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読書ノート

石母田正 著 「日本の古代国家」 
岩波文庫(2017年1月17日)

推古朝から大化の改新を経て律令国家の成立に至る過程を論じた7世紀日本古代国家論の名著

序章 [日本古代史研究]

石母田正氏(1912-1986)による「日本の古代国家」は、岩波書店日本歴史叢書 1971年によるものです。戦後の日本古代史研究の最も基礎となる著作だそうです。戦後の日本古代史研究における最大の成果であり、40年以上たってもなを読み継がれており、2017年1月に岩波文庫に収められました。石母田氏のプロフィールを紹介する。石母田氏は宮城県石巻市で育つ。父正輔は旧仙台藩出身で、石巻の町長・市長を長く務めた。二高を経て、東京帝国大学文学部西洋哲学科に入学。後に国史学科へ転科し、1937年に卒業。冨山房、日本出版会に勤務の後、朝日新聞記者を経て、1947年から法政大学法学部講師、1948年に同教授となった。この間、1963年から法学部長、1967年から附属図書館長などの役職にあり、1981年に定年退職、名誉教授となる。また、歴史学研究会幹部を歴任。1973年にパーキンソン病に罹患し、以降は闘病生活を送った。代表作である「中世的世界の形成」は戦前に脱稿していたが、戦時中の空襲で自宅と共に原稿は焼失した。しかし、敗戦により今こそ発表すべきと考えた石母田は自宅にこもり、雨戸を閉め切ったまま一夏で再び書き上げたという「神話」がある。戦後、歴史学研究会などを率いてマルクス主義に基づく歴史学の指導者治となった。石母田は古代史、国際関係史を中心に西嶋定生ら史的唯物論には与しない研究者の学説を積極的に取り入れたことから、逆に唯物史観に立つ研究者から石母田への反論が出されたこともあった。しかし主たる批判者の一人であった安良城盛昭が「石母田さんは古今未曾有の大学者である。この大学者を超えることは至難の業である」と称賛したという。石母田の首長制論は「日本古代における社会と国家の関係、古代国家の形成過程..が総合的に分析されている。これを超越しようとする古代史理論は未だあらわれていないともいえる」と評価される。石母田氏の歴史理論はゲルマン民族の文化人類学の首長制をモデルに構成されたものだが、それによって律令制国家形成における大化改新の意義を鮮明にして、律令租税制の本質に迫った。石母田氏の専門は古代史・中世史である。1946年に公刊された「中世的世界の形成」(岩波文庫 1985)は、伊賀の国黒田庄を舞台とする古代から中世への転換を説き、その領主制理論が戦後中世史研究に大きな影響を与えた。本書は4章からなる。第1章は「藤原実遠」という平安時代の中頃の伊賀の国28箇所の大領主のことからはじまる。藤原実遠は大農場主として、作業所・倉庫である田屋を建て農奴を使役して直接経営にあたった「当国の猛者」であった。しかし農民が独立を求めて狩り出される事を嫌って逃亡を繰り返すと、直接経営はついに破綻した。第2章は平安時代末期「東大寺」が、荒廃した藤原実遠の子孫が持っていた土地を買い取り、寄付させて、もともと黒田庄の近くの板蝿杣(大和国と伊賀国の境)という寺院建設用木材切り出しの山林から出発し始め20町に過ぎなかった黒田庄を12世紀前半には田地三百余町に拡大し支配した経過を描いている。寺奴のものは寺のものという「寺奴の論理」で寺社領化していったのが、南都の悪僧覚仁という稀代の政治僧であった。第3章は源平時代に領主=武士団が成長してくるが、東大寺と所領を争った名張郡司源俊方の戦いである。しかし武士団が他の地域と連合することなく孤立して戦ったために、対峙する東大寺の武力の前に敗退するのである。第4章は一円寺領化し不入権を獲得して蘇った古代権力東大寺は神人を置いて支配を強化したが、これに対する黒田悪党の戦いを描いている。黒田悪党とは庄民から出て庄民の利益のために働いたのであろうが、匪賊・山賊の一面もあった。すなわち古代権力と同様に悪党も道徳的に腐敗していたのだ。東大寺は鎌倉幕府の六波羅探題に鎮圧を依頼し、南北朝時代に幕府守護の力で鎮圧された。黒田庄の東大寺寺領時代が斯くも長く続いたことには、庄民自体の蒙昧と奴隷根性がこの支配を受け入れていた事を著者は糾弾する。黒田庄が山奥で文明から遮断されていたといえ、統治者の腐敗が住民と無関係であったなら、庄民の長い悲劇は続かなかったはず。庄民も道徳的な腐敗を一部分東大寺と分かち合っていたのだと著者は指摘する。そのような時、古代権力は何度でも復活する。その度に庄民の悲惨さは倍加するのである。まことに黒田庄の歴史は暗鬱である。古代権力に戦いを挑んでは敗北と蹉跌を繰り返す。このメッセージは天皇制に対する日本国民の戦いに酷似していないだろうか。自分自身への反省をこめて、戦時中の日本国民に与える叱咤激励であった。このメッセージを直接言えば治安維持法で監獄行きであろうが、当時の本土空爆で天皇制軍閥政府も風前の灯であった。戦後日本人が自身を改革することなく、アメリカに革命をしてもらったため、不徹底な天皇制解体、民主なき上からの官製民主改革となった。何度でも同じ過ちを繰り返す腐敗した責任を持たない国民性である。

本書「日本の古代国家」の詳細に入る前に、迷路に入り込まないように各章のまとめをしておこう。
第1章 「国家成立史における国際的契機」: 国際関係を国家が成立するための独立の要素と考える。アジア的な首長制では首長は共同体を代表し、地理的な要因で他国との往来が盛んになれば、その首長制=王権は強化される。7世紀の東アジアの戦争と朝鮮半島での混乱が古代日本において国家権力の集中をもたらした。それは西洋帝国主義の侵略を前にした明治維新と同じ関係にあった。7世紀後半の唐・新羅連合軍と白村江での海戦の敗北による対外危機に対応して、律令制による国家整備が喫緊の課題となった。7世紀初頭には中国大陸では随が成立し、7世紀中葉には唐の高宗による高句麗征討による東アジアの緊張の影響が大きかった。同じ時期朝鮮半島でも三国で権力集中が起き、国家整備が行われた。百済型、高句麗型、新羅型の三タイプの国家が出来上がった。推古朝の聖徳太子の「摂政」は新羅型に近い権力集中であった。その後曽我入鹿は高句麗がたの「専制」を目指した。大化の改新で実権を握った中大兄皇子は新羅型の万機総摂の権力集中を行った。天皇の称号推古朝の対随交渉の中で生まれ、朝鮮の新羅・百済を朝貢させる「大国」意識も生まれたとされる。対随・唐の関係では日本や朝鮮三国は隷属国家であることは間違いないのだが、なおその中での序列順位をめぐる「大国意識」である。
第2章 「大化改新の史的意義」: 645年乙巳の変の後、蘇我本家を滅ぼした中大兄皇子は大化改新に乗り出した。従来の歴史学では大化改新詔第1条によって、改新の目的な屯倉・田荘の停廃・収公つまり私地私民を廃して公地公民制(班田収受法へ)を実現することと考えられてきた。本書では日本書記の五つの詔・奏、第四条の史料批判によって、改新の第1の課題は、「律的な土地調査」(校田)を行うことであったと見る。それは各首長(古代豪族)の領域内の田地総面積の調査が税制(田之調)の成立の前提であった。大和政権とは7世紀前までは豪族連合(王民制)であった政治形態を色濃く残していた。更に第2の課題は、領域内の民戸・男丁を調査登録する(編戸)ことにあったとする。豪族の所有たる民戸を把握してこれを公民制への転換を図る領域的国家が成立するのであった。その改革を実施する基盤として、東国における国造の力は伴造・屯倉を包摂し、それを評造(こおりのみやつこ)に再編成し領域国家の成立に持ち込むことであった。国造の領域支配が制度化され行政区画となった。一方国造の裁判権や徭役賦課権には介入しないで首長の在地における権力基盤に依存した。推古朝の官司制とはかなり異質で断絶が見られる。それは第1章で述べた軍事的関心と律令国家制への刺激が契機となったようだ。
第3章 「国家機構と古代官僚制の成立」: 支配者階級の共同の機関である国家官僚機構の成立と二官八省について述べる。石母田氏は663年の甲子宣や「近江令」から、天智朝国制はまだ過渡的なものであったとする。続いた天武・持統朝において、689年の「飛鳥浄御原令」によって律令制国家機構が成立し、班田収受法・租庸調制が全国的に確立し、国家の武装化が軍団制、道制によって進んだ。雑徭から兵役の分離、調の人頭税化、田租など税制面から国家の成立は飛鳥浄御原令によって全面的に完成したと考えられる。大化改新前の官僚制は機内豪族の代表者からなる丈夫層の議政官の代表である太政官が上奏して勅を仰ぐ「論奏式」であって、君主権から相対的に独立性の強い勢力が天皇権力を牽制していた。天皇大権である官制大権・官吏任命権・軍事大権・刑罰権・外交と王位継承権についても、律令制国家は「東洋的専制国家」を目指したが、伝統的部族秩序の強固さは無視できない。官僚機構である八省の内部官庁は複雑な組織をもつ三省(宮内・中務・大蔵)と簡単な組織の民部省に大別され、歴史的な部族の権利が入り組んだ古い官庁と民部省のような新しい公民を対象とする国家官庁が出来たと考えられる。
第4章 「古代国家と生産関係」: 現実に在地を支配している「在地首領制」の農民把握(支配)と古代奴隷制が、一片の紙の詔で「公地公民制」に移り変われるはずがないと誰しも考える。逆に在地首領がいなかったら、官僚の数が圧倒的に少なく事務能力技術も低かった天皇政府機構が全国を支配できるわけがない。畿内の点と道制の線を抑えるだけの軍事力で国内統治は無理であろう。税金を集めることだって不可能である。本書の理論的中心となる「在地首領制」が国家の毎日を支えていた。律令制財政の基礎は租庸調と雑徭であるが、首長層が共同体を支配して徭役労働を供給したとみるのである。大化の改新以前は、祭祀儀礼に伴い収穫の一部を初穂として首長へ貢納する義務があり、これが天皇に対する田租や調の貢納に転嫁されることで律令制財政が成立した。大化の改新後も収公を伴わない私有田「賦田制」があり、古代から中世の歴史はいつもこの私有地と国家所有地をめぐる複雑な争いで、班田収授法や公地公民制が全面的に施行された例はないと考える方が理解しやすい。国家の経済的な土台である生産関係から見ると、天皇制国家機構は「在地首領制」の上に乗っかった空疎な上部機構にすぎない、農耕生産民の経済的関係は古代奴隷制の域にあったとみるべきかもしれない。首長制こそが古代国家の第一義的な、本源的なものであったというのが本書の結論である。しかし首長層は相対的奴隷制という生産関係を維持しつつ、国造制によって大王の秩序に編成されてゆく。国造による人民支配がすなわち隷属関係が成立する第1の道であった。律令制国家においては、地方の首長支配は国造制から郡司制に変化した。首長対人民という第1次的生産関係があり、その上に律令制国家対公民という第2次的関係が成立していた。 

石母田史学の構築は、従来の史学理論に頼らず、文化人類学の成果を取り込み新たな国家論を模索し、日本の古代国家が首長制の上に成立しているという特徴を見出した点にある。こうした結論に達した石母田史学の変遷を振り返ることも有意義である。石母田氏は戦後は民主主義科学者協会(民科)を結成し、国民的歴史学運動を牽引した。1952年に日本共産党が始めた「山村工作隊」にも参加したが成果は無く、国民歴史学運動も1955年の共産党六全協での方針変更で終焉した。石母田氏は1965年ヨーロッパにに留学し、中ソ論争、文化大革命、アメリカ帝国主義従属論争を経て、石母田氏はマルクス主義に安易に頼るのではなく、自らの国家論を目指すようになった。その努力が古代国家論の本書となった。律令国家の研究の困難な点は、社会の下部構造=生産関係と、上部関係=国家対人民との関係をどのように統一的にとらえるかにあると考えた。石母田氏は留学時代ロンドンで文化人類学の研究に目覚め、「民会と村落共同体」1967年を著わした。共同体は首長によって代表される形と成員相互の関係である民会によって代表される二つの形がある。前者はアジア的専制、後者は古代ゲルマン的とされる。(民会という制度は日本では一度も経験したことは無い。ただし戦国時代の独立自治都市にその似たような組織はあった)本書の首長制の中心は、大化改新前の国造制論である。支配領域内部には多くの自律的首長層を抱えた大国造制がヤマト政権による国家であったというのが石母田説である。大化の改新を国造制秩序に基づいて国家すなわち領域的支配を成立させた画期と位置付けた。大国造制は律令制では国司に代置されるが、首長制は郡司である小国造の基盤となって生き抜いた。石母田氏は7世紀・8世紀の推古朝から律令制の成立に至る時期を対象とした。首長制を制度化したのが郡司であり、国家公民の支配関係を代表するのが国司である。この権力の二重関係は、律令国家は律令制と氏族制の二元的国家である認識にも通じる。この観点は平安時代に伝統的首長である郡司層の没落する社会の変化にたいして国司がどのように再編されるかという歴史研究に受け継がれた。石母田氏は古代国家の成立を律令国家において考えていた。そういう意味で推古朝は古代国家誕生の第1段階と位置付けた。律令国家のなかに古い伝統的なありかた(邪馬台国以来の天皇制がその最たるものであるが)が残っているのも日本の歴史である。古代以来天皇は一度も専制君主であったことはない。連合政権の中の大君だとしてもその大権は制約されていた。天皇制もヤマト政権の政治的首長という古い在り方を継承している部分が大きかった。明治維新で忘れられた天皇を再び引きずり出したことは近代国家を目指す明治政権の最大の失敗であったといえる。

第1章 「国家成立史における国際的契機」

1) 対外関係の交流、戦争と内乱の周期: 日本の古代国家の成立と構造の歴史的特質の一つは、国際関係と切り離しては考えられないということです。対外関係という一つの契機が一国の内政に大きな影響を及ぼし、また逆に内政の矛盾が対外関係に発展することもあります。対外外交史が単純に内政と外政を分けて、内政還元主義を生み出したことは反省しなければならない。592年蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺した事実は、新羅進攻の目的で筑紫に派遣した大将軍紀男麻呂以下の2万人余の軍隊をくぎ付けにした蘇我氏の陰謀説として説かれることが多いが、6世紀を通じての朝鮮問題における敗北と外交の行き詰まりの結果としての、推古朝の支配階級内の闘争であった。本書は国際関係を国家成立ののための独立の契機または要因として考える。国家の端緒形態を為す邪馬台国の段階においてすら明かな交際関係が読み取れる。邪馬台国の女王卑弥呼には二つの顔があった。国内向けにはシャーマン的女王として弟を介して政治を行い、対外的には28か国を従える「親魏倭王」として国王の顔である。当時の中国の三国時代には、魏、呉、蜀が対抗関係にあり、北の魏の圧迫を受ける朝鮮の高句麗が南の呉と結ぶ動きがあった。魏は高句麗に圧力を与えるために邪馬台国の相対的地位を高める目的で使節を派遣した。数年後魏は大軍を発して高句麗を征討を行った。卑弥呼は主体的に魏との友好関係をアッピールし、狗奴国との紛争で女王は帯方郡の魏の太守に報告し、激励の詔書を得て国内紛争の解決に利用した。これは女王卑弥呼の外交手腕である。諸国の対立と交錯によって構成される国際関係の中から、自己の政治目的を実現すための可能性を見出して現実の国内政治に利用したのである。シャーマン女王という著しく未開古代の面と国際舞台に立つ女王の面が同時に存在する。シャーマン女王はいろいろな「禁忌」に縛られているが、「禁忌」は共同体を法にかわって規制する未開社会の方法であった。王=首長は「禁忌」に縛られて疎外され直接その命令を伝達しえないために、なんらかの媒介者を必要とすることは多くの未開社会に見られる。それは6世紀以降の「奉宣」という官職の原始形態であった。卑弥呼には意思を伝達する「男弟」という存在があり、かかる二元構造はポリネシア諸島の王制に残っている。共同体の首長制の歴史的発展と統治機構の原始的形態である。共同体の共同性がアジア的形態では暴君的首長によって代表される。代表する首長は対外的には開明的な性格であったとしても、国内的には人格的に未開的な要素が強い。卑弥呼はアジア的首長制の一つの類型である。推古朝において推古女帝と万機を総摂する皇太子という結合体は、女王と「男弟」の関係に同じである。6世紀の朝鮮半島は高句麗、新羅、百済、任那(日本領)の4か国に別れていたが、512年継体天皇のとき、実質的に管理しえなくなった任那4県を百済に割譲した。これに反対したのが勾大兄(皇太子)であった。多民族との交流が重要になれば、その機能を独占する首長制-王制は開明的になるが、内部的地位はそれによって強化される傾向を持つ。邪馬台国における国の機関として伊都国に駐在する「一大卒」はあきらかに外交関係を統率する官名であろう。又各従属国の市を管轄する官もいたようだ。邪馬台国または弥生式時代において朝鮮海峡は大陸から日本を保護する効果もあったであろうが、基本的には日本と大陸を媒介する、人と物流の坩堝であったとみられる。この交換と流通のの発展過程において、決定的役割を果たすのは共同体を代表する首長の媒介者の機能である。邪馬台国の内部には王、大人、下戸、奴婢という階級的・身分的分化がみられる。支配と隷従という古代奴隷制を基礎とするアジア的首長制では、官または統治のための制度が発展するのは困難である。4、5世紀の古墳時代の首長が持つシャーマン的な司祭者の性格が政治に代置しているのである。日本古代のようにアジア的首長制が頑強に支配した国にあっては、国家の基本的属性を為す機構、組織、機関の制度は必然的に遅れた。一方首長の境界地特に外国との接点においては、急速に官の組織化が進行する。九州の「筑紫大宰」は、長官・次官および主典の3級に分化し、各クラスには相応の従者(官僚)が配置された。推古朝の「筑紫大宰」が、天武、持統朝に整備され令制の「大宰府」すなわち外交交渉にあたり、九州を管轄する「小朝廷」の機構を備える原型となった。ところが推古朝の中央の政府組織は依然として部民制的構造から分離することはできなかった。王権の家産的組織から脱皮できなかった。国内の「国」を対象とした収税にあたる「大蔵」のみが官司として成長するのである。それに対して推古朝がモデルとした百済において、国家機構が比較的早期に発展したのは、朝鮮3か国の対立と中国との戦争によってもたらされた軍事的・政治的緊張のためであった。諸国の内部構造が支配と隷従を基礎としている以上、国際関係においても冊封関係、君臣関係、朝貢関係が基本となる。鉄器の利用と奴隷制が生産関係や戦争手段を加速し、支配と統治機構(国家)の成立を速めた。これも国間の交流である(文明の移転)。7、8世紀の国家成立期に限定すると、国際関係は東アジアにおける戦争と内乱の周期にあたる。朝鮮問題が国際関係を規定し、7世紀初頭(推古朝のころ)高句麗、新羅、百済三国の王権の確立と対立が支配した。7世紀中葉に百済、高句麗の滅亡と新羅の朝鮮統一で終結した。712年随の煬帝の高句麗征伐をもって始まった。三ヵ国はさまざまな時代ごとの合従連衡策を使ったが、日本は6世紀初めには朝鮮問題干渉能力を喪失していたが、百済滅亡の際に海外援軍を派遣した。7世紀は東アジア動乱の周期であり、それはそれぞれの主権にとって決定的契機となり、国内矛盾の爆発、反乱、クーデター、暗殺となった。この時の日本は崇峻天皇の暗殺、舒明・皇極天皇期における政情不安と山背大兄王の内戦を経て、大化の改新の政変後、古代最大の内乱である壬申の乱となった。大化の改新も壬申の乱も東アジアの戦争と内乱の周期という視野で見る必要がある。第2の東アジア動乱の周期は730年の天平期にあたる。動乱の規模は小さいが、渤海と唐の戦争、それへの新羅の参加で危機は始まった。中国では唐の支配力が弛緩し安禄山の乱、日本では藤原弘嗣の乱、藤原仲麻呂の乱、新羅討伐計画が起きた。天平期は律令制国家が完成し、日本支配層が対外政策と戦争計画に乗り出すなど、内政の延長としての外交政策が目立った。

2) 推古朝 権力集中の諸類型: 推古朝は、東アジアの戦争と内乱の始まった時期にあたっている。倭国が1世紀にわたって中断されていた中国王朝との外交関係を再開したことは対外関係の歴史において一つのエポックをなすものであった。中国で随帝国が成立し598年第1次遣隋使派遣となったが、対新羅侵攻計画と並行して行われてたことは、601年大伴噛を高句麗に派遣し、坂本臣糠手を百済に派遣して任那救援を要請している。その2年前随の文帝が高句麗征討を行ったことで朝鮮の三国の激しい内戦状態を引き起こした。三国間の相対的安定期が終わり、約80年にわたる戦争の周期に入った。隋の圧力と倭国の介入が三国間の均衡を破ったのである。新羅は高句麗・百済を無視して594年に随に使いを出して貢献し、「上開府楽浪郡公新羅王」に封じられたことが、巨大な隋の従属国になったことを意味し、高句麗、百済の反発を招き、任那維持をもくろむ倭国(そのころ日本という国名は無かった)の介入を招いた。確かに1世紀にわたる倭国の中国との没交渉は、朝鮮三国から外交上の遅れをとった。608年第2次遣隋使の派遣で遅れを取り戻すために百済とともに朝貢したようである。東アジアでは朝貢国として隋の世界帝国的秩序に入ることが国の存続にかかわっていた。一つの支配・服従の国家関係である。この国家関係は唐の時代(日本では天平奈良時代)にも続き、唐の皇帝に毎年「上表」を出す義務があった。大伴古麻呂の新羅との席次争いが有名である。推古朝の倭国と隋の関係では、来朝した随使に対して倭国王(持統天皇・聖徳太子)は「我は夷人」と蔑み、朝貢を約束した。朝鮮の新羅・百済両国が倭国を「大国」といて一目置いているのは倭国が相対的優位にあり朝貢を促していたとみられる。倭国の「東夷の大国」という自負心も、基本的には法興王以来の新羅の急速な発展によって実体のない概念に過ぎなくなった。隋の征服戦争と三国間の戦争を契機として、倭国の内政に反映せざるをえなかった。皇太子=聖徳太子による万機をことごとく任せる「摂政」という政体である。「摂政」は推古朝の聖徳太子に始まり、孝徳ー斉明朝の中大兄皇子でもって終わる。7世紀前半の特別な事情と不可分にある。それは朝鮮三国と日本の戦争と内乱の周期が持つ特質と国内体制に要求される支配階級の権力集中という東アジア共通の事情である。@百済型:義慈王に見られるもので国王自身に支配階級の権力が集中した。641年に偽慈王が即位して専制君主として軍政の大権を握った。百済の官司制がそれを支えた。A高句麗型:泉蓋蘇文に見られるように、宰臣が国権を集中的に独占し、国王は名目的な地位を維持する。激しいクーデターまたは政変によって権力奪取が行われ自身は軍事独裁の「莫離支」となった。B新羅型:新羅の王族金春秋のように、支配階級の権力が王位継承権のある王族の一人に集中される。その強権は軍事背景を持つ指導者によって支えられている。王位には国権を持たない女帝がつく。貴族支配階級の首長の「評議」機関「和白」が重要な機関となる。ほぼ同時代の日本における女帝斉明天皇と中大兄皇子・藤原鎌足の関係に似ている。倭国(日本)での推古朝の政体をみてゆこう。聖徳大使の「万機総摂」制は権力集中という意味で朝鮮三国の場合と同じである。600年の第1次遣隋使派遣以降、603年「冠位12階」の制定、604年「17条の憲法」の制定、620年「天皇記」、「国記」の編纂をおこなった。600年の新羅出兵はほとんど成果は無く、その後の新羅出兵計画は挫折している。聖徳太子の対外派兵は極めて弱体で見るべき成果は何もなかった。内政改革は「斑鳩宮」の建設後に矢継ぎ早におこなわれた。大臣蘇我馬子を含む支配階級を代表して聖徳太子の外交は行われた。国家という機構を介して支配階級の権力集中が行われるのは律令制が確立した天平期以降のことであり、推古朝では支配階級の力量は聖徳太子個人の人格的力量に帰せられる。推古天皇ー聖徳太子ー蘇我馬子という権力集中の方式は、新羅型の真徳女王ー金春秋ー金ゆ信の関係に類似している。中国王朝との生死をかけた戦争をおこなう朝鮮三国の場合と、推古朝の干渉戦争は朝鮮半島に拠点を持たず現実性を欠いた「大国意識」に過ぎなかったので、外交的には見るべきものは無く、主として制度的・文化的側面に限られた。高句麗・百済と同じく、推古朝の支配層にも新羅の「和白」(貴族的合議制)のような土台が欠けていた。聖徳太子と馬子の二人の合議制は太子亡き後急速に力を失い、馬子は高句麗型の専制的権力集中を求めて中大兄皇子との対立を深めた。太子の業績は「礼」、「冠位」という天皇の権威を対外的に示す制度である。「天皇」号の成立が推古朝であったという説があるが、推古朝の「大王」から「天皇」号の転換は制度的にまだ不安定で、高句麗の国王が「大王」を称していたことへの対抗措置であり、対外的に日本国を代表し、統治権を総攬する主権者としての「天皇」号が確立したのは乗御原令以降とみられる。大化改新直後の年頭に高句麗と百済の使節に「御宇日本天皇」を名乗った。第1回遣隋使の「上表」に「倭王あり、名はアメタシリヒコ」と名乗ったが、随帝は「義理なし」と叱責し、名前を改めさせたという。天と王権との関連のさせ方は中国の思想である。第2回の遣隋使の国書では「日いずる国の天子、書を日没するところの天子にいたす」というと、隋の煬帝は「無礼者」として国書を破棄した。第3回遣隋使の国書「東の天皇、敬しみて西の皇帝にまうす」といった。中国では北極星を表す天皇という皇帝の称号はない。そこには中国王朝の世界帝国的秩序の内部に、自ら「大国」としての位置を占めようとする意図が見られる。また中国王朝に自国の歴史を説明するための公式文書として「国史編纂」が行われた。推古朝の「天皇記」、「国記」がそれである。百済や新羅でも推古朝以前に史書の編纂が行われ、百済本記、新羅の国史が中国に提出されている。易姓革命の思想を欠く日本では系譜の編纂によってのみ王権の世襲制の正当性を主張しようとした。記紀の原型の成立史としての推古朝の意義はこうした国際的契機なしには語れない。推古朝において日本支配層は歴史上はじめて自覚的に外国の文物制度で理論武装し始めた。それも百済をルートとする輸入、百済滅亡後の大量の「帰化人」の流入にあったとみられる。帰化人の頂点に立ったのが蘇我入鹿であった。異質の国家機構の建設がはじめて支配階級の課題として提案された。

3) 大化改新 二つの方式: 外交問題が内政の変革の課題と不可分であったことは、645年唐の太宗が高句麗を攻め滅ぼしたこと、その翌年645年の大化新政府は高句麗・百済への詔を下し、同年難波への遷都が行われ、646年高向玄理を新羅に使節として送ったことと関係している。臨戦態勢の支配層の動きに危機感がひしひしと伝わってくる。645年乙巳の変において、朝鮮外交政策をめぐって、支配層間の意見の対立が極点に達し、新羅派の中大兄皇子が独裁者蘇我入鹿(鞍作臣)を暗殺したと考えられる。ここで大化改新前の朝鮮情勢を振り返っておこう。書記が伝える623年の対朝鮮政策の記事は支配層内部の意見の分裂を示している。意見とは@中臣連に代表され、新羅への出兵または圧力政策で、任那の百済への返還を求める。A田中臣に代表される、百済への不信感から、新羅との交渉による解決を求める二つの意見対立である。合議の結果Aの政策が採用され、吉士磐金を新羅へ、吉士倉下を百済に派遣した。白木との交渉結果は、新羅及び任那の「調」を貢ぐことで妥結した。ところが使節が帰国する前に国内で政変があり、@の意見を主張した中臣連の軍隊による新羅出兵が決定した。合議の主宰者は蘇我馬子であり、新羅派兵を命じた。聖徳太子ー馬子の共同執政である推古朝の政体はもろくも崩壊した。629年推古天皇の死去と舒明天皇の即位においても、支配層の意見は鋭く対立した。大臣蘇我蝦夷は自分が推す田村皇子の嗣位決定を強行することはできず、群臣の統一を見なければならなかった。安倍麻呂ほか5人の大夫は田村皇子派、巨勢大麻呂ら3人の大夫は山背大兄派となった。この意見対立で蘇我本家は分裂した。合議制における意見対立は常時存在するものである。それも実体がない任那を新羅が支配することを認めたうえで両国の関係維持が図られた。百済への評価が二つの意見対立の裏付けとなっていた。@は任那を百済に返却すべしという親百済派、Aは豹変する百済の姿勢に業を煮やし道義的非難を加え、新羅との交渉を重視する親新羅派であった。聖徳太子の万機総摂時代は親新羅姿勢であり、これにたいして蘇我氏の百済分化輸入派は百済帰化人ととにも密接な関係にある一貫した親百済姿勢であった。聖徳太子の対唐・新羅政策は唐の朝鮮三国融和・調整策を支持した。当時は高句麗と百済が新羅を攻撃していた。親新羅政策は高句麗への牽制策であった。630年第1次遣唐使として恵日が派遣された。返礼として唐は高表文を使節として倭国に派遣し、新羅を通じて新たな唐・倭の時代に入った。皇極期に始まる蝦夷の専制政治は、642年に百済、高句麗に政変(高句麗の宰臣泉蓋蘇文の軍事クーデター)が起きてから顕著となった。政府らしき政体がない時代において、支配階級の権力集中は特定個人または氏族による単一支配として展開せざるを得なかった。蘇我本宗による専制支配という形における権力集中は、同時に群卿・大夫層からの孤立を意味した。643年入鹿は斑鳩宮で山背大兄皇子を暗殺したことは、一種の恐怖政治到来の危惧を群臣の中に巻き起こした。支配層内の意見と利害の対立が起きるたびに激しい血を血で洗う内乱が起きることは、支配層がその内部矛盾によって自壊しないように、階級の共同利害を貫徹するために必要な機構として「国家」の成立をいわば歴史的必然として促したのである。専制政治は破綻の原因ではない。それが政策の失敗と結びついた時没落する。したがって蘇我本宗家の親百済政策は、皇極期において任那を新羅から取り上げ百済に返付することは成功している。それは蘇我氏の力というより、百済義慈王の新羅戦の勝利という自力によるものを確認したに過ぎない。642年百済の政変では王子ら40人を追放したが、翅岐王子をかくまった蘇我氏の処置は百済の義慈王を敵にする政策の失敗である。631年来日した唐使高表文は、倭の王子が礼を失したといって命を述べずに帰国した。こうした行き違いが唐と倭の外交不調となった。唐および朝鮮三国に対する外交の行き詰まり、離反、停滞が蘇我氏専制政治から出た政策の失敗と見なされた。唐の太宗が大軍をもって高句麗の征討を開始したのが645年2月のことである。大化の改新の政策の一つは新しい国際関係に対応するための国内体制を固めることであった。孝徳天皇、斉明天皇の下で中大兄皇子と藤原鎌足という新しい権力者の成立が図られた。その形は推古朝方式の復活で、新羅型政体であった。大化以前の国制であった王民制から、公民制を基礎とする新しい国家組織の樹立にあった。外交政策は新羅を媒介とする唐との関係修復である。倭国は任那との関係を断ち、百済の権利を否定した。651年唐の高宗は朝鮮3国に璽書を高句麗と百済におくり、新羅への攻撃を止めるように命令した。百済にとって衝撃の璽書であり、翌年から唐への朝貢を再開した。それは後年に唐が高句麗・百済を征討する伏線であり、日本にたいする新羅援助のための出兵指示であった。親新羅的な蘇我方式は、ここに至って最終的に放棄しなければならなかった。 以上が7世紀中頃の唐の半島政策の転換、すなわち百済を滅ぼして高句麗を孤立させ、次いで高句麗を征討するとする作戦への転換であった。それは朝鮮半島三国のみならず倭国の支配層の権力移転や権力の集中の形式の模索を促した。653年難波から大和への遷都が行われ、朝鮮半島への臨戦態勢の解除となった。ついで654年第3次遣唐使派遣が行われ、押使が高向玄理でありきわめて政治色の高い遣唐使であった。高宗より新羅援助の命令を与えられたが、倭国はこれを無視したようだ。655年女帝斉明天皇の即位と皇太子中大兄皇子の執政となり、推古朝方式(新羅真徳王方式)の政体となった。そして国内的には大規模土木工事(軍事施設や城の建設)が行われた。これは唐の百済征討への備えとみなされる。そのための駆り出された人民の徭役労働の負担が、658年有馬皇子の変で蘇我赤兄の挙兵の理由のひとつに天皇の失政としてあげている。660年唐の高宗は、新羅と連合し、百済征討の兵を出した。この戦いは百済と倭国にとって不意打ちであって、倭国は完全に準備不足であった。663年百済の敗残兵と倭国の水軍が、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた。この敗戦によって日本は唐との関係修復が最大の外交課題となった。665年第5次遣唐使派遣は高宗の封禅の儀への参加にあり、日本は対唐では隷従的外交関係に転換した。唐の高宗だけについて見ても4回の大規模な朝鮮出兵、百済・高句麗の滅亡、占領地直接統治といった帝国主義的政策を前に日本は完全に朝鮮介入外交政策を廃止し、天智天皇は都をさらに近江に遷都した。

4) 天平期 第2の周期: 7世中頃までの戦争と内乱の周期に比べると、第2の周期の動乱はるかに小規模で短期であった。朝鮮の情勢が新羅の統一によって安定したこと要因である。第2の周期は、高句麗の残党が建国したという渤海と唐の戦争および唐における安禄山の内乱を契機に、日本が巻き込まれた国際関係である。それらが内政に及ぼした影響は文物・法の交流事業に比べると過小評価されがちであるが、律令制国家機構の確立・実施・支配者内部の矛盾となって現れた。斉明・天智朝の百済援助の敗北経験からして、758年恵美押勝の乱で斬首された藤原仲麻呂の新羅征討計画のとん挫に見られるように、唐が新羅を援助する限りあり得ない選択肢であり現実性は無かった。ところが渤海より唐の安禄山の乱の報がもたらされたことが、仲麻呂が新羅征討計画を国家政策として実現するため3年間鋭意検討する契機となった。安禄山・史思明の内乱は唐王朝没落の危機であったが、国内政治がそれによって動かされるにはそれなりの条件がなくてはならない。@最高軍事指揮権の確立(仲麻呂が紫微内相になる)、A政治的反対派の弾圧、B新羅を攻撃できるかどうか戦争勝利の戦略の条件が揃わなくてはならない。国家官僚機構としては、机上のプランではなく、船舶、兵士、兵站に自信がなければ戦争に踏み切れない。国家機構の確立は、対外戦争を全官僚機構によって計算され準備される系統的な事業を可能にしなければならない。百済、高句麗の滅亡によって、その王族系帰化人が大量に来朝し、仲麻呂は彼らに氏姓を与えて征討計画の節度使といて採用した。惣管・鎮撫使体制は律令国家の強権的収奪体制を支え、畿内と西国の軍事態勢を固める意図があった。しかし孝謙上皇(道鏡)と淳仁天皇(仲麻呂)の対立が計画とん挫の端緒となった。天平期の日本・新羅関係は対等の外交関係を維持し、新羅は朝貢を拒否した。752年新羅の王子金泰廉が使節として来日するまで両国は国交断絶状態であった。751年新羅聖徳王の時代に日本の兵船300隻と交戦しこれを打ち破ったという記録がある。渤海国との外交関係は、728年遣渤海使引田虫麻呂が渤海の使節高斉徳とともに渤海に渡った。援助要請に応えるためであった。新羅が唐の指示により渤海を攻撃する計画ができたのは733年のことである。唐と渤海の戦争は726年に始まったので、唐は北から新羅は南から渤海を撃つ戦術であった。730年虫麻呂はこのような朝鮮半島の状況を視察し報告した。日本の支配層の中に新羅撃つべしという意見が起きたようである。731年藤原宇合ら6名が参議に任じられ、大納言藤原武智麻呂が太宰師を兼任した。この参議のうち4名が惣管・鎮撫使に補任された。この権力集中の方式は特定の人格によって代表される権力集中とは異質の任命であり、機構によって政策と行動の統一をおこなう集権制度の始まりである。なかでもその権力の中枢にいたのは藤原不比等の4人兄弟(藤原四卿)で、武智麻呂、房前、宇合、麻呂である。かかる権力集中形式を企画し権力を握ったのは藤原四卿であったにしろ、四卿の同時死去にも関わらず、この制度だけは生き残った。藤原一族は対新羅積極策、すなわち渤海と新羅関係に意欲を持っていた。720年不比等は「靺鞨国」(渤海)視察使節を送った。740年の藤原弘嗣の乱は西海の出来事であるが、橘諸兄政権とその側近たる僧玄ム、吉備真備に対する藤原宗家一族の勢力巻き返しの一側面である。諸兄政権は新羅策に消極的であったことにも不満であった。

第2章 「大化改新の史的意義」

1) 改新の課題 史料の問題: 日本の古代国家は、浄御原令(689年天武・草壁皇子)または大宝律令(701年刑部皇子・藤原不比等ら)の制定による律令国家という形において、7世紀末または8世紀初頭において完成される。しかしそれには半世紀にわたる前史がある。国内的には645年の大化の改新と、対外的には663年の白村江海戦での唐・新羅連合に敗戦したことを契機として律令制国家体制への転換を進めてきたことが先行していた。推古朝の国制とは異なる新しい国家が成立するための出発点であった。推古朝とは何がどのように転換したかが問題である。大化の改新は一般に私地・私民の停廃・収公とされ、あるいは唐の国制をモデルとする中央集権国家の樹立、または天皇絶対主義の確立、または律令制の起点と描かれてきた。それは日本書紀の孝徳紀に基づいている。日本書紀は奈良時代の初めに支配層の思想や意図から編纂された史書であり、第1次資料ではない。改新の史料批判は非常に困難で、石母田正氏は646年正月の「改新詔」(本書付録大化改新関連資料のより)の問題を指摘する。「改新詔」は以下の四条から構成されている。@改新の根本課題である私地・私民の停廃・収公または公地・公民制、A京師・畿内および郡司などについて、B戸籍・計帳・班田収授法について、C調・官馬・仕丁・采女などについて規定されている。もっとも重要な@については3つの部分からなる。@)昔より天皇の持つ、子代の民、屯倉ならびに臣・連・伴造・国造・村首の持つ部曲の民、田荘を罷めよ、A)食封を大夫以上に与える、それには差がある。布を官人や百姓に与えることにも差がある、B)大夫は民を治め信頼を得ること、よって禄を与える。この第1条は原詔か原史料を基礎としているか、または編者の著述(虚構では決してないが)かという史料批判がある。石母田氏は日本書紀がいう第1条の内容を第1次史料とはみなさず、次の資料を第1次史料とみている。a)大化元年八月庚子の詔、b)大化二年三月甲子および辛巳の詔、c)大化二年三月甲申の詔、d)大化二年八月癸酉の詔、e)大化二年三月壬午の皇太子奏(a-eは本書付録に収録されている)である。石母田氏は改新詔全体が後世の潤色や作文だというわけでなく、問題は第一条にあるとしても、第二条の畿内制、第四条の田調・戸調・調副物および官馬・兵器・仕丁・采女などの規定は第一次史料の可能性を持つと考える。史料批判の第一の注意点は、第一条を全体として読むことであり、むしろ食封制・禄制に関する事項が冒頭に置かれるほど重要事項であったかという問題である。それは官人貴族層の第一の関心事が給料にあったからである。a)b)東国国司への詔との関連は後に考察するとして、e)の皇太子奏と改新詔との関連性を見てゆこう。e)の皇太子奏は次の二つの部分からなっている。1)万民を使役できるのは天皇のみ、2)入部および所封民(屯倉)より仕丁を選ぶこと、仕丁の私的な使用は止めると宣誓している。「改新詔」にある「部曲の民、処々の田荘」という言葉がe)の皇太子奏(入部および屯倉の所封民より)には見えない。そこで言っていることは徭役制で使う「仕丁」をどこから持ってくるかということである。改新詔の処置に従い(50戸あたり2人)の仕丁を徭役に供出しましょうとする皇太子側の通知です。仕丁を入部と言っているのは、改新前の慣例で後続に使われる仕丁は子代入部の部民としてしたからです。仕丁がなぜ皇太子奏でわざわざ言及されているのは仕丁が唯一の徭役であったからで、改新以前から在地首長層はその支配地内部の農民に対して広汎な徭役労働賦課権をもっていたからです。大化改新政府はこの首長による労働搾取の体制を公的なものに編成することが目的であった。法的規制は浄御原令から始まった。しかし首長層の裁判権には全く手を触れえなかった。皇太子奏における仕丁の言及は、伝統的な首長層の部民や屯倉の撤廃や収公を意味しないばかりか、その権限の存続を前提として述べている。大化の改新の第一義的課題が私地・私民の撤廃や収公すなわち所有形態の根本的改変でなかったことは、第1次史料a-eをよく読めば明白である。支配層の土地・人民支配の根幹は、「貸稲」という出挙制によって保障され、本稲(出資金)の増幅で潤うからである。大化改新の土地政策の課題は、屯倉・田荘の撤廃や収公ではなく、「田畝を校」すること、すなわち校田にあったと考えられる。所有者に関係せず、条里制的地割に基礎を置いた一般的な校田は農民の族制や身分にかかわりなく地域的・包括的な把握を可能とする公田性に道を開くものであった。六世紀後半の在地首長層が己が民をこき使って開拓を進め、その所有を正当化するために屯倉などを称していた。これらの詐称を調べて「校田」を行い、正統性のない土地を整理し公に収めることもあった。大化の一般的校田の第2の目的は、税制との関係にある。詔第4条の田調・戸調・調副物がその課題であった。改新前の調の制度は極めて不安定で不確実なものであった。大化の新税制を媒介とする一般的校田と賦課制は、在地首長層と人民の間に存在する収奪関係(生産関係)を基本的に改変する性質のものでなく、屯倉や田荘の存続と矛盾するものではない。大化改新の課題は部曲などの私民を含めてすべての民戸が調査・登録の対象となった点である。それが将来の統一的な税制の基礎となるのである。改新後の弱体な政府権力では、支配層の経済的基盤を揺るがすような改革ができるわけはなく、私地・私民制を廃棄して食封制に転換することは、理念として示されただけで実現可能制は非常に少なかった(古代から中世を経て、全国が政府支配の公地公民制が敷かれたことは一度もない。基本所有形態は私有制であった)日本書紀編者に令制国家の起源を大化改新に設定しようとする意図が詔第一条に明白であるが、そのような強力な政権ができるのは壬申の乱で権力を握った天武天皇の専制時代まで待たなければならなかった。

2) 人民の地域的編成 王民制から公民制: エンゲルスは「家族・私有財産・国家の起源」において「国家を特徴づけるものは第一に領域による人民の区分である」という。近代国家において生活する人間にとって当然に思われることも、それ自体が歴史の所産である。律令制国家では明確そして典型的な形で存在する。人民の戸籍・計帳による把握がそれであり、それに対応する行政権力の構造は、里(郷)から郡、さらに国にと領域区分を基礎として重層的に構築されてきた。先行する時代には身分的・部族的編戸・雑戸籍が特徴であったが、律令の特徴は地域的編戸・公民籍に特徴があるといえる。雑戸とは領域内に散在分布する雑戸という身分(世襲職業)に属する民戸だけを抄出して戸籍を作る。令制における雑戸は大化の改新前には部民の遺制であったが平安時代には消滅する。大化の改新前の編戸には二つの方式があった。一つは屯倉に付属する田部の「丁籍」、「名籍」は「雑戸」と同じ身分的・部族的編戸である。二つは帰化人の集団を戸として編成する場合で、「田部」に近い編戸である。また戸を単位とする集団の編成の仕方はおそらく朝鮮から学んだとみられる。大化改新後の編戸(庚牛年籍、庚寅年籍)の特徴は、以前とは異なった統治様式または人民編成原理の上に立つ。地域的な編成を確立した庚牛年籍の端緒は、族制や身分、支配・統族関係にかかわりなく領域内のすべての民戸を、その居住地において把握することであった。推古朝における支配体制の基礎にある一つの秩序は「王民制」である。王民制の起源は5世紀にあって、「氏姓」として政治体制になるのは6世紀以降のことであった。ヤマト王権を中心に結集していた畿内・近国の臣連・伴造、推古朝の群卿・大夫層は一つの統一体を形成していた。それは内廷・外廷と官吏の総体としての一個の政府として存在するが、それは国家としては未熟であった。王民制においては「最高の統一体」としての王権は、「有姓階級」の唯一の贈与者としてその秩序の形成主体であった。大伴・物部・忌部をはじめとする伴造制の発展は、統一体の内部において分業の発展の結果、多数の伴造や伴部を分化させた。それらの伴造はその根拠地において部民を保有し、それによる分業と私有制の展開が王民制を土台にして発展した。王権に代表される統一体の国制は、王権内部の家産的組織(内廷)にせよ、またはその外部の統一体全体に関する組織(外廷)にせよ、姓を負うことによって王権に奉仕する「氏」の集合体となる。氏が伴・部という民を地方諸国に保有する独立(縦割り)秩序を作る。公民制は王民制とは異なる原理であるので、姓による王民秩序(氏姓制)の複雑な分化が国としての秩序を持たないので、改新政府はこれを改めることが課題となった。第2の課題は王民制内部での私有制の発展が税収を阻害するので、税制の基礎となる公民の編戸原理を導入することであった。大化改新の史的意義は、王民制から公民制に基づく国家への転換にある。しかし公民的編戸の発展は、王民制を排除しない。地域的編戸は身分的・部族的編戸を取り込んでそれを体制化することにあった。天智朝の「定姓」や天武朝の「八姓」も王民制を支配層の内部秩序として役割を果たした。

3) 改新と東国首長層: 大化改新が政治改革であるなら、政策問題(公民制)のみならず、政策を実行する権力の所在を問題としなければならない。政策を決定した朝廷がこの権力を持っていないし、朝廷中央と地方組織の脆弱さからして、改新期に中央から派遣された「東方の八道」(東国の惣領)は中央の政策を在地に命令するだけで、彼らは直接人民への支配権はない。校田と民戸一般の調査・登録をおこない、租税と賦役を人民に強制する事実上の権力を持っている階級は、国造・伴造として存在する在地首長層以外にはない。彼らに政策を無視されたり、骨抜きにされると政策の実効はでない。(現在でいうと政治家立法と官僚層の関係に似ている) 大化改新詔関係史料a),b),c),d)にしきりに現れる「国造」への指示を見ると、国造が在地における改新の主体として全面にでてきたことが明白である。国制の身分的・族制的編成から領域的国家への転換の政策は、改新政府にとってその権力基盤を、国造制におくか、伴造制におくかの問題である。東国において典型的に見られることは、国造も伴造も、在地首長制が王民制の中で再編成される二つの形式であった。国造・伴造制の根底にある実体は、自律的独立的な在地首長制に他ならない。大化改新前の6世紀における在地首長制の王民制の編成は、部民制や屯倉性を通じて在地の支配形態の変化に大きな変化をもたらしたが、彼ら在地首長の独自の支配体系を変えるものではなかった。古墳時代の毛野(群馬県と栃木県地方)の豪族の古墳群はヤマト王権の古墳制度を見習ったものであるが、形式の上で大王間の身分的格差が見られないこと、および毛野の首長層らがヤマトの勢力に対して独立した支配権を有していたことを示している。5,6世紀西国の国造の反乱が頻発したことと東国の首長らは相反するようだが、首長の支配体系全体が名代・子代とされるような東国型の方が独立性が高かったと思われる。6世紀東国で多くの屯倉が設置されたが、大和朝廷の直轄地の鉄器農具による生産性向上は見られたが、中央から「田令」、「捉稲使」が派遣されたとしても、制度があれば官僚だけで生産できると考えるのは早計である。これらの実務を行ったのは在地首長層である。屯倉における剰余生産物の収奪は、屯倉を管轄する在地首長制における支配力、強制力に基礎をおいていた。在地首長層の権力関係は、軍事賦役と裁判権である。裁判と刑罰による強制力が支配の手段として不可欠である。在地の裁判権が中央の部民ー伴造の系列で構成されていたと考えることはできない。在地首長が領地内の民戸に対して一律に裁判権を行使した。出雲の国では、裁判権を有する出雲国造とそれに従属する首長層の領域支配力の協力なしには裁判の行使は不可能であった。推古朝を最盛期として伴造制は律令国家の発展により、王民制とともに没落する。大化改新の意義は次の点に要約できる。@国造の領域支配が制度化された。在地首長は王民制の秩序では部民の管轄者「伴造」として、特定地域の支配者としては「国造」として存在する。「国造」が「評造」(群制)に転化することで、人民の地域的編成・領域支配へ転嫁する。A国造から評造への移行に伴って、国造の支配領域の分割や統合、再編成が行われた。国造から評造への移行において、新しい評造に国造でない者も選任された。彼らは在地の首長層から選ばれた。すなわち在地首領層内で従来とは違う分化や発展が見られ、群小首長層(中間層)から中央が旨く吸い上げたということである。校田や民戸の調査・登録という政策が、東国だけでなく全国の在地首長層の階級的利害と結びついて進行した事業と成り得た。

4) 改新政権の軍事的性格: 一般に唐制に基づいた王権を軸とした中央集権国家の樹立が改新政府の設定した課題であり理念であった。大化の改新、天智朝、天武朝と浄御原令の施行および大宝律令の制定・施行という一連の律令制国家の前史である。前史をなす7世紀後半の時期においては、内乱・謀反および対外戦争があり、律令制国家の樹立は紆余曲折を伴い約半世紀の時間を要した。国家という機構はそれ自体が目的となるのではなく、何かを解決するための手段であり、媒介である。この節では大化改新体制の軍事的側面を中心に6つの特徴を見てゆこう。
@兵器の規定: 改新詔第二条以下の諸規定には日本書紀の編者の転載に相当する現詔(第1次史料)によって確認できる。第四条の兵器のきていがそれである。一人一人に与えられる兵器には、刀、甲、弓、矢、幡、鼓があり兵庫に収められる。兵器収公・兵庫設置は政府の重要課題であり、改新の政変があった月から使者を諸国に派遣して兵器を兵庫に集めさせた。
A官馬の規定: 第四条の官馬の規定は、中馬を百戸に一匹、細馬を二百戸に一匹、馬の値は布一丈二尺という規定である。東国の在地首長の支配下の田部、湯部から軍馬を徴した。
B国造軍: 令制下の防人の制度に遺制が見られる国造軍の特徴はその内部序列が、国造丁ー助丁ー主帳丁ー火丁ー上丁(一般兵士)として制度されていた。国造軍組織は6世紀からから成立するが、在地首長および旧連の伴造軍は軍組織としてはせいぜい親衛隊的であり、国軍としての強力な軍隊の編成原理には成り得なかった。旧名門貴族であった物部氏や大伴氏の伴造制は組織として弱体であった。
C惣領ー国造の体制: 改新前の東国では令制の国家はまだ成立しておらず、統治体系は、惣領のもとに国造と評が併存してとみられる。惣領ー国造の体制は軍事的な性格が強かった。惣領とは太宰と同じ官職であるが、軍政官(兵馬徴発権をもち、惣領所在地は軍事基地であった)というべきである。東国八道に派遣された惣領も若干の「国」からなる地域ブロックを所轄した。令制下の「国司」は惣領ー国造の軍事的機能を引き継いでいる。郡制と軍団組織の成立が国造軍と関連しており、在地首長層に深く依存していた。唐の制度にならった行政組織は、日本の在地貴族の軍事組織を再編成したのである。
D惣領ー評制の系列: 大化に始まる「評」が朝鮮の制度に起源をもつ。新羅の「啄評」、高句麗の「内評・外評」、百済の「評」が軍事と行政との不可分の統一体であった点である。「評」とは改新の際に諸国に設置された兵庫を中心とする軍事的拠点に起源があるようだ。
E畿内制度: 改新詔第二条に規定された畿内の範囲は原詔に基づく規定とみなされる。しかも中国の畿内制ではなく、朝鮮の畿内制をモデルとした可能性が高い。中でも百済の制「五方五部」制は、@)王都周辺を畿内と呼び五部に別れる。A)畿外の地方は「方」に分割され五方が置かれる。B)五方には郡がおかれ、一方に十郡が属する。この畿内と五方の組織は百済の場合と同じように軍事的編成である。畿内の特別の軍事的重要性が認識されその武装化を推進し、方面軍に相当する「八道」制の成立を対応している。改新の諸制度が行政と軍事の分離が不十分で一体化していたが、唐が高句麗征服、百済征服後に採用した行政組織は旧国の国制の原理的変更を伴わず、高句麗の場合は九都督府、42州、百県に再編成し、安東都護府が統括するものであった。純粋に居住地地域的に把握する行政的なものであった。大化改新は転換期の所産で、王民制を元にいずれ高句麗・百済の水準に達するという観点であった。日本の支配階級が組織された強力な国家を完成された形でまだ持っていなかったということである。

5) 権力構造について: 改新政権は権力の集中と支配層を結集する新しい方式・体制を作り出す二つの課題を背負った。第1の課題は中大兄皇子を中心とする権力の中核を作ることであった。名目的な権威として孝徳天皇のもとに皇太子が集中的権力を掌握する体制は推古朝に似ている。聖徳太子と蘇我馬子の共同執政の権力集中は不十分で妥協的であった。それに対して中大兄皇子に集中された権力は専制的であった。古人皇子の乱、蘇我石川麻呂の反乱、有馬皇子の乱に対する弾圧は仮借ないものであった。改新後の皇太子に集中された権力核が独自の組織を持った。中臣鎌足の「内臣」と僧旻と高向玄理が任命された「国博士」がそれである。「内臣」は皇子の帷幄の臣であり「国博士」は政策立案グループであった。専制権力は蘇我蝦夷、入鹿の目指した高句麗型権力集中であった。蘇我氏が依拠した旧体制の群卿・大夫層から独立し別の形の専制権力を確立することが大化改新の目的であった。さらに公的な組織として左右大臣を置いたことである。安倍内麻呂と蘇我石川麻呂が任命された。この左右大臣の任命措置は旧豪族の取り込みで政権の安定を図ったのである。左右大臣の任務については不明で身分に過ぎないとの考えもある。しかしかかる権力の核とは系列を別にする官職を作り出したことは支配層を全体として周囲に結集する意図をくみ取れる。一般に大化改新において中央官僚の規定や改革の関心が著しく弱いことが特徴である。それに対して「冠位制」に重要な意義が見られる。改新後二度にわたって13階冠位、15階冠位の改定が行われた。国家機関の体制よりも、天皇に対する人格的臣従関係という秩序の設定に熱意を示した。冠位には官位相当制(表の人事)との関係がなく、かつ食封制(給料)の裏付けもなかった。支配者階級は非支配者階級を組織編成する前に、自分自身の階級制(身分制、序列)を確立したというべきである。次に天皇の支配の正当性(天皇制)を「天神」の神託に求めた。推古朝の17条憲法とは余りに異質な、復古調・神話的根拠の強調である。天皇自身は「不摂政」であり現実的君主権が規定されていない真空地帯に置いた。権力核の専制的性格、支配層からの乖離を、天皇の超越性・神話的性格に遁れたのである。(昭和の天皇制軍国主義者と同じイデオロギーである)天皇の命令が、詔という形で中央の群卿・大夫層、人民までを対象とした。権力基盤の拡大、命令伝達の形式は、天皇の権威の在り方、その統治の正当性の在り方を変え、王の中の最大の王としての天皇ではなく、理屈を超えた天の超越的存在者となった。改新によって天皇制のイデオロギー面における絶対化となった。相対的地位から絶対的王権神授説に変わった。改新政権の支配権力の骨格的部分は次の3つであった。@皇太子の専制的権力を中核とする天皇・左右大臣の体制(太政官制および八省官僚機構)、A惣領・国司制(大宝令の国司制および国衙権力へ)、B評および国造制(大宝令の郡司制へ)である。@の国家制度については、天智朝の六官が唐の尚書六部をモデルとしているので、唐制による官僚制への志向があったことは明らかである。大化改新前の「官司制」の延長というより、大きく原理を異にする改革である。推古朝の「百八十部」の実態は宮廷に奉仕する畿内首長層であって、部民制や帰化人専門職のうえに組織されていた。推古朝的官司制が発展して大化改新以降の令制的官制になりうるものかどうかは疑問である。大化以前の品部制自体を解体して、新しい国家計画に基づく再編成が必要である。大化二年の詔d)に「天皇より初めて臣連にいたるまで、所有する品部を悉くやめ国家の民とすべし」が出された。品部とは職業的部民の系列であろう。国家組織に基づく「馬官」、「田令」等は天皇の家産制的臣(使用人)から区別すべき統一体の政府の制度である。大化改新前にも、軍事と外交に関する官職である「筑紫大宰」が存在していた。完成した形での国家の機関に必要な要件が、中央ではなく対外関係の場で発生していたのである。邪馬台国の「一大卒」に起源を持つ組織である。「大蔵」は貢調を収納するための外部機関(大和朝廷と諸国の境界)であったし、「国司」も諸国貢調を徴収するための出先機関であった。大化改新は単なるクーデタでもなく、政変でもない。改新プログラムという志が準備された上での政権奪取であった。しかし「私民の停廃・収公」という所有制度の根本改革が目標ではなかった。専制的な権力を作ることが第一義的目的であった。権力の対象が、惣領制を媒介として中央から国造・評造までを標的とした権力の体系であった。そして軍国主義国家が大化改新の中大兄皇子と鎌足の治世の全般を特徴づけている。特に東国支配に重点を置いた軍事的施策に特徴があった。権力が自立して戦争と内乱に耐えうる体力(機構及び装置)を持つことが支配層の究極の属性である。

第3章 「国家機構と古代官僚制の成立」

1) 過渡期としての天智朝: 大化改新以後の国家の成立つまり律令制国家の前史の段階は、@支配階級がその共同の利害を守るための共同の機関としての国家機構を統治の手段として作り上げ、自らをその中に編成する過程、Aその国家が人民を統治しそこから剰余生産物を収奪する機構の構築過程である。@は主として中央の国家機構、令制の二官八省の成立を本章で取り扱う。Aは国・郡司制・租庸調制・班田収授制度の問題を次章で取り扱う。663年白村江で唐・新羅連合軍に敗北した天智朝の治世は、第一に外圧に備えた軍国主義政策、西国の築城、667年近江京への遷都を急いだことである。第二に国家機構の整備と中央の支配層全体を王権のもとへ再編成する課題に取り組んだ。天智3年(664年)の改革は次の3つの政策からなる。@冠位26階制、A大氏・小氏・伴造の区別と氏上の決定、B民部・家部の設定であった。これが天智朝の国制改革の第一弾となったが、まだ改革の全体像は明らかではない。天智朝の国制改革の第1点は「太政官」の設置である。天智10年大友皇子を太政官に、蘇我赤兄を左大臣に、中臣金を右大臣、蘇我果安らを御史大夫に任命し、日本独自の太政官制を敷いた。先に述べたように大化改新の政権の権力構造は、皇太子(中大兄皇子)ー内臣(鎌足)ー国博士(高向玄理)という専制的な権力核をなす系列と、天皇ー左右大臣という名目的な群卿・大夫層を代表する系列の二重構造に分裂しており、両者は制度的に関連性がなかった。中大兄皇子が天皇(天智朝)になって初めて、太政大臣ー左右大臣ー御史大夫によって構成される機関に統一された。改新以後あきらかに皇太子の万機総摂の機能を太政大臣に転化したというべきであろう。御史大夫は中国から倣った官職であるが、浄御原令の大納言に相当するが、大臣・大連といった大夫層を太政官制のなかに取り込むことにあった。名目的な群卿・大夫層が国家最高の合議体のなかにその地位を制度的に確立したことになる。権力核が中央支配層全体の権力機構に姿を変えたことになる。天智朝の国制改革の第2点は、太政官のもとに六官が置かれたことである。法官・理官・兵政官・民官・刑官・大蔵である。令制八省の式部省・治部省・兵部省・刑部省・大蔵省に対応する。唐制をモデルに設けられた。宮内省と中務省を入れて官制の形だけは成立した。天智朝の国制改革の第3点は、六官と太政官を連結する弁官が設けられたことである。太政官ー大弁官ー六官という序列が令制の国家機構の原形となった。従来の支配層が持ち得なかった国家の組織という政治権力が、支配層の統治の手段として形成されつつあった。令制の官位相当性が体系的・制度的に確立されるのは689年飛鳥浄御原令の制定を待たなければならない。@冠位26階制とA大氏・小氏・伴造の制度は、臣連以下の伴造層の官制への包摂にあるとみられる。実に細かい階層(格差)を設けて、天皇制政府組織への旧支配層の取り込みと身分付けをしたものである。B民部・家部の設定は、675年天武朝の詔に「氏に仕える部曲は廃せ」で顕著になる。家部は養老戸令にいう「氏賤」に相当する。氏という古代家族の結合は共同体の主体には成り得ないので、改めて氏の上に「氏賤」を贈与する形となる。民部・家部の贈与の制度は令制の食封(封戸)の原形となった。令制において官人の俸禄制のうち最も歴史的に重要なものは食封制であった。食封制の基本は位封である(職封は2次的、神社や寺に贈与する封は特別)。食封の給与の主体は天皇や国家である。給与の客体は公民の戸自体である。給与の対象は一定の基準以上の有位者個人である。給与の基準は位階制によって決められる。位階の経済的特権のことである。国家による民部・家部の贈与は同時に部曲などの所有に制限を加えるものとなった。俸禄制は官人幹部の成立を条件とし、大化前からの氏族・群卿・大夫が、官人貴族層に転化することで達成される。天武朝のおける数次にわたる食封制のドラスチックな改革は、壬申の乱を制した天武朝の専制的権力があって可能であった。天智朝では食封制をそこまで持ってゆくことはできず民部・家部の給与が限界であった。律令という体系的構成原理をもって組織的に編纂された法典を持たない天智朝の近江令では、食封制の実施は不可能であった。

2) 「政の要は軍事なり」 天武・持統朝: 684年天武天皇は詔で「政の要は軍事なり」と述べたと日本書紀に書かれている。本来の意味の政治権力(国家権力)は、一つの階級が他の階級を支配し抑圧するための組織された暴力である。国家はさまざまな制度的、社会的、イデオロギー的な一般属性を持つが、組織された暴力=国家暴力機構を欠くとき、それは国家とは言えない。国家を軍事と不可分の関係で展開してきた大化改新以降の政治を自覚的に表現した天皇の言葉である。それは、672年の壬申の乱で勝利を得て政権を確立したこと、663年の白村江で唐・新羅連合軍に敗れ朝鮮半島での拠点と発言権を完全に失ったこと、軍旗の色を赤にして大友皇子と闘ったことは中国の漢にならった易姓革命を意識したことである。天武・持統朝の政治は、@飛鳥浄御原令によって確立された律令制国家機構の樹立であり、A班田収授制および租庸調制の全国規模での実施、B国家の組織された武装力の整備であった。朝鮮半島の戦争は、百済・高句麗の滅亡後、朝鮮を統一した新羅とそれを援助した唐の間で最終戦争に突入した。672年の壬申の乱以降、唐と新羅は672年、674年、675年と闘いを繰り返し、安東都護府と熊津都護府を遼東に移転した676年に唐は朝鮮半島から撤退した。この間、天武朝は厳しい外交上の折衝に追われ、内政の軍事体制の強化が行われたのは唐が朝鮮から撤退した後のことであった。第1に畿内の武装の強化である。兵政官の長と輔の補任に始まり、兵器、兵馬、騎兵の分離、訓練強化である。第2に全国的な軍事態勢の強化が並行して行われた。「太宰」と六道「惣領」という地方機関を強化した。太宰はこれが置かれた国の国司が隣接諸国を管轄し、一般行政だけでなく軍事基地化、武庫の整備を行った。太宰と並んで軍事体制のなかで戦略的重要性を持つのが難波であった。第3に「道」の成立である。東海、東山、山陽、山陰、南海、筑紫(西海)の六道を設定した。唐の「十道」にならったものである。鎮撫使、節度使が道に設けられた。天智朝以来、東国は正面の筑紫に軍備を補強する兵站基地となった。律令制国家が成立すると、大宝令で「太宰」は表から消え、国法と制度からなる文化国家の様相を帯びる。第4に浄御原令によって「軍団」が設置された。これは国家が氏族に依存しない独立の常備軍を初めて持ったことを意味する。これで「強制装置」としての国家制度的完成である。壮丁数を調査しその1/4を徴発して兵役につかせる徴兵制であった。これにより軍備を私家に置くことを禁止し、集公して「郡家(評)」に収めるという詔が出された。これは従来の地方軍制の実体をなしていた「国造軍」の指揮権を奪うものであった。壮丁の1/4を兵役に常時つかせることはなく、1/10が交代制で軍団を構成した。兵と農の分離は十分ではなかった。ただ兵役が歳役や雑徭から完全に分離したというべきかもしれない。令制の税制の基本をなす租庸調および奴隷労働としての雑徭制が制度として確立した時期は浄御原令の施行のときである。税制が国家の基本的属性の一つであるとするなら、国家の成立は大化改新天智朝に始まって浄御原令によって完成したといえる。無論これらの税制は公民の編戸および造籍と不可分の関係にある。改新による第1次編戸、670年の庚牛年籍による第2次編戸、690年の庚寅年籍による第3次編戸によって課税の対象たる戸の確認ができるようになったからである。改新における一般的編戸と校田との対応関係は制度的に完成された。強力な国家機構の存在は中央官僚機構の官制に見られる。太政官の下に八官(八省)が置かれ律令国家の機構が整った。中務・宮内省の成立は「天皇制国家」体制の官制であった。国家が天皇制の一部を機構内に編成した。この太政官・八省という国家体制は平安時代まで継承される。694年「八色の姓」が制定され、親王さえ臣下のし、かつ皇族を臣下と隔絶することで天皇絶対性を確立し、ピラミッド構造としての序列格差の厳格化を図ったものである。天武朝の納言、大弁官、六官のなかに壬申の乱の功臣(物部石上、藤原、安倍、紀らの閥族)を多く見出すことは天皇の専制的権力体制を象徴する。在地首長層の貴族的閥族をうまく組織した天武天皇は彼らを臣下として支配層ファミリーを作った。ただ持統朝においても太政官に皇太子を当てる天智朝の遺制は続いているが、これが完全に解消されるのは701年本格的な律令である大宝令後のことである。太政官制から皇族を制度的に排除するのが大宝令の画期的なことである。703年「知太政官事」に刑部親王ら天武系の皇孫子四人が任命された。これは過渡的で強力な天武系皇族の力を疎外できない名誉職で、太政官制の合議体に入ってくるものではない。太政官は天皇の家産制的支配から区別される国家最高の機関として官人貴族層の階級的共同利害を守る機関として確立されたもので、天平期には名実ともに確立された。奈良時代初期には、旧閥族は一氏から一人の議政官を出し、それは世襲される仕組みであった。参議以上の議政官には、多治比・阿部・大伴・石上・藤原・紀・栗田・小野・下毛野などの諸氏から一名づつが参与した。律令国家とは諸氏族の共同の機関、共同の規範として運営されるところに、古代国家の貴族的・族姓的特徴が顕著で、天智・天武以来の強力な皇族の力を疎外することが目的であった。大宝令の編纂者の一人である粟田真人(和珥氏)は702年5月に参議に任ぜられ朝政に参加し遣唐大使(執節使)に任命され、文武天皇から節刀を授けられ、自らが編纂に関わった大宝律令を携えて唐へ渡った。

3) 東洋的専制国家 天皇制と太政官: 律令国家は大化改新前の支配形態とは明確に異なって、整備された国家の諸機関や官職が「官僚制」という機構によって運営されていることである。大宝令・養老令という法を通じて統治が行われ、一人の暴君の恣意を疎外する仕組みでなければならない。いうまでもなく唐制をモデルとして、「東洋的専制主義国家」の範疇に入るが、貴族合意制側面が強いか、専制君主的側面が強いかで日本の律令制国家の性格が決まってくる。対人民統治の関係と支配階級内部の問題では本節では後者の観点から考えてみよう。律令国家の中央機構をなす二官・八省・一台のうち、中心をなすのは太政官と八省であり、これが日本独自の太政官制である。太政官制とは、八省および諸国を統括し、大政を統理する機関で、「天下のこと悉くこの官に決す」と言われた国家の最高機関で、太政大臣と左右大臣、大納言(後には中納言、参議も加わる)という議政官によって構成され、その事務局である弁官局が太政官と左右大臣を媒介する。太政官は日本独自の官制であるが、唐の三省すなわち中書省・門下省・尚書省の官制を統括したものに相当する。日本は議政官による合議制を特徴とし、唐の場合は強力な皇帝の君主権が特徴的である。中書省は詔勅を起草し、天子の意思を文書化宣下する機関、門下省は中書省より下された詔を審査して輻輳する機関で天子の意思に対して同意を与える機関である。尚書省は六省を統括し、詔勅を執行する機関である。門下省という同意機関は貴族と君主との合議が必要であったことを意味する。日本のように政策の審議・決定・執行の機能が集中している体制の方が、官人貴族層の相対的地位がより強いと考えられる。この強い権限は渤海の官制にも見られる。令制において太政官が上奏して勅裁を仰ぐ国事の九項目は「公式令」に定められている。律令制国家を独占する官人支配層と王権からなる支配階級は抽象的な階級の共同利害のために結集しているというより、諸氏族・個人的私的利害によって動かされており、融和しがたい対立と矛盾が彼らの行動の原動力である。支配階級の共同利害は、令、法、または国家意思という形に落とし込まれた約束事には王権も臣下も従うことを要求する。支配階級の意思は圧倒的に法の形で示され、格として強制力を持つ詔で示される。詔は支配階級の意思が「国家意思」に転化される。その手続きは中務省が起草し天皇が自筆でしたためて中務卿に渡す。これに卿・大輔・少輔が署名し印を押して太政官に送付する。太政官では太政大臣・左右大臣・大納言が副署し、詔として宣下することを奏上する。天皇の裁可を得て施行が公布される。天皇の意思であっても非人格的な規範としての「法」という形をとらないと「国家意思」とは見なされない。これが日本における統治権の発動の仕方を規定している。太政官符はそれだけで下級機関に対する命令としての意義を有するもので、平安時代においても国政上の根幹として存在し、平安後期の摂関政治に見られるように、天皇が独自の政治権力を失い貴族層を代表する摂関家の従属物に転化する制度的拠点となった。太政官という機関を媒介として貴族官吏を指揮統率したからこそ、天皇を無力化させることができたのである。天皇は支配階級の王の中の王という政治的首長という面と、律令国家の総覧者としての地位があった。太政官と天皇の権力の相互関係について、天皇固有の大権として「官制大権」が存在した。太政官には自己の機関の構成を決定する権限がない、つまり天皇権限に依存する他律的な合議体であった。そこで新しい官職を太政官の審議を要することなく「令外の官」として設置する企てが始まった。律令制下の政治史はこの「令外の官」をめぐって展開するのである。721年藤原房前が補任された「内臣」は太政官と抵触する可能性もあった。「皇后宮職」や749年「紫微中台」などの令外の官が藤原仲麻呂のご都合で設けられた。藤原氏が一貫して令外官を太政官・八省の体系の外に設置するという手段を駆使してその地位を高めた。律令制は藤原氏の陰謀によって虫くい状態になった。令外官の設置は外戚として天皇を手中に収めた藤原氏によって天皇大権の行使として合法的に行われた。天皇固有の大権として第二は「官吏任命大権」である。太政官以下、大納言、左右大弁、八省卿。五衛府督、弾正尹、太宰師など国家権力の中枢部を構成する官職は「勅任官」で、この任命権を保有する天皇は、国家の中枢部を把握しているといえる。天皇固有の大権として第三は「軍事大権」である。律令国家では中央の禁衛軍として五衛府と地方の軍団からなる。クーデターや反乱鎮圧には五衛府の軍隊が決定的な強力手段として行使される。729年の長屋王の変、757年橘奈良麻呂の変では、勅使をだして私邸を襲撃した。指揮命令系統が天皇にあることは言うまでもない。皇親をもって五衛府を管掌しているのはそのためである。律令制において、天皇の家産組織から八省の宮内・中務に編成されるとき、その軍事組織の重要な兵衛だけは、太政官―八省の系列から独立した五衛府に編成された。兵馬差発権は太政官ー兵部省、国司の系列機関が関与する。手続き上それは厳重な法的規制下にある。軍政・軍令・統帥権の関係は重要である。五衛府の軍政はその行政能力に頼る維持補充は太政官・八省の機関に依存しているが、一旦代将軍が決まり節刀が授与されて天皇の軍事大権が委任されると、それは太政官以下の行政府から独立した統帥権の発動する領域になる。軍令は天皇の最高軍事指揮権の範囲内である。天皇大権は官制大権・管理任命権・軍事大権は相互に結びついているが、天平期になって天皇大が全面にでて来る。畿内惣官・諸道鎮撫使・節度使の軍事的官職の設置である。これらの軍事官職が置かれた領域では。太政官以下の行政的諸機関の機能は二次的な地位に転化される。天皇固有の大権として第四は臣下に対する「刑罰権」である。内乱の場合、軍事大権とともに刑罰権が天皇によって任命された将軍に委託される。天皇の「勅断」は、律の「罪刑法定主義」にも適用される。勅断はほぼ無制限と見なければならない。天皇固有の大権として第五は「外交と王位継承の関する大権」である。天皇大権の保持者の死や王位継承による大権の移動が常に支配者内部に政治的危機を引き起こすことも、天皇の専制的権力と不可分の関係にある。こういった支配者階級の内部矛盾による動乱、例えば762年の藤原仲麻呂の乱が意外に早く収まったのは、天皇家を含む諸氏族・個人を超えた非人格的な共同の機関を作り出すことによって解決するための「国家」機構が有効に働いたためである。

4) 古い型の省と新しい型の省: 律令国家と、政治権力としての天皇制と直接の関係はない。天皇制は古い王制である。天皇を頂点とする支配階級の共同利害を守るための組織である国家機構の体系が、律令制国家の日本独自の特色を作っているのである。太政官制が天皇制に対して相対的独自性を保つことができたのも、「八省百官」の官僚貴族層の機関が存在したためである。国家の本質である「強力装置(暴力装置)」である軍事組織も、近衛兵である五衛府さえこの行政機関の機能がないと存続しえないのである。この行政機関は上は太政大臣から、下は地方の諸官司に至るまで体系的に組織されている。太政官制は議政官の合議による審議決定のほかに、弁官局という事務組織を持ち、これは太政官と八省を結合する組織である。八省の内部構成と権限は「養老職員令」の条文に書かれている。宮内省と民部省の二つについて古い型の省と新しい型の省の典型として解説する。八省の中で複雑な構成を持つのは、宮内省と中務省で、比較的単純な構成を持つのは式部省、民部省、刑部省である。これは省の歴史的性格を見れば歴然としており、宮内庁は律令制以前からある古い王制時代の遺物であり、民部省などは律令制の整備によって急速に陣容を新しくしてきた省であるからだ。所轄官庁の複雑さからすると、宮内省は一つの「職」、四つの「寮」、十三の「司」を持つが、民部省は二つの「寮」だけである。宮内省は天皇の家産制的組織を省という行政機関に編成したものである。同じように中務省も天皇の家産制的組織である。この組織を行政機関に編成する際に古い体質や役職をそのまま継承せざるを得なかった。宮内省は皇族の私的・経済的財産を扱い、中務省は天皇の儀礼的公務を扱う。どちらも非政治的な役所である。この二つの省はその権限を媒介的・手続き的な面に限定することにより、逆に太政官組織の政治的機能を確保している。天皇家の経済を扱うのが宮内省であり、国全体の出納と経済を扱うのが大蔵省である。両省とも古くからある組織であるが、大蔵省は膨大な量を扱うために意識的計画的に権限の配分を行う組織に転化した。式部・治部・民部・刑部・兵部の省は新しい省なので、統一的な原理に従って組織された官制を作り出した。大同・弘仁期(806-824)に盛んに諸官司の統廃合が行われたが、単位機関は歯車の部品のように構造と機能が独立しており、統廃合によって全体の行政は何ら影響を受けないことが官僚組織の特徴である。令外官の新設も同じ原理に基づくものである。民部省は諸国の籍帳、賦役、課役、家人奴婢、山川・田地のことを管掌するが、宮司は主計寮と主税寮の二つだけである。簡素な組織の典型であるのは、この省の機能が、記帳と計算と管理という任務にある。「調」は大蔵省、「庸」は民部省に収める規定になっている。706年には庸のうち軽い物を大蔵に移管し、「延喜式」において調・庸とも大蔵省管轄となった。民部省本来の職務は「計納」という収められた物の管理・計量となった。まさにコンピュータ業務だけになった。そういう意味で民部省は計算という専門職官僚の世界である。 最も厄介な天皇という人を扱う宮内省、税としての米や産物をあつかう大蔵省など人・物を管掌する省に比べると、社会から発生した国家が、人・物から十分独立できていなかったが、民部省はその独立が完成したといえる。すなわち国家権力が編戸と籍帳によって戸口に至るまで把握し、全国の人と物の質を捨象した数として映る情報社会になったといえる。つまり現在の経済企画庁のような機能である。民部省の第2の機能は「国の用を支度する」ことである。物資の総計を集計し、収支バランスを太政大臣に報告することである。今の大蔵省財務局の仕事である。そして諸官司に経費を支払うことである。96%は現物支給であるので、主計局は諸司の見積書を集計し、割り当て表を作成した。民部省がその機能を果たす前提として、八省の官司が正確に予算書と決算書計上すること、国司が地方の計帳と正税帳(決算書)を提出するかどうかにかかっていた。そして「組織された国家権力」は特定個人(天皇家や閥族の長)に左右されることなく、一切の諸官司との正確な協業と分業という依存関係にあって一体となって動くことである。予算の政治折衝に当たるのは太政官制(内閣)である。  

第4章 「古代国家と生産関係」

1) 首長制の生産関係
1-1) 第一次的生産関係としての首長制: 6世紀から8世紀中葉にいたる国家の成立史の基礎となる経済的土台を著者は生産関係と呼ぶ。マルクス主義学者特有の呼び方で現在の意味とはちょっと落差がある。マルクス主義者では国家のことを上部構造、社会・経済(労働・資本、生産方式・技術)を下部構造と呼ぶ。したがって本章は古代の社会・経済構造について考えることになる。国家構造自体の変革を当時の社会経済状況から解き明かすことが目的である。第1章では古代における東アジアの国際関係(力関係)と外交、戦争から国家の成立史を問題とした。第2章では大化の改新が、王民制から公民制へ、すなわち伴造ー部民制的秩序から国造制的秩序への転換を行い、その権力基盤を在地首長制に拠ったとき、その首長層の経済的基盤(税制を含めて)と支配関係を問題とした。浄御原令や大宝律令の施行によって完成する律令制国家は、古代3世紀の邪馬台国以来の権力が成長し、旧社会体制(在地首長制)を呑み込み強大な権力体系をこしらえたことを示す。在地首長の一つであった朝廷が、古代社会における社会的分業の体系的ヒエラルヒーの頂点において、統治だけを行う国家権力になって、半ば奴隷労働を強いる公民階級への支配と収奪体制を完成した。いうまでもなく支配階級=官人貴族層の社会からの分化、そして共同組織としての国家機構の存立を可能ならしめた経済的土台は諸国の機構を通じて支配され収取される在地の支配関係である。それは律令国家の財源の問題である。その大部分は地方から進上される剰余生産物である。律令制国家の主要な物的基礎が地方国造権力による収取に依存していた。中央の朝廷がどれほどの在地首領を臣下にしているかで、毎年献上される物資の量が決まる。それによって国家権力が養える皇族・官吏・兵およびあらゆる分野の設備能力が決定される。朝廷には「屯倉」という直轄地があったが、全国の在地首長制から上がる財源に比べると第二次的なものに過ぎなかった。私的な用を賄う程度で、国家の財源には成り得なかった。この屯倉でさえ田司による官田の直接経営ではなく、自律的な生産制度として存在したのではなく在地首長制に依存していた。つまり耕作者が公民ではなく、在地首長の支配下にある人民だったからで、いわば二重支配制にあったといえる。官田経営が公民の徭役に依存する限り、徭役労働差発権を持つ在地首長の支配下にあった。屯倉の奴隷労働(労働する人間の人格を無視して強制される労働 大辞苑)的構造も在地首長層の支配関係から分化し発展した二次的形態に過ぎなかった。伴造ー部民制的秩序をもつ王民制が大化改新前の主要な経済基盤であった。
1-2) 徭役労働: 大化改新前の在地首長層が直接生産者から剰余労働、剰余生産物を収取する主要な形態は「租庸調」および「雑徭制」を基礎とする。まず徭役労働から見てゆこう。首長層の権力または経済的収奪体制の本質は人格的支配=隷従関係にあり、なかでも徭役労働賦課権に最も端的に表れるからである。首長層の徭役労働賦課には、歳役と雑徭とがあるが、ここでは雑徭を考える。「雑徭」とは仕丁や衛士の令によって規定された徭役以外に差発される雑多な徭役労働であり、1年に60日を限って国司が郡内の公民を使役することができる。雑徭役にもさらに「雑徭役外徭役」と呼ばれる徭役賦課があった。用水施設の小規模な修治のため臨時に賦課され、雑役と違って年60日という限定もない。雑役と雑徭役外徭役には名前が違うだけで国家の課する徭役として一体化している。あえていうと用水の施設を新しく築造する時は雑徭といい、その修理維持のときは雑徭役外徭役に任される。雑徭役が制度として確立されたのは浄御原令によってであるから、それ以前には両者の区別はなかった。雑徭の差発権は国司にあり、現実に徴発・使役するのは郡司・里長であった。徭役は上から命じられる不払い労働であるから、強制できるのはそこに人格的支配―隷従の体制が出来上がっている在地首長層の指示がなければ、国司といえど手が出せない領域であった。雑徭と雑徭外徭役を差発し使役する事実上の権力を持ったのは国司ではなく郡司(在地首長層)であった。浄御原令によって、この国造や郡司の権力を、在地首長層の伝統的な権力を制度化したものである。力役以外の地方的賦役が国家の徭役体制のなかに雑徭として制度化されるのは大宝令からである。雑徭制の基礎にある首長の領域内人民に対する人格的支配は、個人的な人格(英雄やボス)ではなく、生産手段を独占する階級としての首長層が存在する。首長一族が大小領の地位を独占し、族的結合体全体が在地の人民を支配している。首長層の階級としての地域的・族的結合の存在とそれに対する人民の人格的隷従こそが賦役労働の基礎にあったのです。雑徭制の第1の特徴はその奴隷的性格にあった。徭役は上からの命令である限り、官から食料の支給があったものと考えられる。ただ雑徭外徭役は、手弁当が常であったようだ。土木作業に使用する道具は官給であった。雑徭が奴隷労働とされる理由は、徭役期間や過酷さの恣意的な事ではなく、自弁することができない体一つの農民がいて、労働の主手段を保有する徭役差発者階級(在地首長層)がいるということである。人格的隷従関係は自体は、奴隷制にも農奴制にもある特徴で、奴隷制は他人の労働条件(原料・食料・労働用具・家畜など)のもとで労働するかどうかということである。雑徭の第二の特徴は、共同体の共同労働と徭役労働が不可分の一体をなしていることである。古代社会の稲作では用水の確保の問題が重要である。古代首長制はこの水の支配に最重要点が存在する。治水(灌漑用水)の問題が地方首長層の範囲を超えて中央政府の国家事業となったのは律令制国家の成立以降のことである。弥生式時代の農業社会以来それは首長層の内部問題として解決されてきた。古墳時代以降には首長が支配層に転化し、共同体の労働は徭役労働になった。交易で獲得できる鉄製農耕具が古墳時代に首長層の独占的所有下になった。大化改新以降には公権力による指導・強制による計画的村落と開墾が常識となった。6,7世紀の計画村落的形態においては、必要な徭役労働は首長層側においてそれに必要な食料・労働用具の蓄積を前提年、その蓄積が共同体の財産ではなく、私有財産として首長層の富として存在するならば、この徭役労働は首長層の支配=隷従の関係は奴隷的性格を持つことになる。
1-3) 田租と調の原初形態: 令制の租・庸・調・雑徭役のうち、田租と稲出挙という税の問題に入る。稲の形における剰余生産物の収取である。田租は次のような特徴を持つ。@租は他の面積に応じて課せられる。A田租の賦課基準は収穫の3/100という定率である。Bこの租率は律令制の解体時まで維持された。C租殻の大部分は「不動殻」として正倉の保管された。D大宝令では例外はあるが田地は輸租田である。E賃租の場合、田租は田主ではなく用益者である佃人の負担。田租制の成立は浄御原令の施行によるが、それ以前の要素も多く含んでいる。「百代三束」という低率賦課を原田租と呼べば、それは旧国造制と不可分の関係(郡稲)にある。旧国造領における税制としての原田租の起源は、宗教的祭礼すなわち共同体首長へのと不可分であり、初穂料として共同体首長に貢納する習慣にある。首長によって管理される共同体の財産(備蓄、種稲分与、祭祀費用など)から、首長の私富に転化すると、その経済関係は階級的秩序に転化する。田租を在地首長に収めることから律令制では天皇に収めることになるが、田租の低率は律令国家の財源としては重要視できないほどであった。古代の調の制度は浄御原令によって人身賦課にとういつされるが、それ以前には田調・戸調・調副物が存在した。律令制国家において公民が国家に納付する田租・調の租税は、臣下が国に収める「地代」に似ている。これらの収取関係にある従属関係は必要以上の過酷さは不要である。従属関係を考察するうえで田租と並んで稲穀収取の重要な形態であった「出挙制」、特に「稲出挙制」が大化改新以前から重要であった。田租の起源が共同体とそこから転化した首長層の経済関係にあるとするならば、出挙制の起源は大化改新以前の「ミヤケ」の「群稲」にあると推定される。それはまた日本の古代社会を一貫する農業生産性の低さでもある。出挙の貸し出しは民戸の農業経営の自立性の低さからくる食料稲の不足を反映している。食料や種もみという形で出挙を受けなければならない生産力の上に立つ農業は、稲殻を集積所有する首長層によって、その再生産を把握されているのであり、かかる農民は必然的に首長層に隷属せざるをえない。支配と隷従が再生産されるのである。
1-4) 班田性の成立: 大化改新の特徴は人民の地域的編戸と一般的校田が一体化して実施されたことである。令制の編戸と班田収受制とが国家の収取と税収の基礎をなした。班田制とは国家的土地所有のことである。口分田は所有主がいる「私田」で、無主田が「公田」である。743年「墾田永代私財法」の制定で公田の概念に揺らぎが生じた。それ以前の土地所有形態は屯倉など大土地所有制を除けば、在地首長制の伝統的経済基盤であた。郡内の各郷が集中して口分田の斑給を受けていたことは国家の権力であるが、』実際は郡司に制度化された在地首長層の公民に対する階級的権力に他ならない。班田収受制とは、戸籍・計帳に基づいて、政府から受田資格を得た貴族や人民へ田が班給され、死亡者の田は政府へ収公された。こうして班給された田は課税対象であり、その収穫から租が徴収された。日本書紀によれば、646年正月の改新の詔において「初めて戸籍・計帳・班田収授法をつくれ」とあり、これが班田収授法の初見である。しかし、この改新の詔に関する記述には多くの疑義が出されており、このとき班田収授法が施行されたと即断することはできない。班田収授法の発足は、初めて戸籍が作成された670年、若しくは飛鳥浄御原令が制定された689年以降であろうと考えられている。班田収授法の本格的な成立は、701年の大宝律令制定による。班田収授制は、律令制の根幹をなす最重要の制度であった。現存する養老律令によると、班田収授の手続きは次のようである。
1)原則:班田収授は6年に1度行われた。これを六年一班という。戸籍も同様に6年に1度作成されており、戸籍作成に併せて班田収授も実施されていた。
2)手続き:戸籍作成翌年の10月1日から、京又は国府の官司が帳簿を作成し、前回との異動状況を校勘する。そして、翌1月30日までに太政官へ申請し、2月に班田収授が実施された。
3)対象:口分田・位田・職田・功田・賜田が班田収授の対象とされ、例外は寺田・神田のみとされた。
4)班給面積:例として口分田の場合、良民男子 - 2段、良民女子 - 1段120歩(男子の2/3)
大化の改新の政策として勧農と開墾が国家事業として掲げられ、特に堤や溝などの灌漑施設の造営が指示された。その特徴は、@開墾の主体は在地首長層である。A新しく開墾された田地が公田になった。首長層が把握する労働は私的なものから公的なものになった。これが雑徭制につながった。B大化改新後の開墾は新しい技術と生産力を基礎とした。旧村落から条里式村落が出現した。開墾ー公田ー条里制ー国・郡の境界の設定というふうに拡大した。土地の配分は「班田」(国有地開墾)、「賦田」(在地首長層の開墾)、「給田」(屯田兵による庄田)という形で呼ばれる。

2) 国造制と国家の成立過程
2-1) 生産力の発展と階級分化: 6世紀から始まる在地首長層の内部構造の変化(階級の分)を、上部構造としての国家の問題として考えてゆこう。大化改新が王民制から公民制に転換するに際して、伴造制ではなく、国造制をとるに至った必然的である。つまり在地首長層が伝統的な在地秩序に従属するのではなく、臣連・群卿・大夫という国の秩序に移ることで階級分化を成し遂げたということである。6世紀の在地首長層の経済基盤は記紀には述べていないので古墳という考古学資料から推測せざるをえない。群集墓という後期古墳時代への移行および新規古墳の消滅は何を意味するか。これが首長制内部の構造変化を示している。多数の小規模の古墳は、一般民戸に階層分化がおき、一部が自らの古墳を築くように変わったようである。6世紀以降の生産力の発展の基礎は、鉄器の生産と使用が武器だけでなく、農業生産領域において普及し始めたことである。5世紀中葉・末期から木製農耕具全体が鉄製品によって置き換えられた。6世紀以降農作物が稲中心ではなく多様化し、乾田系の陸稲、麦、豆類、粟の栽培や根菜類の畑作の拡大となって、洪積平坦地から台地奥部または山間部へ集落が移動した。それは同時に水田耕作の集約・大規模化へと発展した。後期古墳時代の住居址は竪穴住居であり、結合家族として小規模で、家族共同体(戸)のみで耕作は困難である。世帯を超えた結合労働力なしでは不可能ですなわち家父長的大家族共同体への転換を示す。または村落の「長老制」的(村首)または年齢階層別編成や同族的・血縁的結合という自然的秩序が支配的になった。世帯=家が鉄製農機具を使用するのは、東国では8ー9世紀のことであり、畿内では7-8世紀に普及したとみられる。6世紀以降に畿内・近国では竪穴住居から平地住居に変換した。戸は結合家族であり家族共同体である。この戸の持つ園地・宅地の私有制を土台にした田地の永続的世襲的占有権の確立が、6世紀以降の首長制の構造変化のもとになった。これが首長層の支配領域内部における部民制の発展である。首長自身は「私地」すなわち田荘を所有し、それと関連して舞曲を所有する方向に発展する。東国の群集墳に見られる築造主体の階層分化も発達した。大化改新期の東国では新首長層の台頭すなわち新興「百姓」層の台頭が見られる。彼らの身分秩序は「ヤカラ」、「ヒト」という籍帳の分類ではないだろうか。ヤカラ、ヒトは姓の一種であり、無姓の百姓に付けられた身分的統属関係であろう。家族墳的性格をもつ後期古墳への転換と古墳の消滅は、畿内・近国地方の大小の首長層が在地の秩序から解放されつつあったことを示す。推古朝時代の群卿・大夫層および半ば官人化した伴造に転化してゆく。6世紀以降の生産力の発展を基礎とする階級分化の進行によって、首長制の内部関係に重大な変動をもたらした。
2-2) 国造制および国造法の成立: 国造制は社会の基本構造と、国家という上部構造とを結ぶ連絡点である。大化改新前の地方行政組織をしめす「国・県制」については日本の史料は少なく、隋書倭国伝に「国120 、80戸に稲置をおき、10の稲置で一つの国となす」、書記成務紀に「国郡に造長をおき、県邑に稲置を置き、楯矛を賜いて表となす、国県を分かち邑を定む」、「大国・小国の国造を定め、大県・小県の県主を定む」とある。国または国造制が5世紀末に、倭の大王武による征服過程で在地首長の組織化として成立した。在地首長を大王の秩序に編成する表(しるし)として楯矛を賜う、表章の身分制度を設定した。そしてカバネを授与した。このように国造制は首長制そのものではなく、ヤマト王権との従属関係によって成立した。国造には規模において二種類に分けられる。一つは常陸の茨城国造、大和の葛城国造にみられる令制国家の「郡」に相当する小規模の国造で、他方は出雲国造や播磨国造のような令制国家の「国」に対応する大規模な国造である。前者は在地首長層の支配区域をそのまま国造として編成したもので、後者は広い地域を国とした首長層の結合体を代表する。その中では国造も一個の在地首長である。例えば出雲国造は出雲国全体首長層の結合体を代表しそれを統属しているが、同時に意宇郡の在地首長であった。出雲国とヤマト王権との関係については、村井康彦 著 「出雲と大和」 岩波新書に、意宇郡が出雲の他の郡との内乱を経て統一し、ヤマト政権と組んだ経緯が詳しく書かれている。前者を小国造、後者を大国造と呼ぶ。大国造は決して少なくない。大国造は令制の七道制に当てはめると、国造表は網羅的ではないが、畿内では大和ほか2国、東海道では尾張他4国、東山道では近江他2国、北陸道では越1国、南海道では紀伊他2国、山陽道では播磨他2国、山陰道では但馬他1国、西海道では筑紫他2国である。すなわち政治的にも軍事的にも大王権力の根幹をなす領域が占められる。その周辺諸国は小国造制である。5世紀末から6世紀以降における国造制の成立過程において主導的役割を果たしたのは、大国造制であると考えられる。国造のカバネは、直・臣・連などであるが、最も一般的には直姓国造であった。直という姓=身分標識の授与は、「矛楯」という即物的表章より進んだ形で、在地首長を満足させたらしい。この直姓国造の任命は畿内から四国と山陽道へ拡大した。直姓国造のうち、さらに凡直国造が設けられ大きな領域を統括する国造が任命された。設置されたのは、河内、安芸、周防、紀伊、淡路、阿波。讃岐、伊予、土佐、尾張である。凡直国造も大国造制であることは言うまでもない。この国造制の拡大がミヤケと部民の設定と不可分の関係で行われた。推古朝の15年「亦国ごとに屯倉をおく」という決定は、全国120か国の大小の国造の支配を前提としなければ、実行しえなかった。6世紀におけるミヤケの発展の特徴の一つは、その軍事基地化にあった。国内の反乱、朝鮮での戦争への備えが目的である。人民の地域的編成が国家の重要な属性であるが、それも在地首長層を国造として編成することで、彼らの持つ戸の情報なしには実行しえなかった。国と国造制の実体は本来在地首長またはその結合体にほかならない。結合体の中での首長権は固定される場合と移動する場合がある。吉備国造は上道臣と下道臣の間で国造結合体の首長権が交替した。大国造制による中央との結合は特定首長の宗主権を国内に確立する契機になり、出雲国造にみられるように、固定化もしくは世襲制を確立する傾向を促進した。大国造制又は国の成立は、そのもとの国内の首長層の再編成を伴い、その間で従属関係が成立する。小国造は縣主および稲置として大国造のもとに地域的・同族的結合体に再編成された。その形態は県主として編成され、縣主の実体は首長層であった。縣主の重要な特徴は祭祀的性格が強いことである。そのため行政区画としての性格が解体していった。皇祖神への祭祀として大王(天皇家)に結びついた大和の六縣や、カモの県主のように内廷の一部に編成された例もある。大国造制の構造は@)在地伴造ー部民・ミヤケ、A)稲置ー公戸―県の二通りの系列がある。国造支配の構造は次のような内容である。
@国造法の根幹である裁判権または刑罰権:本来国内の小国造や県主などの首長層が保有していた裁判権は、大国造制の成立でその中へ体制化されていった。
A徭役賦課権:歳役の先駆を為す中央的力役との関連が重要である。首長権がもつ伝統的徭役労働制を制度化しゆく契機となった。軍役は国造が差発する徭役労働の一部である。国造は国造軍の編成と指揮の主体として、在地首長層の上に君臨する権力となった。凡直国造が六道に分布しているのも国造はその領域的支配を拡大した。調については、戸調・田調・調副物のうち戸調の収公を在地国造が媒介した。
B行政権:国造の主な行政は勧農であり、灌漑施設の増築であった。
C祭祀権:天武朝で制定された「国之大祓」は国造の重要な儀礼で、祈年祭、新嘗祭などは国造や県主などの首長制の支配と結合して行われた。
2-3) 生産力の総括としての国家: 国造制は首長とその結合体の経済基盤を土台として発展分化した政治的上部機構である。国造の政治的支配の基礎には「社会的な職務遂行」(紛争解決、水利の管理、宗教的機能、徭役差発、調の収公など)という在地首長層の伝統的な機能を国造制に総括されていった背景がある。国造制という政治的上部機構が発生してくるのは、共同体的首長が階級的支配に転化したからである。国造制の内部の発生した大国造ー稲置・小国造ー村首という体制は、後に国司ー郡司ー里長にとってかわられる。それは中央と結合するなかで国家機関に転化するのである。大化改新前の推古朝の国制は、二つの秩序の上に立っていた。一つはミヤケおよび部民制を土台とする秩序、一つは国造制を土台とする秩序である。後者は氏姓的・王民制的特徴を持つ。しかしまだ国家成立の機は熟していなかった。7世紀中葉になってはじめて新しい国家という課題に取り組むことになった。王民制的秩序が解体に向かい、国造特に大国造制における領域的支配の発展があったからである。大化改新政府の中核は主要な努力の方向を、在地首長層の中に基盤を強化すること、彼らを評造などとして組織化するであった。領域的支配の原理を系統的かつ全国的に拡大することである。律令制国家は二つの社会・経済基盤の上に成立している。@国家対公民の関係、A在地首長制と人民の間の支配―隷属関係である。@の律令制国家の支配と収公はすべて国司ー郡司ー里長という在地国家機構を媒介として実現される。Aの関係は郡司が代表する。在地においては郡司・郷長・保長以外にも警察機構の機能はあるが、令制には細部の「強力装置」が欠けている。在地における収取と徴税が、機関の背景にある伝統的・日常的・社会秩序に依存している。秩序の支柱となっている在地主張層は律令制の国家的土地所有によって、窒息したのではなく、私出挙、稲の蓄積、山林原野の囲い込みによる収奪と私富の蓄積、墾田による私有地を拡大していった。班田性で国家がほしいのは税であり、業として農業をやるわけではないので、首長層の経済基盤が第一次的意味を持ち、国家のそれは第二次的・派生的である。また収奪が激しければ公民は逃散と浮浪を繰り返し農業は放棄され衰退する。結論として社会主義のような律令国家による土地国有制という制度(天皇のみが全土を所有し、人民はすべて奴隷制)が古代に成功することはなかった。在地首長層の私財経済に国家という権威が乗っただけで、日本は昔も今も私経済、土地私有制が基本である。班田性という公地公民制は幻に過ぎなかった。勅令の直ぐ後に皇族自らが私有地(荘園など)を増やしていって、中世になるのであった。    

最後に「今昔物語」より「猫に怯えた腹黒い大夫の話」を紹介する。律令制の崩壊と荘園制の勃興という古代末期の話である。「 大蔵の大夫藤原の清簾は大和、伊賀、山城に荘園を持つ裕福な官であったが、猫が苦手で猫恐の大夫と云う渾名で呼ばれた。大和の守藤原の輔公朝臣が租税の納入を清簾に迫っても言い訳ばかりで少しも収めなかった。そこで業を煮やした輔公朝臣は猫恐な清簾を屋敷に呼びつけ、部屋に押し込めてたくさんの猫を清簾にけしかけた。恐怖に陥った清簾に米蔵の出庫証文を書かせて年貢を領収したと云う話。」平安時代も末期になると、年貢を納めない荘園主が多くなったと云う時代背景が見える。律令制の崩壊である。



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