180220

熊野純彦著 「マルクス 資本論の哲学」 
岩波新書(2018年1月19日)

この世界の枠組みを規定している資本制の最も確かな分析、マルクス[資本論」から汲み取ること

思考と文化の次元を含めた最深層の変容を、仮に革命という名で呼ぶとすれば、グローバル化した現代社会の中で革命が起きても何ら不思議なことはありません。そう人は見果てぬ夢を見続けるものなのです。資本制から社会主義という短絡線ではなく、どのような形になるのかは言明できません。マルクスの主著「資本論」が読まれなくなって久しくなりますが、「資本論」は現在までのところやはり、今なおこの世界の枠組みを規定している資本制をめぐり、すくなくともその基本的ななりたちに関して最も優れた分析を提供し、その世界の深部から歴史的理解させてくれる古典的な遺産の一つです。本書は著者熊野氏が哲学系ですので、マルクスの原理的な思考の深度と強度に注目する本です。もちろんマルクスが抱いていた視点「資本制が押しつぶして行く小さな者たちへのおもいやり」も重要なテーマでもあります。本書は新書という制約上、資本論の哲学を志した以上、「資本論」全体を等分に展望するものではありません。眼目は経済学者が扱ってきた問題にあまねく目を通すことではありません。著者熊野純彦しのプロフィールを簡単にまとめておきましょう。熊野氏は1958年神奈川県生まれ、1981年東京大学文学部卒業、現在東京大学教授です。専攻は倫理学、哲学史だそうです。主な著書には、「レヴィナス入門」(ちくま新書)、「ヘーゲル」(筑摩書房)、「カント」(NHK出版)、「古代から中世へ」、「西洋哲学史 近代から現代へ」、「和辻哲郎」(以上岩波新書)、「マルクス 資本論の思考」(せりか書房)、「カント 美と倫理のはざまで」(講談社)です。専門分野の研究成果は別にして、戦後日本では「資本論」は主に3つの視角から研究されてきたという。一つは経済学原論、つまりマルクス経済学の経済原理論の立場です。二つは資本論体系の形成史的研究・思想史的研究・経済史的研究です。3つ目は哲学史的視点からのとらえ方です。戦後の岩波新書では以上の3つの視点からの書が多くあります。岩波新書という叢書からマルクス資本論研究の全容がわかりやすく解説されてきたと言えます。そこで岩波新書を中心とした書籍の紹介で「マルクス資本論」研究の成果を概観しておきましょう。
@マルクス経済学の経済原理論
宇野弘蔵著「資本論の経済学」<岩波新書1969): 経済原論としての日本におけるもっとも正統的な学派は宇野学派であろう。宇野経済学は経済原論、段階論、現状分析を区別する三段階論で知られる。資本論の経済学を純粋経済理論として整理しなおす試みが示されている。宇野氏は戦後東京大学の社会科学研究所で、マルクス経済学を学ぶ人々に深い影響を与えた。経済学部では鈴木鴻一郎氏が原論を講じた。柄谷行人氏も鈴木の講義を受けている。
柄谷行人著「世界共和国へー資本・ネーション・国家を超えて」(岩波新書2006): 現在我が国でもっとも創造的なマルクス読解者の一人である。柄谷氏の歴史観は交換形態から世界史構造をとらえるものである。流通過程論的視点は宇野学派の傾向です。
A資本論体系の形成史的研究
内田義彦著「資本論の世界」(岩波新書1966): 経済学史的な視点で、内田氏はスミス研究者として知られている。「経済学の誕生」や「経済学史講義」は名著だそうです。
大塚久雄著「社会科学の方法ーヴェーバーとマルクス」(岩波新書1966): ヴェーバー/マルクスという戦後の社会科学に特異的な論点を作った。マルクス理解には人間主義的景行があるが、資本論を「経済学、正確には経済学批判」という捉え方をしている。
佐藤金三郎著「マルクス遺稿物語」(岩波新書1989): 資本論草稿をめぐる状況を知るうえで名著です。エンゲルスの苦闘のさまも見ものです。一橋大学では近経の伝統がある中で佐藤金三郎氏はマル経として知られ、アムステルダム国際社会研究所でマルクス/エンゲルス移行調査に当たりました。
B哲学史的視点の研究
梅本克己著「唯物史観と現代 第2版」(岩波新書1974): フォイエルバッハ/マルクス関係の梅本の問題提起で考える点のおおい論考です。 
大川正彦著「マルクス いまコミュニズムを生きるとは?」(NHK出版2004): マルクス資本論が読まれなくなって久しい21世紀の始め政学者がマルクスのコミュニズムを問い返しています。コミューン主義を正面から捉え、現時点では最良のマルクス入門書のひとつです。
廣松渉著「新哲学入門」(岩波新書1988): 廣松氏はこの書で「存在と意味」について心血を注いでいます、未完に終わりました。「世界の共同主観的存在構造」が主著となります。
廣松渉著「資本論の哲学」(平凡社ライブラリー2010): この書で論じられているのは、「価値形態論」、「物神性論」、「交換過程論」に限られていますが、「物神性論」からするマルクス理解を代表します。熊野氏の著書「マルクス 資本論の思考」はやはり廣松氏の流れにあるといえます。

第1章) 価値形態論 形而上学とその批判

本論に入る前に、名著と言われる書物の書き出しに示される著者の魅力的な問いかけについて眺めてみましょう。カント「純粋理性批判」の冒頭には、「人間の理性は退けることのできない問いに悩まされる。問いは理性自身の本性によって理性に課せられているからだ。理性はその問いに答えることはできない。問いは人間の理性の有する能力の一切を超えているからである」と言います。その問いとは具体的には、神、自由、魂の不滅性に関わるもので、可能な経験を超えたものに関係する問いです。ヘーゲル「精神現象論」の「感覚的確信」の章の冒頭には、「感覚的確信は直接的には最も豊かな認識であるかのようにあらわれる。・・この確信はしかしながら、自身が最も抽象的で、最も貧しい心理に過ぎないことを示すことになる」と書いています。マルクス「資本論」の冒頭で、「資本的生産様式が支配している社会の富は一つの途方もない商品の集まりとして現れ、個々の商品はその富の原基形態として現象している。それゆえ私たちの探求は商品の分析から始めなければならない。商品はその属性において人間の欲求を満足させる事物である。事物がどのように、またどういう経路で人間の欲求を満たすのかは問題とはならない」と書いています。マルクスはまず自明と思われる商品の謎から説き起こそうとします。「資本論」の副題も「経済学批判」です。商品を分析してみると、それが極めて奇妙なものであって、形而上学的・神学的な趣を帯びているというのです。なんかぞくぞくするような思わせぶりな書き方ではないですか。「現象している」(あらわれる)というのも、何かの表れとするならば、現象とは別に本当の姿が存在することを予感させると考えなければなりません。しかしマルクスは現象の裏に存在する真の存在を考えているのではなく、やがて「現象形態」に戻ります。商品には価値がある、日常的に自明とされる事柄をめぐって「価値形態論」へ展開するのです。

1) 商品の二面性(使用価値、交換価値)
マルクスは「商品はさしあたり外的対象であって、その属性によって何らかの人間の欲求を満足させる事物である」と述べています。商品が商品である限り、その本質的な性質はとりあえず有用性にあります。事物はその「有用性」によって「使用価値」となります。商品というものはその人にとって未来の可能性にあればこそ商品に見えるので、使い古された自分の大工道具はもはや商品ではありません。いつもその可能性においてあるということは、運動しているということでしょう。アリストテレスは「運動しているものにとって可能性であり続けることだけが、その現実的なありかた」であるといいます。静止すれば運動は終了し、有用性を持ったただの食品であったり道具になったりします。従って商品は、商品となる運動としてだけであり、商品へとなってゆく過程にのみ存在するものです。このマルクスの考え方は、「資本論」の全体を貫く観点です。どうして商品は事物としてではなく運動として考えなければならないのだろうか。「事物の有用性は、その事物を使用価値にする。使用価値はひたすら素材に応じた使用または消費によってだけ現実化する。今考えている社会形態において使用価値はつまり交換価値の担い手にならなければ意味がない」と言います。ここで社会形態とは資本制が支配している社会形態の言いかえです。ここでは商品交換が全面化している社会のことです。従って考察すべきは商品交換という現象である。これがマルクスの考察の対象となる。使用価値が交換価値の担い手になるということは、商品が商品であることのカギであります。使用価値は生産者にとっての使用価値ではなく、「他者に対する使用価値」でなければならない。それは生産物であるだけでなく同時に商品となる。他者に対する使用価値を、すなわち社会的使用価値を生産しなければ、社会に有用な商品として出回らないということです。ある商品の交換価値の表現は、現在の貨幣経済では意味を持たないが、他の商品との交換比率としてあらわすこともできる。それは何か同じもの(貨幣)を表現しているのです。交換価値は単なる表現形式、「現象形態」に過ぎません。つまり商品は使用価値と交換価値の二面性を持っているのです。価値の実体は人間の労働が加わることで形成されます。 抽象的人間労働としての商品が価値となることを、マルクスは「価値とは幽霊のような対象性」なのだといいました。商品はまず鉄であったり小麦「であったり「自然形態」をもってこの世に生まれ、商品は商品である限り「価値の担い手」として「価値形態」の形をとります。次に価値形態という抽象的な議論になりますが、関係の中でしか形を表しません。

2) 価値形態論(第1形態ー第4形態)
商品は二重の形態を、すなわち「自然形態」と「価値形態」を持つがマルクスの出発点でした。商品には自然素材の有用性という面と、価値対象性は商品と商品の社会的関係性のうちのみ現象しうるという二面性がある。マルクスの価値形態論は最終的には「貨幣形態」に展開するのですが、マルクスはその過程を順を追って段階論で解説してゆきます。次に述べる第一形態から第4形態迄の展開はかならずしも歴史的展開ではありません。むしろその契機を逆にたどっていると考えられます。第一形態を「単純な、個別的な、偶然的な価値形態」と呼びます。x量の商品A=y量の商品Bという関係はマルクスによると一切の価値体系の秘密はこの単純価値形態の内に潜んでいると言います。この関係にはA→Bという方向性があり関係は逆転できない。逆方向だと交換が成り立たない場合もあるからです。これを互換性でない非対称性と呼びました。物々交換を言っているのであはありません。Aの価値は相対的に別の商品で表現するしかないのです。「商品の価値は他の一商品に対するそれ自身の関係によって表される」しか手がないのです。食物という商品の価値は、それ自身では表現しようがありません。といって鉄という使用価値とも較べようもありません。二つの自然素材を異にした商品の価値は本来較べようがないのです。(鉄は食べることができないからです) こうして価値関係を媒介として、商品Bの自然形態が商品Aの価値形態となるのです。すると価値存在の背後にはむしろ数的関係しかない、価値は内部素材に向かうのではなく外部の抽象関係(数)に変化する兆しが見えてきます。マルクスの第二形態とは「全体的な、あるいは展開された価値形態」のことで、商品Aのz量が、商品Bのu量、商品Cのv量、商品Dのw量、・・・と等価であることを言います。一つの商品は、第一形態では一つの特定の商品との関係のうちにのみ存在しました。第二形態ではその商品が、他の一切の商品との関係におかれます。他の商品はいずれも商品Aの価値鏡となっているのである。「かくしてこの商品の価値なるものとは、はじめて区別をなくした人間労働の凝固物として現象する」とマルクスは難しそうに言います。商品Aはただ一つの他の商品に対してではなく、商品世界に対して社会的関係に立っているということにつながります。他の商品との差異において存在し、その差異の関係を商品Aは無限に反復しているわけです。第二形態で見えて来るのは、無数の商品が(無限な差異が)一商品の価値を表現するということです。この無限の差異とどうしようもない偶然性が、次の第三形態の価値「一般的価値形態」の出現を予知します。その一般的価値形態の成立が、第二形態に内に含まれる偶然性と不確定性(統計的揺らぎ)を覆い隠してしまいます。だからこそ価値の一般性を獲得するのです。ある特定の商品Aは「一般的等価物」という性格を押し付けられるのです。この第三形態の一般的価値である商品Aを「1オンスの金」といってもいいのです。すると価値の第四形態「貨幣形態」が生まれます。実に巧妙な論理と回りくどさでマルクスは貨幣を導きました。商品交換は共同体の果てるところで、共同体が外部の共同体と接触するところ開始される。このような場所で貨幣は便利な交換価値なのです。物々交換表は不要で貨幣に換算して二つの共同体は交換比率を決めればいいのです。一般的な等価物は、例えばシベリアの狩猟民族にとっては毛皮です。文明国からやってきた人が毛皮を買うとき、彼らの欲しがる商品(ナイフ、銃、酒など)を毛皮で表現しなければなりません。これをマルクスは「逆転の論理」と呼びます。資本論では一般的等価物の形態を「金」が歴史的に勝ち取った経緯それ自体は歴史的偶然だという。第四形態(貨幣)と第三形態(一般的等価物の間には本質的な差はありません。)マルクスの価値形態説は、古典派経済学の労働価値説(投下労働価値説)を前提とするものでありません。古典派経済学が想定する労働一般が一つの形而上学に他ならないとマルクスは批判します。アダムスミスの生産物を生み出す労働時間を計算したうえで商品間の交換比率を決めるわけではなく、自分の生産物でどれだけの他の商品が買えるかにしか興味はありません。つまり交換において価値として等置することで、彼らの異なった労働を互いに人間労働として等置するのである。カントは「彼らはそれと知らずにそれを行う」、人間は知る前に行うことを強調しています。マルクスも「関係が現実に存在する場合、関係は私に対して存在する」と、意識の前に関係そのものがあるといいます。唯物史観とは「人間の意識がその存在を規定するのではない。逆にその社会的存在が意識を規定する」と解釈されています。ドイツ哲学はなんという回りくどい考察をするのでしょうか。資本論に多くの人がなじめないのは、この難解さ、持って回った言い回しに原因の一つがあります。

第2章) 貨幣と資本 均質空間と剰余の発生

1) 貨幣の神秘(物神性)と商品の流通
ヘーゲルは「歴史哲学講義」のなかで、アフリカの民族を観察して「木であれ石であれ木像であれ手当たり次第に聖霊とみなしてしまう」現象を「フェティッシュ」といいました。もしそうであるなら十字架という木の組み合わせを贖罪の象徴とするキリスト教の聖餐式もフェティッシュであることに変わりありません。マルクスは貨幣がその出自を商品社会に有し、貨幣はもともと一商品に過ぎないことを見抜きました。商品が価値であるということ自体にフェティッシズムの起源が見られます。商品という具体的なものと、価値という抽象的なものとの関係が神秘的なものとなります。貨幣がどうして使用されるのか(互換性がない紙幣になぜ価値があるのか)という問いに現代風に答えると、「未来の行為への有意味な関係」という、つまり他社も貨幣を受け取るだろうという期待が貨幣の使用を可能にしているといいます。機能主義的なアプローチで理解できます。貨幣とは象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアというのと同じ意味です。マルクスがこだわっているのは、「感覚的ー具体的なものが抽象的ー普遍的なものの現象形態」として妥当するという古典的な論理の奇妙さにあります。偉大なスコラ哲学者トマス・アクィナスは、普遍的なものをめぐるプラトン的な了解を拒否し、アリストテレス的な形相(エイドス)理解を是認したといわれます。トマスは神論において普遍的な神の概念(プラトンのイデア)を、知性の内に理解したのです。神についていえばイデアは神の知性のうちに存在するとされるのです。神についても貨幣についても形而上学的な理屈を求めるのです。第一章の「価値形態論」の第3形態の「逆関係」に示したように、商品Aがすべての商品関係圏の外に出て普遍的(一般的)な顔をとって現れるが、なお商品としての具体的ルーツの顔も持っている。この奇妙な関係が一般的等価形態(第三形態)のやがて貨幣形態(第四形態)の成立する現場なのである。第三形態の「普遍的な価値の身体」が「神」ということなのである。普遍的なものが個別的なものを離れてその上に在る(プラトニズム)、普遍的なものが個別的ものに内在する(アリストテレコ=トミズム)も可能ですが、個別の傍らで普遍的なものが併存していることが奇妙なのだとマルクスは考えました。「金銀は生まれつき貨幣というわけではないにしても、貨幣は生まれつき金銀なのだ」つまり金銀は貨幣の様々な機能に適合したものでした。こうして「金」が価値の一般的尺度となりました。貨幣が生まれてきた価値関係のあらゆる痕跡は抹消され、貨幣は多種多様で無限のしかし偶然的な交換関係を離れて、すべてのものの価値を測る、それ自体価値のあるものになります。貨幣フエティッシュの成立です。具体的なものは売れなければ商品ではありません。第一価値形態のなかに、非対称性、つまり相対的価値形態と等価形態の間の非対称性が埋め込まれています。売りとは商品にとって「命がけの飛躍」となるからです。商品をW、貨幣をGと記すと、売りはW-Gで買いはG-Wで対称のように書きますが、実際はそこにあるのは非対称性です。商品は他者のための使用価値であり、他者がそのものに使用価値を認めなければ一文にもならないからです。単純な流通過程の只中で、商品は買う気になれない「恐慌」の可能性をいつも見続けている、つまり売りとは商品にとって命がけの飛躍であるということです。売れるかどうかはいつも不透明であり不確定なのです。しかし貨幣にはこの不確定性を回収する働きが発生します。貨幣には価値尺度機能、流通手段と並んで、貨幣ならではの蓄積貨幣と支払い手段という機能があります。この二つの機能が貨幣に帰属するとき、貨幣が資本に転化するする条件にひとつが揃うことになります。ある製造業者が商品W1を売って、その金Gで商品W2を買うという商品流通の単純なモデル(W1-G-W2)を考えましょう。登場人物はW1を買う人、製造業者、W2を売る人の3人です。商品は登場し消滅するが、貨幣がその場所を占めてゆく。流通とは貨幣が流れる(媒介する)場所である。商品は流通部で登場し消費されますが、貨幣は流通部に留まり運動を継続します。つまり貨幣は商品流通の手段に過ぎないのに、商品流通が貨幣運動の結果として現象しています。市場の表面では常に貨幣のみが流通する。貨幣とは価値の表現であり諸商品の等質性の表現であるこの貨幣の流通が商品空間を均質化し、等質化する。流通過程で運動するのは貨幣という抽象的な数値で、時間さえも等質化します。商品流通過程が滞りなく経過してゆくとき、商品は次から次へと流通から脱落し、貨幣だけが流通面に滞留して運動しているようです。このような現象を目の前にしていると、事柄が転倒してゆきます。商品を流通する手段に過ぎなかった貨幣が目的と化して、「貨幣蓄蔵」が始まるのです。

2) 貨幣の蓄蔵と資本制の成立
商品が次々と貨幣に変えられ、流通から脱落してゆくならば、商品とは単に貨幣へと置換される可能性に過ぎないものとなり、「表象された貨幣」に他なりません。マルクスは「経済学批判」において、「すべての商品はただ表象された貨幣であるにすぎないのだから、貨幣のみが唯一の現実的な商品である。金は抽象的な富が物質的になったありかたである」といいます。いまや貨幣が「素材的富を物質的に代理するもの」となります。一切が貨幣に転化することが可能なら、貨幣蓄蔵への衝動には際限が無くなります。マルクスはヴェーバーを先取りすかのように「貨幣蓄蔵者はさらにその禁欲主義が精力的な勤勉と結びついてかぎりで、宗教上は本質的にプロテスタントであって、さらにピューリタンである」(経済学批判)といいます。貨幣蓄蔵者は「錯乱した資本家」ではなく、資本家は「合理的な貨幣蓄蔵者」となるのです。貨幣の蓄蔵によって一方では高利資本が可能になり、商人資本にとって掛け売りが可能となります。すると貨幣には重要な機能である「支払い手段」という役割が与えられます。具体的には手形による当座の決済が一般化します。詰まる商品は貨幣と引き換えではなく、書面での支払い約束である手形と引き換えに売られるのである。この手形は最後に債権債務の相殺によって決済されるならば、絶対的に貨幣として作動するのです。手形は本来の商業貨幣ですが、これは信用貨幣の一種です。貨幣蓄蔵は過去の時間の蓄積ですが、信用貨幣はまだ到達しない時間の凍結です。こうして資本が登場する条件が整えられました。商品流通の発展につれて、商品の譲渡が商品価格の実現から時間的に分離されるような背景が発達します。しかしいずれにせよ未来の不確定性と買い手の不透明性(リスク)が避けがたいしかたで絡んでいます。媒介されない矛盾は「貨幣恐慌」で爆発することがある。支払いの数珠と信用の連鎖が絶たれて、いまや貨幣こそが最高の善となります(信用主義から重金主義)。マルクスは「貨幣の資本への転化」を「商品流通は資本の出発点である。世界貿易と世界市場が16世紀に資本の近代化を拓いた。流通過程の最後の産物が、資本の最初の現象形態なのである」といいます。商品流通の直接的な形態はW-G-Wすなわち「買うために売る」でしたが、これに並行してG-W-Gつまり「売るために買う」が現れ、貨幣は資本へ転嫁し、貨幣は投資されるのです。マルクスの剰余価値(利潤)の発生を、G-W-G' G'=G+ΔG(G'>G)と呼んだ。この資本の価値の増殖の運動が貨幣を資本に変える抗しがたい誘惑なのです。貨幣が資本に転化すると、貨幣の流通そのものが自己目的となります。それが価値であるがゆえに価値を生む、すなわち資本のフェティシズムの始まりです。資本の流通形式を@商人資本の場合:G-W-G'(G'=G+ΔG) A金貸資本の流通形式の場合:G-G' B産業資本の場合:G-W−PmA・・P・・W'-G'(Aは労働、Pmは生産手段)と一般形式で書くと、マルクスは勃興するBの産業資本が念頭にありました。@の商人資本はGとG'をつなぐWに産業資本を生み出すと考えられました。しかし資本が資本である基本条件は自己増殖であるならば、貨幣取引資本、銀行資本となるAの高利貸資本こそむき出しの資本の原形かもしれません。高利貸資本は何を源泉とするかを考えると、それは時間の差異しかありません。マルクスの産業資本の基本的考えは「労働力の商品化」つまり労働力が剰余価値を生み、資本家が利用するのは生まれた労働価値と投入された労働力との差です。商人資本と金貸資本はどのような差異を利用するのでしょうか。商人資本が流通でやっていることは商品の空間的運動と時間的運動です。商人はつまり安いところで買って、高いところで売る、安い時に買って高い時に売るの二つに尽きます。金貸資本は利子を取らないで両替業務で巨額の富を築きました。為替手形と為替レートの問題で、空間的差異と時間的差異を利用しているのです。

第3章) 生産と流通 時間と空間の変容

1) 協業(分業)の機械制大工業がもたらす時間と空間の変容
商品流通の一つの資本の流通形式であるG-W-G'(G'>G)では、Gは貨幣の集積ではなく同時に資本として働きます。G'=G+ΔGにおいてΔGが剰余価値を貨幣で表現したものですが、産業資本についていうならマルクスにわせると「労働力の商品化」である。マルクスはさらに、再投資にあたる生産手段Pm(機械・道具・原料など)となる資本部分はその価値を変化させるものではないので「不変資本c」と呼び、労働力の購入にあてられた資本部分Aはその価値において可変的であるので「可変資本v」と呼びました。この部分が労働力の商品化です。労働力は生産過程に先だって購入されますが、労働力が発揮されるのは生産現場においてです。つまり力の譲渡と発現は時間的に分離しています。そこが味噌なのです。言葉を代えて言えば労働力は安く買われて、資本は大きな労働力を発揮するよう求めます。剰余価値をmとすると、可変資本の増殖率はm/vで表され剰余価値と呼ばれます。可変資本vは労働側の賃金の総和に等しく、利潤率はm/(c+v)となります。より大きな労働力とは「労働の生産性」の向上を言います。一定の労賃で雇い入れた労働者たちを長時間労働させる(ブラック企業)ことは誰でも考え付く剰余価値の獲得法です。労働時間が同じであれば労働生産性を向上させる工夫でも剰余価値が増大し、これは相対的剰余価値と呼びます。産業資本の生成と構造、その運動を把握するうえで重要になるのは「相対的剰余価値」の増殖の水準となります。労働日の限界をめぐる英国の工場法の改正問題は子供の就労時間を定めましたが、マルクスが激怒したことは有名な話です。児童労働および過酷な長時間労働の問題が完全に過去の問題(近年では働き方の選択の問題という擬態)になったというのは、容認しがたい欺瞞です。相対的剰余価値を増大させ剰余価値率を上昇させるためには生産方法を変革する必要があります。工場制手工業(マニュファクチュア)であれ機械制大工業であれ、アダムスミスがいう「分業」、マルクスが言う「協業」の革命は驚くばかりの効果を表しました。多くの労働者が計画的配置に並びあって労働する形態を協業といいますが、この空間的な併存と共存が生産現場の時間の流れを変え空間の在り方を変容させました。その変容と再編によって、資本制的生産方式は労働過程そのものの「規模を拡大し、量的に大きな規模で生産する」革命となりました。製作工程の労働対象物が同一の空間をより早く、より短い時間で通過する、つまりより迅速に総生産物を送り出すことができるようになったのです。協業は数的に一つ、あるいは同種の労働過程を、』時間的に分割し、それを空間的に並置できます。 協業はすべての作業が一緒に協業者によって行われ、時間が空間化されることになります。工場を見ているといろいろの労働が結合されて成り立っている様が一目瞭然です。スミスの分業もマルクスの協業もほとんど同じことを述べていますが、マルクス特有の言い回しでは「様々な生産局面の時間的な順列の、空間配置への解体」ということです。しかし機械制大工業も人間を幸福にはしませんでした。労働者の身体動作を一面的なものとし、部分労働者としてしまったからです。労働過程は人間労働そのもの、労働対象物、労働手段から成り立っています。機械制大工業では労働手段の革命に上に成り立っています。それは動力の使用です、産業革命を経て最初は蒸気の動力を利用し、19世紀後半からは電力の利用です。それは工場の回転機械だけでなく、運搬手段(船舶、自動車)にも及びました。内燃機関発明によって交通・運輸機関の革命がもたらされました。鉄鋼業、電信体系、鉄道、紡績業、造船業などでは、巨大な需要はさらに大きな機械を要求し、大工業はそれにふさわしい技術的基礎を作り出してゆきました。生産手段としての機械は減価償却で使いきられため、さらに労働時間を延長させる可能性があった。こうして労働者は工場に資本にどうしようもなく従属させられました。資本制てきな生産は単なる周防品生産ではなく本質的に剰余価値の生産に邁進してゆきます。相対的剰余価値の生産は、労働の技術的過程と社会的編成を徹底てきに転換しました。それは「労働の資本のもとへの実質的包摂」にほかならない。その結果周期的に産出させられるのが、相対的過剰人口です。これが「資本制的生産方式に特有な人口法則」で、労働プール(産業予備軍)という形で労働人口が調整されるのです。かくして人間の掃き捨てと掃き集めが、労働人口の調節という形で繰り返されます。

2) 流通過程における資本がもたらす時間と空間の変容
資本による時間と空間の再編成は工場の中に留まりません。産業資本を考えると、資本はまず貨幣として生産過程に現れます。そこで生産要素(生産手段Pmと労働力A)を購入し、生産をして商品Wを再び流通に出します。G-P-Wの三段階を重ねてゆく自己運動をする価値増殖体です。資本論第一巻ではその生産工程Pを考察し、第二巻では流通過程が生産過程を包み込んで循環と再生産を繰り返します。そこには「貨幣資本」の循環、「生産資本」の循環、「商品資本」の循環の3つの循環が絡んでいます。産業資本の価値増幅過程は、流通過程(W'-G')によって媒介されることによって実現されるからです。貨幣それ自体は資本ではありませんが、一定の貨幣量はそれが資本の運動の中に置かれるときはじめて資本となるからです。そのとき「貨幣資本」が現れます。資本は貨幣資本として流通市場に現れ、生産資本として商品を生産し、商品資本として再び市場に登場します。三つの資本が同時に並行して循環しますので、各部分が併存するための「資本を分割すること」が必要です。資本それ自体は時間的な運動であって、空間の配置(貨幣資本、生産資本、商品資本)は継起する時間的作用(運動)の結果に過ぎない。資本は全体として三つの空間に別々の段階へ同時に置かれています。この同時性という空間的な形式は、時間性の様態のひとつです。運動と生成としての資本の連続性は剰余価値が連続的に取得されることに係わります。継起する時間の流れは滞ってはパニックとなります。これを資本の動的性格といいます。人間の血液の流れに同じです。資本には二つの時間が、生産期間と流通期間とが存在し、この二つの時間の総和が資本の総時間です。資本が長い間流通部面にとどまっていると生産部面で機能する資本は縮小します。資本の流通期間は一般に、資本の生産期間を制限し、資本の価値増殖過程を制限するのです。貨幣資本が循環を繰り返すことを回転と呼び、資本の回転数が多いほど剰余価値を取得する可能性が増加します。流通過程で生産された商品は売られるという「命がけの跳躍」をしなければなりません。もし販売と購買の時間的隔たりや空間的距離があると、跳躍はますます困難になります。生産労働は人間と自然の間の物質代謝であるとマルクスは考えていますが、流通とは社会的な物質代謝の一部であり、基本的には「空間変換」を必須とします。流通とは空間的移動を伴います。先物取引は別にして、事物の使用価値はその消費によってのみ実現されますので、事物ぼ場所の移動が必要です。すなわち運輸業は追加的生産過程とみなされます。運輸業に投下される生産資本は、運輸労働による価値付加といえる。ここでマルクスは異様に運輸業に力を入れた発言を行います。マルクスの頭の中には近代交通形態として鉄道網のインフラ整備という社会背景があったからです。時間によって空間を絶滅するとは、空間的差異を時間的差異を利用して差異を抹消することです。それは世界を自らの市場として獲得するまで継続されます。交通は空間を再編します。しかも不均等な仕方で再編します。いわば地球が曲率を異にした歪んだ曲面体に変形されています。交通密度が疎な二点間の距離はいつまでも短縮されません。運輸資本は大きな生産地や人口集中地や輸出港などに向かって投資される。それは生産中心地の集積を促進し、他面その市場地の集中を促進します。この地球の曲率という空間の再編さえ、いまや資本が握っている。

第4章) 市場と均衡 古典経済学とその批判

1) マルクスと古典経済学批判
エンゲルスの「空想から科学へ」ではマルクス主義を科学的社会主義と呼んでいます。しかしマルクスの思考は科学主義とイコールではありません。「資本論」におけるマルクスの思考を「経済学」と呼んでしまっては誤読になります。「資本論」の副題は「経済学批判」でした。資本側に立った経済学(現状のアカデミズム経済学ではそれがすべてですが)の誤りや矛盾を批判しそれを正すことが目的です。古典経済学と独立した別個の「マルクス経済学」という言葉もありません。あくまで「批判書」(異を唱える)が「資本論」なのです。マルクスの時代には「科学」という言葉は「知」あるいは「学問」という意味が主流でした。今日でも科学は「理学」と「人文学」の二系列に分類されます。さらに人文学については最近の日本の政権者は権力に反抗する人文学を学問から抹殺しようとしています。だから人文学を科学と定義することもおかしな話になります。誰がやっても再現することを理学といいます。人文学を科学に加えると権力者側の学問と、人民側の学問の二系統があることになります。だとすればマルクスの「資本論」は資本によって虐げられた人々のための経済学であり、本来「経済学批判」たらざるを得ないのです。マルクスは科学は生産過程の一要因だといいます。知の学問である科学は富の生産手段となる使命を帯びています。資本による「科学の理論的進歩のあくなき利用」に他なりません。資本が科学を創造する直接的契機はありません。むしろ資本は科学を徹底的に利用し、科学を生産過程に従属させるものです。資本制的生産様式を読み取ろうとする「資本論」はマルクスの批判精神そのものです。だからマルクスは科学に対しても無批判的なものではないといえます。経済学史の教科書ではマルクス「経済学」が古典経済学の中に位置づけられていることがあります。マルクスは経済学説を網羅的に研究し、先人たちの成果を自身の糧としています。とりわけペティ、ケネー、スミスから多くのことを学んでおり、彼らの言説なしにはマルクス学説を語ることはできません。ペティからは労働と土地を経済的富の源泉とみた学説を讃え、スミスからは分業論をはじめ「国富論」から多くのことを学び、同時にマルクスは経済学批判の対象をスミスに置いていることは疑いようがありません。ケネーに関しては、「経済表」を天才的発想と称し、マルクス自身の「再生産様式」がケネーの発想に基づいていることは本人の発言からして間違いないことです。マルクスの再生産様式論は一国の総資本の連環を考察するものですが、その見解はワルラス的な一般均衡理論に通じるとか、レオンチェフの産業連関表につながるものとして、現代経済学の発展に対する寄与とみなされています。同時代人リッカードとの関係についていえば、「地代論」における繋がりが注目されます。地代論は地球の一片に対する独占という非合理を前提とするものですから、マルクスの経済学批判の対象です。土地の希少性と土地の質に於ける差異から「差額地代」を導いたリッカードの学説は、マルクスの地代論の原型でもああります。マルクスの成果は利子率と土地の価格との連環を明示的に説いたことでした。リッカードは地主層が経済過程特に農業においてかく乱要因となると考えました。マルクスは「資本制と大土地所有都の結合は、地球という自然資源代謝の関連のうちに回復不可能な裂け目を生じさせる」酔いう視点を提出しました。マルクスにとってリッカードは少なくとも古典派経済学の完成者なのです。科学的経済学はリッカードで終結しているので、マルクスの課題は経済学をさらに発展させることではない。批判的な経済学を構築することではなく、ただ経済学批判を展開することでした。マルクスの思考は科学でもイデオロギーでもありません。経済科学がイデオロギーなのです。だから経済学批判は経済学ではなく、経済学が纏う矛盾を暴露することです。ヘーゲルは「精神現象学」で科学説明は結局のところ同義反復であるといいます。形式論でみますと、個別の事象をCi、一般法則を表す全称命題をLi、予測され説明されるべき記述をEiならば、倫理的には「CiでかつLiならば、E]という演繹的な推論です。Ci=Li=Eで同義反復だということです。資本を不変資本と可変資本に分け、資本の循環が繰り返されるとき、「固定資本」と「流動資本」は産業部門別にみると業態によってその構成は部門ごとに異なります。固定資本が比率が大きく資本の回転が遅い部門では利潤率m/(c+v)は低くなるでしょう。Cは各部門の資本の価値構成の分布(流動資本/固定資本比率)、Lは投下された労働と利潤に関する法則、Eは部門間での利潤率の不均等性で考えてみましょう。経験的には利潤率は各部門で平準化されてばらつきは見られません。こんなことがどうして可能なのでしょうか。等価労働価値説に立つリッカード経済学はこの難問に対処できず分裂しました。マルクスは価値と生産価格とを区別し、競争と移動という前提を加えることでこの難問アノマリー(利潤率の平準化)を説明しました。しかしそれは説明ではなく批判です。これはもう科学的説明ではありません。不合理の暴露です。誰がどこまで利益の配分を多く得たいかという我欲のレベルです。

2) 「再生産表式」 単純再生産と拡大再生産
歴史的にあったかどうかは別にしてあり得ない経済活動ですが 、資本規模は拡大しない「単純再生産」を、頭のトレーニングのため考察しましょう。生産過程によって 産出された商品W'がWとwに別れ、Wは 資本価値に相当しそこから獲得された貨幣Gは再び生産手段Pmと労働力Aの購入に当てられます。ここにwは剰余価値と一致し、この貨幣gは資本家の個人的消費に全額回されるとします。gは資本化せず、剰余価値は資本の回転から脱落し資本規模は拡大しません。これを「単純再生産」と呼びます。ここでwをw'と読み、gは再び資本になるとします。剰余価値が再び資本となり蓄積されると、蓄積された資本部分G'=ΔGによって新たに生産手段Pmと労働力Aが購入され生産過程P'が開始されます。この剰余価値が資本化し蓄積された生産の拡大を「拡大再生産」と呼びます。 資本の自己増殖過程を前提とすると拡大再生産こそが資本の常態です。資本の蓄積とは資本が反復的に循環し回転してゆく際に、剰余価値が資本として用いられることすなわち剰余価値が資本に再転化することが必須となります。単純再生産において、資本家が剰余価値の占領を主張するならば、前貸資本価値/剰余価値 =資本家による資本の食いつぶし年数となります。資本元本は自己消費によって縮小してゆく限りで、同規模の生産を継続するには剰余資本が再投入されなければならない。剰余資本は資本家の専断物ではなくなるのです。(ここで経営者の取り分は労働量Aの購入に組み込まれ、出資者すなわち資本家の自己労働による自己占有という理念の崩壊となる)こうして単純再生産の分析すらマルクスにとって経済学批判となります。資本の循環は生産物が売れている間は、資本側から言うと「万事順調に進行している」ことになります。しかし商品は消費によって、系外へ排除されているように見えて、じつは売れないで市場で滞留していることもあり得ます。その場合前の流れが捌けないのに支払期限が迫ってきます。すると支払い不能宣言をするか、どんな価格でもいいから「投げ売り」するほかはないのです。こうしてパニック が生起し、「資本と資本との交換の減退、資本の再生産過程の縮小」によって恐慌が到来するのです。過剰生産による恐慌は、多くの部門がかかわり信用恐慌に発展します。資本の流通局面を(貨幣資本でもなく生産資本でもなく)商品資本に即して見る必要があります。商品資本の総循環W'・・W'は、その運動の中でW=(A+Pm)の形態にある他の産業資本を前提としています。だからこの個別資本の循環を総資本側の総資本の運動形態と見なければならない。商品資本の循環はこのように同時に「総資本」の運動形態となり、貨幣資本G・・G'でも生産資本P・・P'でもなく、商品資本W・・W'においてのみ運動は最初から産業資本の全体運動として示される。資本制的生産過程を全体として見ると、それは生産過程と流通過程の統一であることが明らかになります。資本制生産様式はあらゆる生産を可能な限り商品生産に変えてゆきます。産業資本の流通過程の特徴は、諸商品の多様な性格であって、市場が世界市場として存在することが必要なのです。市場経済とは一切の国の生産と消費を全世界的なものとするイデオロギーなのです。資本制の歴史は、グローバリゼーションという現在を自然状態とみなして、支配を正統化する世界像です。マルクスの経済表は、その分析は均衡条件を求めているようで、実は均衡の背景にある偶然と不確定的な条件を問題にしています。均衡が必然だとは思っていないのです。マルクスは拡大再生産が可能となる信用制度に注目しています。蓄蔵貨幣が「潜在的貨幣資本」として積み立てられている限り、貨幣蓄蔵は資本制的生産過程に内在する契機となります。この貨幣蓄蔵が拡大再生産を可能とする条件とは増加する労働力を市場で調達できること、そして増加する労賃を賄う可変資本に当てることが必要です。また増産された商品も売れて貨幣形態になることも必要です。過程の複雑性が均衡の条件になると同時に、均衡が破綻する契機にもなります。神の見えざる手が狂いだすと、正常でない進行によって信用が破れ恐慌が到来します。それらの条件と制約の上に、市場が十分な自動調節機構を担って行くと考える方がいささか非現実的ではないだろうか。

3) 一般利潤率をめぐる問題群とマルクスの解決
マルクスの再生産表式論を価値法則(商品の価値はその再生産に必要な労働時間によって決まる)の絶対的基礎を見なすことは可能であろうか。マルクスの表式論では商品の物神性がより全面的決定的な形で再生産の動態分析に現れる。商品生産はその全社会的な機構を分析者の立場(剰余価値)で考えると、当事者の立場(利潤)が理解不能になることがある。そもそも価値法則が破れているのではないか、そしてそれはリッカード派の難問であった利潤率の平準化あるいは一般利潤率の形成という問題群に収れんしてゆくようです。マルクスの解決策のまえに、費用価値、利潤、利潤率の説明をしてから本論に入ります。
@費用価格: 商品の価値WはW=不変資本c+可変資本v+剰余価値mで表されます。資本の当事者(その代理である経営者)にとって(c+v)は商品の費用価格kとみなします。商品価値=費用価格+剰余価値 W=k+mになります。可変資本(労働力を購買するための資本)も原材料費に投下された資本と同じように一回の回転期間で回収されるべき「流動資本」として現れます。費用価格というカテゴリーは、可変資本が流動資本へ一体化されることを前提として、資本を投下し回収する立場に対して妥当する規定です。
A利潤: 商品生産に際して費やされた生産要素を回収しない限り、再生産に入ることはできません。費用価格は、資本制的生産を継続させる条件です。費用価格は支出された不変資本であり、投下された可変資本です。不変資本と可変資本の差異が消失してしまい、固定資本cと流動資本との区別が認められだけです。利潤をpと名づけるとしたら、商品の価値W=c+v+m=k+mは定式化されW=k+pすなわち商品価値=費用価格+利潤の転化するのです。これは「利潤」が資本関係を隠すイデオロギー的な概念だからです。
B利潤率: 商品が価値どおりに売れるなら、利潤=商品価値ー費用価格となり、剰余価値と等価です。販売価格が費用価値を上回ったならばなにがしかの利潤を得ることは可能です。資本にとって利潤の源泉は剰余価値であり、マルクスにとって剰余価値を生むのは労働価値ですから、剰余価値率は(m/v)です。資本側は剰余価値を総資本で割るのです。これを利潤率といいm/(c+v)となるわけです。表に現れるのは剰余価値率ではなく利潤率となります。マルクスはこれを顛倒された概念、倒錯した意識と呼びました。分析者の立場ではなく、資本は自分自身に対する関係としてとらえます。
以上の関係を資本の構成と回転期間の観点から定式化しておきましょう。剰余価値率m'=m/v(m=m'v)ですから利潤率p'=m/(c+v)=m'v/(c+v)=m'(1/(c/v+1)となります。いま資本の年間回転率をn、p'を年利潤率とすると、p'=np=nm'(1/(c/v+1)となります。ここから資本論第三巻の最大の難問が生じることになります。つまり資本の回転率の差異に対応して異なる利潤率が支配する。様々な産業部門では資本構成(c/v)と回転nが異なるためである。利潤は資本の大きさに比例する。ところが現実には産業部門の差異による平均利潤率の差異は存在しない。マルクスは価値法則があらゆる生産局面にあって資本構成と回転が等しいとする非現実的想定の下でしか妥当しないのではないかと自問するのである。算数があまり得意でないマルクスは一つの企業内の生産部門を5つからなるとして、それらの資本構成(c,v)は異なるとして5つの組み合わせを考えました。剰余価値率は100%とし剰余価値=可変資本vとすると各部門の費用価格をすべて等価とすると利潤率は5つの部門で異なる数値を得ます。利潤率は5%から40%までバラつきました。次に費用構成の組み合わせと剰余価値率100%は同じで、固定資本の価値移転cに差異があるとみてすべての部門の平均利潤率を求めます。こんどはすべての部門の利潤率を平均利潤率に設定してから、剰余価値を各部門の資本に均等に分配します。そこから商品の価格を計算します。商品価格は商品の費用価格に平均利潤を加算した値です。産業部門の全体に関しては平均利潤率は一定に保たれ、価格価値の偏差は相殺されます。商品の価格こそ「生産価格」に他なりません。こうしてマルクスは「様々な生産部門における利潤率が平均され、この平均がいろいろな生産部門の費用価格に加えられる異によって成立する価格これが生産価格である」と結論しました。一般利潤率が先に存在することが前提となります。実際は資本間の競争を通じて異なる利潤率の平均値である一般利潤率に平均化されるはずです。それぞれの部門に投下された資本量の構成比率の差異に応じて、様々に異なった利潤率が成立する。しかし資本は利潤率の低い部門から去り、より高い利潤を上げる別の部門に移ってゆく。産業間で資本の移動が可能となるには、資本と労働力の可動性が担保され、信用制度の発達が不可欠です。振り返って考えますと、費用価格、利潤、利潤率、一般利潤率、生産価格といったカテゴリーが導入され、それらは資本者という当事者から規定されたもので倒錯と神秘化を含んでいます。商品価値は商品価格に転化します。しかしその場合、価値とは本来の形で物象化した水準で話題となり、投下した労働量なるもので測られる「虚構」である。価格とは投下された資本量がそれを実現するとされる「仮象」です。それらは経済をめぐる数量的科学としての経済学に内在する、市場の支配を正統化する世界像ではないだろうか。マルクスにとってはこの経済科学こそがイデオロギーだったのです。

第5章) 利子と信用 時間の物神化

1) 商業資本
商業は資本の歴史的に最も古い自由な存在様式である。古代の商業民族世界中に存在していた。古代都市文明に大規模の発達した商業都市は純粋な仲介商業として、生産に係わる諸民族の未開状態に基づいていたのである。近代社会の前までは商業が産業を支配していたのである。近代社会ではそれは逆になっている。マルクスは「資本制以前の商人資本あるいは資本制以後の商業資本は、商品取引資本と貨幣取引資本という二つの形態に分かれる」という。資本制が成立するための条件は商人資本の十分な発達であって、産業資本はその中から生まれたのである。ただ古代から商人資本は知識人たちから正当な扱いを受けていません。プラトン、アリストテレス、トマス・アクィナス、カントさえ商業資本と金融資本に対して「哲学的な敵意」を抱いていました。マルクス資本論第三巻は資本制生産の総過程を明らかにしようとして、資本の運動過程におけるさまざまな形態を取り扱いました。そのため商業資本にも正当な位置を与えなければなりませんが、本章では「利子生み資本」と信用制度の視点から説いてゆきましょう。社会の総資本の構成は絶えず変化していますが、その一部はつねに商品として貨幣になろうとし、市場に貨幣としてあるものは商品へ移行しようとしています。商業資本とはこういう流通局面に棲みついて、商品から貨幣へ、または貨幣から商品への転化を仲介することに専業する特殊な資本が独立し、分業によって「商品資本は商品取引資本あるいは商業資本となる」のです。産業資本の循環を円滑にする媒介環を形作り、W-Gへと産業資本にとって命がけの跳躍のリスクを代行してくれる商業資本が成立します。商業資本は産業資本から商品を買い、消費者へ商品を売るという商品の場所転換によって、貨幣が増殖して回収され還流するのです。商業資本にとっても商品を売るというリスクを負うのですから、商業利潤とはこのリスク代行に対する対価ということができます。しかしマルクスは「流通過程では何も生まれない」というのが資本論の基本的立場です。商業資本が流通期間の短縮に貢献し、産業資本の剰余価値を高め、利潤率の向上に資しています。その機能は産業資本の生産性とその蓄積を促進します。商業資本と産業資本は相利共生の関係にあるといえます。社会的に商業利潤が必要とされるわけは、W'-G-Wの過程では価値が生まれませんので、商業資本の貢献による循環の高速化に伴う産業資本の利潤の一部が商業資本に移ることです。商業資本の利潤は商品の購入価格と販売価格との差額に由来します。産業資本にとっても商品の購買価格はその費用価格であり、販売価格とは商品の生産価格に他なりません。マルクスは商業資本とは、当事者の立場にそくしていうと利潤の生産には参与することは無く、その分配には参加すると見えるのです。すなわち剰余価値の平均利潤の平準化に参入するということです。商業資本は価値の生産に関与しない限り、本来産業資本の補完的機能を担うのですが、その商標資本が再生産体制のかく乱要因を形作ることがあります。商業資本では売りと買いとは分離されています。それだけではなく信用制度(商品が現実に売れる前に売れたことにしてくれる)背景として、商業資本は肥大します。商業資本はある範囲内で再生産過程の限界に関係なく運動するものであり、その再生産過程の限界を超えて邁進するものなのです。こうして恐慌のある現象が起こります。まず恐慌が現れるのが、直接的な消費に係わる小売業ではなく、卸売業や銀行業から始まることがそれです。

2) 貨幣取引資本(貸付資本)・利子生み資本
好況期の末期に卸売業に恐慌の兆候が現れるのは、そこに投機的取引が始まるからです。一般に貸付資本が豊富な資金を提供しています。好況期の右肩上がりの「見込み需要」がこれを後押しします。銀行は好況が泡と消えると資金の回収に走ります。ここに貨幣取引資本(貸付資本)の機能を見る必要があります。両替し、為替を扱い。貨幣を貸し付ける貸付資本の起源は城外交易から発達したものですが、もうひとつ高利貸資本に存在します。高利資本は商人資本と並んで双子の兄弟です。高利資本は土地所有者、小生産者に対して現金貸し付けを行い、「巨大な貨幣資本の形成と集積」を準備します。そういう積極的な意味では資本制的な産業資本と商業資本の成立に貢献してきた。しかしやがて利子生み資本として成熟する貸付資本は時間という神秘性を利用しながら自己増殖してゆくのです。貨幣蓄積は、支払い準備金として貨幣資本のプールとして二重の意味で資本制的な再生産にとって不可避です。貨幣取引業者はまず、商人や産業資本の単なる出納代理人として現れます。貸付取引資本に「貸付の機能や信用取引」が結合するときには、それは一種の利子生み資本になります。そこでは貨幣そのものが商品となり、資本そのものが商品となるのです。この転化によって、貨幣自身(資本)を増殖させる価値となる。それは利潤を生むので、貨幣の使用価値とは、貨幣が資本に転化して生み出す利潤の中に存在している。利子を生む貨幣はそれ自体が資本となる。資本を充用する「機能資本」は、資本を持ち増殖させうる利子生み資本である「可能的資本」より金を借りて生産を行い平均利潤率20%を得るなら、その中から5%を「可能的資本」に支払うことを「利子」と呼びます。利子生み資本は自らの貨幣を資本として、利潤を上げる使用価値を有する価値として「機能資本」に貸し付けられるのです。ここでは貨幣が貨幣を産んでいます。現実に見えるのは「時間的経過」だけです。現実の資本運動の概念を欠いた形態です。これをマルクスは時間の「物神化」と呼び、時間に対する物心崇拝(フェティズム)とみなします。貨幣取引資本にとって時間が魔法のように働いています。資本が資本である基本条件とは自己増殖であると考えると、G・・G'という資本の自己運動こそが端的に時間だけを契機とする非合理性を持ちながらもっとも純粋な資本といえます。利子とは機能資本が獲得する利潤の生地から貨幣貸付資本に払われる部分といえますので、最高の利子率は利潤率そのものである。利子率は土地の価格と連動します。標準的な利子率を5%とすると、何もしない土地の地代が200£なら資本の利子とみなして土地の価格Xは、0.05X=200を逆算してX=4000£と計算されます。つまり土地の取引価格は地代が上昇しない場合でも利子率が低下することで上昇するのです。1980年代の日本の土地バブルは1985年のプラザ合意による利子率の異様な低下が引き金となり、土地買いに狂奔した結果でした。資本が増殖するという現象は神秘的かつ自己創造の源泉としての運動である。資本の最高度の「顛倒と物象化」なのです。

3) 貨幣経済・信用経済(金融資本)
支払手段としての貨幣の機能は信用取引とともに動きを開始し、一方で貨幣蓄蔵が信用取引を可能とします。支払手段としての貨幣が、信用制度そのものを可能とすることですので信用経済は貨幣経済の一つの形態に過ぎないといえます。資本間の競争と、その結果としての資本そのものの集中によって信用制度は発展してゆきます。大きい資本は小さい資本を打ち負かし、資本制的生産と資本制蓄積が強力な集中に発展する。信用制度は資本制の内部にはめ込まれ、その動きを保証する安全装置となり、同時に資本制の危機をもたらす起爆装置にもなるのです。拡大再生産の条件には一定の貨幣蓄蔵が要求されます。資本循環を反復する際に剰余価値が蓄蔵貨幣となって貨幣資本を形成しなければいけません。信用制度の発展は、W-Gへの命がけの跳躍が終了する前に実現したことにしてくれます。再生産そのものが販売の偶然性に依存しないことが可能となるので、さらなる再生産計画ができるのです。しかし個別資本がせいさんする剰余価値の一部は潜勢的な資本です。これらが例えば銀行のもとに集中集積されれば社会的総資本となり現勢的な資本となります。これは銀行にとって貸付可能な資本、利子生み資本ですが、個別資本にとっても利用可能です。こうして信用制度は資本的な再生産にとって最も強力な集中の中軸となります。不確定な未来を確定する信用制度の代表として商業資本の「手形」発行をみてゆきましょう。手形とは一般に支払う約束を記した証券です。産業部門が異なれば、資本の構成と規模、回転期間に差異が生じ、産業部門ごとに遊休貨幣資本にも差が生じます。商業信用によって一定限度で調整の必要性ができます。商業信用とは再生産に関わっている資本家たちがたがいに与え合う信用のことです。それを代理表象するものが手形(確定支払期限がある債務証券)すなわち「延払証券」に他ならない、手形は一面では商業貨幣の典型であり、他面では本来の信用貨幣(銀行券)の基礎です。一般に商業信用は、それぞれの再生産過程が商品の自然形態においても連関する個別資本、個別資本を媒介する商業資本の間でしか成立しません。いわば商業資本は対面的信頼に依存しています。従って信用連鎖によってリスクを局在させています。銀行信用がこのような限界を突破することができます。銀行資本の機能は貸付可能な貨幣資本を自分のもとに集約することにあります。銀行こそが貨幣資本の一般的な管理者となります。銀行は一方で貨幣資本を集中させ、他面では借り手の集中を表しています。銀行が与える信用には多種な形態が存在します。他行あての手形、小切手であり、国債、利子付き証券、株式に対する担保前貸し、銀行券の発行、手形の割引等がありますが、支払い請求権を移転可能なものにすることで、銀行とは取引を容易にする信用制度そのものです。投機も容易にしますので銀行こそが信用制度の欠陥を代表します。銀行制度は一方では資本制的生産様式がつくりだす最も完成した制度で、銀行は資本の社会的性格を表現している。同時に資本制生産をそれ自身の制度を超えて進行させる強力な手段となり、恐慌や詐欺的行為の温床になりやすい。それは銀行がもつ擬制資本を作り出す機能にあり、架空資本を運用することもできるからである。銀行が信用を与えることができるのは他者の資本を担保とした運用ができるからで、賭けられているのは社会的な資本です。例えばある業界が先物取引で投機に走ったとします。賭けられる資本は社会的所有であって業者の資本ではない。銀行が融通する貨幣も銀行に預託された社会的所有であり、その多くは銀行の資本でもない。投機の成功失敗は資本の集中となりさらに大規模な収奪につながる。資本的生産様式のもとではこの収奪が少数者による社会的所有の取得となる。信用制度は他面で最も巨大な賭博システムと詐欺システムまで発展します。銀行はこうして相場師と並んで「高貴な盗賊たち」になるのです。銀行の信用減退は「貨幣恐慌」をおこし、「信用崩壊」となって社会はダメージを受けます。信用恐慌は信用制度そのものの崩壊であり、その脆弱性は資本制が原理的な脆弱性を組み込んでいるからです。銀行の介入と銀行券の登場は、擬制資本をやがては架空資本へと変身させます。銀行券という信用貨幣には正貨準備が必要ですが、銀行に信用がある限り通常は相当額の銀行券は貨幣との交換を請求されることなく事実上は貨幣そのものとして流通しています。銀行券は国家的信用に裏打ちされているにもかかわらず、銀行は銀行券を貨幣に転化させそれを国家に貸し付ける国家から与えられている機能に対して国債利子を貰っているにすぎません。これは架空資本に他なりません。これはアヘン貿易で儲けたイギリスの原始的蓄積の詐欺手法もこの架空資本であったのです。現在のグローバルヘッジファンドはデリヴァティヴという擬制商品で世界を収奪しています。90年代の東南アジア各国を襲った経済危機はヘッジファンドによる破壊ビジネスでした。株式は現実の資本の所有権証書ですが、資本換算による株価という貨幣価値である限りそれは全くの擬制資本です。株指揮という擬制資本が架空資本へ肥大化して、今や信用制度の中核を担っている銀行資本はいわゆる「利子付き証券」からなっています。銀行資本もかなりの部分が架空資本化しています。株式制度と証券市場の展開を通じて、資本の商品かが完結します。もはや資本には外部はありません。信用制度の中に株式制度を取り込み終わった資本システムにとって、すべてが市場の内部で調達され、すべては市場の内部へ送られます。資本制とは完成された商品ー貨幣経済です。資本制経済と呼ぶ代わりに市場経済と呼ぶことは一種のイデオロギーであって、市場システムの無法な支配を正統化する世界像に他なりません。



読書ノート・文芸散歩に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system