170113

海老坂 武著 「加藤周一ー20世紀を問う」 
岩波新書(2013年4月)

博覧強記の知の巨匠の伝記、日本思想と文学の「日本らしさ」を問い続けた軌跡をたどる


私は加藤周一氏の著作はあまり読んでいない。3冊だけである。
@ 加藤周一緒「読書術」(岩波現代文庫 2000年)
A 丸山真男・加藤周一著 「翻訳と日本の近代化」(岩波新書 1998年)
B 加藤周一著 「日本文学史序説」(ちくま学芸文庫 1999年)
加藤周一氏の集成として、「加藤周一著作集」二十四巻、「自選集」十巻があるそうだが、手にしたことはない。氏は多作であると同時に扱ったテーマの幅が広いのである。小林秀雄の著作集は全部読んだ。「小林秀雄全作品」(全28巻 新潮社第六次刊)には高踏的でプロレタリア運動に冷淡で、それでいて人を煙に巻いて楽しんでいる何か偉そうな文章である。それ以来東大文学部フランス語学科卒業生は鼻持ちならぬ奴ばかりと決め込んで読まなかったようだ。小林秀雄にしろ吉本隆明,鶴見俊輔にしても加藤周一ほどの幅は持っていないと著者はいう。その膨大な言葉の中より、著者は加藤の歩みを次のようにまとめている。
1) 加藤は日本文化の全体の形を鮮明に描いた。雑種文化論に始まる「日本的なもの」は彼の後半の人生を費やしたライフワークとなった。日本文化の特徴は彼によって否定しがたい形で退出された。
2) 加藤は動乱の世紀20世紀を世界各地で体験し、その考えを示した。21世紀を迎えた我々にとって加藤の歩んだ道は必ずや指針になるだろう。
3) 加藤は同時代の世界情勢の中で、日本の政治的、文明史的位置を見定めようとした。
4) 加藤は戦争文化(集団主義・大勢順応主義)に敏感に反応し、その監視を怠らなかった。権力の言葉の分析、批判、自己の体験を語り、知の装置を総動員した。言葉こそ彼の武器であった。結果的には権力の前に彼の言葉は敗北の連続であった。
5) 加藤はそのリズムある文体と正確な言葉によって、漢語を含む日本語の美しさを再認識させた。最後に彼は言葉への愛を伝えた。膨大な書を読み、膨大な書物を書き、膨大な言葉を語った。
著者海老坂武氏は1980年代から1990年代にかけて、私的な会合で加藤氏とよくおしゃべりをしたという。加藤氏は2008年12月逝去された。それから5年して海老坂氏が加藤周一の伝記をまとめられたことになる。海老坂氏は1970年代半ばに「雑種文化論―加藤周一をよむこと」という長文を発表しているので、再度加藤周一論へのチャレンジだそうである。それは自分自身のフランス文学との付き合い、自分の位置を確認する作業であったようだ。先輩たち、加藤周一、森有正、林達夫、鶴見俊介たちと自分の位置である。著者は加藤周一を定義する言葉として、ひとつは「知的アンガジュマン(社会参加)」であり、もう一つは「持続する志」であるという。政治からはできるだけ距離を保ってきた加藤周一氏の軌跡をたどる旅であった。持続する志とは、不合理と狂信への批判、反戦と民主主義への意志、権力や権威につながる栄誉(叙勲)の拒否であった。本書の著者である海老坂武氏については、その著書を読むのは初めてな気がするので本書巻末の著者紹介から抜粋する。1934年東京大森生まれ。 東京都立小山台高等学校を経て東京大学入学。 1959年、東京大学仏文科卒業。1963年から2年間フランスに留学。1966年、同大学院博士課程単位取得退学、同年より一橋大学勤務、のち教授。1996年、定年退官ののち、関西学院大学文学部教授。2003年退職。 退職後は東京と芦屋、那覇、パリを転々としながら執筆と翻訳に専念している。独身主義者のようで、2017年で御年83才になるようです。ジャン=ポール・サルトル、フランツ・ファノンなどを専攻し、翻訳や評論活動をおこなう。主な著書には、『パリーボナパルト街』晶文社, 1975、『戦後思想の模索−森有正,加藤周一を読む』みすず書房, 1981、『雑種文化のアイデンティティ−林達夫,鶴見俊輔を読む』みすず書房, 1986、『思想の冬の時代に <東欧>、<湾岸>そして民主主義』岩波書店, 1992、『〈戦後〉が若かった頃』岩波書店, 2002、『サルトルー「人間」の思想の可能性』岩波新書, 2005、『戦後文学は生きている』講談社現代新書 2012、「サルトル『実存主義とは何か』 」NHK出版、2015などがある。加藤周一氏とは15歳年下である。加藤氏は自分はフランス文学者であるといったことはないが、1951年医学生としてフランス留学をしてサルトルの影響を多大に受けていることから、サルトルに関して二人の関係は濃いと思われる。本書に入る前に見通しが良くなるので、加藤周一氏の年譜を見ておこう。

加藤周一 年譜
西暦年年齢
事項
西暦年年齢
事項
19190東京の医者の家に生まれる197455父逝去する。アメリカのイェール大学客員講師となって渡米
193112東京府立第1中学校(現日比谷高校)に入学、満州事変勃発197556「日本文学史序説」上巻刊行、上智大学教授となる
193617第一高等学校理科乙類に入学、2.26事件197657「日本人とは何か」刊
194021東京帝国大学医学部に入学、翌年太平洋戦争始まる197758「言葉と人間」、「日本人の死生観」刊
194223中村真一郎、福永武彦らと「マチネ・ポエティーク」結成197859スイスのジュネーブ大学客員教授
「加藤周一著作集」刊行開始
194324時局から医学部を繰り上げ卒業させられ、付属病院医局に勤務197060平凡社「大百科事典」編集長に就任
194526付属病院医局が信州に疎開し、上田で終戦を迎える。
日米「原爆影響調査団」に加わり広島へゆく
198061「日本文学史序説」下刊行、大佛次郎賞受賞
194627「天皇制を論ず」、「焼け跡の美学」などを発表し、
本格的に執筆活動を始める
198364英国ケンブリッジ大学、イタリアヴェネチア大学局員教授になる
「山中人陂b」刊
194728最初の著書「1946・文学的考察」(中村、福永と共著)刊
「IN EGOISTOS」発表
198465「サルトル」、「日本文化の隠れた形」刊、「夕陽妄語」連載開始
194829「現代フランス文学論」刊198566フランス政府より芸術文化勲章シュヴァリエ受賞
194930小説「ある晴れた日に」連載、母逝去す198667メキシコのコレヒオ・デ・メヒコ大学客員教授となる
「古典を読む 梁塵秘抄」刊
195031「文学とは何か」刊198768アメリカのプリンストン大学で講義
NHKにて「日本その心とかたち」放送
195132「抵抗の文学」、「現代フランス文学論」、「海の沈黙。星への歩み」刊
フランス政府留学生(医学)として渡仏、パスツール研究所勤務
198869立命館大学客員教授、都立中央図書館長就任
195233「抵抗の文化」刊198970アメリカUCデービス校で講義、「ある晴れた日の出来事」刊
195536フランスより帰国、東京大学医学部付属病院勤務
「日本文化の雑種性」発表、「ある旅行者の思考」刊
199273ドイツベルリン自由大学大学客員教授となる
195637小説「運命」、「雑種文化」刊199475朝日賞受賞、中国北京大学で講演
195738「近代日本の文明史的位置」発表199576NHK人間大学テキスト「鴎外・茂吉・杢太郎」刊
195839第2回アジア・アフリカ作家会議準備員会出席
医師廃業し、「政治と文学」、「西洋賛美」刊
199677「加藤周一講演集」刊行開始
195940「現代ヨーロッパの精神」
「ウズベック・クロアリア・ケララ旅行記」刊、「戦争と知識人」発表
199778アメリカのポモーナ大学客員教授となる
196041カナダ・ブリティッシュコロンビア大学教授となる199879「翻訳と日本の近代」(丸山と共著)刊
196546「日本文化の基本的構造」発表、小説集「三題噺」刊199980「加藤周一セレクション」刊行開始
196647「羊の歌」朝日ジャーナル連載開始200081フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章受章
「私にとっての20世紀」刊
196748「芸術論集」刊200182中国香港中文大学で講演
196849「羊の歌」正続刊、チェコ旅行でソ連プラハ進攻に遭遇200283イタリア政府より勲章コンメンダトーレ受賞
196950「言葉と戦争」、「日本の内と外」刊
西ベルリンのベルリン自由大学教授就任
200485佛教大学客員教授となる、「九条の会」呼びかけ人になる。
「高原好日」刊
197152日中友好協会訪中団の一員で訪中
「日本文学史の方法論への試み」発表
200586「20世紀の自画像」刊
197354「日本文学史序説」連載開始200788「日本文化における時間と空間」刊
---200889胃がんになり、カトリックの洗礼を受けて12月5日逝去する

第1章) 観察者の誕生ー幼少・青年期

加藤周一の年譜に見る様に、終戦で26才を迎え、医師と文学の二足の草鞋のスタートとなった。47歳で書かれた自伝「羊の歌」に幼年期から青年期に至る面白い話が掲載されている。加藤氏は作家というより、文芸評論家であり、「雑種文化論」の文明評論家であり、「日本の心とそのかたち」の美術史家であり、「日本文化における時間と空間」の思想史家であり、「夕陽妄語」の時評家であり、「九条の会」の政治参加者であり、その他諸々に関係した人であった。こういった多面的人間を作ったのは育った環境と時代なのであるが、その辿った道が「羊の歌」に表現されているのである。話は母方の祖父の肖像から始まる。「前世紀の末、佐賀の資産家の一人息子が明治政府の陸軍の騎兵将校になった」で始まる。ただ父方の祖父母の影が薄い。それに対して母方の祖父像はハイカラな明治人として描かれている。渋谷の宮益坂の広大なお屋敷が念入りに説明され、洋間はイギリスのヴィクトリア朝様式をまねた作りで、3人の書生と女中に囲まれた中流で資産家の家に育ったという。幼少のころのイタリア料理店から西洋の感覚を感じ取ったようである。祖父の娘と結婚した加藤氏の父は埼玉の地主の子であった。東京帝国大学医学部の医局長であったが、開業医となり気位の高い医者であった。加藤氏の父母は躾の厳しい、民主主義的で合理的な考えだった。従って加藤少年には反抗期というものがなかった。家は裕福でお坊ちゃま育ちの少年には、効率の小学校へ行ったので近所はもちろん学校でも遊び友達がいなかった。小学校の5年で飛び級の中学受験をし、12歳で東京府立第1中学校(現日比谷高校)に入学した。良家の子弟の集う第1中学の5年間も彼には友達はできなかった。「羊の歌」には「空白5年」と記されている。名門の第1中学は、夏目漱石、谷崎潤一郎、辰野隆、竹内好ら多くの文学者、学者を輩出しているので、語り合える学生がいなかったわけではなく、むしろ加藤少年に問題があったようだ。敬遠された秀才にとってここでも孤独であった。少年は孤独を「観察」という姿勢として乗り越えたのだろうか。ここで少年が目覚めたのは書物の世界であった。世界を解釈する喜びであったかもしれない。加藤の文学への目覚めは、描写でもなく想像力でもなく、その語り口つまり文体にあったようだ。1936年旧制第一高等学校理科乙類に入学した。当時の第一高は全寮制で、初めて親から別れた生活が始まった。テニス部に入り集団生活を始めたが、「校友会雑誌」の活動など次第に執筆活動に重点を移し始めた。小説も2,3篇書いた。当時の一高の教授のドイツ語の片山教授が紹介する西洋の文人たち(ベルグソン、ロマンローラン、リルケ、ハックスレー、タゴール・・・)を知ることになった。また築地小劇場にも通い詰めた。時代は2.26事件から日中戦争と軍国主義思想に靡いてゆくが、加藤青年は政治に近づかないノンポリを決め込んでいた。この点では積極的に係わった先輩の丸山真男とはずいぶん違った学生生活であった。太平洋戦争突入の前年東京帝国大学医学部に入学した。加藤青年の合理主義的思考から当然「この戦に勝ち目はない」と家族に言っている。彼は真珠湾攻撃の夜新橋歌舞場に文楽を見に行った。人情表現に一部の隙も無い世界に陶酔したというべきか。人々が正義の戦争に陶酔し国民精神の総動員を叫ぶ中、かれは白けた思いで日本帝国の没落を観察するのであった。東大の教授・助教授にはだれ一人この熱狂に加わらなかったhとはいない。加藤青年は東大入学後急速にフランス文学に傾倒していった。家庭がカトリックの環境にあったこと、中村真一郎や福永武彦という友人の影響、ドイツ語片山教授の影響などが考えられる。そしてフランス文学科に頻繁に出入りし、現代フランス文学の最前線の作品を原文で読んでいた。中でもフランス象徴詩に夢中になり、渡辺一夫と親交を深めたという。この渡辺一夫に連なる系譜には、加藤周一、大江健三郎らが戦後日本の一つの精神の系譜となる。1943年、時局から医学部を繰り上げ卒業させられ、付属病院医局に勤務することになったが、1945年付属病院医局が信州に疎開し、上田で終戦を迎えた。かれは肋膜炎から健康上の理由で徴兵検査丙種合格で徴兵されていない。こうして医局勤務として疎開先で終戦を迎えた。

第2章) 戦後の出発‐フランス文学への目覚め

終戦後、加藤青年(医師)がしたことは、加藤周一・中村真一郎・福永武彦共著「1946・文学的考察」に示される怒りである。日本に独自なものは何もなく、文化は借り物、知識階級はチンドン屋、日本の一切を破壊しろとう過激な否定の精神に満ちていた。その怒りは天皇制・軍国主義・専制主義・封建制に向けられた。あの戦争を支えた人間・制度・文化はすべて破壊の対象であった。不合理・非人間性・封建制これが日本の精神であると言い切った。彼の主張は「焼け跡の美学」に酔いしれたもので、整合性・体系性のある思想とは言い難かった。しかし次第に加藤青年から「人民の中へ」というスローガンは消えていった。政治参加(アンガジュマン)の記念すべき第1歩ということはできる。1946年から51年に渡仏するまで、加藤氏は「近代文学」などの雑誌に100篇近い文章を書いている。戦争中のフランス文学熱がここで一挙に溢れ出たというべきでしょう。1948年に「現代フランス文学論1」、1951年に「現代フランス文学論」を発表した。30歳前後で無名の専門外の青年医師がフランス文学論を書くこと自体、そして彼に発表の場を与えた社会がいかに外国文学に飢えていたかを示す。当時の加藤青年の主たる関心が次の5つのグループの作家たちであった。@象徴主義の詩人、ボードレール、ヴェルレーヌ、マラルメ、ヴァレリー、ブルースト、ジード、クローデル、Aロマン・ローラン、ジャン・ゲーノ、ブロックら反ファッシズム戦線の作家たち、Bマルロー、サルトル、Cレジスタンスの作家たち、アラゴン、ヴェルコール、エリュアール、ピエール・エマニュエル、ジャン・ケルロー、D演劇作家、アヌイ、ジロドー、カミュ、サルトルらである。中でも加藤青年が傾倒したのは象徴派詩人なかでもポール・ヴァレリーであった。特に彼独自の見解が示されたわけではなく、全体像を撫でただけの文章である。彼の独自性は19世紀思潮の読み方にあるという。19世紀前半のロマン主義には現実認識はない。「ヴェルレーヌは神秘主義的体験、ランボーは自然神学的認識、ボードレールはカトリシスム、マラルメはごちゃまぜの詩的せかいになる」といった表現である。理性によって神の本質に迫るというトーマス主義(カトリック史観)を信奉していたように思われるという。なぜ加藤氏は象徴派に惹かれたのだろうか。それは戦争中の孤立感、閉塞感であったようだ。ヴァレリーは自分の内面にひとつの言葉の宇宙を作り、それによって外の世界に対決しようとしたからである。ロマン主義や反ファッシズム作家への共感は、戦争中の天皇制軍国主義指導者、大勢順応主義者への憎しみから発している。かくして加藤青年にはフランス文学が心の支えになった。戦後の論壇は驚くほど活気があって、あちこちで熱心な議論が繰り返された。加藤氏が拠った雑誌は「近代文学」、「総合文化」、「新日本文学」であって、「近代文学」に寄せた「IN EGOISTOS」という一文に、荒正人批判がある。荒がいうエゴイズムをいくら拡大しても民主主義の出発点はならないこと、そして私生活や心理的私を出発点にしろという荒の主張に対して、作家の自己凝視を深めても社会批判につながらないと批判した。また荒がプロレタリア文学の敵対者そして戦争協力者だった小林秀雄を擁護したことに対して、加藤の見解はなかった。加藤氏は荒の自然主義文学に対しては否定的であった。戦争中加藤青年は何篇かの小説を書ていた。1949年小説「ある晴れた日に」の連載を始めた。戦争体験が主題の長編小説である。加藤周一における戦争体験の全体化、自己の感情、心理、思想のすべてを表現の中に投げ込む社会参加の試みと言える。しかし小説家として加藤氏が成功したということはなかった。

第3章) フランス留学ー近代ヨーロッパを見る

1951年11月からほぼ3年半近く、加藤周一氏は医学部門の政府留学生としてフランスに滞在した。フランスのパスツール研究所で血液学の研究をしたらしいが、興味の中心はそこにはなかった。フランス文化を精一杯吸収しようとする文系留学生であった。こうした「西洋見物」の成果が、旅行記、絵画論、文明論となって現れた。1955年「ある旅行者の思想」では、ある国を見る時、建築物など文化遺産、彫刻など美術品を見る眼、その国の社会情勢、政治体制を見る眼の二つが同時に働いている。とくに前者に見るべきものがない国はこき下ろされる。その例がスイスである。「スイスは美しい、しかしスイスには何もないじゃないか」と。イタリアを訪問し、フィレンツエ、ヴェネチア、ローマを絶賛する。自然は人間の遺産があってこそ美しいと逆説的に言う。言い方にきらりと光る表現がある。「ビザンチンの不安な眼」、「エジプトの静かな眼」、「ロンドンは商売をするようにしかできていない」とかイギリスの造形美術の評価は低い。1958年「西洋賛美」で美術、芝居、オペラのエッセイを書いた。中でも加藤氏はヴェラスケス、ファン・アイク、デユーラー、ルオーの四人の絵画論を展開した。絵画や建築物は見ても言葉に表現しなければならない。王侯貴族の肖像画では立派な衣装に比べてその表情の愚劣さは隠しようがない。そこに画家の内的自由を見て取るのである。肖像画の黄金時代は16世紀、17世紀にレンブラントとヴェラスケスが最後の様式を作ってから、以降は肖像画は「分解と廃頽の過程」である。例外は19世紀のゴヤ、アングル、コロオだという。また「印象絵画の時代肖像画にとどめを刺した。抽象画が死体解剖を引き受けた」という表現は面白い。加藤周一氏は普遍的な古典主義をひいきにしたことは明らかである。帰朝後の1959年に「現代ヨーロッパの精神」を発表した。内容は滞仏中の知的蓄積である。S・ヴェ―ユ(キリスト教的社会主義)、サルトル(実存主義)、G・ベン(ファッシズム、詩人)、G・グリーン(カトリシズム)、K・バルト(プロテスタンティズム)、E・M・フォースター(ヒューマニズム)といった人を取り上げている。その選択は啓蒙家としての加藤のバランス感覚である。なぜファッシズム支持者ベンを取り上げたのか、ナチズムがなぜドイツ大衆の支持を得たのかという問いが、日本でも大衆がなぜ軍国主義を支持したのかという問いと共通しているからである。「多数の大衆は静かにヒトラーを支持していた。その代弁者は、詩人ベン、哲学者ハイデッガー、歴史家マイネッケである。彼らは協力した。」という。ベンは芸術の至上性と歴史(政治)の拒否を貫いた。日本でも斎藤茂吉(医師、歌人)や高村光太郎(彫刻家)もその芸術至上主義から侵略戦争を支持し鼓舞した。加藤はファッシズム支持(天皇制軍国主義)者の戦争責任は、その大部分が機会主義者の破たんの決着に過ぎないと総括した。加藤は小林秀雄の心情主義とベンの歴史主義(政治権力闘争論)を比較して、小林秀雄に対する戦争責任批判は鋭さを欠いている。加藤の批評手法は、まず時代と社会の問題について考え次に文学と思想の動きを語る姿勢は、以降の基本的方法となった。戦後のヨーロッパの社会問題は、@米ソ冷戦下における欧州の地盤低下、Aアジアアフリカの独立と植民地闘争の激化、B労働問題と社会主義への動き、C機械化による労働の非人間化・画一化であった。それに対して加藤氏は社会側の対応としてイギリス労働党のコールと経済学者フリードマンを紹介している。又哲学・思想の側からサルトルとカミュを紹介しているが、加藤氏の立場は社会主義に歩み寄るサルトルに近いことは明らかである。なお1950年代の欧州の問題は、2010年代の欧州や日本の課題に同じであると著者は言う。冷戦終了後米国の石油をめぐる戦争と金融資本のグローバリゼーションに変わっただけである。フランス土産として、1956年に加藤は小説「運命」を書いた。テーマは旅行者がヨーロッパ中世の美術を発見することであった。シャルトル大聖堂をみて永住か帰国かを迫られる旅行者の心情である。数年の滞在でヨーロッパ美術が分かるかけではない、それは日本においてもそうである。文化の相違よりも類似に気が付いたという。

第4章) 雑種文化論の時代

以上の第1章から第3章までで加藤氏の前半生の紹介を終わる。いわば氏の吸収の時期が終わって、帰国後加藤氏はフランス文学紹介者の看板を捨て去り、1955年「日本文化の雑種性」で文明評論家に変身した。また1958年には医師という憂き世の義理も脱ぎ去った。そして加藤氏の思考は「日本的なもの」あるいは「近代化」を巡って展開される。この論文の主張は次の3点に尽きる。@日本文化の雑種性を直視せよ、A純粋文化主義・国民主義も、近代化主義も共に不毛である、B文化の雑種性には積極的意義がある。日本文化のひずみや偏りも個性のうちという事であろうか。明治以降の西洋文明に流入により、日本文化が雑種化したことは疑いようのない事実である。日本文化の雑種性の積極的な意味づけは、戦後の民主主義の擁護とワンセットになっている。明治維新は歴史の断絶か連続かをめぐって、加藤氏は後者の立場に立ち、いきおい仏教伝来においても原始宗教と日本人は何も変わらなかったとさえ言うのは肯けない。戦後の民主主義の評価は、支配者はともかくとして「日本人の意識」の変化を評価していることと矛盾するからである。kの食い違いに気が付いたのか、加藤氏は1957年「近代日本の文明史的位置」において修正を行うのである。この論文は梅棹忠夫の「文明の生態史観序説」批判として提出された。梅棹氏は明治維新以来の近代文明と、西欧近代文明を並行関係に置くのであるが、それでは両者は無関係となり独自発展(いわゆる今西錦錦司の棲み分け理論に近い)とある。何のために西洋文物を大量輸入し制度をまねたのか意味不明となるとしてこの見解に反対する。梅棹氏の文明観とナショナリズムの関係には注意が必要だ。こうして加藤氏は西洋化に還元しえない近代化の最大の恩恵を、都市労働者の民主主義意識の萌芽のうちに見るのだという。一方、大衆の意識構造として、万葉の昔から感覚的自然に対する美意識が変わらない事、そして価値観が生活をはなれないという超越的構造が欠如している(即物的)ことを加藤氏は指摘する。こういう大衆の意識構造は民主主義意識の足を引っ張ることとも矛盾に加藤氏は苦しんでいた。1957年「日本的なものの概念について」で加藤氏はさらに一つの修正を行う。「雑種文化はいつも日本の現実であった」として、いわゆる日本的なもの(もののあわれ、わび、さび)などは限られた閉鎖社会の一面であって、国学者の偏見に過ぎないとか、世襲制度に立つお茶・花道・能・歌舞伎社会を批判する。それにたいして今昔物語や狂言などに大衆の実践的機知と心理に躍動を見るのである。こうした修正も、日本文化論は信条告白というべきで系統的理論でない以上、致し方ないものだ。議論を整理すると、日本的なという内容と、日本文化全体なのか特別のジャンルなのかに少し揺れがあったので、加藤氏は明治維新以前にさかのぼって雑種論を構築する方向に動いたこと、そして日本の近代化は明治維新による断絶はなく、自発的な近代化過程としてとらえるべきことである。加藤氏の雑種文化論はいわば「つぎはぎ理論」であって、多くの賛論と反論を生んだ。しかし雑種文化論は前提として文化の輸入を基にしているので、これは偏狭なナショナリズムに対抗する思考装置になる。雑種文化論と並行して加藤氏はいくつかの知識人論を発表している。1957年の「知識人について」は西欧の知識人と比較しながら日本の知識人の特徴を示したものである。その比較は表面的で今では合致しないことが多く、現実的に知識人が権力側に群がっている姿は、イギリスもフランスも日本も同じである。1959年には「戦争と知識人」を発表し戦争協力と非協力を取り上げたが、当時の文壇の転向論(吉本隆明、花田清輝、鶴見俊輔)に対応したものであった。加藤氏の論点は転向を生み出した精神構造という点にあった。しかしなぜを問う加藤氏の態度は弱い。生活と思想とのかい離がその要因であるという転向一般論から出ていないし、その思想が薄っぺらな輸入品であったという丸山氏の意見通りである。転向論というより、戦争期の知識人を対象とした日本人論である。そういう意味で加藤氏の論文は現状に主体的に関与する日本社会の変革という実践的視点は弱く、観察の視点が強まったことである。変革のエネルギーになるというより日本思想史全体と向き合う姿勢を明確にしたというべきであろう。

第5章) 1960年代

1960年安保改定騒動の中、加藤氏は「政治から身を遠ざける」かのように、カナダ・ブリティッシュコロンビア大学教授となって日本を離れた。以降9年間この大学で日本思想史、日本文学史、日本美術史を講義した。1960年代は後年の三大著作(「日本文学史序説」、日本美術史「日本その心とかたち」、「日本文化における時間と空間」)に向けた助走と準備の時間であり、方法論が確立されてゆく時期であった。カナダに行く前からすでに助走は始まっていたとみるべきかもしれない。1958年「文学の概念と中世的人間」、1960年「親鸞」がその表れである。ここで加藤氏は日本文学史の対象として、仏教的著作や思想的著作が除外されていたことに疑問を投げかける。それには本居宣長の文学の範疇論、19世紀まつの西欧文学の定義、仏教思想書は漢文であったことが災いしているという。中世13世紀とは鎌倉時代の事であり、朝廷文学の衰えと武士階級の興隆の時代である。加藤氏は宮廷文学の流れを汲む「方丈記」ではなく、真宗の「歎異抄」、道元の「正法眼蔵随聞記」に注目する。善悪の基準を乗り越える「他力本願」、「我の否定」する思想である。「親鸞」では日本固有の彼岸的世界観が中国仏教から何を受け手何が変わったのかを問うのである。歴史の転換期13世紀を持ち出すのは、奈良時代以来の仏教が貴族のための救済仏教(加持祈祷の天台密教)であって、思想といえるものではなく普遍性・超越的性格を有していなかった。ところが12世紀末から13世紀にかけて現れた、法然、親鸞、道元、日蓮を通して、初めて日本の大衆は仏教の本質に触れることになった。直輸入仏教ではなく「日本仏教」の誕生が中世、13世紀なのである。救済の対象が貴族ではなく、身分階級に関わらず普遍性のある大衆、個人となった画期的な時代なのである。この辺の説明は「日本文学史序説」でも繰り返されている。法然も親鸞も超越的浄土思想である。加藤氏は平等思想を説く親鸞に強く共感した。人間らしさを従来仏教が悪というなら、悪になって仏を信じて往生を遂げようと開き直る強さに憧れた。仏に騙されるかもしれない、法然に騙されているのかもしれないが、信じる覚悟を求める。他力本願がなぜ日本人の人生観・宗教観を根本的に変えなかったのだろうか。そこに自由意志という考えがなかったからであるという。「親鸞」以降、加藤氏は「宇津保物語覚書」(1962年)、「日本文学の伝統と笑いの要素」{1966年)、「徳川時代の偶像破壊者・富永仲基」(1967年)、「茶の美学」(1963年)、「日光東照宮論」(1965年)、「仏像の様式」(1967年)などを次々と発表した。これらは各論であるが総論に向うスピードも上がってきた。ドイツ語で「日本文学史の方法論への試み」(1971年)を著した。方法論の第1の内容は文学概念を拡張すべきことである。精神史への関心、儒教の伝統の再吟味、仏教の役割の評価であり、文学の定義を「現実の特殊な相を通じて、普遍的人間的なるものを表現する言語作品である」とした。これはじつはサルトルの定義である。方法論の第2の内容は、日本文学の流れを、外来イデオロギーとの関係で3つの範疇に分類したことである。強く影響を受けた知識人の文学、影響を受けなかった大衆文学、日本土着の伝統的世界観と外来イデオロギーの総合から生まれた新たな文学という区分である。加藤氏はカナダ滞在時代の3つの小説を発表した。「詩仙堂志」(1964年)、「狂雲森春雨」(1965年)、「仲基後語」(1965年)、そしてその3つを併せて「三題噺」(1965年)を単行本で刊行した。すべて伝記であるがある面をクローズアップする手法で、文体もユニークである。「詩仙堂志」では老人と私の対話形式、「狂雲森春雨」は一休に愛された女のモノローグ、「仲基後語」は仲基と同時代の人々(死者)を呼び出して新聞記者がインタビューする形式である。武士から世捨て人になった石川丈山の日常生活の芸術化、平安時代の日記の文体による一休和尚のポルングラフィー、日本人のくせを論じた知性主義者仲基のお話である。1966年「羊の歌」はアサヒジャーナルに連載された。少し早すぎる自伝を書いた加藤氏の心境は、サルトルの自伝「言葉」(1964年ノーベル文学賞受賞拒否で有名)に影響されたものと思われる。書き出しが祖父から始まること、自然のテーマが多いこと、文体が類似している。サルトルは実存的精神分析者として自分に距離を置いた「自虐のナルシズム」で自伝を書くが、加藤氏もそれに近い距離で自分を描いている。「羊の歌」の前半部は第1に都会の中産階級の息子の自己形成の物語である。ただ中学5年間にひとりも友人がいなかった空白の日々で、記憶に残るのは道玄坂の夕陽だけだったという。第2に「羊の歌」は両大戦の間の日本の文化風土の記録である。築地小劇場、印象派の絵画、ドイツロマン派の音楽、当時の知識人の証言などにみられる。第3に戦争直後の東京市民の「不屈の生活力」の描写が優れている。第4に広島原爆調査団に医師として参加したことの言及が何もないことが気にかかる。表現不能なのか語りたくなかったのだろうか。占領軍への協力を恥じた沈黙なのであろう。第5に自伝「羊の歌」は全体化の試みである。時代の社会と文化の中に位置づけながら一人称で語る自伝が反省的であるがゆえに、語られなかったことが多い。「羊の歌」という本はこの後で読む予定なので、詳しくは読書ノートにまとめる。1960年代の末は世界は若者の不満で爆発しそうであった。1968年アメリカの白けたヒッピー文化を論じた「世直し事はじめ」は、小田実の「何でも見てやろう」を出るものではない。急進的なフランスの学生運動「五月革命」の記述はそれほど突っ込んでいない。1968年プラハの春で、冷戦と民主主義への異議申し立てから始まった若者の運動は知の在り方、生活の在り方を揺り動かし、以降映画、演劇、哲学(フーコら)、絵画に深い影響を与えた。1969年加藤氏は西ベルリンのベルリン自由大学教授に就任したが、学生に授業をボイコットされたり学生との関係は良くなかったようである。1973年加藤氏はベルリンを去った。1968年プラハの春(ドプチェク政権の自由化政策、ハベルら知識人の宣言)とソ連のプラハ進攻に遭遇した加藤氏は、1969年「言葉と戦車」を書いた。チェコ国民は無抵抗主義を選択し、「圧倒的で無力な戦車、無力で圧倒的な言葉」という表現を残した。民主主義的社会主義のチェコをソ連は圧殺した。ところが加藤氏の政治思想は捉えがたい。又1965年に始まった中国の「プロレタリア文化大革命」は1968年劉少奇ら「ブルジョワ実権派」打倒となった。永久革命と権力闘争に終始した文化革命は、経済政策の失敗、国民生活の困窮化を隠すための毛沢東派の巻き返し策であった。加藤は1971年の秋訪中して、「中国または反世界」を書いた。加藤氏はある意味で非政治的であり、政治音痴かもしれない。文化革命の権力闘争には目が向けられていない。とはいえ当時の知識人も文化革命の意味を正確にとらえている人は少なかった。

第6章) 日本的なものとは何か―日本文学史・日本美術史

「日本文学史序説」は数ある加藤氏の作品の中でももっとも代表的な作品である。加藤氏の文学史は読み得る文学史である。1971年「日本文学史の方法論への試み」の準備期間を経て1973年より「日本文学史序説」の連載が始まった。1980年この著作によって大佛次郎賞を授与された。「日本文学史序説」については、加藤周一著 「日本文学史序説」(ちくま学芸文庫 1999年)に述べたのでその内容の詳細には入らないで概要だけを整理する。
* 冒頭の「日本文学の特徴について」は結論的に5つの特徴をあげている。
@ 西欧や中国に比べると、文学が美術と共に文化全体に占める役割が大きい。文学史が思想や感受性の歴史を代表している。抽象的・普遍的・超越的であるより、具体的・非体系的・感情的な言葉の秩序を築いている。
A 同じ言語空間による文学が持続的に続いている。旧が新に置き換わるのではなく、新が旧に付け加わるのである。これが価値の多義性をもたらす。 
B 長い間文章として中国語と日本語が併用されてきたことによって、日本的な漢文、中国語彙を使った日本文が生まれた(漢字仮名交じり文)。 
C それは都会の文学であり、文学を担う知識人階層が時代とともに移動した。しかし大衆の文学はいつもその外にいた。ドロップアウト(隠者の文学)が成立し、同じ価値だけを認める閉鎖的集団(俳諧)となった。 
D 多くの外来思想の浸透(仏教、儒教、キリスト教、外国文学、マルクス主義など)によるよりも、土着の思想による外来思想の日本化が行われた。
では加藤氏の言う「土着的世界観」とは何だろうか。先祖崇拝、シャーマニズム、アニミズム、多神教といったものだというが、それらが日本人の生活のバックボーンとしてあることは、失われつつある古代の痕跡として民俗学者柳田国男氏の言うことと同じである。万葉集はほとんど仏教の影響を受けていないように見える。中世の禅が茶や水墨画に影響したというより、禅が茶や絵に結び付いたという方が正しいという。ここでいう加藤氏の外来文化の日本化は確かに言えるかもしれないが、私は逆に文化現象を先祖崇拝、シャーマニズム、アニミズム、多神教からすべて説明することは難しいと思う。外来文化が入る前の日本伝統の思想があるならば、外来文明化の過程として、時代の遺物として変化するものと理解する方が妥当な気がする。外来文化の利点が大きいからこそ導入するのであって、不便よりは便利を選ぶのが理という。
* 文学史の展開をどう見るか、加藤氏文学史の特徴が6つにまとめられている。
@ 叙述の形式として、まず政治権力の在り方を書き、次いで文化、文学の動きを概観し、最後にジャンル別に個々の作者と作品に言及する。まとめとして土着的世界観との関係が述べられる。
A 社会の歴史の中に文学を位置付けること。13世紀を武士世界として仏教改革の動き。意義を説明する。
B 作者と読者(受け手)との間の関係に注意を払っている。読者層は誰かという読書学である。そして文学(芸人)の生産者の専門化、職業化の確立を言う。
C 文化の担い手がその時の政治権力とどう関係したかということ。江戸時代の武家支配の一翼を担った儒教と仏教、道徳を明らかにした。
D 時代区分を明確にしたことである。転換期として日本文学史を大きく4つ設定した。9世紀平安文化、13世紀鎌倉武士文化、16世紀室町戦国時代、19世紀幕末明治維新前後の西洋文物輸入時代である。また明治文明開化を担った世代を新たに定義し、明治の群像を把握しやすいようにグループ化を図った。
* 最後に作品の評価の基準を何に求めたかである。個人的な好みと客観性のはざまで加藤氏独特の基準を見ると、
@ 一つの作品が文学の世界を拡大したかどうか。山上憶良の万葉集の内容の拡大、菅原道真の漢詩集の宗教的側面、近松門左衛門の町民の浄瑠璃がその例である。
A 人間の現実にどれだけ鋭い視線を向けたか。今昔物語の現実直視姿勢、源氏物語の時代の流れと人間の条件、井原西鶴の町人社会の価値観
B 先駆性、独創性。紀貫之の土佐日記、竹取物語の構成の緻密さ、伊勢物語の心理描写、荻生徂徠の学問の評価、富永仲基の思想史、本居宣長の実証主義的文献学
C 合理主義的かどうか。荻生徂徠と新井白石の合理的精神
D 思想が革命的であったかどうか。法然、親鸞の大衆宗教
E 共感できるかどうか。権力への異議申し立てへの共感である。吉田兼好の徒然草、狂雲集の一休宗純、法華経の佛性院日奥、自然哲学の安藤昌益
* 加藤氏の日本文学史序説がなぜ面白いかを著者海老坂氏は次の3点にまとめている。
@ 比較の着眼点の面白さ。二者を比較しながら、その類似と相違をぴしりと決める切れの良さ。古事記の恋物語とワーグナーの音楽
A 散りばめられた数々の皮肉(イロニー) 山部赤人の職業歌人化が月並みを生んだこと。
B 逆説的表現の面白さ。抽象的な能が大衆から生まれたこと、

1980年代の後半、加藤氏の興味は日本美術に向かった。1987-88年NHKでの放送をまとめた「日本 その心とかたち」が刊行された。私は日本美術史を書いた作家として、橋本 治著 「ひらがな日本美術史1巻」(新潮社 1995年)同第2巻同第3巻同第4巻を読んだことがある。古墳時代から江戸時代琳派までを扱ったやさしい美術史である。「日本 その心とかたち」では仏教美術(阿弥陀信仰)に力が割かれ、源氏物語絵巻にはわずかに触れるだけであったので、加藤氏は当然「日本美術史序説」をめざしたのだろうが、日の目は見なかった。2005年スタジオジブリから写真100枚をつかって「日本 その心とかたち」の決定版が出された。千利休を描いた「茶陶のゆがみ」から「美術革命」にかけても刺激的な視点である。加藤氏は利久を「日本文化の原型」を発見したと称賛している。2007年「日本文化における時間と空間」は、10年来温めてきた方法論である。文学や美術であれ帰納法的な手法で積み上げて関連性をつけるという体系化の方法を提示した。この方法論について、加藤氏は政治思想家丸山真男氏と討論を行っている。加藤氏にとって丸山氏は絶えず「対話者」であったとみられる。1972年に「歴史意識の古層」について、「次々となる」と「ここに」について議論した。「日本文学史序説」の連載が始まった時点で、加藤氏は日本の土着的世界観を「非超越性」としたが、丸山氏は比較すべき対象は「理であり、規範主義的価値観」であると指摘した。「古代日本文化が意識した歴史的時間は、始めな終わりのない時間直線」と加藤氏は主張するが、丸山氏の「なる、いきおい」という始原説は退けている。今という時間をどう見るかは、丸山氏は「いま」を享受する日本人の楽観主義・現世主義を指摘するが、加藤氏は今とは土着的世界観そのものである。そもそも両者は分析する対象が異なっている。丸山氏は日本・中国の史書であるが、加藤氏は文学作品・美術品である。そして西洋文物・技術・制度の輸入の先にある、日本の「精神の根本的変換(開国)」はあり得るのかという問いに対して、加藤氏は不可能とは言えないだろうが、容易でないと予感しているのではないか。政治から距離を取ってきた加藤氏の政治参加(アンガジュマン)はどうなっているのだろう。終章で見てゆこう。

第7章) 希望の灯をともす―20世紀の語り部

加藤周一氏は政治的アンガジュマンを避けている知識人だという印象が強い。観察・分析・提言はするが、運動に加わるとか党派にくみすることはなかった。戦後一時期過激な発言はあったが、1951年より5年間フランス留学へ、1960年カナダ・ブリティッシュコロンビア大学教授として赴任、1969年西ベルリンのベルリン自由大学教授として赴任、1974年アメリカのイェール大学客員講師となって渡米の他にも、1978年スイスのジュネーブ大学客員教授、1983年英国ケンブリッジ大学、イタリアヴェネチア大学局員教授、1986年メキシコのコレヒオ・デ・メヒコ大学客員教授、1987年アメリカのプリンストン大学で講義、1992年ドイツベルリン自由大学大学客員教授、1994年中国北京大学で講演、1997年アメリカのポモーナ大学客員教授、2001年中国香港中文大学で講演といったふうに、海外での活躍が長かったせいもあって、国内の各種運動には全く関与していない。1955年フランスから帰国後、加藤氏はアジア・アフリカ作家会議に加入した。日本では堀田善衛氏、野間宏氏らが主導していた。1958年にはタシケントで行われた国際準備委員会に参加し、その時「ウズベック・クロアチア・ケララ紀行」という紀行記を出した。3つの社会主義国訪問と比較が目的の旅であった。1958年「政治と文学」など一連の論文を発表したが、世界情勢の分析が主で加藤氏は「現実主義」のカードは離さず、決して理想主義に走ることはなかった。60年安保改定には、協同討議文書の署名には加わったが、その存在意義は薄かった。すでにカナダ行きは決まっていたせいか運動に身は入らなかった。1980年代後半から2000年代にかけて、加藤氏は書くことから語る事へ重点を移していったようだ。20世紀の語り部として、戦争責任、核戦略問題、アメリカを中心とした核・石油戦争など世界情勢の分析、憲法九条の会への参画などの活動である。これらの時事問題への発言が多くを占めたが、内容が雑多になるので省略する。晩年の加藤氏の執筆活動で、1980年7月から亡くなる2008年7月まで28年間続いて朝日新聞に連載(月1回)された「夕陽妄語」が傑出している。そこで述べられた政治と文化に関するエッセイ(時評)を分類すると、次の二つが主となる。
@ 国際政治の動きについての観察と分析である。冷戦終了から湾岸戦争、9・11、アフガン・イラク戦争という一連の世界情勢に加藤氏は常に鋭いコメントを出し続けた。核の傘の無意味さを訴え続けた。しかしオバマ大統領さえコントロールできない核廃絶問題は実現しそうにもない。
A 日本の保守化、右傾化、新国家主義への警告である。憲法九条の無理な解釈から海外派遣容認、そして最後は九条改定、軍備強化、徴兵という戦前日本への回帰現象を警告する。何を主張しても日本の右傾化、軍国主義は強まってゆく。
B 科学技術の危うさと原発問題である。専門化によって理解不能な社会が暴走した結果が原発村と原発事故であった。
こうしたことに加藤氏は悲観主義者にならざるを得ない。懐疑主義者は判断を停止し沈黙する。それでも加藤氏の意志は楽観論者である。イタリア共産党のアントニオ・グラムシは「知性のペシミズム、意志のオプチミズム」といった。加藤氏もそのような気持ちなのだろう。彼が語るのは誰についても、故人の志であり、姿勢であり、仕事の意味である。、つまりは持続する志である。



読書ノート・文芸散歩に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system