文藝散歩 

日本の乱世  室町時代を歩く


戦乱に明け暮れた南北朝から戦国時代、混乱の中から豊かな日本文化が興った室町期


日本史の中でも、室町期の二百年ほど、乱れに乱れて、不思議に豊かな文化が生んだ時代はないとされる。生け花、連歌、水墨画、能、茶の湯、庭園などをはじめととして、五山禅刹の成立、貨幣経済、貿易など経済的発展、食べ物や住居にいたるまで、日本文化といわれるものが乱世のなかから創造された。逆に失われた物も多い。天皇家は完全無力化し、藤原摂関家が支配した宮廷文化は和歌の伝統をはじめとして消滅した。つまり日本の政治と社会が根底から崩れたのである。絶対的権威のない室町時代に続く戦国時代になって寺社の経済的基盤であった荘園制とその結果の戦闘力も織田信長にとって完全に破壊しつくされた。これで古い日本は消滅した。古い日本が消滅する時期に日本人は混乱の最中にさまざまな創造を成し遂げた。ではこの創造の源であるカオスの世界を歩いてゆこう。とりあげた本は次である。
1) 永井路子著 「太平記」  文春文庫 
2) 山崎正和著 「室町期」  講談社文庫
3) 世阿弥著  「風姿花伝」 岩波文庫 
4) 水上勉著  「一休文藝私抄」 中公文庫
5) 卜部兼好著 「徒然草」 岩波文庫


1) 永井路子著 「太平記」  文春文庫 

永井路子氏は中世の女性を中心とする歴史小説の第一人者である事は論を待たない。「炎環」、「氷輪」、「風と雲と」、文春文庫に「歴史を騒がせた女達」シリーズ、「北条政子」、「一豊の妻」、「平家物語の女性たち」などの話題作が多い。「太平記」は1318年後醍醐天皇の登場から1367年足利義詮の死までの50年間の南北朝時代を描いた戦記物語である。離合集散、反逆と忠誠が激突する動乱の時代である。この時代は鎌倉幕府の武士政権の崩壊から寺社荘園と武士階級間の土地をめぐる果てしない争いに天皇が抱きこまれて南北朝と云う日本で稀有の二朝並立が存在した。実質的にもはや宮廷貴族には荘園と云う経済的基盤は失われていた。辛うじて寺社の荘園に寄りかかった朝廷に過ぎなかった。実質的には日本は武士の領地と寺社の領地をめぐる戦いであった。そういう観点から南北朝時代の変転極まりない離合集散を見ていかないと、何がなんだか分らない。忠心愛国なんて大嘘で、土地の利をめぐる争いによる、その場その場の敵味方にすぎない。そういう意味で「太平記」は有名でありながら、誤解されてきた書物である。明治以来の皇国史観に利用されて、南朝賛美の愛国の書と讃えられてきたが、戦後はすっかりバカにされて読まれなくなった。しかし「太平記」は南朝びいきの書ではない。もっと複雑な因果応報の中世的歴史観をふまえた相対的な価値観を持つ書である。最後に南北朝を後醍醐帝から見た歴史は、村松剛著 「帝王後醍醐」 中公文庫(1981年)にあるので、機会があれば紹介したい。

「太平記」の内容に入る前に、1318年〜1367年の主要な事項の年表を略記して、全体を眺めてもらう方が理解が楽になるだろう。
1318: 後醍醐天皇践祚
1321: 院政廃止 1329: 討幕計画発覚(正中の変) 日野資朝・俊基殺害。文観流刑
1331: 討幕計画発覚(元弘の変) 後醍醐天皇は廃帝、隠岐へ配流。 光厳天皇践祚し北朝開始。
1332: 護良親王吉野へ至る。楠木正成赤坂城で活躍。
1333: 鎌倉幕府 吉野、赤坂、金剛寺を攻撃。 足利尊氏上洛し六波羅探題を陥落させる。新田義貞鎌倉を攻め幕府滅亡。後醍醐天皇還幸
1334: 足利尊氏の讒言で征夷大将軍護良親王失脚
1335: 足利直義が護良親王を殺害、足利尊氏征夷大将軍を僭称する。 新田義貞、尊氏追討の宣旨をうける。
1336: 尊氏、新田を山崎の戦いで破り、京を焼く。後醍醐天皇坂本へ逃げる。尊氏、新田・楠正成に大敗、九州へ逃げる。尊氏、東上して新田・楠正成軍を打つ。湊川の戦いで楠正成兄弟戦死。後醍醐天皇吉野へ逃げる。
1337: 越前金崎城で新田義貞破れ敗走 恒良親王、尊良親王殺害される。北畠顕家奥州で挙兵、鎌倉を攻める。
1338: 北畠顕家、新田義貞討死。、南朝後村上天皇践祚。南朝側の小競り合いはあったが、勢力は急速に縮小した。
1345: 足利幕府は比較的安泰の時期、足利直義天竜寺建立
1349: 楠正行四条縄手の戦いで高師直と戦って戦死。高師直のクーデターで足利直義失脚
1350: 足利直冬九州で反乱、高師直・尊氏連合軍、直冬を破る。、直義は南朝に下る。足利氏兄弟が分裂し戦う。
1351: 足利直義が高師直・尊氏連合軍を破り、高師直兄弟戦死。尊氏・義詮・直義の和睦なるが、尊氏、直義追討の宣旨を受け鎌倉で破る。
1352: 南朝の北畠顕能、手薄を狙って京の義詮を襲う。北朝の光厳・光明上皇と崇光天皇、賀名生へ逃げる。南朝新田義興兄弟挙兵するも武蔵で敗戦。南朝は敗退し、北朝に後光厳天皇践祚
1353: 南朝 山名師氏・時氏親子 京の義詮を襲うを襲う。義詮と北朝後光厳天皇は美濃へ遁れる。
1354: 将軍尊氏上洛し、足利幕府勢力を持ち直す。 1355: 尊氏、山名親子・足利直冬連合軍を破る。
1358: 足利尊氏病没義詮第二代征夷大将軍となる。
1360: 将軍義詮と畠山国清、南朝の赤坂城を討つ。
1361: 南朝軍一時入洛するが、将軍義詮これを反撃する。
1367: 関東管領足利元氏没、将軍義詮没  三代将軍義満就任 細川頼之これを補佐する。

北朝をつくり、征夷大将軍となって室町に幕府を開いた足利尊氏は何度京都を追われたのであろうか。一向に鎌倉幕府のような質実剛健な強力な政権と云うイメージがない。1333年鎌倉幕府を倒した新田義貞の戦果を奪い、1336年後醍醐天皇を吉野に追い払った後も、足利氏親子兄弟の反目、高師直のクーデターに尊氏は右往左往して兄弟げんかの戦争を続けた。配下の有名な武将も度々反乱して京都に攻め込んでいる。足利氏内部の争いで南朝を巻き込んで戦乱は断たない。足利尊氏には源頼朝のような御家人を束ねる権威はなかったようで、室町幕府は有力武将の連合体(均衡)になっていた。その均衡がいつも簡単に破れ戦乱になったのである。応仁の乱もその延長線上に控えていた。なぜもこう乱れるのかというと、各種の勢力が絶対支配できなかったのである。地頭として荘園を掠め取った武家勢力、寺社勢力と組んだ宮廷(南朝)、近畿の大荘園主である寺社勢力と地侍勢力、新興商人・農民など庶民勢力などが押し合っている様であった。室町幕府も有力な武家勢力の一つの頭であった。「太平記」はこの戦乱の世で勝ったり負けたりする勢力の盛衰を描き続けている。「太平記」は天皇に絶対権力を認めるわけではなく、行いが悪ければ因果応報で衰えるのが理と考える。まして南朝が正統政権であるとは決して言っていない。むしろ「太平記」を読む限りあわれな無力な集団としか読めない。足利尊氏の室町幕府(「太平記」は室町幕府と云う呼称は一度も使っていない。まるで室町幕府は後代の作った分類に過ぎないというようだ。)も脆弱な政権と見ている。そして有力武将を消耗品のように現れては消えてゆく浮き雲のような価値観で見ている。南都寺社勢力は腐敗した世俗勢力と見ている。というように「太平記」の時代は卓越した価値観が不明で流動的で、安定しないのが当然という混沌の世界であった。このような時代に生きた人々はさぞ生きにくいことであったろうが、後世から見ると、なにか予期せぬ価値観が生まれる時代であった。「太平記」の時代を大きく3つに分けてみてゆこう。

後醍醐天皇践祚から鎌倉幕府滅亡まで
鎌倉三代将軍(頼朝、頼家、実朝)のあと権力を確立した執権北条七代(義時、泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時)の間、天下の政治は武家の手により武家間の争いを公平に調停し、民の生活を安定させる善政が行き渡っていた質実清廉な政権であり、彼らは執権は自身は決して四位以上に律令の位を貰おうとはしなかった。朝廷に対しては、将軍を迎えて、京に六波羅探題を置いて行政や警護の任に当たった。蒙古襲来後、九州に鎮西探題を置いて外敵への守りとした。各地では幕府に任命された守護の地位が重くなり、貴族が拝命する律令の国司は有名無実になった。しかるに北条高時の代になると放漫な政治が行われ、1318年後醍醐天皇践祚以来、政治好きの天皇は院政を廃止して政治改革を行い天皇親政をひいて、幕府から権力奪取を夢見るようになった。当時の天皇家は持明院系と大覚寺系の二つの家筋で争い鎌倉幕府の朝廷でほぼ十年ごとに交代するという慣わしであった。後醍醐天皇は比叡山を頼りにし、護良親王を天台座主とした。当時の寺社勢力は膨大な荘園をかかえ、さらに武士の匹敵する武力を持っていた。寺社には不輸不入といって年貢も納めず警察権の介入も許さないと言った特権を持った半独立的存在で、平家以来永い間武士勢力と抗争を続けた。1329年円観、文観、日野資朝・俊基、四条隆資らは討幕を計画した(正中の変)が、土岐頼員の密告により脆くも破れた。日野資朝は佐渡に流され殺害され、文観らは流刑、日野俊基は鎌倉へ送られ殺害された。当時の寺社勢力の雄比叡山は天台宗総本山だが、円観は真言宗醍醐寺派の代表であった。真言宗の総本山は高野山だが、地理的に真言宗の代表は京都の醍醐寺で政治的な発言力を強めていた。
1331年大塔宮(護良親王)の責を問う鎌倉の使者が来ると、大納言師賢らにより再び鎌倉討幕計画が持ち上がり、後醍醐天皇らは東大寺から笠置に逃れた。これを元弘の変と云う。笠置には楠正成が駆け寄り赤坂城で抵抗を示したが、鎌倉の正規軍には勝てず逃走した。結局尊良親王、尊澄法親王、は讃岐へ配流、」後醍醐天皇も隠岐へ配流となった。備前の児嶋高徳が天皇を奪取しようと暗躍して果たせなかったとき詠んだ「天勾践をむなしうすることなかれ、時に范れい無きにしも非ず」が有名である。天皇側が幕府に抵抗する基盤は寺社勢力であった。これは奈良時代から天皇家は寺院を寄進し荘園を贈って寺院の経済的基盤を強化してきたため、政治的混乱期には寺院はその経済的基盤をバックに兵力を養い荘園を守ってきたのである。大塔宮(護良親王)は般若寺に隠れ、熊野を目指したが熊野神社が幕府に付いたので吉野金峰山寺に逃げた。京では光厳天皇が即位して北朝が開始された。鎌倉幕府は二階堂が赤坂、吉野、金剛寺を攻撃して、楠正成を天王寺で敗り、吉野では大塔宮を破る。大塔宮は高野山に逃亡した。吉野金峰山寺には吉水系と新熊野系の主導権争いがあり、大塔宮は吉水系に頼ったため新熊野系の僧侶が寝返って大塔宮を攻めた。何処をとっても一枚岩と云うものは無く、その場その場で派閥が抗争しているである。金剛寺の千剣破城の楠正成を討伐していた幕府側の新田義貞が幕府を見限って天皇側についた。幕府の崩壊も近い。1333年赤松円心が幕府の六波羅を攻めたが撃退され、幕府は足利尊氏に討伐を命じた。尊氏は既に隠岐の島を脱走していた後醍醐天皇に幕府追討の綸旨を得て、六波羅を壊滅させた。一方鎌倉では新田義貞が反幕の兵を挙げ、1383年四手の道から侵入した新田軍は鎌倉幕府を壊滅させた。燃える落日にも似た鎌倉武士の死様は「太平記」の死の美学の頂点である。「平家物語」には諦念と浄土への期待と云う落ち着いた死があったが、「太平記」には死してやまんという駆け抜ける鎌倉武士の死の哲学が哀れみさえ拒絶する。鎌倉幕府討伐の主力は足利尊氏と新田義貞である。公家勢力は言いだしっぺに過ぎない。公家側の期待したように武家政治が終わったのではなく、新たな武家政治の始まりであった。「太平記」には時代の終わりを陳腐な道徳観がむき出しになっているが、無道な政治をしたが故の滅亡は政治批判にもなっている。

建武の中興から南北朝時代
1333年建武の中興が始まるが、早くも論功行賞をめぐって武家側と公家側の争いとなった。鎌倉幕府の所領として没収したものの大半が天皇や大塔宮の領地となり、後醍醐天皇の寵妃阿野泰子一族の介入による不公平や、六条忠顕、文観らの華美な生活は不平不満の種となり、遂に大塔宮の征夷大将軍就任をめぐって尊氏は大塔宮謀反の讒言で逮捕した。後醍醐天皇親政は早くかげりが見え、1335年公家内部での反旗は西園寺公宗から挙がったが、これに旧北条側の反乱が相次いだ。北条時行らの信濃での反乱を「中先代の乱」という。北条時行は鎌倉の足利直義執権を襲って敗走させたが、足利直義は逃げるついでに拘禁中の大塔宮を殺害した。尊氏は時行追討の綸旨を受け、征夷大将軍を関東八カ国の管領権を得た。足利尊氏・直義は鎌倉の北条時行を討ったが、新田義貞の尊氏への反感が強まり、尊氏追討の綸旨を得て鎌倉へ兵を起した。尊氏側には細川定禅、佐々木信胤がついたが、背後から北畠顕家が襲った。1336年尊氏は新田を破って入洛したが、新田義貞との間で京都の争奪戦が続き尊氏は敗れて西国から九州へ逃げた。尊氏は持明院系の光厳上皇の院宣を貰って、勢力を盛り返し興へ向かうのである。このように天皇家も寺社勢力も武家勢力もそれぞれが分裂して抗争を繰り返すのがこの時代の特徴である。尊氏は神戸の湊川の戦いで楠正成を討ち取り、後醍醐天皇を比叡山から吉野に追いやった。そして1337年尊氏は越前金崎城に新田義貞を追いこんだ。脱出した新田義貞・義助兄弟は京を伺っていたが、応援に駆けつけた北畠顕家は奈良から阿倍野で戦い足利がたの桃井直信・直常にやぶれ討死した。1338年新田義貞は藤島城の戦いで細川に討ち取られた。こうしてようやく南朝側の抵抗も下火になり(有力な武将を失ったため)、後醍醐天皇は崩御した。後醍醐天皇死してなおこの世への執着断ち難く、北向きに葬られた。南朝では後村上天皇が践祚した。南北朝の争いも無くなって、ようやく足利幕府の基盤が固まったが、勝ち誇った足利側では、高師直の横着振りは目に余るものがった。師直の邪恋物語は「仮名手本忠臣蔵」の題材になった。「悪行積もって滅びる」という師直の運命の伏線が引かれる。

南朝没落から足利政権骨肉の争いまで
「太平記」の歴史の視点は相手が天皇であれ、公家であれ、武家であれ、僧侶であれ、人間を賛美せず、絶対視しないことである。すべてを相対的に捉えようとする史眼は確かである。南北朝の戦乱は一応収まった気配を見せたが、公家階級の律令制荘園に対する領有権が有名無実になり。地元の武士がほしいままに年貢を取り立てた。このため朝廷の儀式・行事はすべて廃絶し天皇の治世は地に落ちた。民衆の生活は苦しく疫病災害は後醍醐天皇の霊の祟りとする風評が立った。無窓国師は足利尊氏・直義に、天龍寺の創建を建言した。1348年北朝では崇光天皇が践祚した。ところが南朝の残党で楠正成の息子正行が挙兵したが、高師直が討ち取った。尊氏は西国の固めに長男直冬を備前に派遣した。1349年高師直の専横を快く思わない上杉重能、畠山直宗はしきりに尊氏・直義に讒言した。これにより直義と師直の不和が表面化し、高師直が尊氏の邸を囲むと云うクーデターが勃発した。うろたえた尊氏は直義の引退と上杉重能、畠山直宗の配流を飲んだ。高師直は直冬を攻めて肥後に奔らせた。直義の引退によって、鎌倉から足利義詮を呼んで傀儡として、幕府の実権を掌握したのみならず。尊氏に九州の直冬討伐を迫った。師直の言いなりになって、高師直・尊氏連合軍は直冬を破った。一方京を遁れた足利直義は南朝を頼り、北畠親房、畠山国清と連合軍を作って京へ攻め込んだ。尊氏らは京を捨て西へ逃げるが、1350年足利直義が高師直・尊氏連合軍を破り、高師直兄弟は戦死した。そして一時的に尊氏・義詮・直義の和睦がなるが、すぐさま尊氏は直義追討の院宣を受け、北国に去った直義を追って近江に出た。もう足利一族は親子兄弟が相食む戦争になっていた。駿河の戦いに敗れ囚われの身になった直義は1352年毒殺された。手薄になった京に南朝軍北畠親房がせまり義詮を追い出した。これに呼応するように関東でも新田の残党新田義興・義宗、脇屋義血、三浦高通の反乱が起き、そこで尊氏は体勢を立て直して次々と反乱軍を平定して京へ戻り南朝を追い払った。戦いはいつも都と鎌倉を軸として起きる。尊氏の人生は二つの拠点を行ったりきたり戦争に明け暮れた人生であった。崇光天皇を初め北朝側の皇室は吉野に連行されたので、北朝では三種の神器なしで1353年後光厳天皇が践祚した。南朝の山名師氏・時氏親子が京の義詮を襲うを襲うと、義詮と北朝の後光厳天皇は美濃へ遁れた。かよわき義詮は逃げてばかりで勇ましい話は一つも無い。尊氏が京へ入って山名師氏・時氏親子を追い払うが、山名師氏は足利直冬と連合して尊氏を攻めたが、尊氏は赤松則祐の援助を得て山名師氏を討ち取る。この時代の闘い方は膳(京)にたかる蠅みたいなもので、払うと直ぐ逃げるが、またたかってくる。誠に五月蠅みたいだ。そして離合集散を繰り返す。誰が本質的に敵味方かはご都合次第と云うわけだ。都が静かになって三上皇が吉野から帰ってきた。1385年足利尊氏は休む間もなくあの世へ旅立った。足利義詮が第二代征夷大将軍となって、ようやく南北朝を一つのテーマとする時代は終焉を迎えたようだが、また新しい切り口の戦乱が始まりそうであった。「太平記」第35巻に「北野通夜物語」という遁世者、僧、公家の三人が政治評論、政治道徳論議をすると云う面白いくだりがある。「太平記」前編の総決算とも云うべき論議である。ここに「大平記」の政治批判、歴史批判、世界観が述べられ、現実批判となっている。それは武家、南北朝天皇家への手厳しい批判である。「太平記」の史観は道徳史観、宗教的には因果応報で、正しいものが強く、勝利者になると云う考えは現実肯定史観である。名文を紹介する。「民の誤れるところは吏の科なり。吏の不善は国王に帰す。君良臣を選まず、利を貪る輩を用ふれば、暴悪を欲しいままにして、百姓をしひたぐれば、民の憂い天に昇って災変をなす。災変起これば国土乱る。」


2) 山崎正和著 「室町期」 講談社文庫

著者山崎正和氏の紹介をしておこう。京都大学文学部哲学科美学美術史専攻、博士課程修了。イェール大学演劇学科留学後、関西大学文学部教授、大阪大学文学部教授、東亜大学学長などを歴任。戯曲と共に文明的な観点からの社会評論を多く著す。成熟した個人主義に基づいた近代社会を提唱しており、企業メセナやボランティアの概念を日本に普及させた当事者の一人である。西宮市在住であり、阪神・淡路大震災に遭遇したが、その際の市民ボランティアを「柔らかい個人主義」の実現と高く評価した。政治思想的には中道・親米的な現実主義の立場に立っているものと思われる。その著書が高等学校の国語教科書や大学入試などでよく使用されることから一般的な知名度も高い。文部科学省中央教育審議会委員(第4期) を勤めた。
主な著作には、戯曲に『世阿弥』(第9回岸田國士戯曲賞受賞)、 『実朝出帆』(芸術祭賞優秀賞)、 『オイディプス昇天』(読売文学賞 戯曲賞) 、評論に『柔らかい 個人主義の誕生』(吉野作造賞) 、『鴎外 闘う家長』(読売文学賞) 、『日本文化と個人主義』 、『近代の擁護』 、『世紀末からの出発』 などがある。

本書「室町期」(講談社文庫)は1974年朝日新聞社から刊行された。著者は1963年戯曲「世阿弥」によって、将軍義満を光の存在とし世阿弥を影の存在とする、乱世の世における芸術の存在理由を追求した劇作家でもある。しかし私は劇作家よりは評論家としての山崎氏を読んできた。陰のような室町幕府の将軍の存在と乱れに乱れた戦乱の武将の戦いばかりが目立つ中世は分りにくい時代であった。この「中世」と云う言葉も正しくない。中世は平安時代から鎌倉じだいをさし、室町時代は近世と云うほうが正しい。この14、15世紀の時代は世界史的にはルネッサンス期に相当し、山崎正和氏の「室町期」は明らかに室町から戦国時代を文化的にはルネッサンスとして日本的文化の開花期としている。そして政治経済史的には、中央集権体制から分裂小国家群の乱立と価値観の多様的並立、貨幣経済の成立と商人・土豪といった中間階層の自立と捉えている。したがって本書は前半が室町期の政治・社会史、後半が文化史という構成である。勿論本書の主眼が文化史にある事は当然である。

室町期乱世の政治・社会史

室町期の政治・社会史は、前の書永井路子著 「太平記」 で1318−1367年間の南北朝は既に紹介した。この部分は本書と重複するので割愛し、三代将軍義満の時代(1367年-1408年)から始めることにする。足利幕府はようやく三代将軍義満の時代になって絢爛たる「花の御所」の全盛期を迎えた。義満後の足利幕府は再び混乱に陥り、1428年ごろから近江・山城では土一揆や徳政令を求める騒乱が起き、1429年上杉憲実が足利持氏を殺害する永享の乱が起き、1441年赤松満祐が将軍義教を謀殺する嘉吉の乱が発生した。そして将軍義政のとき日野富子がわが子義尚を将軍にしたいため、1467-1477年わけのわからない応仁の乱の泥沼になった。自己主張と権謀術数と力の論理がむき出しなって渦巻く時代となった。それでも足利幕府は曲りなりにも1338年より1573年まで続いた。戦国時代の足利幕府は有名無実でったのでそれを差し引いても、約200年はこの無力な幕府があったのである。不思議な政権である。だがそれ以上に奇跡的なのはこの乱世が偉大な文化を生んだ時代であり、少なくとも日本文化の伝統の殆どをこの時代に創造した。「生け花」、「茶の湯」、「連歌」、「水墨画」、「金碧障壁画」、「能」、「狂言」、「座敷・畳・床の間といった住居」、「庭園」、「味噌醤油・豆腐・納豆の食品」、「禅京都五山と東山文化」、「太平記、徒然草などの文学」、「中国・朝鮮の茶器花器などの骨董趣味」といった日本的生活と文化がカオスの坩堝から生まれ、現在の我々はその恩恵を受けているのである。政治的動乱が社会のさまざまな階層をかき乱し、その結果多様な文化が一斉に自己表現を開始したと云うべきであろう。足利幕府が京都の都に開かれたと云うことが混乱の原因であり、かつ測り知れない幸運であった。都市文化が熟成してきたといえる。宮廷の雅を主眼とする貴族文化サロンと武士・町衆の文化サロンが都会人の感性を通して文化の保護者になった。対明貿易の隆盛(御朱印船貿易、倭寇)が平安初期以来(遣唐使)の輸入文化を開花させ、キリスト教も来日した。そしてこの都の文化は地方の有力大名によって地方に拡散し多くの「小京都」が生まれた。只この地方文化はいつも中央(京都)を向いた文化であり、今日の地方行政や文化が東京志向なのと同じ構図である。

では義満の時代を見て行こう。1367年義満は執事細川頼之の後見により10歳で二代将軍義詮の後をついで第三代将軍となった。足利の天下はここで危機にさらされた。有力な守護大名は斯波氏、細川氏を代表とする二つの陣営に分かれ対立し、将軍家そのものの基盤が危いバランスの上に乗っていた。最初から圧倒的な武力を持たず、将軍家は京都の一大名に過ぎない勢力関係の上で、北条家のような実務官僚体制(御家人衆)も持たないで、この孤独な将軍はいわばバランスの波をサーフィンする天才的政党政治家といえる。武力と土地支配力と云う経済力が絶対的でない将軍にとって、天皇家のような伝統的権威の象徴をうまく使いこなして自分の権威つけに利用するか思えば、対明貿易では「日本国王」を名乗っているのである。1378年義満は20歳になってようやく政治家としての力量を備え、花の御所を室町に建て、次に1379年これまでの管領細川頼之を首にして斯波義将に乗り替えた。義満が日本の全土を支配したことは一度もない。その代り京都と云う都会を支配した。市中の裁判権と警察権を宮廷から奪い、土蔵、酒屋の課税権を叡山より奪った。京都は貨幣と商業経済の中心であり、金融業者(寺社も含め)からの税金は莫大であった。武力、権威はなかったが金の力に注目した義満の政権はイタリアルネッサンスの領主に似ている。歴代南朝方にたつ九州の大名を抑え、「日本国王」を僭称し許可制貿易(御朱印船)によって義満は将軍の権威を保ったといえる。1392年義満は南朝の御亀山天皇に講和を持ちかけ、三種の神器を北朝の御小松天皇に返還して、皇位は交代で継承することになって名実ともに南北朝時代は終焉した。1394年義満は将軍職を義持に譲り、自分は太政大臣となって宮廷の権威を持つ立場に移った。これで足利氏は公家政治と武家政治の頂点に立ったことになる。第四代将軍義政は武家政治からも逃げ出して純粋な権威の象徴にだけ生きようとした。権力を全く伴わない政権はあたかもバチカン法王のような政権である。これでは天皇家と同じ生き方である。日本政治には権威の枠組みと実権力の枠組みの二つがあって、権力に変動のたびにそれが交互に使われると云う独特の二重構造が生まれた。虚と実の使い分けである。

義満亡き後、政治に全く感心を示さない第四代将軍義政の後継をめぐって女房の日野富子という女傑が活躍するのである。鎌倉時代にも頼朝亡き後尼将軍といわれた「北条政子」が北条家の覇権を作ったといわれる。日野富子の家は公卿の日野家であるが、この家は義満以来代々足利将軍家の正室を出す家柄である。初め義政との間に子供が出来なかったため、義政の弟義視を後継者にした。ところが1465年富子に義尚と云う子供が出来、之を将軍職に就けたいと云う母心が幕府内の派閥争いをうんで陰湿な抗争に発展する。義視には山名宗全と斯波の西軍がつき、富子・義尚には細川勝元と畠山の東軍がついて「応仁の乱」が始まった。応仁の乱はとりわけ政治的駆け引きそのものの戦争である。誰も権威は否定しないで、制度を変えるわけではなく同じむじなの戦いであった。富子はまったくご都合主義で味方を次々取り替え、誰と誰が戦争しているのか良く分からない様相であった。

応仁の乱より大分前から、つまり義満亡き後15世紀前半よりにわかに目立ってくるのが、所謂「土一揆」と云う紛争である。これは平安、鎌倉時代には無かった社会的変化である。1428年京都の町を揺るがした「正長の土一揆」が有名である。その裏には農民と持侍、馬借などの底辺の庶民が力を表現してくるのである。襲われる対象は土蔵や酒屋といった金融業者であったり、金融の手を出した寺院や彼らを庇護する大名である。これは一見革命のように見えて革命ではなくデモンストレーションに過ぎない。幕府は全国的に借金棒引きを許す「徳政令」を出した。この時代には年貢にも金銭が用いられ、為替の制度も整備されていたので、一揆は金融システムを破壊するのではなく、「近代化の歪」を正すのが目的であった。下層階層の経済力の向上に伴って、武家階層でも「下克上」が流行し、実権力は下へ下へと移行した。室町後期から戦国時代にかけて、日本各地に割拠した群雄はすべて「京」を目指していたが、それとは反対に1485年「山城国一揆」から地方の独立国家ができた。土着の豪族「国人」が中心となり「国中掟法」を定めて自治を行ったとされる。イタリアルネッサンスのようでもあるが長続きせず、「下克上」の上昇気流にのみ込まれて消滅した。もうひとつの一揆は宗教団体日蓮宗徒の「法華一揆」であった。京都の有力商人・町衆は熱心な日蓮宗徒で、叡山延暦寺の経済的圧迫に抵抗し、農民宗教であった浄土宗の「一向一揆」と闘った。新興勢力である都市商工業者の力を背景に、山科本願寺や石山本願寺を打ち破った宗教戦争であった。室町後期は斯くも多様な新勢力が都で渦巻き、混乱の極みを呈していたが、それは社会的支配勢力が存在しなかったことによるものである。このエネルギーが文化的独創を生んだと云うのが本書の言い分である。

乱世の武家階層が頂点を目指して抗争をつづけたのが「戦国時代」である。何時からを戦国時代と云うかは知らないが、室町末期に将軍が権威すらなく各地の武将を頼った15世紀終わりからの一世紀を戦国時代といおう。足利将軍は既に統一の精神的権威にもならず、お飾りに過ぎなかった。戦国武将には質実な鎌倉を理想とする関東指向型と、虚栄の都をめざす京都指向型に分かれた。関東指向型には、北条草雲、上杉謙信、武田信玄がおり、京都指向型には織田信長が代表する。織田信長はいち早く将軍義昭を奉じて入京し、そして将軍を捨てて天皇家を抱いて天下布武を目指した。もうひとつの型があるとすれば、京へ行きたくとも遠すぎてやむなく地方の独立王国を目指した「血縁割拠主義」に、陸奥宗光、毛利元就、島津がいる。信長の偉大なところは、天皇家と不離不足の関係にあり経済的基盤である中世的荘園を有する寺院勢力を徹底的に破壊したことである。日本から中世の遺物を掃討したことである。南都寺院、比叡山、本願寺一向一揆(石山本願寺、伊勢長島一揆)を壊滅した。そして秀吉において絢爛たる桃山時代が花開いたが、徳川家康の「関東指向型」(農民を基盤とする江戸政権)が成立して、京を中心とした文化は火が消えて行くのである。

乱世を彩る文化史

能楽 観阿弥・世阿弥親子

鎌倉幕府が滅亡した1333年伊賀に観阿弥が生まれ、息子の世阿弥とともに足利義満の庇護を得て、能楽と云う日本を代表する芸術ジャンルを生み出すのである。地方豪族と云う新興階級の出である観阿弥は、民間芸能であった田楽や猿楽を幽玄無比な能と云う芸術に高めたのは、捉われない階級出であると同時に、都に近く早くから都会の教養と伝統的な感受性になじんでいたからである。奈良に出た観阿弥は大和四座(観世座、金剛座、金春座、室生座)の一つに成長し、1374年将軍義満を今熊野に招いて劇的な成功を収めた。他座に比べて重苦しくなく、軽薄でもなく、抑制の効いた演技は「都の猿楽」といわれ、日本の美的感覚を舞台に持ち込んだのは観阿弥の天才による。観世親子の新しい猿楽は義満の自己主張の要求を満足させた。もともと舞台芸術は公家文化の伝統には欠けていたものだが、義満は猿楽を武家階層の新しい価値基準として公家文化に対して誇ることが出来ると考えた。世阿弥は「申楽談義」、「風姿花伝」は数々の芸能論を残して、日本には珍しい自己主張の明確な芸能人であった。

世捨て人のジャーナリスト 兼好法師

兼好法師は「太平記」では高師直の横恋慕の手紙代筆役として厭な歌人のイメージで登場する。兼好法師は当時和歌の畑では四天王といわれた歌人であった。世捨て人であるだけに、恋文代筆という浮き草のような不安定な生活を余儀なくされた。随筆家と云う職業があるわけではなく、寺社の僧ではなく、結局兼好法師は何者であったのだろうか。有職故実に詳しい学者ということだが、宮中に職を得たわけではない。有職評論家と云う職業も無かった。文明論と人生論、物語が雑居する「徒然草」と云う本はいわば今の総合雑誌みたいなものである。どの立場にも捉われること無く人生を描けたのは、彼の生活に根無し草の自由があったからだ。戦乱の世に「遁世者」と云う現実逃避型生活が一流の教養を生んだ稀有な例である。

社交界の花形 連歌師 宗祇

鎌倉時代に「時宗」という遊行の世捨て人の集団があった。この阿弥という遊行集団(時衆)は室町時代には学問や芸能で生きる人が多くなった。歌道の頓阿弥、連歌の心敬などである。将軍の社交係りを勤めた同朋衆に上りつめた人もいる。学問や芸能が社会的階層の裏梯子となった時代に、この仕組みを最大限に利用したのが連歌師の宗祇であった。低い身分から出て連歌と古典文学の研究に秀でた。公卿や皇族相手に「源氏物語」、「伊勢物語」の講釈をして、将軍家からは連歌奉行と云う最高の栄誉に任じられ、連歌集「新選つくば集」の編纂にあたった。最初の一句が歌出だした気分を損なうことなく、次々に新しい句を繋いでゆくことは、気の合った仲間の粋な会話であり、即興性のみで成立する雰囲気の芸術である。しりとり歌のコミュニケーションの方法であり、人間関係の最後の本質的な信頼関係である。

浄土真宗中興の祖 蓮如

1415年本願寺法主の子として生まれ八代法主についた。当時真宗の内部は派閥抗争に明け暮れ、本願寺派は衰微を極め、高田山専修寺派、仏光寺派など有力な法敵に囲まれていた。本願寺は世襲制の一つの家になっていた。奈良平安仏教は平和共存で並立していたのが、鎌倉仏教の誕生以来、「打ちてし止まん」という宗論と教団の対立に火がついた。室町時代には、社会階層が多様化して宗教界にも大衆化の波が押し寄せた。本願寺教団を作った蓮如の組織戦術は、民衆に帰属意識を植え付け教義の排他性は薄めて「講」という細胞を基に著しく肥大化した。強力な教団を組織した蓮如の組織は「オーム」のように武装して、越前の吉崎に本拠をおいて、一向一揆を指導した。

型破りの禅僧 一休

禅宗はもともと「不立文字」といって言語で大衆布教活動はしない。個人的な体験・修行で悟りを開くのである。鎌倉幕府以来、禅宗の実践的態度は武家階層の生き方に通じるところがあって、武士から支持を得た。幕府が寺院の建立を行い援助を惜しまなかった。足利幕府の時代には京都五山制度が定められ、一層の庇護が与えられた。そうすると禅僧の格式化と腐敗が進行し、一休禅師の人生はこの禅宗の腐敗と戦うことに特徴づけられた。後小松天皇の落胤とも言われているが、唐禅の伝統を引く大徳寺で修業した後は、師を追って各地の寺で修行したが、破戒坊主の異名は彼自身の天衣無縫な生き方、反骨精神、正義感から来ているのだが、ハメをはずしすぎであった。しかし大衆から「頓知の一休さん」と親しまれるのは、思考の枠踏みが伝統的社会に縛られていないからであろう。一休さんについてはこの室町期で再度取り上げる。

学者公卿 一条兼良

天神さんを嫌った元関白の名門藤原摂関家の出自である一条兼良は当代一の学者であった。「源氏物語」など20冊ほどの著書を著した。公家階級の没落を身をもって味わい、興福寺に厄介になったり流浪の生活を送った。将軍義政と富子の師として活躍するが生活は苦しかったようだ。「公事根源」にみる伝統的宮廷文化に対する執着は兼好法師とおなじである。「小夜のねざめ」、「花鳥余情」にも下克上の荒波に流される宮廷文化の貴さに遁れる没落貴族の最後の精神的砦であった。

贈物日記 三条西実隆

この時代には内容の豊かな細かい日記が数多く書かれた。三条西実隆の「実隆公記」は実にこまごまとした人事や世相を映して面白い。応仁の乱の前に中級公家に生まれた実隆は、最高位が内大臣で天皇の侍従として文筆の才を持って仕えた。彼の日記は贈り、贈られた金品が夥しく記載されている。社交に贈り物は欠かせない。些細な人間関係を重視する実隆は、人間好きだったのかもしれない。

孤独な水墨画 雪舟

雪舟は1420年備中の貧乏武士の家に生まれ、京の相国寺で修行した。将軍義政の東山文化が栄え同朋衆のサロンも確立した時代であった。雪舟の絵の師は周文であった。周文は前将軍義教の御用絵師であり、弟子の宗湛は義政につかえ、狩野正信も義政に仕えた。しかし雪舟は京都ではサロンから遠く離れた存在で芽が出ず、そこで長州の大内氏を頼った。この不運を見返す方法は大内氏のつてで明国に留学することである。47歳で明に渡った雪舟は帰国後、西国で大名の求めに応じて連日大活躍の人生を送り87歳で没した。「三水長卷」、「天橋立図」などの名作を生んだが、都で栄達できなかった雪舟は、地方でも腰を落ち着けず放浪の旅を過した孤独な画家であった。

権力者を飾る画家 狩野永徳

狩野派は正信のときから幕府御用絵師を勤め、土佐派と並んで京都画檀の中心であった。土佐派が伝統的な大和絵の伝統を受け継ぎ、公家的画風であったのに対して、狩野派は典型的な武家好みを代表した。その神髄は和漢混淆で、宋元の水墨画に濃厚な色彩を加える革命を起したのである。特に永徳は絢爛豪華な金碧障壁画として完成した。「檜図屏風」、「唐獅子図屏風」や、信長から命を受けて「源氏物語図」、「洛中洛外図屏風」は大名への政治的贈り物に使われた。金箔の使用は夜の灯りでいよいよ妖しさを揺らめかせるのである。

茶道と商業都市国家 堺

ザビエルが世界を発見した時代、日本では既にその世界に組み込まれていた。科学技術の面では種子島鉄砲伝来である。すぐさま日本人は国産化したがその中心が貿易港堺であった。中国で明王朝が成立し永楽帝が鄭和の艦隊をアフリカまで派遣したころ、日本では足利政権が生まれ、朝鮮では李氏朝鮮が生まれ、琉球王国の統一がなった。琉球王国は東アジア全域の貿易の中心となった。倭寇が貿易と時には海賊となって活躍したのもこの時期である。日本で海外貿易に注目したのは足利義満と大内義弘であった。東山文化の時には泉州堺が一つの文化的センターとなった。海外貿易の巨大な富と情報が京に近いことで堺の存在意義が注目されたのである。堺は36人の有力町衆の自治都市で、その中から茶の湯が社交の場として、情報交換の場として、狭い空間での濃密な人間関係を築く場として利用された。武野紹鴎、利休の「わび茶」がうまれ、能楽謡曲に車屋道悦、連歌に宗椿、武将に小西行長らが揃った。茶を初め日本の芸術は特に人間関係をその発生の場として発展してきたといっても間違いではない。お茶もお花も現代の形になるのは室町期で、ともに社交の場でのみ成り立った。西洋では芸術家というと孤独に神と会話する者と云うイメージがあるが、日本では芸術は自分と他人の関係で完結するものであった。世阿弥の「衆人愛敬」とは諸人の敬愛を受けることを目的とした芸術(お客さんあっての芸)ということだ。村田珠光の「月も雲間のなきは厭にて候」とは、唐物の茶器にも備前や信楽の茶器で霞をかけることで、茶の湯の世界に一つの新しい美の型が生まれるのである。世阿弥の「秘すれば花」と云う言葉は、面白く見せる趣向が見え見えで臭くてはいけない、芸の工夫が見えなくなるくらい練習して意識しなくなったときが見事な花(表現)が生まれるということである。世阿弥の「幽玄」の世界とは、きらびやかな王朝の優雅さを写実的な舞いに加えることである。写実的振る舞いに王朝的優雅で霞をかけるのである。之もやはり日本人の二重構造である。日本の舞台芸術には歌舞伎や能に見るように必ず「型」がある。これはもちろん約束事の美であるが、演技者と観客の間に成り立つ枠組みで盛り上がるのである。人間関係において約束とは口に出さない暗黙の了解で、虚構の世界に遊び、実よりも真実じみて感じるのである。「虚実は皮膜の間」というのが日本的人間関係といえる。


3) 世阿弥著  「風姿花伝」 野上豊一郎・西尾実校訂  岩波文庫

校訂者西尾実氏のあとがきの言葉から、「風姿花伝」の成立について一知識をまとめておこう。
「風姿花伝」のうち一から三篇までは1400年、世阿弥37歳の著である。第四・五篇は1402年、39歳の作である。第六・七篇は成立年代は不明だが、それ以降の近い年だとされる。世阿弥の著した申楽の芸術論「伝書」は二十余に及ぶが、世阿弥の芸術論の発展過程は三つに分けられる。代表作「風姿花伝」は世阿弥40歳前後の著で第一期の芸術論である。「花鏡」は世阿弥61歳(1424年)の著で第二期の芸術論である。「却来花」は世阿弥70歳(1433年)の作で第三期の芸術論である。世阿弥の能は、父観阿弥を受け継ぎ新たに京都の支配者となった武家足利将軍の保護を受けて発達した。観阿弥以前の申楽は有力寺社の庇護の下に発達した芸能であったが、観阿弥・世阿弥によって大成された能は、振興武家貴族をパトロンとして発達した。世阿弥の第一期は足利幕府第三代将軍義満の絶大な保護の下に、その社会的地位が確立した。世阿弥45歳までの時期である。父観阿弥の芸を子孫に伝えると云う強い使命感に燃えた「風姿花伝」を著した時期である。「第二期は世阿弥65歳までの20年間をさし、将軍義持によってしだいに疎外されてゆく時期である。世阿弥は後継者の薫陶に力を入れ「至花道」、「能作書」、「花鏡」を始め十余作を著した。第三期80歳までの15年間であるが、将軍義教により弾圧された時代である。71歳にはついに疎まれて佐渡に配流された。「金島集」、悲嘆の書「「却来花」」を著した。配流後の晩年は詳らかではない。

「風姿花伝」 序

申楽起源を釈迦や神代からはじめ、推古帝の時、秦河勝が六十六番の遊宴をしたのが申楽と号した初めという。その後その芸は春日大社、日吉神社の神儀や大和・近江の申楽に継承された。能は「言葉賎しからずして、姿幽玄ならんを達人とは申すべし」という。そして歌道だけは申楽に美を加えるものだから嗜むべきであると推奨する。

「風姿花伝」 第一 年来稽古の条

申楽を継承する者が年齢ごとに心得るべきことを記す。七歳から始めるが、自然と出る幼い姿のよさだけでいい。教えてはいけない。十二、三歳よりは色々の曲を教え始め、稚児の美しさと声のよさだけを大事にする。これを「時分の花」という。十七、八歳よりは姿も大きくなり声変わりもするので第一の花は失われる。ただただ稽古あるのみだ。ここでやる気をなくしては生涯ダメである。二十四、五歳よりはその人の一生の芸風が定まるので、稽古の一番重要な時期である。声と姿がこの時期に定まる。これを「初心の花」という。ここで驕ったら芸は停止する。三十四、五歳よりは芸の発達に油が乗る時期である。ここで天下の名声をえる。40歳以降は芸は衰えるのでこの比までに大成しない人は芸を極めたたとは言わない。四十四、五歳よりは芸は大きく変化する。年寄りの素顔は見せられないし、細かな物まねはしてはいけない。この年頃までに消えない芸を「誠の花」という。五十有余歳以降は芸はそぎ落ちるので、何もしないほうがいい。しかし「老骨に残る花」はある。何事にも通じる人生訓のようだ。

「風姿花伝」 第二 物学の条

物まねは大事である。それでも濃淡は心得ることだ。賎しい芸はいけない。女の姿は若い人に向いているが、着こなしは女の風情のすべてである。老人の風情は老人臭くてはいけない、つつしんでしとやかに舞って花となる。直面(素顔)は芸の上達した人しか見られたものではない。(歌舞伎役者のように)顔をつくろってはいけない、風情・振る舞いはあるがままに。狂人は心を入れて狂えば面白くなる。女の狂人は憑き物の狂いでは凄まじいだけで女の風情は出ない。直面の狂人はなかなかできるわざではない。その他法師、修羅、神、鬼、唐事などで心得るべきことを縷々述べている。

「風姿花伝」 第三 問答の条

Q&A(自問自答)方式で能の極意をかいつまんで解説している。舞台全体の雰囲気とは、緩急の心得とは、申楽のコンペでは何が大事か、稽古を積んだベテランのシテが若いシテに負けることがあるのはなぜか、へたなシテにも得意なところがあってうまい人に勝つ時もあるのはなぜか、能には芸の位があるのか、謡曲の言葉を忠実に身振りに表すこととは、萎れた花とはどういうことか、能に花を知る事の奥義とはといったことに世阿弥は丁寧に回答している。言葉で説明し尽くすと云う態度ではなく、あくまで実践者の勘所に訴える書き方である。微に入り細に入り(といっても素人の私には言葉で理解していても、抽象的になり分らないことばかり)解説している。詳細は分る人には分るのだろうか。現代の歌舞伎役者や所謂芸人にも共通する教訓に満ちているように思えるのだが、なんせ素人には分らない。ただ前半の問い、舞台全体の雰囲気とは、緩急の心得とは、申楽のコンペでは何が大事かに対する答えは分りやすい論理である。人の意表を突けと云うことに尽きる。前の芸とは違うことをやって注目されることなど受験の心得のようなせこいテクニックを述べている。

「風姿花伝」 第四 神儀云

第四は序で述べた申楽の歴史をさらに敷衍したものである。神代、仏、推古帝のころの遊芸は遠くて昔のことなのでどんな芸だったのか想像もつかない。秦氏より29代の後が金春禅竹の「大和満井の座」にいたる。大和興福寺の維摩会の舞い、大和春日大社の神事に大和申楽四座(外山、結崎、坂戸、円満井)が天下泰平の祈祷に行われた。近江には申楽三座(山階、下坂、比叡)、伊勢には二座、法勝寺には申楽三座があった。

「風姿花伝」 第五 奥儀讃云

そもそも「風姿花伝」は人に見せるためではなく、子孫に奥義を伝授するために書かれた。能の奥義「風体」の歴史と流派の考察でる。近江申楽は幽玄を優先した芸で、大和申楽は物まねを第一とした芸である。田楽は田植の時の民間芸能であるが、父観阿弥は田楽の名人一忠に師事していたと云う。世阿弥はこれらの三つの要素を深く研究して能楽の確立に努めたようだ。人の芸を良く見て、自分の芸の型を固めるこそ「物数を尽し、工夫を極めて後、花の失せん所をば知るべし」である。そもそも芸能とは心を和らげ寿福増長を願う物で、「衆人愛敬」といって諸人に愛敬されることが目的である。つまりお客さんあっての商売であるということだ。

「風姿花伝」 第六 花修云

第六は能楽作者の心得について述べた項である。謡曲は初めに華々しく始め、しだいに言葉・風体を尽くして細やかなる事が大事である。言葉は分りやすく納得の行くことである。「よき能とは本説正しく、珍しき風体にて、詰めどころありて、かかり幽玄ならんを第一とすべし」つまり局面白い所作でメリハリがあって、しぐさに幽玄がなければならない。音曲は聴くところ、風体は見るところ、音曲と働きは一心なるように稽古すべし。音曲から風情を起すには、作者は風情を念頭において作曲しなければならない。幽玄ばかり強調して物まねがおろそかになると芸は荒れてくる。物まねに優れていれば力強く幽玄に舞う、物まねがおろそかでは力弱く荒れた芸になるのである。演者シテの力を案じて能を作ることが一座の頭には寛容なことである。芝居の監督のことにも通じることである。

「風姿花伝」 第七 別紙口傳

第一から第六の段で述べて舌足らずのところを補ったものである。したがって既出のテーマの補充である。しかし名文句が多いのでそこを紹介したい。
「申楽も人の心に珍しきと知る所、即ち面白きこころなり。花と、面白きと、珍しきと、これ三つは同じ心なり」
「物数を極め、工夫を尽して、いずれの花なりとも、人の望み、時によりて、取り出だすべし」
「花は心、種は態」
「年寄りの若振る舞い、珍しき理なり。老い木に花の咲かんが如し」
「十態を知らんよりは、年々去却の花を忘るべからず」
「秘すれば花なり、秘さずば花なかるべからず」
「因果の花を知る事、極めなるべし。初心よりの芸能は因なり。能を極め名を得るは果なり」
「家、家にあらず。次ぐを以って家とす。人、人にあらず。知るをもって人とす」


4) 水上勉著  「一休文藝私抄」 中公文庫

 「一休文藝私抄」に入る前に、同じく水上勉著の「一休」(中公文庫)より一休和尚のあらましを整理しておこう。
一休の人間をきれいごとで捉えず生々しい生き物として把握しようとする執念、しかも社会の最下層に生きる者の立場から宗教を見る目は、本山のインテリ層や権力僧への仮借ない罵倒と痛撃になった。本書は一休の「狂雲集」、「自戒集」から一休の肉声を聞くため多くの漢詩(平仄もあやしく漢詩の約束事を無視した、七言絶句の叫び声)を引用し、一休の生涯を描くため一休伝記から墨斎作「一休和尚年譜」、「一休和尚行実」や民間伝説「一休諸国物語」、高嶋米峰「一休和尚伝」、市川白弦「一休」、吉田紹欽「一休」などを引用している。しかし各一休伝記もつまるところ墨斎作「一休和尚年譜」から一休の生涯を追跡し、空想し、実像と思しき姿を描き出すのである。私が読んだ「狂雲集」は柳田聖山訳「狂雲集 上下」中公クラシック(2001年3月刊)である。全559首の七言絶句からなる。漢詩の約束事である1,2,4句の末字の韻、同字犯さず、2,4不同、2,6対、4字目の孤平不許、下三連不許は守られていない。いわば漢字で書いた七言4句の文と考えればいい。しかも一読して何のことか良く分からない難解な文である。宗教的な言語が多いためと思われる。宗教的術語に精通していなければ判読不能である。しかも禅宗は人を食った発想を要求するのでなおさら意味不明である。訳や解釈なしでは素人にはちんぷんかんぷんである。一休は後小松天皇の落胤といわれる伝説があるのは有名である。真実はわからないが本書は一応その説に傾いているようだ。本書は墨斎作「一休和尚年譜」より、一休の師華叟や友人詩僧南江宗とのかかわりの文の行間を埋め、生活レベルまで想像して破れがない。一休の思想は「社会の底辺で這うように生きている人間にこそ生活があり、彼らのためにこそ禅はなければならない」というものであった。親鸞を受け継いだ蓮如の一向宗は悪人正機の他力本願に根本を置いた。禅と真宗の優劣を論じるものではなく、どちらも室町時代の戦乱の世の庶民を導くために血を流したことである。「一休が生きる世は庶民と同じく修羅、地獄である。無知蒙昧である。地獄のほかに仏土はなく、迷いを離れて悟りはないと悟った。中世の宗教家、法然、親鸞、道元、日蓮、蓮如などを輩出した中世は仏教が日本で新しく再生した稀有の時代であった。そして室町の戦乱期に宗教は初期の精神を失ったが、文藝、芸術など日本独特の文化が形成された時代はまさに日本のルネッサンス時代である。墨斎作「一休和尚年譜」を中心に一休禅師の年譜をまとめて理解の助けとしたい。

「一休和尚年譜」
*1394年誕生。大方の史家は後小松天皇と日野中納言の娘照子姫の落胤とする。幼名は千代菊で六歳で周建という名で安国寺で出家した。一休の幼名は周建といい6歳から安国寺で修行をしたといわれる。一休が生まれた当時の状況は、1394年第三代将軍義満は義持に譲位し将軍集権体制確立をはかる。土岐の乱、山名の乱や応永の乱(大内義弘、相国寺が加担して反乱する)がおこる。対明貿易盛んになる。天竜寺夢想国師派を頂点とする五山十刹制度が出来て官寺化したことが、政僧を生み禅宗の腐敗の原因になった。大徳寺や妙心寺は五山から外れ林下となり唐代禅を堅く守ろうとした。大徳寺は妙超(大燈国師)を初代とし、弟子関山は妙心寺を起し、義亨が二代を継ぐ。周建は言外、華叟の系列になる
*周建17歳 妙心寺派の謙翁を慕い西金寺にて修行する。このとき宗純という名を戴く。宗純はこの謙翁師から風狂(少年遊び、湯女買い、飲酒、詩文)の質を習った
*宗純22歳 華叟を慕って堅田に移り、京都へ生活の資を稼ぐため往復する。このころ大徳寺の官寺化がなり、十方住持制により大徳寺に夢想国師派住職が入った。華叟はこれを嫌って堅田の祥瑞庵へ隠居する
*宗純25歳 師華叟の公案通過によって一休という名を貰う。師からの印加を拒否する。京都での労働と堅田での修行の二重生活が続く
*一休42歳 師華叟から再度印加を貰うが拒否したので、兄弟子養叟が印加を受け宗統を次ぐ。以降一休の養叟への罵倒非難が18年程続く。「自戒集」は実に養叟への罵倒詩集となっている。一方「狂雲集」では無一物、一処不住の師を賛美する詩偈が多く作られた
*一休49歳 嘉吉の乱、馬借一揆、土民一揆頻発する京都での戦乱を逃れて、銅駝坊、塩小路坊を転々として、護羽山に逃れ移る
*一休50歳 京都室町に舞い戻る。養叟は大徳寺を十刹より除外を願い出て許され林下に入る。ところが妙心寺関山派の日峰が第36代大徳寺住職となる
*一休54歳 大徳寺に不祥事が発生して弾圧が下り、再び護羽山に逃れた
*一休59歳 養叟は紫衣勅許を得るため密参禅という便法禅を編み出し大徳寺は隆盛を向えたが、一休は「自戒集」を著し激しく養叟を責める。この時期一休は寺社奉行蜷川親当と連歌に興じた
*一休63歳 「自戒集」210首で一休68歳まで養叟への悪口書き連ねる。京都田辺薪村に酬恩庵を作った
*一休66歳 酬恩庵からでて二度京都に住むが戦乱のたびに酬恩庵へ逃げ戻る。この時期には関東動乱と応仁の乱が起った
*一休75歳 酬恩庵にて徹翁和尚百回忌を行う。護羽山を出た50歳から77歳までの27年間は乱世の渦のなかである。この間に一休は「仏鬼軍」、「骸骨」、「二人比丘尼」、「般若波羅蜜多心経解」、「あみだはだか物語」、「仮名法語」、「水鏡」、「自戒集」、「狂雲集」を著し、将に一休文藝の開花であった。「詩文はこれ地獄門前の工夫である」と自嘲しているが庶民の立場に立脚した
*一休77歳 盲目の女芸人森女との邂逅
*一休81歳 第48世大徳寺住職になるが、師華叟と同じく形だけの就任で大徳寺には行かず「居成」を決め込む
*一休82歳 連歌師宗祇が酬恩庵を訪問
*一休84歳 一休病になる
*一休86歳 大徳寺再建に尽くす
*一休87才 「狂雲集」を編集
*一休88歳 逝去

一休和尚の主な著作は「骸骨」、「自戒集」、「狂雲集」、「仮名法語」、「謡曲」、「道歌」がある。一休和尚の詩篇は881首と多作ではあるが、難解で創作詩から和尚の実像に迫ると云うのは文芸に化かされる畏れがないではない。伝記は弟子倫紹の編んだ「東海一休和尚年譜」があるのみである。それも極めて簡潔で詳細を知るには程遠い。あまりに簡潔なので和尚の行動の詳細や機微は分らないし空白の年月が多すぎる。そこで一番大部な「狂雲集」に頼らざるを得ないのだが、これがまた難解で、禅の業界用語を知らなければチンプンカンプンである。私も少しは漢詩集「狂雲集」を柳田聖山訳で読んだが、悲憤慷慨の気持ちの高さは分るとしても、不明な語句だらけで曖昧さはぬぐえない。やはり難解で宗教関係者でなければ面白くもおかしくも無いので途中で放棄した。またそのまま信じるのもおかしなことが多い。創作詩が事実であるとは限らないので、結局「狂雲集」から各自の心に映る一休さんを描くしかないようだ。水上勉著 「一休文藝私抄」を次の4つに分けて、水上氏の案内に従って辿ってゆこう。

室町期の禅宗寺

一休が生まれた1394年は足利幕府第三代将軍義満の末期に当り、義満は将軍職を譲って太政大臣となって宮廷の権威を持つ立場に移った。足利幕府は義満義持の時代は繁栄したが、義持の死を契機にして急速に地盤低下した。朝廷、公家、武家の庇護の下に五山派といわれた臨済宗禅宗も衰退の一途を辿ることになった。五山の繁栄といっても、経済的基盤があっての事で、宗教上の内容は既に堕落していた。禅寺に集まる朝廷、公家、武家の人々が真に宗教を求めていたのではなく、権力者を中心としたサロンに烏合衆参していたに過ぎない。宗教も権力者の権威づけに利用されていたに過ぎない。五線の土塀(皇室ゆかりの寺の印)の中の白砂庭園で文学を楽しみ、茶に遊ぶ禅宗界は雲上人に等しく見えたことであろう。事実皇室、公家、将軍家の血族で僧になる人が多かった。五山十刹が大伽藍を誇り、裕福な経済基盤に立った生活を謳歌できるのであれば、権力者の二男、三男の行き場として(門跡寺院)都合が良かったのであろう。裕福なところには人間が集まる。世を挙げて禅坊主時代になって入寺希望者が殺到した。そこで将軍が管理する「僧禄司」と云う役所が相国寺に設けられた。奈良時代の戒壇を司る鑑真和尚の唐招提寺と同じ機能である。僧侶は名のある門閥の家の出身者ばかりとなっって、公家や皇室の家系が云々される時勢となった。五山の塔頭は名門の人が集まって茶人や文人の巣となり文藝のみが栄えた。宗教は脇へ追いやられた。禅寺の経営を見てみると、禅寺は僧侶になる者から税金というか志納金を取った。本山には宗務、経理を司どる僧を東班衆といい、修行或いは学問の道に行く西班衆に分けられる。五山の東班衆は質屋や土蔵を経営していた。寺領の荘園や土地から上がる年貢を管理し土蔵と云う米倉庫に集めた。当時は既に貨幣経済になっていたから年貢を金に替え、金を貸しつけて金利を取る質屋と云う金融業を営んでいた。今日の観光寺院の拝金主義(金閣寺・銀閣寺を持つ本山相国寺の潤いと僧侶の堕落ぶりは、水上勉著「金閣寺炎上」にくわしい)とさして変らない。富を築いた本山はやがて貿易に手を出す。天竜寺船という明貿易である。将軍義満の権力と繁栄はこの明貿易の上がりから来ていた。この時代は中国貿易が盛んで明の物産に富裕層の人々の欲望が釘づけにされた。同時に思想(朱子学)も、漢詩、水墨画、陶器も明からの輸入物が流行した。五山文芸は四六宋文の発表会であった。この交易で巨富を積んだ禅寺は金を金融に回したり、公家や武家に貸したりして利殖にはげみ、堺などの商人と組んで武器の調達に手を貸す寺院もあったという。政界にも幅を利かした僧を政僧という。ところが嘉吉の乱で将軍義教が暗殺された比から下克上と騒乱の時代になった。民衆は武装して土蔵や質屋を襲った。裕福な寺院の倉庫や財宝が狙われた。いわゆる土一揆である。応仁の乱までもう少しである。幕府は「徳政令」で借金棒引きを約束して、安静化をはかったが、焼け石に水の状態となった。京はまさに騒乱の無秩序な世界になった。どの勢力も決定的に抑える力を持たなかった。

一休が理想としたのは大応国師、大燈国師、関山の流れを汲む修行を重視する唐由来の純禅である。義満が格式を決めた京都五山を「叢林」と呼び、それから離れた独立派を「林下」と呼ぶ。寺院の格と云う点では林下は叢林の下に位置する。大徳寺、妙心寺は林下に属し、五山からは軽視された存在であった。大燈国師は京都五条橋の下でこじきと共に20年間修行し、関山は京に住むことを嫌い奥美濃に住んでいたが、天皇に請われて大徳寺(後醍醐天皇)、妙心寺(花園天皇)を創建した。大徳寺は後醍醐帝の発起と云うこともあって幕府から睨まれ、五山十刹からも除外された。大徳寺も自ら官寺から脱出した。公家や幕府の庇護を断ち切った在野禅、純禅の祖として、大応国師や大燈国師が仰がれる。一休は大応国師や大燈国師と徹翁、華叟宗曇の四名のみを祖と敬い、それ以外の現世の僧を堕落の極みとして徹底的に攻撃するのである。ところが大徳寺、妙心寺も皇室の庇護にあったので、自然と名利に動き五山と同じ過ちの方向へ流れてゆく。大徳寺の場合は、京の戦火で焼かれた後、大徳寺再建の支援を受けるため泉州の堺へ進出した養叟の財政戦略に対して、一休は猛然と牙をむくのであった。清貧孤高、行雲流水を旨とする一休の純粋禅には伽藍は不要なのだ。今の感覚でいえばむしろ、養叟のほうが世の受けはいい。一休は気違い僧といわれる。今の世では薬師寺の高田好胤師は勧進一途で薬師寺を再建して尊敬されている。どちらが正常か難しいところだ。再建の費用を捻出するため、養叟は怪しげな免罪符のような「密参禅」、「野狐禅」、「利殖禅」、「公案禅」をやって禅を貶めたと一休は非難するのである。時代は嘉吉の乱から応仁の乱へ移り、土一揆、打ち壊し、大名内部での下刻上の騒乱があいついで京都は殆んど焦土となった。こんな時に宗教は何の役にも立たないのは、今日的常識である。乱世ならば僧はどうするのか。力をなくした幕府や皇室にすがっても一銭も出ないが、媚を売ってすがるしかなかったようだ。禅宗は文化僧、政僧、悪僧の群れになった。このような絶望の時代だったからこそ、一休が風狂と反抗に走るのも当然のなりゆきだったのだろう。唯我俗尊、異端の人が室町の純粋禅を守ろうとした。

「骸骨」

一休64歳の作である。ひらがなを主とした口語体で書かれた庶民向けの仏教説話である。内容は3000字にも足りないくらいの散文と道歌の書である。この前年に一休は田辺の薪村の大応国師の旧跡妙勝寺に入り、国師の像を作った。墨斎「年譜」によると、養叟が堺にいった後大徳寺を継いだ春浦宗熙が大徳寺を「紫衣勅許」の官寺にしたことに、一休はえらく腹を立て道端で春浦宗熙を面罵して騒動となったようだ。この比から大徳寺養叟派への執拗な攻撃が開始されたようだ。と云うことを念頭において一休の「骸骨」と云う書のあらましを読む。初めに初心者に座禅を勧め、諸々のことは虚空から生じ虚空へ帰る事、そして一切が仏である事を悟れという。それから一人の僧侶がぶらりと日暮れ時を三昧原をうろついていると、僧の前に骸骨が出てくる。(このあたりの語り口が謡曲に似ていると水上氏は云う。)骸骨はあばら骨を鳴らしながら踊って云う。一切の物は空しい。空しいから本文のところへ戻れと云う。更に明け方まで骸骨と遊んでいると、我心も消え楽しくなって骸骨と会話が出来るようになってくるのである。更に骸骨は云う。人は定めなき身である。人の命は何時なくなるか悲しんでいても仕方ない。そして骸骨が禅寺批判を開始する。骸骨に大徳寺批判をさせる趣向は面白い。このごろは寺を出る僧が多くなった。寺の坊主は智識なく、座禅もしなく、工夫も怠って、茶道具や絵をたしなんで、遊蕩三昧の俗人が衣を着ているに過ぎない。「ただいま、かしつきもてあそぶ皮の下に、この骸骨を包みて持ちたりと思いて、この念を能く考深すべし」という。そして20数句の説教臭の強いうまいとはいえない道歌(和歌)をならべてある。これで「骸骨」と云う書は出来上がっている。一体、一休の文藝は説教癖が強くて、死を説く文章はうまいが、死を間近に見据えて生きてゆく存命の悲しさとうれしさはあまり得意ではないようだ。

「自戒集」

戦後、一休が晩年住み没した田辺薪村の酬恩庵から発見された稀代の奇書(怪文書)がある。表紙に「瞎驢」とあって一休の著書である事が分り、寛正二年から68歳のときの書である事が分る。「自戒集」の内容は驚くべき大徳寺への罵詈雑言に終始していると言っても過言ではない。「自戒集」にも大徳寺批判はあるが、「自戒集」一書がすべて激越な批判で埋められているのである。人目につかぬよう秘匿されていたのかもしれない。「自戒集」の内容構成は、「序」ではじまり、「要兄が伝並びに狐の托語」、「養叟が頼病の記」と120余首の偈が記されている。墨斉「年譜」では一休が62才のとき「正月、泉南の嘲りの偈が京都まで届いた。師はそれに和韻をし、二百四首の偈をつけて1巻とされた。題して自戒集という。」年代が食い違っている。62歳が本当らしい。偈については難解で激越な精神しか伝わってこないので、省略する。誰が読んでも当事者で無いかぎり分らないでしょう。
「序」
大燈国師以来、純禅では「印可」という宗祖より相伝のしきたりはない。禅は所詮一代禅であって、到達した境地を弟子に継ぐなんてことはありえないことだという。「印可」を祖師から得たと云う弟子は大盗人だ。「華叟和尚は言外和尚よりの印可なし。宗純また華叟よりの印可なし」といって、養叟が華叟から印可を得た正当の法嗣だと言いふらすのはインチキだと罵倒することから「自戒集」は始まる。
「要兄が伝並びに狐の托語」
要兄というは、養叟に参禅した弟子と云う設定で恐らく春浦宗熙のことであろう。一休が道路上で面罵した最も嫌っていた人物である。要兄は殺生を好んだので蛇の気が取り付き気が狂ったが、酒を断って清浄自戒の僧に戻った。要兄から得法した助次郎と云う男が狐つきの狂乱に陥り、狐の言葉にして「狐つきの養叟の下部にはにはいつまでも取り付いてやろう」と言わしめるのである。つまり大徳寺養叟派は狐つきのように狂っていると言っている。
「養叟が頼病の記」
養叟が頼病になったという根も葉もない中傷誹謗の言は、徹翁和尚の法語「栄玄の徒の如きは人間に生きるとも頼病の苦を受け、仏法の名字を聞かず、懼るべし」といったことに由来する。まことに品の無い作り話で鬱憤を晴らす一休の姿が見えて情けない。養叟が一休の云うような腐敗堕落の偽坊主かというと、世間はどう見ていたかを「禅学要覧」にあたると立派な品行正しい人格であったようだ。やはり一休は、養叟が堺において比丘尼や商人・在俗に安易な禅を布教したのを咎めたい一心であったようだ。文芸作品だからこそ、こんな品の無い笑い話に仕立てたのだろうか。

「狂雲集」

私が読んだ「狂雲集」は柳田聖山訳「狂雲集 上下」中公クラシック(2001年3月刊)である。全559篇の七言絶句からなる。「狂雲集」を編集したのは、一休87歳のときである。余りに膨大で難解な漢詩集なので、水上氏は六つの区分を設けて代表作を示して鑑賞に付される。全559篇のうち500篇くらいは殆どが松林禅(純粋禅)の伝統を守ろうとする一休の思想が吐露され、或いは風流に身をゆだね、蓑笠の人になって自由な境地を歌い、何処まで本当かは知らないが風狂、瞎驢、飲酒・淫売の巷に迷い、自由闊達の詩句を吐き続けた。巻末に至って死の十年前から森女との愛情生活を謳うのである。文藝上の創作と云う人もいる。水上氏の区分に従うと、「少年時」、「禅宗の教え」、「色欲(男色)」、「師事した禅祖への尊敬」、「風狂、交友、非難」、「森女との交情」について、分りやすい詩を各5−10篇選んで観賞されるので味わっていただければと思う。詩は解説するものではないので、本文では省略する。


5) 卜部兼好著 「徒然草」 校注:西尾実・安良岡康作 岩波文庫

卜部兼好著 「徒然草」はこの文藝散歩コーナーで既に取り上げて全段をコメントした。この乱世の文芸という切り口にはなくてはならぬ世相を対象にした随筆集であるので、要点だけを採録した。文藝散歩コーナーで卜部兼好著 「徒然草」を読まれた方は飛ばしていただいて結構です。この要点に興味をもたれた方は本文を読んでください。

なぜ「吉田兼好」と書かずに「卜部兼好」と書いたかということは、作者の卜部家の系図を紐解かなくてはならない。兼好の生年は1283年前後で、没年は1352年以降の数年間で70歳前後で亡くなったと思われる。卜部家は代々神祇官として朝廷に仕えた家柄である。卜部家が吉田姓となるのは室町時代になってからで「吉田兼好」というのは江戸時代に捏造された俗称である。兼好の父兼顕と兄権雄は太政官のほか神祇官として宮中の卜筮を司る宮司の職にあった。兼好は後二条天皇(1301−1308)のころ朝廷に仕え蔵人を経て左兵衛佐に至った。この頃二条為世の門下にはいって和歌を学んだ。さて徒然草の序に「徒然なるままに、日くらし、硯にむかいて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」とある。これは反語であって決して「することもない生活の無聊を紛らわすために書いた取るに足らない文章」という意味ではない。そこには積極的な題材の選択があり思索的論証と自分の文章を確立しようとする強い意欲がある。一日一日の制作経験の叙述である。

兼好法師と呼ばれているわけは、当然兼好は出家しているのであるが、「沙弥」どまりの在家の僧である。文学に関係する人には「能因法師」、「道因法師」、「素性法師」、「西行法師」、「明浄(藤原定家)」、「釈阿(藤原俊成)」、「寂然(藤原頼業)」、「蓮胤(鴨長明)」などの著名な文藝人がいる。権力者でも「浄海(平清盛)」、「道崇(北条時頼)」、「恵源(足利直義)」、「道義(足利義満)」、女性では「浄如(俊成の女)」、「承如法(式子内親王)」、「真如覚(建礼門院)」などがいた。兼好は1313年官職を辞して小野荘(京都市山科区)に遁世者になった。兼好は二条派の四天王といわれた歌人として勅撰「続千載集」、「続後拾遺集」、「風雅集」、「新千載集」、「新拾遺集」、私撰では「続現葉集」、「藤葉集」に入集している。また面白いことに北朝時代高師直の恋文の代書をしており、かくして兼好は歌人、古典学者、能書家、有職故事家として世に認められた。徒然草は仁和寺を舞台にしている関係で、仁和寺の南双ヶ丘の麓に兼好の墓のある寺が現存している。

徒然草という文章はどのような意義と価値を持つのであろうか。校注者の安良岡康作氏は三点の特徴を挙げている。一つは徒然草の書かれた時期を二期にわけ一部は30歳代の1319年ごろ、二部は40歳代の1330年から1331年に書かれ第32段が分かれ目になり無常観の捉え方が詠嘆的・感傷的から実相的・諦観的境地に変化することを挙げられている。ここに兼好の発展的な変化を見ることである。第二に兼好には「世俗」、「仏道」、「遁世」の三つの世界が存在し、兼好はこの世界を自由に出入りして変幻自在な現状観察と自分の思想を自在に述べている。文章の目は随筆と論評の中間に位置し、生活の閑暇境、心身の安静感を獲得する道を追い求めている。第三に徒然草は当時の貴族階級・公家階級に向って書かれており、僧侶や武家は嘲笑の対象に過ぎない。



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