ごまめの歯ぎしり  050825

    

ネット殺人事件とドストエフスキー的様相

観念の地獄的実相がバーチャル空間で踊りだしている

 

最近日本でもネット自殺や殺人が増えている。首を絞めて人が苦しむのを見ることで興奮すると言う殺人事件があった。また人を殺してみたかったという理由で殺人を試みた事件もあった。これは精神異常者の空想と言うにはあまりに社会的である。とくにネットをサーフィンする者に現実と空想の区別も怪しくなったように見える。バーチャル(擬似)空間/社会を売り物、食い物にする商売が増えたことが背景にある。コンピュータ社会が生み出した犯罪である。たとえば「2チャンネル掲示板」で「自殺」を検索すれば「死にたい。」と言う書き込みが簡単に見出せる。ネットは確かに便利なのだが、そういうことを書き込めば、無数の悪い奴らが利用しようとうごめくことも事実である。死にたい仲間を募る前に心療内科にいって薬を貰うことを薦める。

ここにドストエフスキー(1821〜1981)の「罪と罰」と言う小説がある 荒筋書きは以下である。主人公ラスコオリニコフは貧乏な大学生で殺人の夢想に取り付かれ、金貸し婆とその妹リザベータを殺害する。その殺人を酒びたりの廃人マルメラドフの娘で娼婦のソーニアに話してしまい、逮捕されシベリア流刑になる。ラスコオリニコフの分身の性格を与えられた享楽以外は無性格で、自殺でこの世とおさらばしたスヴィドウリガイロフと酒びたりで事故死したマルメラドフらの告白は将に19世紀末現象という退廃的虚無的な「こうなるともう娑婆じゃありませんな。あの世ですな」と言うセリフに象徴される、死でしか逃れられない虚無、無自己となんなんだろうか。
「罪と罰」はドストエフスキーの作品にしては比較的登場人物も少なく構成も複雑怪奇ではない。むしろ分かりやすい小説に類するとしても、なぜラスコオリニコフが虚無的無人格者なのか。「善悪の彼岸」(ニーチェの超人主義)という犯罪哲学から殺人を夢想するにいたる論理的経過はまるでない。現実的事実の外的因子は何もないのである。これが19世紀後半のツアー専制ロシアの社会的現実と縁もゆかりもないことは承知しなければならない。しかしツアーを縛り首にして選挙にはゆかず酒を飲み行く革命ロシアの庶民の非近代的・社会的未熟さは理解しておきたい。
「主観の極限までいこうとする性向と、客観の果てまで歩こうとする性向が背中合わせである危険なリアリズム」、「空想が人間の頭の中でどれほど横暴で奇怪な情熱と化すのかという可能性を作者はこの作品のなかで実験した」

そういう意味でドストエフスキーの「罪と罰」を読めば、ドストエフスキーは急に現実味を帯びてくる。19世紀的疎外・孤独・虚無を21世紀的無生活時代に置き換えればどちらも非現実的夢想に埋没してゆく姿が見える。観念は人間の人間たる由縁で、文明を作り出す力であったが、同時に戦争をも最近はゲームのようにバーチャル化し、巨大な悪魔を人間の心の中で養うものだ。観念の制御は生活の現実感しかない。


随筆・雑感・書評に戻る   ホームに戻る
inserted by FC2 system