180910

森本あんり著 「異端の時代ー正統のかたちを求めて 
岩波新書(2018年8月)

世界に蔓延するポピュリズム、それは腐蝕しつつある正統である民主主義の鬼子か異端か

2016年11月、大方の予想を裏切って登場したのが第45代アメリカ大統領に選出されたトランプ氏であった。その背景には増大する所得格差や教育格差、グローバル化による低賃金の圧迫、中国の台頭によるアメリカの相対的地位の低下、社会の底層をなす製造業労働者の斜陽化、移民の大量流入による白人層労働者の失業、福祉支出の増大などが挙げられる。アメリカはかっては開かれた機会の国であったが、いまや誰しも努力に報いられると期待する人は少なくなった。不満が鬱積する現状を、これまでのリベラルな常識が邪魔となり誰も声をあげることをしなかった。トランプはアメリカ人の底層を流れる声、政治環境の変化に戸惑っていた人々の屈折した本心を読み取り代弁する形で声をあげたのであった。といって彼が低賃金労働者の味方であるわけはないのだが、うまくその声を吸収し民衆の攻撃のはけ口を提供した。トランプの政治姿勢については金成隆一著「ルポ トランプ王国」岩波新書(2017年2月)に詳しい。トランプ氏は政治や経済の中枢にいる主流派に対するアンチテーゼであり、その手法はアメリカ的な反知性主義の伝統からするとほとんど古典的である。知性を纏った権力エリートによって政治は献金と利益誘導の伝統に毒され、そのしがらみを切ることで現状の打破ができるというアピールである。無学で極貧でも社会の主役になれることを訴えるのである。 とはいうもののトランプ氏は共和党に属している。彼にとって共和党はどんな意味を持つのだろう。トランプ氏の登場は、もう少し深いところから説明すると、現代政治の本質的な変化すなわち「政党政治の腐蝕」の上に立っている。トランプ氏にとって共和党はどうでもいいのである。共和党らしさも時代おくれの崩壊の危機にある。似非共和党員はいても共和党は利益集団の集まりに過ぎない。共和党の「正統」と「異端」の線引きさえ明確ではない。それは民主党でも同じことである。民主党の正統とみられるヒラリークリントンと異端に相当する左派サンダースが同じ民主党であること自体が異常であるが、結局は個人の主張が優先した。アメリカ政治を長年にわたり規定してきた二大政党制が制度的疲労をきたしており、機能マヒになっているようだ。同じような現象は2001年に組閣された小泉内閣についてもいえる。「自民党をぶっ潰す」といって自民党の既成権力に戦いを挑んだ小泉氏は「小泉劇場」という大衆へのアッピール力によって圧倒的な支持率を得て、構造改革を行った。次に登場した安倍内閣は「戦後レジームの解体」を叫んでさまざまな右傾化改革とさらに憲法改定に挑んでいる。民主社会における政治は選挙による多数決を唯一の政党制の根拠とし、参議院でも同じ構造である。日本の政党政治は選挙結果だけがすべてであるので、多数を得た政府は権力を集中させる法律を次々と成立させ、バランス勢力を排除し専制的政治を最も効率のいい政治だと考えている。まさしくポピュリズムの影響を排除することはできない。戦後の長年日本政治は政府と与党の二元体制(党の発言力が政府をチェックする機能があった)である。これが自民党の安定した正統性であり、議院内閣制の形骸化や官僚既往依存性を強めることになった。日本では政権交代が実現しにくいのは野党の弱体にあるだけでなく、既成政党や選挙制度全般の対する国民の不信や諦めのため大量の浮動票が発生する。この浮動票を集めるためにメディア操作やアンケートという世論誘導策が日常的に行われる管理社会になっている。デモやインタ―ネットによるアマチュア政治が流行ることはあるが一時的で消えやすく、大衆動員力がけた外れに大きいポピュリズムによって足元をすくわれることになる。トランプ大統領の登場の背景にある「正統の曖昧化」は、人々が政府・公共機関や専門家・機能集団(原発や医療など)への不信が原因となって反知性主義というかたちを取り急速に進行した。反知性主義とは知性がない方がいいということではなく、知性と権力の固定的な結合に対する反発のことである。知が特権階級化することに我慢がならないのである。16世紀以来の西欧の科学進化思想に対する、キリスト教の「神の前では万人は平等」の信念であった。

1830年アメリカを訪問したフランス貴族トクヴィルと民主主義の行方を書いた、富永茂樹著「トクヴィルー現代へのまなざし」岩波新書(2010年9月)においてトクヴィルは「安楽はアメリカ人には生きている間には訪れない「永遠の遁走」」といったという。権力は現在強くなったのだろうか、いや従来の権力が劣化し社会の構成力が摩耗していることを示している。現代の権力は市場原理にさらされ、メディアの目を通して大衆にあまねく周知されている。これらは人・物・情報の世界的交流と大衆の教育水準の向上によるものである。権力の衰退は先進国だけでなく全世界的現象である。国連において新たな加盟国は戦前の4倍となり、先進国は一国一票の数の上では少数派である。頼みの軍事力も世界大戦という大規模な都市攻撃では先進国は有利であるが、都会でのテロ、少数民族紛争ではその力を発揮できるところはない。高度な知識や技術、資源や勝れた能力を持つ者のみが参入を許された分野や集団はなくなりつつある。参入障壁が低くなって挑戦する機会が与えられたからである。既得権を持った権力が相対的に地位を低下させ、現状批判を募らせてもっと有利な社会を求める「期待感の革命」が高まっている。ポピュリズムがそれに便乗して、大衆を取り込むため途方もない期待感のスローガンを打ち出すのである。実現不可能な過激な選挙公約が大衆受けするのである。既成権力の衰退と求心力の低下は、政治経済の領域にとどまらず、教会や宗教団体に広がっている。ここで著者の神学・宗教学者森本あんり氏の紹介をしておこう。森本氏は1956年生まれ、プリンストン神学大学院卒業で、現在国際基督教大学学務副学長で教授である。アメリカキリスト教史、アメリカ的理性、反知性主義に関する著書がある。だから本書の出だしはトランプ大統領で始まったが、その切り口は宗教学とキリスト教史で世相を解剖し、どちらも同じ病根からきていることを示す現代社会の精神病理学である。カトリック教会では司祭の腐敗、精神的な権威の堕落、教会の衰退が進んでいる。代わりに急成長を遂げているのは自由教会系、独立教会系であるという。これらの組織はヒエラルヒー的な連合を持たないので発言力はないが、地域性や特定の対象ごとに浸透しているようである。異端であることの障壁が少なくなり、正統であろうとする努力こそが自分や周囲に抑圧をもたらす根本悪なのだという見解である。トランプ大統領の「アメリファースト」という排他的集団では既存の体制や正統性が問われ、諸々の社会制度が棄却されることは社会の健全性と両立するだろうか。貨幣制度が人々の信認の上に成立しているように、政治制度も社会構成員の信がなくては立つことはできない。極端にリベラル化した21世紀の民主社会では求心力をなくした社会が内から崩壊するリスクが外的要因よりも一番高いのである。そもそも「正統」と「異端」という腑分け方は宗教学の領域の言葉であった。本書ではこれを社会全般に前提とされる信憑性の構造として捉えたいという。この意味で政治学者丸山眞男氏の「正統論」は未完成であるが、きわめて興味深いものだと評価している。本書は丸山氏が政治学や思想史の側から見ていたものを、神学や宗教学の側から捉えなおすことである。正統も異端もある日少数の人が勝手に決められるものではなく、時間をかけて人々に認知されるプロセスがある。正統も未来永劫変わらないものではなく、世の流れに沿って変遷を余儀なくされるものである。本書において実は「正統」の内容は議論されることはない。それはどんな社会がいいのかということだ。したがって「正統」を生きた環境の中で動的に捉えるいわば「正統の生態学」だという。本書は第1章で丸山氏の正統論を吟味する。日本人の異端好き(新しい物好き)である理由も議論される。第2章、第3章、第4章で初期キリスト教の神学史を正典、教義、聖職者の順にながめる。第5章、第6章、第7章でキリスト教の正統と異端の発生のメカニズムと正統の輪郭を考える。第8章、第9章で精神史の流れと現代における正統と異端の位置づけを検証する。

第1章 異端好みの日本人ー丸山眞男をよむ

丸山眞男氏が正統と異端をどのように理解していたかを見ていこう。丸山氏の正統への関心は敗戦直後に書かれた「超国家主義の論理と心理」にすでに表現されている。そこで彼は「正統性」と「合法性」とを区別し、近代国家では政治的支配の正当性を合法性に求めることを指摘している。それは本書の第6章中世神学に置いて取り上げられる。丸山氏は1965年の講義において北畠親房の「神皇正統記」を取りあげ、「正統」と「正理」という術語を導入した。ここで「正統」とは血統や世襲の論理であり、「正理」とは特定共同体の利害を超えた客観的規範の論理である。丸山氏の正統論に沿うと、「L正統」とは権力継承の正閏を問うものであり、「O正統」とは教義解釈の正邪を問うものである。ここでは「正統」とは「L正統」となり、「正理」とは「O正統」をさす。親房は「邪なる者は久しからずして滅び、乱れたる世も正に復る」という。皇統が簒奪されたり断絶するのは、正しくない不徳の天皇が横暴を振ると、その皇統を絶ち傍系から正しい政治を行う皇統を誕生させるという、皇統の断絶を可能とする中国思想の革命思想を日本的に焼き直した皇統の垂直移動と平行移動に置き換えたものである。(アミダ籤のような構図)そういう意味では「神皇正統記」は血統的な正統に固執しない、規範的な「正理」の論理を打ち立てたと言える。もともと神道は教典もなく開祖もない氏族祭祀であった。それが仏教と習合し、中世以降は儒教と癒着する。これを融通無碍というか、教義を議論しない神道の根本的性格である。正統論のもう少しまとまった記述は「文明論之概略」に見られる。福沢は読んだギゾーの言葉に「政統」という訳を与えた。現在の「正統」には「正」という字を与えるほど規範的な規範的な性格はない。丸山氏は正統と異端の議論は共産主義には起きるが、ファシズムにはないという。共産主義は特定の民族・国家を超えた普遍的な価値観を主張するが、ドイツファシズムはゲルマン民族の伝統を絶対視する部族主義であるからである。だから同じファッシズムのドイツと日本の間で正統争いは起きない。ソ連体制の中から「スターリン批判」が起きるのは、カトリックに対する宗教改革と同様な修正(全的否定ではない、主導権をめぐる正統争い)であるからだ。正統と異端の戦いは昔から「自分は正統、相手は異端」で終始するものである。正統は時に権力をもって異端を抑圧し、邪教の烙印を押して排除してきた。これらは「L正統」による「O正統」の「迫害」という構図である。江戸幕府による朱子学の国教化は、本来「O正統」と判断される学問すら権力によって「L正統」として定立された例である。福沢の師ギゾーも指摘するように、およそ権力という者は自己の正統性の根拠がむき出しの暴力に過ぎないことを示す。しかしたとえそうであっても権力は自らが「暴力以外の資格」によって存在し始めたと主張する。すなわち権力は政治的な正統性は暴力では擁護できない事を知っている。政治的な正統性は「由緒の古さ」「古来」という時間的に先んじていることをもって自己の権力の根拠とする。古代権力は過去を捏造したり、詐称することで神話を作る。近代国家とはローマ帝国滅亡後多様な原理や価値の普段の対立や闘争によって形成されたとギゾーは考えた。福沢もギゾーを踏襲した。その多様性を特徴づけるのが、聖権と俗権という独立した二つの権力の拮抗である。人間に精神と肉体があるように、俗権は身体有形の世界を支配し、聖権は精神無形の世界をを支配する。この両権の独立と併存こそが西洋文明の核心を構成したという理解である。しかしキリスト教は個人的な信仰から出発したが、地上に巨大な組織と秩序とネットワークをこしらえた。「教会」とそれを支配する「聖職者集団」である。近代市民社会は聖俗の二元的価値の区別を前提に成立したが、信仰共同体の存在があって宗教以外の価値、学問芸術文化を共有した。

日本では宗教は最初から国家に隷属し、かつ学問芸術も権力によって秩序を与えられた。日本では聖俗において市民の共同体が過去存在しなかったことに決定的性格がある。日本の政治が未成熟であるのは、それは政治以外の文化へのコミットメントが脆弱であるからだ。西洋では政治的価値を超えた価値の筆頭が歴史的にキリスト教であった。丸山が正統のありかを訪ねると必然的にL正統ではなくO正統になることを感じていた。しかし日本にはそのO正統がない。権力に目的がないのである。L正統である皇統以外に守り発展させる目的(O正統)がないのである。その原理原則のない融通無碍の力(空虚さ)が日本の正統であることの本質である。日本文化の「変わり身の早さ」自体が伝統である。このことを丸山は「正統的な思想の支配によって異端が生み出されるのではなく、思想に本格的な正統がないからこそ、異端好みの傾向が不断に再生産される」という。カウンターの無い異端もまた本格的な異端ではない。丸山はこれを「片隅異端」と呼んだ。(居酒屋で上司の悪口を言うタイプ) 異端は本来「自分こそが正統である」という主張をもって「正統」を襲いこれにとって代わろうとする動きである。日本の伝統にルター的な異端の系譜が全くないかというと、唯一親鸞がいる。親鸞の妻帯肉食は俗的生活の即時的肯定を意味しない。持戒にも破壊にも安住しない徹底した自己の煩悩罪業のp自覚がある。罪人として不格好な姿をさらしながらもなお信じるものがあるという人間精神の志向性がある。信仰的確信を持った異端の立ち姿を提示している。とはいえ親鸞は日本では例外中の例外に過ぎない。「異端好み」、「判官びいき」の伝統では、正統は敬遠され異端は称賛される傾向がある。丸山は「アカデミーの伝統ないところで反アカデミーを唱え、正統の無いところで異端を語るのは、音楽的に調子はずれである」と酷評する。異端が大した力を持たない現状では、異端の凝集力の低いことは言うに及ばず、正統であることの権威や意義づけも低いといえる。丸山氏は石田雄氏とともに1967年以降「正統と異端」研究会を継続した。しかし近代日本の天皇制社会を正統と定義すると、マルクス主義は異端と位置付ける試みはしだいに現実性をなくしていった。何故なら高度経済成長期において両者とも実態が無くなっていったからである。もともと天皇制はL正統に集約されだけで主張や目的は全く存在しなかった。日本ではO正統が存在しないので当たり前のことであった。そして丸山氏は最後まで「正統と異端」を定稿にすることができなかった。空虚な天皇制を片方に立て、虚無の近代市民社会を片方に立てても空疎な議論になるだけで、丸山氏は論考をあきらめたのであろう。ファッシズムが勃興したのはヨローッパ近代市民社会の中枢から、戦後のマッカーシズムも民主的なアメリカ社会から生まれた。より深刻な問題は巨大化した現代の市民社会はたやすく世論操作されることである。だから丸山氏は世論や大衆社会への追随を誡め、「ラジカルな精神的貴族主義」が民主主義と結びつくことを目指したようである。丸山氏は日本仏教に対して、普遍性への志向がないことを指摘する。絶対者を根底に置く普遍主義的な精神としてのキリスト教とは明確な違いがある。実は神学史や宗教学から見る「正統」は丸谷氏の想定したほどには固定的ではない。むしろ正統は論理的に定義できない、その輪郭も不明確でその存在の認知も定かではない。また普遍主義的キリスト教の受容形態は、アメリカにおいて大きく変質しアメリカ化した。

第2章 正典が正統を定めるのか

宗教学では、ある宗教を特徴づけるため、「正典」、「教義」、「職制」という3つの要素を挙げる。これはユダヤ教、キリスト教、イスラム教という「アブラハム系宗教」を区別するために考えられた。であるから丸山は「神道には正典も教義もないから宗教と呼ぶに値しない」という。そこで本書では以下の3章でこの3要素と正統の連関を検証する。「正典」と「聖典」とは微妙に異なる。「正典」(カノン)は宗教の基本文献で英雄伝を含み、その内容が時代とともに増加傾向にある。「聖典」はキリスト教では聖書といわれ、信仰内容の基準として独占的な権威を有し、一度その内容が確定すれば増加することは無い。集合としては「正典」は「聖典」を含む大きな文献集である。和辻和郎は「仏教が正典カノンを決定しえず、経典の無制限な増加を許した。だから仏教徒は一つの潮流であって、教義ではない」という。和辻は仏教は寛容という美徳を持つが、キリスト教は非寛容を特徴とするともいう。神道では対象とする神は「八百神」で不分明であり、開祖や教典を持たない氏神さんが特徴である。正典が正統を定義するという命題は正しいだろうかが本章の主題である。キリスト教の聖書に関する基本的なとらえ方を吟味しよう。聖書はキリスト信仰の出発点ではない。聖書からキリスト教が生まれたのではなく信仰から聖書が生まれたのである。つまり聖書ができる前からすでに信仰があった。ルターの「聖書へもどれ」という言葉は順序として間違っている。「信仰の原点にもどれ」というのが正しい。聖書という書物を重要視し書かれた文章を読むという行為が一般化したのは近世の印刷革命後の話である。「信仰は聞くことによる」と「ローマ人への手紙」に書かれている。最初期のキリスト教徒にとって「聖書」とはユダヤ教の聖書(旧約聖書)のことであった。旧約聖書が正典になったのは、実は紀元後のことであった。それはキリスト教の出現のため必要となったからである。ギリシャ語訳の旧訳聖書を「七十人訳」といい、カトリック教会系では第二正典と呼ばれている。キリスト教の固有の聖書「新約聖書」には文章は全部で27巻がるが、それらは紀元1世紀半ばから100年の間に書かれた。正典カノンとは語義からすると「表」「目録」を意味する。すでにある話の一覧が聖書であって、聖書が存在する以前に正統は既に存在した。聖書はその結果の文書集のことである。カノンが聖書の意味を持たされたのは350年のアタナシオス書簡においてである。「何人もこれらに加えてはならない、これから削ってはいけない」と編集終了宣言であった。最初期の宗教集団では創始者の言葉は「口伝」という形式をとる。口伝の期間古代バラモン教では数百年、仏教では100年、キリスト教は数十年、イスラム教は十数年である。時代と共に文書化までの期間は短くなる。キリスト教が正典を定め、教義を定め、教会制度を定めて信仰の継続、歴史的な建設という新しい時代を迎えた。ではそのような正典化は何を根拠になされたのだろう。今日の聖書にはマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネという4つの福音書が含まれているが、他にもいろいろな福音書があったことが知られている。正典化への判断基準は一つは「使徒性」(L正統)、その文書が最初の使徒までたどり着けるかという基準である。二つは「公同性」(O正統)、普遍的であるかという基準である。何れの基準も詳細を論じれば曖昧である。結局正典の所以は、編纂時の判断に任せられた。キリスト教の伝統において最初の正典の編纂を試みたのは紀元1世紀末のマルキオンであった。キリスト教をユダヤ教から区別し独自の信仰体系にするために、旧約聖書の神と律法を排除し、新約聖書のイエスの愛と贖罪を強調した。しかしの編纂方法が過激で、イエスの人間性を否定し、旧約聖書を排撃し、福音書はルカしか認めないという見解のため、ローマ教会から破門された。正統派が編纂した文書リストは、363年ラオデキヤ会議、393年ヒッポ会議、397年カルタゴ会議を経て新約正典が成立した。つまり異端は正典を根拠に排除されたのではなく、異端が存在したおかげで正典が成立したのである。根拠の基準がないままに自然成立的に正典がきまる背景には、人々の信頼がおのずと向かう権威の存在とその集合的な経験の歴史があった。ここに正統の本来的な所在が示されている。マルキオン派の教会は地中海をまたぐ大勢力であたが、5世紀までは存在していたがやがて衰退し歴史から消え去った。異端は弾圧があったから姿を消したのではなく、姿を消したから異端と呼ばれたのである。キリスト教も初めは新興宗教集団であった。生き残ったから正統となった。「歴史の審判」を受けたのである。人々の間にある無定形な経験としての正統の権威に、形を与えたのが正典である。キリスト教は歴史的宗教である。正統の権威はそれを信じる人々の集合的な経験の集積に等しい。

第3章 教義が正統を定めるのか

ドイツの神学者アドルフ・ハルナックは1899年ベルリン大学で「キリスト教の本質」について講演を行った。彼は当時のキリスト教がその本質を大きく逸脱していると指摘した。その第一は単純素朴なイエス信仰はギリシャ哲学の影響をうけて高度に思弁的な教義に化してしまったという。この「ヘレニズム化」はパウロによって始まり三位一体論やキリスト論といったキリスト教の信仰の中核部分にまで達した。「ヘレニズム化」も「土着化」の一つに過ぎない。彼はこの変質したキリスト教から本質を取り戻すには、16世紀のドイツに始まったルターのプロテスタント宗教改革である「ドイツ精神」であるという。彼は「神の国の到来、父なる神、人間の魂の価値、義と愛の戒め」をキリスト教の本質と断じた。彼のいう「キリスト教の本質」の回復運動それ自体はまぎれもない民族主義運動であった。そしてドイツは第1次世界大戦に突入した。第2章で正統は正典の形成に先だって存在しており、むしろその正統に則って正典が定められたと結論した。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は正典を持つことで正統であるという考えを「啓典宗教」ないしは「書物宗教」と呼ばれる。本章では正典と解釈者の間にあってそれらをつなぐ役割をする二つ目の要素「教義」(教理)を検討しよう。教義はなぜ必要かというと、文章をかいつまんで説教する教えの体系があると便利だからだ。啓典宗教では正典→教義→正統という順になる。しかし前章の結論は正統→正典→教義→正統という順も考えられる。5世紀半ばヴィンケンティウスはなぜ教義が必要かに答えて「預言的で使徒的な聖書の解釈の道筋は、教会的でカトリック的な意味という規範に則して方向づけられることが必要なのである」といった。正しい解釈の道筋とは「どこでも、いつでも、誰にも信じられてきたこと」である。普遍的で古代から合意されてきたことである。人間の努力より神の恵みを重要視するアウグスティヌスを批判してヴィンケンティウスはこれを書いた。三位一体論の確立者アウグスティヌスについては、出村和彦著 「アウグスティヌスー心の哲学者」にまとめた。正統はどこでもいつでも昔からそう信じられてきたことが重要なことである。正統は信じられなければ権威はない。正統は自ずと醸成され知らぬ間に人々の心に浸透する。長い時間をかけていつの間にか精神の支配を樹立した者だけが正統たりうるのである。これは「信憑性」の問題である。曖昧な表現で内容がさっぱり分からない定立である。(戦前の天皇制は教育によって国民全体が信じ込まされてきて習い性となっただけだともいえる。これを正統と言えるのか、戦後の天皇の権威の失墜はどう説明するのか。政治的な意味で日本の正統は存在するのだろうか。日本の定義と同じで、島国であるからこそ生き残ってきただけで、空軍力で簡単に国境はなくなったので、大陸国家と同じ運命に晒されている。) 話をもとに戻すと、キリスト教の正統と言われる二つの教義の成立と異端派について述べる。三位一体論は325年に行われた第1回ニカイア会議で定められたもので、神が父・子・聖霊をもつ一つの神であること、キリストが父なる神と実体を一にすることを宣言した。主流派はアタナシオス派と言われ、異端派はアリウス派と呼ばれた。キリスト論については451年のカルケドン会議で定められたもので、子なる神が全き神であると同時に全き人で会って神人の両性は混合することも分離することもないという内容である。主流派はカルケドン派で異端派はネストリウム派で単性論を唱えた。合性論(折衷)派が正統論争で勝ち、分離派は敗れて異端とされた。聖書のどこを読んでも「三位一体」という言葉はない。高度に思弁的な教理である。イエス自身は自分を神だと意識したことは一度もないのである。にもかかわらず正統は三位一体論とキリスト両性論によって担われた。それはキリスト教は究極的には「啓典宗教」からフリーであるからだ。キリスト教は「歴史宗教」である。1902年トレルチはハルナックの「キリスト教の本質」を評した本を書いた。彼は本質は原形態にあるのではなく、歴史的・規範的に考えなければならないと考えた。そして本質は過去を見ていただけでは分からない、将来に向かって歴史に参加するという「本質形成」の立場になければ規定できるものではないという。ハナルックもトレルチも本質規定には規範理念や歴史参加という主体的要素が必要だという。それはは同時に「主観主義」に陥る危険性はらんでいる。正典が教義を規定するわけではなく、正典や教義が正統を変えることはできないということは、本質を定義する素材はキリスト教伝統の歴史全体である。「処女降誕」の教義は人々の中から生まれた信仰であり、キリスト教の歴史では遅くなって導入されたと知られている。教義はいつも後追いである。教義があって信仰が生まれるというより、本当に祈るのは本当に信じていることだけである。その心の深奥に語りかける者だけが、真の権威を持つ。正統はそこに宿るものだという。

第4章 聖職者が正統を担うのか

3つ目の要素「職制」とは、宗教内の専門家集団、キリスト教では聖職者の秩序のことである。カトリックでは教導権を持つ教皇と司教を指し、階層的なヒエラルヒーで成り立っている権威のことである。正典や教義を人間がどう解釈するか、その権威を一手に握っているのが聖職者である。カトリックではまず教会を信じなさい、その上で聖書を信じなさいと言うことで教会の権威がなければ聖書を読むこともできないのである。「万人祭司制」を取るプロテスタントは、このようなカトリック的権威体制を嫌うが、聖書解釈は定まっており構造的にはさほど差はない。キリスト教の重要な教理は大衆という分厚い層の祈りと典礼こそが権威を持つ。正統は少数の専門家集団よりも大多数の一般信徒が握っていると言える。325年の第1回ニカイア公会議において「去勢」の禁止が定められた。キリスト教の性倫理は、神の創造物である人間の性について肯定的である。禁欲主義とは何の関係もない。旧約聖書以来「去勢」は厳しく禁じられている。キリスト教の結婚観は当時のローマ帝国の社会制度と整合性を持ち、一夫一婦制が原則である。当時の古代経済社会の道徳の規範的原理であった。ギリシャ・ヘレニズム世界には有力な禁欲思想が存在した。ピュタゴラス派、プラトン哲学、ストア派(ストイックという言葉を持つ)は禁欲思想が濃厚で、霊と肉体の二元論で葛藤をしていた。キリスト教は性に寛容で、これらの哲学的教派を斥けて自己確立を成し遂げた。修道院制度が3世紀に始まったことは、ちょうど迫害による殉教が無くなった時期に一致し、「禁欲」で神に奉仕する一団を生んだ。禁欲主義の代表者は3世紀のオリゲネスであった。「アレクサンドリア学派」の神学者で禁欲的な生活を送ったことで有名である。4世紀の末ローマにやってきたベラギウスは豊かなローマ社会の退廃と不道徳を目のあたりにして痛烈に批判した。聖書に忠実なベラギウスは人々に高度な倫理的生活の実践を要求した。ローマで彼はアウグスティヌスの恩恵論と激しく対立し人間の意思と努力を厳しく要求した。下手をするとベラギウスの自力本願はカントの実践倫理学の命題「汝にはそれが可能である。なんとなれば汝はそれをなすべきだから」という主観論になる。正統の担い手であるアウグスティヌスは凡庸なる大衆の味方であった。パウロは善を実行できない人間の弱さを「罪の法則」と呼んだ。アウグスティヌスの正統はいわば他力本願で「なんという惨めな人間なのだろう、誰が私を救ってくれるのだろう」が正統の位置を占めた。これは実存の真実をついていたからだ。彼は人間の堕落という普遍的な現実を見据えていると言える。ベラギウスは個人的修養によってエリートの徳と完成を求めなら、アウグスティヌスは人間は皆惨めな存在で、その点において人間は平等であるという。

第5章 異端の分類学ー発生のメカニズムと中世神学

正統が規範や原理や教義から作り出されることはない。予め存在論的に正統であったものだけが、教義により認識論的にも正統と認められるのである。つまり正統は存在論の領域にある。教義を正統の根拠とするのは認識論的な理解の偏重に過ぎない。教義も正典も後追いである。ベラギウスは、人間が神の助力を得なくとも善を行い完全な人間になれると主張してアウグルチウス派から異端とされた。正統のアウグルチウスは、人間は生まれつき罪を負っていている弱い存在であるとして「原罪」という教義を生み出した。「原罪」に対して神の恩恵にすがり贖罪と祈りを捧げることがキリスト教者であることが正統とされた。ベラギウス派は自分という存在が自分の意思の産物であると思い込むことにある。ブルガリアの政治学者トドロフは現代人の自己理解はベラギウス主義から由来するという。21世紀は民主主義が内部から崩壊する危険にさらされている。その危険とは「自分自身に酩酊する意思」の思い上がりだとする。民主主義は人民、自由、進歩という3つの構成要素を持つが、その互いの制約を逃れると、ポピュリズム、新自由主義、政治的メシアンニズムという怪物を生み出すのである。この思い上がりをキリスト教ではベラギウス主義と呼ぶ。それは自由意志の力でユートピアを建設しようとする思想であり、キリスト教史に度々興った「千年王国論」という異端です。2012年トドロフはこれを「メシア無きメシア信仰」と呼んだ。自己肥大した大衆がメシアを僭称しているというべきである。政治的メシアニズムでは革命政府は必然的に恐怖政治へ転化し、友愛を唱えて植民地主義に、強圧による進歩主義の押し付けになる。ベラギウス主義は善が勝利することへのほとんど宗教的な信頼である。新自由主義による開かれた市場が富をもたらし、原発は制御可能の技術であると安全と安心を吹聴し、言論の自由は代えがたい価値を持つと考えることである。しかし現代のデマゴーグはマスメディア媒体を通じて大衆を操作するのである。流される情報そのものが選択された意図を持つ情報である。人間は決して自己の運命の支配者ではない。自由は制約された条件の下でしか存在せず、善は暴走して悪をなすのである。トドロフも民主主義以外に良い政治形態があるとは考えていないが、規制の権威構造が崩壊し、ラジカルな体制の変革が叫ばれ、自己の善を過信する異端ベラギウス主義が再興する。異端という言葉は選択というギリシャ語に由来し、「健康な全体からその構成要素であった一部が不均衡に肥大化して発生する」。全ての要素は必要でありエネルギーを持っているから健康(正統)なのである。何が正統で異端なのかは「歴史の審判」を待つことで、判定には時間がかかる。初期キリスト教ははじめユダヤ教の内部で生まれ、成長しユダヤ教という正統から異端視され排除された。キリスト教の最初の教会は「ナザレの異端」と呼ばれた。聖パウロは最初は「疫病人」とそしられた。「異端」という言葉は宗教学では「分派」ということです。日本の政党政治では党内派閥を「分派」、主流派と対立すれば「異端」。党を出れば「異教」となります。異邦人伝道を巡ってペテロからパウロに主導権が移行するプロセスは、民族宗教であるユダヤ教から世界宗教としてのキリスト教への転成の時期に相当します、イスラム教では原則的に聖職者集団が存在しないためと政教一致のため宗教的な正統性は政治的な正統性であった。イスラム教における正統性は預言者ムハンマドの血統を継承する者は誰かに集約される。スンナ派とシーア派の違いはムハンマドの従兄アリーの位置づけを巡る意見の違いによります。L正統だけがイスラム教の正統になり、宗教と政治の両権にまたがる全権が継承される。丸山眞男は儒教における正統は朱子学で異端は仏教だという。丸山は、架空のストーリーとして山鹿素行、荻生徂徠、中井竹山の儒者3人に日本という正統論と異端論を議論させている。山崎闇斎では異端に対しては戦闘的になる。彼らの正統は日本であり、どの宗派がその正統を担うかということである。幕藩体制は朱子学を正統とした。バランスを考えた論は佐藤直方の「理気論」に見られる。かれは「異端は片足で行くこと」といい、対立する者との全体的な統一を欠いた議論を戒めた。中庸や平衡は危ういバランスに上に成立する。キリスト教の三位一体論もそのような動的平衡の中からかろうじて生み出された正統であった。

異端の発生経路は善意が肥大化して悪をなす類であるが、もう一つの特徴はいつも「原点回帰」を唱えることである。原初的な啓示と自己の現在を無批判に媒介すると一切の歴史的夾雑物を棄て去るラジカルな理想主義と英雄的な厳格主義(リゴリズム)となる。これに対して正統はこの世の不完全さを前提にして出発するので、「人間と社会の欠陥に寛容」である。ゆえに異端の高貴さ、正統の凡俗さが言われる。「正統は最大母集団で異端は小数精鋭集団」とトレルチはいう。キリスト教の場合「原点」とは聖書時代の啓示のことで、しかも異端の主観に基づく真実である。時代を現代に持ってきて、ソ連社会主義の歴史における「スターリン批判」という異端を考察しよう。フルシチョフのスターリン批判が開始された時、ソヴィエト体制の指導原理であるマルクス・レーニン主義はそのまま正統の座を維持した。個人崇拝や弾圧粛清を「スラ―リン個人に属する異端」とみなし、異物を排除し正統は維持した。これは丸山氏がいう「O正統論」である。ファシズムではこのような議論は起きなかった。「スターリン批判」という異端処理の方法がカトリック教会の正統維持の方法とよく似ている。社会主義の正統性はスターリンという人間の徳性に依存しないと、異端部分を切り捨てて本体を守ったのである。堀米庸三氏は1964年「正統と異端」(中公新書)を著した。中世の教会改革を秘跡論から通観するもので、正統性と合法性の区別を考える上で重要である。11世紀のグレゴリウス改革は政治思想史としては一般に「叙任権闘争」としてしられるが、その中核は教会の内部浄化であり、その支柱は秘跡(サクラメント 洗礼)論であった。この秘跡論は古代教会のドナティスト論争を受け継いでいる。「ドナティスト」とは秘跡の有効性を巡って紀元4世紀北アフリカに興った厳格主義運動であるが、当地の被支配民族であったポエニ人やベルベル人の反ローマ体制運動でもあった。論争の発端はディオクレティアヌス帝の迫害の下で教会を裏切った者が迫害後に帰ってきて司教に叙階されたことに対するドナティスト派の抗議運動である。おりしも313年コンスタンティヌス帝が「ミラノ勅令」でキリスト教を公認している。ローマ帝国と親密な関係になった教会に、ドナティスト派は憤慨した。313年アルルの公会議はドナティスト派の非難に答えて、「異端から教会に復帰した者に再洗礼は必要ない」という決定をした。サクラメントとして洗礼も叙階も生涯に一度受けるだけで無効になることは無く、したがって再度施す必要もないというものであった。ドナティスト派厳格主義からすると、「使徒的継承」を重視するので受け入れられない決定であった。こうしてドナティストはカトリック教会と一線を画し距離を置いた。北アフリカで勢力を増すドナティストに足して神学的論戦を展開したのはアウグスティヌスであった。ベルギウス論争でもこのドナティスト厳格主義論争でもアウグスティヌスは正統の代弁者であった。教会は聖人の集まりでもなく罪人を招く所である。個々の人の罪は教会の神聖さを損なうことはない。正統は正統ならざるものを受け入れ、その全体性を維持するからこそ、教会は正統であり続けるという論理であった。教会は神のものであるから秘跡サクラメントは決して損なわれない。5世紀末、アカキウスの棄教事件に関する教皇アナスタシシウス二世の書簡「離教者が授かった諸秘跡の有効性」で、アウグスティヌスの論がカトリック教会の公式見解となった。七つの秘跡の内、洗礼、堅信、叙階の三つはそれを受けた者に「消えない印」を刻み付けるとされた。聖職者は信徒に戻ることは無いのである。聖職者の身分を喪失することは、叙階に基づく権利の行使を停止されることであって、叙階そのものを取り消されることは無い。「非合法だが有効」という微妙な立場となる。医者でいえば「ブラックジャック」のようなものであろう。神が授けた秘跡は教会が左右することはできない、つまり教会は最高権力者でなく、神が最高権力者であるという。聖俗両権の争いは、「叙任権闘争」で「皇帝のカノッサの屈辱」事件を生んだ。中世の教会のその背後にあったのは聖職の売買という教会内部の腐敗の進行である。曖昧な「非合法だが有効」という教会の詭弁は、あちこちで破綻をきたしていた。教皇グレゴリウス七世は叙階を無効とする決定をして「異端的な秘跡論によって正統を確立」という矛盾に陥った。グレゴリウスの改革によって俗権からの自由を獲得し叙階と叙任を行うようになった。修道院運動は使徒的清貧と道徳的厳格主義を掲げて民衆の支持を得るが多数の会派に分裂した。14-15世紀にかけてドナティスト厳格主義が隆盛を誇り、悪しき祭司によるサクラメントは無効と論じた。16世紀にはプロテスタントの宗教改革が始まると、ドナティスト厳格主義から離れていった。ルターやカルヴィンは聖書や伝統のラジカルな改革者であったが、教会の存在については中世カトリックの伝統をそのまま踏襲した。ルターより左派の人々は教会を否定しルターと鋭く対立した。主流派のプロテスタントは彼らを「ドナティスト」と呼んで批判した。

第6章 形なきものに形を与えるー正統の輪郭

正統の定義を考えよう。20世紀初めの作家チェスタトンは、異端者は頭が良くてカッコよく自由で進歩的で勇気ある人とみなされてきたことに反論して、芸術上の自由はあるものに本来備わっている法則にしたがうことによって得られる、制約なくして自由はないという。正統もこれと同じである。ヴィンケンティウスは、正しい解釈の道筋とは「どこでも、いつでも、誰にも信じられてきたこと」であるといった。正統とは内容の無い空疎な容器である(絵画の額縁のこと)ともいった。正統とはそれ自体で定義されず、容器(境界、輪郭)によってしか特定できない内容を持つとしか言いようがない。自由と限定の相克の弁証法を用いて、正統のありようをを考える。正統を神学的に根拠づける試みは、とにかく解決の出口のない困難に突き当たる。正統がある座としては公会議や教皇の教書、聖書等が考えられる。聖書に明示された指示がない案件にはさまざまな論争が発生した。三位一体論やキリスト論といった根本教義すら聖書的な根拠があるわけではない。ヴィンケンティウスの定義より、一般に信じられていたことを網羅的に示す事は不可能である。異端に対する正統の特徴はその全体性にある。肯定的にその内容を示す代わりに、そこを超えたらもはや正統ではありえないといった輪郭から攻めることになる。カトリック教会が古代から用いてきた異端排斥文「アテナマ」(呪われたもの)は宗教的な禁忌を示した。宗教改革後のトレント公会議では「教令」が肯定的に示され、「規定」でプロテスタントの主張を否定形で示した。このような否定形の定義(ネガティブリスト)は、言語表現の正当性とよく似ている。人は文法構造に則った正格の言語運用ができる。これを言語能力(生得で普遍的な能力)という。文法が正統な規則であるが言語運用のすべての支配法則を網羅的に記述したのではない。正統においても、「〜である」と定義できるのではなく、「〜は正統でない」と定義される。正統は存在論的には異端に先だって存在し、認識論的には異端によってはじめてその在処を知る事が出来る。正統のとらえ方にはこの「境界設定型」と「内容提示型」がある。内容例示型の正統表現はあくまで多くの可能性の内から明らかと思われるサンプルを示すことである。それは「原理主義」に陥りやすい。現在イスラム教において「始原への復帰」を掲げるが、その主張内容は現代的な反動で、彼らが選択的に理解した限りの原理、始原に過ぎない。プロテスタント教会でも原理主義への傾斜が激しく、「ドルト信教」や「ウエストミンスター信仰白書」をプロテスタントの正統とみなすときは「原理主義」となる。堀米庸三氏は1964年「正統と異端」を著し、封建性において自由がそれを護る力による制約と不可分であることを示した。自由は秩序による拘束なしには保護されないという。「鳥の自由」は社会の外に立つことになる。キリスト教者はすべてのものに仕える僕であると同時に、すべてのものの上にたつ自由な主人たる地位を得るのである。ハンナ・アレントによると、世界の歴史において「革命」と呼ばれるのは「アメリカ革命」だけであるという。それは植民地からの解放だけでなく、新しい自由を創設したからである。「フランス革命」は抑圧された貧しい者を解放すれば、自然に権力の移行が進むと考えたが、恐怖政治、皇帝政治、王政復古と共和国の交代劇が続いた。社会主義革命はマルクスの予想に反して、力を持たない大衆による革命は不可能で、不安定な永続革命が続くか独裁政治に陥り、貧困階級の解放にはつながらなかった。アメリカ革命は憲法の制定で具体化された。「憲法は理解され、是認され愛されなければ規範とはならない」と第2代大統領ジョン・アダムスは言った。この権威を付与するものこそ、正統性に他ならない。1620年「メイフラワー契約」とは、植民地の人々は本国とは独立に自分たちの市民政治体を形成し、自発的にその権威に従う契約である。その例が州憲法である。マサチューセッツ州では1641年に市民の法律と権利を定めた「マサチューセッツ法典」をまとめた。これはいわば「権利章典」であるが本国イギリスより半世紀も前のことである。この自由の中身は複数の「創設された自由」の集合体である。自由は形を与えなければ存在しえない。正統の概念と同じである。無制約の自由は想定していない。自由は一つ一つ吟味して加えてゆく複合体である。正統に形は杳として見えてこない。理性の能力と限界を追い続けたカントは理性によって到達できない高みがあるという。それでもなお我々は想定し、要請し、仮象するのである。有限と無限の間、可能と不可能の間に何かがあると悟った時「言葉は肉(形)となった」(ヨハネ福音書)という。キリスト教は「神が人間になった」という主張を掲げて人の救済の基礎とみなすため、とりわけ制度化や組織化への志向性が強い。しかしすべての組織は権力が伴う、すべての権力は腐敗する、宗教の権力も腐敗する。近代世界を構成する宗教関係の基本構造は、宗教権力が世俗権力と渡り合い、共存の道を探り合った歴史的経験の上に成立している。「カイザルのもの」と「神のもの」との二元論が人々の正統性のもう一つの源泉である。丸山眞男氏は、今日の日本社会では政治以外の文化的な価値が政治にすり寄って一元化され、国家権力は社会のすべてを呑み込んでゆくリバイサン化してしまったという。「反知性主義」も理性への反発ではなく、知性と権力が結びついた「知性主義」への反発という意味合いが強い。ということは知性を装う者も腐敗するということである。

第7章 退屈な組織と煌めく個人ー精神史の伏流

19世紀末に英国のギルフォード卿が残した財産を基金として始められた神学講演シリーズを「ギルフォード講演」という。初回は1888年宗教学の父マックス・ミューラーが招かれ、1901年にはアメリカのウイリアム・ジェームスが招かれ、1988年カナダの社会哲学者チャールズ・テイラーが招かれて講演を行った。テイラーの論点は西洋近代史における世俗化のプロセスを主題としたのだが、100年前のジェームスの講演と強烈な同時代性を有していた。
ジェームスのいう宗教とはあくまで原初的に感じられた個人の直接的な情熱のことである。組織化された宗教はどのような宗教であれ、それぞれの国の因襲的儀式に従って模倣された退屈な習慣に過ぎないのである。ある宗教が正統的教説になると、それが内面的であった時代は終わり、信者はもっぱら受け売りだけの宗教生活を送るようになる。これが宗教の一般的な堕落した形態である。卓越した宗教指導者はある時期ほとんど神経病理学的な特徴を経験している。これが彼らに宗教的権威を与えている。こうした特異な精神現象を理解するための学問が「心理学」と呼ばれた。テイラーはこうした「感動した」宗教的経験はまさに現代の個人主義的で表現主義的な宗教理解につながると理解した。こうした感動は自己表現主義のナルシズムやステレオタイプ化している疑いがあるものの、「自分がそれを本当だと感じられるかどうか」を真正さの基準にするのが現代の特徴である。だからジェームスは宗教は純粋に内的な生命の表れのことであり、組織化された教義や教会の声でないと考えた。近代精神史からすると、個人の内面的で主観的な確信の持ち方は当然の帰結である。近代は客観的な世界から意味や目的という概念を取り除いてきた。宇宙自然物に意味や目的はないとした理解や実存主義は形而上学的な根拠喪失である。すると人は「偶然的な存在」に過ぎないとされた。ヴェーバーの宗教の「脱魔術化論」であった。「異端」と呼ばれるものは常に、本来的で健全な全体を構成していたはずの特定部位が不均衡に暴走した者である。「異端は選択である」が必然ではなく選ばない選択もある。デフォルト状態から逸脱するのが異端である。選ばない人が圧倒的に多い処に正統が宿る。時代は際限なく「プロテスタント病」化している。個々人が異議申し立てを続け、分裂を繰り返している。近代人が持つ制度や組織への疑念はある程度は健康な批判精神の表れであった。それが健康な程度を超えて亢進してほとんど病気といってもいいくらいです。その本質は「意志力の崇拝」つまり「やればできる」と信じたがる傾向である。この論理はやらなかったら自分が悪いということになり、失敗や敗北を合理化できない極めて不安な現代人を生むのだ。もし選ぶことを強制されているならば現代は異端が普遍化した時代である。正統の居所を追放することになる。正統の腐蝕はこうしたことから始まっているのである。この現象はアメリカでは「個人主義の宗教化」という形態で始まっている。
19世紀のアメリカの哲学者エマソンはギフォード卿と友人であった。彼の思想は「超絶主義」として知られている。既存の歴史的キリスト教全体から決別し、自然と宇宙と魂が共鳴する壮大なロマン主義的汎神論である。このような神秘主義的な宗教観には、教会や牧師という人為的組織が仲介する余地は最初からなかった。エマソンとジェームスは一直線状につながっている。「宗教は制度ではない、一人一人の心の問題である」という理解こそ現代人が宗教にたいして抱く基本的な共通理解となっているからだ。エマソンが神を抽象性へ蒸発させたとすると、ジェームスは神を個人の内面に解消したと言える。
エマソンの友人でヘンリ・デヴィッド・ソローはエマソンの個人主義的な宗教をもっと現代風に味付けした。彼は「ウォールデン」(森の生活)という自給自足と晴耕雨読の生活を送った。税金不払いや「市民的不服従」を実行し「エコロジスト」としても知られ、20世紀後半にはカウンターカルチャーの元祖と言われた。ハーバードを卒業したインテリであるが定職に就いたことは無かった。都会文明に背を向けた根っからの自然人で、エマソンの家に居候し一生独身であった。ただ彼の反抗の姿勢はあまりに軽く、人の目を気にした反抗者で、お手軽な現代子であり、ガンジーやキング牧師といった壮絶な自己犠牲とは世界を異にしている。ソロは日曜礼拝にもゆかず、教会とは宗教的不具者が年金受給者の様に過ごすところで、人間の本当の信仰は教義にはないというのがソローの宗教観であった。ソローは宗教を個人化したのではなく、個人主義を神聖視し宗教化したのである。
ここまで見てきたジェームス、エマソン、ソローの3人に共通していることは、既存の制度を否定し、その権威を否定し、代わって自己の内面を真理の最終の座としたことである。正統の消失は異端も明確な輪郭をなくし異端であることの気概もない。人々は批判することの代償を自分で支払わない。ヴェーバーの盟友であったトレルチは宗教上の正統派(チャーチ)、異端派(セクト)に第三の「神秘主義」を加えた。この類型は宗教的体験の直接性を第一義に尊重する宗教性のことである。ロバート・ベラ―はこの類型を「シーライズ」となずけた。宗教と化した個人主義のことである。連帯や規律を全く欠いており、徹底した個人主義で教育程度の高い富裕層に多く見られる。文化的プロテスタンティズムが行くつく先が、宗教と化した個人主義であろうことは予測されていた。トレンチがいう「神秘主義」型に属する人は現世に対するコミットメントが低く無関心であるが、現代の個人主義的宗教には、しばしば異端的セクトの過激さがある。権威を批判する時自分のアイデンティティを感じるようである。インターネット世界がこれに拍車をかけた。ネットには「現在の私達を支配する否定と批判、何かを罵倒せずにはいられないシニカルな気分」が蔓延している。批判者たちは正統意識に酔いしれながら容赦のない全否定を浴びせかかるのである。これは宗教学的には正統を批判する異端の宗教的正義感と全く同質であるという。正統の権威を引きずり下ろした後に残る空虚さ、これはニーチェの神を殺したのちの罪悪感である。ヴォルテールはいう「神がいなければ、神は自分で作るしかない、それが人間の運命である」と。人類の名における理性の宗教が樹立されるのである。

終章 今日の正統と異端のかたち

本書は初めに現代政治の変質をどのように理解すべきかという問いで始まった。終わりにこの問いをポピュリズムの蔓延から正統と異端の問題を考えるのである。ポピュリズムは現代の正統なのだろうか、それとも大衆迎合という悪しきポピュリズムが異端なら、民主主義は異端に乗っ取られたのであろうか。ジョージア大学のカス・ミュデによると、ポピュリズムにはそもそもイデオロギー的な理念の厚みが存在しない。従来のイデオロギーには共産主義にしろ全体主義にしろ、政治経済から文化芸術まで社会全体のあるべき姿を描きだそうとした。だがポピュリズムにはそうした全体的な将来構想はない。あるのは雇用・移民・テロなどその時点での課題スローガンしかない。ポピュリズムが社会を分断する結果になるのも同じ理由である。ポピュリズムは社会に多元的な価値が存在することを認めない。投票による過半数を握った時点で彼らは全国民の代表者となり民主主義の正統を僭称するのである。反対するものはすべて腐敗した既存勢力で国民の敵とみなすのである。このように全体を僭称することが、異端の特徴である。社会に複数の中心をおいて権力を分散させチェック&バランスを図る多元主義体制をポピュリズムは煩わしく感じる。自分は常にフリーハンドでいたいのだ。この傾向はファッシズムの権力掌握過程でもあった。常識的な抑制や近郊に対するポピュリストの反発は、しばしば反知性主義と一体になって表現される。そもそも既成の権力や体制派のエリートに対する大衆の反感を梃子にした勢力であるからだ。ポピュリズムが権力を握ると容易に権威主義に転じて、野党やメディアや司法といった批判勢力を封殺するのは、全体性の主張から当然の帰結である。たとえ僅差であってもポピュリストは権力の座に就くと、有権者をすべて「サイレント・マジョリティ」とみなして自己への賛同者に加える。そして自分の声は国民の声というすり替えを行い、反対者を民主主義の名において圧倒するのである。これは20世紀前半に起こった全体主義ファッシズムの歴史でも、欧州や中南米でも見られる社会現象である。ポピュリストに共通の手法である。ポピュリズムの蔓延を理解するには、人々の主観的な熱情を考慮する必要がある。人はどうしてこうも簡単にポピュリズムのうねりにさらわれてしまうのだろうか。これは大衆の一時的な反動に過ぎないのだろうか。いやポピュリズムの持つ熱情は本質的には宗教的な熱情と同じである。社会的な不正義の是正を求める人々は、教会(ほかの組織でもいい)といった組織によって表現活動をした。既成宗教が弱体化して人々の意見を集約する機能を持たない現在、その熱情の排出口に代替え的な手段を与えるのがポピュリズムである。この点でポピュリズムは反知性主義と同じように宗教なき時代に拘留する代替え宗教の一様態である。ポピュリズムの宗教的な性格は、その善悪二元論、異端の選択、原理主義にあきらかである。民主主義の概念は多数決原理は全てではなくその一つに過ぎず、投票による民意は長い時代での大きな多数者を代弁できるわけではない。多数決原理や投票制といった民主主義の一制度が全体を僭称する時、正統性が損なわれる。正統が正統であるためにはそれを支える構造が必要である。それを宗教社会学では「信憑性構造」と呼ぶ。ピーター・バーガーはこの信憑性構造を「主観的現実を維持するために必要とされる特定の社会的基礎と社会的過程」と定義した。世界で最も巨大な権力である大統領にトランプが就任したとき世界は驚愕した。なぜかというと個人の信憑性ではなく、この大統領職が前提とする世界全体の信憑性構造が大きく揺らいだからである。アメリカで信憑性構造の領域にある軍は、ほとんど宗教的な神聖さを持つ。むき出しの暴力機構である軍は、その力の行使には厳格な正統性が求められる。トランプは軍の神聖さを冒涜する言動を繰り返した。核ミサイルの発射命令権を大統領はもつ。大統領の正統性を支える信憑性構造に揺らぎあってはならないのである。軍隊は宗教とは何の関係もないが、政治やイデオロギーの世界認識においては、宗教的な権威構造が社会の公共的な秩序と相似している。トランプ大統領は「アメリカファースト」を掲げ外交も経済も軍事もすべて「取引」として行うといった。取引といった外交・政治・経済・社会・貨幣行為は「契約は守られる」ことを前提としている。この社会の規制力こそ信憑性構造が持つ力である。正統は全体性を特徴とし、異端は明示的で強い主張を特徴とする。正統と異端は社会の両輪であった。公的生活への参加や連帯から切り離された個人は、たやすく操作されて全体主義に取り込まれる。神学者パウル・ティリヒは「個人として生きる勇気」と同様に、「全体の部分として生きる勇気」が大切だという。政治権力と別の価値観をもつ中間団体の多元的存在が社会の安定性に寄与してきた。個と全体を統合する勇気は自己を超える存在(神、社会)に与することで得られる。現代には非正統はあるが異端はない。異端は皆志の強い人々である。知的に優秀で、道徳的に潔癖で、人格的に端正な者だけが異端となる資格を持つ。もし現代に正統の復権が可能だとすれば、それは次世代の正統を担おうとする真正な異端が現れることが必要である。



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