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伊藤之雄著 「伊藤博文ー近代日本を創った男」 
講談社学術文庫(2015年3月)  (講談社社単行本 2009年)

明治維新後日本の近代憲政政治を創ろうとした近代化進歩主義者の生涯

伊藤博文          遣欧使節団             山県有朋
伊藤博文              岩倉遣欧使節団(木戸、山口、岩倉、伊藤、大久保)               山県有朋

上の写真は左から「伊藤博文」、真中に「岩倉遣欧使節団」、右に「山県有朋」を掲載した。日本の近代化はまさにこの岩倉遣欧使節団から始まった。そしてその後の日本国の隆盛は左の伊藤博文と右の山県有朋によって遂行されたといえる。伊藤は近代憲政政治の実現を目指し、山県は富国強兵日本を目指した。同じ長州出身の二人は生涯のライバルであった。「文治」の伊藤にたいする「武断」の山県という構図が一番よくあてはまる。明治維新政府は長州の木戸と薩摩の大久保の二人が作ったとすれば、近代日本は伊藤と山県の二人が作った。その成果は立憲政治の確立、明治末の日清・日露戦争勝利、台湾・朝鮮併合という帝国主義的進出、そして大正デモクラシーとなって花開いた。伊藤博文は毀誉褒貶の激しい政治家である。戦後は保守主義者・植民地主義者として批判の対象になった。しかし伊藤は、幕末の慶応三年には藩意識を克服し、明治元年の廃藩置県を建言した。イギリスの立憲君主制やアメリカの共和政にも関心が強かった。幕末にはロンドン勉強のために密航し、明治三年の半年間アメリカ出張、そして明治4年(1871年)に岩倉使節団で、西欧と日本のレベル差を思い知った。近代化とは憲法を持つだけでなく、国民意識の成熟、法制度・官僚制行政機構の整備、教育制度、地方制度、そして財政的基盤整備、インフラ整備(道路や鉄道網、電気事業など)など様々な改革が同時に進んでいなければ有名無実であることと一番よく知っていた。イギリス風の憲法を理想とする大隈重信・福沢諭吉の民権派も、ドイツ風を目指す岩倉具視・井上毅ら政府派も憲法が容易にできると考えていた。1881年明治14年の政変で、1990年に国会開設を約束した伊藤らは憲法調査を行った。伊藤は1882年からオーストリアに留学し君主権を抑制する君主機関説の考え方をシュタイン博士から学んだ。同時にイギリスの議会モデルも学んだ。こうして1889年に大日本帝国憲法(明治欽定憲法)が制定され、数度の憲法停止の危機を乗り越え憲法が機能するようになった。1899年には伊藤は立憲政友会を組織し、憲法制定20周年(1909年)の頃には、伊藤の後継者の西園寺公望の政友会と、山県系の桂太郎派と交互に政権を担当するまでになった。伊藤は法制度を整えるなど日本の近代化をしたうえで、列強のルールを守り合理的に交渉すれば条約改正などの交渉が妥結する可能性がある事を理解した。条約改正を井上薫参議や大隈重信外相に託したが、外国人判事任用問題で批判を浴びて失敗した。次いで第2次伊藤内閣で腹心の陸奥宗光外相に交渉をまかせ、1894年治外法権を撤廃し、関税も増加させるイギリスとの条約改正に成功した。日清戦争の講和から三国干渉も陸奥外相と連携して切り抜けた。日露戦争の勝利後、1905年韓国を保護国とすることを列強から認められ、自ら初代韓国統監となった。老境に入ってからあえてこのような困難な任に就いたかというと、韓国で山県系陸軍軍人と官僚が無謀な列強との摩擦を引き起こすことを防ぐためであった。伊藤は軍事力を背景とする支配は、列強がそれを認めないなら統治は長続きしないという信念であった。伊藤は韓国駐箚軍をコントロールするため指揮権を与えられていた。伊藤は韓国併合は民族的反抗を生むのでできるなら韓国人憲政政府を介した支配を望んでいたが、1909年韓国併合(直接支配)のやむなきに至り6月に統監を辞任した。同年10月いとうは南満州問題をロシアと協議するためにハルビンにゆき安重根により狙撃された。1910年日本は植民地韓国に総督府を置いた。列強の武力による平和を脱皮し、清国の憲法政治に向けた近代化を促進し、日露政府協同による真の満州平和を築くことが伊藤の夢であったが、道半ばで植民地主義者の権化として暗殺された。伊藤博文が憲政政治体制を確立し条約改正に成功したのは、1881年から1896年までの15年間続いた伊藤体制の天皇の信頼をバックにした藩閥権力掌握があった。また伊藤は藩閥官僚の中での自分の権力が衰退する危険を冒してまでも、政党の台頭を政党政治の当然の流れとして容認した。

著者伊藤之雄氏は本書のあとがきで、自分も含めて伊藤博文研究史を概説している。著者のプロフィールを紹介しておこう。伊藤 之雄氏は1952年9月26日福井県大野市生まれ。日本の歴史学者。京都大学教授。専門は、近・現代日本政治外交史。1976年京都大学文学部卒業。1978年同大学院文学研究科修士課程修了。1981年、同博士課程満期退学。1988年京都薬科大学専任講師、1990年名古屋大学文学部助教授となる。1993年3月23日、『大正デモクラシーと政党政治』で京都大学文学博士となる。1994年、京都大学大学院法学研究科教授(日本政治外交史担当)になる。1995年、ハーバード・イェンチン研究所・ライシャワー日本研究所で研究する。2012年2月、『昭和天皇伝』で第15回司馬遼太郎賞を受賞した。現在、京都大学公共政策大学院兼担教授。この他、学外では、京都市政史編さん委員会代表を務めている。1994年に京都大学大学院法学研究科教授になった時以来、法学部の講義で伊藤博文を毎年論じているという。大学院の演習では伊藤や伊藤が中心となって作った明治国家の誕生から敗戦に至る結末までを講じてきた。学生たちと「山県有朋関係文書」、「桂太郎関係文書」、「寺内正毅関係文書」、「陸奥宗光関係文書」を講読し、伊藤や明治国家について議論してきた。憲法学者大石眞氏の京都を拠点にした「憲法史研究会」に参加し、伊藤の憲法制定について論じた。同僚の京都大学大学院文学研究科の高橋秀直氏と議論して、幕末・維新期の研究を学んだ。その頃の受講生であった瀧井一博(現・国際日本文化研究センター准教授)は伊藤博文研究を成果を挙げた。また2006年―2008年科研費を得て、李盛煥(韓国啓明大学教授)と共同して「伊藤博文と韓国統治」の研究会を3年間行った。また大阪大学に転任された飯塚一幸氏の「吉田清成関係文書研究会」に参加したことも本書に寄与している。明治前期の政治状況で、西欧とまったく違った文化を歩んできた日本に、西欧風の憲法を真に根付かせることの困難さがひしひしと伊藤を苦しめたであろうことは想像に難くない。伊藤のリーダとしての資質は、長期的な展望をもって現実の困難さ認識したうえで、楽天的に強い意志で解決していったことであろう。2009年11月に本書が講談社から刊行され、その後すぐ2010年4月に、瀧井一博氏は中公新書「伊藤博文―知の政治家」を出版した。本書は伊藤博文の伝記であるが、瀧井一博氏は憲法制定や公式令制定などを中心に近代日本を創った伊藤を論じたものになっている。伊藤之雄氏と瀧井一博氏は新しい伊藤博文像を打ち出し、韓国統治を中心として日本の植民地政策を巡って論争が起きた。伊藤博文の「憲政政治」の理想は1909年の暗殺によって道半ばで終わったが、その意志は原敬に受け継がれ、1918年に本格的な政党内閣を作ったことで、大正デモクラシーの開化となった。原敬は、第1次世界大戦後にアメリカ合衆国が世界のリーダーになったことで、国際規範に基づいた国際協調外交に変化させた。また原敬内閣が、陸軍や宮中までも含めて政治や行政をコントロールするイギリス風の立憲政治を実現した。私は本書を読む前に、瀧井一博著 「伊藤博文―知の政治家」(中公新書 2010年4月)を読んでいたので、本書に入る前に主に制度面から見た伊藤博文の理想と実績を概観しておこう。

瀧井一博著 「伊藤博文―知の政治家」(中公新書 2010年4月)の概要
伊藤博文(1841年9月−1909年10月)は余に有名であるが評判はいまいちよくない。経歴をざっと見ると長州の出で私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊皇攘夷・討幕運動に参加、維新後は薩長の藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議兼工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、韓国統監府初代統監を歴任した。元老。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争に対処した(下関会議で清の李鴻章と講和)ことが特記できる。アジア最初の立憲体制の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、現代に至るまで大変高い評価をされている。ハルビンで朝鮮独立運動家の安重根によって暗殺される。かくも赫々たる経歴をもち、教科書に必ず出てくるので日本国民なら誰でも知っているはずで、1984年まで1000円札の表を飾ってきた。憲政の父として国会議事堂には2体の肖像が立っている。確かに、伊藤博文は日本の議会制度を論じるときに必ず通らなければならない存在である。木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通といった明治維新回天の三傑の世代の次に位置する、明治史上最も著名な人物である。だが歴史学者の間(アカデミズム)では伊藤の功績を高く見積もることに抵抗があるようだ。明治欽定憲法制定についても起草の中心は井上毅であるという。西南戦争後は大久保利通の独裁路線に媚び従い、大久保なきあと立憲運動が高まるや井上毅のプロイセン型欽定憲法路線に同調して憲法制定者の名をほしいままにする。議会開設後は民権派の自由党と野合して,これを土台にして立憲政友会を創設し政党政治へ転身する。このような時流に乗るに俊敏な伊藤博文は思想なき政治家といわれる由縁であった。伊藤博文はよくも悪しくも明治時代に日本国家の骨格を定めた特記すべき人物である。結果責任という政治家の使命からすれば、伊藤博文の業績が今日も生きている。井上馨のように一貫してイギリスモデルの穏健な議院内閣制を採用し上からの民主化をやろうとしたが、現実のものにすることはできず、大隈重信も転向した。西欧文明との出会いは、1871−1873年にかけての岩倉遣外使節団による欧米諸国巡歴であった。新政府の使節団は、岩倉具視、木戸孝允、山口尚芳、伊藤博文、大久保利通で構成された。1972年まずワシントン入りした一行は、伊藤・大久保はアメリカと一挙に条約改正を行なって文明国に肩をならべる事を期待したが、個別交渉は不可であることをしり愕然とした。木戸孝允は諸国巡礼中一貫して各国の政体調査に打ち込んでいた。この姿に伊藤は急進論から漸進論に宗旨替えをしたようである。かくして伊藤は理念としての開化主義と方法としての漸進主義を身につけたようだ。 明治欽定憲法制定では、1881年大隈重信はイギリス流議院内閣制を主張する憲法意見書を提出した。これにたいして岩倉は井上毅に憲法意見書作成を命じた。井上はドイツのプロイセンをモデルとして、欽定憲法の採用を提唱する岩倉憲法意見書ができた。ところが黒田清隆の開拓使官有物払い下げ事件によって反政府運動がおき、明治14(1881)年10月の政変となって、大隈は閣僚を罷免され政府から追放された。そしてすぐさま「国会開設の詔」が出され、1890年を期して国会を開くことが公にされた。1882年3月伊藤は憲法取調のため欧州に渡った。伊藤はウイーン大学のシュタイン教授より国家学を教わり、憲政=議会制に感服したという。シュタインの国家学から伊藤は「どんな立派な憲法を設立しても、どんな立派な議会を開設しても、行政がうまく運営されなければ生きた政治とは言えない」という事を学んだようである。欽定憲法は神権的な天皇絶対主義の憲法と位置づけられ、大隈らが提唱するイギリスモデル議院内閣制は排斥され、岩倉と井上毅が推し進めるドイツモデル立憲君主制が選択された。伊藤は憲法は紙切れに過ぎない、重要なのは国家行政であるとみなしていた。立憲政友会の結成では、文明の政治とは、あくまで国民を主体とした政治であり、それは議会制度を前提としたものでなくてはならなかった。政友会の中心となったのは旧憲政党系なかでも星亨で、伊藤と憲政党を結びつけたのが伊東巳代治であった。明治国制の確立(天皇機関説と軍のシビリアンコントロールをめざして)では、皇室を国家の機関として位置づけることが国制上の原則となる。1907年に皇室典範の皇室事務を定めるものとして皇室令という法令形式が確立した。宮中を府中と並ぶ統治機構として法政上公定するという意味合いがあったのである。そして皇室の法令化は、山県有朋のいう帷幄上奏の慣例により、内閣の関与を拒否するという動きと激しい対立をなしていた。山県らがいう天皇が統帥権を持つ軍部は侵すべからざる存在(軍部の制度的独立)であるに対して、伊藤は皇室令で天皇の機能を法令化する中で、軍部に関することもシビリアンコントロール下におこうとする狙いがあった。 1907年の公式令第6条、第7条ではすべての法律と勅令について内閣総理大臣と国務大臣の副署が必要となった。公式令制定のとき、念頭においていたコントロールすべき勢力は軍部であった。1906年3月日本は韓国の外交権を奪い保護国化して、伊藤が初代韓国統監として赴任した。ところが同年7月韓国皇帝高宗はハーグ平和会議に日本の韓国統治の不法性を訴えようとしたが、高宗は退位させられ,第3次日韓協約によって、法令制定権や重要な行政処分権、官吏の任命権など幅広い内政監督権を日本に認めさせられた。伊藤はなぜ韓国総監を引き受けたのであろうか。ひとつは「東洋の率先者たる」日本が韓国を文明化する使命感かもしれない。もうひとつの理由は欽定憲法改正における公式令の延長線上で、文官による軍部のコントロールの実例を韓国で作りたかったということかもしれない。伊藤は日本の文明化の第2のパターンを韓国で再現したかったのかもしれない。伊藤の文明化とは、民本主義、法治主義、漸進主義の要素から成り立っている。民度を高めて殖産興業をはかるという文明化のプロジェクトは日本でも韓国でも相違はなかった。伊藤は軍部の行動を法治化しようとした。これは児島源太郎参謀総長の韓国積極的経営論とぶつかり、1909年4月小村寿太郎外相は「対韓大方針」を奏上し、7月に韓国の併合が決定された。

1) 青春篇ー倒幕へ戦い

伊藤博文(1841年9月−1909年10月 享年68才)は周防の国束荷村に林十蔵の子として生まれた。なお長門・周防両国と萩藩をあわせた範囲を長州藩と呼ぶ。幼名は林利助(のち利輔)である。本家は庄屋であったが、林十蔵は五反百姓(自作農として限界以下)であった。利助が生まれる前年には隣の清国でアヘン戦争がおころ、列強の中国及び東アジア侵略が激しくなる頃であった。長州藩では、伊藤が生まれる10年ほどの間に、幕末維新に活躍した俊英が生まれている。吉田松陰、木戸孝允、井上薫、山県有朋、高杉晋作、久坂玄瑞である。林十蔵の家は1864年に年貢米を納められず破産した。利助が10才の時に萩に出た父十蔵は足軽伊藤直右衛門に仕えた。伊藤家には跡継ぎがいなかったので十蔵が養子になり、利助は百姓から足軽の身分に上昇した。萩の藩士子弟が通った久保塾に通って誰にも引けを取らなかった。1853年ペリーが浦賀に来航し翌年には日米和親条約が締結され、下田・函館が開港された。幕府は同様の条約をイギリス、オランダ、ロシア、フランスと結んだ。明治政府はこの条約をより平等なものに改正するのは約40年ほどかかった。(1894年イギリスと条約改正に成功) 1856年利助14歳の時相模国御備場出役を命じられ、翌年萩に帰って松陰の松下村塾に入門した。1858年長州藩では6人の青年を京都留学に3か月間派遣した。松下村塾から4名が推薦され、伊藤、杉山、伊藤伝之助・岡が選ばれた。山県有朋もいた。長州の若手の人材の一人として伊藤が注目された。松陰は利助のことを「周旋家に向いている」と評価した。京都から戻ると利助は來原良蔵の配下に入り、長崎に行って練兵や砲術を学んだ。1859年利助は木戸の配下に入り、江戸の長州屋敷に住んだ。この江戸で伊藤は井上薫(志道聞多)と出会い、生涯の政治同盟者を得た。井上は中級武士で藩校の明倫館で学んだので、それまで出会わなかった。1959年松陰は幕府により処刑された。伊藤は小塚原の回向院に松陰の死体を引き取りに行き、橋本佐内の墓の近くに埋葬した。松陰の思想は近代的かというと、むしろ復古的な「絶対服従」と言える封建的儒教朱子学から来たものであるが、その実践的行動的で、妥協を許さない絶対主の命令を信奉する純粋な感情が若者の心を捉えたのであろう。だから長州藩では武士の家の存続を絶対視しない思想が普及したのだろうか。伊藤が松陰から学んだことは、天皇と言えど絶対視せず、あるべき君主として成長するよう天皇を教育し、天皇との信頼関係において政治を行う態度であった。幕末の長州では木戸らの「有司グループ」が藩政を指導、藩主は特別な場合を除き藩政に意志を示さないスタイルで推移した。1862年薩摩藩主島津久光は公武合体によって挙国体制を作ろうとして兵1000人を率いて上京し、これを契機に外国人嫌いの朝廷の攘夷実行要求から倒幕と絡んで「尊王攘夷論」が高まった。長州では家老長井雅楽の公武合体論が退き、尊王攘夷論一色となった。そのため1863年利助の師であった来原良蔵が公武合体論が敗れたため、江戸の長州藩邸で自刃した。また高杉晋作らは御殿山のイギリス公使館の焼き討ちを計画し、利助(俊輔)もこれに加わった。幕府の御用学者である国学者の塙次郎暗殺に加わり、斬殺した。1863年3月井伊直弼が水戸浪士によって桜田門外で暗殺されなど、京と江戸では尊王攘夷主義者と幕府側のテロが横行した。1863年俊輔は準士雇に昇格した。足軽から侍扱いになれたということである。井上薫はイギリスの汽船「壬戊丸」を買い上げたが、航海に馴れた人はなく、伊藤らは航海術を習うため藩当局にイギリス渡航を申請した。幕府に対しては「密航」であり見つかれば処刑であるが、井上薫は藩より金を工面して、自分と伊藤ら5人はイギリス船で出港した。横浜を出て上海に着いて数えきれないほどの軍艦・蒸気船を見て井上はすぐに攘夷は誤っていたことに気が付いた。1863年6月ロンドンに到着した。伊藤は英国の文明の進歩と国力が強大であることに感服し、すぐに攘夷の考えを捨てた。彼ら5人はロンドン大学で、数学、地質鉱物学、土木工学、物理学の講義を受けた。主にハード面の勉強をしたのは、法律・政治・経済・歴史学の社会のソフト面については彼らの力では学習不能だったからだ。ところが彼らが横浜を出港する2日前、長州藩は下関の米国商船を砲撃し攘夷を決行していた。薩摩藩もイギリス艦隊を攻撃した。数か月遅れでこれを知った井上と伊藤は藩主に攘夷を止めさせるべく1864年3月ロンドンから帰国の途に就いた。アメリカ、イギリス、オランダ、フランスの代表は4ヶ国共同行動を協議し、協同覚書が6月19日に調印された。

1864年6月横浜に着いた井上と伊藤はイギリス公使オールコックに面会した。二人は藩主に攘夷を止めるよう説得するので、軍艦で国元に送ってほしいと依頼した。6月24日藩の政事堂において西洋事情を述べ攘夷の中止を4カ国に通告すべきを説いた。その結果藩主は天皇と幕府の命で動いているので、京都へ行って天皇の攘夷の命を取り下げさせるので3か月の猶予を待ってほしいというのが藩の回答であった。7月伊藤は外国艦隊との応対役を命じられた。この間に京都池田屋を新選組が襲い、6月15日長州藩は京都へ兵を入れ、久坂玄瑞、入江九一ら松下村塾の俊英が従った。このような騒然として状況で攘夷の中止は問題にならず、7月19日禁門の変で薩摩軍と戦って長州は敗れた。7月24日幕府は第1次長州征伐を西南21藩に命じた。1864年8月5日四カ国連合艦隊は馬関を砲撃し藩の砲台を占領した。8月7日高杉晋作を使いとした講和使節を四カ国艦隊に派遣し、8月14日講和条約が結ばれた。馬関における艦隊の航行安全を約束し、賠償金を支払うというものであった。長州藩の折衝係りの伊藤とイギリスの通訳アーネスト・サトウの連絡が始まった。伊藤はサトウに、長州は幕府の攘夷命令に従ったまでで賠償金は政府に要求すべきだという見解を吹き込み、交渉の末9月22日に幕府は賠償金300万ドルを支払う約束をした。藩内には、幕府に恭順すべきとする「俗論派」と山県有朋の倒幕すべきだとする「正義派」が対立した。藩論は俗論派が主導権を握ったので、正義派の周布政之助は自刃した。井上薫は俗論派に襲撃され重傷を負った。第1次長州征伐の圧力で藩主は恭順を表明し蟄居し、家老及び参謀の7人が切腹した。高杉晋作は奇兵体を組織し、山形はその軍監になって、藩の俗論派に戦いを挑んだ。伊藤も奇兵隊の決起に参加し、1865年1月俗論派を各地で撃破した。2月初めに停戦となり、表向きは恭順で、内には武装を固めて倒幕の意見で藩内は一致した。そこで幕府は1865年4月13日第2次長州征伐を諸藩に命じた。この危機を乗り越えるため、藩を指導できる木戸孝允を呼び戻すことになったが、幕府は紀州藩を先鋒とする長州征伐軍を組織した。木戸は伊藤・井上を入れて藩内の攘夷論を抑え込み、大村益次郎を迎えて軍改革を行った。伊藤と井上は、薩長同盟を画策していた土佐藩の坂本龍馬や中岡慎太郎と面識があり、蔵方の前原一誠の手助けとして武器購入担当者になった。山県は奇兵隊の軍監として馬関の軍備を固めていた。伊藤・井上は薩摩藩の名義を借りて長崎で小銃7300挺、商船1隻、砲艦2隻を購入した。木戸の代理として薩摩藩の大久保利通にも会った。1866年1月21日には木戸と西郷隆盛の間で幕府の長州征伐に対し薩摩藩の中立を確保し薩長同盟が成立した。長州戦争は6月7日に始まった。各地で幕府軍は敗退し、7月220日将軍家茂が死去したので第2次長州征伐は失敗した。1866年伊藤は養女となっていた許嫁のすみと離縁し、馬関の芸者梅子を生涯の妻とした。1867年3月伊藤は品川弥次郎、野村靖らと共に準士から士雇に昇格した。伊藤は情報探索のため京摂津方面に出張した。幕府の動向薩摩藩の真意を探るためである。4月14日伊藤を可愛がった高杉晋作が病死した。薩摩藩はまだ倒幕には本腰を入れておらず、体制変革の道を模索していた。薩摩藩は6月22日土佐藩と薩土同盟を結び、将軍慶喜に大政奉還の建白を行わせる方向で進めた。7月伊藤は長崎出張を命じられ、伊藤と木戸は長崎で坂本竜馬に面会した。6月中旬京都で、薩摩藩の小松・西郷・大久保と長州の柏原数馬らが会ったが、その時も薩摩藩は倒幕についてははっきり述べなかった。9月26日伊藤は輸送船舶の借り入れに長崎に向かった。10月14日将軍慶喜は土佐藩主山内豊信の助言を入れて大政奉還の建白を行った。それに対して公家の中山忠能と岩倉具視が図って倒幕の密勅(偽書)を薩摩・長州両藩に下された。11月17日島津忠義と毛利敬親が会合し、兵を西宮に上陸させた。そして1868年1月3日から今日に入ろうとする薩長軍とそれを阻止しようとする幕府軍の間で「鳥羽伏見の戦い」が切って落とされたが、瞬時に勝敗は決した。逃げる幕府軍を追って薩長軍(新政府軍)は東進した。伊藤は鳥羽伏見の戦いには参加できなかった。伊藤はイギリス軍艦に乗って兵庫に着いたが、新政府軍から西宮の警護を命じられた岡山藩の兵士がフランス人を槍で傷つける事件が発生し、伊藤はパークス駐日イギリス公使との事件の処理に忙殺され新政府の外国事務掛を命じられた。伊藤は外国公使団を新政府支持につなぎとめる事が戊辰戦争を勝ち抜くために重要だとして任に当たった。2月には土佐兵士とフランス水兵の衝突事件も起きた。伊藤は1868年1月25日新政府の参与職に就任し「諸外国事務局判事」となった。天皇に謁見するイギリス公使パークス、フランス公使ロッシュ、オランダ公使ポルスブロークの通訳に任じられた。パークスが御所に向かう途中で攘夷派の襲撃に会い、土佐の後藤象二郎、薩摩の中井弘、五代友厚らが警護して切り捨てた。伊藤は無事三公使の謁見が済み木戸の信頼も厚く新政府の中に地位を占めた。

2) 飛躍篇ー明治初期の急進的諸改革

1868年4月維新新政府によって伊藤は神戸開港場管轄外国事務を任され、5月には大阪府判事兼外国官判事を命じられた。大阪府の副知事になると同時に神戸の外国事務一切を管轄した。そし同月兵庫県知事(開港場神戸周辺の狭い地域)に任命された。伊藤26歳の若さであった。得意な様子が伺われる。同年9月8日明治元年と改元された。この頃政府はまだ京都にあり、伊藤は外国人とのトラブルの政府を代表して折衝にあたった。不平等条約の下では外国人の犯罪を裁判にかけることはできなかった。伊藤は岩倉大阪府知事時代に「廃藩置県」という提案をして気に入られた。また長州閥の木戸孝允、井上薫、佐賀藩の大隈重信、紀伊藩の陸奥宗光らのグループと連絡を密にした。木戸グループでは明治元年、二年の段階ですでにイギリスの立憲君主制や欧州の共和政治を、日本の近代化のためのモデルとする動きがあった。1869年伊藤は会計官権判事に昇進し、木戸・井上薫らと東京に入った。伊藤の仕事は商法に関する幅広い権限を持つ部署の長であった。しかし伊藤の関心の中心は「廃藩置県」にあって、藩主が藩を朝廷に返すに当たって、藩主をそのまま世襲の知事にするか、官僚に置き換えるかであり、伊藤は藩主は爵位を授けて上院議員とすることで、新しい人材の登用を主張した。参与の木戸孝允は藩主の知事世襲に強く反対し、大久保や副島種臣らは時期尚早を主張した。kのため木戸グループの井上や伊藤は辞任して抗議し、驚いた岩倉や大久保は「世襲」の2字を削除し、ひとまず藩主262人を知事に任命し、公卿と諸侯を廃して華族と称することになった。政府は制度改革を行い太政官・左右大臣と参議の三職で国家の枢要を決めることになった。現在の閣僚クラスである。行政制度として六省を置き卿(長官)うぃ責任者とした。結局右大臣三条実美、大納言岩倉具視、徳大寺実則、参議には木戸、副島、前原、大久保、広沢が任命された。大隈は大蔵大輔、伊藤は大蔵小輔に任じられた。8月になって木戸グループは大蔵、民部という最重要官庁に、大隈、伊藤、井上薫の3人を送り込むことができた。木戸と伊藤は将来の立憲制導入と改革目標について共有するものが多かった。大隈は急進的な改革案をもって行政能力も高かったが、木戸が一番信頼したのは腹心筆頭の伊藤であったという。大蔵小輔伊藤と造幣頭井上薫は共同して租税の徴収体制の整備にあたり、東京−横浜間鉄道敷設事業の外債をロンドンで募集することに成功した。次いで阪神間鉄道設置計画に従事した。1871年三条・岩倉・大久保の協議により、大隈を参議に登用し民部省と大蔵省の兼任を説解き、民蔵分離を実施した。木戸グループは兵部省には影響力はなかったが、木戸は前原一誠と関係が悪くその人事にも介入した。兵部卿は有栖川宮熾仁親王であったが、長州の前原一誠兵部大輔がリードしていた。木戸は山県を欧米に留学させており前原の後任に考えて兵部小輔に任じた。これに反発した前原は一か月後大輔を辞任した。長州閥の山田顕義大丞に真意を問わさせている。明治2年ごろから伊藤は俊輔の名をやめ「博文」に改めた。かって高杉晋作が論語から「博文約礼」を引いて伊藤に勧めたという。1870年秋、伊藤はアメリカの理財に関する諸法令、国債、紙幣、為替、貿易に関する調査に出張した。随員は芳川顕正、福地源一郎ら21名であった。その結果は金本位制の採用、大蔵省職制改正となって現れた。伊藤は調査の合間にアメリカ合衆国憲法の制定過程を研究した。この年、伊藤は井上薫の兄の子である勇吉を養子として迎い入れた。生涯、伊藤と井上薫は政治上の同盟者になった。各藩が財政を握っている限り、政府の新事業の財源がままならないは当然で、1870年大久保利通は木戸や岩倉の同意を得て「廃藩」を実行するつもりで、鹿児島に帰ったままになっている西郷を東京に呼び出し薩長の団結を示す必要があった。10月に弟の西郷従道が使いに立った。伊藤はアメリカから帰国した1871年5月には廃藩の準備は出来上がっていた。6月には東京に薩長の約8000人の親兵を集めて、維新政府を固めた。三条は太政大臣、岩倉は外務卿に、木戸孝允・西郷隆盛・板垣退助・大隈重信が参議、大久保利通が大蔵卿に、井上薫が大蔵大輔となった。大久保が大蔵卿になったのは大隈・伊藤・井上の急進的な改革派の木戸グループを抑えるためであった。7月14日藩を廃止して県とする詔が出て、200数十名の旧藩主知事は罷免された。大久保の大蔵卿就任によって、伊藤は阻害されるので、木戸は伊藤を大蔵省の代表にする工作もあったが、9月に伊藤は工部大輔に就任した。大久保は伊藤らの急進的改革を嫌った。とにかく伊藤は大久保に近代化というものを理解させなければ伊藤らの考える改革はできないと思い、岩倉使節団への参加を通じて大久保に接近した。

廃藩置県が強権の下で一段落すると、1871年9月には条約改正のために欧米に全権大使を派遣しようとする空気が高まった。1858年に幕府が外国と結んだ修好通商条約は治外法権があり関税自主権がないなど不平等条約であった。無邪気にも現状を説明して国家改造の方針を教えてもらおうとするものであった。岩倉外務卿が中心となって、薩長の要である木戸と大久保と佐賀閥の山口尚芳を加え、伊藤が調整する使節団である。実質的に伊藤がこの使節団の主導権を持った。岩倉卿の伊東への信頼が高い事、そして薩摩の保守派大久保に国家近代化の必要性を理解してもらうことが何を置いても重要だと考える伊藤の苦心が読みとれる。10月8日使節団の派遣が決定された。使節団の理事官として佐々木高行(土佐閥)、侍従長東久世、山田顕義(長州閥)ら7人が加わった。11月12日使節団一行48名、同行の留学生54名はアメリカ号に乗ってサンフランシスコに向けて出港した。1872年1月15日サンフランシスコに到着した。1月21日首都ワシントンに入った使節団は3月より条約改正交渉を開始した。ところが全権委任状がないことを指摘され、伊藤と大久保は日本に帰国し6月17日に委任状を持ってワシントンに戻った。最恵国条項によってアメリカと結んだ条約は他の国にも自動的に与えられることなど、アメリカは使節団の無知に驚いて条約交渉を中止した。木戸は条約交渉を設定した伊藤や森有礼らへの不信感を抱き、伊藤と木戸の間に微妙な亀裂が入った。そして大久保への不信も募り木戸はこんなお粗末な使節団に加わった自分への自己嫌悪感が増していった。外国語が全くできないことも加わって木戸は一種の鬱状態に陥った(夏目漱石のロンドンでの鬱と同じ)。その不信感は日本に帰国した1873年大蔵大輔の井上薫に向けて爆発した。木戸が神経衰弱になっているのに対して、同じく外国語が全くできない大久保は意外と積極性があった。陸軍国プロシア・ロシアの政体・軍制に興味があってこの両国に注目していた。この時以来伊藤は大久保の沈着・忍耐力に感心し大久保と親しくなっていった。伊藤が今回のように広く深く西欧を知るようになり、十数年後の日本帝国憲法制定まで、ドイツ風の保守的なスタンスを中軸とすることになった。列強に対抗するにはまず地に足をつけて近代化に励む必要がある。今回の遣欧使節団では木戸の感情の起伏には戸惑ったが、大久保から信頼されるようになったのは大きな収穫であった。1873年9月13日使節団は横浜に帰ってきた。それを待ち受けていたかのように、征韓論政変が始まるのである。73年1月留守政府は、ロシアの樺太領有問題、台湾・朝鮮問題が重要になったとして、大久保・木戸に帰国を命じるのである。大久保が5月、木戸は7月に帰国した。留守政府は韓国が日本の開国要請に応じないので全権使節を派遣しそれでも従わないなら討つべきであるという空気で動いていた。木戸帰国後の閣議のメンバーは当初の7人に、後藤象二郎(土佐閥)、大木喬任(佐賀閥)、江藤新平(佐賀閥)を参議に加えた。岩倉・木戸・大久保の使節団組は日本の内政改革が先で、朝鮮国と事を構えるのは反対であった。伊藤と岩倉が最も積極的に動き始め、10月には大久保が参議に就任し、10月14日の閣議では西郷が使節派遣を主張し大久保は反対し決着はつかなかった。小心者の三条太政大臣は西郷の辞任も怖いし大久保の辞任も恐れて顛倒する始末となった。そこで岩倉は吉井友実宮内少輔、徳大寺宮内卿を通じて、明治天皇へ自身の太政大臣代理就任を工作した。こうして岩倉は太政大臣代理に就任し、木戸は10月20日に伊藤を参議に推薦した。10月24日天皇の勅書という形で岩倉は朝鮮使節派遣という閣議決定を取り消した。西郷・板垣・後藤・江藤・副島の五参議は辞任した。これを征韓論政変と呼ぶ。五参議が辞任したので、10月25日伊藤が参議兼工部卿に、勝海舟が参議兼海軍卿に、寺島宗則が参議兼外務卿に就任した。こうして政変を裏で動かした伊藤らは大輔という次官クラスが卿に昇進したことになり、なかでも伊藤はその参議のリーダ格になった。軍人として西郷に遠慮をした大久保はこの政変で動かず、陸軍卿のままで参議にはなれなかった。そして伊藤は病気で休み勝ちの木戸の代行という地位を獲得した。伊藤は木戸グループにいた紀伊閥の陸奥宗光を、大蔵省租税頭から大蔵小輔に昇進させたが折り合いがつかず、司法省へ持ってゆこうとしたが参議兼司法卿の大木喬任の反対で実現できなかった。1874年大蔵省を止めた陸奥は西南の役に加担したので獄に入れられた。1875年2月に不平士族の乱が佐賀で起きた。佐賀を管轄する軍は熊本鎮台で谷干城(土佐藩閥)が司令官であった。伊藤らは谷はいずれ裏切るだろうという推測をたて、大久保陸軍卿は野津少将を熊本鎮台に派遣した。3月佐賀城を攻略し首謀者江藤新平を捉えて斬首した。

1871年11月、琉球漁民54人が台湾に漂着し原住民に殺害された。当時琉球と清国との国境を画定したいとしていた日本政府はこれを傍観できなかった。征韓論を抑え込んだ岩倉・大久保や伊藤らがなぜ1874年2月6日の閣議(木戸は欠席)で台湾を征討する方針を立てたのだろうか。佐賀の乱に象徴される不平士族の反乱を未然に防ぐガス抜きとして戦争を企てたのであろう。参議兼文部卿の木戸は台湾出兵に元から反対で4月18日に辞表を出した。ただし宮内庁出仕に命じられ完全に内閣から離脱することは許されなかった。西郷従道都督が勝手に兵を進めたことに木戸は激怒したのだが、伊藤や山県は批判的であったが大久保支持でこれを追認した。同じ長州閥である伊藤と山県はこの頃から木戸離れをしたようで、岩倉や大久保のリーダーシップに期待を持つようになった。6月上旬には台湾原住民討伐は終了した。この間島津久光が左大臣に任命され、久光は5月23日に大久保・岩倉の近代化路線を否定する建言をおこない、西郷・板垣の復職と、大久保を辞めさせるか自分が辞任するかの選択を新政府に迫った。台湾問題が解決するまでという妥協が成り立ったが、伊藤・山県の連携は密になり6月30日山県は陸軍卿に復帰し、大久保の伊藤への信頼が強まった。6月上旬には台湾征伐は終わったが、撤兵するか清国との戦争も辞さないかで7月の閣議は揺れた。7月30日の閣議で大久保の清国派遣が決定した。8月2日、木戸の参議辞任を受けて、山県と黒田清隆の二人(薩摩閥)が参議に任命された。木戸がいなくても、大久保・伊藤・岩倉が実質的に人事を行った。大久保が出張している間伊藤が内務卿を兼任した。大久保は北京で交渉を続け10月31日に交渉は妥結した。清国との戦争を避け賠償金を日本に支払うという内容で満足のいくものであった。征韓論で下野した板垣退助、後藤象二郎、副島種臣らは1874年1月17日に民撰議院設立建白書を提出し、4月10日には自由民権運動の政治結社である立志社を設立した。伊藤は大久保と協議の上、木戸を政府に復帰させるため、大阪で大久保・木戸会談を設定した。1875年1月5日「大阪会議」が行われ、続いて1月7日に大久保・木戸会談、23日に木戸・伊藤会談、29日には大久保・木戸・伊藤会談が行われた。30日には板垣・木戸会談では立法議会について、2月9日には木戸・大久保・伊藤の間で「民会」(国会)についての合意を見た。10日には井上薫と木戸・板垣の会談があって、木戸・板垣の合意が決まった。こうして木戸と板垣が参議に復帰することになった。4月14日「漸次立憲政体樹立の詔」が発せられ、元老院・大審院を置いて、地方官会議を開くことになった。1975年の政治は「大阪会議」から始まった。6月28日から木戸が政府代表の議長となって1か月間地方官会議が開かれ、13人の議官よりなる元老院が設立された。6月28日には新聞紙条例を制定し、民権派の政府批判を抑圧した。木戸の立場は急進論の伊藤と漸進論の大久保の中間であった。内閣顧問という形で政府に残った。1965年9月20日朝鮮で「江華島事件」という軍事衝突が起き清国との戦争になりかねない状況となった。また政体をめぐって板垣の内閣と行政組織(官僚組織)の分離論が再燃し、板垣は参議を辞任した。「江華島事件」では朝鮮国に使節(正黒田、副井上薫)を派遣し、1876年1月27日朝鮮国に不利な不平等条約である日朝修好条約を結んだ。こうして朝鮮国は開国させられた。しかし木戸は病気を理由に1876年3月28日参議の辞任が認められた。伊藤は長州系で木戸以上の権力を持つことになった。76年10月24日熊本で保守的な士族の「神風連」が反乱を起こし、同28日前原一誠が「萩の乱」を起した。乱の鎮圧には大久保内務卿と山県陸軍卿が連携して当たった。11月7日に木戸は、大久保・伊藤・山県の手紙を書き「改革の方向も決まったし、病気のため政府を退きたい」と示した。1877年1月29日西郷隆盛は桐野利秋・篠原国幹らと図り「政府に尋問したいことあり」と兵1万6000人を東進させた。2月18日京都において三条・大久保・木戸・山県・伊藤らが会合し「暴徒征伐」令を出した。征討総督には有栖川宮熾仁、山県と川村が参郡に任じられ戦争指導にあたった。政府は大久保・伊藤が守った。9月24日政府軍は総攻撃を行い、西郷は自刃し「西南戦争」は終わった。5月26日木戸は病死した。43才であった。

3) 活躍篇ー帝国憲法制定と伊藤体制

1878年5月14日 参議兼内務卿大久保利通は麹町紀尾井町で士族の襲撃を受けて殺害された。47才であった。こうして長州閥の総師木戸に次いで1年後に薩摩閥の総師大久保は亡くなった。新政府の藩閥専制に対する不満が原因であった。大久保の後を継いで政府の中心になったのは伊藤であった。伊藤は大久保が暗殺された翌日工部卿を辞し内務卿をを引き継いだ。伊藤36歳で藩閥政府のトップに立ったのである。薩摩閥参議を補充する形で西郷従道が参議兼文部卿になった。工部卿の後任に明治天皇は佐々木高行侍補を考えたようだが、伊藤と岩倉は天皇親政運動が勢いを増すのを恐れ拒否し、78年7月19日大隈参議大蔵卿、山県有朋参議陸軍卿の助力を得て井上薫が参議兼工部卿に就任した。こうして大久保亡き後の政治体制の形成が始まった。その中軸となったのが伊藤と岩倉右大臣の連携であった。そしてもう一つの中軸は伊藤と井上薫や山県の長州グループであった。大隈は次第に伊藤から離れ、1881年10月の「明治14年の政変」で失脚する時、大隈が黒さ参議ら薩摩閥を攻撃したのでかえって、伊藤と西郷、松方など薩摩閥参議との関係が深まった。1881年の明治14年の政変から第2次伊藤内閣が総辞職する1996年まで、15年間伊藤体制は続き、伊藤は秩序ある漸進的近代化を成し遂げ、「憲法政治(立憲政治)」を定着させた。78年8月23日竹橋門の近衛兵が反乱をおこすという「竹橋事件」が起きた。西南戦争の恩賞が兵士に及んでいない不満が爆発したのである。山県陸軍卿は竹橋騒動の責任を追及され、9月には精神的におかしくなって静養のやむなきに至った。そこで伊藤と岩倉は、西郷従道を文部卿から陸軍卿とし、山県を一旦軽い立場の陸軍参謀局長に換えて批判を避けた。そこで参謀局を参謀本部に格上げし陸軍省から独立させ山形を初代参謀本部長になる構想が出来上がった。この案に26歳の明治天皇が異を唱えたが、これは天皇親政派の策謀とみた伊藤らはこれを抑えた。こうして伊藤は山県の危機を救い、山県を介して陸軍を自身のコントロール下に置いた。1878年12月閣議は琉球藩を廃止し、沖縄県を置くことを決議し、藩王尚泰には使節松田道之が立った。王尚泰を東京へ移し、4月4日には鍋島直彬が沖縄県令に命じられた。参議の板垣と1874年に左大臣島津久光は、閣僚である参議と行政長官である卿を分かつように要求していた。伊藤は1880年2月参議と各省の今日の兼任を止め、内務卿には松方正義、大蔵卿には佐野常民を任命した。ただし井上薫だけは外務卿を兼任した。3月3日には参議が6部をさらにいくつか分割した。1880年5月大隈大蔵卿は西南戦争の時増発した不換紙幣のを整理するため、外債5000万円を募集する提言を行った。弱体な財政状況で外債を募集すると失敗すると外国の植民地になるという心配から、伊藤、岩倉、三条、有栖川宮、山県、井上、大木、山田ら8人の参議は反対し、黒田、西郷、川村ら3人の薩摩閥の参議が賛成した。6月3日に外債は募集しないという天皇の詔が出た。大隈は外債募集を否決され次第に閣議から疎外されてゆき、9か月後には早期国会開設要求となって藩閥政府を動揺させることになるのである。在野の国会開設運動は勢力を増し、1879年12月には山県参議は天皇に立憲政体に関する意見書を奏上した。1880年2月黒田参議は国会開設は時期尚早と建議し、井上薫参議は制度を整えて国会開設にいたる建議を提出した。1880年11月伊藤参議は立憲政体に関する意見書を井上毅に起草させた。伊藤は状況を次のように見ていた。@日本には自立した個人が育っていない。A国会開設は士族の不満の政談の域を出ていない。平民は士族に踊らされているだけである。B欧州ではフランス革命の影響で各国は混乱している。Cしかし専制の政治をやめ、人民と政治権力を分け合うことは避けられない。C西欧文明の流入は防ぎようはなく、いたずらに攪乱させるものがいる。D政府は漸次的に秩序をもって、年月をかけて標準的なところに落ち着くように持ってゆくべきだという考えであったが、伊藤自身が天皇と国会、憲法の中で天皇の政治的役割について十分な見識を持っていなかった。欧州の立憲王国では元老院を設けているので、上下二院制が望ましいと伊藤は考えていた。元老院議員は「華士族」から公選する。1880年7月の元老院の国憲第三次草案は取るに足らない。伊藤は日本の憲法政治は君主の大権が西欧とは違うところから出発し、君主に主権がありそれが立法・行政・司法に委任される形になるが、君主はみだりにこの委託を取り消せない(憲法停止)という君主権を制約する憲法構想(いわば君主機関説)を持っていた。

伊藤は1881年1月3日に黒田(無視派)、大隈(急進改革派)と井上薫(漸次改革派、伊藤グループ)参議を熱海に招き、立憲政体について話し合った。これを「熱海会議」と呼ぶが意見の一致はなかった。井上は福沢諭吉や福地源一郎に国会開設についての議論を起すため新聞設立を持ちかけている。この頃福沢は大隈と連携して早期に国会を解説する政治活動を行った。大隈はまだ意見書を上奏していなかったが、3月大隈は@イギリスでは国会で瀬等の争いはあるが、政府と議院の争いはない、A立憲政体を三権分立で、議会の多数派が天皇より内閣を組織するよう命じられるべきである。B官吏は永久官と政党官に分け、政党官は参議・卿・輔及び局長などである(政党任用官)。C永久官とは各省の中以下のポスト、陸海宮内三大臣および軍官・警察官・司法官である。D憲法は欽定憲法様式であり制定に向けて速やかに着手すべきである。E1881年に欽定憲法を制定し、82年公布、83年国会を開くことを希望するという国会開設意見書を有栖川宮に提出した。つまり大隈案はイギリスの政治制度の翻訳版を直ちに導入せよという。3か月以上たって三条太政大臣は岩倉と図って大隈案を伊藤に見せて意見を聞いた。伊藤は7月3日に岩倉を呼び意見を聞いたが、大隈はただ粗暴で申し訳ないと謝るのみであったという。7月5日伊藤はこれには福沢の意見が入っていると考え、政府において長州系と薩摩系藩閥の意見を調整するために動いた。6月28日岩倉、三条、有栖川宮の要請で井上毅は憲法制定意見を送った。イギリスの民選議会が国権を持つのではなく、ドイツ式の国王に大きな権力を持つ議会制度の内容であった。この意見書に、伊藤は井上毅が憲法制定を急ぎ過ぎで、かつ井上毅が書紀官として出過ぎた真似をし、かつ要求レベルが高すぎると不満を漏らし、岩倉ら三大臣の思い付きの様な憲法制度準備を中止させ、井上毅を退ける決心をした。7月22日そこへ降って湧いたように参議兼開拓使長官黒田清隆の北海道勧誘物の三菱払下げ問題が発生した。藩閥政府内では福沢諭吉や三菱の岩崎弥太郎(薩摩派政商)らと組んだ大隈参議が、この事件にからんだ民権運動を利用して政府藩閥主流派の主導権を狙っているという疑惑が広がった。伊藤はまず井上薫参議を味方につけ、批判の標的の黒田を守ることは薩摩閥全体を味方にすることであり、松方正義内務卿を中心憲法制定について薩摩グループの支持を取り付けた。有栖川宮大臣、大隈・大木両参議が払下げ中止を求めてきた。意見の不一致を恐れた伊藤は払下げ中止に向けて、長州派伊藤グループは10月初め政府内薩摩派と意見調整を行った。大隈排除、1890年頃の国会開設時期、払下げ事件対応を絡み合わせた合意が岩倉大臣とも成り立ち、10月11日の閣議において憲法制定と国会開設・および大隈の免官が上奏され承認された。翌12日開拓使官有物払い下げを中止し、1890年国会開設、大隈辞任を発表した。大隈の辞任に抗議して矢野文雄・犬飼毅・尾崎行雄・小野梓らが辞任した。10月21日新参議4名、松方正義・大山巌・佐々木高之・福岡孝弟が任命された。これを「明治14年の政変」と呼ぶ。1882年1月黒田清隆は参議兼開拓使長官を辞任し内閣顧問に就いた。こうした事件を通じて伊藤は薩長にまたがる権力基盤を得た。1890年に国会を開くとしてもそのまえに憲法制定をしなければ、近代国家の態をなさない。憲法調査のために伊藤は1882年3月14日に欧州に出発し、翌83年8月3日に帰国した。伊藤は憲法制定とその運用も含めた「憲法政治体制」を日本に定着させる考えであった。これには前年81年11月に寺島宗則の建議があって、佐々木・山田・大木は伊藤の欧州出張には懐疑的であったが、井上薫参議が山県、大山、西郷ら有力参議を説得した。随員は西園寺公望、山崎直胤、伊東巳代治、河島醇、岩倉具定らであった。(岩倉具視は伊藤が帰国する前に死去した) 伊藤一行はベルリンに入り、ベルリン大学グナイスト教授に憲法講義の打ち合わせを行った。5月25日から7月29日までモッセが一行に憲法講義を行った。伊藤はドイツ語ができなかったので大変苦労したという。しかし一行の中から西園寺公望、伊東巳代治など後の伊藤の腹心となる有能な人材を見出した。8月8日一行はオーストリアウイーン大学のシュタイン教授と面会する。ここでドイツ政治と君主制の関係を会得する。つまり君主国であっても君主専制国ではない、立憲国家では政治が一定の組織規律によって運用されることを知ったのである。最先端の「君主機関説」であったので、伝統的に君主専制が行われていない日本の天皇制にあった憲法を作る糸口が見えてきた。しかし伊藤はたとえ議会で法律が可決されても、政府が承知しない時には君主は許可発布せず法律とはならないという政府の権力を強調したかったのは、当時の政治状況では当然だったのかもしれない。三権分立でいえば行政権の優位性を主張するが、政府・議会・君主の三権が緊張関係にあることが望ましいと考えた。伊藤はシュタインを通じて、憲法の下に君主権を制限してゆくという考え方を日本に導入したのであった。伊藤は83年2月ドイツを去り、3月3日ロンドンに着いた。伊藤はイギリスの憲政モデルは重要だと考え、未来の日本政治の目指す手本と考えたようだ。つまり憲政政治が成熟すればその先には政党内閣制になるとという見通しであった。こうして伊藤は滞在期間を延長して1883年8月に帰国した。出獄した陸奥宗光を加えて憲法政治形成に向けた活動が始まった。

1880年代になると、日本は朝鮮を近代化して清国の影響下から脱し、ロシアの南下を抑えるために朝鮮内の親日家の育成を図った。高宗の王妃であった閔妃の一族が日本の指導下に近代化を進めることになった。1882年7月23日それに不満を持つ兵士の反乱がおき日本公使館を襲撃した。壬午事変である。伊藤の渡欧中に起きた事変に対して、井上薫と山県有朋が中心になって対応した。薩摩派藩閥の強硬派を抑え、8月30日には済物浦条約を結んで清国と戦争になる危険を回避した。1884年12月4日ソウルで金玉金ら急進開化派は日本の竹添公使と軍隊と組んでクーデターを起こした。これが甲申事変である。朝鮮内の親清派によって撃退され、公使館が襲撃され居留民が殺害された。日本政府は黒田清隆を抑え井上薫を特派全権大使とし朝鮮に派遣するが、朝鮮への干渉を抑制し清国との衝突は避ける方針であった。1885年1月9日朝鮮との間で漢城条約を結んだ。新国軍は漢城を制圧したままであったので、清国との開戦論者の多い薩摩閥を避けるため、2月7日の閣議で伊藤が清国に派遣され清国軍の撤兵を要求することになった。2月24日伊藤が特派全権大使として派遣され、西郷従道が副使として同行した。4月4日から北京で清国の李鴻章都交渉を開始した。獲得目標は清国将官処罰だけであっが、李承晩の拒否に会い交渉は決裂寸前となった。清国は賠償だけなら応じる姿勢を示したので、4月18日天津条約が結ばれた。日清両国は朝鮮国から撤兵し、再派遣は事前通告することが合意された。この清国行きでの別の収穫は、天津領事であった原敬を見出したことである。こうして外交では日清協調路線で、内治優先が伊藤の方針であった。それは憲法制定に向けた政治体制の大変革が最重要課題に設定されたためである。伊藤が欧州憲法調査を終えて帰国した1883年の政治課題は次の三点であった。@憲法と憲法関連の議員法・衆議院銀選挙法・貴族院令と皇室制度の基本法制定すること。A新しい憲法の下での内閣制度や官僚制度、上院の構成である貴族制度をつくること。B新しい皇室基本法にふさわしい宮中の制度や儀式を改革することであった。翌年1884年3月伊藤は憲法準備のために「制度取調局」を設置し。自らが長官となった。伊東巳代治、岩倉具定、井上毅、金子堅太郎ら15名が局員となった。伊藤は制度取調局長官の他に、宮中改革にあたる宮内卿を兼ねた。1884年「華族令」が発布され、公爵(公家)・侯爵(旧有力藩主)・伯爵(維新で功のあった藩士と中堅藩主)・子爵・男爵504名の使命が発表された。1885年12月古い太政官制(参議制)は廃止され、新しい内閣制度が作られた。初代首相には伊藤博文、山県内務大臣、井上薫外務大臣、松方大蔵大臣、大山陸軍大臣、山田司法大臣、西郷海軍大臣、森文部大臣が任命された。三条は内大臣、有栖川宮は参謀本部長となった。宮内省だけはあたらしい内閣制度からは外された。また藩閥官僚に代わる高級官僚の人材確保のため、1886年3月帝国大学令が制定された。87年7月官吏任用法「文官試験規則」が定められた。藩閥官僚が帝国大学卒の官僚に入れ替わるのは20年後の日露戦争後の事であった。天皇が旧参議の家を訪問する行事で、その順位によって藩閥内での序列は伊藤・山県・黒田・(西郷)・井上・松方と定まった。86年2月宮内省官制が定められた。五職・六ォ・四局にはおのおの長官が置かれた。1884年2月大山陸軍卿を長とする軍事使節団が欧州に派遣された。帰国後84年にまとめた鎮台条例は、89年までに陸軍兵士を2倍の8万人に拡大するものであった。しかしその予算は取れなかったので、井上薫が山県の説得にあたった。この時代は陸海軍の重要人事と言えども文官と閣議で決定し、天皇の裁可を受けて正式に決定していた。伊藤は条約改正に関心を持ち続け、1879年9月腹心井上薫を外務卿として、条約改正を検討課題とした。1881年イギリス政府は日本の提議を拒否したので、翌82年1月東京で列強代表と21回にわたる条約改正予備会談を開催した。1884年になるとイギリスの方針が日本に好意的になり、8月井上外務卿は列強公使に協定改正を提案したが、2年後1886年5月にようやく改正会議が翌年にわたって27回開かれた。伊藤は憲法制定にかかりきりで、条約改正は井上の任せきりの状態ではかばかしい進展はなかった。1887年5月井上外務卿の条約改正に対する批判が強まってきた。6月に谷干城農商相が欧州視察から帰国すると、条約改正反対の意見書を内閣に提出した。井上卿への批判はすなわち伊藤への批判であるので、伊藤は苦慮し7月に条約改正会議を延期した。事実上条約改正は中止となった。9月井上は外務卿を辞任し、外務は伊藤が兼任し、宮内卿は兼任を辞任した。伊藤は政変で排除した大隈を外相として入閣させた。改進党系の懐柔策も絡んでいたが、条約改正の任に復帰させた。

伊藤は1886年5月、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎の三人に欽定憲法草案の原則を示し、翌年87年3月に皇室典範草案、5月には二つの憲法草案が作られ、9月に議院法と貴族院令の草案ができた。1888年4月制定局での議論を経て上奏すべき憲法草案が確定した。この過程で憲法草案の作成に最も功績のあったのは井上毅である。伊藤はこの議論の過程で主に薫主権とf行政権の優位性を主張する保守的なバランスのとり方であったという。過激な空論は国家の安定を揺るがすという観点からである。伊藤は鎌倉時代以来あまり実権はなく専制君主でない天皇の実態を、シュタインの君主機関説でもって理論化したのである。ロボット扱いをされて明治天皇は政務のサボタージュなどを行ったが、伊東は粘り強く憲法の根幹を天皇に教育し理解させた。そのため藤波侍従(公家出身)に、シュタイン憲法を学ばせるために1885年から1887年まで欧州に留学させた。「将を射るには馬を射よ」の諺通り、周りから欽定憲法の精神を学ばせたのである。帰国した藤波は明治天皇と皇后に憲法講義を1888年に33回行った。また伊藤はドイツのモール夫妻を宮内省顧問に招いて、憲法精神に合わせたヨーロッパ風の宮中改革を行い、宮中儀式や制度の基礎を作った。1888年4月30日憲法や皇室典範の重要法案を審議するため枢密院が設置され、伊藤が初代の枢密院議長となり首相は交代した。代わって黒田清隆が首相になり、伊藤体制の閣僚は引き継がれた。伊藤は無任所大臣となって閣議に出席した。憲法草案に貢献した井上毅は枢密院書記官長(法務局長官兼任)となった。5月8日枢密院開院式が天皇臨席で行われた。枢密院での議論は6月17日に山田顕義法相が第4条「天皇は国の元首にして統治権を総攬しこの憲法の条規によりこれを施行する」に削除意見を挟んだが、伊藤は「憲法政治を行う時には君主権を制限せざるを得ず」と答え賛成24反対2で押し切った。また第5条「天皇は帝国議会の承認を経て立法権を施行する」の「承認」に異議を唱える者がいたので伊藤は「協賛」に換えた。どっちにせよ天皇は国会の議決がなければ行政権を施行できないことである。枢密院での憲法草案審議は88年7月13日に終了した。皇室典範・議会法・会計法なども審議が行われた。憲法草案と関連法案の審議は89年年頭で審議可決され、1889年2月11日大日本帝国憲法が発布された。(この2月11日を建国記念日、紀元節というのは根拠のないこじつけで、実はこの欽定憲法記念日のことを暗に意味しているようだ) 大日本帝国憲法は伊藤がシュタインから学んだ君主機関説を反映し、憲法でもって天皇の権限を規定(制約)するものである。第1条「大日本帝国は萬世一系の天皇がこれを統治す」、第4条「天皇の統治は憲法の条規により行う」、第6条「天皇は法律を裁可し、公布・執行を命ずる」、第10条「天皇は行政の官制や文武官の俸給を定め、任免する」、第12条「天皇は陸海軍の編成および常備兵額を定める」、第13条「宣戦・講和をおこなったり、条約を締結する」といった天皇の権限を定めている。しかし第5条「天皇は貴族院と衆議院からなる帝国議会の協賛により立法権を行う」、第37条「すべての法律は帝国議会の協賛を得なければならない」、第64条「毎年の予算は帝国議会の協賛を得ることが必要である」、第41条「帝国議会は毎年招集する」など、議会が天皇の行為を制約した。まt第55条「法律・勅令はすべて国務大臣の副署を必要とする」というように、国務大臣も天皇の行為を制約していた。第57条「司法権は天皇の名において法律により裁判所で行う」、第3条の「天皇は神聖にして犯すべからず」という条文は君主が自由に振る舞えることではなく、天皇は法律上や政治上の責任を問わないということである。欽定憲法が実質上「天皇機関説」であることは明白であるのにもかかわらず、伊藤は「主権は天皇にあり、天皇が大政を委託する」と述べた。だから発足当時はこれを君主機関説とは呼ばなかった。後に美濃部達吉東大教授が君主機関説を「天皇機関説」と言い換えて理論化したときも伊藤の功績を紹介しなかった。この憲法によって明治天皇の伊藤への評価と信頼は動かぬものとなり、伊藤ひとりに「旭日桐花大綬章」を与えた。

4) 円熟篇ー条約改正と日清戦争

伊藤は条約改正を井上薫に託していたが、外国人判事任用問題で井上批判が強まり、井上は1887年9月外相を辞任し伊藤が外相を兼任した。伊藤には憲法改正という重要課題があり、10月には井上を追い込んだ「大同団結運動」は言論・集会の自由と条約改正反対・地租軽減の3つの要求を掲げた運動を起こした。伊藤内閣は12月25日保安条例を公布して弾圧する一方、大隈を内閣に呼び戻して懐柔を図った。1988年2月1日大隈は外相として伊藤内閣に入閣し、4月30日には伊藤が憲法審議のために枢密院議長として首相を辞任した。黒田が首相となったことは先に述べて通りである。同年秋には大隈の条約改正案ができた。その内容は新関税で関税を増額し、治外法権を撤廃するため法律を整備して、外国人判事を大審院に任用するものであった。黒田内閣は翌年1989年2月20日アメリカ合衆国と黒田案で改正通商条約に調印した。6月にはドイツと調印した。黒田は内地通商で誘ったのである。しかし大隈案への反対は大審院に外国人判事を任用する問題に集中した。井上毅法政局長が外国人を日本の官吏に任用はできないと追及した。山田法相は帰化法の制定で対応できるとして8月の閣議で対応策を協議した。7月24日天皇は条約改正について伊藤から意見を聞いて伊藤を支持した。伊藤枢密院議長は条約施行中止を求めて、大隈と衝突した。またほかの閣僚から意見や批判が相次ぎ、条約反対運動の先頭に立った井上薫農水相も辞任を覚悟した。8月8日には大隈外相はロシアと新通商条約を調印することに成功し、他の国(イギリス)には新条約に同意しないなら条約を破棄するという強硬手段を取ることを天皇に表明した。伊藤は自分の意見で大隈を倒しさらに黒田内閣を倒したのでは薩摩閥から恨みを買うことになると考え苦慮した。そこで期待は欧州から帰国する山県に集まった。10月2日に山県が帰国すると、条約中止論の松方蔵相、西郷従道海相、山田法相が山県に会って意見を述べた。山県はなかなか動かなかった。10月11日には伊藤は枢密院議長辞任を決意し山県に伝え、井上薫も農商相辞任を提出した。10月18日には山県内相も条約反対意見書を出した。山県・山田・西郷・大山・松方も辞職を覚悟して黒田首相を説得した。こうして黒田内閣は倒れた。その結果、10月末に三条内大臣が首相兼任となり、12月24日山県内閣が誕生した。外相は青木周蔵で、他の閣員は黒田内閣を引き継いだ。12月13日アメリカ、ロシア、ドイツ三国に条約実施延期を通告した。
第1次山県内閣で最初の総選挙と帝国議会を迎えるに当たって、山県は就任後すぐに警視総監を田中光顕に換え、知事20名を後退させた。内相出身の山県らしく国内治安第一主義で総選挙を迎える意気込みが感じられたが、伊藤はむしろ政権運を不安がった。1890年7月1日山県内閣は第1回総選挙を実施、混乱もなく選挙は行われ、全300議席のうち旧自由党系の三派で100議席を、立憲改進党が50議席で政府に批判的な議員が多く、政府予算や法案が衆議院を通過する見通しは不明であった。そこで7月25日山県内閣は「集会および政社法」を公布し政党活動を抑圧した。大隈条約改正の失敗後、三条内閣は@外国人を大審院に採用しない。A不動産の所有権は治外法権が無くならない限り外国人に与えない。C外国人には特殊な制限を設けるD法典改正の時期を約束しないとして、山県内閣および青木周蔵外相はこれを踏襲した。天皇は条約改正については伊藤とよく相談して決めるように指示した。青木外相は1889年12月27日に外務省でイギリス公使と条約改正の交渉を開始した。山県は伊藤が閑職にあるので貴族院議長になるように天皇に上奏し伊藤もこれを承諾した。10月24日伊藤は初代貴族院議長に就任した。1890年7月11日伊藤の腹心である井上毅法制局長官が結核のため職務に耐えられないとして辞を申請した。伊藤は7月19日井上毅を手放したくないので法務長官兼務の枢密院顧問に任命した。枢密院顧問官は天皇親任であるので、井上毅の功績に報いた形になった。第1回帝国議会が1890年11月25日に開院式を迎えた。アジアで初めて議会なるものが定着したことになった。これは伊藤が推進した憲法制定作業の総仕上げと言えた。問題は藩閥政府側と民党側がどれだけ譲歩しあって妥協点を見つけるかにあった。憲法第67条は議会は予算案の官吏の人件費などを削減削除することはできないというものであった。伊藤はこの憲法条項を井上毅や伊東巳代治らの法律の専門家によく検討させた。また伊藤は陸奥宗光農商相が和歌山系議員委に顔が利くので「陸奥派」を形成した。自由党の星亨が陸奥の政治力の背景にあって、立憲自由党を親政府派に工作することであった。これが伊藤の政党のパイプ作りの始まりであった。伊藤は政府と議会の制度作りは行ったが、これからの政局の円滑な運営の方法はまだ手探り状態であった。90年12月27日衆議院予算員会は約806万円を削減する査定案を作成した。ここから政府側との交渉に入る。山県首相は陸奥宗光と板垣退助を使って政党工作を行っていたが、91年2月になると解散も辞さない強硬姿勢をちらつかせた。伊藤は日本の独立や近代化という点では理念を共有できると考えた。政府の主張する憲法第67条に基づく政府との融和動議が可決された。立憲自由党らの「土佐派」の裏切りと言われる政府の民党切り崩し策が成功し651万円の削減で妥協が成立し、予算案は3月2日に衆議院を通過し、貴族院も3月6日に通過した。こうして山県首相は慎重な態度で第1議会を乗り切った。

第1次山県内閣の青木外相は1890年9月にイギリス政府への条約改正案を作成し、西郷従道内相、後藤象二郎逓相が条約改正全権委員に任命された。案が閣議にかけられ10月の閣議では反対決議となった。この時期の伊藤も山県も第1次議会の対応で精いっぱいで身動き取れず、第1議会で予算が成立した3月2日の閣議に条約改正案が審議された。青木に対してイギリスのフレーザー大使は新法典の1年間実施の削除に反対で、関税自主権未実施の長期化が予想された。また当時は日本には商法も民法も実施されておらず、これらの新法典の実施が遅れるなら、条約の実施も1年ほど遅れる可能性があった。この青木案には井上薫は中止すべきだと考え伊藤に意見書を送った。第1議会が終わった時点で山県内閣は辞任することを決め、1981年5月6日薩摩出身の松方正義内閣が成立した。松方は伊藤や山県、くろだのような藩閥のリーダーではなかったので、その指導力に不安があった。4月27日にロシア皇太子が訪日し、5月11日大津を漫遊中、津田巡査によってサーベルで切り付けられる事件が発生した。けがは大したことはなかったが、天皇を始め内閣を震駭させる事態となった。ロシアと戦争にならないかという心配である。天皇のロシア皇太子お見舞いの前日、伊藤と黒田と松方は閣僚と巡査の処分について協議し、皇室罪を適用し死刑を考えた。世頃が条約改正の為に日本が法治国家になったことを世界に印象付けなければならないという課題もある。5月12日以来松方首相らは児島帷謙大審院長に圧力をかけ、津田巡査を死刑にするよう働きかけた。5月27日大審院の公判が始まり、皇室罪は適用せず刑法の最高刑として無期懲役の判決が出た。児島らの司法の独立を守る行動は後には評価されることになった。松方内閣では5月29日青木外相が大津事件の責任を取って辞任し、榎本武揚が外相になった。西郷内相、山田法相、芳川文相、大山陸軍相も辞任した。こうして松方内閣には藩閥の有力者がいない二流の内閣になった。この青木の辞任を推進した伊藤に対する青木の恨みは、同じ長州出身の伊藤と青木の関係にひびを入れ、青木は山県に近づく結果になった。伊藤の政治的責任とは議会政党勢力と妥協しながら安定な内閣運営を志し、そのためには薩摩閥黒田との友好関係を維持することであった。1891年8月の井上薫の条約改正意見書を見ると、@国際法上でも国内の政体が大きく変化し、状況が条約締結辞典と変わっていれば条約を無効とすることができる。Aしたがって英、米、仏、ロシアなどから条約破棄の同意が得られるなら、平和裏に廃棄を行い、条約改正が行える。B条約廃棄後必要な法律を実施し、列強の不便のないようにするが、列強の脅しには毅然たる態度が必要である。Cしかし条約廃棄のために戦争になることはないことを信じる。というもので、毅然たる態度で治外法権の廃止、関税自主権の回復を目標とした条約改正は可能であるという意見であった。第2回帝国議会は1891年11月21日に始まり、松方内閣は最初から自由党や改進党と正面から対決する姿勢で臨んだ。民党が求める予算削減に応じないばかりか、前回の議会で削減された予算をすべて軍事費に投入する予算案をぶつけた。12月25日民党は予算を否決し、松方内閣は直ちに衆議院を解散した。天皇は心配して山口に帰省していた伊藤に手紙を書いたが、品川弥次郎内相は2、3回でも解散する覚悟であった。これには山県の同意があった。1892年1月6日伊藤は徳大寺侍従長の諮問に対して、希望の順位として政党を組織したいこと、つぎに条約改正のため洋行したいこと、清国の李鴻章と交渉して朝鮮独立問題を相談したこと、宮内次官になって宮中にはいりたいことなどを述べた。この第1の要求は8年後の立憲政友会の組織につながるものだが、藩閥内閣と相互に提携できる政党を作り、それをてこに第2次伊藤内閣を組織しようという計画であった。第2議会の政党議員数は自由党が92、改進党が43で野党であり、大成会46と土佐自由クラブ33が政府に協力する可能性があった。第2回総選挙で品川内相が選挙干渉したため、健全な憲政政治の成長さえ危ぶまれる状況が作られた。伊藤が政党を作ることに賛成の藩閥勢力は当時の政府内では存在しなかった。2月15日の総選挙の結果民党の優位は動かなかったので、23日伊藤は政党を組織したい旨を藩閥勢力関係者に相談した。出席者は松方首相、井上薫、山県、大山、黒田、西郷である。この会議でも伊藤を支持する者はいなかった。解散を繰り返すと「憲法中止」となり憲政政治は専制政治に逆戻りすることになる。政党内閣は遅かれ早かれ日本にもできるのもので、これができないようでは西欧社会の列強からは一人前の国とはみなされない。条約改正もおぼつかない国情だということになる。こうした伊藤の政党政治の動きに最も強硬に反対したのは、品川内相、樺山海相、高島陸相であった。92年3月11日に品川内相は辞任し、陸奥農商相も辞職した。92年5月2日の招集された第3議会において、自由党・改進党は130議席を占め松方内閣打倒共同戦線を組んだ。こうして松方内閣の命運が尽き伊藤と松方を応援した黒田や山県のと関係が悪化した。この間の条約改正問題は松方首相が消極的であったので、榎本武揚外相は芳しい動きはできなかった。品川内相が辞任した時点で92年4月に条約改正調査委員会ができ伊藤もメンバーの一人になったが、活動はすぐに休止状態となった。

1892年6月松方内閣が倒れそうになって、伊藤は藩閥総出の強力な内閣を作って立憲国家の運営を軌道に乗せ、条約改正を達成しようと運動した。7月末に松方の施政に不満だった高島陸相と樺山海相が辞任したことによって松方内閣は倒れた。8月8日第2次伊藤内閣が成立し、山県法相、井上薫内相、黒田逓相、大山陸相、陸奥外相、後藤象二郎農商相が入閣し井上が副総理格といえた。伊東巳代治は内閣書記官長に、娘婿の末松謙澄が法制局長官、井上毅は枢密院顧問官のままであった。この藩閥第2次伊藤内閣にたして自由党の板垣や星亨は政府側に少しでも歩み寄りがあるなら、政府と提携・妥協してもいいと考えていた。改進党は藩閥政府には強硬姿勢を取り続けた。92年11月27日の第4次議会前に伊藤は怪我をして大磯で療養することになり、井上薫が首相代理になった。前任の松方内閣が健全財政路線であったが、第2次伊藤内閣は増税を実施し2000万円に達する建艦計画を行うものであった。民党に対しては高圧的に出たため、自由党さえ反政府路線となり予算委員会は11%削減を決議した。そこで伊藤は新聞紙条例の緩和を見返り条件にした。93年1月衆議院は自民党の河野と改進党の犬養ら三派で上奏案を議決しようとした。内閣は15日の停会後、工作を行ったにもかかわらず議決を行ったが上奏案は可決された。2月6日伊藤が首相に復帰した。2月9日伊藤は天皇の裁可を仰ぎ、政府と議会の妥協する勅答を出すか、議会を解散するかの判断を伺った。2月10日天皇は内廷費を切り詰めるから議会は政府と妥協すべしという詔勅を出した。26日歳出262万円の削減とする妥協予算を成立させた。こうして伊藤のウルトラCの手口で3月1日第4議会は閉会となった。3月7日井上毅を文相に任じたが、11日山県が司法大臣を辞任した。井上毅は第4議会の様子を見て民党に絶望し、政党政治に期待を持たない山県の思想に近づいていった。つまり君主機関説より古い君主主権説に変心していた。井上毅に呆れた伊藤は、イギリス軍艦と日本の「千鳥号」衝突事件の処理を陸奥外相と西郷海相に任せ、かっての腹心で法律の専門家井上毅を外した。こうして伊藤から見捨てたうえに病状の重かった井上は政府から去り、1895年に世を去った。伊藤は第2次内閣成立後から条約改正に熱意を持ち、第4議会閉会後7月5日に陸奥外相から条約改正の方針が閣議に提出された。@治外法権廃止と対等相互主義の通商条約締結、A輸入税目・海獄仁居留地は別途議定書で定める、B締結後一定の期間を置いて実施する、C交渉は英、独、米を先にし、露・仏などに及ぶ。ドイツとアメリカは交渉に応じなかったので、1893年9月イギリスとの予備交渉に入った。ところが10月に対外硬派の大日本協会(品川弥次郎)が反伊藤色を強め改進党と連携して、第5議会の冒頭から予算案よりも、伊藤内閣と星自由党攻撃に終始した。星の不正疑惑追及で12月3日には星亨は自由党を離脱、そして13日には議員除名となった。国民協会と改進党は「現行条例奨励建議案」を提出して条約改正つぶしにかかった。政府は12月30日議会を解散した。政府は伊東巳代治が経営する「東京日日新聞(今の毎日新聞)」を使って一大条約改正論のキャンペーンを張った。ところがイギリスではこれを条約破棄論と勘違いして苦情が届いた。誤解を解いて1894年7月16日イギリスと新条約を結ぶに至った。関税率は品目によっては5%から15%、外国人の内地雑居を認める、新条約の期間を実施から12年とするとした。アメリカはこのイギリスとの条約に好意を示したので、他国との交渉を行うことになった。94年3月1日の第3回総選挙で自由党40%、改進党と他の硬派は併せて30%であった。5月12日に第6回特別議会が招集され、伊藤内閣批判の上奏案が可決され、6月2日再び衆議院は解散された。朝鮮では農民反乱である甲午戦争が起こり、6月2日朝鮮に出兵が行われたので、伊藤はこの朝鮮危機を利用して衆議院解散の危機を乗り越えようとした。6月15日伊藤内閣は清国が同意しなくても日本の指導で朝鮮国の改革を行う方針を採択した。清国がどう出るかは不明であったが、94年7月23日現地の大鳥圭介朝鮮駐在公使と大島少将の現地部隊は独断で漢城の王宮を占領し、25日清国の艦船を攻撃して日清戦争が始まった。

1894年6月5日最高作戦指導会議として初めて大本営が参謀本部に置かれた。7月17日の御前会議において、参謀総長の有栖川宮熾仁親王、大山巌陸軍相、西郷従道海軍相、山県有朋大将(枢密院議長)であった。7月27日以降伊藤首相も文官でありながら天皇の命により大本営の会議に加わった。憲法制定後文官の軍事関与はこの特別な例を除いて行われないのが通例となっていた。日清の最初の軍事衝突は7月25日の豊島沖海戦で会った。8月1日日本は清国に宣戦布告した。8月下旬川上操六中将の第3師団本体が朝鮮の元山に上陸し、9月中旬には仁川に上陸した。8月30日第1軍司令官に山県が任命された。平城の戦いに勝利し、黄海海戦に勝利して戦争の趨勢は決まった。条約改正が実現し、憲法問題(衆議院解散)の危機が解消したことは、伊藤の目論見通りであった。その前の8月29日に井上毅が病気を理由に文相を辞任したので、伊藤は井上薫と相談の上、青年公家の西園寺公望を文相に推薦した。伊藤の有力な片腕となって活躍する人物であった。伊藤はこれから戦後に向けた新体制を模索する。当時の朝鮮国公使は大鳥圭介であったが、娘婿の末松法制局長官を派遣して朝鮮の内情を調査すると、朝鮮の改革は一筋縄ではゆかないことが分かった。現在の朝鮮政府では軍国機務処と太院君が対立して何一つ改革は進まない。苦慮した伊藤は朝鮮に首相級の大物政治家の大使を送り込む必要があるとして井上薫を指名した。10月15日に井上薫は内相を辞任し、朝鮮国駐在公使となった。9月13日から大本営は広島に移され天皇は15日広島に到着した。伊藤は移動の途中病気になり名古屋で療養して20日黄海海戦の勝利が届いた広島の大本営に到着した。戦時の外交は伊藤首相と陸奥外相と井上公使が支えていた。彼らと軍略の要である第1軍司令官山県が戦時の政府の中枢であった。第1軍は94年10月下旬鴨緑江を越えて清国側に入ったが、病弱だった山県の病状が悪化し1月29日山県は第1軍司令官を野津道真中将に一任して広島に帰陣した。伊藤にとって山県が引退しないかどうか、山県の健康とつぎのポストが心配であった。旅順が陥落すると米国が講和の仲介を申し出たので、陸奥外相と伊藤首相はその条件を検討し合ったが、伊藤は第2軍第1師団の旅順虐殺事件(日中戦争の時の南京虐殺事件と同じ)が列強の国際的規範の目から心配の種で、陸軍の野蛮さについて怒ると同時に欧米の説明にこれ努めた。12月18日山県は天皇から「優詔」を戴き、枢密院議長と第1軍司令官を免じられ、監軍に任命され、「元勲優遇」の詔勅を下された。山県は日清戦争中に川上操六参謀次長の大本営作戦に忠実ではなかったので、陸軍のなかで山県と川上の関係が良くなかった。そういう中で1895年1月15日有栖川宮熾仁親王が病死し、伊藤は参謀総長に小松宮彰仁親王を充てた。3月7日には山県は監軍兼務で陸軍大臣となった。1月27日日清戦争の講和条件が御前会議で審議された。陸奥は遼東半島の割譲と朝鮮国の独立、賠償金を要求した。3月20日伊藤首相と陸奥外相が全権となり、下関春帆桜で清国李鴻章と講和会議に臨んだ。4月17日、朝鮮国の独立、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、賠償金2億両からなる講和条約が調印された。下関講和条約の内容が世界に知れ渡ると、ロシアはドイツ・フランスを誘って4月23日に遼東半島を清国へ返すよう勧告した。イギリスは同調しなかった。イギリスは東アジアの連携国を清国から日本に乗り換えたのである。日本は三国相手に戦争をする国力はなったので、5月4日三国の提言を入れ遼東半島を放棄した。6月7日台湾占領のため近衛師団を台北に入れた。日清戦争勝利の恩賞が各々に下され、伊藤は山県・西郷・大山らとともに、伯爵から侯爵に昇進した。陸奥は伯爵となった。6月3日陸奥は伊藤に朝鮮国の改革政策の再検討を提案した。手詰まりの朝鮮政策を打開するため8月17日井上薫に代わって三浦梧楼が朝鮮公使に任命された。明成皇后が実権を握った李王政府は日本側の力をそぐため軍隊の武装解除を求めた。10月7日三浦公使は独断で国王の父である大院君を擁してクーデターをおこし、景福宮に兵を入れ明成皇后を殺害した。この明成皇后殺害事件から13日後、伊藤首相は三浦公使の犯罪を認め罷免し、公使館関係者も罷免された。朝鮮国においては、クーデター後親日内閣ができたが、義兵の反乱も起き李王も日本を恐れた。そこへロシア公使ウェーバーはロシア艦隊から100名あまりの兵を漢城に潜入させて、李王をロシア公使館に連れ出した。李王は親露派の政権を作った。伊藤と陸奥は、日本独力で朝鮮を勢力圏とするかそれとも列強との共同経営とするかの選択に追い込まれた。自由党と国民協会が予算案に賛成し95年12月第9議会は戦後処理予算の見通しもたったので、ロシアとの関係改善を伊藤は考えニコライ二世の戴冠式の出席を図ったが、陸奥や元老の反対が多く、結局伏見宮親王と山県が全権大使となった。1896年6月9日日本は日露協商を結ぶことになり山県ーロバノフ協定が成立した。北朝鮮をロシア勢力圏に、南朝鮮を日本の勢力圏にする妥協案が成立した。日清戦争下では議会は政府の戦争予算案には協力的で全会一位で可決してきた。ところが三国干渉で遼東半島を放棄すると伊藤内閣の責任を問う政争が起き、改進党の尾崎行雄らが対外硬派グループを作った。内閣の責任を問う41の新聞社を発行亭処分とした。議会対策では伊藤巳代治と自由党の土佐派の友好関係を軸に内閣と自由党の提携関係が深まった。伊藤は自由党の申し出によって弾圧を緩和する形で、健全な政党の発展を促した。また松方前首相と大隈の改進党の連携がすすみ、96年3月進歩党が結成された。伊藤は日清戦争を挟んで3年以上も政見を担当し、健康を理由に辞意を表明したが、天皇は伊藤の辞任を認めず、黒田、山県をして慰撫に努めた。96年4月自由党が協力の見返りに総裁板垣退助が内相に就任した。これに反発した藩閥官僚らは内務省を中心に山県を領袖とする山県官僚閥が「形成された。政党政治の問題は96年7月以降自由党が協力の見返りに就官を求め、知事の更迭が本格化した。この政党の就官運動を快く思わんかった伊藤は、大隈の進歩党を板垣・林の自由党と競わせ自由党の就官を制御したいと考えた。この間陸奥外相は結核が悪化し病気を理由に96年5月30日に辞任した。実は伊藤内閣に見切りをつけて辞任したのが本音であった。陸奥の腹心の原敬を朝鮮公使に抜擢した。伊藤は原を評価して自分のグループに引き込んだ。原は陸奥が自由党を掌握し首相になるべきだと考えた。8月17日伊藤首相は黒田、大山、西郷ら藩閥系閣僚4人と、板垣内相を呼んで内閣の進退について相談し、8月27日伊藤は辞表を提出した。

5) 斜陽篇ー憲政政治と日露戦争

1896年9月18日第2次松方内閣ができた。松方は蔵相を兼任し、大隈が外相となり伊藤系は誰も入閣しなかった。伊藤は自由党にかなりの活動資金を渡し、次に組閣した場合も自由党と連携するつもりであった。伊藤は11月から大磯を出発し西日本漫遊の旅に出た。96年2月ごろから板垣・林らの土佐派と河野派が対抗する自由党の分裂が進み、陸奥は自由党の河野広中との接触を密にした。板垣や林の土佐派の自由党支配は急速に崩壊し、松田正久が自由党の最高幹部となった3月には、板垣を退陣させ陸奥に自由党に入党し総理になるよう要請した。陸奥は進行する病気と首相へのタイムリミットを計算し、陸奥の腹心の駐米公使の星亨や、10年来の親友だった西園寺公望とも相談した。1897年4月天皇はイギリスのヴィクトリア女王即位60年祝典に、有栖川宮威仁深奥を正使、伊藤を副使として祝典に参加し、その後仏・独・露・奥・伊諸国を巡視するように命じた。諸国漫遊中の8月伊藤巳代治から伊藤の帰国を望む連絡が入った。そこで9月5日に帰国し、7日に参内し欧州報告を行った。伊藤の帰国を促した情勢の変化とは、松方内閣の不評や、岩崎弥太郎男爵の「大融和」構想を伊東巳代治に語ったこと、井上薫と大隈外相が強力内閣構想で一致したという内容であった。伊藤は藩閥官僚・自由党・進歩党など挙国一致内閣と憲政政治の考えを持っていたので急いで帰国した。松方内閣は大隈の進歩党の就官を11名に増やして歓心を買い、地租増税による健全財政を行おうとした。それでも進歩党は見返りが不十分だとして松方内閣の地租増税に反対し、97年10月には松方内閣と断絶した。こうして松方内閣は自由党や進歩党のいずれの支持もなく第11議会を乗り切らなければならなかった。地租増税は軍備拡張計画には是非とも必要であった。10月朝鮮国はロシアの士官を招くことをきめ、』11月14日にはドイツが膠州湾を占領し、12月15日にロシア艦隊が旅順に入った。山県系官僚団は危機感を抱き、12月25日自由党と進歩党は内閣不信任決議案を上程し、松方内閣は衆議院を解散した。27日後継内閣についての天皇の下問にたいして、黒田は伊藤か山県を推薦した。29日伊藤が参内すると組閣の命が下った。1897年12月31日伊藤は松方の辞表提出を受けて参内し、組閣構想を天皇に奏上した。1898年1月12日発表された第3次伊藤内閣の顔ぶれは、桂太郎陸相、西郷海相、井上蔵相、曾根法相、伊東巳代治農商相、西園寺文相、末松逓相、芳川内相、西外相であった。伊藤系5人、山県系2人、薩摩系一人となり、挙国一致内閣とは違って長州閥の伊藤系を中心とした内閣であった。組閣において自由党と進歩党の支持と参加もなく、伊藤は1月10日御前会議を開催した。元老として呼ばれたのは、伊藤・山県・井上・西郷・黒田・大山の6人であった。政党の協力の無い内閣は最初から前途多難であった。極東情勢をみると、列強の中国分割と朝鮮の勢力バランスは複雑で国内の軍備も不十分で財政も乏しいので、事が起これば局外中立で安全を図るしかないという見方であった。組閣が終わって3日たった15日ロシアの駐日公使は西徳二郎外相に「日露協商」の再協議を求めてきた。4月25日伊藤内閣は西ーローゼン協定によって、かっての山県ーロバノフ協定を再確認した。すなわち朝鮮においては日本とロシアは対等であることであった。松方が解散させたままの衆議院の総選挙が3月15日に行われた。伊藤は選挙運動で凶器(刀)を持つことを禁止し、選挙の旧武士的要素をそぎ落とし、政党の近代化を期待した。第12議会の政党勢力地図は、自由党98人、進歩党91人、山下倶楽部54人、国民協会(藩閥系)26人で、自由党らが政府に協力しても過半数には及ばなかった。自由党の林有造は政府支持路線を取り見返りに板垣の入閣を要請した。伊藤がこの要求を蹴ると自由党は内閣との対決姿勢を取った。伊藤にとって苦悩の多い議会の幕開けとなった。政党に政権を渡すか、何度でも解散を繰り返すか、藩閥勢力からは憲法停止論まで出た。しかし伊藤は重要法案として衆議院選挙法一部改正案と地租増微案を提出し、急がば回れ式の抜本的対応策を選んだ。都市商工業者を基盤とする都市選出代議員数を5.7%の現状から24%以上に拡大するため、有権者の農政学を地租15円から5円に下げ、営業税3円以上を納める25歳以上の男子として、有権者を5倍に増やす方策である。産業革命の進展に伴い、農業部門の税金を重くし、都市部の参政権を拡大することで日本の議会を商工業国型に転換する政治改革であった。伊藤内閣の地租増微ほうあんいたいして自由党と進歩党は反対した。そこで伊藤は1898年6月7日から衆議院を停会としたが地租増微案は結局否決された。いずれの法案も大差で否決されたため伊藤は衆議院を解散した。その後渋沢栄一や大倉喜八郎の協力で商工業者向けの政党を組織しようとしたが、他の閣僚は伊藤の政党育成論には同意しなかった。さらに6月22日自由党と進歩党が合同して憲政党が組織され、政党は一丸となって政府を攻撃した。藩閥政府にとってできることは憲法を停止して議会制を止めるか、憲政会に政権を与える事の2者択一であった。天皇は事態を憂慮して、6月24日に開いた御前会議において、誰も藩閥政府を組織しないなら、政党内閣を作るしかないと言って首相を辞任した。わずか5ヶ月で第3次伊藤内閣が倒れたことは、もはや伊藤体制(藩閥内閣を足場として、政党をコントロールしながら憲政体制を維持発展させるという漸進的改革構想)が破たんしたことを意味した。その原因の第1は政党が台頭したことである。第2に政党対応策を巡って藩閥内で意見が対立しバラバラとなったことである。もはや天皇の鶴の一声で誰かが藩閥の有力者をまとめて挙国一致内閣を作ることは不可能となった。なかでも日清戦争以来、山県系軍閥が力をつけ伊藤ら文官の容喙を許さなくなったことである。加えるに盟友井上薫でさえ伊藤からの独立を始めたことである。誰も伊藤の言うことに従わなくなったことで伊藤体制は急速に凋落した。

伊藤は板垣と大隈の憲政党に政権を与える事に決めて、1898年6月30日第1次大隈内閣(隈板内閣)が成立した。大隈は陸・海軍大臣以外はすべての閣僚を憲政党員から採用した。日本最初の政党内閣の成立であった。閣僚は旧進歩党から大隈首相・外相、尾崎行雄文相ら4人、旧自由党から板垣内相、松田蔵相、林逓相の3人であった。健康と英気を取り戻すため、伊藤は7月26日大磯を出発し、西日本から韓国、清国漫遊の旅に出発した。8月25日に朝鮮の漢城にはいり9月14日北京に入った。その間早くも政党内閣内では内紛が発生した。旧自由党系の星亨が駐米大使を辞任し倒閣運動を開始した。星は山県系官僚と連携して次期には山県内閣を組閣して自由党が与党になることを目指したのである。10月末大隈内閣は辞表を提出し政党内閣は4ヶ月で暗礁に乗り上げた。伊藤に相談することなく、天皇は11月5日に山県に組閣を命じた。伊藤の推薦した大隈内閣が無様に倒れたので伊藤の威信も大きく低落した。11月8日第2次山県内閣を組閣し、山県首相、松方蔵相、西郷内相、桂太郎陸相、山本権兵衛海相、清浦法相、青木外相らすべて藩閥系で固めた内閣であった。星亨の率いる憲政党は山県な内閣を支持した。星の憲政党(自由党系)と国民協会などを併せた与党が優勢だったので、第13議会で山県の提出した地租増微郷案は可決された。地租は2.5%から3.3%に上がった。議会は本来の自由党系と進歩党系の二大政党制に戻り、どちらかが内閣の与党になるという立憲国家の体面を保った。地租増微郷案が可決されると、山県は次に伊藤が提案した第2の法案である選挙法改正案をそのまま上程した。当時日本の人口は4000万人で選挙権を持つのは40万人に過ぎなかった。伊藤はこれを一挙に都市商工業者を中心に180万人に増やそうとしたのである。しかし農深部に地盤を持つ政党側が同意せず選挙法改正案は成立しなかった。第13議会が終了すると伊藤は新政党の創立をめざす活動を開始した。1899年4月有栖川宮威仁親王は伊藤に皇太子の教育方法を相談した。天皇は体が虚弱な皇太子の教育掛には(東宮輔導)に有栖川宮を最高責任者とした。8月24日天皇は「帝室制度調査局」を設け総裁に伊藤を任命した。副総裁に土方久元、御用掛に伊東巳代治らが任命された。1899年5月ロシア海軍は朝鮮半島の馬山蒲に進出した。ロシア公使パブロフは西―ローゼマン協定を踏み越えて朝鮮に良港を求める画策を行った。山県首相も懸念を表明したが、伊藤は現実主義的楽観論でことが起きてから動けばいいと考えた。1899年清国山東省では義和団の活動が活発になり、1900年6月20日義和団が北京のドイツ公使を殺害する事件が発生した。北京には列強の駐留兵士は併せても500人にもならず、イギリスの駐日ホワイトヘッド公使は日本に救援部隊を送ってほしいと依頼した。伊藤は慎重論(局外中立論)を展開したが、日本は北京に2万2000人の将兵を派遣した。8月14日に日本を含む連合軍八カ国軍が北京に入った。連合軍の北京占領を終わって、伊藤は撤兵を山県首相と青木外相に提案したが、撤兵は日本側から実行されなかった。8月下旬児玉源太郎台湾総督が対岸のアモイ攻撃をおこない占領する事件が起きた。軍人は行動で事態を好転させようとし独断専行を起し、文官の介入を統帥権問題として排撃するものであるが、山県首相も列強との協議や協調という国際問題の処理は弱かった。1900年5月19日山県内閣は陸軍省・海軍省官制を改正し、陸・海軍大臣は現役の大将か中将に限ることにした。実質的にそうであったが、さらにそれを規則化し文官の任命を不可能にすることが狙いであった。それだけでなく政党内閣の組閣において陸軍省と海軍省が非協力的であれば大臣を出さないことで組閣を阻止できるのである。5月31日議会の与党である憲政党リーダーの星は山県首相に、閣僚が憲政党に入党するか、憲政党から入閣させるかを迫った。5月2日に山県は1年6か月首相を努めたので天皇に辞意を表明していたので、星らの要求を拒絶した。星は伊藤を憲政党総裁に希望していたが、伊藤の方から新党の話を切り出され、立憲政友会への参加を決めた。8月25日伊藤は西園寺公望ら13人を創立委員として、憲政党は解散し、9月15日立憲政友会の発会式に加わった。伊藤が総裁となった。政友会綱領は9項目からなるがなかでも、@立憲政府の完成を目指す、A政党はまだ発達が不十分であるので、総裁権限の強い会則をつくることであった。こうして伊藤は政策の立案と政権担当能力のある本格的な近代政党を作ろうとした。B列強の国際ルールを身に着け国際協調外交と国防のバランスを図る事であった。政友会の最高幹部として総務委員には、伊藤系官僚として西園寺公望、末松謙澄、金子堅太郎、渡辺国武ら7人、党人系では星亨、林有造、尾崎行雄、原敬行雄ら合計13人がいた。総花的で意思決定には多すぎる数である。また政友会は広く商工業者の入会を勧めた。しかし中央の大財閥系は伊藤と山県の両方から中立を守って参加しなかった。結局創立時の衆議院議員数は152名で、うち憲政党からの入党者は111名であった。政治資金はどのように工面したかというと、伊藤が政党創立の際に宮内小関係の役職をすべて辞任し、明治天皇から頂いた約3億円の下賜金を始め、宮内省からかなり資金が出ていることをみると天皇は伊藤の政党を理解していたようである。これを揶揄して政友会は「勅許政党」だと呼んだ。1900年8月義和団の乱が鎮圧されると、9月初めに山県は首相を辞任し、伊藤に組閣を要請した。10月6日伊藤は十分準備期間もなくやむなく天皇の組閣命令を承諾した。10月19日第4次伊藤内閣が成立した。伊藤首相、桂太郎陸相、山本権兵衛海相、加藤高明外相以外に政党から松田正久文相、林有造農商相、星亨逓相の3人である。伊藤系閣僚は渡辺国武蔵相、末松謙澄内相、金子法相、西園寺公望無任所大臣(首相臨時代理)の4人である。構成からすると軍と政友会と伊藤系藩閥の混成内閣で、伊藤自身が政友会総裁だったので政党内閣と言えないこともなかった。この構成に対して山県系官僚が反発し、貴族院は星亨を攻撃した。12月に東京市議会疑獄事件がおき市議会のボスであった星の辞任要求が噴き出した。12月22日星は辞任し、原敬が逓相に就任した。伊藤は1901年1月末に行政・財政改革で対抗しようとしたが、貴族院が次々と増税案を否決したので伊藤は議会を2月7日ー3月8日まで停会した。その間に元老院に調停を依頼したがうまくゆかず、詔勅で切り抜け3月16日貴族院は増税案を衆議院の議決通りに可決した。3月24日第15議会は無事終了した。

1900年は恐慌で政府の財政難は深刻となった。渡辺蔵相は1901年度公債を財源とする事業をすべて中止すべきだと伊藤に意見書を送った。しかし伊藤は政党の就官運動を抑制するため公共事業を掲げている手前、この意見書を無視した。1901年4月11日公債事業の中止を巡って、元老会議が行われ伊藤、山県、井上、松方が協議した。原らの政党閣僚は事業中止案に反発し内閣総辞職を口にし出した。政党閣僚と渡辺蔵相の対立が深まり5月2日に伊藤内閣は閣僚の辞表を取りまとめ、閣内不一致で第4次伊藤内閣は7か月で瓦解した。天皇は伊藤を慰留したが、後継内閣に井上薫の組閣が失敗し、5月25日元老会議は山県系の桂太郎を推薦して、伊藤の再組閣の芽を摘んでしまった。6月2日第1次桂太郎内閣が山県系官僚を中心にできた。外相小村寿太郎、蔵相曾祢荒助、陸相児玉源太郎、海相山本権兵衛、法相清浦圭吾と10人の閣僚中7人が山県系であった。第4次伊藤内閣は義和団の乱後の外交を担当した。清国と有利な条件で議定書を結び日本と列強は速やかに撤兵すべきという外交を加藤高明と伊藤首相は行ってきた。問題は満州からのロシアの撤兵であった。シベリア鉄道の支線としての東清鉄道工事は、満州を南下して旅順に至るものであったが、義和団の乱でかなり人的・物的損害を受けた。ロシアと清の交渉はまとまらずロシアは満州に駐留し続けた。1901年まで日本はイギリス・ドイツ・アメリカは清国がロシアの要求を受け入れないよう圧力をかけていたが、欧米列強は日本ほど強い利害は感じていなかった。日本はロシアの満州占領を黙認すれば韓国をも支配し、日本の安全保障を脅かすだろうと危機感を持っていた。そこで日本は1901年3月から4月にかけて2回露清協約に抗議したので、露清協定の撤回を公表した。日露協商で妥協点とパワーバランスを図り、日露戦争を避けることが伊藤や井上薫の基本路線であった。しかいロシアとの対決も辞さず日英同盟を結ぶべきだという第1次桂内閣の外交をリードした桂首相と小村外相や山県らの元老が次の外交路線となりつつあった。イギリスにとって1901年11月ランズダウン外相の方針は、日英同盟はロシアやドイツとの協商がうまくゆかない場合の次善の策であった。極東で日露の争いには巻き込まれたくなかった。桂首相は日英同盟を結ぶ方針を内閣の重要な方針とした。1901年6月21日政友会の幹部星亨がしさつされた。伊藤は政友会の運営を原敬と西園寺公望に高い期待を寄せるようになった。1901年1月ロシアのラムズドルフ蔵相は駐日大使を通じて列強の共同保障による韓国の中立化を提案してきた。これは日露交渉を先にするという井上、伊藤の意見と一致するので、9月18日伊藤は欧米に渡って日露協商を検討するたびに出港した。10月20日ワシントンでイエール大学名誉博士号授与式に臨み、11月4日フランスに入った。伊藤はパリで林菫駐英公使より日英同盟交渉の経過報告を受け、28日ペテルブルグに入りロシア皇帝ニコライ二世に拝謁した。12月2日と4日にラムズドルフ外相、ヴィッチ蔵相と会見した。ところが一方で日英同盟交渉は急速に進展し、11月30日小村寿太郎外相はイギリスに同盟案承諾を伝えた。12月7日の元老会議では山県・松方・西郷・桂の日英同盟案に従った。ロシアにいる伊藤は12月14日ロシアのラムズドルフ外相から日露協商案の書類を受け取ったが、12月28日桂首相から日露交渉の中断を求める電報を受け取った。イギリスが日露提携を警戒したため、日同盟の妥結が早まったようである。1902年1月30日日英同盟の調印式がロンドンで行われ、各国へ通達された。日英同盟の内容は@一方が戦争になった場合、片方は中立を守る。他国が同盟国に対して交戦に加わった場、他の同盟国は援助を与える。州縄い日本がロシアと戦争になってもイギリスには参戦義務Yがない。A韓国と清国を同等に扱って、その独立と領土保全の維持と、通商の均等機会を与える。Bイギリスは清国に、日本は清国と韓国に特別の利害を持つので、もし騒動が発生した場合必要な措置を取ることを認める。こうして日本の勢力圏である韓国への出兵権をイギリスから承認された。日英同盟の進捗状況をロシアは全く感知していなかったようで、日英同盟の通告に驚愕し、1902年4月8日満州からの撤兵に関する露清条約を結んだ。話を桂内閣の内政問題に戻そう。桂内閣は財政難に対応するため曾祢荒助蔵相をして行政・財政整理を行おうとした。桂内閣は伊藤内閣の行政改革を伴うものではなく、僅か350万円の削減を目指すにすぎなかったが、それでも官僚の抵抗で失敗した。アメリカで外債を募集したがそれも失敗した。1901年9月段階で桂内閣は義和団の乱による賠償金5000万円を大蔵省に買い取らせ1902年度の予算を組んだ。原の政友会は伊藤が外遊している間の第16議会で内閣と対決したが、伊東巳代治のとりなしで政友会と内閣の妥協が成立した。伊藤と井上の両元老が倒閣に反対したためである。しかし1902年10月末になっても桂内閣の奥田義人法政長官による行政・財政整理が不十分であるとして、伊藤総裁と原敬の政友会は、地租増微継続や第3期海軍拡張計画に反対することを決めた。しかし山本権兵衛海相は海軍拡張計画については山県元老の了解を取り付けていた。大隈の憲政本党も政友会に同調して内閣に反対する方針であった。12月6日議会は地租増微継続案を否決した。行政・財政整理がないまま地租増微継続案については伊藤は妥協できなかった。翌年1903年5月伊藤と桂内閣との妥協ができ、地租増微継続の代わりに鉄道関係財源からの流用で賄うものであった。しかし伊藤はこの妥協によって政友会内での威信を低下させ、政友会は伊藤よりも星と原・松田、とりわけ原がリーダーシップを取った。

日本で政友会と桂内閣の対立が続いていたころ、1903年ロシアでは対日融和策を主導していたヴィッテ蔵相の勢力が弱まり、ベゾブラーゾフが皇帝ニコライ二世の信頼を得て、満州と朝鮮半島を一体化する構想に転換した。このためロシアは1903年4月からの第2期満州撤兵を実行せず、鴨緑江河口に拠点を開発する動きを見せた。これに対し4月2日京都岡崎の山県の別荘無鄰庵で元老山県と伊藤、桂首相、小村寿太郎外相の四人が集まり退路方針を検討した。会議ではロシアが満州から撤兵しない時は見本側から交渉を持ちかける事、朝鮮での日本優位性をロシアに認めさせることの申し合わせがなされた。四月末でも、桂首相、寺内陸相、大山参謀総長、山本権兵衛海相らは開戦には慎重であった。(西郷従道海相は1902年7月に死去) 6月になってもロシアは撤兵する気配はなかったので、参謀本部では対ロ主戦論が高まった。1903年6月23日御前会議が開かれ、五元老と主要四閣僚が出席した。御前会議に小村外相が提出した意見書は、韓国における日本の優位性を強調し、南満州における日本の経済進出の象徴である鉄道施設に関することであった。御前会議の内容はそのまま閣議決定になり、1903年8月12日桂内閣は強硬な口調でロシアに交渉条件を提案した。その頃、桂首相は伊藤に受け入れないことを承知して組閣を打診し、伊藤を枢密院議長に命じる勅旨を天皇から取ろうとした。伊藤が枢密院議長に任命されると政友会総裁を止めざるを得ず、それは政友会潰しの機会となるという桂(山県?)の陰謀である。政党嫌いの武断派山県系の考えである。そのため7月1日桂は内閣の辞意を天皇に上奏した。翌日2日よりロシアとの交渉が始まるので、天皇は桂を慰留した。伊藤を天皇の側近に置いて対ロ交渉の相談相手にするため枢密院議長に就任するよう、山県は徳大寺侍従長を通じて天皇に圧力をかけた。原や西園寺らは桂の陰謀を見抜いていたので伊藤の枢密院議長就任には反対であった。結局7月13日伊藤は枢密院議長に就任し、山県・松方も枢密院顧問官に任命された。後任の第2代政友会総裁には伊藤の推薦で西園寺公望が就任した。これで桂の思惑と異なり、政友会が解散することはなくなった。日露交渉は10月3日になってようやくロシアの第1回回答が出され、日本側の主張とは大きく隔たっていた。ロシアは満州を交渉の範囲外とし、韓国に対して日本の民生上の指導権しか認めなかった。しかも朝鮮北の1/3は中立地帯俊、日本の勢力範囲から外した。10月30日日本側の第2回提案がなされ、桂首相は満韓交換論に立ち、満州南部の経済的要求を取り下げ、韓国の軍事民生支配を認めさせるものであった。ロシアの第2回回答も遅れたが、12月11日に送られてきた内容は第1回回答と同じ内容に過ぎなかったが、満州は日本の利益の範囲外であるという強気の文言はなくなっていた。これはロシアの戦争回避の譲歩のサインであった。しかし桂首相はそれに気づかず、1903年12月16日首相官邸での会議で桂・小村は満蒙交換論で交渉することを確認したが、山県は満蒙交換論で最後の交渉を行ってダメなら開戦すべきであると主張した。桂・小村の主張に沿った第3回の日本の提案は12月23日に出された。1904年1月6日にロシアから第3回の回答が来たが朝鮮北部の中立化を要求する内容が含まれていたので、1月16日日本は第4回提案で、韓国全土を日本が支配することを再度要求した。ロシアからの回答は来なかったので、2月4日御前会議を開いて日露開戦を決定した。5日に戦闘を開始し、10にロシアに宣戦布告した。ところがロシアのニコライ二世は日本との戦争を回避するため韓国の中立地帯を削除し、日本が韓国を軍事利用しない条件を付けた第4回回答を1月28日に決定し、この回答書が駐日ロシア公使に届いたのが2月7日だったので戦争に火ぶたが切られた後のことである。御前会議の後、金子堅太郎貴族院議員がアメリカに派遣され、末松謙澄貴族院議員がイギリス・フランスに派遣された。いずれも世界の世論が日本を理解することを求めた宣伝工作であった.2月12日日露戦争の最高指導部として大本営が設置されたが、現役軍人のみで、文官の伊藤は日清戦争の時のように大本営の一員になることはなかった。その代わり、3月7日戦場の最前線となる韓国に日本の方針をつたえる特派大使を拝命した。その前に1904年2月9日林権助駐韓大使が韓国に兵を入れることを承認させた。次いで23日日韓議定書を結び必要な地点を収容できるものであった。伊藤は20日韓国皇帝高宗に謁見して、日本が明治維新いらい行ってきた近代化のための改革と日本の援助と提案し、日本と同じように歩むことを勧めることであった。4月1日に伊藤は東京に帰った。5月1日日本軍は鴨緑江を渡って九連城を占領し、ロシア軍の準備不足の虚を突くものであった。さらに8月10日黄海海戦に勝ち、9月4日遼陽占領、10月14日沙河会戦で勝ち、1905年1月1日には旅順のロシア軍も降伏した。日本の対韓方針は1904年5月30日に閣議決定されたが、8月22日に第1次日韓協約が結ばれ、韓国を保護国化してゆくのが桂内閣の方針であった。小村外相は満州での権益獲得に意欲を燃やした。1905年3月1日―10日奉天会戦で陸上での最大の勝利を納めたが、この辺が日本軍の限界であった、もうこれ以上戦争を継続できる余裕はなかった。大本営も戦争終結へむかって動き、伊藤は桂・小村に講和条件検討を申しいれた。その内容は韓国の自由処分、満州からロシア軍の撤退と中立化、遼東半島の租借権を得るこという条件で東清鉄道ハルピン支線の譲渡であった。また賠償金と樺太割譲であった。5月27日バルチック艦隊が東進し日本海海戦を戦った結果、バルチック艦隊は壊滅した。バルチック艦隊の壊滅を受けてロシア側は講和への動きが進展し、米国ルーズベルト大統領の講和仲介を承知した。9月5日日露講和条約はポーツマスで調印され、10月15日に批准された。日本は韓国の保護権、、遼東半島の租借権、樺太南半分の割譲、東清鉄道のハルピン―旅順口間譲渡、沿海州の漁業権などを得た。日本側の要求はほぼ貫徹された。戦争終結の前年1904年12月桂と政友会の原敬・松田・西園寺との間で、政友会は戦争中は桂内閣を支持し講和条約に反対しないという約束を取り付け、見返りに戦争後西園寺に政権を譲るという密約を交わした。しかし9月5日東京日比谷などで講和反対の暴動が起きた。国民は過大な期待を抱いたのだった。1906年1月7日第1次西園寺内閣が発足した。西園寺首相、原敬内相、松田法相、の3人が政友会から入閣した。こうして政友会は本当に伊藤から自立した。

6) 晩年篇ー韓国統治

ポーツマス講和締結後、韓国の保護領化を本格化させるため、小村外相は伊藤に第2次日韓条約を結ぶ特派大使として韓国に行くことを求めた。伊藤は快諾し1905年11月5日漢城(ソウル)に向かった。伊藤は平穏に条約を結び韓国に近代化を韓国人と協力してできるだけスムーズに行うことを願った。15日韓国の高宗に第2次日韓協約案を示して韓国の独立を保障したうえで日本への外交権委任を迫った。返事を渋る高宗に対して17日伊藤は長谷川韓国駐留軍司令官を伴い条約の締結を迫った。韓国の成熟までという条約の期限があるような修正案を示して、18日午前1時林権助特命全権大使と朴外務大臣のあいだに協約が結ばれた。その内容は@韓国の外交は日本外務省が東京で行う。日本の公使・領事が外国での韓国人を保護する。A韓国での日本の代表として統監をおき、もっぱら外交に関する事項を管理するため漢城に駐在する。韓国の各開港場に理事官を置き駐在日本領事の行っていたことを行う。B韓国皇室の安寧と尊厳を維持する。というものであった。実際は統監は外交だけでなく、必要に応じて何でもできるようになっていた。12月3日伊藤は下関に帰国し、8日に皇居に参内した。12月21日伊藤は初代統監に就任した。64才であった。天皇は寺内陸相と大山参謀総長を呼び、統監に韓国守備軍を使用する権限を与える事を通告した。文官である韓国統監は駐留陸軍を使用できるのである。伊藤は統監府内では絶大な権限を持つようになった。伊藤は1906年3月2日統監として漢城に赴任した。伊藤の韓国統治構想は、@軍隊費用や、韓国の施設改善経費はなるべく韓国人民に負担させる。A当面の資金は日本興業銀行の借款に求める。借款額は1000万円とみて、借款の担保には関税収入を充てる。伊藤は借款から得た資金を教育にあて近代化の土台とすることであった。B警察力を強化し治安を保持する。C治外法権下の領事裁判制度や監獄制度を改善し、韓国人の負担を軽減し、列強の司法制度に習う事にした。治外法権撤廃も視野に入れていた。1907年5月30日伊藤が李完用内閣に対して行った演説は、韓国の近代化が日本の利益になることを第1にし、それが韓国の利益になると信じているというものであった。1年目の総統府の予算を見てゆこう。日本興業銀行と結んだ借款1000万円の半分は即韓国政府に入り、あと半分は必要に応じて受けいれるとした。利子分を引いた正味収入は900万円で、韓国政府が第1銀行や日本政府を引き受け手として650万円の国債を発行した。1906年の韓国の国債総額は500+650=1150万円であった。韓国政府に入る租税は560万円で国債総額はその2倍にあたる。1906年は125万円を、1907年は291万円で、主としてインフラ事業と教育関係にあてられた。警察力の拡大については日本人警察官を122の派出所に配置、韓国側は122の派出所に配置された。しかし1906年に義兵が蜂起すると警察力の不足が顕在化した。皇室の官吏については宮禁令を出し、6つの宮に日本人巡査を配置し、出入りを監視した。地方制度では日本の知事に相当する観察使、郡守の任命を皇室から内務大臣の任命に変え、政府の監督権を強めた。権力を皇帝から政府へ移管することであった。1907年3月伊藤が4か月ぶりに漢城に入ると、韓国人の各種団体・新聞が政府攻撃を強め排日運動が起こっていた。伊藤の韓国統治は韓国人が伊藤の趣旨を理解して主体的に協力することが出前提であったが、その基盤や信頼関係がないところでは逆に排日運動が激化していた。伊藤は林外相にあて、日韓関係は将来併合まで進むことが得策であるという見解を示した。この考えは結局1909年4月10日の韓国併合につながってゆくのである。陸軍や小村大使らは、更に進めてモンゴルをロシアの勢力圏として認めるなら、満州全部を日本の勢力圏としてロシアに認めさせると考えていた。ロシアは日本の勢力圏を満州南部と韓国に限定していた。1907年春以降韓国内で反政府・排日の空気が強まったので朴斎純参政(首相)は辞任を伊籐に申し出た。そこで伊藤は李完用を参政とする内閣を作り、親日団体一進会と連携して「施政改善」を進めようとした。一進会幹部の宋を農商工大臣とする李完用内閣が5月25日に発足した。1906年4月1日、伊藤博文統監は山県元帥、大山元帥と共に大勲位菊花頸飾を受けた。そして三人は公爵に昇進した。伊藤は宮中席次では山県・大山に対して上位にあった。

1907年6月、オランダで行われた第2回万国平和会議に韓国皇帝高宗の派遣した密使が日本の韓国保護条約を無効であることを列強に訴えようとした事件が発生した。事前に察知し高宗には警告しておいたが実行されたことで伊藤は怒り、韓国併合の絶好のチャンスだと伊藤は提案した。7月10日山県、桂、西園寺首相、原内相、林外相、寺内陸相らが閣僚会議を行いこの問題を話し合った。原内相は韓国内政の実権を日本に収めるのも良し、すべては伊藤に一任という形でまとめた。7月16日高宗の譲位はやむなしと李完用内閣が決定した。ただ伊藤は併合するとコストが高くつくので二の足を踏み切れないでいた。この事件を受けて伊藤統監の主導で1907年7月24日第3次日韓協約が結ばれた。内容は韓国側のほとんどすべての行為は統監の同意・承認を必要とするもので、韓国の外交権のみならず内政権まで奪うだけでなく、韓国人の自発性を奪い取るものであった。高宗が譲位しその子の純宗が即位し第3次日韓協約が発効した。8月1日韓国軍を解散させたことが、義兵排日運動がさらに盛んとなった。排日運動は1年間は続いたが警察の抑圧により1909年半ばにはずいぶん下火となった。伊藤が日本の憲政体制で気がかりなことは、日清戦争後陸海軍が内閣から自立化傾向を強め、日露戦争後には軍隊の行動は文官のコントロール外になったことである。伊藤は憲法を改正し陸海軍を内閣ん0統制下におくことを考えたが、1900年以降、軍官の山県と文官の伊藤の再有力者二人の間には国家運営を巡って調整できないほどの隔たりと対立が生じていた。従って改憲を提起する元老会議での一致は不可能、天皇は改憲の発議はできない状態であった。また衆議院で改憲の2/3以上の賛成を得ても、貴族院で賛成を見ることは到底望めなかった。そこで伊藤は憲法を補完する法令で首相権限を強化しようとした。帝室制度調査局総裁であった伊藤は副総裁の伊東巳代治に命じて勅令の公式令を考案させた。勅令には担当大臣の副署が必要と首相の副署を必要とするに改めた。陸海軍に関する勅令において首相の副署が必要となり、首相のコントロールを可能とした。ところが山県は軍に関する勅令にかわる軍令を制定し、担当大臣(陸相、海相)の副署だけでよく、首相の副署は必要ないとしたのである。こうして公式令は骨抜きになった。第3次日韓協約で伊藤は韓国の宮中と府中(政府)の区別を進め、同時に韓国の宮中の権限を縮小した。1907年12月1日韓国人官吏の内勅任官ら4000名を罷免し、日本の高等官10人に置き換えた。政府内の日本の高等官は25名になった。11月13日皇帝淳宋と皇太子の住居を移して太皇帝(前高宗)の住居と引き離した。皇太子の教育のため日本留学(人質)を決めた。9月東京控訴院検事長の倉石富三郎を韓国法務部次長に就任させ、司法制度改革関連法が相次いで施行された。山県元帥と寺内陸相は韓国併合論者であったが、伊藤は併合論を否定はしないが韓国の近代化の方に努力を傾注した。その頃の日本の政局では桂太郎は山県系官僚閥ではナンバー2の位置にあったが、日露戦争後の状況で次第に不満を強め山県との関係が悪化していた。桂は伊藤や政友会の支援をえて、山県官僚閥でに立場を強化したいと思い伊東へ接近した。伊藤も桂との連携が強まれば財政面で韓国統治の援助となり、陸軍の協力をえて支配が安定すると考えた。まず桂大将の発議になる東洋拓殖会社設立問題がおきた。日韓両国の共同管理となる拓殖会社であった。1908年3月に大蔵省案の拓殖法案が帝国語彙会に提出されたが、伊藤は韓国人の利益を眼中に置かない案に不満であったが、議会を通過し東拓法が公布された。山県系官僚の宇佐川が初代総裁になり、吉原三郎が副総裁になった。義兵の乱には桂との連携で、伊藤と関係が良くない長谷川好道駐箚司令官を更迭した。1908年8月ごろ伊藤は統監を曾祢副統監に譲って辞任したい旨を本国に伝えた。老齢のため任務が酷になったのと義兵の乱が下火になったので辞任する理由としたが、山県を始め山本権兵衛、桂、小村も伊藤の留任に賛成した。1909年3月30日小村寿太郎外相は桂太郎首相に韓国併合に関する方針を伝えた。4月10日桂と小村は伊藤に韓国併合に対する伊藤の意見を求めると意外にも異論はないと答えた。それは4月には辞意を固めていたからである。こうして伊藤は6月14日に統監を辞任し、曾祢副統監が統監に就任した。1909年7月6日の閣議で桂内閣は韓国併合を決定した。元老伊藤は山県から枢密院議長の職を譲り受けた。伊藤は韓国に独自の法典を整備する計画を放棄し、韓国の司法権を日本に委任させるための活動を始めた。7月12日伊藤は、韓国司法および監獄事務委託に関する覚書を、統監府と韓国政府との間で結んだ。こうして韓国は司法権を失った。
桂内閣の後藤新平逓相から、欧州列強、特にロシアのココーフツオォフ蔵相に日本韓国処理について、日本の真意を理解してもらうことは意義が深いと言われた。10月11日伊藤は自宅で山県とし、後事を話し合った。伊藤が最も心配するのは韓国問題である。憲政政治は第1次西園寺内閣から第2次桂内閣では原敬が党を取り仕切って政友会は政権運営ができるまでになった。伊藤にとって清国の近代化に協力することは本望であった。いずれ北京に清国顧問として伊東巳代治と一緒に行くことに意欲を持っていた。1909年10月14日伊藤枢密院議長は、室田義文貴族院議員、村田惇中将、古谷久綱枢密院議長秘書官及医師、漢詩人らを従えて大磯を出発し、門司より乗船した。そして18日に大連に到着した。歓迎会で伊藤は清国の立憲制導入の改革を助ける熱意を表明した。21日旅順より乗車し25日午後7時に長春(ハルピン)に到着した。翌日26日ハルピン駅に出迎えに来ていたロシアのココーフツオォフ蔵相と初対面の挨拶をかわして、午前9時30分二人がプラットフォームに降りたところを安重根という朝鮮の青年にピストルで数発撃たれて伊藤は絶命した。68才であった。日本の随員の3人も被弾して負傷した。伊藤は10月26日付で従1位(岩倉具視、毛利元徳公爵に並んだ)に叙せられ、27日伊藤の葬儀は国葬で行われることになった。11月4日日比谷公園で国葬が営まれた。この事件の結果山県元帥と寺内陸相は近い将来韓国を併合することを課題としたが、現曾祢統監の病気が悪化しつつあったので、5月30日寺内が統監となった。この体制で1910年8月29日朝鮮は併合された。朝鮮総督府が植民地朝鮮を統治することになった。明治天皇は2年後1912年7月29日病死した。59才であった。明治天皇は伊藤と山県を車の両輪にして、文武の明治維新を完成させたことになった。こうして明治は終わった。伊藤の文治主義は大正時代デモクラシーの政党政治を将招し、山県の武断主義は昭和の軍国時代を招いた。さてあなたはどちらが良かったか。



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