小林秀雄全集第10巻    中原中也


中原中也、志賀直哉論、山本有三の「真実一路」を廻って

中原中也

小林氏は友人中原中也には触れたがらない。それは中原中也の恋人をないものねだりに奪ってすぐ捨てたからだ。それでも時々中原中也の詩を紹介する。たとえば「骨」
ホラホラ、これが僕の骨だ、/生きていた時の苦労に満ちた、/あの汚らわしい肉を破って、/しらじらと雨に洗われ、/ヌックと出た、骨の尖。/・・・・・・・・・・・
また「山羊の歌」
汚れちまった悲しみに/今日も小雪の降りかかる/汚れちまった悲しみに/今日も風さえふきすぎる/・・・・・・・・・
また「六月の雨」
またひとしきり 午前の雨が/菖蒲のいろの みどりいろ/眼うるめる 面長き女/たちあらわれて 消えてゆく/・・・・・・・・・

志賀直哉論

志賀直哉氏は世間では私小説の典型と見なされている。小林氏はこういって絶賛する。「どうしょうもない単純な志賀直哉氏の小説に、氏の作品のリアリティの深さを見る。暗夜行路は優れた恋愛小説だ。恋愛行為の倫理性に氏のモラリストとしての性格が出ている」と。古林氏は志賀直哉氏を既に古典だとしてややこしいリアリズム論議の埒外に置く。それはその時代のリアリズム小説の理論が要素に分解する科学的精神に毒され、万能のリアリズムなるもので鑑賞するから小説の文体(詩)をだめにした。志賀直哉氏はそれとは無縁だということであろう。小林氏は菊池寛、志賀直哉、谷崎潤一郎と言った文壇の超然たる大御所には全面降伏の態をさらす。ドストエフスキーの醜悪なリアリズム論での舌鋒は何処へ言ったのだろうか。これも批評の相対性であろうか(情けない日本のリアリズムに対する)。

山本有三の「真実一路」を廻って

極めて高踏的な出だしで小説の抽象性を他の芸術(詩、音楽、絵画、映画)と比較し、感覚によらないで言葉の符牒だけで写実に迫る困難性をとうとうと述べている。標題の山本有三の「真実一路」はどうも本題ではないようだ。序文で2/3を占め、1/3の本論はいきなり結論に入ると言うせわしない論陣を張る。「真実一路」の人物描写は、人間の不要領な性格から曖昧・多性格になると擁護する。結局性格はつかめない。小林氏の結論は「作者は真実一路で一口に言えば真実とは何かという問題に関する自分の思想を語っているに違いない」であるが、この「結論」は論理的な繋がりが希薄だ。またその真実についての言及はない。どうも序論をいうためのだしに使っただけで真実一路は述べられていない。叙述されていないことにこちらもコメントは出来ない。


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