文藝散歩 

桜の歌人、漂泊の歌人 「西行」

桜に生き、桜の下で死んだ西行。西行といえば花。さらに旅から旅への漂泊の人、世を捨てた隠遁の人とさまざまな形容詞が被せられる。日本の歌枕の伝統を作った人で能因法師とともに有名である。西行ほど人の口に上り、憧れと親しみをもって語られる歌人はいない。1118年に生まれ1190年に72歳で死んだ。西行は、平安時代の藤原摂関家の支配力が失われ、院政の全盛期に平家の武家勢力が台頭し実権を握ったが、源氏の関東武士団により名実ともに平安時代の貴族社会が崩壊する時代に生きた。西行の亡くなったのは鎌倉幕府の成立二年前であった。藤原俊成と定家親子と親交し、同時代を生きた歌人で「新古今和歌集」に多くの歌が採用された。西行は勃興する武士階級の出であり、没落する貴族階級ではなかったことが、西行の自由闊達な活動を可能にした。西行の歌で私が一番愛するのは「新古今和歌集三夕の歌」の一つ
「心なき 身にも哀れは 知られけり 鴫立つ澤の 秋の夕暮」   (西行)
なお参考までに三夕の歌には次の二つがある。
「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦のとま屋の 秋の夕暮」  (定家)
「さびしさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮」  (寂蓮)
また辞世の句としてあまりに有名な
「願わくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ」
も愛する歌の一つではある。西行の生涯や歌人としての歴史上の意味、歌集などについては多くの本が著されているが、ちょっと西行を振り返ってみたいと思って、次の三冊を取り上げた。
1)辻邦生著 「西行花伝」 新潮文庫(1999年)
2)白洲正子著 「西行」 新潮文庫(1996年)
3)桑原博史訳注「西行物語」講談社学術文庫(1981)


1) 辻邦生著 「西行花伝」 新潮文庫

文庫本にしてもこの本の分厚さは閉口した。序の帖から二十一の帖まで700ページあまりである。これでは並みの読書子でも根をあげるだろう。そして文章体も綿々として悠長極まりない。源氏物語を読むくらいの粘り強さがないと趣旨が分らなくなる。西行をも含めて語り手が各帖で異なるのである。語り手の口を通して西行の歌論、人生に迫ろうとするやり方は、不思議な冥さをもって茫茫と広がるのである。これを「言葉の豊穣」というのか「言葉の広袤」というのだろうか。著者辻邦生の世界とは今あるということについての、とめどない揺り返し、湧き上がり、あふれ出して来る言語無窮の世界なのである。本書は谷崎潤一郎賞を受賞した作品である。いかにも唯美派の文体ではある。これは西行の世界に通じるのであるが「言葉にしか真実はない、この世の有様は言葉が自分に語りかけてくる、世界と自分が言葉で一体化する」ということである。これはまさに認識論の中核をなす思想である。デカルトの二元論のように対立する世界と自分ではなく、東洋的仏教的無の世界でもなく、言葉(花)をもって一体化する世界である。本書の「西行家伝」とは何だろう。時代は遅れるが室町時代の世阿弥の「風姿花伝」という言葉はある。美学上(芸術上)の言葉として「花伝」とは美の神髄という意味であった。恐らく作者の創案であろうか。本書は歴史書でもなく伝記でもなく文藝評論でもない。まして小説というにはあまりに皮相である。残ったのは「花」である。西行は花の人であった。第七帖に「全ては虚空の中に、儚く漂うにすぎないのでございます。それを思い極め、虚空を生き切るのでございます。すると漂うものとして、この世が見えてまいります。花があり、月があり、雪があるのが見えてまいります」という条がある。西行も花とすれば花の移ろいとは西行の人生でありすなわち「花伝」であるという理屈なのだろうか。この本で語り手として重要な位置を占める西行の在家の弟子「藤原秋実」とは誰なのか。史実にはない人で恐らくは作者辻邦生氏が投入されていると見るのが正等だ。西行の生きた院政時代は保元・平治の乱で武士階級が藤原貴族階級を追い落としてゆく時代である。社会的には律令制直轄地と寺社・貴族の荘園と武士階級の領土が激しく争った。そんななかで西行の関心は後鳥羽上皇、持賢門院、崇徳新院を中心とした人間関係に挟まれた苦悩から脱却する出家と歌の道への没入ということが特徴的である。この世の地獄的な争いから解脱し超越する道が歌の道で、それが現実を変えられるいう西行の考え方は滑稽でもあるが、西行がそう考えたのだから今となっては何をか言わんやである。個人の安らかな諦念の世界、安逸な精神状態を逃げの思想というなら、西行は生臭坊主的な現実改革者として、天皇家・摂関貴族、武士(平家清盛や源氏頼朝)、仏教界との関係を広く持ち続け、隠密的な活動もあえて行うという行動派歌人で、一筋縄では捉えきれない複雑な人物である。西行の佐藤家の領土は皇族徳大寺家に寄進して保護され、弟が管理していたといえど、西行の生活資金は保証されていたと見られる。実に不可解な政治的歌人である。

序の帖   藤原秋実  甲斐の国八代荘の騒乱、長楽寺歌会を語る

西行は出家前は佐藤義清という貴族主流から遠く離れた紀の国田仲荘を所領とする小領主であった。平安末期の土地事情は相当複雑な過渡期にあり、天皇律令制の国司が治める国領制と、摂関家や寺社が所有する荘園と、勃興する関東武士階級の在地領主の三勢力が、国に治める租税をめぐって争いが絶えなかった。佐藤義清のもつ紀の国田仲荘も高野山寺領と激しくつばぜり合いを起こして境界紛争を繰り返し、領土を安堵するため宮家徳大寺家の保護を求めた。序の帖は当時の土地関係と政治権力との関係を背景として理解してもらうために書かれているので、あったかどうかわからないような甲斐の国八代荘の騒乱は状況として聞き流していけばいいので西行の物語には何の関係もないので省略する。政治勢力の立場立場で正義があり、正しいことなんてないと思ったほうが正常な時代であった。「この世には人々の数だけ公正な生き方がある。そう悟ってこの世を見ると、花と風と光と雲があなたを迎えてくれる。正しい物を求めるから正しくないものが生じるのです」という西行の考えを示す。

一の帖   蓮照尼    紀の国田仲荘にて乳母として西行の幼年期、黒菱武者氷見三郎を語る

西行は紀の国領主で検非違使庁の役人佐藤康清の子清丸として生まれた。蓮照尼とは清丸の乳母で、彼女に清丸の幼少のことと家族のことを語らせている。黒菱武者氷見三郎の実在は怪しげだが、この帖では佐藤家と陸奥藤原家は同一の根を持つ家系であるということを言うためのお膳立てであろう。足利、結城、小山、越の国頚城荘もすべて陸奥藤原家と同門だと著者は言う。本当かどうかは別の次元の問題なので見過ごしておこう。言いたいことは地方の領土は摂関家の荘園や東大寺とか高野山などの寺領の荘園の郎党(武装勢力)と激しい武力抗争をしていたことだ。

二の帖   秋実     佐藤憲康の霊をして西行の年少時を語る

死んだ人の霊に語らせるという中世じみた芝居テクニックで、要するに西行の従兄佐藤憲康に西行の少年時を語らせている。将来は父と同じように検非違使として宮廷に仕え修行に励んでいた義清の日常を語る。弓などの武術、競馬、蹴鞠に熱心に取り組む様子を描くのだが、そこに鳥羽四天王の一人源重実が義清に雅ということを教える。「流鏑馬が当る当らないということより、雅な振る舞いの型が大事だ。余裕があったとき初めてこの世を楽しもうという気になる。この楽しもうという思う心が雅なのだ。」という西行の将来の心情の基本となることを源重実が諭すのである。なお義清の就職活動を徳大寺実能に依頼するのだが、任官はかなわなかった。

三の帖   西住     西行の思い出、鳥羽院北面を語る

西住上人は義清の年少時の親友であった。義清は源重実の屋敷に集まる歌人源顕仲らとの交遊を深めたことが、西行が歌の道にのめりこんで行くきっかけとなった。そして義清は買官運動が実って18歳のときに兵衛尉に任じられた。源顕仲の娘堀川殿は持賢門院の局となる人である。義清は徳大寺実能の推挙により鳥羽院北面近臣に選ばれた。鳥羽院の歌会で読んだ歌を記す。
「君が住む 宿の坪をば  菊ぞかざる 仙の宮とや いふべかるらん」

四の帖   堀川局   佐藤義清(西行)の待賢門院への恋、平忠盛・清盛の野心を語る
待賢門院御陵
待賢門院(藤原璋子)御陵 京都市右京区花園双が丘

堀川局は源顕仲の娘で、義清が顕仲の屋敷に歌の添削を受けによく行っていたことから友人になった。この頃宮廷歌人藤原俊成と近づきになった。ここから義清の恋の相手待賢門院について複雑な宮廷恋模様を叙述することになる。待賢門院は幼少の頃から鳥羽帝の祖父白河法皇の寵愛を受けていたが、女院は鳥羽帝の中宮となって輿入れした。しかし時折白河法皇との関係は続いていた。鳥羽帝と女院の間に崇徳帝が生まれた。実はこの崇徳帝は女院と白河法皇との子であったという噂が専らであったので、鳥羽帝にとってはこの子は叔父にあたる(叔父子)。鳥羽帝は退位を迫られ叔父子の崇徳帝が即位したとき、鳥羽帝の苦しみは頂点に達したようだ。崇徳帝は後になって鳥羽院よりひどい仕打ちを受けることになる。どっちも運命に翻弄される幼帝の悲哀が不幸の種となりそして保元の乱になるのである。義清は鳥羽院の北面の武士になって、親しくなった友人に従兄の佐藤憲康、鎌倉二郎源季正、平清盛らがいる。平の忠盛の子清盛は宮廷の見えない権力の力学に関心があってひたすら権力の中枢へ昇ろうと、てぐすねを引いていた。義清は権力の頂点である鳥羽帝を見ていてその孤独さに「権力の頂点は動きのない場所だ。つまり空虚だ。」と悟りきっていた。ところで義清はこのころ葉室顕頼の娘と結婚した。この葉室顕頼が関白藤原忠通と組んで藤原長実の娘で美人の誉たかい得子(美福門院)を鳥羽帝に貢いだ。そして父の前関白藤原忠実と息子の関白藤原忠通は姉泰子を鳥羽帝の皇后にいれた。こうして鳥羽帝は待賢門院を遠ざけた。待賢門院と崇徳帝に対して藤原頼長、院政側の鳥羽帝と得子が生んだ後の後白河帝に対して関白藤原忠通、葉室顕頼がつき、天皇と上皇側の両陣営での権力の駆け引きが宮廷および武士団も巻き込んで複雑怪奇な権力闘争へ展開してゆくのである。余談ながら待賢門院もさる女で次から次へと男を替えて浮気をしていたようだ。そんな色っぽい待賢門院に西行は恋をするようになった。

五の帖   西行     待賢門院の宴、三条京極第の観月会を語る

天皇と上皇側の両陣営での権力の駆け引きは政治的な動きを増すだけでなく、土地争いも絡んでいたのである。地方では天皇律令制の崩れから土地争いは都の裁定を待ちきれず武力で争うことが多かった。諸国の在地領主たちの私領を摂関家の荘園と寺社荘園が犯すようになり、朝廷の荘園も絡んで国の田租徴収は少なくなる一方であった。朝廷の権力の基礎は蝕まれていた。国領がなくなり私領が占め、紛争も朝廷の調停能力はないので武力での解決が中心となった。堀川局は待賢門院に仕えていたが、三条京極第の観月会でついに恋の手引きをして、義清は一人寝の待賢門院と逢う瀬を持つのである。そのときの歌を記す。
「弓張の 月に外れて 見し影の やさしかりしは いつか忘れん」

六の帖   西住     清盛の野心と佐藤憲康の死、西行遁世の志を語る

義清、従兄の佐藤憲康、平清盛の三人が院北面の警護の折に、現在の情勢を論じ合ったということが語られる。清盛は「武力とは別に、人を動かす力がある。それは摂関家の権能という目に見えない畏怖力の働きがある。摂関家は権能を持つが武力はない。武士は武力は持つが権能はない。事を成すには両方が必要」という。西行は「現世は浮島だ。武力も権能も結局浮島で一喜一憂する手段に過ぎない。人は事がなるかならぬかで浮世をぼろぼろにした。浮世の外に、この世の花をを楽しむ空間、雅の舞台がある。」と答え、西行は北面の武士を止め、23歳で浮世を出る決心をした。そのときの歌を記す。
「柴の庵と 聞くはくやしき 名なれども 世にも好もしき 住居なりけり」

七の帖   西住     西行の遁世と草庵の日々、関白忠道の野心を語る

関白忠道は鳥羽院に姉泰子を皇后に入れ、美貌の藤原得子を葉室顕頼と図って鳥羽院に入れた。これにより崇徳帝派の藤原頼長と激しく権力を争った。当時は院政であり実権は院側にあり、実質的な朝廷の命令は「院宣」として発せられた。幼い天皇はなすすべもなく退位させられるのが恒であった。次第に権力は院から上皇、法王というように年齢の高い方へ移行した。天皇は全く無力そのものであった。西行は鳥羽院に「目に見えないものを有らしめるものはただ言葉です。院のお立ちになる大地は、ただ言葉で歌で作られることになります。この世の花は虚妄の花でございます」という様な超観念論を説くのである。嵯峨野に住み着いた西行は無遍上人、空仁上人、俊恵上人らと交わり、醍醐の東安寺で仏門修行を行った。双林寺や雲居寺に集う歌人や藤原俊成と歌の研鑽に努めた。その嵯峨野の草庵の歌を記す。
「牡鹿なく 小倉の山の すそ近み ただひとりすむ わが心かな」

八の帖   西行     待賢門院の落飾を語る

完全に鳥羽院から遠ざけられた待賢門院は崇徳帝の生んだ皇子重仁親王を帝位につけることだけが楽しみであった。しかし鳥羽院の意を汲んで関白忠道は得子が生んだ皇子體仁親王を崇徳帝の養子にして皇太子に上げた。崇徳帝は譲位し院となって、三歳の體仁親王は近衛帝として即位した。いよいよ関白忠道の天下となった。邪魔な待賢門院側の人々へは圧迫が加えられ家には火もつけられた。不穏な噂も立てられた。たまりかねた待賢門院は仏門へ救いを求め法金剛院御所で落飾された。仏の道に移られた女院を祝して際行は次の歌を贈った。
「主いかに 風わたるとて いとふらん よそのうれしき 梅の匂いを」

九の帖   堀川局    待賢門院隠棲、西行歌道修行を語る

待賢門院は三条高倉第に移られた。付き添った局は堀川局と中納言局、兵衛である。ここで生涯を終えられる。西行は女院へ歌を贈っては慰めた。西行は「森羅万象を一層美しく見るために、浮世を離れるのです。」といって女院の心の持ち方を西行の持論に導くのである。出家することで薄紅色のしだれ桜に包まれた女院を詠んだ歌を記す。
「遅楼 みるべかりける 契あれや 花の盛りは 過ぎにけれども」

十の帖   西行     菩提院前斎院のこと、陸奥への旅立ちを語る

待賢門院の娘統子内親王は賀茂神社の斎院であったが、斎院を退下された後は兵衛が付き添って菩提院に住まれたので、菩提院の前斎院と呼ばれた。西行は菩提院を訪れ女院の姿を偲んでいた。西行は歌の会としては藤原俊成を判者とする「常盤の里の歌会」に参加し、藤原為忠の子息らと親交を結んでいた。三男為経は出家して寂超といい大原の三寂といわれる。崇徳院は皇子重仁親王を位につけることを夢見て、まさに煩悶して気も狂わんばかりの日々を送っていた。ここで西行は崇徳院の迷いを解脱せんと歌の道に導くことを説いたが崇徳院の妄想は次第に破滅へ向っていった。西行が陸奥への旅を決意したのは女院崩御の翌年であった。
「陸奥の おくゆかしくぞ おもほゆる 壺のいしぶみ 外の浜風」

十一の帖  西行    陸奥の旅

「秋風ぞ吹く白川の関」という能因法師の歌を口ずさみながら、29歳の西行は陸奥の旅に出た。いわば枕詞の旅ではあるが、遠江の日阪、小夜の中山、金谷の宿、那須の原、白川、名取川から藤原秀衡の栄華を見るため平泉に入った。平泉の要塞衣川柵を見て詠んだ歌を示す。
「とりわきて 心もしみて 冴えぞわたる 衣川見に きたる今日しも」

十二の帖  寂然    西行との交友、崇徳院の苦悶を語る

寂然とは西行が「常盤の里の歌会」に参加し、親交を結んだ藤原為忠の子息四人、為盛、為業、為経、頼業のうち末弟頼業のことである。結局三人が出家してしまうのであるが、三男為経が寂超である。この三人は大原に隠棲して大原の三寂と呼ばれた。寂超と寂然は西行と連歌遊びをしたり、崇徳新院の歌会に連なった。関白忠通は鳥羽院に美福門院をいれて院のご機嫌を得て、天皇派であり崇徳院に近い兄左大臣頼長と覇を争うのである。崇徳院は重仁親王を美福門院の子近衛帝の次の天皇にしようと苦悶するのであるが、重仁親王を阻止するべく関白忠通と美福門院は鳥羽院の第四子雅仁親王を天皇に推挙した。これが後白河帝である。(後の天狗後白河法皇)ここに崇徳院の煩悶は極まった。その地獄のような苦しみから救い出そうと西行は崇徳院を慰め歌の道に導こうとした歌を示す。
「ひまもなき 炎のなかの 苦しみも 心おこせば 悟りにぞなる」

十三の帖  寂念    高野山の西行のこと、鳥羽院崩御、保元の乱を語る

西行は32歳のころから約30年間高野山に住んでいた。高野山は西行の佐藤家の知行地紀の田仲荘に近くなにかと実家の便宜も得ていたようである。住んでいたというより高野山の庵を基点にしてあちこち旅をして歩き回っていた。仏道に専念していたわけでも無く、高野山の寺で修行しているわけでもない。少し離れた谷に庵を結んで心を鍛えていたというべきか。西行から歌を持って政冶に替えようとといわれた崇徳院が「詞花和歌集」の撰の判者に藤原顕輔をあてた。藤原顕輔は「常磐のうたびと」の歌は一つも採らなかった。「詞花和歌集」の改訂版は藤原顕輔がなくなってから始められ、「常磐のうたびと」の歌は読み人知らずの歌として採用され「後葉和歌集」となった。西行は高野山の庵にいて崇徳院への慰めと、鳥羽院派関白忠通と崇徳院派左大臣頼長との権力争いにまきこれないよう固く戒める手紙を崇徳院に送っていた。西行がここまで政争に介入していたかどうか史実には現れない。そして鳥羽院崩御のときをねらって左大臣頼長は崇徳院を抱きこんで軍兵を動かすと見られた。左大臣頼長には源為義が軍を入れた。関白忠通には平清盛らが軍を動かした。後白河帝に少納言入道信西が激しく扇動して一触即発の状態になった。保元の乱の始まりである。崇徳院は白川御所に入り、源為義が白川に集結するのを見て左大臣頼長は宇治から白川へ移った。西行は戦争を避けようと必至の工作をしたが、清盛は六波羅に集結して備え、入道信西と源義朝の軍の夜討ちで一気に勝負は決まった。崇徳院は船岡山の知足院で出家し仁和寺へ逃れた。全ては手遅れであった。
「かかる世に かげも変わらず すむ月を 見るわが身さへ 恨めしきかな」

十四の帖  寂然    崇徳新院讃岐御配流のこと、西行高野山入りのことを語る

入道信西は崇徳院側の公家を捉え死罪とした。源氏側は為義が、平家側は忠正らが死刑となった。崇徳院には讃岐配流となった。讃岐では国司藤原季行が院を迎え、幽閉した。万事無為に終わった西行は高野山に隠れ、高野山から崇徳院の無事を祈って作った歌を示す。
「慰めに 見つつもゆかむ 君が住む そなたの山を 雲な隔てそ」

十五の帖  寂然    讃岐の新院崩御のことを語る

寂然は二度讃岐に渡った。最初院は直島御所に住まわれていた。西行は高野山の庵にこもったきりで、一度徳大寺実能の葬儀に京へ下りてきたことがある。西行は高野山から、寂然は大原の里から歌の交換を行っていた。西行の心境は「真に己を捨て、己が透明になるとき、己は花であり、月であり、山であり、海なのだ。」そのさりげなさが西行の仏法の根底である。寂然の二度目の讃岐訪問のとき院は鼓の岡に移されていた。そうして又平治の乱がおき、信西入道は斬首、義朝は殺害され、平清盛が勲功を上げた。寂然は讃岐からの帰りに高野山により西行に会った。「院は処罰が過酷だと恨んでおられるようだが、その想いが一点でもあるかぎり、心は腐り始める」と西行は院を傷んだ。院は歌の道に生きることで救われるというものの、院のお気持ちはいかにもしようがなかった。院は讃岐御配流八年めに呪い続ける鬼となって崩御された。墓は白峰の陵にある。西行がなお院の救いを求めて贈られた歌を示す。
「流れ出づる 涙に今日は 沈むとも 浮かばん末を なお思はなん」

十六の帖  西行    宮の法印の行状、讃岐白峰鎮魂を語る

十六の帖は西行の歌論である。、
「西行が度々高野山にこもるのは、そこでは経験できない霊気のなかで仏道専一の思索をふかめるためであった。私にとって仏道とは森羅万象のなかに仏性の表れを見ることである。森羅万象の持つ仏性の柔和な円光こそ、私には唯一歌の心と読めた」
「真の出家とは、この我という家を出、我執という家を脱却することなのだ」ともいう。
「わが国の歌人たちが折りに触れて歌を作るのは、こうした言葉の器に保存するためであった。まさに歌による政冶と呼ぶべきであった。」
西行が高野山に行くのは、高野山には故崇徳新院の第二皇子二の宮の法印がおられたからでもある。宮の法印との約束に従って、西行が白峰の陵に向けて旅立ったのは51歳のときであった。すべては帰らぬ夢、ただ波の音のみが昔に変わらないと読んだ歌を示す。
「松山の 波の景色は 変わらじを かたなく君は なりましにけり」

十七の帖  秋実    西行との日々と歌道、源平の盛衰を語る

祭業ほど都を懐かしがっていた人はいない。西住、寂然といった古い友達も多く、西行が出家遁世の身になったのは、この世をより深く生きるためで、決してこの世を厭ったからではない。厭ったのは浮世の我執であり、権勢である。待賢門院、鳥羽院、徳大寺実能などとの親交も全て一瞬の夢に過ぎない。そして時代は平清盛の権勢へ上り詰めるときとなった。摂関家の力、院の力、帝の力、仏教神社の力をも注意深く測りながら、何時しか500箇所の荘園を持つ途方もなく大きな平家となった。摂政藤原基房を追放し、後白河院を後ろ盾にして、清盛入道の娘徳子が高倉帝の后になったとき、帝の外戚として絶大な権力を手に入れた。福原荘を整備して後白河院に寄進し、福原に遷都した。しかしその絶頂の期は短く、源頼政が以仁王を奉じて兵を挙げたが敗北、同じ年には源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げた。福原の都が移った京において西行が読んだ歌を記す。
「雲の上や 古き都に なりにけり すむらむ月の 影は変らで」

十八の帖  秋実    西行の高野山下りの真相と蓮華乗院勧進を語る

源頼朝は石橋山の合戦で破れたが、富士川の合戦で平家の大軍は敗走した。木曽義仲が挙兵して平京に入った時、清盛入道が亡くなった。カリスマを失った平家は西国へ追いやられた。ところが京に入った義仲は院政という権能を知らず、後白河院に手玉に取られて、乱暴狼藉を理由に源義経によって滅ぼされた。西行は高野山で金剛峰寺と末寺伝法院の激しい宗論を調停し和解させるため、五辻斎院の病気平癒の為と称して寄進を受け蓮華乗院の建立を行った。こんな生臭い事業を西行はおこなえる実務能力が備わっていたとされる。そうして西行は高野山に愛想を尽かし下山して伊勢に移った。平家は壇ノ浦で滅亡し、鎌倉殿は天下の将軍として土地の調停権を手に入れ全国支配に向った。そのとき義経を手中にした奥州藤原秀衡に背後で不気味な畏怖を感じたのは鎌倉殿であった。丁度そのとき重源が東大寺の大仏再建のための金の勧請を西行に依頼してきた。勧請の相手は奥州藤原秀衡であった。平家の滅亡を目の前にして西行は言いようのない空しさに耐えかねて詠った歌を記す
「世の中を 思えばなべて 散る花の わが身をさても いづちかもせむ」

十九の帖  西行    嵯峨野草庵に重源来訪のこと、陸奥の旅を語る

嵯峨野の草庵に戻った西行は「歌人の仕事は、この果敢無い蓮葉のうえに乾坤を照らす花を咲かせることにほかならない。歌が花でありうるのは、この空無のうちに歌人が生きると知ることです」とこの空しさをかみしめていたようだ。重源の来訪はどうも奥州藤原の内情密告と引き換えに奥州の金を奈良に運ぶ保証を鎌倉殿から得ているようであった。西行は69歳という高齢で密偵の役を引き受けたようだ。義経を手中にした奥州藤原秀衡はそれだけで存在価値があり容易には頼朝は動けないと見込んでいた。源頼朝は木曽を追放し、義経を手玉に取った後白河法皇の宣旨の威力を十分に知り尽くして、後白河院との妥協を行った。領土を旧主に戻し宣旨の実行者として、統率者としての地位を手に入れたのである。鎌倉殿の承認なしには土地は動かせないことになった。西行は二度目の陸奥の旅に出て、箱根を過ぎたところで呼んだ富士の歌を記す。
「風になびく 富士の煙の 空に消えて 行方も知らぬ わが思いかな」

二十の帖  秋実    西行が判詞を俊成親子に請う事を語る

そのとき藤原秀衡が亡くなり、兄弟の一人が鎌倉殿とのトラブルを恐れて義経を暗殺したとき、源頼朝は後顧の憂いなく軍を陸奥へ進め、奥州藤原家を滅亡させた。陸奥の旅から帰った西行は嵯峨野の草庵で歌稿の整理に埋没した。全てを見届けた西行には、死を意識して残されたことをやろうとしていたのだ。西行は藤原俊成に勅撰集に自分の歌を18首入れてもらったことを喜んだ。俊成は西行の歌の理解者であり、自身は秋の風情の歌人なのだが、激しい西行の歌に酔われた様だ。西行が俊成と定家に選考を依頼したときの歌を記す。
「花ならぬ 言の葉なれど おのずから 色もやあると 君拾はなん」

二十一の帖 秋実   慈円のこと、広川寺にて西行寂滅のことを語る

西行が藤原俊成に歌合の判者を依頼した歌卷は完成し「御裳濯河歌合」として伊勢神宮に送られた。藤原定家に歌合の判者を依頼した歌卷「宮河歌合」はなかなか進まなかった。摂政藤原忠通の実子で摂政兼実の弟であり、比叡山無動寺で修行した高僧で歌人である慈円法印が嵯峨野の西行の草庵をたずね歓談した。西行は「現世の法灯は寺院、堂塔です。歌も数奇すさびの具ではなく、本覚に導く真言を意味します。慈円こそ歌の政治を現実に実行できる人だ」と褒め上げた。「現世に生き、現世の理法に従うが、根本は現世を超える真の理法、仏法に全てを委ねている。この世を大事にするが、全く無視もしない。これを自由という」
西行は老い、故郷の紀の川に近い葛城山の弘川寺に草庵を作った。そして藤原定家に依頼していた歌卷「宮河歌合」が完成し伊勢神宮に送った。「円が閉じたと感じた時、森羅万象のなかに慈悲が溢れるのを感じた。」西行の人生は閉じたのである。西行は花盛りの桜の下で73歳の生涯を終えた。辞世の歌。
「仏には 桜の花を たてまつれ わが後の世を 人とぶらはば」


2) 白洲正子著 「西行」 新潮文庫

西行を語ることは、歌について語ることであり、仏教について語ることであり、旅を語ることであり、山河を語ることであり、日本人の魂と祈りを語ることであった。前書辻邦生著 「西行花伝」は、西行のこころの移り変わりを丹念に時系列で述べたと言えるが、本書白洲正子著 「西行」は旅にそって歌枕中心にしている。故白洲正子氏は言うまでも無く故白洲次郎氏の妻でもあった。1910年薩摩藩士で海軍大将樺山伯爵の孫として生まれ、小さくして渡米。生い立ちや交遊関係は同じ新潮文庫の「白洲正子自伝」、「遊鬼ーわが友、我が師」に詳しいので、興味のある方はそちらをよんで著者を知ってください。著者については実に複雑な人で何屋さんなのかよく分らない。作家であることは間違いないのだが、民芸運動家、書家、骨董屋(小林秀雄の影響が大)、目利き屋(美術については青山二郎の影響が大)など一筋縄ではとらえられない才女である。ご主人白洲次郎は故吉田茂首相の秘書として日本国憲法の翻訳や占領軍の通訳に当った戦後政治史の証人であった。ご夫婦そろって国際人であった。西行のことを論じるのに著者のことはどうでもいいことなのだが、私は昔からこの白洲正子氏には興味を持ち続けてきた。文学(評論)についてはやはり小林秀雄の影響が大きいのではないか。「能面」、「隠れ里」、「明恵上人」、「十一面観音巡礼」、「近江山河抄」などの著作がある。

本書の初めと終わりに引用されている重要な西行の歌論がある。明恵上人の伝記に書かれた西行唯一の歌論である。多少長いが重要な文章で本書の白眉(結論)でもあるので原文を掲載する。
「西行法師常に来たりて物語して云はく、我が歌を読むは、遥かに尋常に異なり、華・杜鵑・月・雪都て万物の興に向いても、凡そあらゆる相皆是虚妄なること眼に遮り耳に満てり。又読み出す所の言句は皆是真言にあらずや、華を読むとも実に華と思うことなく、月を詠ずれども実に月とも思わず、只此の如くして、縁に随い興に随い読み置く処なり。紅虹たなびけば虚空いろどれるに似たり。白日かがやけば虚空明らかなるに似たり。然れども虚空は本明らかなるものにもあらず、又色どれるのもあらず。我又此の虚空の如く心の上において、種々の風情をいろどると雖もさらに蹤跡なし。此の歌即ち如来の真の形体なり。されば一首読み出でては一体の仏像を造る思いをなし、一句を思い続けて秘密の真言を唱うるに同じ。我れ此の歌によりて法を得ることあり。若しここに至らずして、妄りに此の道を学ばば邪路に入るべしと云々。」
西行はなかなか難しいことを言っている。全ては虚空であるということは当時の常識であったであろう。まして自分が歌うことも虚空で何一つ残るものではない。いわば歌を詠むことが西行の人生そのもので、読んだ後は跡形も無く消えてしまっていいのである。それを世の常の歌人は後に残そうなんて考えるのは邪道である。虚空な気持ちで読んだ歌の中には人の心を討つものがあるが、歌によって名声を得ようなんて考えても見なかった。幽玄だの余情だの学んだところでろくなことは無い。西行はという様な自覚に達していたようだ。

本書の構成はほぼ西行の人生と歌枕によって西行の歌を詠むことである。次のような順に極力解説を省いて西行の歌を味わっていきたい。時代背景や西行の行動は前の書辻邦生著 「西行花伝」を参照すればいい。

鳥羽院北面武士・出家

「伏見すぎぬ 岡の屋になお 止まらじ 日野までゆきて 駒試みん」
「春風の 花を散らすと 見る夢は さめても胸の さわぐなりけり」
「心から 心にものを 思わせて 身を苦しむる 我が身なりけり」
「思え心 人のあらばや 世にも恥じん さりとてやはと いさむばかりぞ」
「いつなげき いつおもうべき ことなれば 後の世しらで 人のすぐらん」
「いつの世に ながきねぶりの 夢さめて 驚くことの あらんとすらん」
「なにごとに とまる心の ありければ さらにしもまた 世のいとわしき」

花園法金剛院・持賢門院への恋

「知らざりき 雲ゐのよそに 見し月の かげを袂に 宿すべしとは」
「月のみや うはの空なる 形見にて 思いも出でば 心通はん」
「花の染む 心のいかで 残りけむ 捨てはててきと 思う吾身に」
「青葉さえ 見れば心の とまるかな 散りにし花の名残と思えば」
「なんとなく 芹と聞くこそ あわれなれ 摘みけん人の 心知られて」
「尋ぬとも 風の伝にも 聞かじかし 花と散りにし 君が行くへを」
「紅葉見て 君がたもとや 時雨るらん むかしの秋の 色をしたいて」
「見る人に 花も昔を 思い出でて 恋しかるべし 雨にしおるる」

嵯峨野西行庵

「ふり埋む 雪を友にて 春きては 日をおくるべき 深山辺の里」
「この里や 嵯峨の御狩の 跡ならん 野山も果ては 褪せ変りけり」
「宿しもつ 月の光の ををしさは いかにいへども 広沢の池」
「今だにも かかりといいし 滝つ瀬の その折までは 昔なりけん」

大原野勝持寺「花の寺」

「花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の 科には有りける」
この帖は西行と業平の歌の共通点である悲運の人への同情について述べたところで、花の寺の歌はひとつしかない。

吉野桜

「「誰かまた 花をたずねて 吉野山 こけふみわくる いわつたふらん」
「吉野山 こぞの枝折の 道かえて まだ見ぬかたの 花を尋ねん」
「なんとなく 春になりぬと 聞く日より 心にかかる み吉野の山」
「吉野山 梢の花を 見し日より 心は身にも そはずなりにき」
「空に出でて 何処ともなく 尋ねれば 雲とは花の 見ゆるなりけり」
「とくとくと 落つる岩間の 苔清水 汲みほすほども なき住居かな」
「さびしさに 堪えたる人の またもあれな 庵ならべん 冬の山里」

大峰山修行

「露もらぬ 窟も袖は 濡れにけりと 聴かずばいかが あやしからまし」
「おばすては 信濃ならねど 何処にも 月澄む峯の 名こそありけれ」
「深き山に 澄みける月を 見ざりせば 思い出もなき 我が身ならまし」
「見に積もる 言葉の罪も 洗われて 心澄みぬる 三重の滝」 

熊野詣

「待ちきつる 八上の桜 さきにけり 荒くおろすな 三栖の山風」
「霞しく 熊野がはらを みわたせば 波の音さえ ゆるくなりぬる」
「木のもとに 住みける跡を 見つるかな 那智の高嶺の 花を尋ねて」
「かつらぎや まさきの色は 秋に似て よそのこずえは 緑なるかな」
「夕されや 桧原のみねを 越えゆかば すごくきこゆる 山鳩の声」

陸奥の旅

「心なき 身にも哀れは 知られけり 鴫立つ澤の 秋の夕暮れ」
「陸奥の 奥ゆかしくぞ おもほゆる 壺の碑 外の濱風」
「白川の 関屋を月の 漏る影は 人の心を 留むるなりけり」
「都出でて 逢坂越えし 折までは 心かすめし 白川の関」
「ききもせず たばしね山の 桜花 吉野のほかに かかるべしとは」
「とりわきて 心も凍みて 冴えぞわたる 衣河見に 来る今日しも」

高野山

「雲につきて うかれのみゆく 心をば 山にかけてを とめんとぞ思う」
「住むことは 所がらぞと いひながら 高野はものの あわれなるかな」
「もろともに 眺め眺めて 秋の月 ひとりにならん ことぞ悲しき」
「さまざまの 錦ありける 深山かな 花見し峯を 時雨そめつつ」
「良し悪しを 思い分くこそ 苦しけれ ただあらざあれば あられける身を」
「今宵こそ 思いしらるれ 浅からぬ 君が契りの ある身なりけり」

保元の乱・讃岐の院(崇徳院)

「かかる世に かげも変わらず すむ月を 見る我が身さへ 恨めしきかな」
「惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をも助けめ」
「身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ」
「強く引く 綱手と見せよ 最上川 その稲舟の いかりおさめて」
「世の中を 背く便りや なからまし 憂き折節に 君に逢わずして」
「松山の 波に流れて 来し舟の やがて空しく なりにけるかも」
「よしや君 昔の玉の 床とても かからん後は 何にかはせん」
「ここもまた あらぬ雲井と なりにけり 空行く月の 影にまかせて」
「ふりにけり 君がみゆきの 鈴の奏は いかなる世にも 絶えず聞こえて」
「死出の山 越ゆる絶え間は あらじかし 亡くなる人の 数つづきつつ」
「あわれなり 同じ野山に 立てる木の かかるしるしの 契りありける」
「岩に堰く あ伽井の水の わりなきに 心すめとも 宿る月かな」
「めぐり逢はん ことの契りの ありがたき 厳しき山の 誓い見るにも」
「今よりは いとはじ命 あればこそ かかる住まいの 哀れをも知れ」
「久に経て 我が後の世を 問へよ松 跡偲ぶべき 人もなき身ぞ」
「下り立ちて 浦田に拾う 海士の子は つみより罪を 習うなりけり」  

伊勢二見の浦

「腹赤釣る おおわださきの 受縄に 心かけつつ 過ぎんとぞ思う」
「雲の上や 古き都に なりにけり すむらむ月の 影はかはらで」
「鈴鹿山 うき世をよそに ふり捨てて いかになりゆく 我が身なるらん」
「過ぐる春 しほのみつより 船出して 波の花をや 先に立つらん」
「榊葉に 心をかけん 木綿しでて 思えば神の 仏なりけり」
「神風に 心やすくぞ まかせける 桜の宮の 花のさかりを」

鎌倉・陸奥の旅

「菅島や 答志の小石 分け替えて 黒白混ぜよ 浦の濱風」
「年長けて また越ゆべしと 思いきや 命なりけり 小夜の中山」
「風になびく 富士の煙の 空に消えて ゆくへもしらぬ 我が思いかな」
「清見潟 月すむ空の 浮き雲は 富士の高嶺の 煙なりけり」

虚空の心

「見るも憂し いかにかすべき 我が心 かかる報いの 罪やありける」(地獄絵を見て)
「ひまもなき 炎のなかの 苦しみも 心おこせば 悟りにぞなる」
「おろかなる 心の引くに まかせても さてさはいかに ついの思いは」
「高尾寺 あわれなりける つとめかな やすらい花と つづみうつなり」
「ともすれば 月すむ空に あくがるる 心のはてを 知るよしもがな」
「雲雀たつ 荒野におふる 姫ゆりの 何につくとも なき心かな」


3) 桑原博史訳注 「西行物語」 講談社学術文庫

「西行物語」は、平安時代末期の歌僧西行(1118−1190)を主人公に、その出家から死に至るまでの生涯を実録風に虚実織り交ぜて書いた物語である。作者は不明である。中世説話物語の系譜は「今昔物語」に代表される。実話めかした書き方で作り話を楽しませてくれる。実話らしいほうが人は熱心に読むからである。最初から「この話は虚仮ですよ」といってしまえば興ざめである。西行物語の書き方も基本は説話物語の方法に拠っている。作品の持つ虚構と事実をない交ぜにした方法はひとを惹き付けるのである。西行は多くの歌集(山家集、西行上人集、山家心中集、聞書集、御裳濯河歌合、宮川歌合)を残したのもかかわらず、自分のことは何も語っていない。鴨長明(1155−1216)や藤原隆信(1177−1264)の話に西行のことが断片的に書かれているくらいである。西行があくまで宗教世界にいたことによる。「西行物語」が発心、修行、往生の三部構成になっていて、修行の内容が遊行に重点を置いて書かれている。「西行物語」は鎌倉中期およそ13世紀半ばに成立したと思われる。14世紀初頭に成立した「とわずがたり」に、「西行が修行の記」という絵物語を見たと書かれている。「西行物語」には128首の西行歌が取り込まれている。殆どは「山家集」や「新古今集」から採用されているが、激動の時代を生きた西行の歴史的社会的関心をよそに、物語に採用された歌は道心、風雅の数寄ごころを主題とする歌ばかりである。ながーい詞書を持った歌物語といえる。源氏物語が絵巻物つきで普及したように、西行物語にも恐らく絵が付いていたのではなかろうか。

訳注者桑原博史氏は筑波大学文藝言語学系教授であった。専攻は中世文学史。今存命かどうかは知らない。西行の生涯については辻邦生著 「西行花伝」に詳しいので繰り返しても意味がない。「西行物語り」のほうがむしろ俗にながれて、お涙頂戴式の哀れを誘う題材となっており、本書の最後に付け足された妻子の話は完全に付録である。そして年代の順も無視されて、読者に混乱を与える要因になっている。前後した話も多い。辻邦生著 「西行花伝」にも虚実織り交ぜて小説風に書かれているが、まだ西行年譜としては正確ではないだろうか。「西行物語」の筋を追っても仕方がないので、歌物語として読むといい。そこで取り上げられた歌をここに掲載したい。白洲正子著 「西行」に記した歌と重複するところも多いが、一応参考までに記す。

1)   「いつ嘆き いつ思うべき ことなれば のちの世知らで 人の過ぐらむ」
2)   「いつのまに 長き眠りの 夢さめて 驚くことの あらむとする」
3)   「何事に とまる心の ありければ さらにしもまた 世のいとわしき」
4)   「岩間とじし 氷もけさは とけそめて 苔の下水 道求むなり」
5)   「鶯の 声ぞ霞に もれてくる 人目ともしき 春の山里」
6)   「降り積みし 高嶺の深雪 解けにけり 清滝川の 水の白波」
7)   「求め来かし 梅盛りなる わが宿を 疎きも人は 折にこそよれ」
8)   「雲にまがう 花の下にて 眺むれば おぼろに月も 見ゆるなりけり」
9)   「聞かずとも ここを詮にせむ 時鳥 山田の原の 杉の群立ち」
10)  「時鳥 高き嶺より 出でにけり 外山の裾に 声の聞こゆる」
11)  「道の辺の 清水流るる 柳陰 しばしとてこそ 立ちとまりけれ」
12)  「あわれいかに 草葉の露の こぼるらむ 秋風たちぬ 宮城野の原」
13)  「小山田の 庵近く 鳴く鹿の 音に驚かされて 驚かしけり」
14)  「小倉山 麓の里に 木の葉散れば 梢に晴るる 月をみるかな」
15)  「秋篠や 外山の里や しぐるらむ 生駒の岳に 雲ぞかかれる」
16)  「越えぬれば またもこの世に 帰り来ぬ 死出の山路ぞ 悲しかりける」
17)  「世の中を 夢と見る見る はかなくも なほ驚かぬ わが心かな」
18)  「年月を いかでわが身に 送りけむ 昨日見し人 今日はなき世に」
19)  「空になる 心は春の 霞にて 世にあらじとも 思い立つかな」
20)  「おしなべて ものを思はぬ 人にさえ 心とどめよ 秋の初風」
21)  「世の憂さに 一方ならず 浮かれ行く 心とどめよ 秋の夜の月」
22)  「もの思いて 眺めむる頃の 月の色に いかばかりなる あわれ添ふらむ」
23)  「玉の露 消ゆればまたも あるものを 頼みもなきは わが身なりけり」
24)  「受けがたき 人の姿に 浮かび出で 懲りずや誰か また沈むべき」
25)  「世を捨つる 人はまことに 捨つるかも 捨てぬ人をぞ 捨つるとはいう」
26)  「世をいとう 名をだにもまた とめ置きて 数ならぬ身の 思い出にせむ」
27)  「さびしさに 耐えたる人の またもあれな 庵並べむ 冬の山里」
28)  「身の憂さを 思い知らでや 止みなまし 背く習いの なき世なりせば」
29)  「年暮れし その営みは さもあらで あらぬさまなる 急ぎをぞする」
30)  「昔思う 庭に浮木を 積みおきて 見しにもあらぬ 年の暮かな」
31)  「心せむ 賎が垣根の 梅の花 よしなく過ぐる 人とどめけり」
32)  「香を求む 人をこそ待て 山里は 垣根の梅の 散らぬかぎりは」
33)  「主いかに 風渡るとて いとうらむ よそにうれしき 梅の匂いを」
34)  「花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の 咎にはありける」
35)  「宮柱 下つ岩根に しきたてて 露も曇らぬ 日の光かな」
36)  「深く入りて 神路の奥を たずぬれば また上もなき 嶺の松風」
37)  「神路山 月さやかなる 誓ひにて 天の下をば 照らすなりけり」
38)  「榊葉に 心をかけむ 木綿四手を 思えば神も 仏なりけり」
39)  「思いきや 二見浦の 月を見て 明け暮れ袖に 浪かけむとは」
40)  「浪越すと 二見浦に 見えつるは 梢にかかる 霞なりけり」
41)  「岩戸明けし 天つ命の そのかみに 桜を誰か 植ゑはじめけむ」
42)  「神路山 御連にこもる 花盛り こはいかばかり うれしかるらむ」
43)  「この春は 花を惜しまで よそならむ 心を風の 宮にまかせて」
44)  「梢見れば 秋にかぎらぬ 名なりけり 春おもしろき 月読の森」
45)  「さやかなる 鷲の高嶺の 雲間より 影やはらぐる 月読の森」
46)  「鷲の山 月を入りぬと 見し人や 心の闇に 迷うなるらむ」
47)  「神風に 心安くぞ まかせつる 桜の宮の 花の盛りを」
48)  「君も訪へ われも偲ばむ 先立たば 月を形見に 思ひ出でつつ」
49)  「年たけて また越ゆべしと 思いきや 命なりけり 小夜の中山」
50)  「笠はあり その身はいかに なりぬらむ あわれはかなき 天の下かな」
51)  「秋立つと 人は告げねど しられけり 深山のすその 風のけしきに」
52)  「おぼつかな 秋はいかなる 故のあれば すぞろにものの 悲しかるらむ」
53)  「白雲を 翼にかけて 飛ぶ雁の 門田の面の 友慕うなり」
54)  「清見潟 沖の岩越す 白浪に 光をかはす 秋の夜の月」
55)  「風になびく 富士の煙の 空に消えて 行方も知らぬ わが思いかな」
56)  「いつとなき 思いは富士の 煙にて まどろむほどや 浮島が原」
57)  「山里は 秋の末にぞ 思い知る 悲しかりけり 木枯らしの風」
58)  「えは迷ふ 葛の繁みに 妻籠めて 砥上原の 牡鹿なくなり」
59)  「心なき 身にもあわれは しられけり 鴫立つ澤の 秋の夕暮」
60)  「いかでわれ 清く曇らぬ 身となりて 心の月の 影を磨かむ」
61)  「いかがすべき 世にあらばこそ 世をも捨てて あな憂の世やと さらにいとはむ」
62)  「秋はただ 今宵ばかりの 名なりけり 同じ雲井に 月は澄めども」
63)  「白河の 関屋を月の 洩るからに 人の心を とむるなりけり」
64)  「誰住みて あはれ知るらむ 山里の 雨降りすさぶ 夕暮の空」
65)  「都にて 月をあはれと 思ひしは 数にもあらぬ すさびなりけり」
66)  「月見ばと 契り置きてし 故郷の 人もや今宵 袖濡らすらむ」
67)  「朽ちもせぬ その名ばかりを とどめ置き 枯れ野の薄 形見にぞ見る」
68)  「はかなしや あだに命の 露消えて 野辺にや誰も 送り置かれむ」
69)  「立てそめて 帰る心は 錦木の 千束待つべき 心地こそせね」
70)  「身を知れば 人の咎とも 思わぬに 恨み顔にも 濡るる袖かな」
71)  「隈もなき 折りしも人を 思ひ出で 心と月を やつしつるかな」
72)  「あわれとて 人の心の 情あれな 数ならぬには よらぬ嘆きを」
73)  「頼めぬに 君来るやと 待つ宵の 間はふけ行かで ただ明けなましかば」
74)  「逢うまでの 命もがなと 思ひしは 悔しかりける わが心かな」
75)  「きりぎりす 夜寒に秋の なるままに 弱るか声の 遠ざかり行く」
76)  「常よりも 心細くぞ おぼえける 旅の空にて 年の暮るれば」
77)  「憂き身こそ いといながらも あわれなれ 月を眺めて 年の暮るれば」
78)  「一人寝る 草の枕の 移り香は 垣根の梅の 匂いなりけり」
79)  「山賎の 片岡かけて 占むる野の 境に立てる 玉の子柳」
80)  「ほととぎす 都へ行かば 言伝てむ 越え遅れたる 旅のあわれを」
81)  「数ならぬ 身をも心の 持ち顔に 浮かれてはまた 帰り帰にけり」
82)  「これや見し 昔住みける 宿ならむ 蓬が露に 月のかかれる」
83)  「亡き跡の 面影をのみ 身に添えて さこそは人の 恋しかるらめ」
84)  「遥かなる 岩の狭間に 一人いて 人目思はで もの思はばや」
85)  「あはれとて 問う人のなど なかるらむ もの思う宿の 荻の上風」
86)  「枝折せで なお山深く 分け入らむ 憂き事聞かむ 処ありやと」
87)  「情けありし 昔のみなほ 偲ばれて ながらへば憂き 世にもあるかな」
88)  「山里に 憂き世いとはむ 人もがな 悔しく過ぎし 昔語らむ」
89)  「紅葉見て 君が袂や しぐるらむ 昔の秋を 思ひ出でつつ」
90)  「いかでわれ 今宵の月を 身に添えて 死出の山路の 人を照らさむ」
91)  「初秋の 中の五日の 今宵こそ 亡き人数の ほどは見えけれ」
92)  「その折の 蓬が本の 枕にも さこそは虫の 音にはむつれむ」
93)  「澄むと見し 心の月も 現れて この世の闇は 晴れもしにけむ」
94)  「なんとなく さすがに惜しき 命かな ありへば人や 思い知るやと」
95)  「数ならぬ 心の咎に なしはてで 知らせてこそは 身をも恨みめ」
96)  「思い知る 人有明の 夜なりせば 尽きせず物は 思はざらしも」
97)  「面影の 忘らるまじき 別れかな 名残を人の 月にとどめて」
98)  「疎くなる 人を何とて 恨みけむ 知られず知らぬ 折もありしに」
99)  「君去なば 月待つとても 眺めやらむ 東の方の 夕暮の空」
100) 「かしこまる 四手に涙の かかるらな またいつかはと 思ふあわれに」
101) 「何となく 落つる木の葉も 吹く風に 散り行く方を 知られやはせむ」
102) 「山おろす 嵐の音の けはしきは いつ慣やひける 君が住みかぞ」
103) 「世の中を いとふまでこそ 難からめ 仮の宿を 惜しむ君かな」
104) 「頼め置かむ 君も心や 慰むと 帰らむことは いつとはなくとも」
105) 「月の色に 心を清く 染めましや 都を出でぬ わが身なりせば」
106) 「世の中を 背く便りや なからまし 憂き折りふしに 君が逢わずは」
107) 「松山の 浪に流れて 寄る舟の やがてむなしく なりにけるかな」
108) 「ここをまた われ住み憂くて 浮かれなば 松はひとりに ならむとすらむ」
109) 「遁れなく ついに行くべき 道をさは 知らではいかが 過ぐすべからむ」
110) 「月を見て 心乱れし いにしへの 秋にもさらに めぐりあいけり」
111) 「わりなしや 氷る筧の 水ゆゑに 思い捨てにし 春ぞ待たるる」
112) 「深山こそ 雪の下水 解けざらめ 都の空は 春めきぬらむ」
113) 「大原は 比良の高嶺の 近ければ 雪ふるほどを 思いこそやれ」
114) 「今宵こそ 思い知るらめ 浅からぬ 君に契りの ある身なりけり」
115) 「道変わる 御幸悲しき 今宵かな 限りの旅と 見るにつけても」
116) 「訪はばやと 思い寄らでぞ 嘆かまし 昔ながらの 憂き身なりせば」
117) 「願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ」
118) 「仏には 桜の花を たてまつれ わが後の世を 人訪らはば」


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