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小熊英二・高賛侑・高秀美編 「在日二世の記憶」 
集英社新書(2016年11月)

戦後日本社会で差別とアイデンティティに苦しんで生きた在日二世の活躍のオーラルヒストリー

「在日一世の記憶」の編者は、小熊英二氏と姜尚中氏であった。「在日二世の記憶」の編者は、小熊英二氏と高賛侑氏、高秀美氏である。著者の略式紹介を本書巻末から行う。小熊英二氏は1962年生まれ、慶応義塾大学教授で歴史社会学者である。「民主と愛国」、「1968」、「生きて帰った男」の著書がある。高賛侑氏は1947年生まれ、ノンフィクション作家である。「アメリカ・コリアンタウン」、「コリアのチャンピオン」、「ルポ 在日外国人」の著書がある。高秀美は1954年生まれ、ライター・編集者である。在日朝鮮人の記録を残す仕事に携わる。「韓国併合100年の現在」の著書がある。「在日一世の記憶」から本書「在日二世の記憶」出版の経緯をたどってみる。第1作の「在日一世の記憶」が出版されたのは2008年のことでした。集英社の編集事務局と小熊英二氏と高賛侑氏・高秀美氏の間で話し合いが持たれ、2010年秋にライターたちの間でテーマと聴き取り候補者の人選について会議が行われた。2011年3月に東日本大震災と東電福島第1原発事故が起こり、作業は停滞した。取材候補者は第1作と同じように50名をめどに、2011年7月ライターへの取材依頼書が発信された。2014年に入って原稿が入るようになり、2014年4月より集英社ホームページに原稿が入った順にウエブ掲載が始まった。2016年10月31日までウエブ掲載は続いた。その間2015年12月に末書籍化の打ち合わせが行われた。編者は小熊英二氏と高賛侑氏、高秀美氏の3名となった。3・11大震災後の社会の激変に振りまわされ、書籍出版というビジネスモデル自体が揺らぐ中で、あしかけ6年にわたる編集作業は完成し、2016年11月に「在日二世の記憶」出版の運びとなった。在日の内容について第1作と第2作には大きな差異が見られる。一世は強制連行とか強制徴用、そして日本の植民地時代のいう背景を重く引きずってきたという内容が主流であったが、二世の場合はそれを引き継ぎつつ、新たな分野を開拓したという人が比較的多い。抑圧状態から出口を求めだした世代であるということだ。これを高賛侑氏は「在日のパイオニア」と呼ぶ。ステレオタイプ化された在日朝鮮人像を打ち壊して、個人のドラマを見るようで人に訴えるものがある。在日という存在の原点は二世のあり、一世はあくまで朝鮮人であって、「在日」ではなかった。日本の敗戦後解放された朝鮮人は、分断された祖国の北朝鮮共和国へ、韓国へと戻った。ところが戻れなかった人々とその子供たちが「在日」を構成した。歴史の証人として一世の経験というものは、「在日」というよりは「戦後に日本に残った朝鮮人」の経験です。今使われている「在日」という存在は二世から始まるのです。一世の聴き取りは戦争を挟んだオーラルヒストリーです。二世の経験は戦後日本社会の動向を反映しています。二世の特徴は、一世の北系(総連)、南系(民団)の対立軸とは関係なく、残った「一世の子ども」という共通項しかありません。そうして彼らの経験は日本社会の周辺に置かれたマイノリティたちの歴史です。彼らは就職と言っても大会社の正規社員や官僚には縁がなく、自営業か芸能、スポーツ、芸術といった領域しかありません。つまり「履歴書の要らない職業」でした。この立場はアメリカのユダヤ人の地位と似ています。典型的なマイノリティです。本書の収められた二世の経験は、自分の世界を作ったパイオニアか、民族運動をやった人の歴史です。二世が生きた戦後の歴史は、各人の生き方ていろいろに分かれます。まず全体としては日本の高度経済成長がありました。その中でチャンスをつかんだ人、テレビの普及によって芸能界やスポーツ界の隆盛に乗った人もいた。このような時代が90年代まで続いた。もうひとつは民族団体及び本国とのかかわり方です。この民族団体の歴史では、60年代の初めぐらいまでは一世の指導下にあり、激しい闘争の時代であった。総連や民団といった民族団体の幕開けから分裂までの経緯は一世の歴史です。しかし60年代後半からは二世の時代になります。二世は60年代末からの全共闘による日本の学生運動の影響を受けた人が多い。二世と言っても日本社会で生きる限り、在日の運動も影響を多分に受けている。金大中救援運動、韓統連となって表れている。意外なのは1980年代の「指紋押捺問題」が彼らの生活に影響していないことです。日本社会が国際化する際の日本の問題だったようです。在日二世として本書に掲載されている人たちの生年は1932年から1967年です。その幅は35年もあり、つまり一世代の長さに相当します。その人たちが青年期から老年期にかけて、自分の生活を切り開いた歴史なのです。在日二世の若者が大学に入っても教職員から就職は保証できないと言われるときに、彼らの苦悩と努力が始まるのです。その時に日本社会には差別は当然視(既成ルール視)する日本人と社会があったという事です。植民地時代から今日に至る在日の差別状況に対しては無知で、歴史を知らない日本人が多すぎたのです。

編集上の問題として、これはアンケートの統計と同じで何人ぐらいをインタビューすれば全体像が得られるかという宿命的課題があります。「在日一世の記憶」では最低50人ぐらいを収録したいという方針で進んだという。しかし「在日二世の記憶」ではこれは非常に難しかった。二世の生活様式が多様化していることです。一つの年の幅が35年とも違うことです。そして話として成り立つのは成功した一握りの人に過ぎない事です。成功する方が例外的であって、すると本書は例外集になってしまうのです。全体像とは数の上でかけ離れているのです。しかし最初置かれた状況は同じで、歩んだ道が違うだけなので、全体は推し量ることができると考えたようです。人生の近似値が取れると考えることはやめましょう。それほど多様化しているのです。ステレオタイプ化した人生ほど詰まらない物はない。在日二世だけを考えても、一つはそういう運命に抗い自分で道を切り開こうとした人々、もう一つはこういう差別社会だから如何にしてそこに適応してゆくかという生き方を選んだ人々で大きく分かれます。差別を避けるため、出自を隠す人、日本国籍を取得する人が非常に多かった。しかし出自を隠す人々は階層的に上昇することは難しかった。そういう人は「履歴書の要らない職業」にしかつけなかったのです。日本社会に埋没した人(日本人になった人)は階層的に上に行けたかというと、そうは簡単ではなかった。その状況は日本人とて同じで、誰もが裕福で文化的な中間層になるのは非常に難しい。在日の場合は更に人間的な何かを失ってしまうのです。これを「見えなくなった在日」と呼びます。在日二世が小学生だったころ、4.24阪神教育闘争を経験している。民族教育を受ける場がなくなって、日本の学校に通わざるを得なくなった人、帰国してしまった人、すなわち本書に出てこない「在日ではなくなった人」、そういう二世時代の人たちの事も含めて把握しなければならない。日本社会における在日二世の問題はアメリカの黒人の公民権運動から学ぶべきところが多い。韓国人の歴史は黒人の歩んできた歴史は基本的に同じなのです。黒人が公民権運動に立ちあがったのはやはり歴史を学んだからと言えます。在日二世が朝鮮人を嫌になることがあるが、それは自分の民族の歴史を学んでいないからです。50年、60年代に在日二世が経験したことは、今急増する在日外国人が経験していることと同じです。彼らがは本当のマイノリティです。例えばベトナムのポートピープルとして、死の危険を冒してやってきた人々は関西圏で600人ぐらいだそうです。いま日本には200万人を超す在日外国人がいます。在日コリアンの経験は我々日本人が解決できなかったため、今の在日外国人が同じ経験をしているのです。日本の植民地支配からの歴史があって、在日コリアンの問題は現在に至っています。在日韓国・朝鮮人については歴史を踏まえた正当な権利を与えるべき(特権ではありません。日本人と同じ正当な権利です)です。他の外国人の権利の権利を守るために自分たちは何をしなければならないかということは、同時に自分たちの権利を守り向上させることにつながります。1.17阪神淡路大震災(95年)が起った時、神戸にある外国人学校が軒並みに大損害を受けました。その時朝鮮学校が呼び掛けて兵庫県外国人学校協議会が結成され、貝原兵庫県知事を動かして教育助成金制度が外国人学校に適用されました。それなのに高校無償化の問題から朝鮮学校を除外するという差別政策を政府が設けようとしました。在日二世の時代には言語と国籍(本名か通名かを含めて)に非常にこだわった。文化や生活様式としては在日の核になるものを二世以降は持っていないので、法的権利とほぼ同じレベルで歴史に関する活動が重要になります。二世の世代とは日本でいうと「団塊の世代」に相当します。ですから今二世世代は高齢化しています。在日二世の軌跡は日本社会の鏡であると言えます。日本人はヘイトスピーチに的確に論破する論理を勉強していません。正しい歴史の基礎知識がないので日本人の情緒的雰囲気に流されやすい弱点があります。一人の人間を差別する人間は、かならずほかの人間をもあらゆる口実を使って差別します。だから在日朝鮮人を差別する人間は身体障がい者差別、女性差別、移民差別、難民差別、あらゆる差別をするでしょう。しかしアメリカのように黒人差別が過ちであったと認識した時から大きく社会が変わりました。だから朝鮮人差別が過ちだとということが認識されれば、他の差別も大きく変わるとおもわれます。近年、世界中で政治の右傾化や排斥運動が充満しています。この歴史の逆流にはきちんと対応しなければなりません。

私はこれまで在日朝鮮人の問題に関する書物として次の4冊を読んだ。これらの書の概要を下に示す。各書は相互に関連し、同じ内容も多い。
@ 水野直樹・文京洙 著 「在日朝鮮人―歴史と現在」(岩波新書 2015年1月)
A 外村大 著 「朝鮮人強制連行」 岩波新書(2012年3月)
B 小熊英二・姜尚中 編 「在日一世の記憶」 集英社新書(2008年10月)
C 金賛汀 著 「朝鮮総連」 新潮新書(2004年5月)
1910年の韓国併合からすでに100年以上が経過し、2015年は第2次世界大戦における日本の敗戦によって朝鮮が植民地から解放されて70年、日韓の国交正常化が決められた日韓基本条約から50年という節目の年である。いまなお日本と南北朝鮮の問題は少なくない。政府高官の靖国神社参拝問題などの歴史認識に関して、現在日韓・日中の近隣諸国間の関係は悪化したままである。これには敗戦という悪夢から解放されたいという自民党保守派安倍政権になって右傾化が著しい政治情勢が影響していることは明白である。ほかにも従軍慰安婦問題、竹島帰属問題など日朝の政治問題はあいまいなまま放置されている。いま日韓関係は国交正常化以来最悪ともいえる状況にある。大阪での「在日特権の廃止を求める会」のヘイトスピーチは、醜悪な差別主義者、ネット右翼の横行の証左である。このような無理解や偏見が日本政府の右傾化と密接に関係していることは明白な事実である。どの先進国でも植民地支配のマイナスの遺産として、植民地の移住民を大量に抱え込んでいる。多民族国家に日本もなりつつある昨今、在日朝鮮人という言葉の持つ偏見と差別観を捨てるべき時期にあるといえる。そこでこれらの書物を総括して在日朝鮮人問題を多角的に整理しておこう。
@ 水野直樹・文京洙 著 「在日朝鮮人―歴史と現在」(岩波新書 2015年1月)
1910年の韓国併合からすでに100年以上が経過し、2015年は第2次世界大戦における日本の敗戦によって朝鮮が植民地から解放されて70年、日韓の国交正常化が決められた日韓基本条約から50年という節目の年である。いまなお日本と南北朝鮮の問題は少なくない。政府高官の靖国神社参拝問題などの歴史認識に関して、現在日韓・日中の近隣諸国間の関係は悪化したままである。これには敗戦という悪夢から解放されたいという自民党保守派安倍政権になって右傾化が著しい政治情勢が影響していることは明白である。ほかにも従軍慰安婦問題、竹島帰属問題など日朝の政治問題はあいまいなまま放置されている。いま日韓関係は国交正常化以来最悪ともいえる状況にある。大阪での「在日特権の廃止を求める会」のヘイトスピーチは、醜悪な差別主義者、ネット右翼の横行の証左である。このような無理解や偏見が日本政府の右傾化と密接に関係していることは明白な事実である。どの先進国でも植民地支配のマイナスの遺産として、植民地の移住民を大量に抱え込んでいる。本書は水野直樹と文京洙の二人で執筆されているので、分担を示すと前半第1章と第2章は戦前(植民地時代)の在日朝鮮人社会の形成のことを、戦争動員した日本側より描いたもので、水野直樹氏が執筆した。後半は戦後から現在までの第3章、第4章と終章を、在日朝鮮人側より描いたもので、文京洙氏が執筆した。高度経済成長期は人の移動が大規模に行われ、底辺で支える大量の移民労働者の存在を抜きにしては語れない。工業化は人々を大都市に集中させ、欧米では多かれ少なかれ異質なエスティック文化の坩堝となった。日本では農村から都市に移った人はおよそ1千万人といわれる。集団主義、家族主義、法人主義が日本資本主義の特徴であるかのように言われるが、1960年代から日本社会は大きな変質の時代に入っている。企業における大企業と中小企業、男性労働と女性労働、正社員と非正規社員という格差が広がっていった。在日朝鮮人は地域社会の異質的扱いを受けていた。日本の均質社会という幻想は在日朝鮮人を同化か異化かという2者択一問題としてしか意識しないという閉鎖社会を生んだ。ところが急激な円高、東南アジアの工業化、巨大な労働プールの出現によって、日本でも外国人労働者の大量受け入れが急速に進んだ。日本での在留外国人は1993年に132万人で2013年には206万人となり、2013年での内訳は朝鮮人52万人、中国人65万人、ブラジル人18万人、フィリッピン人21万人であった。日本社会は次第に多民族。多文化社会の様相を深めている。かって第1位は朝鮮人であったが次第に減少し(日本への帰化による)、いまや中国人がトップになった。
A 外村大 著 「朝鮮人強制連行」 岩波新書(2012年3月)
は戦前の植民地時代の朝鮮人労働力動員計画の全容を明らかにしている。日本の朝鮮植民地支配は、1906年日本が李朝朝鮮の外交権を奪い保護国化して、伊藤博文が初代韓国統監として赴任したことに始まる。さまざまな苦痛を与えたことについては、1995年8月15日村山首相は談話でつぎのような反省と謝罪の辞を述べた。「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、おおくの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ちなからしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらめて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念をささげます。」 まず日本の朝鮮植民地化の歴史を認めることからスタートする。ここでも「日本は朝鮮を併合してはいない。朝鮮が条約で日本の庇護下に入ってきたのである」とシラをきるような意見をいう人もいるが、それは無視しよう。武力を背景とした併合条約をむすんだことは確実だから。なかでも第2次世界大戦中の内地へ朝鮮人を送る労務動員政策は食糧供出と並んで民衆を苦しめた。戦時下に朝鮮や中国からつれてきた人々を日本内地の炭鉱や基地作りの土木作業で酷使したという話をここでは「朝鮮人強制連行」という。それが本人の意思に反して行なわれたか、暴力を伴ったかについて本書が答えるのである。なぜ労務動員が朝鮮人に対しては人権侵害を伴ったのか、政府政府および朝鮮総督府は戦争遂行のための生産力増強にはならなかった政策を無理やり実行したのかということを1939年から1945年という戦時下の状況から見て行こう。 「朝鮮人強制連行」が行なわれた背景には、日中戦争以降の日本人男性の労働力不足があったこと、労働者の動員は日本政府が1939年以来敗戦まで毎年策定した計画に基づいておこなわれたこと、権力的(暴力的)な要員確保が行なわれたである。。「朝鮮人強制連行」問題は日本の総力戦の一環の中で行なわれた。朝鮮労働者には軍需物質生産の鍵を握る石炭の採掘や軍事基地の建設という重要任務を割り当てられた。中国人や台湾人への植民地対策とも歴史的・距離的に異なるのである。 日本政府厚生省の労務動員政策はあくまで戦争勝利に向けての合理的(計算上の)労働力配置計画であって、文献上は植民地虐待の事実は見えてこない。しかし朝鮮の実情を無視した机上の計算のつじつま合わせでは、生産性が上がるどころか様々な軋轢や生産性の低下をもたらし行政的にも失敗であった。労働市場における外国人労働者の問題は、社会的なセキュリティとは別に、つねに国内労働市場への外的因子となり企業にとっては労働生産性の低下や労働側にとって配分低下(低賃金)となっている。これは古くて新しい現代的課題である。1945年の日本人口7000万人に対して、在日朝鮮人数は200万人であった。
B 小熊英二・姜尚中 編 「在日一世の記憶」 集英社新書(2008年10月)
日本に移住した在日一世の戦後の苦労をインタビュー形式で記録した分厚い本である。本書の冒頭に、東大教授で在日二世の姜尚中氏の格調高い序文が添えられている。姜尚中氏は企画段階で本書に参画したようであるが、実務はしておられない。しかし集英社文庫に「在日」という名著があり、自身の在日経験が語られている。本書の序は歴史家マルク・ブロックの言葉「現在の無知は運命的に過去の無知から生まれている。逆に過去を知るにも始めに精神がなければ何も見えてこない」で始まる。現在の在日の姿を知らなければ、日韓歴史問題や外交問題という高度に抽象的な問題は何も見えない。在日はマイノリティとして「歴史のあぶく」みたいな存在なのか。いやそうではない。歴史の真実は細部に宿るというように、朝鮮と日本をまたぐ在日一世の生涯には、20世紀極東アジアの「異常な時代」の陰影がしっかりと刻み込まれているのである。インタビューされた在日一世の方々の発言には、共通した事件と歴史的事実が必ず出てくる。そういった事件を契機として在日一世の運命が振舞わされた。
C 金賛汀 著 「朝鮮総連」 新潮新書(2004年5月)
戦後の在日朝鮮人を指導した北朝鮮系の組織(韓国系は民団という組織)であるが、帰国事業を成功させ、北朝鮮の金日成体制の忠実な奉仕者となった全盛時代から、長銀破綻で没落してゆく経過を描いている。朝鮮銀行と朝鮮総連はいわば一体化した北朝鮮政府の政治経済機関であり、金正日軍事独裁国家北朝鮮の謀略と経済破綻した北朝鮮への送金を担当する機関であった。朝鮮戦争で労働力を失った北朝鮮政府は在日朝鮮人の帰国運動を国際赤十字を通じて働きかけ、1959年日本政府と合意に到った。「地上の楽園」と朝鮮総連は在日同胞に帰国建国を働きかけ、実情を知らない人々はこれに乗って1984年までに93000人が帰還した。しかし北朝鮮の実態と生活の惨状を見た帰還者からの手紙などで、早や1962年から帰還者は激減した。1963年ごろには、朝鮮総連は韓徳銖、金炳植らが組織を私物化して、北朝鮮への従属を強めていった。北朝鮮の直接的指導は新潟港に入港する「万景峰号」船内で行われていた。1967年ごろまで朝鮮総連を支配していた思想は共産主義思想であったが、1967年6月労働党中央委員会で主体思想(チュチュ思想)を党の唯一思想体系とし、朝鮮総連の指導もチュチュ思想学習に変わった。チュチュ思想は理論的というに価しない「金日成の命令は絶対だ」ということである。朝鮮信用組合は在日商工人の相互扶助組合として発展してきた。1955年ごろから設立され1990年には日本全国で38組合176店舗、預金総額約2兆円の巨大信用組合に成長した。本の敗戦後150万人が南に帰還した。北へは北朝鮮帰還運動で10万人が帰還した。その後日本の高度経済成長と日韓条約締結によって在日社会の生活レベルは上がり、永い間日本で生活した人々にとって生活習慣や、意識の極端な相違から帰国しても生活できないことを実感させた。又総連の民族教育の眼目である金日成親子へ忠誠を誓う教育は世界の民主主義や基本的人権運動にも背を向けた教育であり、在日の人々は朝鮮総連系民族学校へ子女を送らなくなった。1975年には約3万人いた学生数も2004年には1万人を切るまでになった。


「在日二世 50人の記憶」  要約


参考のため、小熊英二・姜尚中 編 「在日一世の記憶」 集英社新書より、在日1世と在日二世が体験した歴史を下に年譜としてまとめる。
1909年10月 朝鮮の民族主義者安重根が韓国統監府初代統監(暗殺当時枢密院議長)伊藤博文を暗殺した。
1910年8月  韓国併合  日本人による土地収用・徴発をのがれ、多数の朝鮮人は生活のため、あるいは炭鉱・軍需産業などへの強制連行・徴用などによって日本へ移住する 日本政府は朝鮮人のハングル語使用禁止 皇民化政策により朝鮮民族抹消を図る
1945年8月  日本は太平洋戦争で連合軍に降服  終戦時に在日朝鮮人は二百数十万人に達していた。
1945年10月 在日朝鮮人連盟(朝連)が結成され、速やかな帰国活動を行う。全国に国語講習所を設置して民族教育事業を開始した。
1945年11月 左翼的な朝連メンバーは朝鮮建国促進青年同盟を発足させた。
1946年10月 在日朝鮮居留民団結成 同年12月日本駐留連合軍は朝鮮人の帰国事業は終了とした。日本に残留していた50数万人の朝鮮人は在日として生きる運命となった。
1947年5月  外国人登録令が公布され、朝鮮人への管理政策に転換した。
1948年1月  GHQの指示で文部省は朝鮮人学校の閉鎖令をだした。 同年4月「4.24阪神教育闘争」で死亡者が出た。 国連が朝鮮南半分だけの単独選挙を実施すると発表。全国で反対闘争がおきたが、済州島では共産党による武装蜂起(4.3事件)がおき鎮圧で多くの島民が虐殺された。同年8月南に大韓民国樹立、9月北に朝鮮民主主義人民共和国が樹立され南北分断が固定された。在日大韓民国居留民団(民団)結成
1949年9月 日本政府は朝連を解散、10月には学校閉鎖令を出した。
1950年6月 朝鮮戦争勃発 在日朝鮮人統一民主戦線(民戦)が結成され、日本共産党の指導の下で過激な革命闘争を展開した。 
1951年9月 日本はサンフランシスコ講和条約により独立した。朝鮮人の法的地位は「日本国籍を離脱するもの」とし差別的な管理体制を強化した。
1953年7月 朝鮮戦争休戦 38度線が固定された。
1955年5月 民戦が解散し、朝鮮総連が結成された。総連は北朝鮮支持、祖国統一、民族教育をスローガンとした。
1959年   日朝赤十字の調印に基づいて北朝鮮への帰国事業が開始された。(1984年までの帰国者は9万3340人)
1965年10月 日韓条約締結 韓国を朝鮮唯一の合法政府とし、韓国へ補償が実施された。
1970年   日立製作所就職差別問題で裁判闘争(74年勝訴する)
1980年   指紋押捺拒否運動起る(1999年 すべての外国人に対する指紋押捺義務の廃止になった)
1981年   「出入国管理および難民認定法」の改正により在日外国人に対する差別制度が大幅に改善された。しかし地方参政権運動、公務員採用問題、民族教育権の問題については未解決である。
1995年   従軍慰安婦賠償訴訟が起きたので、日本政府は「女性のためのアジア平和国民基金」を設立し実質上の賠償に応じた。、韓国併合・強制連行論争・従軍慰安婦論争などに見られるような南北朝鮮への日本による植民地統治についての歴史認識について、閣僚の靖国神社参拝問題と教科書問題に対する韓国政府(盧武鉉大統領)の抗議が続いた。

1) 「共生のこの地にコリア文化博物館の実現を」 申英愛 女 1932年生まれ

書画家、雅号は暁風、福岡県北九州市で書画家の父の7人兄弟の3番目に生まれる。父母共に朝鮮人であったが、父は単身日本に移り三高で勉強したという。幼いころから父から書画を学ぶ。日本の敗戦で朝鮮は解放されたが、直ちに南北に分断され、北朝鮮はソ連の支配下の共産圏国家に、南はアメリカの支配下で韓国として独立した。敗戦で韓国に帰るつもりで送った家財が届かなかったのでやむなく日本に残留することになった。福岡県律筑豊高等学校を経て法政大学日本文学科に入学したが、肺の病気で休学そして中退となった。茨城県桜川市羽黒で療養し、北九州の父の家へ帰った。1960年父の反対にもかかわらず、母と兄弟5人が北朝鮮へ帰国した。その母は1972年72歳で他界した。一度だけ北にいる母を訪問したころがある。同胞の人と結婚したが離婚し3人の子供を育てた。42歳の時書道教室を始めた。同人雑誌に短歌を投稿していたが、1980年光州事件が起こり、韓国軍事政権から激しい弾圧を受け多くの人が共産主義者と呼ばれて虐殺された。その時から短歌の作風が変わり、民族的内容を帯びるようになったという。高麗書芸研究会副会長として1990年より「高麗博物館」を作る運動に加わった。2000年新宿区大久保のビルにワンフロワーの「高麗博物館」がオープンした。在日の方の朝鮮文化財を集めて「コリア文化博物館」を作ることが夢である。

2) 「宝塚で外国人市民の共生めざして」 金禮坤 男 1933年生まれ

兵庫県宝塚市で生まれた。父は19才で日本に移住し、荒神川改修工事そして1923年の武庫川改修工事に労働者として加わり、ほぼ朝鮮人労務者だけで工事が行われた。父は荒神川周辺の荒れ地700坪を借りて農業を営んだ。日本の敗戦で帰国の準備をしていたが浮島丸事件があって帰国を延期した。父は朝鮮人学校の前身である国語講習所を仲間とともに5か所に設置し、やがて神戸朝鮮中学校もできましたが、1948年の阪神教育事件が起こって、民族教育が占領軍と日本政府によって弾圧された。東京都北区十条の朝鮮大學に入学した。このように朝鮮中学、高校、師範、大学とすべて一期生として創設時から通うことになった。当時朝鮮大學には日本人教師も多くいて、そのアドバイスによって朝鮮語を学習した。言語学研究会に入り、1961年「朝鮮語入門」を著した。総連の指示もあって地方の学校づくりのために各地を廻った。在日朝鮮人の運動の根幹は民族教育であるとして言語教育に力を入れた。1970年兄の死によって、大阪万博工事で兄が行っていた採石業を引き継いだ。砕石事業の傍ら、朝鮮大學の講師など関係は続いた。1986年朝大同窓会会長を引き受けた。1995年1・17阪神淡路大震災後おびただしい瓦礫処理に必要性が喫緊の課題となり、砕石事業に産業廃棄物処理である瓦礫処理事業を開始した。この事業の為日系ブラジル人を数十名雇ったことで、宝塚市に定住する外国人をひっくるめた共生社会を作る必要から「宝塚市外国人市民文化交流協会」を立ち上げた。グローバルな市民権獲得を目指して、宝塚市民として生きることと、在日韓国・朝鮮人として生きることは矛盾することではないことをスローガンにした活動を続けている。

3) 「担任の机に入ったままだった就職希望書」 鄭h煥 男 1935年生まれ

1925年に渡日した両親の9人兄弟の6番目として岐阜県可児市に生まれる。ほとんど同胞がいない土地で小学校4年で終戦を迎える。職を転々として父のやっていた廃品回収業に従事した。屑鉄と紙回収の個人商店を営み、バブル崩壊後は屑鉄屋を縮小して焼き鳥屋を開業した。父は大邱の山で愚連隊の生活をしていたという。父の弟が先に日本に来ていたので呼ばれたらしい。日本での父の職業は襤褸やをやっていたが、戦争で徴用され鈴鹿の飛行場建設にいった。兄は豊川の海軍工廠で機関銃の銃身を作っていたそうである。名古屋が空襲で燃えても岐阜は平和だった。終戦を迎えて世の中はガラっと変わった。帰国の話は兄の反対でなくなり、生計のため麦芽飴を作りブタも飼った。飴屋の時の暮らしは順調で、野球少年はグローブも買うことができた。中学の時外国人登録制度が始まり、大学にはやれないが高校は行けという父の言葉で、東濃高校に行ったが、学校には顔をあまり出さなかった。電車賃や授業料は土方のバイトをやって稼いだ。1954年高校を卒業する時就職希望書は出したが、朝鮮人は就職はできないのでそれで就職はあきらめた。卒業後仕事もせずに演劇をやったりぶらぶらしていた。27歳になって車を買って、ボロ屋を始めた。屑鉄専門で稼いだが、バブルまでは調子は良かったが、バブル後の不景気で焼き鳥屋に転業した。5年ほど前に国籍は朝鮮から韓国に替えた。

4) 「元アートネイチャー会長にして俳人の身 世打鈴」 姜h東 男 1937年生まれ

高知県香美市に生まれる。戦後中学3年のとき父が事故死してすぐに家を出て、大阪の釜ヶ崎と東京の山谷でホームレスの野宿生活をしながら職を転々とする。履歴書の要らない職種を40回転職したという。大阪生野区で屋台のラーメン屋を始めて自立したが、4年後「週刊テレビ新聞」という雑誌を作って借金がかさみ、東京山谷に逃げ込んだ。27歳で結婚し長男が生まれたのを機会に、アートネイチャーに就職した。競争会社がなかったのでアートネイチャーは順調に成長し福岡支店長として活躍できた。かつらではなく本人に合わせた植毛技法が成功し、全国に230店舗を設立した。1995年に創業者が亡くなり、会長に就任した。2003年にアートネイチャーを退社したが、そのころには従業員2000人くらい、年間売り上げが200億円を超した。文学少年で工業高校に行ったが苦痛だったという。小さいころから俳句が好きで、東京の加藤楸邨が主宰する「寒雷」という結社に入った。釜ヶ崎ルンペン時代にも、「釜ヶ崎俳句会」に出入りしていたという。俳句のテーマは6割が「在日」で、1973年「パンチョッパリ」(半日本人)という句集を出した。1997年に刊行した句集は「身世打鈴」(この世の恨み言)でした。韓国語は全く話せなかった。アートネイチャを退社後、俳句雑誌を出す「文学の森」という出版会社を設立した。10年以上運営して、投稿者は毎月5000人くらいです。俳句を始めた頃は在日の苦しみ、憂い、不平等な社会への恨み言ばかりでしたが、ようやく明るい俳句ばかりになりました。これから在日は帰化する人が多くなるでしょうが、民団でも総連でもない在日という文化も作らなければならないと思う。文化を持たない民族は滅びる。

5) 「天才打者の壮絶な被爆体験」 張本勲 男 1940年生まれ

広島市で生まれ、4歳の時やけどで右手が不自由となり、1945年8月の原爆投下で姉を亡くす。父は植民地時代に食えなくなって、1939年子供3人をつれて日本に移住した。終戦後父は日本永住を決め、韓国にあいさつ回りに行きそこで事故で死亡した。広島平和公園にある原爆資料館と8月6日は原爆を思い出すので嫌だったが、2007年4月意を決して原爆資料館に行った。見るも無残な様、これは人間がやる所業ではないと思ったという。戦後母は親子4人で生きてゆくためホルモン焼き屋を始めた。母は日本語が話せなかったが、朝鮮人としての誇りは母から学んだ。小学校の時二度酷いいじめを受け、「人間は平等だ、我々の民族は決して劣った民族ではない。日本に文化を伝えた国なんだ」と思ったという。兄の援助で野球の名門大阪の浪商高校に入学でき、野球一筋の人生が始まった。貧しさから抜け出すには野球しかなかった。ところが浪商野球部の下級生暴行事件が起き、野球部長は野球部を守るため、朝鮮人の彼に事実無根の罪を負わせ、彼は甲子園の夢破れ野球部を離れた。しかしスカウトが来て東映フライヤーズに入団した。契約金200万円は兄に預け、実家の家を新築できた。東映フライヤーズの社長大川博は外国人枠規定の改定を行い、1945年以前に生まれた朝鮮人は日本人と見なすことになった。在日のスポーツ選手ではプロレスの力道山、横綱の玉ノ海など多くの人がいますが、日本名を名乗っているならそれはそれでいい。

6) 「親父はどうして、あんな生き方しかできなかったのか」 都相太 男 1941年生まれ

愛知県豊川市小坂井にあった住友金属の軍需工場建設のため多くの朝鮮人が徴用されてきた。小坂井は小さな町だが、朝鮮部落が多かった。三世代家族で5人兄弟の次男に生まれた。家業は鉄くず屋、密造酒、飴製造、養豚をやっていた。祖父祖母は朝鮮語だけ、父母、兄弟は日本語とのちゃんぽん言葉であった。終戦後帰国したのは徴用された人たちで、前からいた1000人ほどの同胞は帰らなかった。戦後父は在日朝鮮人連盟のボスとなったが、酒と博打が好きで、生活は母の手によるところが多かった。1949年朝鮮学校は廃止となり、日本の学校へ編入された。喧嘩をすると朝鮮人が強かった。小坂井町の同胞はほとんど総連系になった。信州大学工学部土木科に入学し、60年安保や韓国の四月革命を経験した。1961年朴正煕の軍事クーデターが起きた。大学を卒業し、土木会社を設立した。東名自動車道・東関東自動車道のガードレール工事の請負で家業は安定した。1973年東京で金大中拉致事件が起きたのをきっかけに韓民統(韓統連)の中央委員となった。1979年朴正煕が暗殺され、韓民統を離れた。1980年光州事件により韓国社会は激変します。2000年6.15南北共同宣言で三千里鉄道の建設に合意した。断ち切られた鉄道の南北2Kmを結ぶ事業です。在日が生きる原点は、民族的であること、平和を願う事、統一を祈ることにのために行動することです。親である在日一世を全面否定する二世たちが、民族を捨てる、親も捨てる、国籍も捨てるという事であってはならないと思うのです。

7) 「関東大震災の直後、日本にやって来たアポジ」 鄭宗碩 男 1942年生まれ

17才であった父親が東京墨田区にやって来たのは、関東大震災の2か月前(1923年7月)のことであった。日本人の手助けによって家族は九死に一生を得て生き延びた。小学校・中学校・高校と地元の公立学校で学ぶ。祖父は北海道夕張炭鉱に徴用で入ったが、蛸部屋から逃げ出し東京に来た。吾妻製鋼所の工場長に拾われて燃えがらの処理をする仕事に雇われた。白髭橋のすぐそばで父母と妹の三人家族が住み着いた。関東大震災のとき工場長の家に匿われて自警団から家族を守った。川は血の海で朝鮮人の虐殺された死体が投げ込まれた。道路にも転がっていた。17歳の父は逃げまわった末警察に捕まったが脱走した。以来父はずっと悪夢にうなされていた。父は吾妻製鋼所では溶鉱炉の操作員として無事故でよく働いた。しかし戦争中は父は内鮮協和会という大政翼賛会から呼び出されて拷問を受けたそうです。戦後二人の兄は朝鮮学校に通いましたが、朝鮮戦争あたりから民族教育は厳しさを増しました。理由は簡単です、日米政府は背後において北関係の活動を恐れたからです。上平井小学校と中学校を出て、江戸川高校のときに小松川事件が起きました。これには衝撃を受け、以来人前ではびくびくして吃音になった。1959年2月北朝鮮への帰国事業が始まりました。葛飾の青年同盟のオルグを受けて民族活動を行うことになった。迷った末朝鮮大學に行くことになった。総連幹部養成の政治経済科を選択した。卒業後は総連東京本部宣伝部に配属された。次いで愛知県本部に移動し結婚した。1981年に東京本部に戻り、江戸川支部選任となった。総連の仕事は何かしっくりこなかったので、いろいろな免許や資格を取り1985年に総連を辞した。不動産会社に入ったのですが土地バブルが崩壊したので不動産業独立の夢も弾けた。現在日本人が主催する「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」の在日代表をしている。虐殺殉難者慰霊祭を墨田区役所に申請したが玄関払いであったため、在日有志で、命の恩人であった製鋼所工場長の墓(東向島 法泉寺)の側に慰霊碑を建てた。

8) 「囲碁で結ばれた同胞との絆」 洪希徳 男 1943年生まれ

祖父が先に日本に来て生活ができるようになったので父は1926年14歳で渡日した。神田の呉服屋で働いていました。そして早稲田大学の夜間部で勉強した。戦争が終わると祖父は総連の活動家になり、父は不動産業を始めました。1950年に東京都立朝鮮人小学校に入学し、以来公立の中学校と都立小山台高校に通った。荒川区に引っ越し、朝青の活動家の勧めで朝鮮語の学習をして朝鮮大學に入学した。そこで囲碁の手ほどきを受け、卒業後愛知県朝鮮中高学級の数学教師となって赴任した。そこで知り合ったプロの棋士に誘われ碁会所に通うようになった。その後、総連系の商社、朝鮮新報社に移った。印刷原稿から「高麗棋道協会」を知り、高田馬場にあった同胞の碁会所に通った。1991年金沢で第13回世界アマチュア囲碁選手権が開催され、ピンチヒッターで北朝鮮代表団に加えられ参加した。国別9位に入り(優勝は韓国)一躍名前を知られるようになった。世界のプロ囲碁界は韓国、中国、日本が飛びぬけて強豪国であった。1997年第19回世界大会は札幌で行われ、2000年「ワンコリア囲碁大会」が盛大に行われた。日本棋院にも在日プロ棋士は数名いて顔見知りになりました。在日一世が始めた「高麗棋道協会」も40年経過して高齢化し、在日二世が受け継ぎ日本人との交流に力を入れています。二世、三世は日本に永住する、永住するからには民族的なアイデンティティをしっかり持ちながら、日本での共生社会を築いてゆくことに寄与したい。

9) 「東九条マダンは、僕らのめざす社会像やねんね」 朴実 男 1944年生まれ

生まれも育ちも現住所も京都市東九条西山王町です。7人兄弟姉妹の6番目の4男です。ここは全羅道出身者で固まっていた。父は戦後すぐ朝連の活動家になった。メーデーでリンチされて1950年に亡くなった。母は闇米の買い出しで子供を養った。小さい頃は極貧で残飯しか食うものがなかった。兄夫婦は事業がうまくゆくと疎遠になり、朝鮮人であることをひた隠しにしていた。母は日本語はできないので隠しようもない。段々と疎外されていったようだ。一人になると泣いていた。兄弟はみな音楽好きで、ヴァイオリンに憧れていた。中学は陶化中学であったが、荒れた中学校で暴力事件で多数退学者が出ていた。姉は頭が良くて朝鮮名を隠してある電気会社の就職試験をパスしたが、後で朝鮮人であることが密告され採用を取り消された。そのため自殺未遂を2回も繰り返し精神不安定となって病院通いとなった。中学卒業して小さな会社に就職し、洛陽工業高校定時制に通った。職場の作業環境が悪くがりがりに痩せたという。洗礼を受けてピアノを習い音楽短期大学に行った。そこで専攻科に残れることになったが、朝鮮人であることが判明し首となった。60年代キリスト教団の活動で知り合った日本人女性と結婚するために帰化申請を行った。日本的使命を強要され、強制的指紋押捺をして非常に屈辱的な思いがした。1年後帰化申請は許可された。その思いが1991年の指紋返還訴訟につながった。民族団体では帰化した者は裏切り者呼ばわりされた。そこで1985年「民族名を取り返す会」の運動を行い、87年再度申請したら民族名を認める決定が出た。自分は在日であり、日本国籍朝鮮人となった。だけどありのままで生きられる社会を実現したく、それ地域でやりたいので「東九条マダン(広場)」を1993年に立ち上げた。この地域には部落出身者も多いので、部落差別も民族差別も同時に話題になる。96年には京都市教育委員会の後援がこの会に付いた。和太鼓とサムルノリの共演「ワダサム」が行えた。民族とか国籍とか意識しない、言わなくても普通に暮らせる社会であるべきだという思いである。

10) 「川崎桜本に生きる」 斐重度 男 1944年生まれ

父の渡日は1935年頃、先に渡日した兄を頼って来たそうです。1942年に母と朝鮮で結婚した。私は世田谷の下北沢で1944年に生まれた。次々に子供が生まれ6人兄弟の長男となった。赤貧洗うが如き生活で、父には定職がないうえ博打に手を出す始末で、夫婦喧嘩が絶えなかった。朝鮮戦争中は母と兄弟で屑鉄拾いに行き、小学5年生から新聞配達で生計を助けた。中学時代は通名で通したが、高校へ行きたいが就職せざるを得なかった。どこを受けてもだめで、母方の親戚が営む電気工事店に住み込みで入った。2年後定時制高校に通い、ニコヨンと言われる失業対策事業で父は結核になって入院し、母がニコヨンに出ました。そうこうするうちに兄弟姉妹全員が働くようになりようやく生活が楽になりました。高校の定時制に通っている時に小説や文学に興味を覚えたが、就職のことを考え大学は理工系の定時制に進学した。自己確認の葛藤のため1年間は放浪生活をしたが、同胞の小さな会社に縁故就職した。韓国YMCAに韓国語を習いに行き、知り合った女性の所属する在日大韓キリスト教会川崎教会に通うようなり、1967年洗礼を受けた。彼女が住む川崎市桜本は同胞が多く住む地域だったが1972年に彼女と結婚した。その時代は日立就職差別問題、1973年金大中事件が起きた。在日韓国青年同盟として活動し、「民族差別と闘う連絡協議会」の在日韓国人問題研究所に通った。川崎教会を母体に1973年社会福祉法人「青丘社」が設立され、共生社会を目指して行政の差別撤廃運動に取り組み、指紋押捺拒否運動へ広がりました。1986年川崎市は「川崎市在日外国人教育方針―主として在日韓国・朝鮮人教育」を制定する運びとなりました。青少年会館設立運動は「桜本ふれあい館」に、「桜本子供文化センター」も併設されました。日本人も使えるよう地元と折衝し1988年に開館しました。一世の帰還建国型民族意識、二世の反差別型民族意識、三世の自己実現型民族意識と生き方の意識は変わっていきます。在日外国人問題など地域の問題は在日コリアと共通していますので、共生社会の実践の在り方はさまざまです。こうした現実を踏まえて行政と交渉する必要があります。

11) 「全盲を超え研究と障害者差別是正に尽力」 慎英弘 男 1947年生まれ

1947年東京で生まれたが、父の工場が倒産したので大阪生野区に夜逃げした。小学校は御幸森朝鮮小学校3年の時に網膜剥離で失明し、1958年より大阪市立盲学校に通った。中学部が3年、高等部が3年の理療科コースと鍼灸師コース2年を入れて合計12年間通いました。大学で経済学を勉強したくて立命館を受験したら不合格、1年後龍谷大学に入学しました。大学では点訳サークルと歴史学研究会に入り、マルクスの「資本論」を全部読んでもらいながら点訳しました。本当は大学で経済学を勉強したかったのですが、経済学は統計資料を読まなければならないのですが、統計資料は点訳不可能であったので、社会福祉の歴史を勉強するため大阪市立大学大学院に入学した。博士課程前期ではイギリスの「救貧法」を研究し。後期課程では植民時代の朝鮮の社会歴史の歴史を研究しました。朝鮮総督府の年表「社会事業」を読んでもらいながら点訳しました。「近代朝鮮社会事業史研究ー京城における方面委員制度の歴史的転回」論文を提出し博士号を授与された。卒業後非常勤職を求めて龍谷大学に戻った。その後理大学や神戸大学など五大学で講座を受け持ちました。図書館で朗読してもらって点訳する生活が長く続きました。1997年大阪市立大学教授の推薦で花園大学社会福祉学部助教授に就職することができた。2003年より四天王寺大学に移りました。1979年頃から障害者福祉の差別を是正するための社会活動を始めました。「盲ろう者支援友の会」、1991年より「在日外国人の年金差別をなくす会」で行政に働きかけ給付金を得ることが出来ました。又1999年より自立生活支援センターを始めました。2000年には京都で外国人障害者年金を求める訴訟が行われ、2003年には敗訴の判決、2004年には東京地裁で「立法不作為」判決が出て、国は法を作りましたが10年間なにも措置は講じませんでした。統計的に言うと障害者は世界でおおよそ10%、日本で6−7%ですから、在日社会でも3万人ぐらいは障害者です。社会保障については1981年以後国籍による差別がなくなりましたが、年金については52歳未満の人は障害基礎年金をもらえますが、52歳以上の障害者は無年金です。

12) 「バイオマテリアルの研究と応用への道」 玄丞烋 男 1947年生まれ

アポジ(父)は16才の時済州島から単身大阪に来てトラックの運転手をしていた。戦後は子供服の製造業を営んで、体の悪かった姉を除いて子どもは全員大学まで行った。中学2年からウリハッキョ(朝鮮学校)に移り、高校から朝鮮大學理学部に入学した。バイオの勉強を続けるため、1969年京都大学科学研究所(工学系、宇治)に研修員として入所した。京大化研はビニロンの開発をおこなった李博士の教え子が教授としておられた。李博士は朝鮮戦争後北朝鮮に帰国された。京大では高分子研究を専攻し、1978年京都大学工学博士号を取得した。日本学術振興会の奨励研究員に選ばれた。日本の大手企業数社にへ就職履歴書を送ったが、全部拒否された。そこで化研では医用高分子を専攻し、1980年代には医学部病院と提携して共同研究を行うことになった。臨床応用された製品は9つある。吸収性縫合糸、吸収性骨固定材(崩壊性プラスチック)などです。1983年にはバイオマテリアルユニバースというベンチャー企業を立ち上げ、昭和電工、グンゼと共同開発を行った。会社名をBMGと変え、1995年には自社研究室を建築した。入れ歯の材料、医療用接着材(フィブリン系代用品)、癒着防止剤の市場を狙った製品開発を行っている。申請特許件数は120件、権利化は50件ほどです。海外特許申請資金に4億円ほど使ったが、実施権許諾で十分賄っている。1995年に助教授のポストを獲得し国家公務員になった。文部省官僚は保守的で反対の意向だったが、京大の教授は進歩的でこれを押し切ったようである。今では当たり前となった1982年の外国人教員任用法に則て採用された。2012年に43年間務めた京都大学を定年退職し、京都工芸繊維大学繊維科学センターの特任教授と就任した。ただ京大では教授にはなれなかったのは、在日朝鮮人だったことが影響していたのかもしれない。現在のBMGの社員は20名ほどだが、厚生省の製造承認許可前の製品があり、IPO(新規株式公開)をすれば資金は豊富になるので、会社を大きくすることができます。

13) 「夢は哲学の立て直し」 竹田青嗣 男 1947年生まれ

大阪市城東区鶴見で7人兄弟の末っ子として生まれた。親、兄弟は全員日本語で生活していました。小学校、中学校と公立学校に通った。親父は屑鉄業、母は小さな旅館を営んでいましたが、1953年朝鮮戦争後貯えができて堂山町に家を建てた。しかし景気が傾き借金が返せなくなって、一家は東京と大阪に離散した。父は小さな鉄工所を始めて生活は少し安定して、高校は府立豊中高校に通った。クラシック音楽に目覚め、音楽番組ディレクターに憧れた。1966年早稲田大学政経学部に入学し、サークルは放送研究会に入った。大学時代の体験の中心は左翼学生運動でした。心情左派(ノンセクト・ラジカル)ですが、内ゲバをするわけではなく、マルクス・レーニンを読んでいただけの左翼です。同時に民族問題にもぶつかりました。連合赤軍事件で左翼運動に幻滅を覚え、同時に「民族性もなく、日本人でもない人間の生き方」に悩んで、自律神経失調症で病院に通う生活が20代終わりまで続いた。1971年に早稲田大学を卒業して、長くアルバイト生活をしていた。フッサールの「現象学の理念」に出会い、近代哲学の認識論に深入りしていった。論文「在日朝鮮人二世ー帰属への反乱」が和光大学の注目するところとなり、フリーターの傍ら、週1回で12年間和光大学の「民族差別論」非常勤講師となりました。「批評研究会」にも参加し、加藤典洋さん、小坂修平さんらと知り合い、「ヘーゲル研究会」にも参加した。1983年「在日という根拠」、1986年「陽水の快楽ー井上陽水論」を著した。1992年明治学院大学に呼ばれて国際学部の教授となった。なだいなださんの「人間論」を引き継いだ。問われれば、祖国は日本、国籍は韓国、民族は朝鮮民族と答えるでしょう。これが結論です。現代社会は、近代社会に固有のメリットとデメリットをそのまま抱えています。近代社会は、民主主義的な政治形態と、自由市場、つまり資本主義という経済システムが一つになって人間の自由を実現しました。しかし資本主義は基本的に富の格差を拡大してゆくシステムです。そこからさまざまな矛盾が出て来ます。その回答はまだない。西欧社会ではキリスト教に変わる根本的なアイデアが出てこなかったためにニヒリズムやシニズムが現れた。社会的ニヒリズムが蔓延する社会です。しかし現代は哲学の分は悪い。「反哲学」の時代です。2005年から早稲田大学に移ったが、哲学を立て直すのが私の願いです。

14) 「福島の同胞と共に生き、3・11後に抱く思い」 陸双卓 1947年生まれ

父は故国では食えないので1936年19歳で渡日した。福島県白河郡西郷の開拓地で農業や土木作業員として働いた。母は日本人です。結婚を反対され実家には一度も帰ってないそうです。1967年18歳の時から朝鮮総連関東学院で朝鮮語や歴史を学び、総連の専従活動家としてスタートした。この部落では自分を日本人だとして、ほかの朝鮮人を蔑視する民族虚無主義になっていた。郡山の総連本部に入り、朝青の専従となっって福島県内を巡りました。1980年に北朝鮮共和国を初めて訪問して金日成元帥に会い感激したという。その後、朝青福島県本部副委員長、総連支部委員長、総連本部専従、福島県初等中学校教育会会長、同胞結婚相談所所長など、福島県下で総連の役職を歴任、2009年に退職した。福島県での朝鮮人強制労働とその犠牲者の歴史を調べた。磐城炭鉱が一番多くて、猪苗代湖沼の倉発電所、昭和電工などでの遺骨収集と慰霊祭などを執り行った。2011年東日本大震災と東電福島第1原発事故により、福島県の朝鮮学校は放射能のせいで生徒数が激減した。

15) 「ニンニクの臭いが漂う街に生まれて」 姜春根 男 1948年生まれ

名古屋駅の西、「駅裏」と呼ばれた町は国際マーケットと豊マーケットがあるニンニクの臭う闇市が起源のコリアタウンです。家は鉄くず商で市内十数カ所に集積場を持つけた違いに大きな商いで、錫の電気溶解炉を持っていました。従って裕福な家庭で育ちました。日大を卒業した祖父が始めた商売でした。また祖父は新生事業団という戦災孤児の収容施設を始めた。愛知県朝鮮初級学校兼名古屋市立牧野小学校分教場という二つの小学校(校長も二人いた)が併存していた小学校へ通いました。父は民団系で日本人と民団系の子どもは牧野小学校に通いました。父の意志で国籍は韓国に替えました。中学からは公立の黄金中学校に通いました。次兄までは終戦前に生まれているので通名を作った。三兄以降は戦後生まれなので通名を作る必要はない。名前は高校では「神農春根」といい、朝鮮学校では「姜春根」です。高校は東邦高校に進学し弁論部に入りました。弁論大会で朝鮮人差別問題を訴え、許南麒の「火縄銃の歌」の詩に目を開かれました。大学は日大農獣医拓殖学科に進学した。就職は見込みがないと言われ、25歳で大学院を辞め家に帰った。父の会社の手伝いをしながら、悶々として雑誌「マダン」の編集をやっていた。そこで金大中救出対策愛知県委員会に参加することになった。ついで韓青同盟愛知の国際部部長になり、さらに韓民統東海支部の仕事にのめり込み、女房に任せていた薬局が倒産し、借金返済と韓民統(韓統連)活動との板挟みに苦しみました。

16) 「一世の暮らしを盛岡冷麺に込めて」 邉龍根 男 1948年生まれ

植民地時代父は12才で神戸に来ていた祖父をたよって渡日した。父は長田区で小さな長靴工場を営みました。1953年頃工場は人の手に渡り、父は在庫の長靴を抱えて東北へ行商に出かけましたが、岩手県二戸市に居を定めました。しばらくして家族は盛岡市の駅の近くの中川原地区(同胞がたくさん住んでいる)に引っ越し、バラック小屋を建てて屑鉄回収業を始めました。兄は勉強がよくできて東北大学医学部をっ卒業し医者になりましたが、私は勉強が苦手で、中川原にあった民族学校へ通いました。そこは正規の学校ではなく総連がが運営する週に2,3日同胞の子を預かる程度の寺子屋でした。北への帰国事業が始まった中で私は民族学校にも行かなくなりました。高校を卒業すると父の屑鉄業を手伝っていましたが、2年後には花巻市にある奥州大学(現富士大学)付属経理専門学校に入りました。1971年専門学校を卒業後、東京の富士短期大学企業経営学科に入学しました。民団主催の韓国での「夏季学校」に参加して、朴政権下の韓国へゆきました。1972年「7・4南北共同声明」がきっかけになり祖国の統一問題に関心を持ち、「韓学同」に加わりました。32歳のとき父が入院し10年ぶりに盛岡に帰り、家業の屑鉄屋を継ぎましたが、4年後父が亡くなり、事業転換を考えて準備にかかりました。在日には自営業しかありませんので、その線で考えました。1980年代当時盛岡では「平壌冷麺」が人気でした。」私は冷麺にこだわり、1986年盛岡での「ニッポンめんサミット」で冷麺店を出店しました。1年後「ぴょんぴょん舎」をオープンし、盛岡冷麺か平壌冷麺の名を名乗るかで考えました。そのルーツを勉強し、盛岡冷麺は咸興の「ビビン麺」の起源を持つことがわかり、メニューには「盛岡冷麺」を使うことにした。日本と韓国の二つの文化を継承している冷麺なのです。2006年より銀座に冷麺専門店をオープンし神奈川、埼玉、宮城でも店舗拡大を展開中です。

17) 「同胞医療と共生社会創造のために」 辺秀俊 男 1948年生まれ

高校卒業の1965年まで、山口県美祢市西厚保で生活した。父は1940年、祖父母と兄弟5人と共に渡日した。母も1年後にやってきて農業をやり、道路工事などにでて生活の資を稼いでいた。兄弟は中学校を卒業すると大阪に出て働いた。私は1967年大阪市立大学医学部に入学した。大学では本名で登録されるので、二分が朝鮮人であることは隠せませんでした。在学中に留学同の勉強会に出て、祖国のことを勉強し次第に民族意識に目覚めてゆきました。1973年に大学を卒業し、5年間大学病院第1外科の研修を受けました。大阪市生野区は同胞が多いのでいつの日にかそこの協和病院で働くことを決めていました。この病院は同胞医療をモットーに、職員・患者の100%は同胞です。大阪市で外国人に対して国民健康保険が提供されたのは1972年頃からです。1978年に共和病院の医師となり、消化器外科をスタートさせました。新しい病院は100床で、1985年から300床規模に拡張し、新たな診療科も追加された。生野区は高齢化率が高く29%です。介護老人保健施設を追加したのは1998年です。1999年から訪問介護ステーション協和がスタートしました。個人的には1991年から副院長、1993年から院長となりました。2006年に公益財団法人日本医療機能評価機構の認定病院になり、5年後の更新も済ませました。2011年には特別養護老人ホーム万寿苑を作りました。2013年には病院の機能を急性期と亜急性期、療養病床に分け合理化して、病床は211床と縮小しました。病院の職員は400人を超えました。看護婦や技師などの資格試験制度は日本の高校を出ていないと受けられないという差別がありました。通信制高校や専門学校に通いながら昼間の職務を行い試験資格を得ました。  

18) 「在日スパイ捏造事件を通じて民族運動の一翼を担う」 李哲 男 1948年生まれ

ちちは18才の時祖父に連れられて熊本県球磨郡にやってきました。土建業を営み、人吉市の民団支部の団長をしていました。私は6人兄弟の次男として戦後に生まれた。1967年中央大学に入学し、コリア文化研究会に入り、民族の歴史を勉強し1971年にソウル大学の在日国民教育研究所に留学しました。大学卒業後1973年高麗大学院に留学したころ、朴大統領が狙撃され夫人が死亡した事件が起きた。1975年11月韓国中央情報部KCIAが学園浸透スパイ事件(11・22事件)をでっちあげ在日留学生20名ほどを逮捕した。私も逮捕され南山のKCIA本部に連行されてスパイ事件関与の疑いで取り調べられた。1976年第1審裁判で死刑を宣告され、第2審、第3審も死刑判決でしたが、再審請求を提出し1979年特赦で無期懲役に減刑された。そして朴正煕大統領暗殺事件が起き、全斗煥政権の1981年に20年の減刑となった。韓国の良心囚(政治犯)の中で金芝河氏と私はアムネスティ・インタ―ナショナルに選ばれ、国際的支援が行われた。また獄中では多くの政治犯や民主化闘争の運動家と知り合いました。1988年10月仮釈放され、89年5月に帰国した。90年に在日韓国良心囚同友会が発足し、92年に良心囚書画展を開催した。2005年廬武鉉政権のとき、再審裁判を申請し、2014年11月ようやく無罪判決が得られた。

19) 「痛みを分かち合いたいから差別される側に」 鄭香均 女 1950年生まれ

岩手県北上市で、小説家の韓国人の父と雑誌社の編集員の日本人の母の間に3人兄弟の末娘として生まれた。生活がおぼつかなくて生家保護を受けていた。1960年の4月革命後父は韓国へ帰った。母と3人の子供は日本に残った。離婚すると片親の苦労があるとして韓国籍のまま日本で暮らすことになった。中学校から日本名の通名にするといじめはなくなった。このことに違和感を覚えて、自分は韓国籍であることを宣言したという。長兄は早稲田大学に入学し、韓国民族統一青年同盟で活動した。県立女子高校に進学したが、途中で学校をやめ、先生の紹介で横浜の病院に就職した。看護見習いをしながら准看護士学校に通いました。1970年資格を取ってから横浜の病院を辞め、川崎市桜本の同胞の経営する病院に行った。そこで看護師学校に通い、兄が参加していた韓民統青の活動に加わりました。日立就職差別闘争には最初から関わりました。川崎の同胞だけの社会から、日本社会で差別を体験するため、1978年東京目白の病院で韓国名で働きました。清瀬の結核研究所附属病院に変わって、保健師を目指し都立の看護学校に通いました。そして東京都で外国籍者として最初の保健師になりました。職場は保健所に替えて管理職試験の受験を申し込みました。受験を拒否され裁判所に提訴しました。96年の地裁判決は「当然の法理」だとして敗訴、97年の高裁では「国籍による受験制限は違法」との判決が出ましたが、2005年の最高裁では却下された。「憲法判断しない哀れな国日本、外国人は日本で働くな」というでした。この間日本は急速に右傾化してゆき、「裁判では正義が議論される」と思っていたことは間違いだったようです。

20) 「朝鮮人の父と日本人の母に生まれたからこそ朝鮮にこだわる」 金治明 男 1950年生まれ

父は在日朝鮮人一世、母は秋田生まれの日本人の6人兄弟の末っ子として生まれた。和光大学を卒業するまで横浜市で育った。父は九州の炭鉱で働き、土木関係の仕事で成功し、青果商を横浜市で手広く営み、戦後の一時期3店舗を構えていた。父が死んだあとは、母が廃品回収などの仕事で子供を養ったそうです。1985年の国籍法改正で父母両系血統主義となり、子どもは父母いずれかの国籍をえらぶことができるようになりましたが、それ以前では父の国籍に子供は属した。日本人の母と韓国籍の父が結婚する時婚姻届けを出さないでおくことで、子どもは母の日本国籍に入れることはできました。しかし私の父母は婚姻届けを出したので、子どもは韓国籍になりました。15歳になると外国人登録のために横浜市役所に出かけ、指紋押捺をされ登録証の常時携帯を義務付けられました。中学卒業後神奈川県追浜技術高等学校に入り自動車整備を学びました。卒業の時就職の戸籍謄本の提示を求められ、朝鮮籍に戸籍謄本があるわけがないので就職は諦めました。戸籍謄本が必要ない仕事といえば港湾荷役労働しかなかったので、25歳まで横浜港で働いた。港湾作業で事故に遭い入院し、大学進学の準備をした。1974年働きながら和光大学文学部芸術科に入学し。大学では民族運動をしました。「朝日混血青年同盟」を結成した。19歳から朝鮮名を名乗りましたが、21歳の時苦労させたくないと母の勧めで日本国籍を取りました。民族意識だけでは解決とならないと考え、在日朝鮮人労働者会議の結成に参加した。大学は6年かけて卒業し、後4年間は研究生として大学に残りました。その時埼玉県委託労働者組合に入った。運動は民族差別撤廃闘争です。1984年教員資格を取るための教育実習の時期でしたが、神奈川県五大学反戦共闘会議の革マル派の襲撃を受け3か月入院となった。これで運動から離れ、長野市でし尿汲み取り業、皮革産業の仕事に就いた。10年ほど経ってから会社は賃金カットに出たので、抗議すると会社は発言停止命令を出し、配置換えから解雇を言い渡した。解雇撤退闘争は5年かかったが敗訴になった。2000年に沖縄に来て平和運動を始め、2004年辺野古に住み着いた。沖縄は助け合いが生活に根付いた軍事基地反対闘争と結びついている。

21) 「美しい音楽を奏でるだけでは存在の意味がない」 丁讃宇 男 1950年生まれ

祖父が戦前から商売をしていた倉敷に父が渡日した。父方も母方も教師と音楽一家です。5歳の時京都に移住し、錦林小学校に通い東儀先生のヴァイオリン個人指導を受ける。そしてさらにヴァイオリンを勉強するために一家そろって東京世田谷に移住した。北沢中学時代には鷲見先生のレッスンを受けた。先生の勧めで桐朋学園付属高校に進学し、1968年桐朋学園に入学した。翌年1969年パリ国立高等音楽院に留学した。ミッシェル・オークレール先生に学んで首席で卒業した。その後同学院の大学院に進み、韓国で演奏会をやり、1977年より2年間、韓国国立交響楽団コンサートマスタになった。1979年より4年東京交響楽団に入ったが、ここで韓国と日本の楽団のやり方が基本的に異なることを知ったという。日本では練習時から完成に近いところまで持ってゆくが、韓国では一発勝負的に本番でないと力を発揮しない。1979年同胞の女性と結婚し、20年近くソウルを中心に生活をした。ここでも国際結婚に温度差が目立った。日本人夫婦間は婉曲な言い回しで、韓国夫婦は直接的であるということです。1983年から86ねんまで韓国KBS交響楽団のコンサートマスター、1988年からソウルの延世大学音楽学校でヴァイオリンの教師となった。国際的ヴァイオリニストとしてアイデンテティは重要だけども、突き詰める必要はない。自分の中では京都人の気質が一番しっくりする。伝統を守る意味では保守的で、日本人の考え方、完成、死生観がびっしり詰まっているからです。

22) 「朝鮮人の尊厳を回復し、過去を繰り返さないために」 洪祥進 男 1950年生まれ

両親は済州島出身で1923年渡日した。大阪で働いた。戦後は兵庫県尼崎で荒物・雑貨屋を営んで生計を立てた。父は1955年以来総連地域支部副委員長として活動しました。小学校4年から朝鮮学校に転入し、神戸朝鮮中高級学校で学びました。1973年の朝鮮大學旧師範学校境域う学部に入学し、卒業後15年間朝鮮中学高校で教員となって務めた。兵庫朝鮮関係研究会で在日朝鮮人の歴史や強制連行の歴史を掘り起こし記録する作業を行った。そのなかで1990年朝鮮人強制連行新装調査団中央本部が結成され、その朝鮮側事務局長に任命されました。日本人側は全国協議会として組織され、25都道府府県に朝・日合同真相調査団が結成された。活動は慰安婦問題・強制連行問題を中心に、人権侵害問題として提起された。防空壕などの地下施設建設には朝鮮人が動員されたことが米軍調査団報告にも書かれている。2000年に入り遺骨と遺族の調査を行った。これらの活動が1993年の「河野談話」、1995年の「村山談話」につながったのです。調査団活動は、日・朝両国にとどまらず、国連人権委員会にも参加し、慰安婦問題・強制連行問題は人権侵害に当たるということを提議した。また高校無償化対象から朝鮮民族学校が除外されていることも差別に当たると提議した。1994年国連人権委員会が採択した「人権と基本的自由ン重大な侵害を受けた被害者の原状回復、賠償、更生を求める」権利についての研究」と称する国連最終報告書には大きな意義があります。活動の成果は強制連行者の名簿の収集と公開です。朝鮮半島から海外への強制連行は日本外務省報告の77万人、学者の推計は100万人、朝鮮側の推計は150万人になりますが、2003年に公開された名簿では43万人が把握されています。強制連行者のうち死亡者は約6万人、日本に残る遺骨は5万人と推計されています。2004年盧泰愚大統領が日本政府に遺骨調査を依頼しましたが、進んでいません。これらの調査活動の記録は柏書房「朝鮮人強制連行の記録」として出版されました。

23) 「朝鮮人であることを隠し続けたアポジ」 申孝信 男 1950年生まれ

父は済州島から密航して大阪に着く。戦争中は埼玉の軍需工場で旋盤工として働く。その時に日本人の母と結婚した。母の生家のある宮城県亘理郡山本町に疎開した。5人兄弟の末子として生まれた。戦後仙台で母はパーマ店、父は利用・美容材料卸業として働き生活は裕福なほうであった。1957年父と兄弟全員が帰化した。私は父が朝鮮人であることを小学校1年まで知らなかった。東北学院というミッション系の私立中学に入った。高校時代教会に通って洗礼を受けた。1969年東北学院大学校に入学し、キリスト教青年会(日共系)として学生運動に参加した。父は自分が朝鮮人であることを隠すため戸籍を4,5回変えている。韓青運動の中で在日韓国人政治犯救援運動に加わり、1980年の光州暴動と金大中救出運動は激しかった。1983年に鍼灸師の資格を得て開業した。1987年に二クラグアの鍼灸師ボランティアに参加、翌90年板門店北側地区で汎民族大会に参加し、在日韓国民主統一連合の会員となった。2011年3月の大震災被害者支援のボランティア宮城を立ち上げ活動している。

24) 「和諍の精神で仏の道に励む」 崔無碍 男 1951年生まれ

父は北海道の夕張炭鉱に強制連行され働きました。在日二世である母との間に生まれた四人兄弟の3番目に生まれた。北海道で貧苦の生活をつづけた後、1958年兵庫県宝塚市に転居し、採石業を営みました。初級。中級・高級民族学校に通った。朝鮮大学校の政治経済学部を卒業後、京都と大阪の朝鮮高校で教師を務めた。統国寺は「四天王寺公園に隣接する景勝地にあります。寺は聖徳太子の創建で、602年百済の渡来僧観勒が招かれたと伝えられています。江戸時代初期に再建され黄檗宗となり、1969年に「在日朝鮮仏教教会」に所属しました。「和気山統国寺」となり在日の同胞が守っています。新羅の高僧元暁大師(617−686年)の「和諍の精神」で、朝鮮・韓国・日本の国に違いを超えて仏教普及をしています。この寺は江戸以前には「百済念仏寺」と呼ばれて、檀家の人は渡来系寺院だと信じています。社寺建築木組みは四天王寺と同じ「金剛組」の技術の伝統を守っています。私は6年ほど修行を積んで、1994年に統国寺四代目住職となりました。元暁大師の肖像画は京都高山寺にあります。戦後70年も経ち、戦争や強制労働の事故や病気で亡くなった無縁仏が、お寺に集められたり地中に埋められた遺骨は1万体あるともいわれています。岡山県吉備津の真城寺の大隅住職が遺骨の一部を引き取り、お寺に「朝鮮人殉難者慰霊塔」を建てられた。倉敷中央高校の生徒が地下工場建設に連れてこられた朝鮮人の聞き取り調査や、大隅住職を助け遺骨に遺族探しに奔走しました。朝鮮と日本の真の理解と東アジア協同体を作ってゆくためにも、まず解決しなければならないのは、日本人の朝鮮人に対する蔑視や差別であり、朝鮮人の日本に対する「反日感情」です。

25) 「この社会はいまだに国、国家というものにとらわれ過ぎてる」 金成日 男 1951年生まれ

両親は少年少女時代に渡日し、父は島根県太田市温泉津町で石積工や土建業として働いた。学校教育は受けていない。父は夜間学校で学んで漢字の読み書きはできるようになった。小学校5年で宝塚にきて自分が朝鮮人であることが恥ずかしかった。弟たちは朝鮮学校に通った。中学2年で外国人登録した。就職に有利であるので高等専門学校に入ったが、先生から朝鮮人を雇うところは少ないと言われて勉強しなくなり、どんな商売をしたらいいか悩むことになった。そのころは政治の時代でベトナム戦争があって、外国人学校法や入管法反対のデモに参加した。高専にゆくとき日本名の通名を止めた。本名の金成日を使ったら、本当に開放感を感じられた。在日韓国青年同盟(韓青)で活動するようになり、反独裁民主化闘争が目的で、総連系にはクールに対処した。むしろ「民族差別と闘う連絡協議会」活動は、在日の暮らしに根差した要求を掲げた運動であった。その頃結婚し宝塚で喫茶店を始めた。1981年頃指紋押印拒否運動が始まり、何回か拒否したら1986年逮捕された。昭和天皇が亡くなり、恩赦で押印拒否裁判は無くくなり罰金も払わなかった。この違法逮捕に対する賠償請求の民事訴訟を起こし12年間も争うことになった。その後在日には押印制度は適用されなくなり、外人登録証の常時携帯が一番のいやがらせであった。検挙件数は年間4000件(80年)に上ったという。そこで法務省へ外登証返上運動を行ったが、なぜか逮捕者はでなかった。2000年になって指紋御押印制度は無くなった。国籍は朝鮮籍から韓国籍に切り替えた。韓国の民主化が進んで安心した。憲法九条は世界に自信をもって発信すべき内容を持つが、憲法は「日本国民は」で始まる。この社会は未だに国、国家にこだわりし過ぎている。個人の自由の確立の上に成り立つ社会、そして国であるはずなのに、逆立ちしているのである。

26) 「日立闘争後の続日立闘争」 朴鐘碩 男 1951年生まれ

父母は青年の頃渡日しました。9人兄弟の子だくさんでとにかく極貧の生活でした。父は鋳物工場で働き、それから行方不明となりました。激しい兄弟喧嘩で警察のお世話になったことも度々ありました。「新井鐘司」とい日本名で小学校に通った。「朝鮮人」といわれながら、近くの鋳物工場の屑鉄捨て場で磁石を持って小遣い稼ぎをしました。新聞配達もやりました。中学時代は勉強に目覚めました。中学2年で教科書をもって東京へ家出をしました。大森の新聞屋に2か月住み込み家に戻りました。高校時代は姉さんの仕送りで行き、バイトにあけ暮れました。1970年の高度成長期に、就職問題では戸籍で朝鮮人を排除していました。一流企業は諦め、トヨタ関係の末端の板金工場にプレス工として入社しましたがすぐに辞め就職探しをし、日立製作所ソフトウエア戸塚工場に日本名で応募しました。しかし戸籍謄本が取れないことが分かり、すぐに採用取り消し通告が来た。日立就職差別裁判を起こし「解雇は民族差別だ」とする訴状を出しました。同胞と日本人からなる「朴君を囲む会」が結成され、民族問題の勉強を始めました。住所は川崎桜本に移り「朝鮮人としてあるがままに生きよう」と決意しました。在日大韓キリスト教川崎教会を活動の拠点として、クリーニング屋店員で働き裁判活動を行いました。そこから民族運動としての地域運動が始まりました。公務員の国籍条項が撤廃され、公営住宅入居、金融公庫適用、弁護士・教師・地方公務員への道が開かれました。1974年4月の判決は完全勝利し「日立の民族差別を認定し解雇無効、企業は国籍差別してはならない」となりました。9月には戸塚工場に入社した。職場で使われる言葉「馬鹿でもチョンでも」(チョンとは朝鮮人のこと)に疑問を抱き、職場環境改善を志して2000年から10年間労働組合役員に立候補するものの落選続きで、2011年日立定年退社となった。職場環境で何が問題かというと、組合員に物を言わせないこと、沈黙を強いることです。企業社会では人間らしく生きることは批判され、嫌われ、無視されることです。耐えることも必要ですが、これが復帰後の「続日立闘争」でした。原発メーカーの日立製作所に原発事業からの撤退と原発海外輸出中止を求める反原発運動にもつながっています。

27) 「行く道がどんなに険しくとも我々は明るく進む」 李英銖 男 1952年生まれ

父は朝鮮では財産証明がないと受験資格がないので、1940年12歳で、すでに日本の加古川にいた兄を頼って渡日しました。働きながら国民学校、加古川中学に通ったという。1948年阪神教育闘争の当時、母は網干朝鮮初級学校で教師をしており、父は兵庫県下の各地の初級学校の校長をやっており、朝連支部で活動をしていました。民族学校を守る戦いで神戸の留置所に入れられたこともありました。ただ結核にかかって療養生活になったので教師はやめました。1966年私が中学生の時一家は北海道へに引っ越しをした。叔父がパチンコ屋を2軒やっており、父がその一店舗を手伝う生活です。兄弟は全員男で4人。上の3人は朝鮮大学へ行き、下の一人は日本の大学にゆきました。兄と弟が教師になりました。私は中学・高校時代(茨城・東北仙台)は陸上をやり、そしてよく日本人と喧嘩をしていました。1973年朝鮮大学政治経済学科に入学し、卒業後朝鮮通信社に入った。13年間勤めました。それから金融会社で2年やり、パチンコの設備関係会社に変わりました。そして44歳でパチンコの設備関係会社を興しました。東京の練馬の商工会「12日会」に参加しました。総連・民団に関係なく集まりいつも議論をしていましたが、近年では争うこともなく21年間続いています。

28) 「人情ホルモン梅田屋」 南栄淑 女 1952年生まれ

生まれも育ちも同胞が多く住んでいた名古屋の今池です。5人兄弟の三女でした。皆どぶろくを作って売っていましたので、生活レベルはちょっとは裕福な朝鮮部落でした。母が始めた焼き肉屋「梅田屋」は、人情ホルモン屋といわれ、日本人を敵視せず、いい人もいれば悪い人もいる程度の「あんばい」を大事にする店でした。だから日本人の常連客も多く、母は貧乏学生の世話を良く見ました。家庭では日本語で話していました。学校は兄二人は日本の公立学校、女の三人は小学校から朝鮮学校です。兄は早稲田を出て旅行会社を営み、弟は関西医科大学を出て、医者となっています。弟と私は朝鮮名を通しました。朝鮮大學師範学校を出て先生になりたかったのですが、体がついてゆけず中退しました。今池で子供会(日本人ばかり)を作りました。1979年に結婚をして、主人は薬局を始めました。子供二人は朝鮮学校から日本大学に行かせた。娘は名城大学薬学部、息子は薬学部に合格していながら三浪して藤田保健衛生大学に入り医者になりました。今は母から受け継いだ梅田屋の二代目オモニになって、地域の人と仲良くやっています。梅田屋から名古屋グランパスに毎年キムチとチャンジャを送っています。民族・文化・習慣は違っても、認め合って尊重し合うふうにやっていければいいですね。

29) 「30代で医者を目指す」 金武英 男 1952年生まれ

父は家を出て日本で勉強するため14歳で東京に来ました。仕事は土方をし、中央大学夜間部に通学したらしいです。市役所、生命保険会社とかいろいろな職業につき、日本共産党に入党し、労働運動と朝鮮の独立運動に関わり、何度も監獄に入ったそうです。戦後は朝連とか民戦の支部長を務めました。1955年の総連結成時に父は総連から除名処分を受けたそうです。兄弟6人は朝鮮学校に通いました。兄二人は1960年の帰国事業で朝鮮へゆきました。1970年前後、父は総連で権勢の頂点にいた金炳植から執拗な批判を受けていました。1972年東京理科大に入学しました。大学は修士課程に進み素粒子論を研究し、出版社に就職したものの1年間で辞めてしまった。朝鮮高校の講師や予備校の講師をしましたが、勉強を続けるため特待生で北里大学医学部に入学した。卒業後総合病院で7年間務めたあと、世田谷で「梅丘内科」を開業しました。朝鮮人の医者の団体である「医協」に科参加せず距離を置いた。それは医者であるのにに、金日成ばんざいを三唱する政治体質に嫌気をさしたからです。テレビ東京が始めた「主治医が見つかる診療所」という番組にレギュラーとして2年ほど出演した。歯に衣を着せない語りが受けたのかもしれない。私は医療にかかわる在日朝鮮人の一人として日本社会に貢献したいと思う。二世の私は在日1世の歴史を背負っていると同時に、日本社会の一員としても生きていることは在日を生きる上で大切なことではないだろうか。

30) 「次世代に在日同胞のバトンを託して」 金信縺@男 1953年生まれ

両親は知野韓国巨済島の出身です。結婚して生活苦のためすぐ渡日し、九州の炭鉱で働き下関東大坪に来ました。そこで私が生まれました。小学生の頃、同胞を頼って神戸の長田のケミカルシューズ製造の町へ移転しました。下関から転向する時担任の先生からいわれた朝鮮人侮蔑の言葉を強烈に覚えています。長田の大橋地区は在日朝鮮人の部落で、近くの小学校に編入しました。翌年病気で父が亡くなりました。私は差別されないよういじめられないように優等生的に振る舞い、日本名で中学校へゆくことを願いました。戦後日本の教育は民族教育の保証として出発しなければならなかったのに、同化教育の体制のままでした。高校時代も通名で通しました。そして立命館大学法学部の入学し弁護士を目指しましたが、教授は朝鮮人は司法試験は受けられるが、司法研修所に国籍条項があって弁護士にはなれないことを告げられました。大学では朝鮮文化研究会にはいりましたが、総連の支配下にありました。1974年大学を卒業後、就職は諦め総連傘下の在日科学者協会(科協)本部(東京都文京区)の専従となりました。科協は性に合わなくて3年で辞めました。神戸に戻り板金塗装工場で働きました。子供が学校で民族差別のいじめに遭ったのを機にし教育啓蒙活動に乗り出しました。1994年在日コリアンの子どもを持つ親をサポートする「神戸在日コリアン保護者の会」を結成し、2004年公立小学校内の民族教室の開設を実現しました。毎年1回「神戸オリニマダン(子供の広場)」を開催しました。2014年「神戸コリア教育文化センター」を設立しました。長田に「在日コリアン生活・文化資料館」を作るのが、次の目標です。

31) 「師匠はいない、アウトローが居心地いい」 李末竜 男 1953年生まれ

父は幼少の頃亡くなった。各地を転々として土木工事現場を渡り歩く父母の生活だったそうです。私が生まれたのは木曽川の丸山ダム工事の飯場でした。1954年ダム工事が終わって、犬山に引っ越した。父が亡くなった後母は総連の女性連盟(女盟)の活動家となった。兄弟は皆日本の学校に通った。兄は愛知県立芸術大学に入った。中学時代は「山下」という通名で、陶芸家が夢であった。瀬戸窯業高校に入って犬山から瀬戸へ電車通学をした。就職先は少なかったが、淀川の三友ガラス工芸に就職した。休日は大阪や京都のギャラリーを見て回った。デザイン仲間から「申京煥君の退去強制処分撤回裁判」を教えられ、コリアンアイデンティティ問題に目覚めた。もっとガラスを勉強したかったが、東京芸大や愛知芸大の受験に失敗し、ダンプの運転手をしながら1976年自分で小さな窯を持った。韓青に入ったのも同年であった。6年間はガラスを吹くのもやめて韓青だけに集中した。1988年イギリスの美術学校ガラス科に留学し、2001年ソウルで「21世紀と人権展」に出品した。今瀬戸の街を陶器とガラスの町にプロデュ―スするNPO「Art-Set0」をやっている。日本人だったらよりよい社会にするために革新することができるが、在日の場合は自分の居場所を見つけるために革新しなければならない。

32) 「父と母の思いを受け継ぐ」 蔡鴻哲 男 1953年生まれ

父は1940年高松炭鉱の鉱夫募集におうじて渡日したが過酷な労働に抗議してストライキを計画し、釜山に送還された。翌年北海道炭鉱募集に応じて、北海道赤平炭鉱の蛸部屋に入った。脱走を図ったが捕縛されリンチを受けかろうじて命だけは保った。そして幌加内沼牛のクロム鉱山、鷹泊帝国白金鉱山を経て終戦となった。戦後も深川市に住んだ。朝連や総連の活動をしていたので韓国には還れなかった。1949年父は日本人の母と結婚しました。仕事は廃品回収業です。1955年いは在日総連が結成され、北空知支部の結成に父は参加した。1965年に川本組の土建業を始め、母は焼き肉屋「平和園」を開業しました。父母は総連の活動が忙しくなりました。私は小学校3年から朝鮮学校に転校しました。高校は水戸と仙台に通いました。高校時代に母が亡くなり、高校を卒業したら朝鮮に帰るつもりでしたが、父は仕事を整理したら二人で帰えろう、それまでは総連の仕事をしていろというので、私は北見支部の専従となりました。活躍しているうちに33歳で支部委員長になり、帰国どころではなくなりました。北海道では民衆史掘り起こし運動が始まり、1938年幌加内朱鞠内のダム工事では200人の朝鮮人・中国人が犠牲になったことを知りました。共同墓地にある犠牲者の遺骨発掘などの尽力した父も1984年がんで亡くなりました。民衆史メンバーで仏教僧の殿平が、浄土真宗本願寺派札幌別院の納骨堂で朝鮮人・中国人の強制労働犠牲者の遺骨101体が見つかったので協力してほしいという依頼がきました。遺骨返還活動を支援しながら、国際的な運動体「強制連行北海道フォーラム」を結成しました。道内には札幌を含めて180体の遺骨があることが分かりました。猿払村浅茅野では1942年に始まった陸軍軍用飛行場建設があり300人の朝鮮人が働いたと言われています。2005年北海道フォーラムの人々と、山林に入り共同墓地の発掘を始め、2010年までに39体の遺骨を掘り起こしました。日本の戦後責任は未解決のままです。強制連行を敷いた日本政府と企業は自らの歴史への責任を自覚し、遺骨の調査と返還に努め、被害者や遺族に謝罪と補償を実現すべきです。

33) 「身体障がい者の劇団を創設」 金満里 女 1953年生まれ

父は植民地時代独立運動の活動家で刑務所から出た後夫婦そろって渡日しました。父は夫婦で古典芸能の一座をつくって巡業していましたが1951年に亡くなりました。私は3才の時ポリオにかかり全身まひ状態になりました。7歳の1961年に大阪府池田市の施設に入ったが、5年の時に主治医に「訓練して歩けるようになるか」と聞いたら、医者は「うーん」というだけだったので「これから無意味な訓練は一切止める」と宣言した。施設に10年いて家に帰りました。高校に行きたかったが、養護学校は受験させてくれんかったので、近畿大学付属高校通信制に本名で入りました。1973年「日本脳性麻痺協会全国青い芝の会」グリーン・リボンに入会しました。重度障害者だから人生をあきらめること自体が差別なんやということに気が付いたのです。1975年に高校卒業と同時に自立生活に入りました。健常者組織の問題から青い芝の会は1978年に分裂しました。健常者組織に不満を持つ派に組したため、除名処分に会いました。1981年国連が提唱する「国際障害者年」という胡散臭い企画があり、パラリンピックで頑張るという官製障害者像に反発して、反対運動とロックバンドのコンサートを京大西部校内でやった。そこでやった寸劇がいまいちだったので脚本書きに手を挙げて「態変」という劇団を結成した。初公演は1983年に京大西部構内講堂でやりました。そして1984年東京公演も実現しました。その1年後妊娠して帝王切開で子供を生みました。親は最初から親ではなくて。子供に愛情を注ぎこんで親になってゆくのだなと実感しました。三ヶ月の子を連れてアメリカに平和祈念歩こう会に参加し、南米にも行きました。言葉が全く通じない旅行で人のボディ表現を見て演劇の参考になりました。1992年ケニアで初めて海外公演を行いました。96年からイギリスのエジンバラ・フスティバルに3年連続で公演しました。現地メディアに「生きることと芸術が直結した表現」と評価されました。97年にはスイスのベルンで「死霊」を講演しました。2004年ソウルと固城で父の故事に関する演劇を公演しました。そこにいる親戚縁者より父の独立運動の闘士の姿を伺う事が出来ました。劇団「態変」の運営は文化庁の芸術振興基金を申請して行ってきたのですが、2012年「障害者自立支援法」の適用によって2013年度より小規模事業所への支援を打ち切られました。健常者スタッフを維持することができません。大規模事業所に簡単に出来るわけでもなく、ピンチです。

34) 「民族・女性・慰安婦ー痛みの歴史を未来の希望に」 方清子 女 1954年生まれ 

岐阜県飛騨で三人姉妹の末っ子として生まれた。父は職を転々としながら私が二歳の頃亡くなりました。小学校6年生の頃親戚を頼って大阪に来ました。母は何でも仕事をしましたが、工事現場に人を出す人夫出しを始めました。母が戦後一時帰国の密航者で私は永住権を持っていなかったため、高校三年のとき就職で銀行への書類提出段階で落とされました。朝鮮奨学会の紹介で同胞企業に就職しました。日本社会で在日という焼き印から遁れるには難しいというあきらめから韓国語を習うため、在日韓国青年同盟東淀川支部に通いました。しかし文化活動や集会にはゆきませんでした。韓青は民団と対立していたので、旅券発行の便宜がもらえない場合がありました。家族から反対され独り暮らしを始めました。70年80年代は金大中事件や光州事件など次々に政治的事件が起きました。30歳に近くなって、1983年に韓青を卒業し、韓民統の専従になった。朝鮮では女性差別が著しく、女を抑圧しているのは在日朝鮮人そのものであったのです。民族という差別に加えて男子優位社会(儒教社会)の抑圧がすごかったのです。80年代の民主化闘争の中1986年に「冨川署性拷問事件」が起こりました。この事件の衝撃から民主化統一運動のための新たな女性組織を出発させる機運が高まりました。「在日韓国民主女性会」を立ち上げました。87年には韓国女性団体連合(女連)が韓国内にでき、女性に対する差別、深刻な暴力の問題に取り組む過程で、90年代に「従軍慰安婦問題」が焦点化しました。韓国ウーマンリブ運動・フェミニズム運動の開始です。韓国協会女性連合会も1970年代より「妓生観光反対」運動に取り組んでいました。1990年伊貞玉さんが各地を調査され「慰安婦」被害者のルポを新聞に掲載した。そして91年金学順さんが慰安婦として初めて名乗りを上げ、日本政府に対して訴訟を起こしました。アジアにいた従軍慰安婦の女性が次々と日本政府を相手取って訴訟を起こしました。2000年女性国際戦犯法廷に70名に及ぶ女性からの証言・報告があり、続いて国際公聴会も開催されました。慰安婦問題の本質は民族問題ではなく、女性の人権侵害だということです。1年後オランダのハーグで女性国際戦犯法廷は天皇有罪判決が出ましたが、日本のメディアは沈黙し、NHK番組改ざん事件が起きました。右派からのパッシングや教科書から記事削除要求がでるなど、日本社会は大きな混乱を呈しました。証言集会などの取り組みが数年続く中、各地の市長村議会で「慰安婦」問題解決を求める意見書可決運動が広がり、2009年には「慰安婦問題関西ネットワーク」を立ち上げました。2009年民主党政権で慰安婦問題の解決を望んだのですが、残念ながら解決しませんでした。いまなお教科書問題や、歴史認識では日本政府の後退姿勢ばかりが目立ちます。

35) 「生まれ変わっても、指揮者に」 金洪才 男 1954年生まれ

父は高麗大学の学生だった頃渡日し、大阪市立大学、立命館大学で学び、日本の中学校の教師となった。伊丹の朝鮮初級学校で母と知り合った。私は伊丹市で生まれ、小学校から高校まで神戸の民族学校で学んだ。両親は教師で特別な音楽教育は受けていない。高校の同級生の影響で音楽の道を選んだ。当時国立の東京芸大に朝鮮人が受験できないかったので、小澤征爾のいた桐朋音大に入学した。小沢先生の指導を得たかったが、指揮下の学生は50名で、最優秀の数名しか専制に近づけなかった。学生の頃から東京シティハーモニック管弦楽団でアルバイトをし、1981年卒業後そのまま副指揮者になりデビューした。当時全国で2万人ほどの音大生がいましたが、プロになれるのはほんの一握りに過ぎません。経験・努力・実力の三つがなければならない。指揮者は楽団の監督です、楽団員の信頼がなければ仕事はできません。指揮者はだいたい2、3年毎のローテーションで、指揮者とソリストはオーケストラにとって「客」です。東京フィルを出始めにして、名古屋フィルハーモニー、京都市交響楽団、大阪市音楽団、広島交響楽団を経て、1988年にはベルリンに留学した。1992年にはコリアンシンフォニーを率いてカーネギーホールに出演した。98年には長野パラリンピックで指揮棒を振りました。2007年に韓国蔚山市交響楽団の音楽監督兼常任指揮者となった。

36) 「舞台の幕が上がって3分間が勝負」 金守珍 男 1954年生まれ

父は職業(商売)をころころ変えて、その度に住所を変えていますので、私は大人になるまで十数回住所が変わりました。母は在日2世なので、私は在日2・5世になります。小学校時代は朝鮮民族学校でした。中学校の修学旅行は新潟港で万景峰号の帰国見送りでした。千葉、日暮里など済州島出身者が多く住む地域の悪ガキとの喧嘩が絶えませんでした。なぜは私のけんか相手はいつも同胞の連中でした。日本人の結果相手は右翼で有名な豪徳寺の国士館でした。さらに十条の帝京高校との喧嘩が絶えないので学校では登校時間を1時間ずらしました。都立大山高校定時制に転入して、大学は東海大学工学部に入学した。友人に誘われて金芝河原作の芝居を見にゆき依頼芝居に夢中になりました。状況劇場の唐十郎と李麗仙、劇団民芸の米倉斉加年をみました。そして蜷川スタジオの劇団員になった。唐十郎の状況劇に移って、もう30年経ちました。状況劇場では本名の金で行くことにしました。「状況四天王」と呼ばれた、佐野史郎、私、六平、K沼が自主公演をして、それを見た唐が脚本を書き始めました。劇団の中にも南北の闘争が影響し劇団が分裂する状態でしたので、在日の芝居を作ってゆくことになり、1987年に新宿梁山泊を結成しました。金久美子を主演女優として法政大学学生会館で「パイナップル爆弾」を初公演しました。劇団梁山泊の維持経費月70万円は大変で、やめて行く人も多かった。映画製作を始めました。映画制作は湯水のように金が出てゆくものですが、お金が少しできたの48歳で結婚しました。在日の文化を発信できる基地の必要性を考えています。芝居は祭(虚構)です。夢を共有できるかどうかは最初の3分間で決まります。私のパワーは怒りです、社会の矛盾です。

37) 「俺の歌はすべて愛」 朴保 男 1955年生まれ

父は16才で釜山から密航船で対馬で降りた。父は戦前大阪の軍需工場で働き、戦後山梨で結婚した。母は日本人で結婚は親戚の大反対を受け、今も親戚づきあいはない。三才ころ静岡県富士宮市の国道1号線で自動車スクラップ工場を営んだ。父の仲間にはパチンコ屋、土建屋、やくざの同胞が多かった。高校生の頃父は民団に入った。1965年の頃にベンチャーズが流行し、エレキバンドを始めた。高校生のころ「チェリーズ」というバンドを結成し、日大芸術学部放送学科に入学した。学業はそっちのけでバンドを作ってキャバレーのドサ周りをやっていた。プロに認められ「広瀬友剛」という名でデビューしたが、デビュー曲「ウエブロ」を韓国語で歌ったが、日本ではヒットしなかった。1980年「ウエブロ」の作者から招待されてはじめて韓国へ行き、ロックを歌った。翌年日本人歌手と結婚した。アメリカで「反原発」のロックを勧められて妻と子供3人で渡米した。バークレーでストリートミュージシャンをやり平和のメッセージを歌って金を稼いだ。魚市場の清掃のアルバイトもやった。サンフランシスコで日本の妻と離婚し、フランス人と結婚し、次はオーストラリア人と結婚した。今は在日二世をパートナーとしている。2002年映画「夜を賭けて」(金守珍監督)の音楽を担当した。その後数々の映画音楽の生演奏を担当した。反戦、反核、平和、環境保護、すべての抵抗歌はラブソングなのだ。

38) 「オモニ、ハルモニに寄り添って生きる」 鄭貴美 女 1957年生まれ

大阪市生野区猪飼野で生まれました。祖父は貿易商で大阪に来ました。父はその二世です。私は2.5世です。絵が好きだった父の商売はカバンの加工です。父は「とにかく日本人のように」が口癖でした。母は在日1世です。小中高と全員が通名で日本の学校に通いました。私は教師になりたかったのですが、中学の先生に国籍条項があるので「先生にはなれない」と言われ、ショックでした。先生にそう言われて頑張る目標を無くしました。兄は本名に替えましたが私は踏ん切りがつきません。高校を卒業し看護学校の入学願書に本名を書きました。平日の夜は在日韓国青年同盟主催のハングル教室や歴史講座に通い、週末は在日韓国YMCAで韓国舞踊や杖鼓を習いました。看護師の資格を取って、大阪生野区の総連系病院や労働組合の診療所に勤めました。1994年に「在日同胞のための自主教室」ウリソダン(寺小屋)に教師として参加しました。また中学の夜間講師として民族講師を勤めました。夜間中学の在校生が多くなり昼間の中学を上回るようになったため、大阪の教育委員会は修業年限を無制限から3年に制限を加えてきました。この措置に反対する行政闘争に加わり座り込みをしました。その結果就業年数は6年、病気があれば最大9年まで可能となりました。2001年には中学夜間学級は独立しました。1999年から大阪市の社会福祉研修・情報センターで「在日外国人向け相談員」になりました。2001年、介護認定を受けていないお年寄りが利用できるデイハウス「さらんばん」を立ち上げました。2005年にはNPO法人「ウリダン」の認可を受け、介護保険のデイサービス事業にも参入しました。

39) 「在日済州島出身者にも深い傷跡残した4・3事件の完全解決を」 呉光現 男 1957年生まれ

大阪市生野区猪飼野(現中川)で6人兄弟の末っ子に生まれました。猪飼野は日本最大級のコリアタウンで、住民の5人に一人は在日朝鮮人であり、その半分は済州島にルーツを持つと言われています。済州島は朝鮮半島南部にうかぶ大きな島ですが、耕地が少なくとても貧しい島です。島民の多くが朝鮮本土や日本に出稼ぎに行きました。戦前は済州島の人口の1/5が日本に渡った。父は生野に来てから、飴売り、軍靴製造、ガラス製造、廃品回収、プラスチック工場などをしていました。プラスチック工場は1970年代のオイルショックで受注が減り倒産しました。高校時代に「朝鮮文化研究会」に入りましたが熱心ではなく、テニスに明け暮れた青春でした。文学書を読んでいて、たまたま金石範の「鴉の死」を読むと、4・3済州島事件をテーマにした小説でした。このことを父に話すと頭を殴られましたが、なぜ殴られたのかさっぱりわかりませんでした。父母は日本語が読めません。大阪市立大学文学部に入学し在日韓国学生同盟に所属し、朝鮮の歴史を勉強しました。大学卒業後、キリスト教聖公会地域活動団体である「生野地域活動協議会」で10年間働きました。済州4・3事件は南北分断に反対する武装蜂起に端を発して、李承晩政権が鎮圧した過程で、島民の1割以上の3万人近くが犠牲になった悲劇です。1948年5月南だけの選挙に反対する蜂起が始まり、8月大韓民国樹立によって済州島焦土作戦(内乱鎮圧)が展開され、続いて1950年の朝鮮戦争と重なって、3万人近くの島民が殺されたと言われます。韓国政府はこれを「共産暴動」と烙印を押しました。4・3事件の前後弾圧を恐れて日本に逃れた人の数は1万人以上になると見られます。それ以来島民は事件について口をふさぎ、語ることを憚りました。しかし1980年の韓国民主化の流れの中で事件を見直す動きが高まった。2000年に「済州4・3事件真相究明及び犠牲者名誉回復に関する特別法」が制定され、盧泰愚政権は国家権力の過ちを公式に謝罪しました。1988年に東京で「追悼記念講演会」が開かれ、これに感銘を受けて1991年大阪でも追悼シンポジウムが行われ、事件50周年の1998年に大阪で大集会をやろうと実行委員会が作られ私も参加しました。2000年に「在日済州4・3事件犠牲者遺族会」が作られ、事務局長になり、2011年にはその会長になりました。2008年の60周年大阪体験者証言集会で半世紀の沈黙を破ってはじめて惨劇の様子を聴くことが出来ました。朴槿恵大統領は2014年から4月3日を「国家追悼の日」に制定しました。

40) 「日本と韓国で活躍する劇作家・演出家」 鄭義信 男 1957年生まれ

41) 「被爆者二世として何かせにゃいけん」 韓政美 男 1957年生まれ

1945年8月6日は母が9歳の時のことです。実家は原爆ドームから600m離れた川の向こうにありました。母は被爆者手帳を持っていますが、私達にはその時疎開していて後で広島市に入って被曝したという風に語っていました。ところがあとになって、もろに被曝したことを教えてくれました。日本人の中にある被爆者に対するハンディ+朝鮮人に対す差別を恐れて軽度の被ばくを装っていたのでしょうか。母は乳がん、子宮がんをやりました、弟はがんの合併症になりました。母の父は胃がんで亡くなり、やはり被ばくによる発がんではないでしょうか。母は被ばくの後小学校3年で中退し、家計を助けるため幼いながら闇市でよう働きました。家は貧乏人の典型で、父はニコヨン(失業対策土木事業)で働き、わたしはプロ野球の広島カープに入るんだという野球少年でした。父が総連の分会長をやっていたので、高校から朝鮮学校へゆきました。朝鮮学校は私を変えてくれたので、朝鮮大学にいって教師になろうと思い1976年外国語学部に入学しました。大学生の時1979年に広島・長崎被爆者実態調査団が広島に来て被爆者の証言の掘り起こしを行いました。母も重い口を開き始め、その時昔聞いた話とは違うことに気が付いたのでした。1980年に大学を卒業して広島朝鮮中高級学校の教師になりました。以来20年以上在日朝鮮人被爆者問題を中心とする平和教育に努めました。2004年に総連広島本部教育ぶちょうになり、2010年には広島朝鮮学園理事長になりました。2014年総連御広島市北支部委員長になったのですが、2015年に広島朝鮮人被爆者二世の会の会長になり、総連本部副委員著を兼任しました。広島で被爆した朝鮮人は約5万人で、うち3万人が死亡し、2万人が後遺症で苦しんでいる。被曝朝鮮人二世の数は400人ぐらい(広島県朝鮮人被爆者協議会の名簿で170人なので、全国的調査をすれば)だろうと言われている。又被爆者の中で北の共和国にいる朝鮮人だけが外されている問題があります。北朝鮮への特別な差別は、高校無償化の事と併せ、被爆者の差別も日本政府の対応を問題としなければならない。

42) 「ありのままのわたしの歌を歌う」 李政美 女 1958年生まれ

43) 「マジシャンとして夢を追い続けて」 安聖友 男 1959年生まれ

44) 「あくまで自分のため、自分自身の解放のために表現する」 金稔万 男 1960年生まれ

45) 「人生はここからが第二章」 李鳳宇 男 1960年生まれ

46) 「父がはじめたパチンコ店を2兆円企業へ」 韓裕 男 1963年生まれ

47) 「テコンドーのパイオニアにして経済学博士」 河明生 男 1963年生まれ

48) 「家族のドキュメンタリーを撮りたい」 梁英姫 女 1964年生まれ

49) 「商売に国境はない、人生にも国境はない」 愈哲元 男 1965年生まれ

50) 「ヘイト・スピーチを許さぬ裁判闘争の勝利」 金尚均 男 1967年生まれ

大阪市東淀川で生まれました。朝鮮人と言われて喧嘩はよくしましたが、特別民族教育に触れることもなく育ちました。立命館大学法学部に入った時は本名で行こうとしました。大学時代は在日朝鮮人留学同盟に入り積極的に活動を行いました。大学院に進んだとき指導教授から、「日本の国法で外国人が教員になったことはない」といわれて、大学院を中退し、ドイツのボン大学に行きました。ところが1996年には山口大学経済学部講師に採用され、98年には福岡の西南学院大学法学部助教授になりました。そして2001年京都の龍谷大学で助教授になり、後教授となりました。龍谷大学から再びドイツボン大学に留学し、12年にギーセン大学の客員教授となりました。2007年日本の刑法の政治的・恣意的な運用を示す事件が起きました。道路交通法の車庫飛ばしという軽微な違反で、滋賀県警が朝鮮初級学校に捜査に入ったことです。大勢の警官が学校に入って捜査すというのは、前代未聞の事件でした。また2009年12月京都第一初級学校に対する襲撃事件が起こりました。在特かいのメンバーが「勧進橋児童公園を学校が占拠しているので襲撃する」と街宣車でわめいていました。公園の使用については50年ほど前住民と市と学校で協定して使用させてもらっていましたが、2010年1月に退去することで話し合いがついていました。私は連絡を受けて慌てて駆けつけますと、在特会のメンバーは11人で、「スパイの子」とかネトウヨから拾ってきた言葉しか話せない輩で、話の通じる相手ではなかった。現場には7人の警察官がいましたが、何もしないで威力妨害、器物破損が行われていてもすぐさま逮捕しない、こうした警察の恣意的な対応が在特会の無謀な集団行動を許しているかのようでした。12月8日に保護者会を開きました。私は刑事告訴を提起し、京都弁護士会も非常に協力していただき、名誉棄損で刑事告訴をしました。警察は侮辱罪に落としてくれないかと行ってきました。侮辱罪は一番軽い刑です。警察は侮辱罪で起訴しました。その後も在特会のヘイトデモが行われたので、街宣禁止の仮処分申請を行い、地裁の仮処分が出ました。弁護団は地裁に間接強制申請を行い100万円の罰金支払い命令が出ました。2010年6月京都地裁の民事訴訟を起こしました。日本人を中心とした「こるむ」という支援者組織ができたことが励ましになりました。刑事裁判では2011年4月襲撃した在特会4人に懲役1年から2年、執行猶予4年の判決が出ました。民事裁判は2013年10月京都地裁で出ました。名誉棄損であり、威力業務妨害で民族教育権を侵害したという判決です。損害賠償金1226万円、学校の半径200以内で街宣活動禁止です。在特会は控訴してきましたが2014年7月大阪高裁の判決が出て一審判決が支持されました。第1初級学級は2013年に合併して京都朝鮮初級学級が移転し醍醐に新校舎が出来ました。ドイツではヘイトスピーチは民扇動罪と同様刑事罰が重く、最長刑罰5年です、EUは加入条件の一つにヘイトスピーチ規制を入れています。アメリカにはヘイトクライム法があります。だから日本は世界でも奇異なくらいヘイト無法国なのであります。国連の人権委員会から何度も勧告をうけているのもかかわらず改善の様子がない。その理由の一つは表現の自由を挙げて国連人種差別撤廃条約第4条(a),(b)項を留保しています。表現の自由を侵さない限り適用するという条件付きなのです。ところがヘイトスピーチは表現の自由の問題ではないのです。差別用語撤廃問題と関連しています。古典文の差別用語でさえ但し書きを添えないと使えません。現代文は全く使用禁止です。(つんぼ、めくら、びっこ、てんこ・・・) 



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