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山口育子著 「賢い患者」 
岩波新書(2018年6月20日)

患者本人の意思を尊重し、患者・医療者の賢明なコミュニケーションを目指す活動

特定疾患ごとの患者の団体や情報交換会は多々ある中で、患者本人の意思を尊重し、患者・医療者の賢明なコミュニケーションを目指す活動団体である認定NPO法人「ささえあい医療人権センター」(COML)が設立された1990年代から今日までの活動の記録である。1990年の医療現場は、患者には情報が閉ざされ医師の治療方針に従うことが当然と思われていました。患者に方も受け身で「お任せします」しか手がないものと考えていた。これを情報の一方通行もしくは情報の遍在、不均衡といわれ、医療側と患者側の勝負は最初から決まったようなもので患者側が太刀打ちできるものではないという構図でした。まして問題が医療過誤になると弁護士が絡み裁判や賠償請求になると、医療側は警戒しました。これは支配―被支配の構図で情報を持っている側が強いのは当たり前という風潮でした。しかし2000年代になると「医療崩壊」という言葉がマスメディアで取り上げられ、まず医療側の方が動き始めました。その背景には医師不信という悲しむべき事態がありました。医療の当事者というと単純には患者、医療者ですが、健康保険を対象とすると当事者には企業と国家が加わります。社会福祉の年金の当事者である労働者と企業と国家との関係と同じです。支配―被支配の構図には「敵対」という言葉しかありませんが、医療に関しては患者は医療者と敵対する関係ではなく、当事者としての患者自らの姿勢を見直し、病気を自分の問題として受け取り主役になって解決してゆこうとする心構えが求められます。「賢い患者」になろうと患者の自覚を促し、「自分が体の責任者」として当事者主権(自分のことは自分で決める)に近い意識を持つことではないだろうか。著者はCOMLの理念として、患者と医療者は対立するのではなく「協働」することだと言います。病気を克服するという共通の目標に向かって、それぞれの立場の者同士がそれぞれの役割を果たすということです。特に生活習慣病が主流となる複数の慢性疾患を抱える患者が多い中、医療者の努力だけでは治療効果は上がりにくい。患者の生活習慣改善努力をしながら医療に参加する心構えが大切になる。医療側の意識改革も急速に進み、医療現場では説明することは当たり前になっています。医師は画像を前に術中でも患者に説明します。エコー・内視鏡検査では特にそうです。患者への丁寧な説明・対応やコミュニケ―ションへの努力が行われています。医療技術の進歩により治療法の選択肢がふえ、患者の価値観も異なる事より、患者も医療者から受ける説明を理解して情報の共通化を図り、医療者と共に考え決めることが求められます。だからこれまで以上に冷静で成熟した患者が増えてゆくことが期待されている。
「ささえあい医療人権センター」(COML)は1990年に故辻本良子氏(1948年−2011年)によって設立され活動を開始した。本書の序章と最終章に筆者(現COML理事長)山口育子氏自身の病気体験(卵巣がん)と筆者による元理事長辻本良子氏(乳がんー胃がん)の看取り体験が述べられています。本書の第1章から第6章までの間には両氏の病に関する記述は一切なく、COML活動の記録に集中しています。病気を抱えての活動及び執筆には必ず個人の病気の蔭が現れて来るものなのだが、そうしたことはしっかり省いて患者全体の在り方についての社会活動に集中されているのは立派というほかはない。「個」より「公」を重視した本書はある意味では杓子定規で物足りないが、それは「個」の問題は一般化できるものではない、それを書くなら別の書でという意味なのだろう。あくまで二人の女性が目指したCOMLの活動の紹介に徹した執筆態度は称賛に値する。

序章) 私の患者体験

山口育子氏が医療と深くかかわる契機となったのは、1990年9月、25歳で「卵巣がん」と診断されたことに始まる。同じ年の3月虫垂炎で腹痛があり入院したとき超音波検査(エコー)を見ながら医師たちが「何かある」といって議論していた。結果は大丈夫だろうということで1週間で退院になった。半年後の9月再び腹痛が起こり同じ病院の産婦人科を受診した。約10cmに腫れた左卵巣があることがエコー検査で分かり、血液検査で炎症反応が強く出て腫瘍マーカーも異常値を示していた。病名も知らされないまま即日入院となり種々の検査が進められた。注腸検査(肛門からバリウムを入れレントゲン撮影)を行った後翌朝7時、卵巣が破裂したという。手術スタッフが揃うまで7時間待って緊急手術が行われた。胃洗浄後全身麻酔がかけられて回復手術となったが、破裂してからの時間が長かったのでがん細胞がばら撒かれてしまった。左卵巣を摘出し腹腔内に抗がん剤が直接注入された。お腹には4本のドレーン(排出管)が挿入され、翌朝目が覚めて時には猛烈な嘔吐が続いた。医師・看護婦・両親までどんな病気かについて触れようとも説明しようともしなかった。患者本人はただならぬ状態に置かれ、悪い病気、ガンだと感じていたという。主治医は両親に「3年生存率は20%以下です。覚悟してください。本人の精神上病名は伝えません」とかん口令を敷いていた。山口氏は自分の身の上に起きていることをそのまま知る事が大事で、自分命をどう生きるかは自分が決めたいと思う人でした。めっぽう自立心の強いタイプです。日本では自己主張の強い人は嫌われがちです。大学への進学は授業料の安い国立大学と決め、親の世話にならず経済的な自立を目指すため高校時代からバイトに精を出したそうです。病名、病状、検査結果等は自分の情報であるのに、本人にはアプローチする道が閉ざされていることは、1990年代の医療界が信じられないくらい閉鎖的な世界であったのです。ガンのステージがTcなので、子宮と左右の卵巣と卵管をすべて摘出すべきだったのですが、右卵巣が破裂して7,8時間経ってから癒着を剥がした卵巣を片方取るだけで精いっぱいだったようだ。残された子宮、右卵巣・卵管を摘出するため10日目に再手術を予定していたのですが、腹腔内に入れた抗がん剤のせいで白血球が減少し手術は見送られた。患者には何の説明もなく手術後3週間後に第1回目の抗がん剤治療が開始された。本人には「癒着止めの点滴」という説明でした。当時の化学療法では入院して3種の抗がん剤を一度に入れ、1か月休みます。それを3クール行い、3か月で退院し休薬期間を設け3回繰り返す予定でした。腎臓へのダメージを予防するため抗がん財注入前後に生理食塩水の点滴を行う。当時は強力な制吐剤(吐き気止め)がなかったため過酷な試練でした。嘔吐と脱毛が化学療法の副作用でした。しかし主治医からのきちんとした病状と治療方針の説明は一度もありません。看護婦や主治医に訴え、別の医師が参考意見を述べるという形で(セカンドオピニオン)患者の質問に答えてくれました。インターネットが普及する前でしたのでそれから専門書を買って卵巣がんの勉強を始めたそうです。そして医者とは喧嘩別れをしないため、少しづつ有益な会話に努め必要な情報を積み重ねることが大切だとコミニュケ―ションのやり方を替えたそうです。発病から8か月後残った右卵巣に再発が見られた。説明もなく主治医はさっそく再手術の予定と検査のオーダーを入れてゆきます。検査のため別の科に行き自分のカルテを見ると卵巣がん再発と書いてありました。そこで主治医に糺すと主事の顔色が変わりさらに手術は中止し化学療法を継続する方針変更を伝えられた。予想していた以上に早い時期の再発を目の前の事実として、25歳の筆者は「死が訪れるまでは生きている。だとすれば今どう生きるかが大事だ」と考え「私にできる何かがあるはず。生きている限り自分のエネルギーを注ぎこもう」と覚悟したという。この病気にならなければ経験できなかったこと、知り得なかったこともある。抗がん剤治療を受けるため1年半にわたって入退院を繰り返し、入院日数は300日を超えた。持ち前の体力でこれに耐え治療が終わると元の元気を取り戻した。入院費用を稼ぐため、退院中はバイトに励んだそうで、これは驚異的な行動力と活力です。恵まれた体力をもっておられたのでできたことで誰にでもできることではない。入院生活の1991年秋、朝日新聞でCOMLの山口育子のインタビュー記事を読み「患者と医師の関係はお任せでも対立でもない」の関心をもったという。そして11月の自分の病気の経過、受け止め方や考え、医療について思うことを手紙にまとめ辻本氏に送った。さっそく電話が来て「こんな明るい患者さんを見たことがない。是非お話がしたいので患者塾セミナーにいらっしゃい」と誘いを受けた。勢いとパワー強い志のある方と実感し、なんらかのオーラを感じたという。1991年12月最後の3クール目の抗がん剤治療を受けるために入院した。その前に辻本氏から治療が一段落したらCOMLのスタッフにならないかというオファーを受けていた。これに二つ返事で引き受けたそうです。COML会誌に「遊病日記」を寄稿し、闘病記・体験談を纏め、辻本氏との人間関係を築いていった。筆者は8クールを終えた時点で血尿が続き腎臓機能が悪化して、嘔吐・悪心、下痢、血圧低下などからこれ以上抗がん剤治療を続けると取り返しのつかない副作用に襲われると感じ始めていた。「今が辞め時」と感じてセカンドオピニオンを求め産婦人科医の意見を伺った。その医師が言うには「患者さんの意見を尊重することは大事です。化学療法が一段落したら私がいる病院へ転院してきたら」と勧められた。そこで今治療している病院の主治医には別の病院で内服抗がん剤治療で経過観察をすること、主治医に対する疑問点や改善点の意見を言って、治療にピリオドを打った。そして1992年2月よりCOMLスタッフとして歩み始めたそうです。(なお著者は発病してから今年2018年で27年となります。)

1章) 患者・家族の声を聴くー電話相談

辻本良子氏がCOML活動を始めるきっかけは、医療訴訟の弁護士と協力医をつなぐコーディネーター活動をしている時の電話相談を手伝っている時からでした。辻本氏は弁護士に相談に来る患者はごく一部で、一般の患者が意識を変えないと医療は改善しないと思うようになり、1990年にCOMLを立ち上げたそうです。電話相談からスタートし、2018年5月時点で相談件数は6万人弱となる。1995年以降は相談員はボランティアスタッフが中心です。医療という専門的内容の相談を素人が受けられるのかということは常に付きまといますが、COMLでは答えるというより聞くことが大事になります。インターネットや病院の情報提供が進歩している中で、情報が問題なのではなく、情報を理解できない、知らされない理由に問題を感じていることです。客観的な理解に必要な情報は何かを、そして患者がどうしたいを思っているか本音を聞き出す事です。問題解決の方法がない相談もありますが、寄り添って聴くことが第一と考えているそうです。電話相談の平均所要時間は40分です。今の相談センターは大阪にあり、2019年には関東にも相談拠点を始めるそうです。1990年代は医療環境が激しく動いた10年間であった。情報社会となりがん告知は当たり前となり、患者の医療不信という社会背景を反映して、すべてを伝える医療側の姿勢が出来上がりました。副作用や合併症、手術のリスクと処置の説明と同意書の作製、手術の病院ごとの成績(平均生存確率)の公表、リスクの数値化などです。医療事故・ミスによる医療不信感は2003年ー2004年にピークを迎え、COMLの相談件数も月に500件以上となった。相談内容は訴訟と賠償金が中心でした。しかし2007年以降はマスメディアの姿勢も「医療崩壊」という名の、「医師不足」や「救急治療の危機」といった課題に移りました。すると医療訴訟の相談は激減しました。医療事故や医療安全への医療側の態度が変化し窓口や体制が整えられた。2015年10月に医療法が改正され「医療事故調査制度」が始まりました。(社)日本医療安全調査機構に設置された「医療事故調査・支援センター」に、予期できなかった死亡事故事例を報告する義務が医療側に課せられました。院内調査には外部委員が加わりますが、納得できない場合第三者入れた院内調査を申し出ることができます。そして結果を遺族に報告するのです。この制度の前には「カルテ開示」や「証拠保全」によって得られた医療記録を第三者の専門医が検証する制度がありました。これは費用と時間がかかる制度を改善したことになります。それでも死因を究明できると限らない。(解剖と死亡時画像診断Aiという手法もある)現在医療で進められているのは「医療機能の分化」です。医療機関を高度急性期、急性期、回復期、慢性期などに分類される。「2025年問題」という急速な高齢化社会の問題が背景にあります。都市部で高齢化、地方で人口減が進行し2040年にはすべての地域で人口減社会となると言われています。2017年度までにすべての都道府県で「地域医療構想」が策定された。医療と介護を切れ目なく利用する対策が講じられています。医療当事者の利用者である患者・住民が主体的な参加を求められる時代です。どうしたいかを提示するという自覚を持つことです。これは当事者責任・主権と言えるでしょう。
最近の電話相談で最も多いのが症状についてです。患者は情報を理解できていない場合が多いので、その不満が医師に向かいがちです。医療はチーム医療というスタッフ集団からなり、カンファレンスという症例検討や治療方針検討が議論されますので、一人の医師が決めるわけではありません。薬剤師やリハビリ師などの職種についての理解も不十分です。なかでも「説明不足」、「思いを聞いてくれない」、「不誠実な態度」などが医師に対する不満の原因です。中でも家族に対する説明や扱いが問題となります。医療ではいつでも「情報の非対称」と言われ続けています。抗がん剤へのイメージでは、医者は効くといってもそれはガンが治るのではなくがんの増殖を30%ほど抑制することなのです。患者と医師のイメージはかくも異なります。希望をもって抗がん剤治療に臨んだ患者が、散々たる結果になって失望から絶望に変わります。セカンドオピニオンにしても最近は違和感がなく、同じ病院内にセカンドオピニオン室があって有償で受け付けている時代です。アメリカの民間医療保険会社が保険費支払い条件として、二人以上の医師が必要性を認めないと保険を支払わないというルールを決めて以来のことです。日本ではそれが医師の疲弊につながっています。最近医師はパソコンに向かって話すとよく言われます。検査結果は画像と専門医のコメントが映し出されるので、患者も画面にくぎ付けになりますが、高齢者にはその注意力・気力がありませんから「ゆっくり話してくれないと分からない」という不満につながります。医師は患者が理解できたかどうかに意を用いた説明を心がけてほしい。1990年に日本医師会生命倫理懇談会が「インフォームド・コンセント」を「説明と同意」として普及に努めてきたが、25年たった今でも医師の説明が分からないという患者がいることです。「インフォームド・コンセント」とは、どんな患者も知りたいと望めば説明を受ける権利があるという考えが原点です。「情報の非対称」のままでは意思の疎通ができません。医師は長時間説明したといっても患者が理解できなかったことは「聞いていない」ことと同じです。情報の共有に至る「インフォームド・コンセント」の在り方が問われます。最近相談が多いのが「医療費」、「差額ベット料」の件です。医療費については「レセプト診療報酬明細書」を見ること、差額ベット料については入院案内の契約を吟味することです。 

2章) 患者や家族が体験したことーCOMLに届いた相談

COMLが受けた電話相談の中から12例を取り上げ今の医療の状況が分かるように掲示した。(関西系のテレビの人気番組「行列のできる法律相談所」に近い問答形式で記述されています)
@ 老々介護のかかわりが難しい娘の立場: 父は89歳で要介護4で、ほぼ寝たきり、82歳の母も要支援で精神的に不安定なので、独身の娘(54歳)が定職に就かず全面的に両親の支援を続けている。訪問医と点滴にときは看護婦がつく態勢でしたが、あるとき父の意識がはっきりしなくなったので母が訪問医に連絡すると、救急車で運ばれ集中治療室に入った。その後父は持ち直し、救急病院の医師は退院を通告してきた。ケアマネ―ジャーは母の状態では在宅介護は無理で、何かと対立する母子を見て娘を介護者とみなしていません。今後の方針が立つまで入院を継続させてもらっているが、面会のたびに退院を迫られるので居心地の悪い思いをしているという相談であった。COMLは、ケアマネは娘さんが両親と同居してるなら家族とみなすだろうが、しかし別々に暮らしていては介護の当事者とは見なさないと判断し、ケアマネ、母、娘の3者で娘の役割を明確にするための話し合いを提案した。
A 生きがいのある仕事に復帰でない: 農業の夫56歳は地域農業の推進役を担って頑張っている矢先、腦ドックを受け脳動脈瘤が見つかりました。難しい位置にが小さいので最初経過観察だったが、3か月検診で大きくなって危険なので手術を受けました。合併症はある程度覚悟していたのだが、左手左足にマヒが生じました。脳梗塞が生じたようです。リハビリを続けていますが医師は仕事に完全復帰するのは無理だといわれました。医師は脳梗塞が起きた原因は分からないと言いました。手術による過誤があるなら補償してもらえないかという相談です。COMLは、腦動脈瘤の手術で脳梗塞が起きる原因の説明をしてもらうことを提案しました。さらに協力医の意見を求めるなら弁護士に相談し証拠に基づいて検証することになります。証拠保全は裁判所が行います。しかしそれが医療の過誤やミスによるかどうかの判断は難しく検証の結果次第となります。
B あまりにずさんな管理状況: 私56歳は出血があったので総合病院の婦人科を受診し、検査の結果「子宮体ガン」と診断され手術を受けることになった。手術日は2月2日か2月9日 の予定となり、1月15日術前検査で外来に行き採血室に行くと採血できないと言われました。医師に確認したところ手術日が2月24日に変更になったので術前検査は1か月以内と決められているで今日は採血できないということでした。そこで後日再度医師と看護師と話をすることになり、1週間後外来で手術部と連絡を取ると手術は16日と23日両方に予定が入っているというので再度びっくりしたが、16日手術に同意して13日に入院しました。余りのずさんさを執刀医である部長に抗議したら、部長は「いやなら他の病院でどうぞ、気分が不安定なら精神科へ」と平然と言われて傷ついたそうです。COMLは、手術が無事終了し、具体的な問題が残っているわけではないの事を確認しました。釈然としない気持ちの持って行く場がなくなっての相談です。当事者の気持ちを受け止め、共感して、傾聴するだけでした。病院の意見箱や相談室を利用して病院としての改善を申し出てはどうかとお答えしました。
C 8時間足らずの入院で2日分の請求?: 私29歳は同僚との飲み会で突然意識を失い、病院に搬送されました。23時すぎに病院に到着し急性アルコール中毒治療の点滴をされた。意識が戻ったのは夜中のことで個室ベットにいました。いつでも退院できる看護師が言うので夜の明けるのを待ち午前7時に病院を出ました。医療費用は後で清算するので1万円おいて出ました。後日支払いに行きますと2日間の差額ベット台と治療費合わせて3万円だと言われてびっくりしました。8時間ほど病院に居ただけなのに2日分とはどういうわけか、個室ベッド代も払わなくてはいけないのかという相談です。COMLは、意識がない状態で個室ベットの同意書にサイン出来るわけはないので、契約は成立しませんので支払う必要はないということです。医療機関の場合は午前零時起算の請求になるので、午前零時をまたがって入院しているので2日分の請求は妥当ですが、差額ベットの契約をしていないのだったら支払う必要はないのです。しかし救急車に同乗した同僚が同意したかどうかまず確認する必要があります。
D 患者が選べないかかりつけ薬剤師って?: 複数の慢性疾患がある64歳の女性です。院外処方でいつもの薬局に行くので気の合うある薬剤師となじみなっています。ある日違う薬剤師が「かかりつけ薬剤師」になることを同意してほしいと言いますが、私は親切ななじみの薬剤師を「かかりつけ薬剤師」に選びたいのですが、彼女にはその資格がないという。気まずい思いをしました。COMLは、2016年の調剤報酬改定で「かかりつけ薬剤師指導料」に点数が付くようになったと説明し、求められても同意するかどうかは患者の自由意志ですと回答した。厚生省では2025年までに「かかりつけ薬局」の普及を目指し、薬学的知見に基づく指導をすることに点数が付いたのです。飲みやすい薬の選択などの相談に乗ってもらえます。薬剤師には4つの基本的役割があります。@薬学的知見に基づく指導、A薬剤服用履歴の管理、B問題が起きた場合医師や医療機関への問い合わせ、C残薬整理です。かかりつけ薬剤師になるには、薬剤師在籍期間、勤務時間、一定の研修、患者からの同意書が必要、24時間相談体制の確保など厳しい条件が付されます。
E 入院継続なら差額ベット料を払えなんて: 87歳の父が肺炎で救急搬送され気管切開による人工呼吸器が装着されました。3週間して容態が安定したので人工呼吸器は外されましたが、誤嚥性肺炎となり再び人工呼吸器がつけられ、胃ろうとなりました。しばらくして意識もはっきりし病状が安定したので、看護婦長から回復室から個室病室に移ってほしいと言われ、人工呼吸器をつけたのは治療の必要性からであり有料の個室は請求対象ではないというと、其れならほかの病院へ行ってくれ、人工呼吸器をつけた患者を受け入れてくれる病院は少ないとも言われた。年金生活で差額ベット料を払う金はない、大部屋はないのかというと、人工呼吸器の音がするので他の患者さんの苦情が出るから駄目だと言います。COMLは、差額ベット料の請求には「同意書の提出がない場合」と「治療状の必要」の場合は請求できないと説明し、治療上の必要とは手術の必要や緊急入院でその病室でないと治療ができない場合とか、免疫力低下で大部屋では感染しやすくなる場合、心身とも苦しい状態となる終末期の状態の場合です。逆に差額ベッドの支払いが生じる場合とは、他に空き部屋がない、患者自身が感染症で同室の患者に感染させる危険がある場合、認知やいびきなど同室の患者に迷惑を与える場合です。この場合人工呼吸器の音が同室の患者の迷惑となるのというのですから、同意書を提出すれば支払いの対象です。交渉しか解決方法はありませんが、このケースではやむなく差額支払いに同意し、同時に地域医療連携室の医療ソーシャルワーカーの尽力で療養病床のある病院での受け入れが実現しました。
F 抜歯中に顎を傷つけたのに処置しない: 歯科医院で虫歯の抜歯処置を受けた。親知らずは根が深いので専門の歯科医師が処置をしたのだが、抜歯の際にドライバーのような器具が上あごに当たり傷がついたようでした。傷への治療はしていないようです。COMLは、組織としてこの歯科医院と話し合いを行うことを勧めた。傷を確認してもらって誠実な対応を求めるべきだと答えた。
G しわ取りの美容医療でいびつな顔に: 58歳の女性が目の下のしわが気になるので、インターネットで調べるとしわに成長因子を入れると治療法が書かれていました。美容クリニックに行き、この方法の説明を受けたところ「稀に膨らみが残ることがある」と言いましたが、自分には関係ないだろうとこの治療を受けた。その結果目の下に膨らみが出来ました。病院はこれを改善することは当院ではできないといわれました。別の美容クリニックでは膨らみを取ることは可能だというので、脂肪が取れたが膨らみは取れなかったので、顔はますますいびつになってしまった。何度も話し合いをしたのですが、「これ以上の話し合いは拒否します。訴訟を起こしたら」と居直る始末であった。弁護士に相談すると、治療費に60万円かかっています、弁護費用もかかり取れる費用もないかもしれないのでお断りしますという返事であった。COMLは、美容整形を安易に受ける人が多い、健康保険は効かないので高額な治療費を請求されるケースが多い。交渉を拒否されているので直接交渉は成り立ちません。第三者に入ってもらうには簡易裁判所に調停を起こす方法があります。示談が成立すれば判決と同程度の効力があります、たとえ不成立でも民事訴訟を起こすことはできます。第三者機関による裁判外紛争解決ADRの医療ADRを利用できます。まず「法テラス」で確認することです。
H 肛門は残ったが便が出続ける状態に: 68歳の男性、検診で便の血液反応が+だったので、内視鏡で大腸検査を受けたところ直腸がんのステージTと診断された。がんはかなり肛門に近かったので人工肛門の話も出たのですが、肛門を残す術式で手術が行われた。セカンドオピニオンを東京の病院で受けると、肛門の括約筋の内筋の一部を切除して肛門を残すことができるといわれたのが手術は2か月先になるので心配した男性は地元の病院で手術を受けた。ところが肛門の内筋を凡て切除され、肛門が閉まらず便の垂れ流し状態になった。病院側は肛門を残す手術を希望したのは患者であり、便が流れるのは仕方がないと取り合ってくれません。COMLは、医師にはこの術法の長所短所を熟知し両方を説明していたらこんな哀れな選択はしなかったと思われる。患者が間違った選択を情報不足から選択する場合もある、その場合医師はその選択に疑問を投げかけるべきであると返答し、セカンドオピニオンの病院をも含んでこの状況を解決するにはどういう治療法があるか医師に相談するよう勧めた。
I 残ったガラス片が移動して筋肉や神経を傷つけ: 45歳の美容店の女性が自宅でつまずき窓ガラスに手を突っ込んでガラスで左腕のひじ(肘)を切った。形成外科病院で10針縫合する処置を受けた。その後もかなり痛むので医者に言うと痛がりだと言って取り合わなかった。余りに痛いので他の病院で見てもらうとレントゲンで5mm×1mmのガラス片が残っていることが分かった。直ぐ手術して除去したが、その後も痛みしびれ震えがある。そのため美容店を閉じ仕事を失ったことは残念でならない。COMLは、最初の形成外科の再検査でガラス破片を発見し早い段階で取り出せた可能性は高いと判断し、相談者は全く法的解決は考えていないというので、まずは何を求めたいのか冷静に整理していただくことをお願いした。
J 急性大動脈乖離だと思い込みの治療をされ死亡した父: 83歳の父が38度の熱を出し、三連休であったのでかかりつけ医に見てもらえず、休日診療クリニックで見てもらった。レントゲンでは肺炎ではないので薬を処方して戴いた。父には胸に不快感があるときニトログリセリン舌下錠を呑んでいたが、その薬が切れたていたのでそのことを話すと医師はCTを撮った。その結果は問題ないということでニトロも処方して帰りました。翌日後熱もなくなり元気になっていたのですが、クリニックから電話があり「昨日のCTで気になるところがある」という呼び出しがあったので、母が父と一緒に病院に行くと、循環器の専門医に見てもらった方がいいと言われ救急車で搬送された。搬送先の病院でそのまま入院となり、診療や検査もしないままの鎮静剤を注射され父の意識はなくなった。父は入院から10日目に亡くなりました。搬送記録では「急性大動脈解離で意識低下、高熱のため」と書かれていました。どのような医師の紹介があったのかは分からないが、患者の意識があるのも関わらず診断もせずにいきなり鎮静剤で眠らせてしまい、「急性大動脈解離」患者に仕立てられたようです。循環器病院に抗議したところ、部長が出てきて謝罪しましたが、詳細は何も話しません。死因は誤嚥性肺炎でした。COMLは、カルテ以外の情報開示を求め、非を認めているなら院内調査を要求すべきですと答えた。さらに家族の気持ちに添う方法を一緒に検討しました。
K 過失がないから医療事故調査・支援センターに届けない?: 腎不全で入院していた夫69歳はある治療以降急速に衰弱しました。医師は検査数値は問題ないと言いましたが、亡くなる半日前に「助からない」と宣告しました。COMLと相談しながら病院の副院長ら4人と話し合いを持ち、副院長は「予期せぬ死亡に間違いはないが、医療過誤の有無は明確でないから医療事故調査・支援センターへの報告はしない」という。COMLは、医療事故=医療過誤ではなく、医療過誤の有無に関わらず届け出をすることになっている。法律に則った報告をしてほしいと要求すべきだと勧めました。そこで依頼者は医療事故調査・支援センターから病院に報告を出すよう促すよう要請したところ、センターは文書で病院に連絡された。病院は法解釈の誤りを認め、センターへ報告をおこない院内調査も実施することになったということです。

3章) 患者が医療を受ける時ー新 医者にかかる10箇条

COMLは「賢い患者になろう」をモットーに自立した高い意識を持った患者を目指してきました。「賢い患者」の定義を次の5つにまとめています。@病気は自分の持ち物出るという自覚をする。A医療者から説明を受けて、自分がどのような治療を受けたいかを考える。Bどのような医療を受けたいかを言語化して伝える。C医療者とコミニュケーションを取りながら協働する。変化に動転しない事。D一人で悩まない事 です。COMLでは1998年より「新 医者にかかる10箇条」という小冊子(21万部発行)を出して普及に努めてきたと言います。次に「新 医者にかかる10箇条」を掲示します。
@ 伝えたいことはメモして準備する: 伝えたいこと、聞きたいことを凡て書き出し、中から絞って3つ4つを箇条書きする。長期化する病気ではノートを作って自身のメモとする。
A 対話の始まりは挨拶から: まず挨拶をして目を合わせる関係を築く。
B より良い関係づくりはあなたにも責任が: コミニュケーションは双方向です。感情的にならず笑顔で別れるいい関係を。
C 自覚症状と病歴はあなたの伝える大切な情報: 症状の変化を感じたら必ず医師に伝えましょう。
D これからの見通しを聞きましょう: 治療の大まかな見通しを聞いて患者自身が予定すること努力することを考えよう。
E その後の変化も伝える努力を: 悪くなった、良くなったことは医師に伝えましょう。
F 大事なことはメモを取って確認: 専門用語、画像の見方などわからなければ質問しメモを取りましょう。
G 納得できないときは何度も質問を: 理解できていないのに曖昧な返事をすると医師も不安です。「もう一度説明していただけますか」は失礼ではない。
H 医療にも不確実な事や限界がある: 治療の成果や予後を確実に知る事は医師でも難しいことです。完全に病気以前に回復することは無いかもしれません。自分の病気は医療の力でどの程度回復できるかという態度で医師に質問してください。
I 治療方法を決めるのはあなたです: 最善の治療法はただ一つではありません。治療法の長所、短所を聞き、年齢と生活の質を鑑みて医師と相談しながら決めましょう。一人で悩まないことも重要です。他の人の経験を聞くことも判断材料となります。子どもも小学校生なら自分で自覚症状を言えます。COMLは2014年11月子供向け「いのちとからだの10か条」という小冊子を発行しました。

4章) 患者が医学教育に関わるー模擬患者

この4章から6章までは、国(厚生労働省)、医療機構(病院)、患者団体(NPO、COLMもその一つ)の共同事業として、COMLに委員会へ参加要請があった活動記録です。4章は初期研修医(医師試験を合格して2年)の医療面接セミナーでの、COMLが要請している模擬患者とのやり取りを紹介しています。模擬患者にも2種類あります。一つはコミニュケーショントレーニング用(シュミレーション)の模擬患者、もう一つはOSCEと呼ばれる客観的臨床能力試験の医療面接用(スタンダード)の模擬患者で、どちらもSPといいます。前者は研修医の相手役でトレーニングが主目的です。実態にあった設定を行い、年齢、性別、名前、生活背景、病状を詳しく設定します。アドリブの面談中に困った部分、説明が理解できなかった部分に焦点を当てて反省しフィードバックを行います。初期研修の医師や学生はこのフィードバックの印象を今でも鮮明に覚えているそうです。米国では1970年代にシステム化したといわれています。COMLでは1993年より実施してきた。1992年辻本好子が米国取材に出かけたとき感激を受け、奈良県立医大の医師と取り組みを始めたそうです。模擬患者を用いた医療面接を国家試験に導入する風潮が拍車をかけた。評価のための模擬患者は「標準化された模擬患者」と言われマニュアル化され答える内容も決まっています。医学部と歯学部では2005年より共用試験が行われ、その一つにOSCEと呼ばれる客観的臨床能力試験(実技)があります。模擬患者は大学などで養成する場合もあり、COLMのような団体に所属する模擬患者もいます。模擬患者として活動する意義は、患者側から「医療者の養成に役立っている」、医療側から「患者さんの生の声が聴ける」などといわれています。ただし医療側と患者側の視点は異なります。医師側は見事に説明することに関心を持ちますが、患者側は一方的に進んだという不満を持ちます。日本では医師国家試験に導入するのは難しいとして見送られましたが、2015年厚生省国家試験検討部会は、臨床実習後のOSCEとして2020年に実技試験を行う方向を示しました。筆者山口氏はこの検討委員に加わり深くかかわっています。医療倫理の涵養という問題など、まだ難しい問題が残っています。

5章) 患者が病院を変えてゆくー病院探検隊

1995年「日本医療機能評価機構」が設立され、1997年より訪問審査による病院機能評価事業が開始された。病院の利用者である患者の立場の評価者が入っていないことに疑問を抱きCOLMで「病院探検隊」を結成したという。1994年諏訪中央病院より病院探検隊を受け入れてもらい、以来少しづつ他の病院からも実施を依頼され、2002年には16医療機関の依頼を受けた。2003年度からは交通費、宿泊料、派遣料を有料化した。2017年度末までに全国86医療機関で「病院探検隊」を実施しました。中には保険薬局、介護老人保健施設、特別養護老人ホームも含まれます。COLMスタッフ・ボランティア約10名で出向き、午前中は医療機関の主導による「案内見学」、COLMが見たい場所の「自由見学」、病院の依頼による模擬「受診」(受付から支払いまで)からなります。病院食の昼食を実費を支払って食べ、午後より2時間かけて病院幹部とディカッションとフィードバックを行います。後日レポートを纏め1か月以内にCOLM総合フィードバック報告書を送付する仕組みです。チェックポイントはある程度マニュアル化され詳細は省きますが、@外回り・受付、A外来(トイレを含む)、診察室、検査室、採血室、リハビリ室など)、薬局、廊下・階段。B病棟 ナースステーション、病室、浴室、トイレ、臭い、ディルーム談話室、公衆電話、ベット周り、洗濯室、ゴミ箱、説明用別室 C患者が利用する場所 売店、医療相談室、カルテ管理室、投書箱、病院食、図書コーナー、待合室、医療スタッフの言葉使い・ホスピタリティ、苦情相談室等も見て回ります。2015年慶應義塾大学病院や2016年千葉大学附属病院が「臨床研究中核病院」に名乗りを上げたが厚生労働省より病院のガバナンス(患者目線欠如)を指摘され、そこでCOLMの病院探検隊を実施し病院改革を行って認可を得たそうです。この病院探検隊は、ある意味で当時流行していたISO8001品質管理、ISO14001環境管理の認証機構と規を一にしているようです。患者目線で病院機能を評価する仕組みです。

6章) 患者が参加するー医療を支える市民養成講座

COLMの故辻本理事長が厚生労働省をはじめとする審議会や検討会の委員に就任することが多くなった2005年ごろから、患者・利用者の立場で発言する委員に必要性が増え、そのための人材養成が急務となった。しかし当時は「医療不信」がピークに達していたころで、医療理解はとても受け入れられる状況ではなかった。しかし2008年には下火になったので養成の企画が始まった。「医療で活躍するボランティア養成講座」がそれです。当時は審議委員養成講座ではハードルが高すぎると思い、病院ボランティア、模擬患者、病院探検隊、電話相談も含めました。1回3時間、全5回のプログラムで具体的なボランティア活動に入った修了者もいます。2011年に辻本氏が他界して山口氏が理事長に就任すると非常な多忙な毎日となり、年間150回の講演会に加え数多くの委員会活動がメインとなった。2015年「大学附属病院等の医療安全確保に関するタスクフォース」の顧問となって、22の特定機能病院の集中立ち入り検査に同行し、そこから「大学附属病院等のガバナンスに関する検討会」となりました。2017年度より特定機能病院に設置が求められた医療安全監査委員会では8病院で委員を務めいる。監査委員に外部から委員を入れるという条項によります。2015年の「人を対象とする医学系研究に関する倫理指針」倫理審査委員に一般市民の参加が成立条件となった。2018年施行の臨床研究法では認定臨床研究審査委員会にも外部委員が必要です。2015年から始まった地域医療構想、独立行政法人病院は外部評価委員が必要です。委員会に出席したら、やはり一度は発言しなければなりません。いつどのタイミングでどんな内容を話すかで、下手をすると2度と発言できなくなることもあります。つまり患者・利用者を代表して意見を述べる一般委員の役割を理解し、冷静・客観的な意見を述べる訓練が必要です。そこで2017年度よりアドバンスコースとして「医療関係会議の一般委員養成講座」を始めたそうです。「医療で活躍するボランティア養成講座」も改称して「医療を支える市民養成講座」という基礎コースに位置付けた。1年に3回講座を開催し、2017年度は350名が参加した。アドバンスコースは1回3時間全7回の開催です。各種委員会(厚生労働省・文科省)の役割と種類を知り、議事録を読む会、ディベートセミナー、模擬検討会を開催します。模擬検討会には受講生だけでなく大学教授・医師会理事、研修センター理事らが参加し、事務局は厚労省の技官です。模擬検討会での合格者は「COML委員バンク」に登録する資格が与えられます。

7章) 患者を支え抜くー辻本好子のキーパーソンとして

COMLの活動の初期には患者と医療、もしくは国(厚労省)との対立軸がないなどの批判があったが、21世紀に入るとCOML活動の趣旨を理解する人が増え、「対立していないから被害者の視点がなくても活動できる」とか「患者の視点から医療現場を変えたいので手伝ってほしい」という医療機関からの支援要請が増えてきたという。2002年4月NPO法人(特定認定非営利活動法人)になったことで活動が大きな転機を迎えた。1995年の阪神淡路大震災の後1998年NPO法が施行されたことによります。ボランティア団体や市民グループに法人格を与えることにより活動の継続性や信用性をもたらし活動の推進力になった。しかし役所に毎年事業報告書提出の手間が増えるだけだという意見もあったが、この書類作成は筆者の分担だっただけに当初は気が重かったと言います。銀行口座も個人名であったので、法人名に書き換える必要があった。この組織上の大転換期に創始者辻本好子氏の身に試練が待っていた。1月に「乳がん」と診断され、4月8日に診断が確定し手術日が決まった。さらにCOMLの初代理事長だった井上平三氏が4月13日に亡くなった。大腸がんの肺転移となり手術したものの進行は止められず不帰の人となった57歳であった。COMLのNOP法人化に後押しをしてくれた人であったので、COMLの法人化が暗礁に乗り上げたとの感が隠せなかった。辻本好子氏の手術は乳房温存法であったが、生検によって腋下リンパ節への転移が見つかりリンパ節の郭清も行われた。手術後の放射線治療は変更され抗がん剤治療を受けることになった。辻本氏は強い意志を持ち関係者との良い関係を築く才能を持つ人であった。強い側面と病気になってマイナスの面も現れ、人間らしい感情の揺れを筆者山口氏にぶつけながら最後の最後まで生きる希望を抱いていました。同じがん患者だとしても二人の性格はこうも違う者かと実感するとともに、辻本氏を支え抜く決意を固めたそうです。辻本氏は離婚されていましたが二人の息子さんがいましたが他県に居られるので、山口氏がキーパーソン(患者関係者の中で意思決定や問題解決に大きく関与する人間)として、二人で医師との話し合いに臨み、辻本氏の身の周りのお世話もしたという。抗がん剤治療の前はかなり神経質になっておられたが、すべてを受け止めて支えることが山口氏の決意でした。2002年6月初回の抗がん剤治療を受けて帰宅した翌日のことでした。山口氏が抗がん剤治療を受けた1992年頃では投与後1週間はベットの上で嘔吐を繰り返す酷な治療でしたが、21世紀に入ると強力な「制吐剤」ができたおかげで外来で点滴の投与が終ったあとは帰宅できるようになった。「時代は変わった、夢のようだ」と山口氏は思ったという。しかし辻本氏は翌日名古屋大学薬学部の講義に行くといって、朝早く大阪から新幹線に乗ったそうです。サポート役の山口氏があさ電話を入れると呂律の回らない返事があったのでおかしいと思ったら、夜明け頃まで寝られず睡眠導入剤を飲んだということでした。出張取り止めを要求したのですが本人が行くというので認めたそうです。ところが新幹線でまた寝てしまい気が付いたら東京駅まできてそこから山口氏の携帯に電話があった。山口氏は辻本氏が大学に講義に出られない旨電話を入れ、東京駅へ辻本氏保護のために新幹線に乗った。東京駅の救護所で辻本氏を預かり、帰りの新幹線の中でようやく睡眠薬の効果は切れ、呂律は戻ったがその間のことは何も憶えていないらしい。抗がん剤を分解するため肝臓はフル回転で睡眠薬の分解まで手が回らず長時間薬の影響が持続したようだ。
乳がん治療後8年が経過した2010年5月、COML20周年記念パーティの直後、辻本氏は胃が痛いと不調を訴えた。胃カメラ検診ではかなり深い胃潰瘍で出血の恐れがあるとの連絡が医師より山口氏に入った。その数日後胃カメラで採取した細胞の生検結果より胃がんであると判明したという連絡があった。そしてがん細胞は「印環細胞がん」というスキルスガンよりさらに悪性度の高いがんだと判明した。辻本氏は検査結果を口で言うと曖昧になるので病理診断書報告書を添えて文章でメールするようにとの指示があり、それによって二人の医師の言葉の理解がかなり異なることが分かった。メールまたはファックスで淡々と本人に事実を突きつけることはつらいことですと山口氏はいう。1時間ばかりの手術前説明は、二人で一緒に聞いた。印環細胞がんという未分化がんは増殖速度が速く悪性度が高いのでリンパ節への転移は免れない。術前CT検査では明確な腹膜転移はなかったが、浮遊のがん細胞や結節状の転移はあるかもしれないという。息子さんらに説明するため、この術前説明を文章にまとめ辻本氏に渡すと、本人が受け止めている内容と多少食い違いがあることが分かった。手術後の執刀医の説明は「厳しいな」で始まりました。手術は胃の1/3は残して切除し、NIレベルのリンパ節も切除したが、CTでは見えなかった腹膜への転移、結節状の転移が直腸付近まで連続的に見られた。腸間膜の転移はすぐに影響が出るので切除し、それ以外はそのままにしてある。腸閉塞や直腸近くの腹膜転移は大腸の閉塞となり人工肛門を考えなければということであった。腹水が溜る心配もある。胃の幽門部付近のリンパ節転移が胃に流入するガンもあった。印環細胞がんの一部がスキルス化している疑いもある。腹膜転移があった段階でステージはW(末期)であった。医師(部長)は余命1年と伝えた。手術の翌日朝早く医師(部長)は山口氏同席の上で、辻本に術後の話に入った。辻本は医師にいきなり余命の話を切り出した。うろたえた医師はお茶を濁して出て行った後、辻本氏は山口氏に改めて余命のことを問いただした。出来るだけ正確に口頭で伝えたが、辻本氏は文章にしてほしいと要求する。それはCOML歴20年の山口氏にとって人生を変えた大先輩の病状の事実を正確に伝えることは,生涯で最もつらい文章作成であったといいます。辻本氏には手術中から痛み止めの「硬膜外カテーテル」がしてあり術後5日目に針を抜くと、患部の痛みが出るので午前2時ごろナースセンターから鎮痛剤の頓服を希望したそうです。持ってきた看護婦に辻本氏は「このつらい気持ちを聞いてほしい、10分でいいから時間がほしい」といって、山口氏が作成した説明分を読んでもらった。看護婦は「こんな大事なものを読ませていただいたのに、私にはして差し上げることが何もない」と涙ながらに謝るのであった。辻本氏は「あなたに何かしてほしいわけではない、あなただから聞いてほしいの」と思いのたけを全部吐き出したそうです。何故その看護婦なのかを考えると、心のこもった看護をする人だったから、患者は伝えたい医療者を選択しているのだ。辻本が手術を終えて退院したのは同年の夏である。自宅療養に入ってから辻本氏の気持ちに激しい動揺が生じ始めました。あまりに激しい感情の発言に山口氏も苦しみました。COMLを継承発展させるには山口氏しかいない、自分はまだまだやりたいことがいっぱあるのに、その葛藤に引き裂かれているのでした。「あれだけ人に嫌な面を出さない辻本があそこまでマイナス感情をぶつけてきたのは、とことん私のことを信頼していたからだ」と思えるようになったのは、辻本氏の死後2年たってからのことです。
2010年11月に入って腹膜に転移していたがんが猛烈に増殖し始めました。一部の転移巣が尿管を圧迫し水腎症となった。26cmのステントという金属管を尿管に入れた。腹膜転移していることを実感した辻本はどこで死ぬかを模索したが、山口氏が看護婦長に相談すると外科病棟で最後まで面倒を見るとの返事をもらった。緩和ケア病棟へ移ることもできたが新しい人間関係を作るエネルギーがもうないことを悟った辻本氏は外科病棟に残った。辻本氏は死後迄治療を希望し、抗がん剤治療を続行することを選択しました。腹水との戦いでもありました。「あの患者は死を受容している」ことにホッとする医療者もいます。辻本氏は私は頑張ると主張しました。2011年3月腹水を抜くために入院し、倦怠感や嘔吐は治まらず、仕事への復帰は諦めた。最後まで自分らしく生きるための模索を始めました。自宅で過ごせるよう総勢12名で病院と在宅医療、介護サービスの合同会議が行われました。その時3月の検診で山口氏の身体にも異変が起きていました。なんと20年前に取り残した右卵巣に原発卵巣がんが発見され、エコーで見つかった白い影からMRI検査となりPET-CTでもがんであると確認されたのです。6月に手術の予定がが入りました。ところが5月連休明けに自宅に戻った辻本氏は、自宅で食事をし、夜中に嘔吐してトイレで倒れてしまった。山口氏が翌朝電話をしても出ないので自宅に駆け付けたところ7時間も放置状態であったので、病院へ担ぎこんだのですが、誤飲性肺炎を起こし数日後には昏睡状態となりました。山口氏は迷った挙句、辻本氏が助からないならCOMLを発展させるために自分が元気になって復帰する必要があるとして6月の手術を行うために入院した。山口氏の手術は卵巣がんがS字結腸と癒着していたので、丁寧にガンを剥がして、薄くなったS字結腸をタック状にして縫合する処置がなされた。卵巣がんは低悪性であったので抗がん剤治療は行わないということで治療は手術だけで済んだ。手術の2日後の朝7時ごろ、山口氏がベットでぼやーとしていると、辻本氏が呼ぶ声が聞こえたので、「もう頑張らなくていいですよ」と答えた。ふと正気に返り辻本氏に付き添っている次男に電話を掛けると、「どうしてわかったのですか、本当にたったいま息を引き取りました。医師の死亡確認を待っています」という返事が返ってきた。「辻本氏が渾身の力を振る絞って私に別れを告げてくれたのだといまでも信じています」と山口氏は締めくくっている。2010年7月4日付の辻本好子の「事前指示書」が残されている。延命治療の拒否やプライベートな指示は省くが、最後にこう締めくくった「これまで出会ったすべての人に心から感謝します。とっても幸せな人生でした。本当にありがとうございました」(享年63歳)



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