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読書ノート

アマルティア・セン著 加藤幹雄訳 「グローバリゼーションと人間の安全保障」 
ちくま学芸文庫(2017年9月)

グローバリゼーションを「厚生経済学」によって補完する学説ーノーベル経済学賞受賞者による講演会

著者アマルティア・センについてプロフィールを略記しておこう。1933年インドベンガル州に生まれ、カルカッタ大学を卒業後ケンブリッジ大学で博士号を得て、ハーバード大学、ケンブリッジ大学などの教授を歴任した。「社会的選択理論」や厚生経済学、開発経済学などの発展に寄与し、人文・社会科学全般に強い影響力を発揮した。1998年には「所得分配の不平等にかかわる理論や、貧困と飢餓に関する研究についての貢献」により、ノーベル経済学賞を受賞した。主な著書に、「集合的選択と社会的厚生」、「自由と経済開発」などがある。本書の収めらた4つの論文は、1998年にノ―ベル経済学賞を授与されたアマルティア・センが2002年2月に東京で行った3つの講演会の講義と、他の一つの論文から成り立っている。第1章と第2章は国際文化教育交流財団が主催する2002年でなされた二つの記念講演である。第3章は東京大学から名誉博士称号を授与された際の記念講演である。第4章はアマルティア・センの経済学を理解するうえで参考となる2000年7月掲載論文の一つである。これら4つの講演と論文は「グローバリゼーション」と「人間の安全保障」に焦点が当てられており、経済学に留まらず社会全般を対象とする広い視野で書かれている。著者アマルティア・セン氏の経済学思想をかいつまんで紹介する。セン氏は生まれたインドベンガル州で幼いころ大飢饉を経験し、それが天災ではなく人災であったという確信から経済学を学ぶことを決意したという。1998年にノーベル経済学賞を受賞したが、受賞理由は「厚生経済学への貢献」であった。「厚生経済学」とはセン氏が学んだケンブリッジ大学のアルフレッド・マーシャル(1842−1924)とアーサー・セシル・ピグー(1877−1959)が創始した分野である。マーシャルは経済学をあまりに強い倫理学から切り離し(昔の経済学は哲学であった。道徳感情論を著わしたアダムスミスが哲学教授であったように)、専門家科学として経済学を独立させた。マーシャルは経済学を「一面では富の研究であるが、他の重要な側面は人間の研究である」という。人間性を堕落させる貧困を除去し、人々に文化的な生活を送る機会を与えることこそ経済学の課題であるとみなした。彼が考えた貧困対策は、所得の再配分ではなく生産性を高めることによって人々の所得を増やす事であった。マーシャルの後継者ピグーは、厚生経済学を「人間生活の改良の道具を探求する学問」と定義し、「国民所得の大きさ、所得の再配分、その安定」が1国の厚生・福祉を増大させると考えた。その後経済資源の適正配分を中心とする「新厚生経済学」が提唱され、「社会厚生関数」という考え方が、アメリカのエイブラム・バーグソンやポール・サミュエルソンらによって導入された。これに対しアメリカの経済学者ケネス・アローが社会的厚生関数が、全体主義国家に通じるといって反対し、厚生経済学は衰退した。アローの研究方法は「パレート最適」(誰かの得は誰かの損)を中心とする社会的選択論と言われ、これにセン氏は猛反対を展開して、厚生経済学をよみがえらせるパラダイムを提唱した。セン氏は「人間生活の諸機能」、「潜在能力」という独自の物差しで厚生経済学を再興した。それは「我々が十分な理由をもって価値あるものと認めるような諸目的を追求する自由」を意味する。セン氏は「平等」の観念を所得の面だけでなく「各自の潜在能力を十分に発揮できることの公正さ」と再定義した。同様に福祉の達成とは「様々な機能が達成されてゆくプロセス」を意味した。アメリカのアフリカ系市民の所得水準が高くても、犯罪率も高く、栄養不良で早死する人が多い地域は福祉水準が低いとみなすことである。

1999年に出版されたセンの著書「自由と経済開発」の中で、開発をGNP、個人所得の指標から見る狭い観点を排し、人々が享受する「実質的な自由の拡大のプロセス」を重視した。GNPは手段であって目的ではないという。開発は自由を阻害している要因を取り除くことで、貧困と圧政、経済機会の欠乏と社会的困窮、公共的施設の欠如と抑圧的国家の不寛容性などがその要因である。それらを考慮しない開発型独裁の開発論は誤っているという。すなわち日本で行われた明治維新後の国家建設や中国や東南アジア諸国の新興国型経済開発はすべててこの開発型独裁に相当する。センは貧困を単なる物質的困窮ではなく、潜在能力のはく奪と定義する。貧困克服のための開発計画には、政治参加の自由、医療保障、女性の経済的自立を可能とする雇用政策、子どもの教育権の確立が含まれる。センの開発論は国連開発計画UNDPにも影響を与え、人間開発指標HDIに4種類の指標が付け加えられた。さらにUNDPは地球的公共財GPGを定義して、「地球規模での自然的共有財」(地球温暖化、オゾン層保護)、「地球規模での人為的共有財」(知的財産、インターネット)、「地球規模での政策の所産」(平和、金融安定)を掲げた。センの「グローバル化と人間の安全保障」論は、この経済思想の延長線上にある。グローバル化が人間の実質的自由と地球的公共財の実現に貢献するという正の側面と、地球的公共悪(オゾン層の減少と地球温暖化、人権侵害と不正、不平等、格差と排除傾向、戦争と紛争、疾病と飢餓、金融危機など)の増大と結びつくという負の側面を併せ持つという見方である。第1章でセンが指摘するように「グローバル化」を西洋化と同一視する見方は間違いであるという。グローバル化は基本的に国境や文明の違いを超えて人類の絆を強める普遍的価値を含む。現在のグローバル化がその恩恵を全人類に公正に与えていないゆえに、反グローバリズム運動がインターネットを通じて全地球的(グローバル)に起きている。センが憂うのはグローバル化の負の側面、「不平等の拡大」、弱い立場におかれた人々の「生活の安全保障」である。これらは公共政策によって実施しなければならない。これをコストの増大と言って切り捨てるならば、「多国籍企業による全世界支配」という偏狭な最悪の結果になる。「自由としての開発」が、人間の生命を制約・束縛し可能性の開花を阻害する様々な要因を取り除くことを主眼とする。「人間の安全保障」は状況が悪化する危険性を注視開発の性質を補完する役割を果たす。センは市場経済の意義を高く評価するが、市場原理主義者と異なり、市場メカニズムはさまざまな制度の民主主義的な運営によってはじめてうまく機能するという見解である。1996年サミュエル・ハンチントンは「文明の衝突」を著し、大きな議論を引き超した。センはこの「文明の衝突」に対して徹底して否定的である。四大宗教圏による色分けという分断を固定化してはならないとし、インドを例にとってムスリム世界なのかヒンズー世界なのか判明しない地域社会を無視して、一色に塗りつぶすことの滑稽さを笑う。セン氏の政治的立場ははっきりした「自由主義者リベラリスト」であるが、インド系アメリカ人とか経済学者とかさまざまな属性を有している。人間のアイデンティティは単一ではなく、多様で複雑な要素に満ちている、その中から各自が自由に選びとるところに、人間の理性や自由の本質が存在する。コミュニティによって人間のアイデンティティが規定されたり制約されることには絶対反対する。シンガポールのリー首相による開発独裁の政治体制をアジア的な文化論から正当化する論にセンは異議を唱える。今日、文明間の対話がなされるとしたら、ご都合主義的な現体制独裁宿命論を擁護するのではなく、歴史を踏まえた多文化・文明の交流の上に立つ相互理解が必要であり、そこでは「理性的・普遍的な論理」と「自由な選択」が重視されべきである。諸文明は相手を否定して衝突するのではなく、諸文明の相互理解のチャンスとして考えなければならない。

全地球的な金、ヒト、モノの流れをたどるグローバル経済の歴史の本がある。杉山仲也著 「グローバル経済史入門」(岩波新書2014)を紹介したい。マクロ経済学の一分野で、世界経済のなかで国を超える経済活動を歴史的にみるということです。対象時期は18世紀から20世紀の300年である。経済史は、地域的・時代的に多様な人間社会で起きた、多様な経済的事象の因果関係を歴史的に明らかにするマクロ経済学である。つまり時間軸と座標軸の4次元的経済の理解(動力学)である。具体的には物・金・人・情報の4つの因子がどのような経済システムのなかで移動したかを歴史的にみてゆくのである。「歴史学」と「経済学」の結合というものであるが、対象はあくまで経済的事象であり、その理解を深めるために一般的歴史的条件(制約)を知っておかなければならない。また経済システムの発展そのものも歴史であり変遷の過程である。経済史から見るアングルにはたとえ限界があるにしても他のどの方法よりも多くの事象を説明できると著者は考えている。経済が社会状況における選択であるとするならば、政治と経済は分かちがたく結びついている。例えば「帝国主義」と「植民地主義」とか「大東亜共栄圏」とかいう言葉は、常に経済を従属させているように見えて実は経済的事情を反映する政治スローガンであろう。政治と経済の主従関係はいつも明確ではない。「グローバリゼーション」という言葉が使われだしたのは1990年代以降のことである。ソ連・東欧の社会主義国の崩壊と、中国やベトナムの市場型経済制度の導入により、世界が一つの市場経済に集約される状況が現れたからである。経済的には金融ビッグバン、インターネット情報革命によって急に世界の距離感が無くなっていった。こうした背景には、NIEsやBRICSの経済成長によって、かっての工業化が欧米の特有現象(西欧中心主義的文明観)ではなく時間差に過ぎない(キャッチアップ)ことが分かったことがある。現在の日本と世界経済をマクロにそしてグローバルに総覧するするために適した本がある。宮崎勇・本庄真・田谷禎三著 「日本経済図説」 第4版 (岩波新書 2013年10月 )、宮崎勇・田谷禎三著 「世界経済図説」 第3版(岩波新書 2012年2月)の2冊である。全体を見るということは、こういう風に理解することなのかと非常に参考になる本である。 またグローバル経済ヒストリーと世界史はどうかかわっているのかについては、羽田 正著 「新しい世界史へ」 (岩波新書 2011年)を参考にしよう。時代はヨーロッパ中心史観に愛想がつき始めている。進歩は必ずしも社会の幸福とは連動しなくなったからだ。共産主義のソ連と東欧が崩壊して資本主義が新自由主義を唱えだした頃から、健全野党を失った与党の腐敗のように我が物顔で我利私欲に走ったからである。時代は第3の道を求めだしている。グローバル資本主義とグローバル環境破壊が進行し、地球環境と地球市民を守る思想が求められている。人間は地球上で生きているということが理解できる世界史、世界中の人々がつながりあって生きてゆくことが分かる世界史が必要とされているのだ。国民国家の戦争に嫌気がさし地球市民像を求めた書として、柄谷行人著 「世界共和国へ」(岩波新書)がある。これまでの世界史を乗越える試みは中心主義(ヨーロッパ、アメリカ、中華思想など)を排除する方向と関係性の発見という2つの方向で行なわれている。本書は14世紀以降「大航海時代」をへて現代にいたる約700年の世界の歴史を、アジアを中心とする歴史的文脈の中で捉えることである。18世紀末までアジアは自立した経済圏を持ち、ヨーロッパとの交易を必要としない時代であった。本書は時代を3区分して3部構成とし、第1部は「アジアの時代―18世紀」とする。第2部は「ヨーロッパの時代―19世紀」として、産業革命から「パクス・ブリタニカ」という欧米型の市場経済システムと植民地主義の時代である。第3部は「資本主義と社会主義ー20世紀」として、「パクス・アメリカーナ」とソヴィエト連邦社会主義経済の時代とする。第恐慌と世界大戦、冷戦と南北問題が主題となる時代である。

第1章) グローバリゼーション―過去と現在

セン氏の2002年「石坂記念講演」は、第1部(第1章 「グローバリゼーション―過去と現在」)と第2部(最2章 「不平等の地球的規模での拡大と人間の安全保障」)に分けて記述されている。グローバリゼーションと人間の安全保障の相互関係は、現代の世界思想界の中でますます中心的課題になっているが、第1章ではグルーバリゼーションの歴史的視点から見てゆこう。つまりグローバリゼーションを現在のグローバル企業の世界制覇のプロセスとみるか、太古の昔からある人類の営みとしてヒト、モノ、金のグローバル(全地球的)経済の流れあるいは文明の伝搬と普遍化という課題であるかを見極めることである。そのためには従来の共通概念のいくつかを改めることになります。従来の共通概念とは、グローバリゼーションは本質的には西洋による世界支配の過程、あるいは世界が西洋化されるプロセスとみなす考え方です。またグローバリゼーションは利益を得る人と不利益を被る人々の格差が拡大することだという考え方もあります。不平等の地球的規模での拡大という観点から見てゆこう。社会不正とみなされる諸々の社会現象をより深く検討しなければなりません。第2章では地球規模での社会正義要求を、人間の社会生活の安全保障要求と関連させて述べます。2001年国連組織枠組みの中に「人間の安全保障委員会」が設置され、緒方貞子氏とセン氏が共同議長を務めた。グローバリゼーションが弱者の人々の生活安全保障になるのか、それとも格差を拡大するのかが問われています。「グローバリゼーション」という言葉について考えましょう。地球規模の様々な相互作用現象をさす場合が多いのですが、国を超えた文化的影響や、経済・ビジネス関係の世界規模拡大に至るまでの様々な現象が含まれているようです。グローバリゼーションの賛否にはたくさんの意見がありますが、最も基本的な謎は、グローバリゼーションに対する抗議運動こそが現代世界で最もグローバル化進んでいる現象の一つです。反対運動は公平という正義が世界中にゆきわたるような国際秩序の確立を目指す運動をしているようです。グーバリゼーションを西洋化と捉える人々は賛成派と反対派の間でこれを新しい潮流と見ていますが、世界のグローバル化の長い歴史を見落としています。欧米の貪欲資本主義ビジネス集団は世界の貧困者の利益には奉仕しない貿易ルールや国際取り決めを作り上げました。その結果グローバリゼーションは西洋による支配、あるいは西洋帝国主義の延長と目され糾弾されています。反グローバリゼーション抗議運動では、さまざまな非西洋的アイデンティティが掲揚され、イスラム原理主義、アジア開発主義、あるいは儒教文化と結びつけて議論されます。しかしグローバリゼーションは過去数千年にわたって、旅行・民族移動・文化的影響力の拡散・科学技術の普及などを通じて世界文明の進歩に貢献してきた。地球規模の相互関係は世界の国々の発展を促してきました。中世の紀元1000年頃の科学技術・学問の世界的広がりによって世界が変わり始めました。紙・印刷術・石弓・火薬・時計・鉄製つり橋・磁気羅針盤・回転送風機などの当時のハイテクの中心地は中国であった。数学の分野ではインド・中国のレベルは抜きんでいた。こうしたハイテクや学問が西洋に入り始めたのは10世紀末でした。なんとギリシャ数学やアリストテレス哲学もペルシャを経由して欧州の逆輸出されています。ゼロの発見や十進法、アラビア数字、代数学、正弦関数の発明などはインド・アラビア数学の成果が西洋にもたらされました。人類の偉大な業績と言われるルネッサンス、啓蒙思想、産業革命などの発祥が西洋にあることは事実ですが、その発展は西洋のみならず世界中に起こりました。グローバルな科学と技術の進歩は決して欧米の独占指導によるものではなかった。西洋化=悪という決め付けも人々の心を狭め、科学と知識の客観性を損なう誤断の傾向を助長します。19世紀英国の植民地インドで展開された激しい西洋排斥論(日本では尊王攘夷論)がありましたが、近代政治体制の確立の中で消化されゆきました。世界史の中ではグロバリゼーションが決して新しい現象でないことは明白です。経済関係の歴史でも同じです。植民地主義・帝国主義支配=西洋化という見方だけで排除するのは愚かです。日本の江戸時代のように鎖国してまで西洋化を排するのは愚かなことです。明治維新後の明治政府の果たした教育改革、資本主義の導入と財政改革などをセン博士は本書の中で絶賛しています。本書は日本で行った講演なのでお世辞もあるでしょうし、明治時代の歴史については数多くの成書もありますので省略しておきます。経済のグローバル化が国々にさまざまな利益をもたらすことは自明です。広汎な経済交流活動が貧困克服に大きな成果を上げてきました。グローバリゼーション論争の主な論点は「分配と正義」の問題です。不平等問題は豊かさの格差をめぐる問題です。政治的、社会的、経済的な機会と権力の配分に見られる大きな不均衡に起因することですので、次章で検討します。

第2章) 不平等の地球的規模での拡大と人間の安全保障

経済と科学のグローバリゼーションがもたらしてくれる巨大な潜在機会をより公平に分配することが第2章の題目です。次の2点でグローバリゼーションの得失を論じなければなりません。
@ 貧困と貧困者の不利な立場に関する、従来にはない観点「人間性の安全保障」をいかに確保するか、その重要性の確認。
A 「人間性の安全保障」に関する議論にありがちな偏見に不当左右されることがなく、グローバルな配分の公平性を実現できる適切な観点の確保。
まず新しい観点「人間性の安全保障」は人間の生存、生活、尊厳を脅かすあらゆる種類の脅威を包括的に捉え、これに対する取り組みを強化するという考え方です。特に弱者の立場におかれている世界中の人々をさらに窮地に追い込む危険性に対して対処するということです。これは経済の成長と拡大がもたらす恩恵の不均衡と不平等とは異なる次元の問題です。「人間性の安全保障」欠如の状態は経済成長が配分の公平性に結びついている場合にも存在しうるのです。グローバリゼーションは「人間性の安全保障」欠如問題を解決する機会にもなりうるのです。グローバル組織によるテロもグローバル化しており、「人間性の安全保障」をめぐる問題がグローバルな問題であることを示しています。人間の存在を不安定化させている原因は相互に関係しています。大量虐殺や迫害の発生は弱者の生活破壊をもたらし、同時に法治国家の崩壊を招きます。公衆衛生、公共教育、経済・社会生活、都市環境などの社会システムも崩壊します。これら生存の不安定、生活の不安定、尊厳性の不安定は最も基本的な不安定要素です。また民主主義、基本的参政権、市民権の欠如と結びついた政治的不安定という現代的問題にも該当します。貧困克服における経済成長の役割、経済開発における市場メカニズムは別々の問題です。前者の貧困克服における経済成長の役割を見てみましょう。ただし経済成長が貧困撲滅にダイレクトには繋がらないという論があります。その論点は@貧困問題は所得水準の低さだけではない。A貧困層の経済成長への賛歌能力は社会的条件によってさまざまであること。B経済成長の成果は重要な社会サービスの拡充には自動的には繋がらない。ということです。その上経済危機においては生活安全保障は影響を受けやすく脆弱であることを考えておかなければならない。後者の市場メカニズムと経済開発についても同じことが言えます。現代社会においては、市場の広範な活用なしには経済繁栄は考えられません。市場メカニズムはさまざまな制度の中で機能するものです。経済発展の要素とみられる基本的自由を拡大するにはさまざまな制度と保護が必要です。うまく機能している市場経済では市民の政治的自由が必要です。しかし市場経済への参加能力が教育、保健、土地改革などの公共政策によって大きく左右されます。教育訓練や雇用機会の増大を通じて女性の立場が強化されました。グローバルな不平等なかでも配分の不平等をめぐる問題はいまだに解決される見込みはありません。むしろ配分の不平等はグローバル化によって強化されるとも言えます。グローバリゼーションが貧者にも恩恵をもたらすかどうかの議論は不毛であるように思われます。現代社会を特徴づけている驚くべき貧困と不公平は、富者への抗議だけでは何も解決しません。グローバルな協力が利益をもたらすとき、富者も貧者も得られる配分の選択肢が増えるはずです。男女間の正義については、グローバリゼーションによって女性が経済的、社会的、政治的機会のより公平で公正な分け前にあずかれるかどうかが問題です。グローバル化した経済的、社会的関係から創出される恩恵の配分方法を、グローバルな関係、特にグローバル市場経済を壊さずに変更できるのだろうか。市場経済を成り立たせているルールやプロセスを肯定したまま、社会安全保障の仕組みや公共政策への介入などによっても、市場経済プロセスの結果を修正することができるとセン博士は言い切る。経済活動にとって市場経済制度が不可欠である以上、そこから議論は出発すべきなのです。市場経済がもたらす結果は教育、公衆衛生、土地改革などの分野で公共政策がとられていることでより完全・健全になります。国際ビジネス社会が民主主義が未整備な社会に対して、効率のいい独裁政治社会へ関心を持つことは、「人間性の安全保障」にとって一時期あるいは克服しがたい障害をもたらすかどうか慎重に検討しなければなりません。今日の世界に見られる不公正は、克服すべき重要な欠陥と密接に関係している。ここにグローバル政策(貿易協定、特許協定、医療制度、教育交流、技術移転、環境規制、施設、累積債務の取り扱いなど)の役割があります。弱者の惨めな状態を作り、貧困が恒久化する原因の一つにグローバルな規模での後進国への武器輸出があります。世界の既得権勢力は武器輸出ビジネスに深くかかわっています。全世界の武器輸出の50%はアメリカで、先進国G8合計で87%を占めています。軍事政権や内戦を引き起こし、民主主義の転覆に力を貸していました。

第3章) 文明は衝突するのか

本章は2002年2月19日東京大学名誉博士号授与式の際に行われた記念講演から訳出したものだそうです。題名からしてサミュエル・ハンチントン著「文明の衝突」(1996年)が出版されて大きな反響を呼び、東西文明の宿命的衝突という構図が一時論壇に流行しました。2001年9.11同時テロを予言するかのようにすさまじい紛争と不信の渦巻く世界という印象を与えました。セン博士は「文明は衝突するのか」という問いが世界を間違った方向に導くのではないかという懸念を持ち、このハンチントンの書の批判を行った。文化、文明、宗教などの基準に基づいた特異な分類のもつ圧倒的な影響力に屈することは、世界の紛争の解決にならないどころか、世界の火種をかえって増やすことになります。「人類はみな平等」、「人間は多様で異なっている」という理解に対立します。世界の調和に向けた最も大きな希望は、排他的な境界線が作り出す区分とは反対に、互い越境する我々のアイデンティティの複雑性にあることを言いたいのです。我々はいろいろな特徴・個性・属性を持ち、さまざまな集団に属しています。どの一つにも限定できないアイデンティティを与えてくれています。複数の集団の要求にどう対処するかはその人が決めなくてはなりません。その場の文脈に従って決めることです。それは選択の問題です。しかも衆人の目の前で実現できることを選択することで大きな制約がかかります。選挙における被投票者の決め方がそのいい例です。経済政策においては予算が大きくものを言います。何を優先して実施するか、予算はどうか、制約の「枠の中」で選択を余儀なくされます。数多くの分類方法で人を区分することは可能ですが、宗教による分類は有効であるとは思えません。生活の中でどれほどの力があるが大切で、何派に属するかで生活レベルが変わることは無いでしょう。インド社会におけるヒンズー教徒とイスラム教徒の生活レベルは宗派には関係ありません。アイデンティティは複数あるのが常識で、どれを強調し優先しようと、自己認識の選択権は私たち自身にあります。「文明の衝突」の文明による分類はこの点を見過ごしています。個がなくてステレオタイプの国民、民族があるだけです。すべての人を「イスラム世界」、「キリスト教世界」、「ヒンズー教世界」、「仏教世界」などに分けて閉じ込めてしまっています。血液型に拠る性格分類と同じレベルの粗雑な人間と社会の観察です。そして「文明の衝突」は西欧文明こそ世界で唯一、政治的な寛容をもつ源であると信じ込ませようとしています。世界を「文明の小箱」に振り分けるというお粗末な世界観です。一つの価値観しか持たない事は潜在的には倫理的そして政治的に危険です。世界をたった一つの排他的な基準に特化して区分けすることで、重要なことが無視されているのです。セン博士はインド人であるのでインド社会に詳しく、インド社会はヒンズー教一色ではないと、インド社会の見方が偏っていることに警鐘を鳴らします。紀元前6世紀アショカ王は宗教に中立的な混おか建設を宣言しました。16世紀のイスラム教のムガール帝国皇帝アクバルは非宗教国家の必要性をアッピールしました。当時の寛容性はむしろイスラム社会にあったようで、キリスト教国は偏狭な宗教戦争に明け暮れていました。彼の定めたアクバル法典は伝統への依拠ではなく理性の追求を指針としました。寛容性はたしかに近代ヨーロッパの重要な特徴ですが、東西の歴史的な断絶はここにはありません。アリストテレスは寛容を擁護しましたが、プラトンの思想は権威主義的でありました。中世ヨーロッパはキリスト教専制時代になり文明は停滞し、学問や自由や寛容はむしろアラブ社会にありました。宗教に拠る文明の粗雑な分割は、ヨーロッパ文明以外を排除するという裏の論理が働いているようです。極めて複雑で政治的な現代世界を宗教という限定的な物差しで見るのは危険以外の何物でもありません。別の選択肢があるのにその存在を否定することは、状況把握として間違っているだけでなく、論理上の怠慢です。自由と選択の重要性そして選択に伴う個人の責任の重要性が物事の本質です。

第4章) 東洋と西洋ー論理のゆきつくところ

本書の3篇はセン博士の日本における講演録ですが、この第4章だけはニューヨークの評論誌投稿論文(2000年)です。編集者がこの講演録の出版に当たって、セン博士にお願いして理解を助ける意味でこの論文を掲載しました。内容は前章と同じ東西論です。これはセン博士の前章への回答ともいうべきものです。まず道徳史について19世紀末のニーチェの懐疑論とオックスフォード大学哲学教授ジョナサン・グローバーの論理道徳を対比させます。ニーチェの「道徳の系譜」を読んで、「空に一つの星もなく、あるのは蝙蝠と梟と、そして気の狂った月だけだ」と詩人イエーツは叫びました。人間性の将来についてかくも寒々とした懐疑論を語っています。20世紀は戦争の世紀と言われるように、重なる大戦で多くの残虐行為が発生しました。グローバーはその「人間性ー20世紀道徳史」において、「我々内部に潜む野獣をしっかり見つめ、檻の中に閉じ込め飼いならす手段」を考えなければならないと述べています。先に述べましたがインドのムガール帝国のアクバル王は16世紀末、王国の宗教的多元性にかかわる問題とに取り組み、王国統治に世俗主義と国家の宗教的中立性の基礎を築きました。ニーチェの道徳的倫理についての懐疑と絶望感は、「神は死んだ」というように宗教的権威の抹殺を意味するものでした。グローバーはこの「ニーチェの挑戦」に応えるには、相当な批判的精神が必要だといいます。18世紀ヨーロッパの啓蒙時代は論理性が進歩することには楽観的でした。ところが最近啓蒙思想は激しい攻撃に晒されています。「人間心理に対する啓蒙思想も見解」は「軽薄で機械的」になりすぎている、「人道主義と科学的世界観」による社会の進歩という啓蒙思想の希望は見事に打ち砕かれたようです。グローバーは現代世界における暴政を啓蒙主義の世界観に結び付けました。主義主張の頑迷な信条のせいであるといい、「スターリン主義の未熟さ」が粛清、人命軽視に結びついたといいました。論理的アプローチはイデオロギーや無分別な信条に従った選択に勝るとしました。論理的思考による問題解決の可能性は恐ろしい現代世界に希望と自信を与えてくれるだろう。我々の困難と混乱の実体がなんであるかを知った時、適切な対応策を問う自由があるからです。日本の大江健三郎氏は「他国を侵略した歴史を理解するだけで、日本国民は民主主義の理念と不戦の誓い」を守ることができると主張している。(安倍首相の歴史修正主義はこの意味で戦争準備とみなされる。) 飢餓問題、不平等な貧困化といった問題の原因は明白でないにしろ、それらを回避する政策を論理的に考えることが必要だ。そのための議論として民主主義と報道の自由とが極めて重要です。無対策と政府の責任放棄の正当化を糾弾する必要がある。(安倍政権の反知性主義、情報秘匿主義は理性に基づいたプロセスを放棄し、国民の真実を見る眼をなくさせ、国民を自暴自棄に追いやる結果になります。)グローバーは「新しい人間心理学」が必要だといいます。政治と人間心理は連動するもので個人と社会が道徳的想像力を培い、「自己の道徳的アイデンティティ」を持たなければならない。政治的残虐に反抗するには、道徳的アイデンティティ意識は何よりも人間性からの反応でなければならない。人間性からの反応とは@他者に対する敬意をもって対応する性向、A他人の窮状や喜びに対する共感です。人間の本能的心理と共感的反応の重要性をみt目なくてはなりません。経済活動の基礎としての人間性を追求したのは、アダム・スミス箸「道徳的感情論」〈岩波文庫)が最初です。アダム・スミスはディドロ、カントに劣らない啓蒙主義者です。情緒性と心理的反応が核心的重要性を持つと気付いていました。その点ではグーバーと同じです。アダムスミスは「理性と感情は、ほとんどあらゆる道徳的決定と結論において一致する」といったデビッド・ヒュームに近い見解です。問題は啓蒙主義者が「感情や態度は、理性を通じて培うことができるか」ということです。アダムスミスは前著において「秩序を導く人間本性」として、「道徳感情論の主な目的は、社会秩序を導く人間本性は何かを明らかにすることである。私達は、自分の感情や行為が他人の目に晒される事を意識し、他人から是認されたい、或いは他人から否認されたくないと願うようになる。スミスはこの願望は人類共通のものであり、しかも最大級の重要性を持つものだと考える。経験によってすべての感情、行為が、すべての同朋の同意・是認を得られるものではないことを知る。そこで経験的に自分の中に公平な観察者を形成し、その是認・否定にしたがって自分の感情や行為を判断するようになる。同時に他人の感情・行為も判断する。私達の賞賛と非難は偶然によって不規則であるという。世間が結果に影響されて賞賛や非難の程度を変えることは、社会の利益を促進し、過失による損害を減少させるとともに、個人の心の自由を保障するのである。意図しない結果を恨んで神にすがったり、良心の呵責に苦しんだり、自己欺瞞でごまかしたり、濡れ衣に苦しめられたりする。基本的に胸中の公平な観察者の判断に従う人を賢人といい、常に世間の評価を気にする人を弱い人と呼んだ。適切であるかどうかの一般的諸規則は他人との交際によって、そして非難への恐怖と賞賛への願望という感情によって形成されるのである。自分の行為の基準としての一般的諸規則を考慮しなければならないと思う感覚を義務の感覚という。この義務の感覚によって、利己心や自愛心を制御するのである。胸中の公平な観察者はこの一般的諸規則への違反を自己非難の責め苦によって厳しく処罰することで、心の平静が得られるのである。この一般的規則を正義という。私達がこのような動機から法を定め、それを遵守することによって、平和で安全な生活を営む事ができるのである。」と言います。グローバーは意外とスミスの見解と一致しています。

論理性は文化的相違によって制約されるという論理的アプローチにたいする懐疑論を考えましょう。論理性、合理性という言葉からして西洋的なアプローチであって、非西欧社会には通用しないとする考えです。非西欧社会の人々は本当に自由や寛容性の価値を理解できないのだろうか。カント以来の西洋の哲学者が発展させた正義の概念の根底をなす価値です。ロールズは「寛容と良心の自由という大原則」をわかりやすく説明しています。寛容性、自由、相互尊重などの価値感は文化的特質として西洋文明だけのものであろうか。もう一つの問題は、異なる文化の中で育った人々は、他者に対する基本的な共感や敬意を根本的に欠いているという見解です。前者を「文化限界」と呼び、後者を「文化不調和」と呼びます。ある共同体以外の人々の生命や基本的人権を奪ってよいとなれば、異文化相互理解は不可能です。共同体が国よりも小さい部族、村洛の場合もこの抗争が及ぶことがあります。コソボ紛争、キリスト教徒とイスラム教徒など区分が細分化されゆくと、他人はすべて敵だから殺していいという行き着くところになります。原始自然状態に戻って5000年以上の人類の進歩は無に帰します。相互理解の範囲を広げていったのが歴史だったはずです。論理性がどこまで到達できるのかという問題は、クリフォード・ギアツの「文化戦争」で二人の文化人類学者の見解が取り上げられています。サーリンズは「明確に異なる様々な文化が存在し、それぞれに人間の行動を規制する文化システムがある」といい、オベーセーカラは「人間の行動や信条は、生活の中で特定の機能を果たすものであり、そうした信条や機能は人間の心理側面から理解すべきである」という見解である。どちらの見解も異文化コミュニケ―ションを否定するものではありません。この問題はグローバーが提起する「異文化に対する残虐性や苛烈な行為を解決する方法として、道徳的想像力の涵養を必要とする」という問題の一つである。異文化は学びうるものかということは、ある文化には存在しない価値が必要かどうかの問題であり、必要なら学ぶでしょう。ヒメルファーブは「権利、理性、人間愛などの概念は主として西洋の価値感である」と言います。はたしてそうでしょうか。たしかに西洋文明の圧倒的支配力は大きいのですが、科学の分野ではグレゴリオ暦が必ずしも唯一の共通暦ではなく、同じ精度・便利さで中国、インド、イラン、エジプトなど非西洋社会にも暦があります。西洋の価値である「個人の自由」という概念は、産業組織や近代技術が拡散していったように、西洋以外の地にも広がりました。歴史的発展という時間軸を考えると、西洋の価値に利得があるなら慣習を超えていつかは非西洋社会に伝搬するのが当然だという考えが主流です。紀元前3世紀のインド北部のアショカ王は、すべての人間の基本的人権を含む善行や善政を石碑に刻みました。東洋的「規律と秩序」という概念をとなえた儒教や、古代インド人もいました。プラトンた聖アウグスティヌスは、自由より社会規律を重視しました。それらはその時代の社会状況と関係があります。西洋的という信条や態度が現代西洋社会状況の反映に過ぎないという場合があります。その結果西洋社会こそが合理主義と自由主義の理念の主たる源泉であるという政治的信念が強化されたといえます。そして合理性、論理性、科学主義、実証主義、自由と寛容、権利と正義などの概念を持ちうるのは西洋社会だけだという考えが支配したようです。文明のアイデンティティが西洋との対比によって決められ、西洋からのかい離度合いで発達途上国を順位づける差別も横行したのです。特にアジア的価値(権威主義的側面)を儒教から説明し、自由や自立よりは規律と秩序を強調する考えが西欧のみならず、アジアからも主張されているのです。第4章はこの後、古代インドにおける世俗国家の原点を、セン博士は第3章と同じ内容で繰り返しているので、省略する。



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