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山本義隆著 「近代日本150年ー科学技術総力戦体制の破綻 
岩波新書(2018年1月20日)

エネルギー革命で始まる「殖産興業・富国強兵」は総力戦体制で150年続き、敗戦と福島原発事故で二度破綻した

昨年2017年は明治維新150年に当ったので、様々な日本の近代化を振り返る書籍が多く出た。それ以前からも明治維新を日本の近代化の始まりとして見る歴史観の書籍は極めて多いなかで、政治・経済・社会の面から考えることが主流をなしておりそれこそ掃いて棄てるほどの本が出版されたが、本書のような科学技術史(特にエネルギー革命)の面から見る本は少ない。しかも日本の近代化は大成功だったとする見方あるいは進歩史観が大多数であるが、日本の近代化の歴史が果たして歪んでいないか、限界にあるのではないかという見方は少ない。もちろん戦後のマルクス主義者からの見方は近代化のマイナス面(戦争、格差、封建的残渣)を強調しているが、その科学技術進歩史観は旧態依然である。西欧のエネルギ―革命は19世紀におき以来200年間科学技術の発展と経済成長を伴って世界を席卷してきた。日本はほぼ50年遅れで開国し、ドイツと同じように後発国としてその世界的潮流に取り込まれ、そのキャッチアップに邁進してきた。それは中国のようにさらに50年遅れでキャッチアップしていたのでは植民地化される瀬戸際にあった。日本は西欧で開発された技術革新をキャッチアップするにはちょうどいい位置にいて、じつに効率的な「近代化」を成し遂げた奇蹟ともてはやされ、東方の端に居たので帝国主義の植民地化の牙から免れた。しかし2011年の東電福島第一原発事故は科学技術の限界を象徴し、明治・大正・昭和の日本を支配してきた科学技術幻想の終焉を示している。科学技術の進歩によってエネルギー使用を拡大し続け、それによって経済成長が永久に可能になるという(持続可能な成長という矛盾)幻想が破綻したことである。その上2011年度からの人口減少は、経済成長の幻想を見限った市民の隠しようもない社会現象であり、成長の限界と生存に必要な物資の不足を感じ取った成熟した市民の当然の行動である。2012年に始まったアベノミクスの3本の矢の3本目の成長戦略なるものは最初からあり得ない経済政策として破綻しているが、安倍政権の「原発輸出、武器輸出、カジノ解禁」は正常な経済政策ではない奇策である。明治大正時代の「殖産興業・富国強兵」、昭和の戦前期の「総力戦体制による高度国防結果の建設」、昭和の戦後と平成時代の「経済成長と国際競争」として語られてきた物語、すなわち大国主義ナショナリズムと結合した科学技術も進歩に基づく経済成長の追求といった近代日本150年の歩みから、我々は最終的に決別すべき岐路に立っている。「人口減少社会の設計」とか「ポスト資本主義」、「持続可能性」とかいわれる背景がそれである。安倍政権は国家権力の絶対化を宣伝するが、その及ぶ範囲は官僚機構内のことであり、市民社会は国家・市場経済に対する制御力を発揮し、国家の枠組みは相対的に低下してきた。戦争の防止、核兵器使用の全廃、多国籍資本の監視、国境を超えた国際環境保護運動が可能となるシステムを形成しつつある。そして先進国と言われる国は成長の経済から再配分の経済に向かわなければならない責任がある。限りある資源とエネルギーを大切に使う持続可能性社会を作り、国内的には格差是正、貧富の差をなくしてゆく方向にある。

科学者・技術者および彼らが属する組織は(大学、企業、官庁諸研究所など)はつねに平和と繁栄に貢献する善なる領域に居ると思い込んでいる愚かな専門家がいる。むしろ戦争に手を貸、他国の資源掠奪の最先端にいると自覚する人は稀有な存在である。彼らが信奉する科学技術は全く制御不能の凶器であることを2011年3月11日の原発事故は露呈した。その事故を前にして技術者・企業・エネルギー資源庁が全く無能であったことも明らかにした。このように巨大化した科学技術を生んだことを理解するうえで、18世紀後半から19世紀前半にかけての欧米の産業革命の歴史を紐解くことが必要である。日本が開国した18世後半には欧米諸国は国内的には第2次産業革命といわれる重化学工業を中心とした技術革新を遂行し、対外的には帝国主義列強時代の海外植民地獲得戦争に突き進んだ時代であった。これらの列強との競争に巻き込まれた日本は植民地にならないよう民主主義思想や人権思想を置き去りにして富国強兵策を遂行し天皇制国家の形成に至った。西欧の文明とくに科学技術に関しては直輸入によって貪欲に効率的に吸収し、政府主導と軍の要請にこたえるべく工業化=近代化を成し遂げ、20世紀前半には帝国主義列強に仲間入りをした。機械における蒸気動力の利用は、それまで暖房や調理にしか使わなかった熱が物を動す力となっった意味で動力革命であった。そのエネルギー概念はさらに電力が照明・暖房・通信と併せてモータを駆動し動力を生んだ。従って電力と蒸気の使用は動力革命を超えるエネルギー革命を達成したのであった。まさにそのような時期に開国した日本は近代化をエネルギー革命として開始したのである。熱や電気が生産や運輸や通信や照明に強力に利することを知った。1869年に築地ー横浜間に電信網が架設され、1872年に新橋―横浜間に蒸気機関車による鉄道が開通した。また富岡に蒸気を動力とする製糸工場ができたのも同じ年であった。重工業や化学工業は軍需優先で始められた。こうして日本の近代化「殖産興業・富国強兵」はエネルギー革命の使用によって可能となった。当時の日本の人口はほぼ3000万人であったが、第2次世界大戦時には7000万人となり、戦後も増え続け1970年に1億人となり2010年に1億2800万人をピークとして急速な減少に向かっている。経済成長期に人口は増え今や経済成長政策が止まって人口は減少に転じた。成熟したヨーロッパ諸国と同じ段階に達したというべきであろう。今日の日本の為政者は人口が増えると内需が増え回復が回復するという逆転した論理で産めよ増やせよと叫んでいる。2011年の東電福島原発事故が、電力エネルギー消費が減退する中で原発発電に重点を移した挙句のオーバーランを象徴している。欧米の科学技術導入に日本の学制とりわけ帝国大学が果たした役割は大きい。生産力の増強と科学技術の振興は明治以来戦前戦後を通じての日本の国是であった。日本における官・産・軍・学協働の根底の思想は、経済の成長拡大とそれによる国力増進を第一とする国を挙げたナショナリズムによる結束と成長イデオロギー信奉に遭った。「新しい科学技術の改良は生産の増大と経済の成長、それに伴う人間生活の改善をもたらし、社会の発展と文明を牽引する」という命題が為政者の間で疑われることは無かった。「衣食足りて礼節を知る」が基本であった。

このことに初めて異議申し立てが始まったのはベトナム反戦闘争の時期1960年代末期であった。それは日本では大学紛争の時期に相当した。敗戦後、日本の科学者は科学による日本の再建をを語り。原子力と宇宙開発を20世紀の科学技術がもたらす人類の夢として描き出した。エネルギーはあくなきエネエルギー消費へ欲求から、水力発電から火力発電、さらに原子力発電へ展望した。1954年原子力基本法が、つづいて原子力委員会と科学技術庁が新設され、1957年には東海村実験炉が臨界点に達した。20世紀には科学は社会を維持するための不可欠な要素として、「科学の体制化」が図られた。1960年代に重化学工業が引き起こした4大公害問題が社会問題となった。熊本水俣病、新潟水俣病、富山のイタイイタイ病、四日市の大気公害は成田の新国際空港建設に対する三里塚闘争と同じように、日本における産業の発展と開発が農民や漁民、住民への健康被害や自然破壊の上にすすめられてきた近代化の問題が一気に火を噴いた形となった。日本における1960年代の理工系ブームは戦後復活した資本主義が国際競争に打って出るための方策であった。1957年ソ連による人工衛星スプートニク1号の打ち上げ、1969年米国のアポRP計画による月面着陸までの米ソの宇宙開発競争はミサイル技術軍事開発利用を目指すもので、国家間の科学技術の優劣は、国家の産業力・文化の優劣であると同時に軍事力と政治的発言力の優劣とみなされた。米国では大金を注いでアポロ計画を華々しく展開していた背後では黒人暴動が勃発し差別と貧困のしわ寄せは黒人にむかった。ベトナム戦争で猛烈な空爆そして米国の敗戦は米国の大義をなくし、また枯葉剤散布という非人道的戦術は若者の心を蝕んだ。ソ連では冷戦の重圧が経済停滞を招き国家機構が崩壊へ向かっていた。60年代の末には米国の学生によるベトナム反戦闘争のなかで米国においても科学技術批判が語られるようになった。それは資金と情報と先端科学技術を独占する「産学軍官複合体」の暴走に反対する運動であった。科学技術の破綻としての福島原発事故、そして経済成長の終焉を象徴する人口減少とデフレ経済の慢性化という事態に日本は直面している。国家第一主義と唱える大国ナショナリズムのための近代化の進展の構図は見直すべき時期に来ている。ここで本論に入る前に、著者山本義隆氏のプロフィールを紹介する。山本 義隆(1941年12月12日 - )は、日本の科学史家、自然哲学者、教育者、駿台予備学校物理科講師。元・東大闘争全学共闘会議代表である。全共闘の時代を知る人は戦後の団塊時代の人でいまでは70歳以上のお歳だと思う。従って若い世代では山本義隆氏の名前を知らない人が圧倒的に多い。1960年代、東大ベトナム反戦会議の活動に携わり、東大全共闘議長を務める。1969年安田講堂事件当時は日大全共闘議長の秋田明大とともに、全共闘を象徴する存在であった。大学では物理学科に進んで素粒子論を専攻し、ファインマン・ダイアグラムなどに明け暮れたという。東大闘争後は在野の研究者として研究を続け、1979年にエルンスト・カッシーラーの『実体概念と関数概念』を翻訳し評価を受けた。哲学以外にも、物理学を中心とした科学史の分野での著作がある。『磁力と重力の発見』全3巻は、第1回パピルス賞、第57回毎日出版文化賞、第30回大佛次郎賞を受賞して注目された。研究者のほかに予備校教師として、駿台予備学校で物理科の講師を30年以上務めている。原子力発電所には東日本大震災以前から警鐘を鳴らし続け、事故後『福島の原発事故をめぐって』を出版した。 本書「「近代日本150年」岩波新書を一読して、その文献の引用の多いことにおどろき、どこに著者の地の文があるのかよく分からないが、読んだ本から著者の言い分を展開すること自体が編集であるから、本書の著者の言いたい部分だけをピックアップしてゆきたいと思う。そして時系列で前後する場所が多く、重複している箇所も多いので整理しながら本書をまとめたい。

第1章) 欧米との出会い

鎖国を布いた徳川時代にも西欧への窓口と中国への窓口は長崎平戸で開かれていた。江戸末期に「蘭学」として学ばれたのは医学が中心であった。ハーベイの「血液循環」は理解されていたし、「解体新書」は前野良沢によって翻訳された。平賀源内のエレキテルと言う電気学は雷の実験を伴っていた。「医者の蘭学」から「武士の洋楽」として、欧米の科学と技術が本格的に学ばれるようになったのは、1942年アヘン戦争で中国清王朝が破れた報が入って支配階級たる武士層が慌てだしてからである。西洋人の戦艦と大砲という軍事力の前に危機感を抱いたのである。そして1853に米国提督ペリーがK船に乗って日本に開国を迫った。幕府は慌てて洋学取調所を開設し、神戸に海軍伝習所を設け洋式海軍の建設を目指した。洋学というよりは洋式兵学が先行した。全国の大名は大砲鋳造所の建設を行ったが。まともに製鉄所として動いた形成は無かった。近代西欧文明の優越性は、社会制度や思想によってではなく、強大な大砲を備え蒸気で走る軍艦すなわち軍事技術の直輸入に走ったのであった。欧米文明の優越性は軍事力に限られていたわけではなく、日欧には技術力全般に歴然たる格差があった。とりわけ蒸気機関とその応用は、まさに動力革命を意味していた。1860年渡米して蒸気の動力機械が行き渡っていることを見た福沢諭吉らの幕府使節団の一行は、蒸気の作動原理は鼻から理解はできなかったが、蒸気機関の普及によって機械化されたアメリカの文明に傾倒した。維新の直前に福沢が見た欧米の科学技術は蒸気機関と有線電信によって代表された。これが士農工商の身分制の最高位にある武士が感じた手工業や貿易の限界であった。明治維新新政府の中心は薩摩、長州の武士であったが、彼らは幕末欧州連合軍と戦って惨敗した経験があるだけに、欧米の軍事力の優越性に対して独立を保つ危機感は切迫していた。1871年新政府首脳による欧米視察団が派遣され、最初米国に行き石炭と鉄による機械化工場の生産性に圧倒された。同時に「大仕掛けに貨物を製造する工業的実業家」の資本力と技術力に注目した。19世紀後半は欧米諸国は販路を求めて帝国主義段階にに向かいつつあり、「工業商業の戦争」と形容された国家が科学技術の振興と革新を積極的に支援する体制の競争であった。軍事力と経済力の落差を実感した日本の支配層は、絶えず進歩し成長しなければ生き残れないとの脅迫観念を抱いた。「治国斉民」を支配者の唯一為すべきことと考え、「士農工商」という身分社会に何百年も安住してきた武士階級に工商という賤しめてきた職業に就かせるには、それまでの価値観を180度転換する必要があった。そのため移植すべき科学技術を差別化して上位に置き、そこに思想的社会的な意義づけの制度を確立することが必要であった。それは欧米の技術が優れて合理的な体系であることを啓蒙した福沢諭吉の「文明論の概略」が果たした役割は大きかった。それはお決まりの進歩史観をバックボーンとして「文明開化」を宣伝することである。文明開化とはつまるところ工業と商業の発展に他ならなかった。明治の初め「窮理学」という物理学ブームが起こった。いわば強迫観念をもって物理学を知らざるは時代の孤児なりと言わんばかりだという。福沢諭吉が火付け役で、薄っぺらな物理学の勧めで、特に目新しいことは無いが迷信を信じるな、道理を考えれば驚くに足りず、自分で確かめようという類の啓蒙書である。

西欧においては中世以来科学と技術は別の世界にあった。世界の理解を目的とする科学は哲学のなかで「自然哲学」に分類され大学やアカデミズムで論じられる。アリストテレスの運動理論がそれである。17世紀になって近代科学革命と言われるガリレオ、トリチェリ、フック、ボイルらの実証科学の形成が始まった。18世紀後半から19世紀にかけてイギリス産業革命の過程で、蒸気機関の発展によって動力革命と紡績産業の機械化が行われた。何らかの実際的応用を意図する技術は「学」とは別の分野で発展してきたのである。化学工業の分野でも職人が特許を取って技術の発展に寄与した。18世紀の末にボルタ電池が発明され、電気学と磁気学が一緒になった電磁気学が生まれ、1831年にファラデーが電磁誘導の法則を発見し運動エネルギーの電気エネルギーへの相互変換が可能となった。また1840年代には熱力学の法則からエネルギーの概念が生まれた。蒸気機関に応用され数々の改良がなされた。そして19世紀末にはディーゼル機関の開発がなされ原動機(内燃発動機)工学が誕生した。19世紀後半に至って学問と技術が結びついた。日本が欧米の技術に遭遇したのはまさにこのような科学技術勃興の時代であった。だから「科学技術」として出来立ての成果が時間遅れなく日本に直輸入されたのである。これを幸運と言わずしてなんというべきか。そのため明治期の科学教育は、世界観・自然観の涵養よりも、実用性に大きな比重を置いて遂行された。日本が効率よく近代化に成功した一つの理由である。それはまた日本の近代化が「底の浅い」和魂洋才で済まされたのである。旧態依然たる社会制度と国家体制のまま、国家が技術的に近代化装備を身に着けただけのことになった。西洋文明を科学技術ととらえた明治政府は科学の矮小化と技術の過大評価という誤った理解に陥った。西欧が中世から脱却できたのは17世紀の実験による近代実証科学の誕生のおかげなのである。実験もしないで結果だけを受け入れるのは教条主義であり科学の創造とは無縁の世界である。ガリレオ、ケプラー、デカルト等の「考える」ことを省略したドグマ拝承主義では受験勉強では公式主義になり創造性は忘れられている。物理学理論の持つ合理主義、計算可能性、予測可能性は実験の範囲内で保証されている。17世紀の思想家たちのなかでフランシスコ・ベーコンの「技術が自然と競争して勝利を得ることにに凡てを賭ける」ということは「行動により自然を征服する」ということである。その夢の実現が19世紀の蒸気機関と電気の発明すなわちエネルギー革命であった。19世紀は技術と産業が自然を凌駕し社会改造計画に邁進する。19世紀の科学技術は、人間が自然より優位にあるという立場の近代科学に基づいている。日本が欧米の科学技術に出会ったのは、まさにこの時代であった。そのため過大なる科学技術幻想に囚われ、その幻想は150年後の今も日本を呪縛している。

第2章) 資本主義への歩み

明治国家が目指した道は「殖産興業・富国強兵」のスローガンに見るように国家主導の資本主義経済の形成と発展、その事による経済的・軍事的強国化であった。内務卿の大久保利通は「殖産興業に関する建議」で国の強弱は人民の貧富により人民の富は産業生産の多寡によって決まると述べている。民主主義の論理とは全く逆の道筋であるが、大久保卿はまず国を強くすることが出発点であった。その政策の推進もとは軍事技術衣食を進める兵部省、殖産富強と厚生を担う工部省であった。兵部省は官営の軍事工場として各地に工廠を作った。民間企業の軍需産業は皆無であったので兵器生産を自前で行う拠点である。日本の近代化の軸は産業の近代化と同時に軍の近代化であった。日本の産業技術の発展にとって政府の軍事工場は指導的な役割を果たしたといわれる。工部省は鉄道、鉱山、土木、造船、電信、製鉄を中心として産業基盤の整備を進めた。民間資本の蓄積がなかった状況では工部省が官営工場を建設し、技術者や官僚の育成にあたった。工部省の工業化政策を推進した者は長州閥の井上薫、伊藤、井上勝、遠藤、山尾であった。工部少輔の山尾は1871年に工業人育成のため工学寮を創立し後の東大工学部に発展した。彼ら維新の立役者という群像は幕末には攘夷を称えた天皇主義テロリストで、西欧に渡って攘夷の旗はあっさり降ろし倒幕テロに集中し、明治以降は天皇制国家主義者に変身したのである。1977年工学寮を格上げし工部大学校となり、6年制の単科大学として教授は全てイギリス人で大学長は25歳のヘンリー・ダイア―であった、明治における科学技術教育の柱は文部省である。1973年「学制」という近代教育法制が公布された。文部省の主な関心は「国民」を形成する初等教育に向けられた。高等教育については幕府の研究機関を引き継いだ「東京開成学校」にし、東京医学校と併合して1877年綜合大学として法・理・文・医の四学部からなる東京大学を立ち上げた。理学には化学、数学、物理、生物、工学、地質学、採鉱学、機械工学、土木工学があった。理工学部に相当する内容であったが、工業化人材養成という点では工部大学校が本流であった。1885年には太政官制が内閣制に変わり、工部省は廃止され工部大学校は東京大学理学部に併合された。1886年には帝国大学が生まれた。帝国大学とは、法科、理科、文科、医科、工科大学から構成される分科大学である。これが学部制になるのは1919年のことである。日本の産業革命の開始が1886年だとすると、その地ならしのために作った官営工場はすべて民間に払い下げとなった。その担い手であった工部省も廃止された。工部省により明治前期の工業化は欧米科学技術の丸ごと移植によって進められた。ほとんど白紙状態にあった日本にただ移植することであった。工業化の推進にも旧武士階級の支配のもとで行われた。高級学校へ進学はほとんど旧士族の子弟で、明治期の技術者も旧士族出身者で占められた。ダイア―が指導した工部大学校は実用と実地を重んじる技術者教育を目指したが、帝国大学工科大学では学優先で教育した。従って技術に関してはほとんど学ぶ機会がなかったという。旧士族の道徳は主君第1の「官尊民卑」であったので、大学で学んだ技術者は官途に就いた。官吏の社会的身分が高く、営利事業に従事することを卑しんだ。民間企業の技術革新の担い手であった欧米の技術者と、旧支配階級出のエリート意識が強く、排他的で、官僚オールマイティ主義者で国家に対して忠実な日本の技術者は根本的に異なっている。

1885年内閣制度が発足、1886年大日本帝国憲法発布、1887年官吏任用制度と続いて近代的な官僚制度が作られ、法制官僚(文官)は事実上帝国大学卒業生に限られ、技術官僚(技官)は文官より一段低い位置と見なされた。1894年日清戦争の賠償金で京都帝国大学が作られ、1897年帝国大学は東京帝国大学と名を変えた。この時期(明治中期)に建築学会、電気学会、機械学会、工業化学会など専門の科学技術者集団が生まれた。大学の教授内容においても日本人研究者の自立が見られ、自前の「科学者(サイエンテイスト)」が生まれた時期であった。その時代は物理学において「古典力学」、「電磁気学」、「熱力学」の原理がほぼ出そろった次期であった。西欧の自然科学からようやく神学的要素、形而上学的要素が払しょくされ、数学が洗練された形式で論じられる段階となった。19世紀後半になって科学が職人の手から離れ体系的に伝授可能な学問となった。しかし帝国大学の教育と研究は国冨に直結する実用主義であったことは言うまでもない。学問的業績を挙げることは近代国家のステータスシンボルと考えられた。後発国日本は西欧に遅れること”わずか50年”、つまり追いつくことのギリギリ可能な時間差であった。英国の産業革命が約1世紀を要した難事業を一足飛びで輸入できたのは、先進国が販路をもとめて製品及び技術輸出に熱心であったからだ。しかし決定的な違いと遅れは、民間における資本蓄積が日本では僅かしかなかったことである。それゆえ日本の近代化とは百パーセント政府国家の手で進められ、そのため軍と官僚機構が大きな力を持った。電信網については民部省が1869年に立案し、横浜裁判所と東京築地の税関の間に敷設された。イギリスに贈れること30年、アメリカに遅れること25年である。しかし1875年には北海道から九州まで基幹電信網が形成され、1879年には電信局が全国に112局建設され電信ネットワークが形成された。1872年新橋ー横浜官の鉄道開通は、イギリスの公共鉄道ができた47年後のことである。英国から技術者、車両、線路などを丸ごと輸入し、日本の近代モデルの先頭を切った。殖産興業・富国強兵の実現はまず動力革命にあった。1881年に民間の日本鉄道会社が設立され、それは多額の資本と労働力を必要とし雇用の拡大に資する産業資本の誕生ということでもある。1889年には東京―神戸の東海道線が完成した。1871年の郵便蒸気船(三菱会社)、1872年の郵便制度の確立と併せ日本の資本主義の基礎を築き、その成長に多大の貢献をした全国的システムが矢継ぎ早に作られていった。1872年フランスからの技術・装置導入で、蒸気動力の機械製富岡製糸場が建設された。女工200人を要する規模である。生糸は日本貿易の収支均衡(1883年の貿易輸出総額の約50%)に貢献した。過酷な農村若年女性労働の上に立って昭和の初めまで生糸が外貨の稼ぎ頭であった。製糸業(生糸)と異なり紡績業(綿糸)は明治中期に急成長を遂げた。1882年純粋の民間資本による株式会社の大阪紡績会社が設立された。渋沢栄一がイギリスよりプラントを輸入し蒸気動力によって大規模の生産が行われた。1897年には輸出が輸入を上まわった。安い中国・インド綿を使用し、1889年にはミュール機から最新式リング精紡機に切り替えたことが成功の要因となった。綿工業の本家イギリスの生産性に勝った。

蒸気機関に次ぐエネルギー革命、そして近代化の重要なステップは電化であった。電力つまり電気エネルギーの使用こそが、次に出現する内燃機関エンジンの普及と並んで、近代化の決定的な道標である。そういう意味で発電機ダイナモの原理を与えた1831年の電磁誘導の法則の発見が導火線となった。水、火力であれ運動エネルギーを電気エネルギーに変換できる道筋は電気文明の出発点であった。電気エネルギ―を送配電網で送れば、端末で暖房に、動力モーターの回転に、照明に、情報通信や化学反応にさえ使用可能な汎用性を有する。これほど便利なエネルギーは他にはない。発電効率はさほど高くなくとも、利用しやすいエネルギーとして電気エネルギーが速やかに普及した。欧米で水力発電や火力発電が実用化されたのは1870年代、エジソンが伝統を発明したのは1879年であった。実用的な交流発電機の発明は1880年代であった。日本では1883年に東京電灯会社が設立され、次いで1887年には神戸電灯、大阪電灯、京都電灯が設立され、京都で琵琶湖疎水を使った水力発電で市電が走ったのは1895年であった。日本での電化のテンポは先進資本主義国に比べても早かった。次に近代化の蔭で苦労を強いられた女工という労働力の様子と、足尾銅山鉱毒事件に見る日本の産業の初めての公害問題を考えなければならない。機械化された製糸業や紡績業の工場において働く主力は若年女子労働者(女工)であった、富岡製糸場では官営工場の当初労働時間は8時間であった。多くは士族の子女から採用され指導員養成が目的で、経営は赤字続きであった。民営に払い下げるべくは労働強化となった。三井に払い下げられた1893年には労働時間は11時間となっていた。そして民間資本による製糸場では女工は貧しい農家の娘になりその労働条件は劣悪であった。1903年農商務省が出した「職工事情」では、諏訪の生糸工場の労働時間は15時間以上18時間に及ぶこともあったと記されていた。労働の過酷さから逃亡し、遊郭に身を落とす者、女工の結核死が社会問題になった。日本では機械化大規模生産は低賃金労働によって支えられ、イギリスの工場法のような若年労働者の労働時間制限措置は取られなかった。明治における古河工業の足尾銅山購読事件は日本の公害問題の原点として銘記される。1901年衆議院議員田中正造は鉱毒の惨状を天皇に直訴した。1890年足尾銅山は水力発電所を作って電力による揚水、巻き上げ、照明、鉄道輸送、電解精錬をおこなう最新営の電化鉱山であった。かくのごとき古河電工の経営は先駆的であったとされる。古河市兵衛は渋沢栄一の援助で鉱山業に参入し、1877年足尾銅山を入手し近代技術を導入して鉱山経営にあたった有能な産業人と評価されている。明治の初めより銅は生糸と並んで日本の主要な輸出品であり、日本近代化の原動力の一つであった。1890年代中ごろには足尾銅山は国内の銅の4割を生産した。銅は電気工業の導電体(電線)、金属工業になくてはならない材料であったが、足尾銅山は最も深刻な公害の元凶となった。まず精錬用の燃料として木材の過剰な伐採で周辺の山は破壊され、精錬過程で発生する排ガスである亜硫酸ガスは猛毒で周辺の樹木を枯らし裸山にした。+愛媛の別子銅山でも死の山に化した。又採鉱や精錬過程で硫酸銅よりなる酸性の排水で渡良瀬川が汚染され、河魚の大量浮上がおこり、山地の破壊によって保水力をなくした渡良瀬川の上流では雨が降るたびに氾濫を起こし下流の農地を汚染し近在の農地に甚大な被害を与えた。五穀は実らず家畜は死亡し、香魚は浮上し、人は病んだと言われる。1896年の大洪水で被害は栃木・群馬・埼玉・茨城と渡良瀬河と利根川流域におよび社会問題になった。衆議院議員田中正造は帝国議会で足尾銅山の操業停止を訴え、農民・漁民の抗議運動は弾圧された。国は一貫して企業側を擁護した。それは日本の全輸出額の5%を占める産銅業は重要な外貨獲得産業であったからだ。1907年鉱毒沈殿と渡良瀬河の洪水対策という名目で谷中邑全体を遊水地にする計画が持ち上がり、村民は北海道開拓の移住民とされ谷中邑は滅亡した。官民あげての国益追求のためには少数者の犠牲はやむを得ないという論理は、今日に至るまで、水俣チッソ水銀公害、成田国際空港建設反対三里塚闘争、沖縄米軍基地反対闘争で何回も繰り返され弱者の犠牲を生み出した。日本の近代化は東洋の奇蹟だといって自賛する国・産業支持派の論点と、農村労働力の過酷な収奪と農村共同体の破壊だとする社会・労働側の反論がある。

第3章) 帝国主義と科学

K船によって象徴された西欧文明の軍事的優越性は、知的優越性と相以て、日本の支配層は危機感と劣等感をもって受け入れた。「文明開化」という言葉は劣等感と表裏一体であった。19世紀末は日本は産業革命に邁進し資本主義社会としての成長を始めた。独立を維持するための常備軍が、アジア諸国へ国権拡張と資源と市場を求める日本資本主義の海外進出を切り開く原動力として機能し始めるのである。早くも1876年に砲艦外交で清国の属国であった朝鮮に「日朝修好条約(江華条約)」を押し付けた。3港の開港、公使館の設置、居留地治外法権、関税撤廃という一方的なものであった。1882年の壬午軍乱で日本は出兵し、大陸への軍事進出の第1歩となった。豊臣秀吉の出兵より約300年後のことである。この時点で福沢諭吉の「脱亜入欧」論は朝鮮の開明を待って共に進むのではなく、欧州側に立って朝鮮を侵略する道を選んだ。1894年日清戦争を経て朝鮮を清国から切り離し属国とした。こうして1890年代からはじまる列強の世界分割競争に最後のメンバーとして参加した。電信網と鉄道路線の敷設は国内統一と国内市場を生み出したが、同時に日本のアジア侵略を現実化するものとなった。鉄道敷設に陸軍省の関与権が認められ、密接に軍略上の位置づけが行われた。1891年鉄道は国防上・経済上の点から国有化された。統一国家形成とアジア進出という帝国主義的な意義が認識された。朝鮮の電信網と鉄道路線拡大は朝鮮の近代化に資するというよりも、日本帝国主義の目的に沿ったものであった。そして20世紀初頭の日露戦争に向けた半島の施設整備は、日本と満州を結び付ける大動脈を作ることが目的となった。1906年「国鉄」が誕生した。日本の産業革命の開始が機械制紡績業の隆盛となった1886年とし、その完成は機械や鉄鋼の生産体制ができた時をもって後発資本主義国の産業革命の終了とする見解に従えば、日本の産業革命は日清・日露戦争を経験した後、1907年の恐慌前後に終了したと言える。工業化にとって重要な大型機械の国産化を進めるための条件は鉄鋼生産であり、日本政府は日清戦争の賠償金で八幡に大規模製鉄所を計画した。日本は農業国から工業国へ転化の第1歩を踏み出した。従って日本の工業の発展は日露戦争後のことである。日露戦争で満州の鉄と石炭を確保し、軍需を中心とする官営八幡製鉄所と民間の釜石製鉄所で銑鋼一貫体制が軌道に乗った時期を産業革命終了とみる。先進資本主義国イギリスにおいては電力エネルギー供給は、産業革命が完成し蒸気動力が普及した後に登場したが、我が国では後発の利点で電力エネルギー革命と産業革命が同時に進行した。世界的に電力消費が本格化するのは、1890年前後に三相交流発電機の実用化と高電圧長距離送電システムが形成されてからである。電力が民間でも広くつかわれるようになったのは20世紀に入ってからである。日露戦争後に水力発電所ブームが起きる。1914年に猪苗代発電所ができ出力3万7500Kwで115kV野高電圧送電で東京まで228Kmの送電が開始された。大正時代を通して各工業分野での蒸気から電力への切り替えが急速に進行した。第1次世界大戦始まりのころが、エネルギー革命を伴った日本の産業革命の完了と考えられる。日本の物理学研究も帝国主義化の影響をもろに受けた。帝国大学の理念は国家第一主義と実用主義にあった。工科大学で特にその傾向は顕著であるが、理科大学でもその傾向は認められる。化学も物理も応用分野が主流であった。昔から西欧の植民地主義では地理学や地球物理学、博物学に関心が深く、宣教師の派遣と植民地争奪戦と共に発展した。宣教師は軍の露払いでかつ国情の偵察隊でもあった。艦隊の遠征には医師、水路学(海洋学)、気象学(天文学)、地理学、地球物理学の専門家が随行したという。軍にとって最大の関心事は海洋学と気象学であることは論を待たない。そのため国土測量頻繁になされ、測候所(気象台)が各地に設けられた。1887年には中央気象台が設置されその官制が確立された。日露戦争時には外地の気象観測は朝鮮に7カ所、中国本土6カ所、満州に5カ所、樺太に3カ所の測候所を増設した。海洋調査や気象観測は軍人や技官によって担われ軍事的側面が強いが、大学もその一翼を担った。1877年に海軍は技術者教育を東京帝国大学に委託した。陸軍は砲兵学校の学制を東京帝国大学で学ばせた。海軍の要請で造船学科がつくられ、造兵学科、火薬学科もつくられた。軍の帝国主義侵略に大学は何の抵抗もなく追随していった。帝国大学物理学教授田中館は海軍の依頼で全国的な地磁気偏角の測定を1911年より1942年まで継続して行った。そして田中館は1918年東大付属航空研究所を設立し、航空学科も新設した。この研究協力体制は田中館に限ったことではなく、長岡半太郎教授は海軍に光学技術の指導を行った。産業の近代化が軍の近代化と同時進行した日本では、科学技術は最初から産業と軍に奉仕するものであった。無線電信装置の開発、その電源である乾電池の開発などもその例である。

第4章) 総力戦体制に向けて

1914年西欧の列強が植民地争奪戦でこじれて欧州を舞台に第1次世界大戦となった。欧州がアジアに力を割けなくなっているのを見て、日本はドイツに宣戦布告し、「火事場泥棒」式にドイツのアジアにおける利権を奪った。山東半島、青島、南洋諸島ミクロネシアを攻略した。この第1次世界大戦の「勝利」は、引き続いてソ連建国のどさくさに乗じてシベリア出兵、そして日中戦争、太平洋戦争への道を開いた。第1次世界大戦は最初の科学戦争と言われる。一流の研究者が「毒ガス研究」に従事し、無線電信や潜水艦探知機の軍事研究に動員された。戦争と同時に科学者は「愛国者」となり戦争に協力した。国家による科学動員、科学技術研究への国家による科学者の動員政策となった。しかし日本では科学はもともと軍事優先で進められ国家第一主義が貫かれていたから、官としての研究者が戦争に組み込まれるのは当然の成り行きであった。日本では大戦中から各種の研究機関が設置された。1915年海軍技術本部、1918年海軍航空研究所、大阪工業研究所、繊維工業研究所、1919年陸軍技術本部、陸軍科学研究所、1920年燃料研究所、海洋気象台、高層気象台、1922年東北大学金属材料研究所、1923年海軍技術研究所、1925年東大地震研究所、1926年京大化学研究所などである。民間では理化学研究所が半官半民として設立された。1918年に「大学令」によって帝国大学以外の官私立大学の背地位が認められた。私立の多くの専門学校が単科大学に昇格した。1920年に学術研究会議が科学行政に中心的な役割を演じた。この研究機関の創設の背景には日本経済の発展があった。第一大戦以前は債務国であった日本は、大戦後債権国になった。植民地資源の獲得によって大正デモクラシー時代の繁栄が到来したのである。とはいうものの産業と国防は車の両輪の関係にあることは言うまでもない。第一次世界大戦後、ドイツの化学工業が主に軍事技術面より日本に強い衝撃を与えた。火薬、爆発物、燃料、医薬品などの産業は従来の金属加工関連の軍需産業と並んで重要な領域を占めた。日本と同様にドイツは資源小国としてスタートした後発先進国である。ハーバーによる空中窒素固定法は、1909年大気中の窒素と水素ガスからアンモニアを合成する方法を発明し、2013年にボッシュによって実用化された。アンモニアは硫安として肥料になり、硝酸にすれば火薬の原料となる。日本では資源問題の解決法として化学工業に大きな期待が寄せられた。「無から有を作る錬金術」が俄かにクローズアップされた。日本の近代科学工業は、ドイツに倣って軍による火薬・爆薬の製造から始まった。1895年大阪の造幣局の払い下げが日本の近代化学工業の幕開けとなった。民間の化学工業の主流は化学肥料の製造にあり、カーバイト工業も肥料生産のためであり、化学染料・医薬品製造が興った。軍はアニリン染料工業が潜在的軍需産業であることを第1次世界大戦で学んだ。化学工業が新たな軍需産業であること以上に、これからの戦争が軍事だけでなく政治・経済・思想・社会の全面で戦われる長期持久戦・総力戦である。つまり物量戦・総力戦であることが分かった。平時と戦時体制が連続して、平時から戦争の計画と準備期間になった。軍備の近代化と国家総力戦への移行が第一次世界大戦の教訓となった。金属加工産業・化学工業と並んで自動車産業の国家的育成が日本の課題となった。4つのサイクルのガソリンエンジンが実用化されたのが1870年代中頃、80年代にドイツのベンツが高速ガソリンエンジンを開発し、1890年に自動車製造会社を興した。ディーゼルエンジンの実用化が1890年代末で、20世紀に入ってガソリン自動車が実用かされ、1903年にはライト兄弟の飛行に搭載されたのはガソリンエンジンであった。1903年アメリカのフォード車が乗用車の量産に成功した。こうして第一次世界大戦における軍用自動車、戦車、航空機、潜水艦で用いられ自動車産業は20世紀産業の花形となった。1925年日本に進出したフォードとゼネラルモータースの工場は日本の自動車産業を圧倒した。大きく遅れた日本の自動車産業がようやく生産を始めるのは、国産軍用車の生産を目指した1936年「自動車製造事業法」以降のことである。日産、トヨタ、三菱重工が自動車生産を始めた。航空機産業は最初から軍用で、1910年に中島製作所がそして三菱航空機(1934年三菱重工に合併)が特許料を払って製造を開始した。三菱重工は1935年に96式艦上戦闘機を完成し世界の水準に追いついたとされる。1918年「軍需工業動員法」を制定し、戦時においては国家が工場を接収し業務に命令を出すことができる法であるが、1937年日中戦争の開始時から適用された。

電気エネルギーを化学反応に利用する化学工業(電工)は1890年代にフランスで始まった電気炉におけるカーバイド(炭化カルシウム)の合成にはじまり、日本では1901年郡山で水力発電の余剰電力を利用したカーバイト製造会社が設立された。1906年熊本県水俣で日本カーバイト商会が設立され、石牟礼道子氏の「苦界浄土」に1908年日本窒素肥料(後のチッソの前身)が設立された水俣村の様子が描かれている。石灰窒素肥料から硫安に変換し、硫安肥料で莫大な利益を上げ新興コンツェルン野口財閥を形成した。そして1921年イタリアのアンモニア合成技術の特許を買い取り、日本最初の合成アンモニア工業を立ち上げた。日本窒素肥料は1926年朝鮮水電を、27年に朝鮮窒素肥料を設立、朝鮮総督府の権力のもとに朝鮮の工業化を推進した。鴨緑江電源開発をベースにした朝鮮北東部の興南に電力と化学工業を結合させたコンビナートを建設した。新興コンツェルンには鮎川義介の日産コンツェルン、大河内正敏による理研コンツェルンが植民地経営を支えた。日本窒素肥料の朝鮮における朝鮮窒素肥料興南工場を核としたコンビナートの全容は、興南、本宮、永安、阿古地ら北朝鮮の建設された。硫安、石灰窒素などの人造肥料工業、油脂加工業、工業薬品、火薬工業、軽金属工業、合成燃料、石炭低温乾留と合成樹脂工業、石炭液化工業からなったという。火薬工業は朝鮮総督府と軍による軍需産業「国策産業」であった。窒素化合物の肥料工場はそのまま爆薬工場にになるので、肥料産業は「国防産業」であった。このコンビナートの電力を作るため、朝鮮半島の背骨山脈の西側では平坦な地域に鴨緑江の多くのダムを作り、分水嶺の山脈を貫通する水路によって勾配の急な東側に水を落とし落差で水力発電を行うものである。その大土木工事は間組によって朝鮮人中国人を使役して行われた。1929年完成の赴戦江発電所の出力は20万Kw、長津江の発電所は33万Kw、1941年完成の鴨緑江の水豊ダム発電所は70万Kwであった。(1963年完成の黒四発電所は33万Kwであった)これらの発電所の恩恵を受けたのはコンビナートと日本人関係施設だけで、過酷な労働に駆りだされた現地労働者にはおこぼれは無かった(トリクルダウンの大嘘)。エネルギー革命による最新化学工業の発展は、植民地の資源と労働力の収奪に支えられたのである。ここで「近代化」、「合理化」という言葉は普遍的な意味で善なるものと考えてはならない。誰にとっての近代化、合理化であるかをいつも念頭に置いておかなければならない。植民地における近代化は方法論あるいは手段として原住民にとって収奪や搾取のことで、利潤や成果の配分については原住民にトリクルダウンはない。「くたびれ損」、「死に害い」に過ぎない。労働問題においても合理化=労働強化は賃金上昇に結びつかない。そういうことを念頭に置いて、植民地の近代化を見てゆく。戦争に向かうこの時代国家経営の合理化という意味において近代化を推進した勢力は軍と官僚機構であった。特に官僚機構においては事業は燎原の火のように抵抗勢力なし、既存利益集団の居ない状態での事業推進で、予算が付く範囲でやりたい放題ができるので、このような仕事のやりやすさは醍醐味であった。それはソ連邦の計画経済でもいえるし、ドイツの国民社会主義(ナチズム)でも同じことであった。米国のニューディール事業、日本の軍部独裁統制国家社会主義であった。逆に言うとこういった統制経済になった時いつでも戦争ができるのである。

専門技術官僚をテクノクラートというが、帝国大学工科大学卒業官僚群を言うようである。彼らが果たして専門技術に長けた官僚かというと、3.11東電福島第1原発事故の際の経産省資源エネルギー庁原子力安全保安院の対応を見ているとこれが技術官僚かと疑いたくなりました。それは厚生省でも同じです。医者のなりそこないで医者とは言えません。はたして技術官僚なんているのだろうか。大学を出ただけで専門経験があるわけではありません。官僚という3年ごとの移動では専門の経験がキャリアとして成立するのか疑問です。ですから本書でいう「専門技術官僚」という言葉の意味にはペンディングを置きます。自由主義経済に対して統制経済を選ぶと同時に、技術行政を国家によって一元的に管理指導することこそ、ナチスドイツやスターリンの計画経済に影響を受けた日本の技術官僚(技官)の目標となった。そしてそれは総力戦体制による国防国家(軍事独裁国家)の建設に官僚群が全面的に屈服しただけのことではなかろうか。そして大政翼賛会に組み込まれてゆくのである。満州事変が勃発した1931年、市場原理の外にある政府買い上げの軍需市場が出現した。「重要産業統制法」が制定され、戦争に協力する統制を受け入れる代わりに税制面で優遇される「事業法」が各産業に次々と施行された。民間企業へ官僚の介入を強化し、総力戦は軍事と政治と経済の一体化が要求された。1937年には「軍需工業動員法」が適用され軍需工場は陸海軍の管理下に入った。日中戦争が起きると企画院が設置され戦時下統制経済の参謀本部となった。1938年に「国家総動員法」が公布され全権が政府の手に落ちた。この統制経済政策の目玉は電力の国家管理である。1931年電気料金は国家が決める(電力会社の総括原価方式)方式になったが、1938年「電力国家管理法」が公布され、日本発送電会社が国有化され、現在の9ブロック配電制度が創設された。戦争時の「革新官僚」とは自由主義経済の行き詰まりを打開すると称して軍の追求する総動員体制にすり寄り、軍と官僚は国家権力を奪った。最後には軍の主導するクーデター(5.15、2.26事変)によって議会を無力化し、政治家と財閥の結合を遮断した。

第5章) 戦時下の科学技術

1933年頃を契機として産業の中心は繊維工業からしだいに機械工業、金属工業、化学工業に移り1938年に至って完全に主役が入れ替わった。科学技術振興が科学者サイドから強く主張された。科学者も大国意識と成長の脅迫観念に毒された。欧米の模倣から始まった学術が今や国難の打開の最前線に立っているという自負が生まれ、1932年「(財)日本学術振興会」が発足した。学制始まって以来大学は講座制で動脈硬化にあり、「学振」は産業と軍部の要請に従う総合研究を奨励した。綜合研究は圧倒的に工学分野から選ばれ、1933年には全体の40%、1942年には67%を占めた。もっとも多く研究費を配分された分野は航空燃料、無線通信、原子核・宇宙線研究であった。日中戦争が勃発した1937年「学振」は科学動員について建議を行った。翌1938年「科学審議会」が内閣に設けられた。持たざる国の科学研究は「不足資源の科学的補填」であらねばならないと述べられ、太平洋戦争で日本が南方に進軍し占領地の資源掠奪までのスローガンとなった。1938年改造近衛内閣の荒木貞夫文部大臣は文部省の「科学振興調査会」を設置し、委員に大物軍人を多く任命した。そして潤沢な研究費を配分する文部省科学研究費(科研費)が創設された。そもそも軍事は命令系統の一本化と組織の統合を求める。従って経済や科学は当然管理統制の対象とした。国営気象観測事業と同様に、軍の支配領域の拡大とともに研究調査領域が拡大するものである。1938年陸軍気象部が設置され、1941年日本海洋学会が設置された。海流や黒潮は艦隊の航行になくてはならない情報である。敗戦に至るまで気象情報は軍事機密とされた。科学動員・科学振興が叫ばれたこの時代は学問の自由はなく、反文化主義・反知性主義の横行した時代であった。1934年松田文部大臣は、数学は西洋文明にかぶれた偏知教育だと糾弾したという。1937年には文部省は「国体の本義」を配布し、国民精神総動員実施要綱が閣議決定された。これに対して哲学者の田辺元や数学者の小倉金之助らは反文化主義・反知性主義への抵抗を訴えた。小倉は日本の科学の問題点を5点列挙した。@移植科学としての模倣性、A軍事関係の科学偏重、B大学学者の官僚制、C封建的学閥、縄張り、Dファッシズムへの順応である。狂信的国家主義者による蒙昧な神話的歴史観(神風)や空疎な精神主義スローガン(欲しがりません勝つまでは)で近代戦が戦えるわけでないことは支配者は熟知していたはずだが、戦争反対論を押しつぶすためにこれを利用した。1938年4月に「国家総動員法」が公布され、その25条に科学動員に関する規定がある。総動員目的に科学研究を制御することを可能とした。1939年9月モンゴル国境のノモンハンでソ連軍と激突をしソ連戦車隊の前に関東軍は敗北を喫した。これは陸軍にとって軍の機械化なしには戦争遂行は不可能だという教訓を得たはずである。軍の内部では2.26クーデタ失敗によって国体論や日本精神を称えていた皇道派勢力は一掃され、軍部独裁で総力戦体制・国防国家をめざす東条英機らの統制派が実権を把握した。官僚機構は統制経済による生産力増強を目指した。強制力を背景とした統制経済派官僚(岸信介次官)らは軍の推進する総力戦体制に加担したのである。

軍と官僚による統制経済は植民地(満州・朝鮮)で先行した。満州国には議会も政党も既存行政組織もない軍と官僚だけの国家であった。支配者は軍であり、官僚は関東軍参謀と提携して何でもできた。1935年「満州産業開発5カ年計画」を制定し、25億円を投入して軍需工業の基礎となる鉄鋼、石炭、人造石油、軽金属工業、自動車、航空機産業の育成を目指した。名前からしてソ連の計画経済を模倣したものである。それを取り仕切ったのは満州国実業部長岸信介であった。軍による強力な一元的政治支配は軍の望むところであり、1939年日本に帰国した岸信介商工次官を加えて1940年近衛文麿の「新体制運動」に逆輸入された。新体制運動は官僚と軍による社会再編成運動であった。その二本柱は「経済新体制」と「科学技術新体制」である。資本と経営を分離し国家が経営する企業形態を広めること、配当や利潤を制約し、軍隊組織による経営等を特徴とするものであるが、本質は軍の企業支配である、その手先が官僚なのである。欧米に比べて弱体で蓄積も少ない民間資本は、これでほとんど死に体となった。これを「進歩」だとか「革新」だとか幻想する官僚組織は明治維新以来の軍事優先国家の醍醐味が忘れられないのである。太古の昔から今まで民の力量が徹底的に弱かった日本社会の本質である。1941年に閣議決定された「科学技術新体制確立要綱」は国防国家の根幹たる科学技術の国家総動員体制を確立するため、科学技術の進展を図るとともに大東亜共栄圏資源に基づく科学技術の日本的性格をめざすという、実に奇妙な目的を持つ。科学技術の自主発展を目指すのかと思いきや、東アジアの資源掠奪を目的にしている。それは軍の目的ではないかといいたくなる。研究の一元化と統制によって研究の能率化を図るというが、これに対する反論は研究者側からは目立った動きはなかった。科学界のボス長岡半太郎は賛意を表明し、仁科芳雄も受け入れた。1943年には仁科は原爆研究を始めた。彼らは研究費が潤沢になるなら自主的に学問統制や研究動員への協力を表明した。一方国民を人的資源と考えると、社会全体の編成替えも視野に入ってきた。1942年の食料管理制度では小作料は据え置かれインフレ下では小作農の負担は軽減された。1938年の国民健康保険法は国民負担を軽減するものである。1930年代後半から1940年代前半の総力戦体制によって、社会関係の平等化が進んだ。本書はこの論点を戦争遂行のための合理化の効果という両極端の側面のひとつにあげてして、筆者は戦争体制賛成論者かと疑いたくなる。政策が正しければ、独裁的一元支配は効率的であるという歴史のアイロニーは果たして正しいのか。正しいという保証がなく失敗の可能性も大きいならこれは暴政である。軍と官僚による科学振興の掛け声で一番得をしたのは学者技術者である。当時を懐かしむ技術者が多いのはそのせいである。他方生産増強によって過重な労働が課せられ、工場や鉱山の過酷な現場に低賃金の植民地労働者が動員された。殺人的労働と労働災害の実情は隠された。その間本当に科学技術は進歩したのか、成果の方は資料では良く見えない。                                     

第6章) 戦後社会

「近代日本150年」という本の題名からして、戦後73年間の記述は半分を占めてもおかしくはないのだが、本書の戦後の記述は第6章と第7章を加えて33%に過ぎない。戦後自体の特有の進展を端折りすぎていませんか。戦後のことは戦前に経験した「総力戦体制」と同じという考えからそうなったのであろう。歴史を連続してみる視点は面白いし一理あるとしても、そうしたステレオタイプな見方でいいのだろうか。著者も私も戦後のことしか知らないはず、戦前のことは文献に頼っている。本書の問題はさておいて先に進もう。1945年夏の日本の敗北と7年間に及ぶアメリカ軍の占領政策によって、日本が根本的に民主国家に生まれ変わったと見るのは早計である。経済学者野口悠紀雄支は「経済の基幹的な部分には戦時下で導入された制度や仕組みがいまだに強く残っていると「1940年体制」(1995年)に書いている。戦時下の金融と財政関係官僚機構が現在もなお日本経済をコントロールしているという主張である。第7章に述べた小作制度は食糧管理制度の改正で相当崩れたところに米軍は農地改革を断行したといえる。また1958年国民健康保険制度は1938年に第1歩を踏み出している。戦後日本を占領した米軍の目的は日本をアメリカに対抗しないように改造することであり、日本が軍事国家に至った要因を取り除くことであった。官僚機構については内務省を解体しただけで、商工省と企画院は通産省に名前を変えた。戦時中に軍需産業に物資を供給する手法と同様に、基幹産業に物資を集中する「傾斜生産方式」を指導した。大学の研究費をはじめ科学研究体制は戦時中の「科研費」や大学院制度、および大学・研究機関はそのまま生き残った。日本の近代化は軍国主義の進展という社会条件の下でしか始まらなかったことに、日本の悲劇があったのだ。「健全な近代化」ではなく、「歪んだ近代化」に日本の特色があった。科学技術の世界では戦後と戦中の連続性が顕著であるという。つまり科学技術者は何も反省していないし、昔も今もいい生活を送ってきたのだろう。1946年の発足した「民主主義科学者協会」(民科)は戦争責任の追及を政治、経済、地理、歴史、哲学、文学、教育、農業に限られていた。自然科学者と技術者だけは誰からも責任を問われなかった。1949年に設立された日本学術会議が軍事研究に協力しないと決議したのは1950年のことである。日本敗戦の原因として、科学戦の敗北が語られたが、長期総力戦・物量戦である戦争を、日本主義的精神主義から短期決戦と期待して開戦した誤りに囚われていた。戦争が長引くと戦争経済が破綻し少資源国の日本の物資は枯渇した。敗戦の原因は科学戦の以前の話といわざるを得ない。原爆という科学兵器は日本の支配者に敗戦を決意させたが、総合的に考えて戦争を回避することの方が賢明であった。人的・軍事資源の枯渇は中国との戦争で十分に認識できたはずなのに、中国にも負けたことを隠すために、原爆に負けたと言い逃れをしているに過ぎない。「唯一の被爆国」という被害者意識丸出しの、侵略戦争の加害性を相殺または隠蔽するキャッチフレーズが生まれた。戦後は「科学立国」とか「科学振興による平和国家の建設」といった調子のいい言葉を平気で吐く、本当に反省のない科学者が多かった。科学はもろ刃の刃と言われるが、科学者技術者はどちらについても金が出るらしい。科学と民主とは本来無関係なはずだが、科学立国は民主化の軸とみなされたようだ。科学的合理性でものごとを処すれば、非民主主義や軍国主義や戦争は恐れて逃げ出すとでも言いたいのだろうか。まことに漫画チックな発想である。自由主義経済を無秩序と決め付け、自分たちの統制経済を合理主義と自負したのは戦前の軍や官僚であった。「合理主義」という御旗の争奪戦である。合理や科学自体は道具であって、それを握った勢力が人間性を圧迫するのが歴史であった。戦後の民主化運動の頼りなさは1960年代の高度経済成長の前に雲散霧消したのであった。

本書は、高度経済成長の中心にあって指導したのは官僚であるというが、私はそうは思わない。戦後、通産省が計画したことやプロジェクトが成功したためしがないからだ。むしろ失敗の方が多い。「官尊民卑」の「上から目線」は返上しなければならない。中央集権的な行政システムによる戦後の復興においては日本開発銀行、日本輸出入銀行といった機関が国家資金を投入して産業の設備投資に寄与したことは戦後の一時期(自転車操業の時代)は大きかったようだ。高度経済成長によって民間企業の財力が付くと無用の長物と化し政府の財政投融資は廃止された。本書は高度経済成長は戦後版の総力戦であると説くが、そこまで戦前にこだわる必要性は逆にないと考える。戦前の官僚機構の相棒であった天皇制独裁軍部はなくなったのでその庇護と支配力は期待できず、官僚の保護者は、選挙で選ばれ国民にのみ権力の根拠を置く議会民主制と政府である。官僚に無制限のフリーハンドは与えられていない。日本に経済的自立を促したのは、国際情勢である。ソ連中国の共産圏に対する欧米の自由主義国との冷戦が日本を甦らせた。また本書は「軍需産業の復活」という戦前を彷彿とさせる妖怪を使って我々を驚かせようとするが、この見解は時代遅れである。航空母艦を1台も持たず、戦闘機は米国からお古を買わされ、当たるかどうかわからない迎撃ミサイルシステムをアメリカから恐喝されて配備する状況では、自立できる軍需産業はないのである。また日米地位協定で自衛隊の指揮権は米国に在り、日本上空の制空権も支配され、装備の互換性を理由に米国規格の装備を買わされているからである。防衛関係の事実関係だけを記しておこう。国家予算に占める防衛関係費は13.4%(1935年46%、1944年85%)、1958年の防衛庁契約上位10社は新三菱重工、川崎航空機、スタンダード石油、石播重工、三菱造船、浦賀船渠、東芝、三菱電機、三菱日本重工、富士重工である。2015年の上位10社は、川崎重工、三菱重工、IHI、三菱電機、NEC、東芝、ジャパンマリンユナイテッド、富士通、コマツ、住友商事である。兵器生産に関係ある業界団体「日本防衛装備工業会」には正会員137社よりなる。日本は1968年アメリカに次いでGNPが世界第2位になり経済大国と言われた。明治100年にして大量生産・大量消費の社会になった。鉄鋼生産と自動車産業は急増し70年にはアメリカと肩を並べるようになった。(2018年現在では中国が鉄鋼生産世界一で8億トン/年、アメリカは1億トン/年、日本は8000万トン/年の順である。これが世界の現実である)これが日本人の生活や労働環境の向上に繋がったかは別問題である。高度成長が各地で深刻な産業公害と地域の破壊、そして自然環境の破壊をもたらした。1962年より「全国総合開発計画」が新産業都市計画、臨海工業地帯の建設となった。石油コンビナートも各地で建設された。1960年代後半より四大公害訴訟が始まった。四日市公害訴訟、熊本水俣病、新潟水俣病、富山カドミウムイタイイタイ病の訴訟である。チッソ水俣工場の水俣病の認定が企業と通産省と学者の抵抗によって遅れに遅れ、国が患者を認定したのは112年後の1968年であった。チッソが責任を認めたのは有機水銀発生源のアセトアルデヒドの生産を終了してからである。企業は生産を最優先し国が企業を保護する構図が公害問題の元凶である。こうして不知火海沿岸住民20数万人が犠牲になり苦労を強いられた。この企業と国の住民無視の強権体質こそ、古河電工足尾銅山鉱毒事件と谷中邑滅亡の構図と全く同じである。事態は100年近くたっても何も変わっていない。これが「日本の近代化150年」の構図である。人権無視の企業優先政策のなすところである。このように公害を黙認してきたことが戦後の高度成長の要因の一つである。その挙句の結果が東電福島第一原発の破局を生むことになる。

戦後の高度経済成長は官・産・学の共同体制で進められてきたと本書は言う。私には、戦後の官僚にそんな指導力があるとは思えない。管掌分野の裾野が広がり企業の多様化と企業数の拡大で官僚機構の統率力は及ばなくなっている。世界との競争において利益誘導の調整機能はあるが、新産業創出の力があると見るのは幻想に過ぎない。古くは水俣病、いまは原発問題において、官僚が解決の邪魔をすることは多い。公害問題で企業の責任が問われるまですごく時間がかかるのは、必ず学識経験者と言われる学者の公害の要因を不明とするかく乱操作が入るからである。「権威ある」大学教授や学界のボスが介入し、企業サイドに立って思いつきの原因論を流布する。情報かく乱、目つぶし効果的役割を演じる。そういいう意味で「権威ある」大学教授の犯罪行為である。「学会内では諸説あり原因は確定されていない」という常套文句をメディアに流し、企業への追求の前に立ちはだかるのだ。「疑わしいは罰せず」に持ち込めばその教授の役割は大成功となる。死者450人、CO中毒者839人を出した三池炭鉱爆発事故で、九州工業大学の荒木教授の調査団は「炭塵の爆発」という報告書を出し、三池炭鉱側の清掃をしなかった不作為行為の責任を問うたが、九州大学の山田教授は「風化砂岩」中和説をだして「炭塵の爆発」を否定した。今では実験をすれば決着がつきそうな問題だが、九州工大より権威のある九州大学の説をとって政府は動かなかった。被災者側は三井炭鉱を相手取って損害賠償訴訟を起こし、堆積した炭塵が爆発の原因だと認定する判定を勝ち取るまでに30年かかった。専門家が被害者に対して権力そのものであった。公害問題は、経済成長を追い続けた近代日本の歴史が常に弱者を犠牲にしてきたことを身近な問題として暴露した。企業を擁護してきた政府が公害問題に対処したのは1970年の「公害国会」からであった。それと同時に国内の経済成長に陰りを見せたので、経済成長を持続するには労働力が安く合理化に従順な企業内労働組合と協力して公害規制の緩やかな開発途上国に資本が向かった。1970年代の2度の石油危機を乗り切ることができたのは大手企業が生産拠点を海外に移したからである。有害物質の総量規制と石油化学工業の成長停滞により、国内の大型コンビナート建設計画は全てとん挫した。大手企業の海外拠点はかっての大東亜共栄圏の東南アジアに向かい、フィリッピン、インドネシア、ミヤンマー、ベトナムにインフラの整備、プラント建設を行った。1970年から1990年バブル迄、日本企業は生産拠点の海外移転、経営の合理化と効率化を図り、自動車排ガス規制クリア車、省エネ技術、半導体生産により海外に輸出を伸ばし、年率3%を超える経済成長を維持した。しかし1990年代はグローバル化した世界経済の中で競争力維持するために新保守主義の構造改革が進められ、資本の身勝手な行為によりその結果格差の拡大と20年以上のデフレが進行した。その間世界の生産は中国に重点が移り、日本は半導体、家電部門で全面的後退を余儀なくされた。日本の自動車企業、家電企業の身売りが進み、2008年のリーマンショック以来、鉄鋼や自動車や電化製品の市場は縮小している。IT産業や情報産業で日本は米国に大きな差をつけられている。成長の無いところで利潤を重視すればそのしわ寄せは労働者側配分を減らすことになり、多数の中間層が没落し社会的弱者となった。もはや技術革新で成長するということは21世紀には幻想になりつつある。現在日本政府と財界が目論んでいるのは、原発輸出と軍需産業である、かっての武器輸出三原則は無視され、2014年安倍内閣は「防衛装備移転三原則」を閣議決定し、武器輸出が全面解禁された。2017年度防衛庁予算は4兆8996億円、米軍再編成関連予算を含めると5兆1251億円となった。

第7章) 原子力問題をめぐって

原子核エネルギーの解放は1942年に米国で始まったマンハッタン計画という、20億ドル(2兆円)の予算と13万人を投入した原爆製造計画で実現された。1945年7月16日ニューメキシコでプルトニウム爆弾が試験され予想以上の成果を得た。ウラン爆弾は8月6日広島に、プルトニウム爆弾は9日長崎に投下された。トルーマン大統領は原爆を投下したことを発表し、将来はエネルギー革命(核エネルギーの発電利用)を引き起こすことを預言した。日本の原爆研究を指導した仁科芳雄はこれを偉大な力と形容した。武谷三男は原子力の平和利用に乗り遅れるなと語った。伏見康治、茅誠司らは1952年政府と学術会議に原子力委員会の設置を呼び掛けたが若手研究者の反対に遭った。米国アイゼンハウアー大統領は活発な原発市場外交を展開し二国間協定による核技術と核物質の供給を主唱した。1954年中曽根康弘らは原子力予算の成立に成功した。1954年学術会議総会は「原子力研究の三原則 公開、民主、自主」を要求したが、1955年「原子力基本法」が成立し、学術会議の三原則は書かれているが実効性に乏しく、実質は米国技術の直輸入に依存した原子力政策であった。学者らは実効性の疑わしい「原子力平和利用」でお茶を濁している間に、初代原子力委員会委員長正力松太郎や中曽根康弘らの根底には大国主義ナショナリズムが支配していた。原爆保有は国家主義者にとって超大国の証しであり、核技術と原発は一流国家のステータスシンボルである。核技術が原爆製造に直結する技術である限り、たとえ直接的目的が民生・産業用利用であっても、その技術の所有それ自体が大国主義ナショナリズムの発揚であり、国際社会において発言力の強化をもたらすという考えであった、それは岸信介の「潜在的核武装論」へアップグレードした。フランスのドゴール、中国の毛沢東、そして最近の北朝鮮の金雲日と同じ政治的意味合いである。岸信介にとって条件が許せばいつでも核武装できる状態にあるために原発が存在した。そのための日本は世界一のプルトニウム貯蓄国(ウラン発電の廃棄物)であり、プルトニウムをもちいる増殖炉がないと何のために持っているのかという疑惑がもたれる。しかしながら高速増殖炉「文殊」は失敗続きでついに廃炉が決定され、青森六カ所村核燃料サイクル工場は一度も動いたことがないので、論理上は破綻している。核燃料濃縮ウランの用途は、使用後の処理を含めて日米原子力協定で米国によって管理されている。核燃料サイクルに対する日本の異常なまでのこだわり(潜在的核武装論)は国際的疑惑を招いている。日本はアメリカに倣って核兵器禁止条約に署名を拒んでいる。これは被爆国として理解に苦しむ政策であって、安倍首相は説明を一切出来ないでいる。2012年「原子力基本法」第2条に「我が国の安全保障に資する」という条文が追記された。極めて危険な条文改悪であり、それだけでなく2016年4月の閣議決定で「最小必要限の核兵器を保有することは憲法違反ではない」という見解を出した。日本の支配層は執拗に核兵器所有と使用を狙っていることは明白である。日本の原子力発電炉はゼネラルエレクトリックス社の沸騰水型原子炉(東日本 東芝、日立)とウエスティングハウス社の加圧水型原子炉(西日本 三菱電機)の2種類である。いずれも米国製である。米国の原子炉産業育成のため、原発と濃縮ウランを売り込み、技術者の留学制度を設けて原子炉操作員とメンテナンス要員の要請を受け持った。米国のプラントメーカーはフルターンキー式で売り込み、日本側電力会社はスイッチを回すだけのお任せ設計である。通産省と電力会社と原発メーカーの商業炉のどこに自主性があるのだろうか。自主開発を謳っている文部科学省管轄の高速増殖炉、核燃料サイクルは数兆円の資金と30年の開発期間をつぎ込みことごとく失敗している。商業用原発は1973年通産省内に資源エネルギー庁を設け、翌年電源三法が制定され原発誘致政策が取られ、20世紀末までに50数基が設置された。狭い国土ではこれは過密設置であり、誘致政策に乗って1か所で複数基が次々増設された。総電力消費に対する原発比率は30数%となった。1970年代後半には高度経済成長は終焉し、企業の海外移転が進み、電力需要が減少傾向にあった。にもかかわらず1980年代に原発建設ラッシュが起きているのは、電力消費が増えたからではなく原発村の企業に仕事を与えただけのことであり、そのため水力や火力、その他電力の稼働を抑える管理をしてきたことによる。原発の発電コストが安いから原発に依存する率が増えたのではなく、原発の発電コストを低く抑える計算をしただけで、その実情は3.11事故後の廃炉、使用済み核燃料処理費、事故補償費、誘致関係優遇政策費を全く計算から省いて税金で賄っていることが暴露された。原発にも寿命がある。中性子による金属・コンクリートの脆化によって原子炉、圧力容器壁が寿命を迎える。電力会社は近く40年の期限を迎え廃炉を決定した所が多い。そして使用済み核燃料の処分方法は存在しないので20-30万年間埋設保存するしかないとしても、その場所さえ火山地震大国、地下水の豊富な日本ではなかなか見つからない。日本の原子力開発はきわめて歪な体制で、問題を凡て棚上げしてやってきたのである。これが「優秀な」官僚のやることである。そして2011年3月11日破局を迎えた。3・11以降のことについては関係文献も多いので凡て割愛する。



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