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軽部謙介著 「官僚たちのアベノミクスー異形の経済政策はいかに作られたか 
岩波新書(2018年2月20日)

安倍内閣のアベノミクスはどのように政策として形成されたか、官僚たちの流儀

岩波書店「図書」3月号の巻末にある「著者からのメッセージ」に、軽部謙介氏は読者からの意見を紹介している。つまり著者の立ち位置が不明で、本書がアベノミクス賛歌なのか、アベノミクス批判なのかわからないという意見が多かったそうである。その意見に対して軽部氏はジャーナリストとして、あくまでファクト(事実)だけを書いたと主張されている。私が思うに「事実」とは、ある思想傾向にそってある立場に都合のいいことだけを集めたに過ぎない。絶対の「事実」はあり得ない。政局べったりのジャーナリストには政局だけが世界であり、市民感覚はなくなり、市民の思う「事実」とは合致しない場合が多い。そして「事実」と「事実」の間を、当事者の意思や心境を独白のセリフで述べるという(つまり事実でないことを空想で補っている)ことで、文筆の腕としてストーリを面白くしていることは否めない。本書もそういう意味で決してファクトだけで成り立っているのではない。経済政策に関する国家意思を決定する政官財の世界なかんずく官僚の物語というべき書である。主役は官僚であって、残念ながら市民というもう一つの経済のステーキホルダーの動きは全く見えてこない。本書は今から6年前の2012年12月前後の政界の出来事を書いている。著者は「異形」というとんがった経済背策を売り物として再登場した第2次安倍政権を支える官僚群の政策提言を是と思って書いているのだろうか。しかも2018年の現在、安倍政権は「森友・加計学園スキャンダル」で落日の状況である。このようなときに本書を出版する意図は何だろうか。アベノミクスも財務省文書改竄も政権の意を受けた同じ官僚のやったことである。日本の政官の癒着ぶりは後進国を決して笑っていられない腐敗ぶりである。「森友・加計学園スキャンダル」を知らないで本書をサラッと読んだだけでは、本書は間違いなく安倍政権の翼賛会的な書であり政権賛歌で埋められている。著者 軽部謙介氏について、プロフィールを振り返っておこう。1955年東京生まれ、1979年早稲田大学卒業、時事通信入社、ワシントン特派員、同支局長、ニューヨーク総局長をへて、編集局次長、解説委員を務めている。主な著書には、「検証 バブル失政――エリートたちはなぜ誤ったのか」、「ドキュメント ゼロ金利 ー日銀vs政府 なぜ対立するのかー」など岩波書店からドキュメンタリーものを著した。本書を各動機について著者軽部氏は、この書はアベノミクスへの評価を真正面から議論するのではない、2013年から日本経済政策の基底をなし様々な意味で記録に残るであろうこの政策が、いつ、どこで、誰によって形成されていったのかの原点を記録するためであった。対象とする期間は2012年11月から2013年7月の9か月というアベノミクスが始動する前後に限っている。無論安倍晋三氏は経済学者ではないし、経済機関関係に従事したこともない。しかし彼が首相であった限り、政策決定プロセスは必ず存在するという観点で当時を検証するのである。ザルの目のように粗い選挙公約とか政治家の主張は、官僚機構の作用を経て実際の政策として落とし込まれる。これは国家意思の出現である。現代日本の議院内閣制度というチェック&バランスの効きにくい政治体制下で、為政者の考えが国家意思になる過程を考察することである。権力の抑制機能を官僚機構が果たしているかどうかも問題である。首相が官僚の幹部人事権を持っている現在では官僚機構が内閣に異を唱えることは難しい。さらに政府と日銀(中央銀行)の関係もきわめて機微に属する。「中央銀行の独立性」は法で謳われているが、権力者の意向にどう抵抗するか、その結果どうなったかも本書の検証対象である。 私はアベノミクスの経済学批判書として、アベノミクスの1年半を検証した服部茂幸著 「アベノミクスの終焉」岩波新書(2014年8月)を読んだ。また安倍内閣の右傾化政治批判書として柿崎明二著 「検証 安倍イズム」岩波新書(2015年10月)を読んだ。本書は経済政策としてのアベノミクスについて述べているので、参考までにアベノミクス批判書である服部茂幸著 「アベノミクスの終焉」のまとめを下に記す。
服部茂幸著 「アベノミクスの終焉」岩波新書
政府と日銀によって「アベノミクスによって日本経済は回復しつつある」という「物語り」は真実なのだろうか。2013年4月から始まった日銀の「異次元金融緩和」の大合唱からすでに1年半が経とうとしている。アベノミクスという「神話」はすでにあちこちでほころび、つまずきが明らかになっている。それを回復基調の中の一時的な些細なことといって片づけていいのだろうか、そうではなくアベノミクスの本質が暴露されたというべきなのだろうか。経済と政治は科学ではない、価値観に基づいた政策なので、やり直しもできないし、もしやらなかったらどうなっていたかという検証も厳密にはできない。そこで思わしくないことが起きても、様々な言い逃れや弁解が可能である。結局経済政策と権力は一致していなければ、犬の遠吠えに過ぎないとよく言われる。経済学者は政治権力者と一体化していなければ、政策の実行と成果の享受は不可能である。そこで経済学者は権力奪取を図れという過激な言説も出てくる。経済を富と定義するなら、金の力で政治権力を意のままに動かすことは容易であり、アメリカでは金融資本が国策を決めているといわれる。アメリカの経済学者キンドルバーガーは、経済のブームが「詐欺需要」を作り出し、詐欺需要が詐欺供給を生み出すと論じている。「供給は自らの需要を生み出すというセイの法則よりも、需要は自らの供給を決定するというケインズの法則にしたがうと我々は信じている。ブームの時、詐欺師たちは欲張りで目のくらんだ人々を丸裸にしようと虎視眈々と狙っている」という。需要があってこそ供給手段が講じられるという健全な経済活動から、金融資本の貨幣供給能力から需要が惹起されるという逆立ちした論理に埋没して、1997年と2008年の金融恐慌が発生した。権力者とそれを取りまく経済界と主流派経済学者はあの忌まわしい記憶を忘れさせよう努め、何度でもブームを再来させることで儲けようとするスクラップ&ビルド破壊戦略である。バブルと金融恐慌がセットになった過ちは何度でも繰り返される。それは貨幣の量で価値を評価するからである。キンドルバーガーは、経済のブームが「詐欺需要」を作り出し、詐欺需要が「詐欺供給」を生み出すと論じているが、長期的な経済停滞もまた詐欺需要を作り出す。ブームの時の詐欺需要は金融の分野で拡大するが、長期停滞の詐欺需要は政治の分野で拡大するのである。2012年11月まだ首相になっていなかった安倍氏は日本のデフレを解決するために日銀による無制限の金融緩和を訴えた。安倍氏が政権に就いたのは21012年12月末のことで、日本のリフレ派を代表し日銀攻撃の先頭に在っていた黒田東彦氏と岩田規久男氏が日銀総裁、日銀副総裁の就任したのが2013年3月のことで、「異次元金融緩和」は2013年4月より始まった。岩田氏と並んでリフレ派の経済学者浜田宏一氏が指南したといわれるアベノミクスは3本の矢からなるといわれた。@異次元金融緩和(日銀マネタリズム、ニューケインジアンの金融政策)、A公共事業拡大による内需拡大(政府債務拡大、土建ケインズ主義)、B成長戦略(民間企業、新自由主義経済)のことである。3本の矢には軽重があり、第1に無制限金融緩和、脇役が土建公共事業、そしてまだ形も見えない成長戦略の順である。2012年11月、安倍氏が無制限金融緩和を訴えてから急に株価上昇と円安が進行した。円安で儲けたのは自動車を中心とする輸出産業、大きな損出をだしたのは石油を中心とする輸入貿易で、外貨準備金の減少と貿易収支赤字をだしそれは物価上昇となった。つまり消費者が大きな痛手をこうむったのである。株価も円安も金融緩和が始まってしばらくすると停止した。政府支出と、2014年4月の消費税増税前の駆け込み需要である民間住宅投資、耐久財消費財を除けば13年後半の経済成長はゼロかむしろマイナス成長であった。円安と輸入コスト増、インフレ気分と物価値上げ、消費税増税と企業減税の付けを消費者に回す政策はかならず消費者の疲弊となり経済の縮小という代償を払わなければならない。

第1部) 2012年11月―2012年12月 政権移行

1-1) 解散
2012年11月14日、民主党の野田首相は国会党首討論会に臨んで、消費税引き上げで党内が分裂した民主党内閣は窮地に追い込まれ解散総選挙の時期をめぐって決意を迫られた。野田首相は特例国債法案が国会を通過する展望が開け、尖閣諸島国有化に端を発した中国の反日運動が沈静化したのを契機に、16日解散を表明した。直ちに内閣府事務次官の松本崇は「引継ぎに抜かりないように」と指示したという。世間では野田内閣は来年春の予算案国会通過をもって辞職するとみていたが、意外な幕開けとなった。11月16日解散、12月16日投票という日程が決まった。官僚機構は自民党が大勝するだろうという予測をもとに、準備を加速させた。時に目立った活動を開始したのは、経産省の製造産業局長だった菅原郁郎氏らの幹部であった。産業の空洞化が進み、輸出は毎年21兆円宇上の減少(2007-2011年)で、民主党内閣に分配政策はあっても成長戦略は無いとみた幹部らは経産省の無力感を味わったという。幹部らは9月に安倍が自民党総裁になった時点から自民党本部に足繁く通うようになった。安倍が総裁選挙の公約に掲げた「デフレ脱却と成長力の底上げ」の具体化が急がれた。10月24日には「日本経済再生本部」が党内に設置され、政調会長の甘利明が本部長代理、茂木利充が事務局長に任命された。経済官僚らはこの再生本部に参集して政策を提言した。この組織は2001年小泉純一郎政権で生まれた「経済財政諮問会議」に似ていた。諮問会議が実質的には財務省のコントロール下にあると見た経産官僚たちは諮問会議よりは政策提言の場である再生本部が使いやすいと考えた。財務省の特徴は省をあげての情報の共通化であり、経産省の特徴は個人プレーにあった。再生会議の方が機敏で動きやすいと考えたのは当然であった。経産省の菅原らは金融、財政、競争政策という三分野で打ち上げることであった。のちに「三本の矢」という安倍のネーミングで打ち出された政策バッテリーである。「安部は財務省嫌い」だと見た財務省の幹部たちは10月2日に安倍にブリーフィングを行った。基礎的財政収支の黒字化の道筋、特例国債法案の複数年度化などであった。11月12日に特例国債法案修正案(5年間の発行を認める)が解散直前に国会を通過した。さすが情報通の財務省のことだと妙に感心されたという。
1-2) 政策ブレインの形成
アベノミクスの形成プロセスを見ると、特に安倍政権に強い影響力を持った人々は、世に「リフレ派」と称する金融緩和政策を主張する人々であった。彼らがどのようにして政権中枢に入り政策を実現したかの検証が重要である。安倍は解散が決まった次の日11月15日、都内の講演会で「インフレターゲット」導入を打ち上げた。その目標達成のため無制限に緩和してゆくものであった。白川日銀総裁は「国債などの資産買い上げ基金は91兆円」と決めていたが、これを上限を決めず無制限とするという。この安倍の話に金融市場は強く反応した。一気に円安、株高が進んだ。マイナス金利をはじめ、無制限の金融緩和策は本田悦郎静岡大学教授(大蔵省銀行局出身)のアドバイスであった。マイナス金利の副作用はあえて伏せたうえで安倍は無制限の金融緩和に言及した。本田がリフレ政策にのめり込んでゆくのは2000年以降のことである。リフレ派の権化と言われる本田は、「デフレは貨幣的現象」と確信し、2011年6月には安倍にデフレ脱却策をアドバイスするようになった。金融緩和→円安→株高→企業利益増加→賃金増加→物価上昇という連鎖反応を説明すると安倍は異常な興味を示したという。日銀は速水総裁、福井総裁のときに金融緩和を止めている。日銀に対する不満は本田も安倍も同じで、インフレターゲットを国際標準である2%に設定し、そこに到達するまで金融緩和策を続けるという案を本田は安倍に何回も説いていた。もう一人のリフレ派の重鎮は浜田宏一エール大学教授で、安部が副官房長官であった2001年に出会い意見を交わして以来の付き合いである。安倍の経済学理論の理解は浜田氏を師とし、安倍自民党が圧勝したとき内閣官房参与としてご意見番についた。安倍は「デフレ、円高を阻止するには、大胆な金融緩和が必要で、日銀法の改正も視野に入れた政策展望が必要だ」と語った。安倍の経済政策に影響を与えた人物には、本田や浜田の他に、高橋洋一氏(財務省出身)がいた。小泉政権では内閣参事官で竹中平蔵大臣の補佐官であった。高橋氏は「米国では雇用は労働省で扱うのではなく、中央銀行であるFRBが責任を持つ。中央銀行の独立性は目標設定にあるのではなく手段御独立性である。」という意見の持ち主であった。金融政策を重視すべきだという論者が安倍のまわりに集まってきた。その中で財界から中原伸之氏(元日銀審議委員)がいた。「金融政策はマネタリーベースと名目GDPの関係を重視する」意見を持っていた。政治の世界で安倍を反日銀の頭に据えたのは、自民党の山本幸三氏である。東日本大震災後の2011年5月「増税に寄らない復興財源を求める会」の会長に就任し、復興財源を20兆円規模での日銀の国債引き受けを主張した。この会にはリフレ派の理論的指導者と言われる学習院大学の岩田規久男氏や浜田らが講師に招かれて金融政策の重要性や日銀法の改正を議論した。政界で強まる中央銀行批判と日銀法改正の圧力は日銀幹部を追い詰めた。自民党圧勝後は白川総裁、山口副総裁、門間金融担当理事、内田企画局長らは一層厳しい局面に追い詰められた。
1-3) 選挙公約の作成
アベノミクスと呼ばれる経済政策は2012年12月の総選挙で自民党が示した公約の中に謳われている。しかもそれは日銀の金融政策を前面に押し出した異例のものであった。それは伝統的な自民党の発想法では考えられない、安部とその周辺の意向を強く反映した斬新な公約であった。自民党は11月16日の解散当日、日本再生本部が中間とりまとめを発表した。「縮小均衡の分配政策から成長による富の創出への転換」という基本方針に則った政策が打ち出された。@成長目標は名目3%以上を目指す、A成長モデルは産業投資国と貿易立国、B日本経済再生本部に産業競争力会議を設置し、成長産業育成に目標をもって進める、C金融政策はデフレ・円高脱却を最優先で取り組む。政府日銀の連携強化の仕組みを作り大胆な金融緩和を行うというものであった。この段階では甘利氏ら自民党有力政治家はまず物価上昇率は1%を実現し、つぎに2%を目指すという2段階論であったが、安倍らは圧倒的な金を流通させデフレマインドからインフレマインドに心理を切り替えることが目標で最初から2%目標を設定するという主張だったが、統一見解には達していなかった。11月16日衆議院解散が決まった時から、選挙運動が始まった。選挙公約は政調会が作成する。政調副会長の宮沢洋一は選挙後の準備を任された。11月21日自民党の公約が発表された。日本経済再生本部のまとめをそのまま公約にしたようなものであった。公約の中で財務省は、外資ファンドは円を売ってドルを買う行為で外国から非難されるのは目に見えているから絶対できないと考え、日銀法改正についても否定的であった。白川日銀総裁は、目指すべき物価上昇率をあらかじめセットするインフレターゲットの導入に消極的であった。財務省には白川日銀総裁に不信感を持つ者もいた。安倍と米倉経団連会長の関係もいいとは言えなかった。金融緩和について経団連はもともと過度の期待は持っていなかった。安倍を支える財界人としては、歴代の経団連会長が加わった「晋福会」、キッコーマン名誉会長の茂木氏、日銀理事の中原伸之氏らの「晋如会」などが安倍のお友達であった。投票前日の12月15日宮沢政調副会長は財務省幹部とあった。財務省は自民党圧勝を前提として「予算編成方針」の明示を求め、甘利政調会長に強く迫った。12月16日選挙結果は自民党が3年3か月ぶりに政権を挽回した。後に官房副長官に就任する加藤自民党総裁特別補佐(もと大蔵官僚)が政権準備の中心となって、政権の中枢を担った。
1-4) 政権移行の実相
アベノミクスを掲げた第2次安倍内閣の政策作りは急ピッチで進められた。首相の意思をスムーズに貫徹させるプロセスの確立(体制)が求められた。組閣は12月26日となり、初閣議で首相が何を言うか自民党の了解を取る根回しも必要だ。政調副会長の宮沢は財務省と協議し閣議の議題の文章化を進め、甘利会長の承認を取った。経産省は早い時期から、麻生氏が副総裁兼財務大臣、菅氏が官房長官という情報を得た。安倍、麻生、菅という権力中枢構想は11月半ばには明確になっていた。内閣官房の幹部たちは管にTPP参加問題をはじめ政治マターを説明した。各省庁をまたがる問題を整理するのは内閣官房の仕事である。「政治家の主張する仕組みを矛盾なく作り動かすのは役人の仕事」と内閣官房の官僚はいう。内郭官房副長官だった杉田和博(警察出身)が総括し、経済担当の副長官補の佐々木豊成(経産省出身)が中心となって60-70人規模となる日本経済再生本部総合事務局に人事に取り掛かった。次官級の人事は財務省から飯塚厚(総合調整役)、経産省から赤石浩(産業競争力会議担当)、内閣府から田和宏(経済財政諮問会議担当)の3人が入った。経済再生本部は12月26日の閣議で設置が決まることになっていたので、内閣官房の幹部5人が23日に集まり、その役割と所掌を確認した。こうして閣議決定の文案が出来上がったが、再生本部は必要な経済対策と成長戦略の二つを主要任務とし、経済財政諮問会議と並列で安倍政権の経済政策の司令塔を担うという文面になった。飯塚厚、赤石浩、田和宏の次官級3人は再生本部の組織図から職場の机の配置図まで決定した。選挙後、経団連をはじめとする様々な利益者団体は自民党に一斉に陳情に出かけた。12月28日安倍次期首相は「日銀との政策協定と物価上昇率2%目標設定ができるなら、日銀法改正は不要だ」とインタビューで発言した。独立性を謳う日銀への圧力を公言したことになったが、誰も問題とする者はいなかった。1997年に全面的に改正された新日銀法第3条では「日銀の通貨及び金融の調節における自主性は尊重されなければならない」、同第4条では「それが政府の経済政策の基本方針と整合的なものになるよう、常に政府と連絡を密にし、十分に意思疎通を図らなければならない」と書かれている。どちらかに重点を置いた発言は政権との距離を決めるのである。12月18日、日銀の白川総裁は自民党本部に安倍を訪ねた。この両者の調整役に入ったのは財務省であった。12年10月に民主党政府と日銀は「消費者物価上昇率は1%を目指しゼロ金利政策と金融資産の買い入れなど金融緩和措置を推進する」という文書を交わしていた。財務省は第4条「政府と日銀の連携強化」を重視する姿勢で、新政府がいう2%の物価上昇率目標は飲まざるを得ないのではないかと考えていた。問題は、@物価インフレターゲット2%、A説明責任、B目標の達成時期、C雇用の安定、Dアコード、E政府の取り組みについて、財務省と日銀は政府と取り交わす文章の最終段階に入った。ただインフレターゲット2%が「国際標準」かどうかである。ニュージランド、カナダ、スウェーデンなどの中央銀行は2%物価目標を採用している。だからそれが国際標準といえるかどうかは疑問が多い。説明責任とはインフレターゲットが達成できない場合、日銀の責任だとして総括しなければならない。達成時期は「2年で2%を達成しろ」と言われても誰も保証できない、これは財務省も同意見である。雇用の安定についても、日銀の責任あるいは経済政策全体に責任をとレうことは日銀にはできないということである。つぎに文書の名前をアコードと呼ぶことは、中央銀行の独立性強化のためにFRBが政府と結んだ協定書のことで、財務省は「共同声明」という合意文書がふさわしいと考えた。12月20日の日銀決定会合では追加金融緩和策を発表し、物価目標については来年1月の決定会合で結論を出すと発表した。日銀は白川総裁、山口副総裁、理事の門間、内田の4人で財務省との折衝を続けた。かれらは4人とも日銀プロパーである。12月25日組閣前日の日に、安倍は「金融政策によって円高を是正するのは当然のことだ」と発言した。これは表向きは「通貨の引き下げ競争はしない」という国際ルール違反となる。この問題はアベノミクスの本質に直結する重大問題であった。金融緩和策によってデフレ脱却をすると日銀に迫りながら、その実はドル買い円安誘導の狙いであったとすれば、2枚舌も甚だしい裏切り行為である。安倍は調子に乗って絶対言ってはいけないことを喋ったのである。

第2部) 2012年12月ー2013年1月 アベノミクスの誕生

2-1) スタートダッシュ
12月26日第2次安倍内閣の顔ぶれが決まった。予想通り首相安倍晋三、副総理兼財務大臣麻生太郎、官房長官菅義偉、経済再生担当相甘利明、経産大臣茂木敏充らであった。記者会見では安倍は、「内閣の総力を挙げて、大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略、この3本の矢で経済政策を進めてまいりますと、」始めて「三本の矢」が公言された。閣議において「日本経済再生本部を全閣僚メンバーとして立ち上げる」と言った。マクロ経済運営全般については経済財政諮問会議で検討し、成長戦略の実現については日本経済再生本部に産業競争力会議を置いて検討する」と言って全閣僚に発破をかけた。閣議を終えた安倍は内閣官房参与への辞令交付を行った。官邸と各省の調整役として財務省元事務次官の丹呉泰健、飯島勲、金融政策の助言者本田悦郎、土建公共工事による積極財政論を説く京大教授の藤井総、エール大学のリフレ派教授浜田らを内閣参与とした。本田悦郎の役割は経済問題の対応方針の相談役と、経済理論学者浜田の考え方を政治的に言い直して安倍に伝える役割であったという。安倍内閣の発足後二日目12月27日に臨時閣議が開催され、大型補正予算と本予算の編成方針を決めることであった。補正予算は通常新たな国債発行を伴わないものだが、安倍首相は「公債発行も含めて必要な財源を確保する」というものであった。金融政策に加えて大規模な規制緩和、長期資金に対する政策金融の強化を行う。ばらまき補正予算はそもそもそも自民党政権にとって御家芸であった。内閣官房幹部は経済再生担当相甘利明と会って、再生本部に必要な官僚の人材の名前を挙げて要請してほしいという内容の議論をした。そして正月返上で内閣府と再生本部の事務局は1月11日の経済対策発表に向けて作業を加速した。1月3日内閣府で緊急経済対策のとりまとめをしていた制作統括官石井裕晶のところに、財務省金融庁の総括審議官森信親がやってきて「年金積立金管理運用独立行政法人」GPIPの問題をアジェンダに入れるべきだと要請した。GPIPは2012年12月末時点で焼く112兆円の資金を持っていた。それを低金利の国債だけで運用していていいのかという問題提起であった。資金を効率的に運用して経済を活性化する観点から内閣府は受け止めた。再生本部の赤石局長(経産出身)がこの問題の担当となった。内閣官房参与の丹呉泰健や飯島勲は小泉首相時代から経済財政諮問会議の面倒を見てきたが、この諮問会議は民主党政権時代は機能せず、諮問会議の再活性化を熟慮してきた。内閣府としても諮問会議、競争力会議、規制緩和会議、総合科学技術会議などを総合的に動かす仕組みについて、内閣官房参与の丹呉泰健がヘッドとなって検討会議を開催していたという。
2-2) デフレ脱却は誰の責任か
政府と日銀の間でデフレ脱却の責任論争となった、安倍内閣官房参与の金融政策相談役本田は「とにかく日銀の責任を明確にすべきだ。白川日銀は社会経済構造が変わらないと物価は上がらないといっているが、責任の所在を明確にした合意文書にすべきだ」と安倍を焚きつけた。2012年末に日銀は「物価上昇率2%は飲むとして、2年などという期限は絶対に約束しない」という態度を決めた。一方安倍は1%という数値は絶対に書かせない、1%→2%の段階論ではなく目標はあくまで2%を掲げるを主張して譲らなかった。白川日銀は日銀法に書かれた日銀の使命すなわち「日本銀行は、物価の安定を通じて国民経済の健全な発展に資することを理念として金融政策を運営するとともに、金融システムの安全確保を図る責務を負う」を楯にして粘りを見せ、2年の期限を明記することには強い拒否反応を示した。日銀は財務省に「2%目標は受け入れるが、期限2年は受け入れられない」と伝えて、内閣府との折衝を財務省に任せた。内閣府事務次官の松本氏はリフレ派に近いとみられていた。内閣府は共同声明案の「幅広い主体の取り組み」という言葉が「政府の取り組み」責任論に転化することを恐れ、目標を達成できない場合その理由を書面で表明するよう日銀に求めたが、貨幣を大量に発行して解決するリフレ派と、デフレは経済構造を含めた総合的な問題の結果であり金融政策だけでは解決しないという日銀との意見の差は埋まらなかった。内閣官房参与の本田氏は共同声明案を「アコード」とっ呼ぶことを主張したが、中央銀行との「共同声明」はカナダやオーストラリアにも例があったので財務省は「共同声明」を主張した。安倍は「日銀は成長戦略が必要だとして政府にも責任を負わせるつもりらしいが、日銀に2%達成について全面的に責任を負わせ、目標達成期限を明示させて、逃げられないようにさせる」といったという。このころ米国は進む円安に非公式に懸念を評した。国際金融では意図的に自国通貨を安くすると輸出に有利になるので、自国経済を立て直したいとき通貨安が大きな武器になる。東日本大震災後の円高に対して2011年3月18日に7000億ドルの円売り介入が行われ、8月には4兆5000億円の介入が行われた。10月にはさらに9兆900億円の円売り介入がなされた。しかし安倍第2次政権が誕生し、円は86円台の安値となった。2013年1月8日ユーロ圏の「欧州安定機構ESM」の債権を購入する際、米国から円安の懸念が寄せられた。1月8日財務大臣の麻生氏と財務省事務次官の真砂靖氏は日銀との合意点を説明するため官邸と協議した。概ね安倍の了解を取り付けた。内閣府では1月15日に「金融有識者会議」を予定しており、リフレ派の多い委員の反発が予測されるので内閣府は財務省見解の差し戻しを要求した。麻生以下財務省ではこれ以上日銀を攻めると白川氏は辞任するだろうし、国家統治が混乱する様を晒すことはできないとして、日銀合意案で再度安倍の説得にかかった。1月11日G7の財務相代理(G7D)による電話会議が開かれた。財務省から中尾氏、日銀から中曾宏しが会議に参加した。日本側は金融緩和に意図的な為替介入はないと弁明に努めたが、米国は為替水準は市場の決定に委ねるべきだという主張の平行線となった。
2-3) アベノミクスの誕生
金融緩和政策において日銀との摩擦は国家の体面が優先され、首相の意思と日銀の主張に齟齬があっても出来ないことはできないとして、官僚機構が政権中枢の意見を抑えたという結末となった。1月11日に緊急経済対策がまとまった。記者会見で安倍は「縮小均衡の再配分から成長による富の創出下と大胆に転換を図り、強い経済を取り戻すためには、大胆な金融政策、機動的な財政政策、そして民間投資を喚起する成長戦略という3本の矢を同時展開してゆくべきであります」とアベノミクスの基本方針を示した。同じ11日再生本部を取り仕切る甘利と財務大臣麻生は妥協点を求めて会合を持った。文章表現を詰めなおして14日再度検討することになった。11日の会合を経て財務省と内閣府の折衝が再開された。文章表現をめぐって応酬があり平行線のままであった。2%が達成できなかった場合その理由を書面で報告することに内閣府はこだわったが、財務省は日銀が承知するわけはない。13日の夜甘利は主張を取り下げ「これ以上日銀を追い詰めると元も子もなくなる」と判断した。麻生は「厳しくやると白川総裁は辞任するぞ」と甘利を脅かしたからである。日銀総裁が大蔵大臣と意見を異にして止めさせられた例はなかった。実は白川総裁の任期は13年4月、山口と西村副総裁は3月と決まっていたので、この折衝に成り行きでは3人が同時に辞任する可能性もあった。3月14日麻生大臣、甘利再生担当相と白川総裁が会談した。合意文書「政府・日銀共同声明」は出来上がっていた。翌15日麻生と甘利は安倍に14日の会談を説明した。安倍からは「有難う」の言葉もなく、「失敗したら政府の責任と言われないか」とひとり愚痴っていたという。あとには15日の「金融有識者会議」と、22日の「日銀政策決定会合」が待っていた。「金融有識者会議」のメンバーは、中原伸之(元日銀審議委員)、伊藤元重(東大教授 経済財政審議会議委員)、岩田規久男(学習院大学教授)、高田創(みずほ総研)、竹森俊平(慶応義塾大学)、浜田宏一(エール大学名誉教授 内閣官房参与)、本田悦郎(静岡県立大学教授 内閣官房参与)であった。安倍、麻生、甘利、菅ら閣僚が列席して、加藤官房副長官の司会で始まった。日銀の金融政策を議題とする公式な会議に日銀関係者はいなかった。リフレ派が占める会議だけに日銀批判意見が火を噴いたようであった。「金融政策だけでデフレ脱却は可能だ」と本田は吠えた。とはいうものの市場に与える影響から、発言内容はオフレコとされ、対外発表要領が配られた。有識者会議と同じ15日臨時閣議が開かれ13兆円を超える2012年度補正予算案が決定された。1月21日日銀金融政策決定会議が開催された。この時の審議委員は、石田浩二(元三井住友ファイナンス)、白井さゆり(元慶応大学教授)、佐藤健裕(元モルガン・スタンレー証券)、木内登英(元野村証券)、宮尾龍蔵(元神戸大学教授)、森本宜久(元東電副社長)の6人であった。甘利大臣が政府を代表して同席した。日銀幹部は財務省との合意文書(共同声明案)を示して審議委員の同意を促した。議論は物価目標2%は妥当ではないと佐藤と木内が抵抗した。最後の発言した甘利は「デフレ脱却の強い意志と明確な約束を示す文章である。経済財政諮問会議を検証の場とする」と言い切った。無担保コールレートの調整方針は満場一致で決定され、日銀押さん買い入れの基金については「期限を定めない資産買い入れ方式の導入」(無期限金融緩和)で一致した。日銀の物価目標と、政府との共同声明の採決に入ったが、二人の委員は反対(佐藤と木内)した。物価目標の実現の不確実性の高さと、実現に失敗したときの金融政策の信認を毀損する恐れから反対という意見であった。結局共同声明案は可決された。日銀政策決定会合の後、財務省の中尾はG7各国に書類を送って、日本は円安への意図的な誘導を行っているのではないかという懸念を払しょくするためである。1月下旬にかけて円安がさらに加速した。内閣府参与の浜田氏は1ドル=100円くらいは問題ないとして、内閣府も了解していた。

第3部) 2013年2月ー21013年7月 日銀の異次元金融緩和

3-1) 米国は理解した
日本側は米国にさらに説明をつづけた。2013年2月4日外務省佐々江賢一郎米大使、財務省派遣の土井公使らが同行してワシントンの米連邦準備制度理事会(FRB)バーナンキ議長を訪問した。佐々江大使の赴任挨拶もあったが、安倍内閣発足後の微妙な米国の反応をうかがう意味合いもあった。佐々江氏が最近の日本の経済政策をどう思うかと質問すると、バーナンキ議長は「非常に強力な政策だと考えている」と答えた。バーナンキ議長もプリンストン大学の著名な教授であったし、リフレ派を主張する学者であった。中央銀行が貨幣を徹底的に供給すればデフレは解消するという理論はマネタリアンであるミルトン・フリードマンが提唱したものである。バーナンキからするとアベノミクスの金融緩和策は正しい政策に決まっていた。佐々江がアベノミクスの三本の矢を説明し、土井公使が「GDP2%程度の補正予算で短期的景気刺激策を講じる一方、中長期的には財政健全化を実現すべく、2015年までにプライマリーバランス赤字を半減し、2020年までに黒字化する目標である。消費税は2014年に8%、翌年に10%引き上げる」と補足した。(2018年現在、財政健全化策は全く実施されておらず、さらに悪化しつつある)ところが2000年以来ワシントンから日本の話題は消え去って、ワシントンの関心は勃興する中国に移っていたのである。2010年以降日本の経済政策は誰も関心を持たず、白川日銀総裁を知る人もいなかった。ところが安倍政権がリフレ政策を打ち出し、株や為替が動き始めると、日本で何が起きたのかと話題になったという。米国では、第1次安倍政権で「国粋主義」だと不評であったが、第2次安倍政権で「アベノミクス成長戦略」は評価されたという。白川日銀総裁は任期は4月8日までであるが、副総裁2人の任期が3月19日に切れるので、新たに政府によって任命される副総裁との齟齬を避けるため、その前に辞任する意思を固め、2月5日麻生、安倍にあって辞意を伝えた。進む日本の円安に足して各国の懸念が集まり、G7で声明を出そうという動きが強まった。2月8日G7Dの電話会議が行われた。日本政府の考え方は、金融政策はデフレ脱却、安定的な成長を目指すものであり、円安が結果的に生じたとしても、政策目標はあくまで国内均衡である。為替レベルを意図したものではないという態度である。G7Dの電話会議は2時間かかったが、「各国の財政金融政策は国内の手段を用いて国内目的を達成することに向けられる。我々は為替レートを目標にはしないことを再確認する」という文言となった。G7声明は2月12日となったが、米国財務次官のラエル・ブレイナードは記者会見で「成長を取り戻しデフレからの脱却を目指す日本の努力を米国は支持する」といった。
3-2) 異次元へ
政策が実行されるときは必ず官僚機構チウフィルターを通過する、彼らは省益をかけて政策の加えたり引いたりするのは日常のことである。アベノミクス第3の矢である規制緩和を中心とした成長戦略の主戦場となったのは、2006年に誕生した年金積立金運用管理独立行政法人GPIFをテーマとした厚生労働省包囲作戦であった。2013年1月このGPIFの持つ厚生年金運用資金の活用を巡って、金融庁と内閣官房、そして厚労省の激しい駆け引きである。金融庁の森信親総括審議官は米国の資産運用術を見て、内閣府に経済対策にこの問題を加えてほしいと要請した。内閣官房の日本経済再生本部総合事務局もこの問題に注目した。その中心人物は経産省出身の赤石で、佐々木豊成副長官(財務省出身)の下で成長戦略を練ることが任務であった。その中で公的資金の活用に注目していた。100兆円を超える資金が国債だけで運用される規制に問題を見出した。しかしGPIFの親組織は厚労省であり、金融庁は所管外だといわんばかりの排外意識を持っていた。自分の管轄、しかも莫大な金の管理権を侵されたくなかった。再生本部の飯塚厚(財務省出身)も加わり、赤石らは金融庁と協議した。内閣官房には力を裂くほど人がいないので、金融庁が人材提供を引き受けてくれるなら、厚労省と折衝するというつもりであった。そこで産業競争力会議を舞台とする駆け引きが始まった。厚労省年金局は年金積立金を資金運用部で運用していた。つまり財投金利であった。これまで国内外の債権・株でポートフォリアを組んだ運用である。2012年12月では約60%が国債運用比率であった。2013年1月11日の緊急経済対策会議で、公的資金の高度な運用・リスク管理の構築を目指して検討することになって、GPIF問題は次第に具体性を帯びてきた。1月23日の産業競争力会議が開かれ、麻生は「眠っている公的年金・共済などの運用を見直す」と宣言した。6月にまとまる予定の「日本再興戦略」にこの問題をどこまで練り上げるか課題となった。これに対する否定的な見方も金融界では存在する。もしデフレ脱却ができたなら国債価格は下落しGPIFは含み損が生じる。また円安によって株価が上昇したが、株を買っていたのは海外投資家である。GOIFは外資が売ろうとした日本株を買い支える役割を負わされる。アベノミクスの虚構を支えるために公的年金が材料にされるという意見も多い。そもそも年金の運用は「加入者の利益」にならないといけないし、他の目的に使われるのは御法度である。はかどらないせめぎあいを打開するため、4月に金融庁の総合企画室長だった油布志行に「内閣官房日本経済再生総合事務局参事官」の意辞令が出た。つまり金融庁と内閣官房が一体化してことにあたるという人事上の奇策であった。5月14日最後の山場を迎えた。日本経済再生本部総合事務局次長の飯塚厚と厚労省年金局の香取との会談が行われた。香取は最終的に「有識者会議」の設置に同意し、問題は内閣官房の手に移った。こうしてGPIFの運用は改変され、国が株を買う資金を提供することが可能となった。民間の機関投資家がやるべき仕事を国がやることは、意識的な株操作に介入することになる。
2013年3月大蔵省財務官からアジア開発銀行総裁ADBを務めていた黒田東彦氏が、第31代日銀総裁に就任した。本書の著者は黒田氏に日銀総裁就任について、いきさつや背景については何も知らなかったようだ。本書の経過では黒田氏のことは全く登場せず、最後になっていきなりポンと黒田氏就任が出て来るのだから、驚く。黒田氏は大蔵省現役時代、主税局、国際金融局、国際経済背策を統括する財務官を務めた後ADB総裁になった。リフレ派の一人で、デフレはマネーの現象という主張の持ち主であった。副総裁にはリフレ派の教祖で学習院大学教授岩田規久男氏、日銀理事であった中曾宏氏が選ばれた。そして金融政策の実務を取り仕切る理事には、日銀企画畑の雨宮正佳氏、国際担当理事は門間氏となった。黒田氏は「市場の期待に働き書けることが不可欠、2%の物価安定目標は国債標準、目的達成は2年がいい」というリフレ派の主張を国会答弁で述べた。黒田と岩田氏は物価目標である2%の達成時期は2年という具体的な年限に触れたが、中曾氏は年限には触れなかった。3月18日、日銀の新体制がスタートした。事務局では金融政策のモデルをシュミレーションする作業が実施された。金融政策は「オペレーション」という金融市場操作で、何を目標として作業を進めるかを「誘導目標」という。白川日銀総裁時代の最後の誘導目標は「無担保コールレート(一夜もの)」という極めて短期の市場金利であった。黒田新体制では誘導目標をマネタリーベースに変更した。マネタリーベースが年間60-70兆円というベースで増加するよう金融市場調節を行うことになった。マネタリーベースとは支柱に出回っている貨幣と各銀行が日銀に持っている当座預金残高の合計のことを言う。経済理論においてもマネタリーベースが基本であった。この操作で市場にが大きな衝撃が走るであろう。「心理を変える」、「期待に働きかける」が日銀の新たなキーワードとなった。日銀審議委員の木内登英氏は「2%に根拠はない、2%が国際基準というわけではない」と割り切っていた。4月4日金融政策決定会合において、誘導目標をマネタリーベースで60-70兆円の増加目標は決定された。期限は「2年を念頭に置いて、出来るだけ早期に達成する」という妥協的表現となった。木内審議委員は「2%の物価安定目標を2年程度の期間に達成することは大きな不確実性があり、金融面での不均衡形成につながりかねないので、2年を集中対応期間とする」案を提案したが否決された。また審議員の何人かは「サプライズ効果」を口にして賛成した。今回の異次元金融緩和策の決定に市場は敏感に反応した。長期金利が0.425%に上がり、株価も上昇した。円安傾向は輸出産業の差益利潤を上げ、株価は上がったと官房長官の菅氏は自信を示した。しかし現実は物価上昇は2%に達することなく、実質賃金は上がらず、格差も解消しない。こうした無制限金融緩和政策にともなう矛盾が徐々に表れて来るのは、すぐ後のことである。



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