の細部は厳格を極め、ネチャーエフらを最高委員会として下部組織は五人を細胞組織とするキャップを設けた。しかし実体は最高委員会なるものが存在したかどうか怪しいものだ。12月モスクワ農業大学生イワノフが裏切り者として殺害され死体が校舎裏の池に遺棄された。多数の学生が逮捕されたが、ネチャーエフはスイスへ逃亡した。
1973年に「悪霊」が出版された時、ドストエフスキーは献辞に「この作品は歴史研究として、ロシア人の生活の独特な土台と我々の知的発展段階との異常な不調和がこの結果となった。この小説を傾向的な立場(プロパンガンダ)より書いた。」と述べた。「罪と罰」では大学生の老婆殺しによって行った倫理的問題に関する実験をそのまま拡大して、「悪霊」において大学生の政治的革命にロシアのインテリの精神病理学的を見た。これがドストエフスキーの言い分である。
「悪霊」の主人公はスタヴォローギンである。倦怠の化身であるというよりは、罪悪、懐疑、堕落の悪のイメージは(これはドストエフスキーの十八番であったが)、「虐げられし人々」のワルコフスキー公爵、「罪と罰」のスヴィドリガイロフの系列でいよいよ強烈になり。「カラマンゾフの兄弟」まで継続した。将に作者の実験したかったのは「悪の煉獄」というものであった。ここを小林氏はこう断定した。「ドストエフスキーの創造の源泉は彼の陰惨な運命と固く結びついており、悪の思想も彼の運命の如く独創的であった。4年間の囚人生活が彼に教えたものは、どんな救いの手も必要とせず、ただ終末を待っている悪の異様さ、これを眼のあたりに見た者の謎めいた憤懣こそ彼の精神にぬぐい難いトラウマとなった。」、「ドストエフスキーにとって悪とは精神の異名、ほとんど人間の命の原型とも言うべきもの。最後にドストエフスキーのリアリズムについて彼自身が語ったところを記したい。「僕らロシア人が過去十年間にその知的発展において体験したきたところを、ここに注釈をつけて描くこと、そんな事は空想だというかもしれないが、けれどそういうものが昔からのリアリズムだったのだ。僕のリアリズムは少々深いだけなのだ。」

9.作家の日記

1871年から1881年の十年間はドストエフスキーの晩年期である。ここに至って彼の二度目の妻アンナの手腕により経済的・生活上全く安定した創作の時期を迎えた。1973年アンナは「悪霊」の自費出版に成功し、以降四十年ドストエフスキーの出版が(ドストエフスキー書店?)から続けられた。1875年「未成年」が出版され、「作家の日記」も順調であった。作家の日記の好評を考え、同じ題名の個人雑誌の刊行を思い立った。この雑誌はスラブフィル民族主義をスローガンにして二年間時事問題を論じた。1877年ブルガリア反乱を契機にロシアも汎スラブ主義を唱えて介入し露土戦争が勃発した。「作家の日記」はこの愛国的熱狂の中で書かれた戦争礼賛、正教擁護、民衆礼拝の書であった。

10.死

1877年ドストエフスキーは手帖に覚書を残している。これは将来書くつもりのメモであった。1:ロシアの楽天主義を嘲笑し社会的不正を告発する。 2:キリストについて書く。 3:回想録を書く。 4:死者を弔う叙事詩を書く。 であったが、三年間の残った人生で何一つ実行されなかった。しかし1880年、最後の小説「カラマンゾフの兄弟」という晩年を飾るにふさわしい堂々たる構成と円熟した技巧と到達した彼の思想の集大成の作品であった。なお蛇足ながら1881年にドストエフスキーが死んだ年にアレクサンドル二世が殺害された。いよいよ帝政ロシアは混迷を深めてゆく。


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