170412

青山弘之 著 「シリア情勢ー終わらない人道危機」 
岩波新書(2017年3月)

難民を生み出すシリア内戦、「独裁政権」、「反体制派」、イスラム国が入り乱れ、米国やロシアなど外国の介入によって泥沼化したシリアにいつ平和は来るのか

この本はやたらカッコつきが多い。「独裁政権」、「反体制派」、「人道危機」、「人権」、「民主化」など、筆者は読者に疑問符を投げつけながら、事の本質に迫るように要請しているようだ。これらの言葉は、大概は西欧文明側から投げられた言葉である。そういう理解(宣伝)でいいのか、それでは事は何も解決して来なかったではないかということである。2010年「アラブの春」はグローバル資本主義の圧力の下で、体制打破の掛け声に合わせて進攻したが、シリアでは体制打倒という初期の勝利を収めることもなく挫折した。圧倒的にアサド政権の強権が強かったのである。例えばの話で恐縮なのだが、西欧列強が戦国時代に自分たちに都合のいい政権を建て甘い汁を吸うため、誰を応援し(武器供与、内政干渉)、誰を武力打倒すべきかを考えるに、日本の応仁の乱以降麻の様に乱れた中世日本の諸侯群雄割拠時代に直接・間接に手を出すことを思い浮かべると分かり易い。日本の諸侯をミサイルで脅しても一般庶民が死ぬだけで、何の政治的効果もないし、戦争になればそれは武士の戦に過ぎないと思って百姓は山に逃げるだけで、民主制の何たるか、国の何たるかもしらない民衆の発展段階では、何百年かかっても「自由」、「民主」など理解できなかったであろう。近代国家以前の部族社会が中東の政治状況の本質なのである。民衆はただ逃げるだけ。どこから降ってくるミサイルかは判別もつかない。事の表側は先進欧米諸国の情報合戦に過ぎない。地中海の東岸、文明の十字路と呼ばれる地域に。中東随一の安定を誇る強い国家があった。ダマスカスを首都とするシリアは中東の心臓とも呼ばれた。東アラブの覇権を追求し、アラブ対イスラエル紛争、イラク戦争、レバノン問題に強い影響力を持った。しかし今やシリアにはこのようのも影は消え失せた。シリア・アラブ共和国のバッシャ―ル・アサド大統領が弱体化することで中東情勢は一気に不安定となった。トルコ国境、ヨルダン国境などでは「反体制派」の解放区が広がり、アサド大統領はシリア全土の支配権を失って、アル・カイーダの流れを汲むシャーム解放委員会(旧ヌスラ戦線)、シャーム自由人イスラーム運動などが共生する地方政権になった。イスラム国ISの支配区がラッカ県、ヒムズ県東部などに広がっている。トルコ国境部にはクルド民族の民主統一党PYDが自治政府を打ち立てた。武装集団支配区に過ぎず政府の態をなさない地域が多い。シリアを「強い国家」から「弱い分裂した国家」になるきっかけは「アラブの春」運動であった。2010年末にチュニジアで始まった抗議デモはアラブ諸国に広がり、エジプト、リビア、イエメンでは政権が退陣し、体制は崩壊した。「アラブの春」はシリアには2011年3月に波及し、政府当局はデモに激しい弾圧を加え、「反体制派」は武器を取ってシリア内戦と呼ばれる内戦状態に陥った。アラブの春で体制を転換した国のその多くは今も混乱の最中にある。シリアでは政権打倒という初期の成果もなく、深刻な失敗例となった。その人的・物的被害を実証的に把握することも難しいが、「シリア政策研究センター」が2016年2月に公表した報告書によると、死者47万人、負傷者190万人、国内避難民は636万人、国外移住者(難民)は117万人であった。なおシリアの総人口は2015年で2300万人であった。「今世紀最悪の人道危機」を称されるシリアの惨状は、新聞紙上に流れる情報操作の一環(通俗的解釈)かもしれない。既存の「独裁政権」は「悪」、それに対する「民主化デモ」は「善」という勧善懲悪思想で、後者が前者に勝つのは歴史の必然とする見方である。シリアではアサド政府を「悪」、反体制派を「善」という構図である。しかしシリア内戦が深刻化し表面化した問題は、アラブの春的解釈では説明できず、内戦という国内的要素だけではない。その最たる証拠は、イスラーム過激派の台頭、そしてそれらとの「テロとの戦い」を名目とした外国の干渉である。2014年以降シリア内戦はアラブ社会諸国全体の不安定化をもたらし、周辺各国の動きが急速化したことである。2014年8月米国が主導する「有志連合」はイスラム国を殲滅するとして空爆を開始した。9月にはシリア国内に空爆が及んだ。9月ロシアはイスラーム国、ヌスラ戦線を含む「反体制派」に対する空爆に踏み切った。イスラーム国のテロは欧州で活発化した。ロシアの空爆は大きく事態を転換し、「反体制派」に対するアサド大統領の優位が確立し、アメリカ・ロシアの代理戦争の様相も出てきた。内戦で始まったシリア問題に混乱を再生産しているのは、シリアにとって部外者の外国の要因がゲームの主導権を握ったからである。これを「シリア内戦のハイジャック」という。

1) 東アラブの中のシリアの地政学

シリア内戦は、「アラブの春」の延長戦上で、「独裁」対「民主化」という争点が本質的だとする単純な構図では推移せず、複雑な様相を呈している。シリア内戦は、争点や当事者を異にする複数の曲面が居り可算って展開している紛争である。著者は30年来のシリア情勢を見てきた経験から、シリア内戦を構成する主な要因を歴史的に5段階に分けて考えている。その局面とは、@「民主化」、A政治化 B軍事化、C国際問題化、Dアル・カイーダ化である。そこでこの5つの局面をたどってゆこう。
@ 「民主化」 :民主化とは「アラブの春」の解釈に従った局面である。2011年3月体制打倒のデモ隊はバッシャ―?・アサド政権の暴力の前に挫折した。「体制転換」に成功した国(何がどう変わったのかは不明だが)と較べてシリアのデモは、1万人以下と規模が小さく、場所も地方で散発的に起きたにすぎない。デモへの呼びかけはインターネットでなされなかったため、情報がバラバラで虚偽のデモ情報も多かった。そして活動家が国内で直接指揮を執ったのではなく、海外に逃れたホテル活動家の煽動が中心であった。8月には弾圧に対する抗議活動は最高潮になったが、軍・治安当局とシャッビーハの弾圧で1000名の犠牲者を出しデモは収束した。シリアの「アラブの春」は失敗に終わった。デモ側に組織がなく、政権を倒した後の政権の受け皿に対する考えも存在しなかった。
A 「政治化」 :「民主化」がアサド政権と「反体制派」による従前的な権力闘争に転化することを「政治化」という。ここでいう「反体制派」とは、初期には政治的かつ非暴力的な手法で体制転換や政権掌握を目指す組織や活動家の事であったが、次第に武装化し軍閥化した数多くの諸派が発生したことが紛争の実態が歪曲され混乱が再生産されることにつながった。諸派が自分の権力の強化のために離合集散を繰り返し、対立はアサド政権対「反体制派」の2元対立ではなく、諸派間で対立が頻発した。現在活動している政治組織の数を把握することさえ困難であるが、顕著な組織として名が出るのは、シリア国民連合、民主的変革諸勢力国民調整委員会、民主統一党PYDの3つである。シリア国民連合はシリアムスリム同胞団を中心に2012年カタールにおいて米国の肝いりで結成され、欧米公認の「シリア国民の唯一正当な代表」と目されてきた。欧米の資金援助が豊富なため、在外活動家は国外で指揮を執り「ホテル活動家」と揶揄されている。民主的変革諸勢力国民調整委員会は2011首都ダマスカスで結成され、バアス党や、アラブ民族主義者、マルクス主義者からなる。しかし長年の活動の中で政治エリート化し国民から遊離していることはシリア国民連合と同じである。民主統一党PYDはトルコのクルド労働者党の流れを汲み2003年に結成された。シリア最大のクルド民族主義政党である。PYDは民主連合運動という社会運動組織をもちかつ人民防衛隊という民兵組織を持つ。5万人の隊員を持つ。これらの組織以外にも数えきれないほどの「反体制派」が活動しており、体制変換を目指して対立しながら離合集散を繰り返している。
B 「軍事化」 :欧米の援助にもかかわらず、「アラブの春シリア版」が目立った成果も出さなかったため、「民主化」と「政治化」の次に来たのが各当事者が武力に訴える「軍事化」であった。これによりシリア政府及び治安当局の一方的弾圧に終わった騒乱は、シリア軍と「反体制派」諸勢力の軍事衝突を特徴とする「シリア内戦」という事態に発展した。「民主化」の時期からデモ隊の一部では武装化する事例が増えて来ていた。2011年9月離反士官のリヤード・アスアド大佐が自由シリア軍を結成したことで「軍事化」が顕在化したと言える。このことでシリア政府の崩壊は時間の問題と西側のメディアでは報じられたが、自由シリア軍には指揮命令系統もなく、小集団の抵抗に過ぎなかった。離反軍人のほとんどは国外に逃亡し指揮を執る軍人はいなかった。シリア国民連合との連携も画策されたがホテル活動家には軍事化のニーズにこたえる力量はなかった。にもかかわらずに「解放区」は徐々に増えて、2012年7月首都ダマスカスとアレッポ市に戦火が及んだ。アレッポ市東部は「反体制派」の最大拠点になった。
C 「国際問題化」 :西側社会のメディアにおいては「アラブの春」の流れにおいて、シリアにおいても正義の革命闘争は勝利するはずでこれを疑問視する向きはなかった。しかしアサド政権が弱体化したのは、自由シリア軍の勝利や政府官僚や軍隊の離反にあるのではなく、内戦という言葉ではとらえきれない「国際問題化」と「アル・カイーダ化」が主因となっていた。「国際問題化」とは内戦であるはずの混乱より諸外国の利害が優先するということである。内戦の混乱を収めて統一政府の樹立を求めるのではなく、諸外国の利害による干渉が国を分裂させている状態である。第1の陣営は欧米諸国とその同盟国であるサウジアラビア、カタール、トルコからなる「シリアの友グループ」と称する国々である。この陣営は「人権」擁護をこんきょにしてアサド政権の弾圧を非難した。2011年8月NATOの軍事介入によってリビアを体制崩壊させたときと同じような構図でシリアに介入した。アサド政権の正統性を否定し、「反体制派」を支援し介入した。第2の陣営は、ロシア、イラン、中国と言った国々である。この国はシリア主権の尊重の立場から、シリアの友グループの干渉を非難した。内実はアサド現政権支持を意味していた。経済・財政・軍事面でアサド政権を全面支援した。IBSA諸国もこれに同調した。シリアの中東での地政学を考えると、シャームと呼ばれる東アラブ地方の安定維持に重要な役割を持っている。地政学ライバルであるイスラエルとの対峙を外交政策の基軸に据え、中東における反米・反イスラエル感情のの中心であった。シリアはイスラエル紛争において、ロシアやイランの支援を得て、イスラエルとの軍事バランスの軸であった。イスラエルと直接戦火を交えることは避け、合従連衡の要にいることで重きをなした。それはイスラエルにとっても微妙な均衡を期待するというカウンターメリットはあった。イスラエルを移植した英米自らが主として中東の安定に貢献すべきであるにも関わらず、シリアという安全弁は紛争を避けるという利用価値は大きかった。ソ連(ロシア)にとって、欧米諸国に敵対するシリアは積極支援を行うに十分な存在であった。1970年ハーフィーズ・アサド大統領が政権を掌握してからシリアとロシアは親密さを増した。1980年にはソ連・シリア友好条約を締結した。NATO軍事戦略上ロシアはシリアに対する軍事・技術部門における援助を拡大した。ソ連はロシア海軍の補給基地をタルトゥール市に持った。シリア内戦位おいてもアサド政権はロシアのファイミーム航空基地にロシア空軍部隊の配置を許可した。シリアを国家安全保障政策の第1防衛線に位置付けているのは、エジプトだけでなくイラン、そして「シリアの友グループ」のトルコ、サウジアラビアとて同じことである。シリア内戦における「国際問題化」は各国の安全保障政策に関わる実利的な動機に基づいている。諸外国の干渉は自己の「正義」によってカムフラージュされているが、「人権」、「主権」、「テロとの戦い」がそれである。こうしてシリア内戦は諸外国の主戦場と化すことで、悪化の一途をたどった。
D 「アル・カイーダ化」 :最後の局面はイスラーム過激派はこの内戦をハイジャックし、「反体制派」のなかで存在感を強めている。「アル・カイーダ化」とは、ウサ―マ・ビン・ラーディンが創始し、ザワーヒリーが指導者を努めるアル・カイーダ〈総司令部)に忠誠を誓う組織と個人のことである。イスラム過激派の特徴は、既存の政治、経済、社会を全否定し、イスラム教の正しい教えを理解した前衛集団を自認しジハード武装闘争を手段とする。既存の組織を破壊した後は古代制度に基づくカリフ制を敷くという。時代錯誤も甚だしく、日本でいうと明治維新の王政復古である。従って「自由」、「民主」、「主権」、「人権」とは無関係である。シリアにおいてアル・カイーダと目されるのはヌスラ戦線と、さらに過激なイスラーム国ISである。彼らが「反体制派」のなかで重きをなしてきたのは、アラブ湾岸諸国などから信仰心に基づく義援金が多く寄せられたからである。アサド打倒を強く求めるサウジアラビア、カタール、トルコが外国人戦闘員を含むイスラーム過激派のシリア潜入を後援した。その数は算定できていないが外国人戦闘員は2015年で3万人以上と推定された。このことはシリア国内の当事者をわき役に追いやることになる「国際問題化」、「アル・カイーダ化」は、国内当事者による政治的権力争いうよりも、「反体制派」を暴力主義に追いやり、外国勢力の援助金や外国人戦闘員をあてにする功利主義に走らせた。

2) 「独裁政権」アサド大統領の素顔

「アラブの春」の正義において、アサド大統領は廃絶されるべき独裁者「悪」としてレッテルを張られてきたが、しかし未曽有の混乱の中でも同政権は崩壊せず、シリア内戦の主たる当事者として存続した。そこでバッシャ―ル・アサド大統領の「独裁政権」とはどのようなものか、振り返ってみよう。バッシャ―ル・アサドは、30年間にわたってシリアの絶対的指導者として統治したハーフィズ・アサド前大統領(1930-2000年)の次男として1965年に生まれた。父ハーフィズはバアス党に入党し空軍士官となり1963年のバアス党政権掌握クーデタに参加し1970年に全権を掌握した。権力闘争に明け暮れた政治的に不安定な弱小国シリアを中東第一の安定した強い国家に躍進させた。四男一女の兄弟で、長男のバースフィルは後継者と見なされ、大統領治安局長という要職について支配下にあったレバノンの政務を担当した。1994年長男バースフィルが交通事故で不慮の事故で死亡すると、次男バッシャ―?の人生は変わった。はじめは医師を目指してロンドンに留学して帰国後後継者の道に進んだという。バッシャ―ルは強さと同時に政治手腕に優れ、進歩国民戦線という翼賛会的な与党連合を結成し、政治的諸派をバース党の同盟者にした。外交的にはレバノンのヒズブッラーやパレスチナ諸派を支援してイスラエルに対抗した。1990年代には冷戦後の欧米諸国との経済関係を改善し、レバノンを実効支配した。政治的権謀術数に優れたバッシャ―ル・アサドは2000年の父の死に伴って34歳で大統領の権限を引き継いだ。軍総司令官にも就任した。こうして父ハーフィズの権力移譲は混乱なく行われ、社会の安定を損なう勢力は現れなかった。この辺りは北朝鮮の金一族の権力継承とよく似ている。開明的なイメージの強かったバッシャ―ル大統領は、近代化、ハイテク化の旗手として多角的な改革に着手した。2005年のバアス党大会で改革政策が打ち出され、非常事態令の見直し、政党法の制定、情報法、出版法の改正、選挙制度改革、クルド人の権利回復、社会的市場経済の導入が図られた。しかしシリア強権支配の根幹には改革は触れなかった。アサド一族支配は腐敗の権化として非難を浴びた。宗教的にはアラフィー派独裁と反体制派もスンナ派の対立の構図は当たらない。人種的にはアラブ人が90%で、クルド人が8%で、宗派の分布はスンナ派が76%、アラフィー派は12.5%に過ぎない。権力中枢はアラフィー派の教義に基づくわけではなく、シリアの政治が特定の宗教の教義のみに基づく排他主義に陥ることはなかった。2011年の「アラブの春」の混乱は抗議デモをアサド政権が弾圧したことが直接の契機であった。しかし同時にアサド政権はデモの要求に応じるべく「包括的改革プログラム」という上からの改革に着手した。1973年に定められた憲法は、バアス党を「国家と社会を指導する政党である」と定め、前衛党として超法規的な国家運営が認められていた。一連の「包括的改革プログラム」は、2011年4月から8月にかけて制定されたが、2005年の改革の深化を約束したものであった。2014年の大統領選でアサドは89%の支持を得て信任され、新憲法を公布した。バアス党の独裁を改め、政治的多元主義を採用した。5月には人民議会選挙が行われ、バアス党は議席を増やした。2014年の大統領選挙では複数の候補者が立候補したが、アサド大統領が88%とという圧倒的多数で再選を果たした。こうして「政権交代なき体制転換」という政治移行が行われた。しかしアサド大統領は2012年6月「テロ撲滅三法」を制定し、治安維持強化を図った。

権力には表向きの顔と内向きの顔があり、これを「権力の二層構造」と筆者は呼んでいる。バッシャ―?・アサド大統領が継承したシリアの政治構造は、内閣や人民会議といった法的・制度的枠組みの中で権力を行使する「公的」な政治主体と、こうした枠組みを越えて権力を行使する「非公的」な政治主体が密接に組み合わされて機能している。しかし公的な政治主体が行使する権力は、体制に民主的・多元的な様相を与える「表向きの権力構造」に過ぎなかったようである。これに対して非公式な政治主体は法の枠組みを越えて独断的に政策決定を行い、その主な担い手とは軍と「ムハーバラート」と呼ばれる治安当局であった。「包括的改革プログラム」はこうした憲法の例外規定を廃止し、裏の権力装置の関与を抑制するはずであったが、シリア内戦によって表向きの名目的な権力機構が弱体化・形骸化し、テロとの戦いの担い手となった軍・治安当局に加えて、「大統領・権力機構に直結した腐敗した権力」(ビジネスマン)や「人民防衛組織」など新たな権力に担い手(第三層)が登場した。彼らは法的根拠がないにもかかわらず、大統領との個人的関係を利用して政策決定に大きな影響力を発揮した。第三層の「ビジネスマン」とは政権高官の子息をの隠語で、政権の庇護の下で投資・貿易事業で莫大な利益を得ている。その筆頭がラーミー・マフルーフで「シリア開発信託」に拠って既存の政治権力を財政面で支援してきた。「シャッビーハ」とは武装犯罪組織の隠語でアサド大統領の叔父が結成したマフィア組織だが、地中海地域で密輸、麻薬、人身売買にかかわっている。その数は2万人から10万人といわれるが実態は分からない。「人民防衛諸組織」とは国防隊や人民諸委員会といった親政権武装組織をさす。予備部隊ともいわれる。内戦以前のシリア軍は常備軍32万人、予備役35万人であったが、内戦後の2013年には常備軍は17万人に減少し、離反兵が相次いだ。非正規の武装組織「国防隊」はアサドの甥のハラール・アサドが設立した。「シャッビーハ」から豊富な資金を得て2013年には10万人を要するともいわれている。「人民諸委員会」とはアラブ諸国でよくみられる地域・職場の民兵組織であり、アラブの春当初には抗議デモの弾圧や治安維持活動に参加した。こうした民間武装集団が雨後の筍のように輩出し、小規模軍閥のような離合集散を繰り返している。シリア内戦によって中東随一の「強い国家」だったシリアは、弱い国家に転落した。無数の「参加型暴力装置」(軍閥)が紛争という異常事態の中で国を分裂させた。

3) 「人権問題」からの逸脱

米国、サウジアラビア、トルコ、カタールなどからなる「シリアの友」グループ諸国の内政干渉は、「人権」に基づいて自己正当化されてきた。シリア紛争の責任の一切がアサド政権、支援国であるロシア、イランにあるという見解は、徐々に行き詰まりを見せ、シリアの友グループもシリア内戦の泥沼に引きずり込まれていった。この章では次の3点からシリアでの人権問題の実態を検討してゆこう。
@ 「人道危機」の被害実態 :2011年シリア国内に散発的に発生したデモ隊に、政権は戦車、ヘリコプターで弾圧し、自由シリア軍の反体制派の解放区をミサイル、白リン弾といった兵器で攻撃した。しかしシリア内戦はどの局面でも世界世論向けの情報戦としての性格が強く、あらゆる情報が政治的に操作されている。その最たる例がシリア内戦の被害とりわけ死者数の統計データにある。シリア政策研究センターが2016年2月に発表した報告書によると、2015年までに47万人が死亡し、1000万人が国内外で避難生活を余儀なくされたというものである。欧米諸国や日本で犠牲者数の典拠となるデータはシリア人権ネットワークとシリア人権監視団という反体制派NGOのデータが用いられる。シリア人権ネットワークは反体制派支配地域のみを調査対象とし、その死者はすべて政府側の攻撃による死者とされている。これに対してシリア人権監視団のデーターはシリア内戦の暴力が双方向的なものであるとして、陣営別に分類せず、2016年までに民間人の死者が半数を占め、戦闘員の死者の2/3はアサド側の死者であるとした。また民間人という項目を「民間人と反体制派戦闘員」に分け、死亡した民間人に占める武装民間戦闘員の数は1/3以上とした。2016年9月では、総死者数約30万人、民間人はその半数で、武装した民間人は1/3、武器をもたない民間人は2/3とみた。そういう意味では純粋の民間人死者数は10万人となる。国外難民は国連難民弁務官事務所によると、2012年に10万人、2013年には200万人となったという。国内難民は国連人道問題調整事務所発表によると、2012年の70万人、2014年に700万人になったという。それ以降は国内難民は増加していない。ドイツに逃れた国外難民890人のアンケート調査によると、命を脅かされた原因はアサド政権側と「反体制派」の双方による暴力である。善悪の見方によるのではなく、暴力は双方向的である。「国際問題化」、「アル・カイーダ化」以降においては特にそうである。アメリカ側からロシア側からミサイルが発射され、住民は逃げまどって被害を受けているし脅威とみている。
A シリアの友グループの支援実態 :シリアの友グループの内政干渉はアラブの春以降直ちに開始された。治安当局の弾圧を非難し、「民主化」を声高に叫ぶくらいで実効性のある措置は取られなかった。EUとトルコは2011年9月からシリアに対する金融制裁、石油禁輸措置、サウジアラビアやカタールはシリアへの投資を禁止し在外資産を凍結した。その時にはシリア内戦は「軍事化」となり戦闘が主要な局面打開策になっていた。国連においてはロシア、中国が安保理の決議案に悉く異を唱えた。拒否権によって欧米諸国の直接介入を阻止した。シリア国民連合や自由シリア軍は欧米の意向を歓迎し支援を獲得する方向に動いたが、欧米諸国は東アラブの不安定化を回避する負担を覚悟することに躊躇し、かつイラクの石油に相当するシリアの旨みがないため軍事力行使などの費用対効果は低いとみていた。しかしシリアの弱体化はイスラエルに対する安全保障上の脅威は軽減したことに、欧米は満足していたのだろうか。
B 化学兵器使用疑惑 :欧米諸国はシリアの弱体化が東アラブ地域の安全保障の維持では一定の成果を得たが、「人権」だけではシリアの混乱を拡大再生産するには不十分であった。そこで持ち出されたパラダイムが2013年8月「化学兵器使用疑惑」であった。2013年に入るとシリア政府軍とヒズブッラー部隊は反転攻勢に転じ、ヒムス県クサイル市を奪還した。反体制派の攻勢は鈍化し、激しさを増したのが情報戦であった。化学兵器や有毒ガスが使用されたという噂が頻繁に流れるようになり、シリアの友グループはアサド政権の非人道ぶりを強調宣伝した。米国は4月30日にアサド政権による化学兵器使用を確認できれば、軍事介入すると公約した。その先手を打ってアサド政権は化学兵器を使っているのは反体制派であると主張し、3月国連に化学兵器使用の実態調査を要望した。米国のオバマ政権は及び腰になり、アサド政権打倒から化学兵器使用阻止のための空爆に限定され、米英仏の姿勢はシリアへの直接軍事介入を回避するものにすり替わった。同年9月アサド政権は化学兵器禁止条約に加盟し、シリア国内での化学兵器全廃に向けた行程に合意した。化学兵器禁止機関と国連調査団の査察を受け入れ、2014年度までに化学兵器全廃を目指す国際約束を行った。この合意は安保理決議に採択された。こうした国際合意はシリア内戦を地上戦で有利に展開しようとするシリア国民連合を一気に不利な立場に追いやった。アサド政権は一見米国の要請に従った形であるが、シリアを代表する正当な代表として認められたことになり、欧米諸国はアサド大統領の支配を黙認したことになった。2014年6月までに化学物質570トンは移送され廃棄された。2015年1月化学兵器禁止機関は廃棄を完了したと声明を出した。2013年12月の国連調査団の最終報告書では、シリア軍と「反体制派」双方が化学兵器を使用した可能性が高いと結論した。2014年度以降になるとイスラーム国が台頭し、化学兵器私用の最有力容疑者として注目されると、アサド政権へのパッシングは勢いを失った。2014年5月化学兵器使用非難も塩素ガス使用疑惑に矮小化された。米国オバマ大統領は塩素ガスは歴史的に化学兵器ではないという立場から重要視しなくなった。

4) 「反体制派」の諸勢力

シリア内戦が軍事化の様相を強め、シリア国内は混乱の泥沼に陥った。ここでいう「反体制派」とは独裁政権に対して武力で立ち向かう自由シリア軍、革命家、フリーダム・ファイターと認識されることが多い。しかし反体制派をカッコつきで表現しているのは、シリア内戦の第5の局面である「アル・カイーダ化」を見えなくする言葉であるからだ。アル・カイーダがはたして反体制派なのか、外国勢力によるシリア乗っ取りなのか、いまだ判別できないからである。「アル・カイーダ化」は軍事化の背後で進行していた。アル・カイーダの指導者であるアイマン・ザワーヒリが2012年2月に声明を出し、シリア政権を世俗的宗派体制と指弾し、周辺諸国のイスラム教徒にシリアの同胞を救済すると呼びかけた。つまりアル・カイーダはシリア国家を破壊し、イスラーム原理主義国家を樹立するということである。シリア国内ではアフガニスタン、イラクなどの外国人やシリア過激派が、シャームの民のヌスラ戦線の名で活動を本格化させていた。2012年指導者のムハンマド・ジャウラーニーがヌスラ戦線の結成を宣言し、シリア北部で爆弾テロ、要人暗殺の犯行声明を出した。イドリア県、アレッポ県、ハマー県などでシリア軍事基地を攻撃し支配地区を拡大した。2012年12月米国務省はヌスラ戦線をイラク・アル・カイーダと登録し、外国テロ組織FTOに指定した。国連も2013年5月ヌスラ戦線をアル・カイーダの別名として制裁リストに登録した。しかし欧米諸国はイスラーム過激派の活動がシリア国内に限定されている限り、反体制派と見なして放置していた。欧米諸国が「アル・カイーダ化」への対応に本腰を入れるようになったのは、イスラーム過激派の活動が国境を越えてイラクに及ぶようになってからであった。2013年4月にイスラーム国の指導者バグダーディーが、ヌスラ戦線はイラク・イスラーム国の延長であってその一部に他ならないとしたうえで、両組織を統合して「イラク・シャーム・イスラーム国」ISISを名乗ると宣言した。当のヌスラ戦線の指導者ジャウラ―二―は両組織は異なるとしたうえで、シリアではヌスラ戦線の名で活動を継続すると声明を出した。「イラク・シャーム・イスラーム国」はラッカ市から「反体制派」から追い出して、同市を首都と位置付けた。アル・カイーダ指導者ザワーヒリは両組織の調整を行ったが、「イラク・シャーム・イスラーム国」Iはこれを拒否したので2014年2月ザワーヒリは「イラク・シャーム・イスラーム国」を除名した。2014年1月より「イラク・シャーム・イスラーム国」はイラクでの活動を活性化させ、6月イラク第2の都市モスルを完全制圧しカリフ制の樹立を宣言し、組織名をイスラーム国ISに変更した。シリアで活動していたイスラーム過激派はヌスラ戦線とイスラーム国ISだけではなく、シャーム自由人イスラーム運動、ジュンド・アクサ―戦線、ムハージリーン・ワ・アンサール戦線、ムハンマド軍、イスラーム軍、シャーム軍団なる組織が次々と結成された。2015年以降シャーム自由人イスラーム運動はアル・カイーダとの関係を否定し「フリーダム・ファイター」をアピールするようになった。シャームの鷹旅団など自由シリア軍を名乗る「反体制派」を次々吸収統合した。乱立するイスラーム過激派の共通点をあげると、その多くが共通の起源を持ち、外国人が主導的な地位を占めていることである。また組織・個人の所属が極めれ流動的であることである。さらに連合組織結成や共同戦線設置を通じて共闘したことである。

勃興著しいイスラーム過激派諸集団と「老舗反体制派」自由シリア軍の関係がこれまた複雑である。武装集団の中には自由シリア軍を名乗る武装集団が多い。たとえば南部戦線やハズム運動は自由シリア軍を名乗る武装集団の連合体と目されていたが、その中にはイスラーム過激派が多数いた。またイスラーム過激派の連合組織であるイスラーム線戦、アレッポ・ファトフ軍には自由シリア軍を名のる師団がある。イスラーム過激派と自由シリア軍との間にも組織・個人の所属の流動性や合従連衡が顕著である証拠である。民主化闘争の自由シリア軍が掲げる「自由」、「人権」と言った価値観は、イスラーム過激派の復古主義的教義との共通性がない。最初は対立していたが、シリア自由軍は生き残りをかけてイスラーム過激派に依存(従属)するようになったというべきであろう。「反体制派」は、アル・カーイダの系譜の組織を含むイスラーム過激派と自由シリア軍を名乗るフリーダム・ファイターが不可分に結び付いた総体をなしている。両者は軍事化とアル・カーイダ化が同時進行する中で、起源・イデーを別にしながら連続模様(スペクトラ)をなしていると言える。反体制派によってシリア政府の支配を脱した「解放区」には「地元評議会」を名乗る活動家が自治を守ると理解されてきた。こうした雑多な個人や組織の穏かなネットワークの中で2014年頃から欧米や日本のメディアが注目したのが「ホワイト・ヘルメット」という全国規模の組織である。「ホワイト・ヘルメット」の正式名を「民間防衛隊」と呼ぶ。ボランティア・チームに起源を持ち2016年までに8県で14のセンターを擁し、2850人の人命救助のボランティアが活動していた。そのボランティアにもシリアの友グループの影が見え隠れする。ホワイト・ヘルメット結成を主導したのは、ジェームス・ルムジュリアという英国人で、NATOや英国の情報部員」であった。欧米諸国の資金援助を得て2013年3月にトルコのイスタンブールでシリア人を教練し組織化したらしい。「アラビアのローレンス」のシリア版である。米英独日本政府は資金を提供した。欧米諸国の多様な支援を考えると、このホワイト・ヘルメットが対シリア干渉政策の一環と位置づけされる。ホワイト・ヘルメットはもはや中立ではなく、反体制派的な色彩を持っているのはやむを得ない。その活動地域は反体制派が制圧する「解放区」の限定されている。ホワイト・ヘルメットはヌスラ戦線とも緊密な関係を持っている。彼らもまた反体制派スペクトラの一員であろうか。「反体制派」の主流をなすイスラーム過激派には多くの外国人戦闘員が参加している。戦闘力がある師団は過激派であろうと民族派であろうと提携してアサド体制打倒に利用している(あるいはイスラーム原理運動にシリアが利用されている)というのが現実なら、アサド政権側も外国に依存している。その支援者はロシア、イランという国に限らず、非国家の政治軍事主体を含む。その一例がレバノンのヒズブッラーである。ヒズブッラーはレバノン国民議会に議席を持ち、様々な文化、福祉、医療、メディアと言った傘下団体を有している。対イスラエル武装部隊を持ちアサド政権と戦略的協力関係を築いてきた。レバノン政府はシリア内戦では不関与政策であるが、ヒズブッラーは最初から戦闘員をシリアに派遣し「反体制派」やイスラーム国と交戦した。シリアのアサド政権を支える外国人武装集団は、イランにはイラン革命防衛軍、レバノンのヒズブッラー、イラクのアッバース旅団、パレスチナの人民解放戦などであるが、その武装集団の数は総計1万7000人〜2万8000人と言われる。その数は「反体制派」の外国人戦闘員の数に匹敵する。シリア内戦は「国際問題化」の局面においてシリア国内の当事者間の対立を諸外国がハイジャックするだけでなく、「アル・カーイダ化」の局面では、アサド政権と「反体制派」の双方が、外国人戦闘員を呼び込み、彼らへの依存関係を強めることで混乱を増長させ、シリア人自身の力では収拾不可能なまでに事態を悪化させてしまった。

5) 「シリアの友」グループの干渉 「テロとの戦い」

2013年夏の化学兵器使用疑惑事件は米国のシリア政策に転換をもたらすものであった。しかしアサド政権の賢明な対応によって、もはや化学兵器使用問題はシリアの友グループ中でも米国による干渉の有力な手段では無くなり、逆にアサド政権にシリアにおける唯一の正統な代表としての存続理由を与えた。次の転換点となったのがシリア内戦の第5局面「アル・カイーダ化」による「テロとの戦い」であったと言える。シリアの友グループはアサド政権に代わる有力な「反体制派」を見つけることができなかった。そこでシリアの友グループは政権の打倒そのものを目指すのではなく、「反体制派」の育成から始め、反体制派の劣勢を打開する勢力バランスの変化をめざ明日という控えめな戦略をとった。この戦略を取らざるを得なかった理由のひとつが、2012年6月に国連主催で行われたジュネーブ会議である。この会議にはシリアの友グループから米国、英国、フランス、クウェート、トルコが参加し、これに対抗するロシア、中国、イラクが参加した。ジュネーブ合意はシリア内戦を平和的対話と交渉のみによって解決すると決め、軍事的な決着を否定した。そこでシリア政権側、反体制派、それ以外の組織によるメンバーから構成される移行期統治機構を当事者の創意でのもとで発足させるという政治移行プロセスの存続を是認した。国民対話による憲法改正投票によると定めた。この時点でアサド政権排除は放棄され、アサド政権の存続は既定路線となった。反体制派の育成はシリア国民連合の結成でこれを国民の唯一の代表にするという戦略であった。シリア国民連合の暫定内閣構想は有効に機能しないまま無力化した。米国がヌスラ戦線を外国テロ組織に指定したことで欧米諸国はイスラーム過激派を警戒をした。しかしイスラーム過激派の武力の前には弱体の「反体制派」は対抗できなかった。そこでシリアの友グループは「穏健な反体制派」として最初はシリア国民連合を後押しした。のちに過激派を除く武装集団である自由シリア軍を自称する「反体制派」を支援することになった。しかしイスラム過激派と共闘する自由シリア軍が穏健であるはずがなく、サウジアラビアはアル・カイーダ系譜の石ラーム過激派への支援に躊躇する一方、シリアムスリム軍の台頭を懸念しておもにイスラーム軍を支援した。ところがトルコ、カタールはイスラーム過激派(ヌスラ戦線ら)を積極支援した。このようにシリアの友グループ内でも認識や温度差は顕著でありとても一枚岩とはいえないし、対応もまちまちなのである。しかしシリアの友グループの反体制派支援は、アサド政権を退陣に追い込む軍事バランスの変化をもたらさなかった。それはアサド政権が強かったというよりも、シリアの友に対する反発からロシア、イラン、レバノンのヒズブッラーの後援の力が抵抗したというべきである。アサド政権の支配地域は縮小したままで、首都ダマスカス、アレッポ市、ラタキア市、ヒムス市、ハマー市など政治経済の中心地域だけを死守するに過ぎなかった。この膠着状態の打開のために考えられたのが2013年8月の化学兵器使用疑惑事件であった。それは米国とロシアのジュネーブ合意による政治秩序形成を促した。2014年1月国連主催でジュネーブU協議が行われた。

この会議には40カ国が参加し、アサド政権と反体制派が戦闘停止と政治プログラム開始に向けて直接討議を行う場であったが、最初から難航していた。その理由の第1は「反体制派」内での指導権争いにあった。もっとも鋭く対立したのはシリア国民連合と民主的変革諸勢力国民調整委員会であった。シリア国民連合は政権打倒を譲らなかった。アサド政政権との協議自体を拒否した。米国とロシアは「反体制派」に一本化を提案したが、ほとんどの反体制派が脱退して抵抗した。ヌスラ戦線、イスラーム国といったイスラーム過激派に対する「テロとの戦い」を和平協議に優先すべきだとするアサド政権と「反体制派」は鋭く対立した。結局ジュネーブU会議は、アサド政権の背氏的な優位を再確認しただけで、「反体制派」の渾沌ぶりに収拾がつきそうにないことを再確認した会議であった。ひとりPYDは会議期間中に移行期自治政府を樹立し「国家内国家」としての位置を強めた。ジュネーブU会議により、シリアの友グループの干渉政策はイスラーム国の台頭によって、政策変更を余儀なくされた。イスラーム国ISはヌスラ戦線と決別後、シリア内戦の主要な当事者として活発に活動した。2014年5月米国はISをイラク・アル・カイーダの別名として外国テロ組織に登録し制裁リストに追加した。しかしシリアの友グループは、アル・カイーダの系譜にある「反体制派」と同様に、ISの壊滅に向けて積極的に取り組むことはなく、アサド政権に牙をむく範囲において彼らの活動を黙認した。欧米諸国がISに対して警戒し始めたのは、2014年6月彼らがシリアからイラクに勢力を拡大し、モスル市を制圧してカリフ制樹立を宣言した後の事であった。イラクの石油が脅かされる恐れから米国はイスラーム国を「国際秩序最大の脅威」と見なし60ヶ国からなる有志連合を結成し、2014年9月にIS支配地域に対する空爆を開始した。ここに米国を中心とした「テロとの戦い」というパラダイムシフトを行った。この政策変更は米国およびシリアの友グループの混乱を招いた。これまで行ってきた「穏健な反体制派」支援政策に分裂がおき、ISと闘う武装集団に対する支援を積極化することになった。分かちがたいイスラム過激派の組織を含む「穏健な反体制派」という存在が明確に存在するのかどうかも怪しい混沌とした状況で、一体どういう基準で誰を支援し、かつ誰を攻撃するのか極めて怪しい多重基準(つまりご都合主義・恣意的選択)にならざるを得なかった。これはいわゆるマッチポンプ(火つけと火消しが同一人物によって交互に行われる)になる。2015年1月有志連合はトルコにおいて、ISと戦う地上部隊の訓練を行った。しかし訓練兵士が逃亡したり、師団ごとISに寝返ったりするため、10月にはこの育成プログラムは廃止された。これらの「穏健な反体制派」も組織的にはイスラーム過激派と共闘を持っていたのである。米国が支援した組織が実はイスラーム過激派部隊であったのだ。シリアの友グループ員であるトルコとサウジアラビアにとって「テロとの戦い」は欧米諸国のイメージする通りにはならなかった。トルコはクルド人対策においてクルディスタン労働者党PKKをテロ組織と見なし、ISをPKK対策の防波堤にしていた。イスラーム国を利用してクルド人組織を弾圧してきたのである。トルコが排除しようとするテロ組織はイスラーム国ではなかった。トルコの地政学では、ユーフラテス川東岸とアレッポ県のアフリーン市一帯に分かれるロジャヴァの支配地域を隔てるための安全地帯を確保することであった。サウジアラビアも2015年以降にわかにトルコに接近し、それまで躊躇していたヌスラ戦線、シャーム自由人イスラーム戦線などのイスラム過激派全般への支援で連携することに合意した。この「反体制派」の再編成で3月にアル・カイーダの系譜にあるファトフ軍が結成され、シリア内においてイドリブ県に支配地を確保し、イスラーム過激派と連携して勢力を拡大した。このためシリア軍はイスラーム国ISによってヒムス東岸から撤退した。イスラーム過激派と「穏健な反体制派」が共生する「反体制派」スペクトラのなかで、イスラーム国と対立する「反体制派」などは存在しない。米国はISと闘うといいながら、ISを拡大再生産しているようにも見える。

6) 真の「ゲーム・チェンジャー」

2015年9月30日、4年半をへたシリア内戦に大きな影響を及ぼす、駐留ロシア軍によるシリア領内での空爆が始まった。米国による空爆もロシアによる空爆も問題の国際化(外国軍の干渉)なのだが、ロシアの空爆の方がいかにも当を得た効果を上げた。ロシアがゲーム・チェンジャーとして躍り出たのである。ロシアは当初からアサド政権側について外交、経済、軍事面の支援を行ってきた。ロシアの空爆を導いたのは、2015年3月ファトウ軍によるイドリア県制圧に見られる、トルコ、サウジアラビアの「反体制派」への支援の連携強化によるアサド政権の疲弊であった。もう一つの要因はシリアからEU諸国への難民の流入であった。シリアの移民・難民問題はイスラーム国の圧迫によるものであるが、難民に紛れてテロが全世界に波及するのではという、欧州諸国にとって肉薄した脅威となった。有志連合によるシリア空爆は実質的には米国単独によるものであったが、2015年8月には英国が、そして9月にはフランスとオーストラリアが空爆に踏み切った。人権尊重の姿勢からシリア移民・難民の受け入れを表明し、EU領内には40万人の難民が流入した。2015年11月フランスパリで多発テロが発生し死者130人、負傷者300人以上を出した。イスラーム国に戦闘員として参加しているベルギー人らによる犯行で、欧米諸国はイスラーム国のテロ拡散への警戒を強めたが、12月には米国カルフォニアで、英国ロンドンの地下鉄でテロが起きた。東ヨーロッパ諸国は国境を封鎖し、2016年3月にはEUとトルコの間で難民をトルコに強制送還する協定を結んだ。欧米諸国は移民・難民の流入とテロ拡散という二重の問題に直面するなかで、「人権」よりも「テロとの戦い」の軸足を置くようになった。にもかかわらず有志連合の空爆回数は限定的で2016年になると空爆は影を薄めた。ロシアの空爆の密度は有志連合に比べるとけた違いであった。戦闘機の出撃は1日30回から60回になり、シリア全土に及んだ。空爆対象はイスラーム国だけでなく、ヌスラ戦線、その他イスラーム過激派、「穏健な反体制派」を含むすべての「反体制派」が標的であった。それに対して有志連合の空爆は1日5回程度であった。ロシアの空爆に呼応するようにイランはもアサド政権への軍事支援を強化し、外国人地上戦民兵を増派した。レバノンのヒズブッラーもこれに同調して兵を増派した。パリテロ事件の4日後、ロシアのプーチン大統領はロシア領内から長距離爆撃機によるシリア領内の空爆、そしてロシア海軍潜水艦から巡航ミサイルを過激派拠点に127回の攻撃を行った。一日で522回の攻撃で826カ所の拠点を破壊した。欧米諸国はロシアの攻撃は「反体制派」や民間人を標的にしていると非難したが、有志連合がこれまで「穏健な反体制派」というイスラム過激派を援助してきた実績からすると、力のない批判であった。そしてロシアの空爆は国際法上正統性を有するアサド政権の要請に基づいていたので誰も文句のつけようがなかった。むしろ有志連合の空爆はシリア側の正統な代表の要請に基づかない主権侵害侵略行為であったというべきである。「穏健な反体制派」というわけのわからない組織に対する欧米諸国の援助は「テロとの戦い」において実効性を持たなかった。米国およびフランスは11月半ば、ロシア領内での空爆に対する連絡態勢の構築に合意した。これによってロシアは空爆の承認とフリーハンドを得たことになった。このロシアの空爆の受益者は言うまでもなくアサド政権であった。ロシア軍の制空権の下で、シリア軍はイアスラーム過激派やイスラーム国の拠点を奪還していった。イスラム過激派の退潮で力を得たのは、アサド政権だけでなくクルディスタン移行期民生局ロジャヴァを主導する民主統一党PYDが米国の協力関係を得て勢力を伸ばした。米国はロジャヴァの人民防衛隊YPGに軍事支援をおこなった。こうしてシリア内戦で対立していた当事者であるロシア、米国、イラン、アサド政権とPYDの奇妙な呉越同線が生じ、シリア軍とシリア民主軍は戦況を有利進めていった。「反体制派」は重要拠点を次々と失った。この状況で大きな敗北を喫したに¥のは「反体制派」を援助するトルコであった。ロシアが制空権を握るトルコ国境地帯でシリア軍とシリア民主軍が勢力を伸ばした。2015年5月トルコ軍戦闘機がロシア軍戦闘機を撃墜する事件が起きた。トルコは国境侵犯を主張したが、ロシアはトルコがイスラーム国と協力関係にあると主張し、石油を密輸するタンクローリが国境を通過する写真を公開して反論した。欧米諸国はNATO同盟国であるトルコに対して冷たい対応をとり、トルコ・サウジアラビアが支援してきた「反体制派」の優位は失われた。

新たな軍事バランスと「当事者間の関係に大きな変化が生じた結果、2014年のジュネーブU会議をやり直そうとする機運が高まり、2015年11月国際シリア支援グループISSGは3回目の紛争解決案に合意した。@紛争解決に向けた移行プロセスを停戦プロセスと同時並行で進める。A両プロセスからテロ組織(国連指定リストによる)を除外し「テロとの戦い」を通じてその殲滅を目指すという二点を基本原則とした。アサド政権と「反体制派」による和平会議を行い、半年後をめどに停戦し、移行統治機関を設ける。協議開始から18か月以内に新憲法を制定し、選挙を実施、紛争を終結させると定められた。この合意は12月18日国連安保理議決を経て国際承認された。共同議長国である米国とロシアは、2016年2月シリア国内で停戦合意を交わし発効した。しかし相変わらず「反体制派」のスペクトラが合意の大きな障害となった。とりわけイスラーム過激派とロジャヴァを主導するPYDの処遇を巡ってISSG各国の意見はかみ合わなかった。トルコとサウジアラビアはイスラム過激派を「反体制派」に参画させようとし、またPYDをテロ組織だと断じて譲らなかった。米国はPYDの協議参加を拒否せずロシアに同調した。かくしてシリア国内では停戦合意は有名無実化し戦闘は再開された。シリア国内ではシリア政府軍と「反体制派」との戦闘が激化し、2016年4月半ば和平協議から「反体制派」が離脱したことは、ロシア軍とシリア軍の攻撃強化の攻撃強化の口実となった。時局は確実にシリア軍とアサド政権に有利に進んだ。シャーム自由人イスラーム運動や、イスラーム軍がヌスラ戦線や「穏健な反体制派」と共に戦闘を再開すると、アサド政権とロシアはこれを停戦違反として非難し、軍事的圧力を強めた。2016年9月、アサド政権はシリア最大の経済都市アレッポ市の完全制圧を目指し、同市東部を完全包囲した。この結果、窮地に追い込まれたヌスラ戦線と「穏健な反体制派」は公然と共闘するようになった。ヌスラ戦線はアル・カイーダとの関係を解消し、組織名を「シャーム・ファトウ戦線」と改称して、一段と暴力性を強化した。この組織変更は「反体制派」のスペクトラを一段と混濁させ、「反体制派」はその後も離合集散を繰り返している。イスラーム過激派と「穏健な反体制派」は混然一体化し、その峻別は完全に意味をなさなくなった。米国オバマ大統領は2016年9月12日ロシアと「テロとの戦い」と停戦に関する合意を行った。@イスラーム国、ファトフ戦線などアル・カイーダとつながりのあるテロ組織と停戦の適用対象となる「穏健な反体制派」を米国が峻別する。Aシリア軍と「穏健な反体制派」との戦闘を7日間停止し、B米国とロシアの合同で対テロ軍事作戦をおこなう。というものである。これにより米国はテロ組織と「穏健な反体制派」の峻別というできない相談を引き受けてしまったことがオバマ大統領の致命的な失敗であった。米国とロシアの協調関係は最終的に9月18日、有志連合がイスラム国と戦闘を続けているシリア軍を誤爆したことで破たんした。アサド政権は2月の停戦合意が失効したと発表し、再び攻撃の手を強めた。その内に、トルコと米国の間に不協和音が聞こえるようになり、トルコは米国にシリア民主軍を主導するYPGえをユーフラテス川東に移動させるよう要請したが、米国は西進を支援した。また7月のトルコ軍事クーデターの容疑者が米国に逃亡したので引き渡しを要求したが。オバマ大統領はこれを拒否したことが重なり、トルコは次第に米国から離れロシアに接近した。トルコとロシアの緊張関係は爆撃機撃墜事件で最高潮に達していたが、トルコのエルドアン大統領は2016年6月下旬爆撃機撃墜事件でロシアプーチン大統領に謝罪し関係改善に踏み出した。8月下旬トルコ領内で訓練を受けた反体制派はトルコ軍と共にジャラーブルス市に進攻し安全地帯を占領した。ロシアとアサド政権はトルコによる安全地帯の占領を黙認し、その見返りにトルコは11月から始まったロシア・シリア軍の制圧攻撃において「反体制派」の支援を控え、「反体制派」を見捨てた。1か月の戦闘の末シリア軍はアレッポ市東部の全域を制圧した。こうした交渉において米国は蚊帳の外におかれた。オバマ政権の任期終了のタイミングを狙った奇策であった。ロシアとトルコはその後、アサド政権と「反体制派」を停戦させ和平協議を行うことに合意した。2016年12月この合意に沿てシリアで停戦が発効し、国連は安保理決議で両国のイニシャティブを支持した。2016年1月にはロシアとトルコは合同空爆を開始しイスラーム国の拠点バーブ市への正面作戦を行い、シリア軍は東南部を制圧した。こうしてイスラーム国は、ロシア、トルコ、シリア軍、シリア民主軍、米国主導の有志連合の攻勢の前に後退を余儀なくされた。イスラーム国の支配地域はシリアだけでなくイラクでも縮小した。米国トランプ大統領は「関与すべきでない外国政権の打倒に奔走するのはやめる」という宣言はアサド政権にとって追い風になった。内戦であったはずのシリア内戦の混乱を再生産しているのは、シリアにとって異質な外国勢である。



読書ノート・文芸散歩に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system