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武藤 徹著 「面積の発見」 
岩波科学ライブラリー(2012年12月)

古代文明の時代、耕地測量の大きさから面積が発見され、縦×横の抽象的面積となり、計量図形学から論証幾何学へ発展した


バビロニア粘土板 対角線 バビロニア数記号表
バビロニア粘土板−−−−正方形の対角線の長さとバビロニア数記号表(60進法) 
・・・序・・・

理系初学生向きの数学の名著に、吉田洋一著 「零の発見」(岩波新書 1939年)があります。ゼロによって数に+、−の方向が与えられ、10進法での計算の革命が起きました。吉田洋一氏によると「まず実用的で経済活動になくてはならない計算(計数)という人間の行為はどうして行っていたのだろうか。19世紀始めのナポレオンのロシア遠征で持ち帰ったソロバンは今日の小学校の1年生の教室に必ず存在する計数器(算盤の基)に似ていたという。日本では、読み書きそろばんは江戸時代の寺小屋で庶民のリテラシーとして教えられていた。西ヨーロッパでは300年前にソロバンは各国の独特の進歩をもって広く普及していたという。ところが西ヨーロッパではソロバンが筆算にとって代られた。この筆算に用いられる記数法は、その数字はアラビア数字と呼ばれた。アラビア数字の起源は遠くインドにあり、アラビア人の手によってヨーロッパにもたらされた。我々の記数法は「位取り」による記数法である。1から9までの数字のほかに0を加えた10個の数字をもってすれば、どれほど大きな自然数(整数)も書き表すことができる。空位(何もないけど位が上がった印にゼロを加える)を表す記号なしには位取りはできない。0こそ実はインド記数法の核心であり、大げさに言えば人類文化の偉大な一歩であったということができる。古代ギリシャ、ローマ、中世フランク王国などユーロッパ諸国ではついに位取り記数法は発明されなかった。ギリシャではアルファベット記数法が行われ、これでは代数学はできなかった。インド式記数法は最も10進法に忠実であった。現在日本で我々が教わっている命数法は10進法であるが、一,十、百、千、万までは一ケタ上がるごとに数名が変わるが、それ以上は繰り返し次は億となる。ところがインド名数法は一桁上がるごとに忠実に名前が変わるのである。ピサのフィボナチ(漸化式というフィボナチの数列で有名)は1202年「ソロバンの書(計算の書)」を表し、インド計数法や商業計算をイタリアに紹介した。13世紀も末になってようやくインド式計数法が普及したようであった。」という。一方本書のテーマである面積は、測定されて初めて面積となるのであるが、大古の昔にはその単位は一日で耕せる田の大きさであったり、一束の稲を生産できる田の大きさであり、一石扶持のように何人の人間の生活が養えるかであったり、田の畔の長さであったりしました。面積=縦×横という計算ができるようになって、いろいろな形の田の測量によって、面積の数値が同じであれば等しい田と見なされます(肥沃度、立地条件は別として)。方形と三角形の土地(円形の土地は建築上意味がありますが)との交換も可能となります。紀元前3000年ごろから都市国家が発達すると、国家支配機構として官僚(数学の職人)による土地の計測および生産量、課税額の計算(今でいうと農水省、通産省、財務省管轄)と記録・統計が行われ始めた。上の図はメソポタミア文明のバビロニア地方を支配したシュメール帝国時代の粘土板の図です。方形の土地の計測と対角線(√2)の長さの計算結果を60進法で書いた粘土板です。なおバビロニアの数の記号も示します。円周率もピタゴラスの定理という公式もなかった時代に、どのように計算したのかは不明です。実測かも知れません。私達は数の体系は最初からあるものとして、自然数(正の整数)、整数、有理数(整数の比)、無理数(小数点以下が永遠に続く平方根など)、超越数(π、eなど)、実数(デディキントの連続概念)、虚数、複素数空間、ベクトルとテンソル、と分類します。しかし人類史としては、採集生活で自然数を発明し、穀物生産と出会って小数や分数を発明し、都市国家時代の貨幣経済で負債をあらわす負数を発明し、膨大な大きさの数を計算するためにアラビア数字やゼロや10進法を発明し、そしてゼロを境としてプラスとマイナスの方向を持つ数の座標を発明し、17世紀から西欧近代数学の誕生を見ました。そして方程式の根として虚数と複素数を得ましたが方向を持つ数として認知されるまで随分時間がかかりました。このような数の動的な転向はやがて、ベクトルや行列を生み出しました。面積も同様です。空間や図形を対象とする数学は幾何学と言いますが、まずはエジプトで耕地を測量することから始まりました。いわば「計量図形学」です。農耕の関連で労働単位や収穫量単位の面積が定義されました。課税の対象として官僚たち(書紀)は面積の一般化を行い、縦×横の長さを基礎とする数値だけで処理をしました。面積が長さと結びついて一代飛躍を遂げました。この抽象的面積概念はバビロニア都市国家から見られましたが、三平方の定理が発見されたのもこの時代です。ギリシャ時代のユークリッド幾何学は「論証図形学」という公理主義として完成を見て、アルキメデスによって面積、体積、仕事量、曲線の長さの諸量も区分積分として求めることが可能となりました。これが微分・積分学という解析学になったのは16世紀以降の事ですが、面積は向きを持ち方向を持つまでになり、面積速度一定の中心力が働く天体力学や古典力学に発展させたのが、ガリレイ、ニュートンの天才たちでした。このようにして見ると、認識の進化に沿って面積は「計量図形学」の世界で生まれ、「実体図形学」として発展した。一般性・抽象性が高くなって「幾何学」として完成しました。

1) 度量衡の誕生

この章は、農耕の始まりと、四大古代文明(メソポアタミア、エジプト、インダス、中国)と都市国家の成立によって度量衡が生まれる時代を概観します。英語のcount nounとmass nounは数名詞、量名詞のことです。massは取引にあたってかさや目方を表すようになり、やがて量一般を表します。物理の世界では「質量」です。「かさや、目方」から分数や小数が生まれました。しかしその前から「長さ」を知っていました。長さの「素朴単位」には、エジプト時代からキュビット(腕尺)、バーム(掌)、デジット(指)がありました。各素朴単位に関連ができ単一の単位で表しました。これを「基本単位」といいます。ここから分数と小数表記が出来ました。都市国家の成立に伴い国家官僚(書紀)が穀物の生産量と課税量を計算し記録するようになりました。そして長さ、嵩、目方の全国統一(中国の紀元前3世紀秦の始皇帝による度量衡の制定が最も大規模で有名です)がなされました。度は物差し、量は枡、衡は秤のことです。各地の文明の度量衡について以下に記します。
@ バビロニア: 農耕が始まったのは紀元前9500年前、メソポタミアの西のレヴァントにおいてです。小麦や豆の栽培跡が見られます。氏族共同体の村ができたのは前5000年頃と言われ、シュメール文明が生まれました。前4000−前3100年の金石器併用時代に灌漑と鍬の導入により飛躍的に食料が増産されるようになりました。人口が増え、社会分業が進み、階級社会が作られました。ウルク期(前3100ー前2900年)に氏族共同体が都市国家となり、南メソポタミアにアッカド王朝(前2344−前2154年)が出来ました。ウル第3王朝(前2112−2004年)にはジックラドという巨大な神殿が建設されました。セム族によるバビロン第1王朝(前1894−前1750年)時代にハンムラビ法典が作られました。この古バビロニア時代は前1595までカッシート王朝(前1550−前1157年)が継続しました。このバビロニア時代の度量衡の数学は支配のための重要な政策として開発されました。食糧の課税、労役算定根拠、そして権威の象徴としての神殿の設計のために用いられました。古バビロニア時代の長さの基本単位はニンダン、クシュ、シュシ(1ニンダン=6m 1ニンダン=12クシュ 1クシュ=0.5m腕尺、1クシュ=30シュシ指尺)でした。旅行単位に(里に相当)スタディオン=180m(人が2分間で歩く距離)があります。地球の1度=600スタディオン(10800m)としていました。体積の単位はシュケルで大麦180粒の体積です。目方の単位も同じシュケルです。シュケルは別にギンと呼ばれ、8.36gです。600ギル=1マナで、約500gでした。バビロニアではすでに銀が貨幣となっていて、貨幣の単位もシュケルでした。銀の価格は金換算で今の20倍ほどの相場でした。
A エジプト: エジプトで大麦・小麦・豆など穀物栽培が始まったのは前5500−4000年ごろで、先史時代と呼ばれる。前4000年ー前3000年を先王朝時代といわれ、上と下エジプトに王朝があったが、前3150年にエジプトは統一され第1王朝が作られ、第2王朝(前2890−2686年)、第3王朝(前2686−2613年)、第4王朝(前2613−2498年)と続きました。第12王朝のセンウセレト3世(前1878−前1841年)は「全国民に正方形の土地を与え、年貢を納める義務を課した」と前5世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスが書いています。この王の身長は4キュビッ3バーム2ディジットだといいます。1キュビット腕尺は45.7cmですので、2m6cmの長身になります。エジプトの記録アーフ・パピルス(前1800年の第12王朝時代)には分数が登場し、ピラミッドの設計が行われました。体積の単位はヘカトで、1ヘカト=3/40キュビット立方(7.17リットル)でした。
B 中国: 中国では農耕がはじまったのは前10000年頃とされます。長江流域では稲作が主でした。前5000年には、馬家浜文化が現れ、良渚文化(前3300−前2200年)に引き継がれました。黄河流域では仰詔文化(前5000−前3000年)が起り、小麦、粟、米などの農耕・狩猟・漁業生活だったそうです。夏王朝(前2000−前1600年)、夏を滅ぼした殷王朝は前1066年に西周に滅ぼされ、西周は前770年に追われて東周となりました。次いで春秋時代(前722−前481年)、戦国時代(前403−前221年)を経て、前221年秦が全中国を統一し、貨幣・度量衡の統一を成し遂げました。周時代の長さの度は、分、寸、尺、丈、引です。約2000年前に10進法が整然と決められました。量の単位は勺、合、升、斗、斛です。(1升=1.8リットル)これも10進法です。重さの衡の単位は、銖、両、斤、鈞、石です。 ここで衡は10進法ではなく、16両が1斤、30斤が1鈞、4鈞が石です。(1両=14.16グラム、1斤=226.67グラム) 
C インド: インダス川の流域で農業が始まったのは、前7000年頃です。前3500年頃西アジアからドラヴィダ人がインダス川流域に進出しモヘンジョダロの都市国家を築きました。モヘンジョダロ遺跡から石灰岩製の物差しが発見されています。アフリカの雑穀と豆はメソポタミアを通じて前2350−前1800年頃に導入されました。前2000−前1500年頃、コーカサスの遊牧民アーリア民族が移動しインドを征服しました。前1000年頃文明の中心はガンジス川流域に移り、農耕社会を形成しました。kのころ「リグ・ヴェーダ―」が成立しました。前5世紀ごろの数学と天文学書「アールヤパティーヤ」によると、1スリ(身長尺)=96アングラ(指幅1.9mm)=4ハスタ(腕尺)、地球の直径は1050ヨージャナ(1.5624万Km)であると記されています。ヨージャナ=4クローシャで馬で行く一日の行程です。インドのハラッパ遺跡で発見された青銅製の物差しは1目盛りが9.3mm、50倍するとギリシャの1キュビット=46.3mmとなる。

2) 面積の発見

面積とは英語でareaといい、面の上2次元の広がりです。1次元が長さ、3次元が容積との関連です。エリアはサンスクリット語の「空き地」を語源としているそうです。英語のゼロは同じくサンスクリット語の「空虚」スーニアを語源としています。インドのゼロは8世紀のゴウタマシッダルタによるっと、点「・」で表されました。歴史上はじめて記号0が現れるのはインド北部で出土した銘板で876年とされています。しかしカンボジアでシャカ暦605年、スマトラで釈迦暦608年のゼロ表示があります。インドのゼロはアラビアに入ってアルスィフルと呼ばれ、ラテン語のゼフィルムから「ゼロ」となったと言われます。中国では漢字の「零」は雨の雫の形になっており、10世紀宋時代になって初めて文献に現れました。方程式の根は英語では「root]ですが、サンスクリット語の「ムーラ」を語源とします。アラビアにおいてはじめて使用されたのは、9世紀のイスラムの科学者アル・フワーリズミーとされています。未知数を表す「ジャドゥル」をルートと呼びました。これがラテン語から英語となり「ルート」となりました。中国で「根」が出現するのは18世紀のことです。面積についてはサンスクリット語からどう変遷してギリシャに伝わったかは不明です。バビロニア文明の都市国家カッシート時代(前1746−前1173年)の円筒印章に、漏斗付の犂(鋤)の図が刻まれています。大麦180粒を1シュケルとして、これを撒く畑の面積が1シュケルの広さでした。1シュケル=1ギン=0.6平方mだと言われます。1ギン=180セ,つまり大麦一粒を撒く広さが「セ」で6cm平方です。ハンムラビ王朝の後期(前16世紀)の粘土板に「長さと幅をかけると面積になる」と書かれており、長方形の求積公式が知られていました。面積の単位は「サル」で、1サル=1辺の長さ1ニンダの正方形の面積です。1ニンダ=5.952mですので、1サル=36平方mです。エジプトにも面積の単位「セ}がありますが6平方mでした。バビロニアの10倍の広さです。エジプトにはリンドのパピルスという計算の書があります。統一南北エジプトの15王朝王ラーの時代の原書と言われますので、前1650年前の書です。この書には1ケット平方=1セタット=1000キュビット(2646m~2)となっています。10キュビット平方=ベケイス(27.46m^2)という単位もあります。農耕の開始に伴い、労働や収穫と関連して、面積が意識されました。どの地域でも面積単位は農耕と不可分の関係にあります。最初は労働や収穫の単位であって、面積が長さとして測定されるのはもっとのtの事でした。
@ 収穫で測った日本の面積:  日本では、701年の「大宝律令」の中に「田は、長さ30歩、広12歩を段とせよ、10段を町とせよ」と書かれてます。1歩は1.8m、町の1辺は108mです。段は54m×21.6mの長地形で、面積も町や段の単位で測られました。9世紀半ばの「令集解」は「「田は長さ30歩、広12歩を段とする。段積は360歩」と書かれています。この段積の歩は長さではなく面積です。1歩の面積は1.8m×1.8mで畳2畳分つまり一坪のことです。歩という面積単位は大夫律令にはなく、中国の「九章算術」の影響です。「九章算術」には、段、町という面積単位はありません。「縦×横を面積の歩数とする。この歩数を240で割ると畝の数を得、100畝を1頃とする」とあります。段、町は日本独自の面積単位です。歩という面積を360で割ると段数を得る。この1段の根拠は収穫量と関係します。「1段は、50束の稲を得る。1束の稲を舂と米5升を得る」と「令集解」に書かれています。1段で50束の稲を得ますので、250升の米がとれます。当時の1升は720ml(4合瓶の容積)でしたので、1段より今の100升の米が得られます換算となります。1日3合の飯を食べるとすると1年間で100升(1石)に相当します。つまり人一人を養う米の生産量を得る田の広さが1段だったのです。江戸時代の武士の禄高の「扶持」は、1日五合の米を基本としますので、一人扶持とは1.825石となります。689年の「飛鳥浄御原令」までは田は「代」で表し、それ以降に町,段の条里制になった。1代は縦横6歩(48m平方)の正方形を5等分したものです。1代とは1歩の土地で、1束の稲が取れる田の広さである。1束=10把 1杷=10 握、1握とは片手で一握りした稲の束です。「10握ひと把げ」という言葉もここからきています。条里制になって「代」の面積単位は跡形もなく無くなった。645年大化の改新の詔は豪族支配から天皇の直接支配を強化しました。公地公民制・郡県制・戸籍・計帳・班田収授の法・租庸調の税制を作ることとして、「田は長さ30歩、広さ12歩を1段としする。10段を町とする。段ごとに租稲2束2把、1町につき租稲22束とする」と租税を定めました。実はこの記述は正しくない。1町につき租稲は15束でなければならない。50年後の「令集解」の律令を先取りした記述になり、後代の作文です。武力クーデターをもっともらしい政治改革のように見せるための擬装です。大化の改新の詔があったかどうかも疑わしくなります。改新の詔が目指す律令制は689年の「浄御原令」や701年「大宝律令」を待たなければなりません。また大化の改新という言葉も存在せず、江戸時代末期に伊達千広が「王政復古」を正当化するため造語したものです。令の前の祖法では100代あたり3束の稲租(約3%の課税率)は、課税が土地の収穫によって測られていたことを示します。「大宝律令」は、これを土地に課税する制度に変えました。変動する収穫より安定した土地面積に基づく課税制度にしたのです。つまり面積の概念は代にしろ段に白、租を徴収するために考えられた。収穫の量から耕作面積に変わりました。
A 朝鮮・モンゴルの面積単位: 東大寺正倉院に「新羅村落文書」(だいたい755年の作製)という古文書があります。4つの村の動態調査報告書です。天皇家が古朝鮮の新羅国に飛び地を持っていたのか、共同開発地だったかどうはさておいて、面積の測り方に注目しましょう。結、負、束(負は10束、結は100負、1束は10把、把は10握)という単位が出てきます。束、把、握は収穫の単位だったのが面積の単位になっています。中国では班固の「漢書」によると、この頃かなり厳密な長さを基準とした面積単位が確立していました。ちょうせんでは中国の斉国の制度を導入し長さを基礎としています。収穫を基礎とした結、負、束、把、握制度と、面積による歩、畝、夫、屋、井という制度が混用されていたのか、言い換えただけの事かは不明です。さらに後世朝鮮では労働で測る面積がありました。中国の明の時代15世紀に「朝鮮賦」という書物があります。牛一頭の力で四日間で耕せる面積を結という記載があります。朝鮮では一日の仕事量を日耕、約2時間の労働で耕せる面積を息耕、1時間当たりの仕事量を時耕と言いました。農作業の大きさで面積を図る方法です。また15世紀中頃の「世宗実録」によると、田の収穫量から6等級に分け、田尺を第1田尺から第6田尺にまで別け、各々周尺を決めました。1等田の収穫量を100とすると、15%づつ減じた等級です。遊牧の民であったモンゴルでは、労働や収穫を基礎とする面積や距離の概念がありません。距離の概念では一日に移動できる距離をネウリ、尋に相当するアルタという単位がありました。元時代から漢民族を支配することになって、漢民族の制度をそのまま踏襲しています。
B インド: 釈迦の伝記である「ジャータカ」は前5世紀ごろのガンジス川流域のマガダ王国の水田の面積の事を伝えています。役人が縄を持って土地測量にやって来たという記述があり、あるバラモンが1000カリーサの土地を持ち、500カリーサ、50カリーサの区分を行ったという。1カリーサで一家族が生活できる広さだとすると1アール前後だったと思われます。12世紀ごろの「リーラー・ヴァーティー」によると,、1ヴァッシャ=10ハスタで4.65m、20ヴァッシャ四方の土地を1ヴァルタナと呼び、それは86.5アールに相当しました。6頭の牛で一日で耕作できる広さです。この書には三角形や四角形の面積公式や、三平方の定理も述べられています。東南インドに君臨したチューラ王朝(9世紀ー1267年)は11世紀に最盛期を迎えましたが、その時期のヒンズー教寺院の壁面に、面積単位が記されているそうです。基本単位はヴェ―リで、267アール、その1/2がアラ、1/4がカール、1/20がマー、1/80がカー二、1/320がムンディリハイです。1ムンディリハイ=8.3平方mほどです。
C 労働で測るヨーロッパの面積単位: イギリスにはエーカーという面積単位があります。牛2頭犂をつけて1日に耕せる広さです。ギリシャ語の農地を表すアグロスからきています。ほぼ同じ面積を表す単位が各国にあります。オーストリアではヨーケ、ハンガリーではヨッホ、ドイツではユッヘルトです。これらの名称はいずれもくびきを意味するラテン語ユグムから来ています。古代ローマにはユグムから派生したユゲルムという面積単位がありました。すでに長さと結びついた面積で、縦35.5m横71mの長方形の面積です。約25アールの広さです。ドイツのバイエルン地方には半日で耕せるモルゲンという面積単位があります。ユッヘルトと同じ広さです。プロシア地方のモルゲンもほぼ1ユッヘルトで0.63エーカーです。1日で耕せる面積はターク・ヴェルクといい、1.16エーカー、1.878ユッケルトです。イギリスは紀元前500年頃ケルト人が居住していて、紀元前後はベルガイ人が支配しました。8頭の牛にひかせる強力な犂カルーカを用いました。1世紀から3世紀にかけイギリスはローマ帝国に支配され、3世紀末からゲルマン民族のアングロとサクソン人が侵入して支配しました。カルーカによる耕作法が引き継がれ、耕作地は長方形でした。13世紀末エドワード1世がさだめた1エーカーは40.47アールとされ、慣例法では1エーカーは43500平方フィート、或は幅66フィート、長さ660フィートの細長い地です。縦横比は1対10で、ドイツのモルゲンでも同じでした。
D 生活単位で測る古代ローマ: 古代ローマにはケンチュリアという面積単位がありました。1ケンチュリアは710m平方(50ヘクタール)で、71m平方のヘレディウム100個分からなります。ヘレディウムは世襲地という意味です。1ヘレディウムはユゲルムの2倍で、2頭の牛が一日に耕す広さでもあります。ローマではケンチュリアは百人隊という軍事制と関係し、軍人1家族に与えられた土地広さを意味します。ギリシャでは前594年ソロンの執政官の時市民を4階級に分けました。第1市民はペンタコシオメディウムノイで500メディウムノイの土地を持つという意味です。米の換算すると143石、土地のの面積で14町に当たります。第2階級は300−500メディウムノイで騎士級です。第3階級は200−300メディウムノイノッチを持ち農民です。第4階級は200メディウムノイ以下で労働者級です。イギリスでは自由民1家族が生活できる土地の広さはハイドと呼ばれました。120エーカー、48へクタールです。ケンチュリアとほぼ同じ面積です。その他コモンと言われる共有の牧草地の使用権も含みました。社会の基本組織であるハイドが面積単位になってゆく過程には課税の合理化の要請があったようです。
E 中国: 班固の「漢書」には、100歩を1畝、100畝を1頃とする面積単位がありました。労働や収穫とは無縁の単位です。中央集権官僚制の合理的思考は働いていたようです。1頃は1辺が100歩の正方形の面積です。長さの1歩が5尺で、3尺が1mですので、100歩は167m、1頃は2.78ヘクタールとなります。1頃は1夫、3夫が屋、3屋が井です。1井は1里四方です。1里は300歩、500mです。1里平方は25ヘクタールです。前21世紀夏の時代、一家族に与えられる田は50畝で、前16世紀殷の時代、給田は70畝、前11世紀周の時代、給田は100畝となりました。税制は夏の時代の1/10を周の時代でも引き継いでいます。土地のクラスの上中下によって給田は100畝、200畝、300畝となります。

3) 面積の展開

@ 「九章算術」と古代バビロニア、古代エジプトの求積法: この章は計量図形学の夜明けを述べることになるのであるが、それは古代ギリシャの幾何学の進歩を振り返る事でもある。その前に、中国の前漢時代の数学者劉黴俄が前3世紀の秦時代までの算術知識をまとめた書「九章算術」について述べておこう。「九章算術」は実用書でいわば官僚向けマニュアルのような応用例が中心で、西欧の科学に様な論証図形学ではありません。その中から、第1巻「方田」で分数の割り算(ユークリッドの互除法)、第9巻の「句股」でピタゴラスの定理(三平方の定理)、「円田」で円周率と円の面積を紹介しています。第1巻「方田」で、長方形の田の面積を扱っています。横15歩、縦16歩の長方形の田を1畝(240平方歩)としました。「横の穂数と縦の歩数をかけて積の歩数を得る」 実在の大きさである面積の測定値を、抽象的な数の性質(かけ算)を介して求めているのです。次に縦横の測定値が分数の場合、かけ算の前に約分・通分を扱います。約分は、分数の分子・分母のうち小さいほうで大きい方を割り、割り切れるまで続ける「ユークリッドの互除法」と呼ばれます。方田の面積=横長さ×縦長さという考え方が示されています。数値の四則演算が面積でも通用するというものです。直接測定できるのは、縦横の長さで、面積は間接測定と言います。面積の大小が土地の広さの大小、等価、交換に利用できるのです。つぎに第9巻の「句股」でピタゴラスの定理(三平方の定理)を述べています。「句と股の各々を自乗して加えて平方に開けば、弦となる」と書かれています。斜辺を弦、直角を挟む辺を句、股と呼ぶのです。三平方の定理は上の写真(左)に掲げたように、古代バビロニアの粘土板(前2000年頃)で正方形の対角線の長さが60進法で刻まれています。10進法に直して読むと1.4142129となり、√2にほぼ一致しています。√2の開き方は、漸次近似計算法の公式√(a^2+r)≒a+r/2sで計算できることや、「ピタゴラスのノーモン」(図形の分解移動)を知っていたようです。詳しくは大矢真一著「ピタゴラスの定理」(東海大学出版部 2001)を参照してください。つぎに「円田」では円の面積の求め方を「円の周の半分と直径の半分を掛け合わせると円の面積を得る」と書かれています。円周の半分はl=2πr/2で、面積S=(2πr/2)×r(rは半径)=πr^2で正しい公式が得られます。「九章算術」では円周率を3と考えていたので誤差は4.5%小さい。先に書きましたが古代エジプトの書アーメス・パピルス(リンド・パピリス)は前17世紀の数学の書ですが、農作物の配分や配給に欠かせないエジプト式分数の書として有名ですが、代数や幾何学についても書かれています。とくに円の面積を外接する正方形の面積の64/81としました。正方形を細かく区分してゆくと、区分が小さいほど良い近似が得られます。正方形の1辺を9等分し、円の占める部分を64小区画とみた。理論的には円のS=πr^2、正方形の面積S'=(2r)^2 (rは円の半径)すので、S/S'=πr^2/4r^2=π/4=3.141592・・/4=0.785398・・≒64/81=(8/9)^2(=0.79012・・)と見たのでしょう。円の面積と外接正方形の面積の比を「円積率」といいます。リンドパピルスには円周率の疑念はありません。逆に円積率から円周率を求めると、π=4(S/S')すなわち宴席率の4倍ですので、円周率は3.16となります。次いでリンド・パピルスは容積を底面積×高さとして求めました。
A 古代ギリシャの幾何学とユークリッド「原論」: 前5世紀の古代ギリシャのペリクレス執政官時代は学術振興が盛んとなり、ソフィストが活躍しました。ソクラテス・プラトンらの哲学者が輩出しました。ペリクレスの師であったアナクサゴラスは前480年頃アテネで活躍し、円の正方化を研究したと言われます。前430年頃アンティポンは円に内接する正多角形から、アトモス(これ以上分解できないところまで到達する)の考えから、正多角形の面積がついには円の面積に一致するとしました。前425年頃活躍したヒッピアスは任意の角を3等分するため、円に外接する正方形の縦の長さを等分し円積曲線を得ました。ユークリッドの弟子のブリュッソンは円に内接する正多角形と外接する正多角形を考えて、辺の数を限りなく多くして微細分しました。アルキメデスはこの方法を利用して、正96角形について、円周率を13.140845・・<π<3.1428571・・を得ました。ペートル・ベックマン著 田尾陽一訳 「πの歴史」(ちくま学芸文庫2006年)にアルキメデスの方法など円周率を精緻に求めるすべての方法が描かれています。ただ円と等しい面積を持つ正方形をを作図する問題は「円積問題」と言われ、1882年にリンデマンが円周率πが超越数であることから、定規とコンパスから作図することは不可能である結論しました。前5世紀末ヒポクラテスは直角三角形の角を挟む2辺を直径とする円と斜辺を直径とする円が梳って作る月状の面積の和が直角三角形の面積に等しいことを発見しました。これをヒポクラテスの定理と言い、大矢真一著 「ピタゴラスの定理」(東海大学出版部)に詳しく図が載っています。プトレマイオス王朝はアレクサンドリアに神殿ムセイオンと付属図書館を建てました。この図書館の研究員だったユークリッドが前3世紀に「原論」(ストイケア)を著しました。原論で議論されているのは図形の性質であって、計量とは一応無縁で長さは一切出て来ません。三平方の定理も出て来ません。出てくるのは三平方の定理とは言わず、三正方形の定理という分割移動の幾何学です。斎藤憲著「ユークリッド原論とは何か」(岩波科学ライブラリー2008年)にユークリッド幾何学の紹介があるので参照してください。面積についてユークリッドの手法を理解するには代数は用いないで、図形の等積移動を考えればいいのです。二つの平行四辺形の面積は底辺×高さの一致という理解ではなく、底辺を共有し、平行の公理より三角形の合同を言えば済みます。三角形の等積移動とは底辺に対して頂点が平行移動 すればその面積は変わりません。これを三角形の等積移動と言い、「裁ち合わせ」(分解合同)で証明します。円は分解合同できませんので、原論には円周率は現れません。底辺を共有し、三角形の半分の高さを持つ長方形の面積と三角形の面積は等しいことも同様です。ユークリッドの三正方形の定理は大矢真一著「ピタゴラスの定理」に書かれた通りですので省略します。見事というしかありません。幾何学的解法は補助線を書かれれば氷解するのですが、どのような補助線を引くかが決め手でひらめきが必要なのですね。三角形の相似関係から比例の定理が見いだされ、二つの相似な三角形の面積比は相似比の自乗になることは自明です。次に長方形と同じ面積の正方形に直すには「方冪」が役に立ちます。その前に円の直径を斜辺とし頂点が円周上にある三角形は頂点が直角であることをギリシャのタレスが発見しました。その頂点から斜辺に垂線を下ろし斜辺を2つに分ける。長さをa,bとし、垂線の長さをhとすると、二つの三角形の相似関係より、h^2=a×bという関係が得られる。よって長方形の面積a×bに等しい正方形の1辺の長さhが作図できた。
B ヘロンの公式  計量図形学: ユークリッドの幾何学は分解合同を基本としているが、同じアレクサンドリア学派のヘロンの三角形の面積公式は代数学である。三角形のABCの頂点Aより底辺BCに垂線を下ろし、交点をHとし、AB=c,AC=b,BC=a=X+(a-x)として、s=a+b+cとすると、二つの三角形△ABH、△AHCにピタゴラスの定理をもちいてhとxの連立方程式を解くと、三角形△ABCの面積はS=(1/2)(ah)=√(a(s-a)(s-b)(s-c)が得られる。これをヘロンの公式という。ヘロンの開平法は最初の近似値をaとし、補正をhとすると、次の近似値は√A=a+hとします。A=a^2+2ah+h^2ここでh^2はaに比べて小さいのでh^2≒0とすると、次のhは(A-a^2)/2aとなり√A=(1/2)(a+A/a)、これを何回か繰り返して開平の近似値を得ます。次に2次方程式の根を方冪の定理から作図する方法を示します。方冪の定理とは円の内外の1点から2本の直線を引いて円との交点4点を得る時、原点と円との交点までの距離の積が等しいことをいう。そしてその定理の一例として下の図において、円外の原点から円にまじわる2本の線のうち一つは円の中心を通り、一つは円の接線になるものです。そのとき、PT^2=PA×PBとなります。PT=a,PA=x-a,AB=a,PB=xとおく。つまり直径aの円を描いて、円上の点Tにおいて接線を引きPT-=aとする点Pを定める。そしてPより円の中心を通るPABを引くと、PB=xが x(x-a)=a^2の解となる。面積は長さの掛け纂であることを示す。

方冪の定理
4) 面積概念の発展

区分求積法(立体の体積もふくむ)はギリシャ時代シラクサイの数学者アルキメデスの功績が大である。斎藤憲著「アルキメデスの方法の謎を解く」(岩波科学ライブラリー2014年)にアルキメデスの業績がまとまっている。アルキメデスは、現代で言う積分法と同じ手法で無限小を利用していた。背理法を用いる彼の証明では、解が存在するある範囲を限定することで任意の精度で解を得ることができた。これは取り尽くし法の名で知られ、円周率π(パイ)の近似値を求める際に用いられた。アルキメデスは、ひとつの円に対し辺が接しながらそれをくるみ入れる大きな多角形と、円の中で頂点が触れながらすっぽり収まる小さな多角形を想定した。この2つの多角形は辺の数を増やせば増やす程、円そのものに近似してゆく。アルキメデスは96角形を用いて円周率を試算し、ふたつの多角形からこれは約3.1429と約3.1408の間にあるという結果を得た。また彼は、円の面積は半径でつくる正方形に円周率を乗じた値に等しいことを証明した。『球と円柱について』では、任意の2つの実数について、一方の実数を何度か足し合わせる(ある自然数を掛ける)と、必ずもうひとつの実数を上回ることを示し、これは実数におけるアルキメデスの性質と呼ばれる。『円周の測定』にてアルキメデスは3の平方根を約1.7320261と1351と約1.7320512の間と導いた。実際の3の平方根は約1.7320508であり、これは非常に正確な見積もりだったが、アルキメデスはこの結果を導く方法を記していない。ジョン・ウォリスは、アルキメデスは結論だけを示し、後世に対して方法をそこから引き出させようとしたのではと考察している。球の体積は無限小・積分を用いることで公式を発見した。また球の表面積は無限小・積分・カヴァリエリの原理を用いることで公式を同じ高さの円柱の側面の表面積と等しいことを示した。アルキメデスの立証では、ある直線で区切られた放物線の面積は、内接する三角形の面積の4/3倍に等しくなる。『放物線の求積法』でアルキメデスは、放物線が直線で切られた部分の面積が、放物線と直線の交点と直線と平行な接線が接触する3点を頂点とする三角形の面積の(4/3)倍になることを証明した。これは、無限級数と公比を用いる。最初の三角形の面積を1とし、この三角形の2辺を割線とし、放物線の隙間に同様な手段で2つの新しい三角形を想定すると、この面積の和は1/4となる。これを無数に繰り返して放物線の切片を取り尽くすと、面積は△ABM=(1/2)△ABNであるので、次のように導かれる。この無限級数法は大変な労力である。ここからアルキメデスは今一歩のところで解析学つまり微積分法へ進むことはできなかった。

アルキメデスの放物線積分  

第4章は、ここから15頁ほど高校の数学Vの微積分学と関数の話になり、区分求積法と導関数、定積分などよく知れたことばかりで、特に解析学や関数論まで突っ込む内容はないので割愛したい。最後にベクトル解析の内容になるので興味深いところを紹介する。数直線にもゼロを境にしてプラスとマイナスの数があるように、関数値ががゼロを境にマイナス値(負数)を取るようになるとそのX軸との間の面積にも正と負の方向が生じる。これを面積ベクトルという。この方向(ベクトル)と大きさ(スカラー)の記録から、合成(三角形の法則)と分解の法則(平行四辺形、ステビンの法則)が生じる。XY座標での2回の連続した変位(A:a1→B:a2,:A:b1→B:b2)には三角OABに三平方の定理や第2余弦定理から、変位の長さAB=√[(b1-a1)^2+(b2-a2)^2]、ベクトルの内積OA・OBcosα=a1b1+a2b2が求まる。逆に内積がゼロなら(α=∠π/2)2つのベクトルは垂直です。そこから2つのベクトルの作る三角形OABの面積は(1/2)OA・OBsinα=(1/2)(a1b2-a2b1)  3次元空間では△OAB=(1/2)√[(a2b3-a3b2)^2+(a3b1-a1b3)^2+(a1b2-a2b1)]となります。図とベクトル記号や行列式なしに語ることは困難です。本書を読んで下さい。最後にサイクロイド曲線(円を直線上で転がした曲線)とアステロイド曲線の面積が面白いので取り上げます。結果だけを言いますと、サイクロイド曲線については、@円が1回転したときの定点の軌跡" の長さを l とすると、l = 8rm(= "直径" の 4倍)、A円が1回転したときの定点の軌跡" と "x-軸" で囲まれた部分の面積を S とすると、S = 3πrm2(= "円の面積" の 3倍)、B 3x軸まわりの回転体の体積を Vx とすると、Vx = 5 π2 rm3 Cx軸まわりの回転体の表面積を Sx とすると、Sx = (64/3π)rm2である。
アステロイド曲線については、@曲線で囲まれた面積は S =( 3/ 8) π・a ^2 、A曲線の弧長は l=6aである。

サイクロイド曲線                  
サイクロイド曲線

アステロイド曲線                       
アステロイド曲線


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