文藝散歩 

水上文学 2:禅僧伝 一休 沢庵 良寛


水上勉氏は福井県の生まれで、9歳で京都相国寺の塔頭「雁の寺」に預けられことは有名な話である。修行の途中で還俗して立命館大学に入った。修行中に知った住職坊主の男色や妾囲いや遊興といった破戒僧ぶりについては氏の作品「金閣寺炎上」に詳しく書かれている。一度は仏門に入った水上氏(貧困から来る口減らしかもしれないが)であるのだろうか、氏の作品に禅宗の僧三人の伝記文学がある。時代順に並べてみると、一休: 臨済宗大徳寺 1394−1482 享年88歳、 沢庵: 臨済宗大徳寺 1673−1646 享年73歳  良寛: 曹洞宗円通寺 1758−1831 享年74歳 の三人である。生きた時代は各々、一休は室町時代、沢庵は江戸時代初期、良寛は江戸時代末期になる。中世から近世にかけての名僧列伝である。三人に共通していることは自力本願の禅宗であること、権力との激しい対立関係にあったことで、三人各様の生き方に思いを至らせてみたい。

一休禅師は一生かけて純粋禅(唐禅 大燈国師いらの大徳寺の系譜)を堅く守ることを是として、室町幕府の官寺としての五山の腐敗堕落を罵り続けた。そのためあえて寺に入らず、乞食破戒僧の振る舞いをし続けたのである。沢庵も純粋禅としての大燈国師いらいの大徳寺の系譜を重んじた、一休と同じ系譜に属する。沢庵は戦国末期から徳川初期を生きた禅僧で戦国大名の帰依を受けたが、大徳寺・妙心寺は天皇家勅願寺として幕命に対抗し、所謂「紫衣事件」で第二代将軍秀忠に逆らって流刑にあい、柳生宗矩と三代将軍家光の帰依を受け許されて、品川東海寺を賜った。武家の禅指南役として権勢の最高位を占めた。これは家光の天皇家や公家の懐柔策として沢庵を重んじた気配が濃厚である。ところが良寛は前の二者に比べると、高僧でもなく一介の首座どまりの沙彌にすぎなかった。いわば世捨て人である。一休、沢庵は京都臨済宗大徳寺派であったが、良寛は道元が創始した越前(福井県)永平寺の曹洞宗に学んだ。良寛は一休や沢庵のような宗教者としての地位はなきに等しい。そもそも宗教界の改革や主導的立場にはなかった。どちらかといえば西行のような黒衣の詩人である。文藝者として和歌を良くした。そして一休と同じく晩年に女性と会って一輪の花を咲かせた。


1:水上勉著 「一休」 中公文庫(1978年3月)

水上文学のなかで、「一休」と「宇野浩二伝」の二つの評伝は際立った作品である。この二作には水上勉氏の人間観、文学観、作家の力量が力強く現れているとされる。一休が権力に抗して、教団を捨て、地獄の地平で痛憤の詩を歌い、その破戒僧としての生涯と禅境を追跡した作品「一休」は谷崎賞受賞作になった。一休の人間をきれいごとで捉えず生々しい生き物として把握しようとする執念、しかも社会の最下層に生きる者の立場から宗教を見る目は、本山のインテリ層や権力僧への仮借ない罵倒と痛撃になった。本書は一休の「狂雲集」、「自戒集」から一休の肉声を聞くため多くの漢詩(平仄もあやしく漢詩の約束事を無視した、七言絶句の叫び声)を引用し、一休の生涯を描くため一休伝記から墨斎作「一休和尚年譜」、「一休和尚行実」や民間伝説「一休諸国物語」、高嶋米峰「一休和尚伝」、市川白弦「一休」、吉田紹欽「一休」などを引用している。しかし各一休伝記もつまるところ墨斎作「一休和尚年譜」から一休の生涯を追跡し、空想し、実像と思しき姿を描き出すのである。私が読んだ「狂雲集」は柳田聖山訳「狂雲集 上下」中公クラシック(2001年3月刊)である。全559首の七言絶句からなる。漢詩の約束事である1,2,4句の末字の韻、同字犯さず、2,4不同、2,6対、4字目の孤平不許、下三連不許は守られていない。いわば漢字で書いた七言4句の文と考えればいい。しかも一読して何のことか良く分からない難解な文である。宗教的な言語が多いためと思われる。宗教的術語に精通していなければ判読不能である。しかも禅宗は人を食った発想を要求するのでなおさら意味不明である。訳や解釈なしでは素人にはちんぷんかんぷんである。一休は後小松天皇の落胤といわれる伝説があるのは有名である。真実はわからないが本書は一応その説に傾いているようだ。本書は墨斎作「一休和尚年譜」より、一休の師華叟や友人詩僧南江宗とのかかわりの文の行間を埋め、生活レベルまで想像して破れがない。一休の思想は「社会の底辺で這うように生きている人間にこそ生活があり、彼らのためにこそ禅はなければならない」というものであった。親鸞を受け継いだ蓮如の一向宗は悪人正機の他力本願に根本を置いた。禅と真宗の優劣を論じるものではなく、どちらも室町時代の戦乱の世の庶民を導くために血を流したことである。「一休が生きる世は庶民と同じく修羅、地獄である。無知蒙昧である。地獄のほかに仏土はなく、迷いを離れて悟りはないと悟った。正気と狂気の境目をこの人は歩いてゆく」と水上氏は一休を語る。水上氏の作品「五番町夕霧楼」、「飢餓海峡」なども時代は違うが、戦後の地獄を生きる人々の姿が手に取るように描かれている。私が水上氏の作品が暗いといったのはこのことである。中世の宗教家、法然、親鸞、道元、日蓮、蓮如、一休などを輩出した中世は仏教が日本で新しく再生した稀有の時代であった。つまり戦乱期に宗教から文藝、芸術など日本独特の文化が形成された時代はまさに日本のルネッサンス時代である。

本書は27章からなる大作である。簡単に内容を振り返る前に当時の禅寺の有様を語る一休作「骸骨」から有名な文章を紹介する。「いにしえは道心を起す人は寺へ入りしが、今はみな寺をいづるなり。見ればぼうずに知識なく、座禅をもの憂く思い、工夫をなさずして、道具をたしなみ、座敷を飾り、我慢多くして、ただ衣をきたるを名聞にして、衣をきたるとも、ただ取替えたる在家なるべし」


第1章:一休関係資料、文献
第2章:1394年誕生。大方の史家は後小松天皇と日野中納言の娘照子姫の落胤とする。幼名は千代菊で六歳で周建という名で安国寺で出家した。
第3章:周建の安国寺での修行とその時代の修行制度
第4章:一休誕生の頃の時代背景。1394年第三代将軍義満は義持に譲位。将軍集権体制確立をはかる。土岐の乱、山名の乱や応永の乱(大内義弘、相国寺が加担して反乱する)がおこる。対明貿易盛んになる。天竜寺夢想国師派を頂点とする五山十刹制度が出来て官寺化したことが、政僧を生み禅宗の腐敗の原因になった。大徳寺や妙心寺は五山から外れ林下となり唐代禅を堅く守ろうとした。
第5章:大徳寺派の系列。大徳寺は妙超(大燈国師)を初代とし、弟子関山は妙心寺を起し、義亨が二代を継ぐ。周建は言外、華叟の系列になる。しかし周建17歳は妙心寺派の謙翁を慕い西金寺にて修行する。このとき宗純という名を戴く。宗純はこの謙翁師から風狂(少年遊び、湯女買い、飲酒、詩文)の質を習ったようだ。
第6章:大徳寺の官寺化。十方住持制により大徳寺に夢想国師派住職が入った。華叟はこれを嫌って堅田の祥瑞庵へ隠居する。宗純22歳は華叟を慕って堅田に移り、京都へ生活の資を稼ぐため往復する。
第7章:宗純25才師華叟の公案通過によって一休という名を貰う。師からの印加を拒否する。京都での労働と堅田での修行の二重生活が続く。京都では一休は相当遊んだらしい。
第8章:一休の風狂(女犯)。仏教で言う逆行三昧は衆生済度のための利他行といわれる。一休の場合は禅界の腐敗に対する済度であった。
第9章:五山文学。馬借一揆などが頻発するなか、僧は博識、水墨画、漢詩文などに長じ相国寺は当時五山文学中心であった。相国寺を捨てた南江宗?と堺の南宗寺で遊ぶ。室町時代武家が詩僧たちに求めたのは外交文書の作成と仏事法要であった。
第10章:一休42歳。師華叟から再度印加を貰うが拒否したので、兄弟子養叟が印加を受け宗統を次ぐ。以降一休の養叟への罵倒非難が18年程続く。「自戒集」は実に養叟への罵倒詩集となっている。一方「狂雲集」では無一物、一処不住の師を賛美する詩偈が多く作られた。
第11章:堺での南江宗?との生活。土民一揆多発する。阿鼻叫喚の地獄絵。
第12章:大燈国師百回忌。一休43歳。南江宗?は一休の破戒ぶりに嫌気がさして出てゆき、一休は京都土御門館に住む。
第13章:養叟第26代大徳寺住職となる。京都での戦乱を逃れて、銅駝坊、塩小路坊を転々として、49歳護羽山に逃れ移る。
第14章:嘉吉の乱で将軍義教暗殺される。赤松満祐を山名持豊が撃つ。これを契機に馬借一揆、土民一揆頻発する。一休は護羽山に逃れたが、50歳には京都室町に舞い戻る。養叟は大徳寺を十刹より除外を願い出て許され林下に入る。ところが妙心寺関山派の日峰が第36代大徳寺住職となる。養叟再度大徳寺住職の帰り咲いたが、不祥事が発生して弾圧が下り、一休54歳再び護羽山に逃れた。
第15章:養叟は紫衣勅許を得るため密参禅という便法禅を編み出し大徳寺は隆盛を向えた。寺門再興というものの朝廷へ迎合して官寺となった。一休59歳「自戒集」を著し激しく養叟を責める。この時期一休は寺社奉行蜷川親当と連歌に興じた。
第16章:一休の養叟批判。
第17章:自戒集210首で一休68歳まで養叟への悪口書き連ねる。一休63歳京都田辺薪村に酬恩庵を作った。
第18章:一休66歳酬恩庵からでて二度京都に住むが戦乱のたびに酬恩庵へ逃げ戻る。この時期には関東動乱と応仁の乱が起った。一休75歳で酬恩庵にて徹翁和尚百回忌を行う。護羽山を出た50歳から77歳までの27年間は乱世の渦のなかである。この間に一休は「仏鬼軍」、「骸骨」、「二人比丘尼」、「般若波羅蜜多心経解」、「あみだはだか物語」、「仮名法語」、「水鏡」、「自戒集」、「狂雲集」を著し、将に一休文藝の開花であった。「詩文はこれ地獄門前の工夫である」と自嘲しているが庶民の立場に立脚した。
第19章:一休77歳盲目の女芸人森女との邂逅。
第20章:盲目の女芸人の運命の過酷さ。
第21章:「狂雲集続編」における一休と森女との淫事礼賛。これを仏語では逆行というが、良寛の場合は愚といわれても慈愛に満ちた風狂であるが、一休の場合は女犯地獄逍遥という激しさであった。
第22章:一休78-79歳空白。このとき蓮如47歳で越前吉崎に一向宗を立てる。他力の念仏僧であったが、一休は親鸞二百年回忌に参拝し蓮如に会っている。方や自力の禅宗、方や悪人正機の他力念仏でいずれも女犯の僧であった。
第23章:一休森女賛歌の詩。
第24章:一休81歳第48世大徳寺住職になるが、師華叟と同じく形だけの就任で大徳寺には行かず「居成」を決め込む。
第25章:清太夫著「行実譜」の書く一休・森女10年の生活
第26章:清太夫著「行実譜」の書く芸術家との交遊。 金春禅竹(能)、村田珠光(茶)、柴屋軒宗長(俳句)、蛇足・墨渓(絵画)、蜷川親当(連歌)
第27章:清太夫著「行実譜」によると、一休82歳連歌師宗祇が酬恩庵を訪問。84歳一休病に伏す。86歳大徳寺再建に尽くす。87才狂雲集を編集。88歳逝去。


2:水上勉著 「沢庵」 中公文庫(1997年2月)

「沢庵和尚の生涯をたどることは、禅と権力の関係を学ぶことだ」と水上氏は言われた。他力の真宗は越前や大阪の一向宗として自治都市を作ったために織田信長から強く嫌われ、皆殺しの攻撃を受けた。徳川家康は法然の浄土宗に深く帰依したので、真宗をも見方にし早くから本願寺を支配の末端化することに成功した。とこらが純禅の個人主義の強い、権利に甘んじない体質は、檀家制度を確立して寺院管理と民衆の思想管理に利用したい徳川幕府にとって馴染まない物だった。良寛や桃水は禅僧でも曹洞宗に属したが、徹底して権力に抗したと言える。そのかわり乞食行脚を終生の行としていわゆるアウトローの世界に生きざるを得なかった。寺に住まず一所不在が禅の道としたところは一休よりも徹底している。沢庵はこれらの一休や良寛とは全く違った生き方であった。権力に媚びなかったが権力者との交流で大寺品川東海寺に住み、三代将軍家光に完全に囲い込まれた生活であった。

本書は沢庵の門人で武野宗朝が著した「東海和尚紀年録」、「沢庵和尚行状」によるところ大である。水上氏の殆どの記述は「東海和尚紀年録」とその翻訳文思文閣出版「沢庵和尚年譜」からの抜粋であるといってもいい。沢庵和尚は1573年但馬国出石の下級武士の家に生まれた。この年には織田信長は京都入りをして浅野・朝倉を攻めた。10年後には織田信長は明智光秀によって本能寺で暗殺され、豊臣秀吉が光秀を山崎で破って天下を取った、そのような時代であった。沢庵は7歳で臨済宗東福寺派宗鏡禅寺に入った。10歳になって沢庵は宗鏡寺をでて唱念寺(浄土宗)に移って春翁と命名された。19歳になって再び禅寺勝福寺へ入り希先西堂に参禅して秀喜という名を貰う。20歳には董甫(大徳寺第138世住持)とともに上洛し大徳寺三玄院の春屋宗園に師事する。春屋は大応、大燈の広めた純禅の系譜で徹翁、言外、華叟、養叟、一休に連なる大徳寺第111世住持であった。春屋の法嗣である玉室宗珀、江月宗玩は沢庵とともに後日「紫衣事件」にあって配流にあう。大徳寺には秀吉は織田信長の霊をまつる総見院を建立し、織部、遠州、千利休の茶道のサロンとなっていた。三玄院は石田三成が春屋を開祖として建立した寺である。沢庵27歳の時、大徳寺三門「金毛閣」の木像事件で千利休は切腹した。

秀吉が死んで伏見城に居る家康は戦国武将を自分の勢力に入れてゆく過程で、前田利家が死に、豊臣側では深刻な分裂が始まった。北の政所には七本槍以来の秀吉子飼の武将が付き、淀君秀頼には五奉行派がついた。賤ヶ岳の七本槍が石田三成を襲った。三成は佐和山に蟄居したが、瑞獄寺を建立して大徳寺の春屋宗園に開祖を依頼した。董甫が住持となって入るのであるが27歳の沢庵もこれに従った。そして関が原の戦いが起きるべくして起き、沢庵は大徳寺三玄院に三成の遺体を埋葬した。沢庵28歳にして師董甫とともに大徳寺に戻った。三成の遺児を妙心寺伯甫が預かり、大徳寺と妙心寺は関が原の後始末に追われた。

沢庵29歳で師董甫(大徳寺第138世住持)を失い、泉南に移住し堺の大安寺の詩僧文西洞仁に師事した。この頃から沢庵は詩文や歌をよくする様になり細川幽斎らとの交遊も始まった。沢庵31歳に師文西が死去し、一凍紹滴を師として堺の陽春庵に入った。沢庵32歳に南宗寺に入り、師一凍から「沢庵」という名を授かった。その師一凍も沢庵34歳のとき死去した。また父綱典が死んだ。沢庵35歳には大徳寺に戻って徳禅寺に入った。また母が死んだ。夏には堺の南宗寺の住持となって泉南に移住した。沢庵37歳で大徳寺第153世住持になったが、三日後には大徳寺を辞して堺に戻った。当時の大徳寺住持は「出世入院」という天皇の詔によって成り立つのであった。この大徳寺と妙心寺の「出世入院」制度は幕府の寺院法度制度と厳しい対立を生むのである。幕府は朝廷と幕府の二重支配を認めたくなかった。あくまで幕府の一元支配を目論んで大徳寺と妙心寺を目の仇にしてゆくのである。現在でも寺院は檀家制度を元にして葬式仏教や観光仏教でで飯を食っている。江戸時代の旧習を後生大事にしているのである。檀家の冠婚葬祭の証明書発行と旅行手形の権限からなる檀家制度は戸籍や人口など村役人の官僚機構の末端役を担っていた。また仏教による思想善導役(お説教)である。そしてキリシタン禁止令による思想警察の役割もあった。浄土真宗(本願寺)はこの制度に完全に組み込まれたことで隆盛を迎えたのである。仏教の国教化でもあった。ところが臨済宗は鎌倉五山、京都五山を中心として既に幕府権力の統制下にあった。曹洞宗も権力に対して抵抗はしなかった。当時徳川家康の宗教ブレーンには禅から儒教に転向した藤原惺窩や林羅山が侍講になり、天海は寺院諸法度の作成に乗り出し、南禅寺金地院崇伝は家康の宗教顧問となった。「禁中並公家諸法度」、「勅許紫衣条規」を制定した。家康は金地院崇伝を僧録司に任じ室町時代から続いた相国寺支配が南禅寺支配に移った。大徳寺、妙心寺は皇室に関わる寺だから幕府の管理する五山とは別格である。五山は幕府の認可による「黄衣出世」で、大徳寺妙心寺の出世入院は「紫衣出世」といい天皇の綸旨が必要である。やがて幕府はその権限を接収して一本化使用とするがこれに対抗したのが沢庵だ。

沢庵39歳のとき師春屋宗園死去する。40歳堺の南宗寺に移る。この時期に方広寺鐘銘事件が天海によって捏造され大阪冬の陣、夏の陣で豊臣秀頼・淀君ら豊臣の残党は滅亡した。沢庵43歳のときこの戦いで堺の南宗寺も焼失した。44歳岸和田月光寺に移ったが、故郷の出石の小出氏の依頼で宗鏡寺の再興にかかった。45歳堺の南宗寺を再興し、大徳寺に大燈廟の建立を行った。沢庵46歳は諸国放浪の年であった。芳林庵から泊瀬寺そして山城の妙勝寺(大応国師開創)に落ち着いた。妙勝寺は田辺薪村にあって別名「一休寺」と呼ばれている。48歳になって突如故郷の出石に投渊軒を結んだ。

沢庵の宇宙論、人生論をうかがい知るには沢庵の思想をしるした「理気差別論」がある。これは江戸幕府の朱子学は林羅山や藤原惺窩が主導して禅宗を批判し仏教排斥運動を展開した。この朱子学の攻撃に対して護法の立場をとる沢庵は儒佛一致を唱え、神道からの攻撃に対しては神仏一致で答えた。文章は難解だが使われている言葉は朱子学から取った言葉がおおくいつから沢庵は儒者になったのかと疑われる。私にはこの書で沢庵が勝ったとは思えない。いいとこ分らずじまいの引き分けである。そして沢庵55歳のときに有名な「寛永の法度」が板倉重宗と金地院崇伝の相談で「大徳寺、妙心寺法度」が出された。元和の令以降の出世を禁じることであった。これで幕府の承認なしには大徳寺妙心寺僧侶の人事は行えないということである。大徳寺では沢庵、宗彭、玉室は連署して幕府に抗議し、翌年幕命を無視して正隠を大徳寺へ奉勅入山させた。三名は江戸に召還され全員流罪を申し渡された。沢庵56歳は出羽へ配流された。これを「紫衣事件」という。そして朝廷にたいしても後水尾天皇の譲位となった。沢庵は57歳から60歳まで出羽上山での生活となった。出羽上山城主土岐頼行は」沢庵に春雨庵を用意し、沢庵の元には多くの人が参禅した。沢庵は大徳寺でもそうであったように何処でも禅と文藝サロンを作ることが習性であった様だ。沢庵に帰依していた江戸城お庭番柳生宗矩の骨折りがあって、二大将軍秀忠逝去の特赦により沢庵60歳で配流赦免となり江戸に入った。

家康、秀忠の時代を支配した金地院崇伝や林羅山の威勢も下火になって、三代将軍家光は柳生宗矩の薦めで沢庵を興禅護国の人と厚く帰依した。つまり沢庵は家光の囲われ者になったのである。家光の命により大徳寺にも帰れず、江戸に居住を余儀なくされた。この辺が鈴木正三の庶民禅、桃水の乞食禅と違う沢庵の禅の人生であろう。60から62歳まで駒込の堀直寄の屋敷に居住したが、62歳になって家光の上洛に合わせて一時京都へ帰った。堺は出石の投渊軒に寄ったりもした。64歳江戸城にて家光に会って、それ以降柳生宗矩の屋敷に居ることに成った。柳生宗矩のために禅と剣について書いた「不動智神妙録」は今の私が見れば変な書である。儒教の忠から始まって兵法を書くという行為は純禅の求道者がやることではない。どこかで沢庵は変節したと非難されよう。

沢庵66歳のとき、家光は品川に東海寺を建立して沢庵にプレゼントすることになった。その東海寺が建設中に沢庵は京都と堺に戻った。柳生宗矩の懇願により柳生の里に芳徳寺を開山したので沢庵は開山導師になった。後水尾上皇が沢庵を国師号を贈ろうとしたが沢庵は固辞し、徹翁に「天応大現国師」を与えられた。これは沢庵の謙譲と美名が広まった。沢庵67歳東海寺に入る。沢庵69歳には家光に願い出て大徳寺妙心寺出世の元和令を撤回させ、旧例に復すことに成功した。これは沢庵の考え抜いた戦術であろう。反対しても無力であった過去を反省し、むしろ権力者の懐に入って幕令を撤回させたのである。水上氏はこのところの沢庵の屈折した志を「沢庵は乞食生活を夢見る人であった。東海寺住職であったが大徳寺には帰らなかった。大徳寺は江月に任せた。将軍に向っては言いたい事をいい、大徳寺妙心寺の出世復旧を実現し、後水尾上皇の国師号の好意を固辞して宗祖徹翁和尚に国師号の栄誉を送り、自分は東海夜話という書斎生活に甘んじた。権力とともにあらねばならなかった臨済宗正統派の実力者としての苦悩を一つに背負った人」と述べている。又東海寺に見えた家光に献じた漬物を「沢庵漬け」という。73歳ごろから病に臥すようになり、見舞いに訪れた松平信綱には東海寺に三門、仏殿の建立、寺の後ろの山道を閉鎖すること、寺の近くの人家を移して火災を避けることなどを懇願したといわれる。そして遺戒として、「法嗣は居ないこと、禅師号を贈るな、墓を設けるな、本寺の葬儀はするな、夜人知れず葬れ、画像を書くな、香典を受け取るな、祖師堂に位牌を祀るな、火葬にするな土に埋めろ、石塔を立てるな、年忌はするな」を残している。何処まで実行されたか知らないが、葬儀を事細かに指示した本居宣長とは大いに違う。森鴎外に似ている。


3:水上勉著 「良寛」 中公文庫(1986年9月)

私は水上勉氏の「良寛」を読んだのはずいぶん昔である。本棚から茶色に変色した埃だらけ文庫本を取り出した。この本は禅宗の高僧伝ではない。良寛に関する本としては柳田聖山訳蔵雲著「良寛道人遺稿」や瀬戸内寂聴「手毬」を読んだ。「良寛道人遺稿」は243編の漢詩文を集めた。本書水上勉著「良寛」にもここから多くの漢詩文が引用されている。瀬戸内寂聴「手毬」は良寛最晩年に出遭った女性(良寛の和歌文藝の崇拝者)との交情を貞心尼の側からみた良寛像である。貞心尼の「蓮の露」から多くの和歌が引用され、瀬戸内寂聴氏は女性として細やかな感情を吐露された美しい文章になっている。本書は大きくは、前半に18歳で出家し岡山園通寺での12年間の修行と放浪の旅に出た良寛を描き、後半には38歳以降故郷に帰った良寛の交遊と文藝活動が中心に描かれている。良寛は74歳で逝去するので故郷にいたのは合計54年間になる。

水上氏は良寛の伝記を谷川戸敏朗編著「良寛伝記・年譜」から取られている。雲著「良寛道人遺稿」によると、良寛は真蹟「草堂集」、「法華讃」を著したが、明治に入って村山半牧編「良寛歌集」が編まれた。勿論貞心尼の「蓮の露」も第一級の資料である。水上氏の良寛を思う気持ちは「優しくて、厳しい仏教者としての実践行をつまれ、漢詩や和歌にその思想を託し、日夜文藝の道を歩まれた足元に寄り添うてみたい」という趣旨で本書を執筆された。もちろん筋としては仏教者の実践行が先であるが、晩年は乞食として文藝者の生き方が仏教につながるような境地に行き着いている。官寺としての禅宗界の腐敗堕落振ぶりは、一休や鈴木正三にかかると、寺院は求道者の住居ではなく、名聞私利に執着する偽僧の巣ということになる。この権力への追従振りは一人臨済宗のみならず曹洞宗においてもさらに著しかったようだ。永平寺と総持寺両本山の争いや差別的宗教政策は「曹洞法語全集」に明らかで道元の趣旨から離れた寺院経営が行われ、良寛も草堂集のなかで宗門批判の漢詩は激しい内容である。一休は生涯他人や寺院の批判罵倒に終始しているが、良寛は寺院ばかりでなく自分にも矢を向けた眼を持っていたようである。

良寛は1758年に越後出雲崎の名主「橘屋」山本以南の次男として生まれた。正確なことは何もわからないが1831年1月6日に越後三島郡島崎の能登屋こと木村家で死去したことだけは確かであるという。栄蔵(良寛)が生まれた当時、田沼意次の経済政策の失敗から白川城主松平定信の寛永の改革の時代であった。そのときの狂歌「白川の清き流れにすみかねてもとの田沼の汚れぞ恋しき」がある。越後では尊皇心厚く竹内式部の「宝暦事件」、山県大弐の「明和の大獄」がおきた。良寛8歳のとき名主の競争に敗れ橘屋が没落に一途をたどることになった。栄蔵10歳で大森子陽の塾ににゆき、15歳で元服、18歳で栄蔵は落ちぶれた名主見習いになったが、突然稼業を捨て出家し禅寺「光照寺」へ入った。出家の動機は不明。。

江戸時代の宗教制度については沢庵で述べたので省略するが、曹洞宗の本寺制には寺院には等級があり、本山、別格地、特等地、一等地から三十等地までの段階があった。禅寺臨済宗の徒弟制は5歳から8歳の童行渇喰、8,9歳で得度式を終え沙彌となる。20歳ごろ僧堂入りし座元になり、さらに末寺の住職になれば上座という。江戸時代の曹洞宗では立職(首座)から嗣法(伝法、住職)から瑞世(和尚、本山住侍)となる。良寛はこの首座どまりで寺院を捨てて乞食僧で終わった。良寛が入山した光照寺での師は玄乗破了であった。当時の曹洞宗は完全に幕府の官寺として何でも幕府にお伺いを立てる規則であった。1979年良寛22歳で大忍国仙師を頼って岡山園通寺に入る。円通寺での修行は22歳から34歳までの12年間になるが、この間の良寛は「ぐず坊主」といわれたようで修行をぬけ出して遊んでいたようだ。国仙師の弟子33名のうち末から4番目であった。33歳国仙師より印行をおくられたが、国仙師が入寂すると34歳の良寛は放浪の旅に出た。良寛は「荘子」の本1冊をもって高知を初めとして、関西の西国観音霊場を放浪したといわれるが、父以南の京都での入水死去、弟香の嵯峨への出家を見送って、38歳故郷の海浜郷本に庵を結んだ。この放浪修行は禅六祖の慧能や?公の体験実践禅を受け継いで赤貧孤高を理想とするものであった。そして寺院を捨てたのである。江戸中期の妙心寺純禅に白隠和尚の行き方があった。

良寛40歳海浜郷本の塩焼小屋を出て国上山五合庵に移った。ここで良寛は無所有の醍醐味「友が尋ねてくれば酒を飲み交わし、翌朝晴れれば托鉢に出かけ、なにがしかの米を貰ってくる。途中子供によびとめられれば、毬を突いて遊んで帰る」を味わった。ここでの交友は子供時代の友人原田鵲斎との歌の交換、43歳の頃は木村光枝、阿部定珍らと歌を交わした。良寛は請われて五合庵を出て寺泊の密蔵院、牧ヶ花の観照寺、本覚院に移ったが再び五合庵に戻った。この間も友人原田鵲斎との歌の交換が続いた。勿論友人らから生活の資を差し入れて貰っていた。51歳から57歳の間文藝の友人が次々と世を去り、地元の素封家が良寛の世捨て僧の生活を支えた。良寛51歳中山の破れ庵に移るが、実家を継いだ弟由之49歳も家業復興に失敗して出家した。歌の友人阿部定珍や庄屋解良叔問らが実によく良寛の面倒を見た。生活物質は裕福家から援助してもらい、紙、油、ろうそくにいたるまで提供を受けた。良寛は貧しいけれど風流人である。良寛の宗教上の接化は文藝上の教育や学問上の接触で、相手は裕福な風流人仲間であった。この歌の放浪者の系譜は西行に始まり、芭蕉から良寛にいたる日本の霊性と鈴木大拙氏は言う。60歳乙子神社の草庵に移った頃から、良寛は地方の裕福家に伝わる万葉集の勉強を始め、万葉古今いずれをも踏襲するいわば良寛調という独自の歌が完成する。乙子神社の草庵に移ったのは良寛唯一の若い弟子遍澄の勧めだといわれる。遍澄はよく良寛の雑用をこなしすべてを任していたようだ。遍澄が地元の願王閣の主になった時、69歳の良寛は島崎村の木村元右衛門家に移った。良寛が国上山に戻った時代曹洞宗では明より隠元和尚がきて洞門は大いに栄えたというが、良寛は文芸を愛する乞食に理想を見出し、自力他力の区別もなくしていた。教団や僧を批判したりする力はもうなかった。老いるという事は極自然な気力の衰退である。

良寛70歳木村家から寺泊密蔵院に移った。そこで逢うべくして逢われなかった貞心尼との交流が始まった。貞心尼は柏崎の出で24歳で夫と死別し尼となって洞雲院に居た。30歳であった。貞心尼が作った手毬は71歳の良寛の心をいたく動かしたようだ。貞心尼は良寛を歌文藝の師匠として思慕して交際が深まった。貞心尼の「蓮の露」に二人の贈答歌が残されている。洞雲院と閻魔堂での共同生活の10年間があったようだ。良寛の仏教教理は「生死輪廻の根本」は「随縁且従容」、皆自然の成り行きにある。これは中唐仏教の馬祖道一から?居士の生涯「居士のままで俗に生きる」ことに酷似すると水上氏は力説される。良寛73歳病を得て木村家の床に臥すようになって、弟由之と貞心尼が見守る中、翌年正月に死去した。末期は貞心尼の「蓮の露」に詳しい。


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