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津野海太郎著 「読書と日本人」 
岩波新書(2016年10月)

本は何のために読むか、読書の歴史から時代の変遷を見る

たしかに、読むべき関心事の対象が決まっていて、何についてどう読むかという議論つまり書評に関する本がほとんどで、読むという行為やそれを促す時代環境についての本は少ない気がする。私は20世紀中頃に生まれ、第2次世界大戦後から幼年期を迎え、日本が高度経済成長のただ中で読書習慣を身に着けた。ただ理科系の大学を出たためか、人文に関する本はあまり読まなかった。だからこ筆者が20世紀が特殊な時代といわれても、20世紀半ば以前の事は実感として経験がなく、なぜ「20世紀を読書の黄金時代」と呼ぶのか、興味が湧いた。つまり読書環境の歴史を教えてくれるのだなということは分かった。筆者津野氏はその理由をこう説明する。「本の大量生産と読み書き能力の飛躍的向上によって、知識人や大衆、男と女、金や権力を持つ持たないに関わらず、社会のあらゆる階層に読書する習慣が広がり、誰でも本を読むことはいいことなのだという常識が定着した。それがこの20世紀だった。」 20世紀の終わりごろから、インターネットに代表されるデジタル文化が発達して、読書に積極的な関心を持つ人が減少し始めた。本や雑誌の年間総売り上げ高が減少し、21世紀になっても回復の兆しがない。といっても私たちは出版業界の人間ではないので、出版業界がどうなろうと知ったことではない、読みたい本が手に入ればいいのです。しかし20世紀の異常な出版ブームが去って、出版ビジネスが岐路にあることは確かです。20世紀人の本との付き合い方こそおかしかった、つまり出版界がたくらんだバブルに過ぎなかった可能性もある。筆者が「20世紀読書論」を書きたかった理由が以上のように説明されています。本の歴史はメソポタミア文明の土に刻印された文字から始まって優に5000年の歴史をもっています。本の出版については書誌学の歴史がありますが、自分たちの足元である日本の読書の歴史を考える時、いつどのようにして読書が始まったのかについても、皆目わからない状態です。そこで本書は「読書と日本人」という題名になったそうです。そういう意味で、加藤周一著 「日本文学史序説」(ちくま学芸文庫)が参考になります。各時代の読者層について簡潔な記述があるからです。しかし我国にはまとまった読書史というものがまだ存在しません。とはいえ20世紀中盤に始まった国際的な「書物史運動」や「読者研究」の高まりを受けて、日本でも各時代ごとの研究が始まり、西郷信綱、前田愛、三田村雅子、鈴木俊幸、永嶺重敏氏らの研究がある。「20世紀の読書の黄金時代」が終わったとしても、本そのものは存在している。本がメディアの中心に君臨するという構図が成立しなくなったということです。デジタル技術の介入があって本を含むメディアの配置がガラガラと変容しているということです。20世紀はいずれそこに至る過程の一つに過ぎないのだった。本を巡る環境、本を読む人の時代的変化を巡る議論を「読書史」というならば、読書の意義について私は非常に少ないとはいえ、次の4冊の本を読んでいたので、その概要をかいつまんでまとめておきたい。
@ 加藤周一著 「読書術」(岩波現代文庫 2000年)
A ショーペン・ハウエル著 「読書術」(岩波文庫 1960年)
B 松岡正剛著 「知の編集工学」(朝日文庫 2001年)
C 斎藤孝 著 「読書力」(岩波新書 2002年)

@ 加藤周一著 「読書術」(岩波現代文庫 2000年): テレビや映画を見るには何も必要がない。ただテレビの前や、映画館の座席に坐ればいい。ところが本を読むには机の前に坐るだけでは何も進まない。読もうとする気力や意志や目的がなければならないのである。テレビ・映画は受動的であるなら読書は能動的である。どちらも人生の楽しみであり、楽しみは多い方がいい。静かな環境で誰にも邪魔されずにその本の世界に浸れる、それが読書の醍醐味であり、また本を読む時の姿勢は自分一番楽な姿勢でいいのです。宗教では「座禅」、儒教には「端座書見」、礼儀には「正座」という言葉があるが、そんなことは読書の楽しみを奪うに過ぎない。著者は少年時より病弱であったため、何時も寝て本を読む習慣がついているので、一番リラックスできる姿勢は寝て読むことであるそうだ。本を読むには机・椅子はいらない、書き仕事をする時には資料をおくために机が必要になるという。図書館や研究所は環境が整えられているので、本を読むための施設である。ところが本はどこでも読めるのである。芥川龍之介は英国紳士がいつも傘をステッキ代わりに持ち歩くように、本を片手に持ち歩いたという。また旅は本を持ってゆく人も多い。旅に出かけるのと本を開くのは、未知の世界に踏み出すのと同じことである。片道1時間あまりの通勤電車の中で著者はラテン語文法の勉強を志し、1年間欠かさず本を読んでマスターしたらしい。通勤電車というのは、退屈で容易に読めない本を読むには格好の場所だそうだ。普通学生は通学電車の中で、英単語のカードを暗記したり、歴史年表を暗記した経験があるだろう。何のために読書をするのかというと、正しい意味では知識を得るのが目的である。必要に迫られて読む、ぼんやりした目的意識で読む、退屈しのぎに読む、色々な読み方はあっても、読む人に新しい世界、見方を教えてくれるのである。
A ショーペン・ハウエル著 「読書術」(岩波文庫 1960年): 無知は富と結びついて人間の品位を落とすが、貧困と困窮は貧者を束縛し知から遠ざける。読書は他人に物を考えてもらうことである。ほとんど丸1日多読についやする勤勉な人間はしだいに自分で物事を考える力を失ってゆく。読んだことを後でしっかり考えないと、精神の中に根を下ろすこともなく直ぐに失われてしまう。著作者の才能を読書によって呼び覚まし明白に意識することが出来る。したがって読書によって自発的活動を促されることが目的である。文学においてもどうしょうもない人間のくずに行き当たる。悪書は読者の金と時間と注意力を奪い取るのである。読者は時代遅れにならないように読書に励み、皆と同じ話題にことかかないように、知識階層を誘導してきたのが出版界である。したがって読書に関しての心がけは、読まずに済ませば一番いいことだ。膨大な新刊書の寿命は1年である。不朽の名作といわれる天才の作品だけを熟読すべきである。また古典的書物を解説した本を読むが。その人の作品は読まないというヒ人がいる。それというのも新刊書だけを読むからである。シュレーゲルの警句に「勤めて古人を読むべし、古人の名に値する古人を読むべし、今人の古人を語る言葉、さらに意味なし」という。駄書を排して原書(翻訳でもよい)を読むべきである。秦の文学とは永遠に持続する文学である。 重要な書物はいかなるものでも続けて2回読むべきである。作品は著者の精神のエッセンスである。何度も読むことで、ひとつの作品を違った照明のなかで味わうことが出来るのである。精神の清涼剤としてギリシャ・ローマの古典の読書に優るものはない。政治史では半世紀は重要な意味を持つが、文学史は半世紀が意味のある時間とはみなされないこともある。たえず振り出しに戻る周転円であるからだ。人間の精神構造は太古の昔からそれほど変わっていないことになる。見かけ上同じことをぐるぐる廻っているだけの事かもしれない。文学、芸術、学問の時代精神が30年ごとに破産宣告を受けるのである。カントのドイツ観念論は19世紀前半に完全に破産した。文学史とは時代の奇形児の陳列室かもしれない。
B 松岡正剛著 「知の編集工学」(朝日文庫 2001年): 読書と思索を二元対立的に考えるのではなく、「材料を仕込むことが読書とすれば、思索は加工と編集力かも知れない。」といって、両者には創造も模倣もない編集状態があるだけだという。 テレビや映画を見るには何も必要がない。ただテレビの前や、映画館の座席に坐ればいい。ところが本を読むには机の前に坐るだけでは何も進まない。読もうとする気力や意志や目的がなければならないのである。テレビ・映画は受動的であるなら読書は能動的である。どちらも人生の楽しみであり、楽しみは多い方がいい。静かな環境で誰にも邪魔されずにその本の世界に浸れる、それが読書の醍醐味であり、また本を読む時の姿勢は自分一番楽な姿勢でいいのです。宗教では「座禅」、儒教には「端座書見」、礼儀には「正座」という言葉があるが、そんなことは読書の楽しみを奪うに過ぎない。図書館や研究所は環境が整えられているので、本を読むための施設である。ところが本はどこでも読めるのである。芥川龍之介は英国紳士がいつも傘をステッキ代わりに持ち歩くように、本を片手に持ち歩いたという。また旅は本を持ってゆく人も多い。旅に出かけるのと本を開くのは、未知の世界に踏み出すのと同じことである。本書は編集者のための本というよりは、包括的な情報文化の遊び方という本であり、松岡氏の思想遍歴でもある。イデオロギー中心の堅い思想空間ではなく、イメージの包活力の大きさを知らしめる知の楽しさを説いた本であろう。氏は編集工学センターおよび物語学会を組織して、ユング心理学の神話類型を中心としたマザー母型を究極の原型と考えるようである。松岡氏は今のITやパソコン、インターネットといったデジタル技術の行き着くところに必ずしも信頼していないようで、人間のもっとアナログ(非線形)の力を引き出すことの重要性を、博学知識で多方面の文化現象に分け入って、わくわくするような非線形の構造感覚を推奨する。本書はとても面白く、知的興奮が横溢した本である。「編集工学」という方法の入門書という位置づけであるが、「編集は人間の活動に潜む基本的な情報技術である」という広い入り口を示す。編集とは「切った貼った」をすることだと思われているが、それは編集の機能の一つである。しかし私達の頭の中で起っていることが編集的であり、コミュニケーションの本質も編集的なのである。「情報は1人ではいられない、情報は関係付けられることを待っている」という。編集とは関係を発見すること作業なのである。それは日常的に脳でおきているのだ。自分自身の頭の中で何をどう処理しているのだろうかを考えてみようというのが本書の狙いである。
C 斎藤孝 著 「読書力」(岩波新書 2002年): 何のために読書をするかという問いに対する斉藤孝先生の答えは「読書は自己形成のための糧だからである、読書はコミュニケーション力の基礎になるからだ」だそうだ。別に読書を効用論から説く必然性はないが、無意味なことを一杯している人間が読書の意義と効用を聞いてきたらこのような意味があるのだよと諭すことは出来るが、はたしてわかるかな。私達が人間や世の中や自然に興味を持てば、経験と読書は認識への両輪となる。絶対宗教の教えを信じないなら、それ以外に答えがあるのか。本は歴史的な先人や今の世における碩学先達が書いたものであるからには、彼らの考えを聞いてみることは必要である。即ち読書は自分の疑問と思考活動における素地を作るものだ。まず子供のころは読み聞かせで想像力を養うことは重要だ。宮沢賢治の文学は読み聞かせ文学の最大の宝庫である。著者の書いた「声に出して読みたい日本語」は、声を出すことが黙読よりは脳の活性化に役立つらしいという。別に脳の活性化を言わなくとも私は朗読文学(語り文学)という分野は声を出して読むべきと思う。たとえば弾き語り話である「平家物語」、説教話である「徒然草」は朗読でこそ美しいし、分りやすくなるのである。また政治学者丸山真男氏が推薦したように福沢諭吉著「文明論の概略」も声を出して読むと文明開化の響きと志の高さがよく分るのである。大昔江戸時代にはお経や論語の素読は分らなくとも大声で読み覚えるものであった。今では笑われる教育法だが当時は大真面目で覚えたのが後になって骨肉化していたのである。本を自分のものとするために線を引いて読む方法は効果的であると著者は言う。読書をしてきた人間かどうかは、会話において脈絡のある書き言葉で話せるかどうかということだ。最近の高校生の会話は脈絡なく自分のことしか言っていない「携帯を持ったサル」同然の会話である。会話は相手に言っていることをよく聞くことから始まる。そして自分の言葉に直して相手の話を確認することが会話のスムーズな流れになるのである。そのためには語彙が豊富でなければならない。駄洒落も言語遊びとしては高等テクニックを要する。会話での話言葉は単語だけの支離滅裂な脈絡では内容のあるコミュニケーションは出来ない。書き言葉としてきちんと文章になっていることを話しているだろうか。抽象度の高い内容では漢語の語彙は重要である。少しの文語体も使えるようであってほしい。話に格としまりが出るのである。


第1部  日本人の読書小史
1) 始まりの読書ー平安時代

冒頭に読書の最大の特徴を次のように定義する。「本は一人で黙って読む。自発的に、たいていは自分の部屋で。」 読書は黙読で文字を読むもので、語りを聴くのではない。読書は学校の教科書ではなく、読みたいから読むものである。そして読書は書斎という自分の部屋で一人で読むものであることを言う。そういう意味で典型的な読書と思われる例が二例が平安時代に見られる。一つは9世紀終わりごろの菅原道真の「書斎記」と、11世紀中頃の菅原高標の女(娘)の「更級日記」です。今我々が読書と呼んでいる行為が日本に根付き始めたのは、概略菅原道真から同じ血筋の菅原孝標の娘にいたる平安時代の中頃の事のようです。菅原孝標の娘は「更級日記」において、「源氏物語」の読書経験を述べています。「これまでトビトビでしか読んだことがなくあまり納得がゆかなかった源氏の物語なのですが、それを第1巻から、誰にも邪魔されず、記帳のなかにこもりっきりで読んでゆく心地はたとえようもない最高のものでした」という。紫式部の源氏物語を読む階層は当時の貴族階級約100人くらいに限定される。源氏物語の面白さが朝廷の女房社会のそとまでひろがり、地方暮らしの中級貴族の娘までその評判が伝わっていたのです。もちろん菅原家は小野家と同じように学問の一族で、左大臣まで登った道真を始め、「蜻蛉日記」で名高い藤原道綱の母は孝標の実母の異母姉であり、孝標の娘の継母の叔父は紫式部の娘賢子と結婚していたという文芸に優れた家系にありました。紫式部は源氏物語をごく身近にいる女房や后のために書いています。閉じられた空間での、宮廷内のお話を書きました。不特定多数の読者は眼中になかったので、話の主語は言わずもがなで、分かるようには書かれていません。目くばせで分かる距離内でのコミュニケーションです。その時代に黙読の習慣は定着していたのでしょうか。玉上琢也は「源氏物語研究」で「源氏音読論」を展開しました。貴族社会のしきたりや社会を、女房らが妃候補のお姫様を教育するために話し言葉で読み聞かせるためのテキストであったという説です。これに対して西郷信綱が「日本古代文学史」で、平安朝の物語文学を、平仮名を使って女たちが書いた散文文学の萌芽ととらえました。複雑な心理描写、繊細な感覚性、文学談義、男女のきわどい恋愛小説として味わえる程度に洗練された文学であると規定しました。西郷は「更級日記の作者こそ源氏物語読者の典型であった。つまり文芸として味われるものとして源氏物語を発見し経験したのだ」と言います。口承による共同体的な古い物語ではなく、限りなく近代小説に近い新しい物語へ「源氏物語」は進化したと主張しました。これを西郷信綱の「源氏物語黙読論」と呼びます。この論争は1950年代から1970年代にかけて行われました。

平安時代の女のカジュアルな読書に対して、先行する漢字男たちのフォーマルな読書は、当然仕事がらみの「学者読み」であった。その好例が菅原道真の「書斎記」という文章に見られます。菅原道真は845年学者の家に生まれ、エリート官僚の国家試験(進士ー秀才―科挙)を目指した。この時期の勉強ぶりを49歳のときに回顧したのがこの文章です。「秀才の資格を取ったとき、父(菅原是善、大学寮の学長だった)が勉強部屋を与え、すだれ、机、本を運んできた。ここは(共同勉強部屋のように)狭く、いろんな奴がやってくる。小刀と筆は間違った箇所を削り取るためのものだが、馬鹿どもは小刀で机を削ったり、書を汚したりする。また学問の方法は抜き書き(抄出)を中心とする。抜き書きは紙に写して利用するのが基本である。従って部屋の中は抜き書きした短冊状の紙ばかり。乱入する連中は、知恵のあるやつはこの紙切れを懐に入れて失敬するし、バカは破いたり捨ててしまう」 この勉強部屋というものは、父が自宅において解説した私塾の大部屋の中に、3メートル四方(6畳弱)の簾で区切った部屋を与えられた。勉強の方法は文献資料を読んで、重要な点と思われる個所を抜き書きして覚えてゆくことであった。カードを作って自分の勉強ノートを作ることが中心の勉強法であった。当時の書籍は写本が中心で、しかも小数であったため学生が自分で所有する書は無かったと思われる。891年での書籍数は1579点であったという。そのような状況で「学者読み」はどのようにして始まったのだろうか。古代の日本には文字がなかった。古事記が記するには、405年百済の王仁が「論語」と「千字文」を伝えたという。遣隋使や遣唐使の最大の目的はできるだけ大量の書籍を中国から輸入するためでした。こうして大和朝廷の官僚機構は、朝鮮百済の力を借りながら、中国の法令集・経典・仏典を懸命に読み解くという姿勢で、日本における「学者読み」の歴史がスタートしました。明治維新後1871年の岩倉遣欧派遣師の役割と同じでした。文武天皇の大宝律令701年によって、律令国家としての国造りのために新官僚育成が喫緊の課題でした。そのために大学寮を作り、学生数は430人だったそうです。その大学寮の最大の教育方針は、知識の集積と文才を持つ人材開発である科挙選抜試験に受かる事でした。当時の寝殿造りの部屋の読書環境はけっして良いは言えません。御簾で囲まれただけの書斎は、隣にある応接談話部屋にいる連中によって容易に破られました。書斎は個室というにはほど遠い建築的構造でした。欧州の学問の方法論は論理が主導したが、東洋の学問は事実の蓄積(歴史)と文学であった。論理よりも記録の暗記と情緒を重視し、試験の結果が官僚としての地位に直結する制度の下では、制度が固定化されると、中身の学問まで固定化されます。空海と共に第18次遣唐使として渡海した菅原清公(道真の祖父)は官僚制の階段を上り、大学寮学頭、文章博士、公卿にまで上り詰め、教授職を世襲制にして菅原家を学問の門閥として不動のものにした。その反面学閥のボスとして君臨し教育や学問を形骸化し、内部から腐敗せしめた。いわば学問が歌舞伎界(梨園)のように形式化したということです。道真は唐の詩人白楽天の詩集「白氏文集」を愛した文人であった。貴族社会においても最も人気のあった白氏文集のブームを作り出した人の一人でした。道真が藤原時平との政争に敗れ九州の大宰府に左遷されたのは、戦国時代の屈原になぞらえることができます。それから約1世紀半を経て平安時代の中頃、女性を中心とした新しい読書の時代が始まったのです。

2) 乱世日本のルネッサンスー室町時代

若き菅原道真の夢だった、「自分だけの閉じた小さな部屋」(書斎)はいつ実現したのだろうか。それは室町時代後期1480年、応仁の乱が収まって後八代将軍足利義政が築いた山荘「東山殿」(慈照寺 銀閣寺)においてであった。東求堂の裏側にある「同仁斎」の学がかかった小さな部屋が日本で初めての書斎です。平安貴族の寝殿造りは、武家の書院造りによってとってかわられたのです。壁や引き戸で区切られた空間、畳敷き・床の間・違い棚・引き違い襖など今日まで続く和風建築の基本が形作られました。広さは四畳半ぐらいです。書院造りには「会所」という社交場が併設されていました。当時の文化人には「実隆公記」という日記で有名な三条西実隆という文人・公家さんがいました。室町期の文化については、私は「日本の乱世 室町時代を歩く」という室町期の文化状況の評論集をまとめました。併せてお読みください。@永井路子著 「太平記」 文春文庫、A山崎正和著 「室町期」 講談社文庫、B世阿弥著 「風姿花伝」 岩波文庫、C水上勉著 「一休文芸私抄」 中央文庫、 D卜部兼好著 「徒然草」 岩波文庫 を総覧したものです。実隆公を論考した原勝郎氏の「東山時代における縉紳の生活」(1917年)は、1485年公家実隆と連歌師宗祇らの源氏物語読書会の事を記しています。身分を乗り越えた自発的な読書や議論の楽しみに基づく学問への欲求が高まっていました。源氏物語が男の読書生活に組み込まれた最初は鎌倉時代の歌人藤原定家に始まります。定家は承久の乱後十数年で、源氏物語、古今集、後撰集、千載集、伊勢物語、大和物語、土佐日記など、おびただしい写本を行いました。この作業は一族の女性の力をフル動員し「青表紙本」となって完成しました。宮廷の女性たちを最初の読者とする源氏物語が、その後定家を始まる古典運動をへて、一般人や武士層にまで広まってゆきました。身分を越えて混合し合うこれが乱世の文化運動です。室町後期から戦国時代の戦乱は階級を越えて人々を混合し溶融して新しい文化を創造することができたのです。大正時代の原勝郎の足利室町時代=ルネッサンス論は1960年代によみがえりました。男性社会を規定した漢文は、9世紀後半に誕生した平かなにとって代わられてゆきます。鎌倉・室町時代には漢文を読む知識人は少なくなりました。1220年頃叡山座主の慈円は歴史書「愚管抄」を和漢混交文(仮名交じり文)で書きました。慈円は摂政関白家九条兼実の弟で、指導的な貴族階級知識人です。彼の時代にはもはや漢文では理解できない世の中になりましたので、漢字仮名交じり文(無論片仮名ですが)で貴族と武士に歴史書を書いたのです。公文書、私文書を問わず家計書、日記、手紙などにいたるまで平仮名交じりの文章が13世紀鎌倉時代に現れ、室町時代に爆発的に増加しました。では目に一文字もない人々にはどうしたら伝達できるのか、国家鎮護の比叡山仏教に対抗する新興庶民宗教であった浄土真宗の中興の祖蓮如上人は「御文」という形で工夫を凝らしました。漢文で書かれた宗祖親鸞の「教行信証」は庶民には到底理解できないので、御文「相手を考え、何事も十分の一に縮め、あっさり理解しやすいようにした。」にしたという。それだけでなく句読点に相当するスペースという間を取って、読みやすい文を心がけた。それに比べると「愚管抄」は男性貴族の漢文調の匂いが強いが、「御文」はやわらかな口語文に近い。蓮如は文によるこけおどし的な威厳という面を振り捨て、ひたすら読みやすいように、大量の平易な文章を全国の宗教拠点に配布したのである。

3) 印刷革命と寺小屋ー江戸時代

平安時代に貴族や僧侶などの男性に限っていた読書する習慣が、やがて貴族階級の女性たちへ、次いで武士や百姓上層部へと約1千年をかけて広がっていった。それでも大多数の庶民のほとんどには室町・戦国時代を経ても読書する環境はなかった。そんな状態が大きく変わるのが17世紀から19世紀の江戸時代にかけてです。それには複写技術の進歩が大きな役割を果たしました。その一つは1592年豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄の役)の際に掠奪した漢字のみの活版印刷機と銅活字で、 もう一つは1590年にイエズス会の宣教師が布教のために日本に持ち込んだグーテンベルグ式活版印刷機と活字鋳造機でした。彼らは平かなと小数の漢字によって「キリシタン版」の活版本を刊行しました。これが日本人がはじめて接触した印刷技術でした。それまでは印刷と言えば、経典の木版複製しかありませんでした。1563年ルイス・フロイスは「ヨーロッパ文化と日本文化」に、「日本の上層階級の女性も文字を書く、48字のかなと無限の漢字を使う、子どもは坊主から文字を学んでいる」ということを書いています。武家の子供が寺子屋(手習塾)で読み書きを学んでいることは、文字を読む力が社会にぼつぼつ出始めていたことです。木版に代わって活版(木の活字)印刷がやって来ました。これを「古活字本」(明治以降の印刷技術を新活字本という)と呼びますが、増大に向かう読書の要求にこたえるには技術上の制約点が多かった。活版印刷では出版元が常時、大量の活字を用意しなければならないことです。当時の活字製造技術で1頁ごとに印刷して版をばらし、次のページの版を汲むというやり方では、どう見ても出版数は200部以下が量産性の限度でした。そうした制約のため「古活字本」の時代は短命で終わり、17世紀前半には大量出版は諦め安い経費でできる木版に復帰しました。それでも木版に要した初期投資を回収するためには、大量出版と安定した流通機構が日本でスタートしました。その代表が17世紀末元禄時代の井原西鶴の「好色一代男」の出版です。どれだけ売れたか、だれが読者層だったのか釈然とはしませんが、「浮世草子」という「草双紙」の分野は平仮名で記された絵入り輕読物が流行りました。では貴族や僧侶などの男性に限っていた読書する伝統はどう変わったのだろうか。最大の変化は毒の対象が仏教から儒教に変わったことです。それにつれ武士が平和な世の中で官僚機構になり、新しい読者として「学者読み」の列に本格的に加わったことです。徳川幕府が選んだ儒教は修身・斎家・治国・平天下を貫く「朱子学」でした。江戸時代を通じて儒教入門書とよく読まれたのは貝原益軒の「和俗童子訓」です。そこに読書の心掛けが説かれています。儒教の伝統的な読書論や学問論があります。「書を読むには手を洗い、心を慎み、姿勢を正しく、書物を机の上に置いて座って読む、本を粗末に扱ってはいけない、書物は少なく読み、徹底的に身につけるべきのがいい」とか書かれています。儒教とともに江戸時代に正座の座り方が確立したようです。幕府が武士に示した武家儀礼にも正座が書かれています。それが武士を経て一般庶民にまで広まったのが江戸中期です。本の内容は云々せずひたすら正座という正しい姿勢を守る事へと日本人の思考が固まっていった。読書の習慣が広く社会に定着するには二つの条件が必要だと筆者は言う。第一に本を読む力、すなわち読み書き能力を身に着けている人が多くなること、第二に比較的簡単に本を手に入れる流通の仕組みがあることです。読み書き能力の基盤を作ったのは、江戸庶民の場合寺子屋(手習い塾)教育の全国的普及です。商取引慣行が滞りなくできるために読み書きそろばん(リテラシー)ができるという実利実益の目的がありました。しばらくすると庶民出(豪商・豪農)の新しい儒教思想家が輩出しました。江戸中期までに林羅山、山崎闇斎、伊藤仁斎、荻生徂徠にはじまって、二宮金次郎、石田梅岩、賀茂真淵、本居宣長、安藤昌益、三浦梅園らが生まれました。18世紀末、寺子屋を出て向学心に燃える若者のために、渓百年が四書の入門書「経典余師」を書きました。また平仮名による古典の自学自習書が続々出版されました。蔦屋重三郎が「略解千字文字」、「絵本二十四孝」などの大衆啓蒙書が出版されました。蔦屋は広域的な書籍流通に乗り出し、江戸を越えた地方の読者開拓を目指した。蔦屋は山東京伝と組んで「草双紙」つまり「黄表紙」を発刊しました。江戸後期には黄表紙(人情本、洒落本)らの大衆娯楽本が花咲いたのです。貸本のしくみができ、デリバリシステムの貸本屋が得意を走り回る世の中になりました。しかし変化したのは出版業界だけでなく、19世紀に入ると寺子屋が全国に誕生し、教育熱とその効果が普遍的になりました。「読書する女」の大量発生も生まれました。

4) 新しい時代へー明治時代

1867年の大政奉還の翌年から明治時代に入った。しかし読書習慣は江戸時代のまま、ゆるやかに出版事業と読者層の拡大が進んでいった。この時代福沢諭吉は「学問のすすめ」を1872年より開始し、1876年に全17篇の出版を完成させた。人間普遍の実学としての西欧文明学習のすすめです。四民平等の原理に感動した人もいたでしょう、実益の勧めと理解して学習に励んだ人も多くいました。1篇の購読者を20万人だとして 17篇合わせて340万部は売れたはずです。空前の大ベストセラーとなりました。読者層としては禄を失った旧武士層や平民と言われる農民、商売人であったと思われます。当初第1篇から第3篇までは木版で出版され、1874年の第4編から活版となり、以降木版と活版が交互しながら出版されました。1880年の合本で活版印刷に統一されました。漢字・カタカナ交じり文でしたが、1898年において漢字・平かな交じり文となりました。紆余曲折はありましたが、ここに漢字と仮名が同一スぺ―スに並ぶ活字本が誕生しました。活版印刷の導入によって日本の印刷文字が外形の明確さと完成度を獲得し、読書のプロセスを著しく容易にしたと言えます。そして活版印刷は字と本の小型化につながりました。小さなかばんに入る大きさの新書版ほどになったのです。明治時代初期にはこの印刷本によって、森有礼、福沢諭吉、西周、加藤弘之、中村正直らの硬い論文を読んだ人々は、確かに時代が新しくなったと実感したことでしょう。明治の過渡期の読書状況については、1960年前田愛が「明治初年の読者像」、「近代読者の成立」を書いています。庶民の小説好きらの読書習慣を変えたのは本ではなく新聞であったと述べています。新聞には「東京日日新聞」(後の毎日新聞)など漢文調の「大新聞」が官吏やインテリ向けとすれば、平かな中心の「読売新聞」などの「小新聞」がありました。仮名垣露文らの戯作者が口語体で書いた連載読み物を掲載した読売新聞の発行部数が明治10年代には3万部を超えたと言われます。当時の庶民が小新聞によって活字を消化する習慣を獲得したようです。読者層として都市と田舎の格差、男と女の格差は根強く存在しますが、1879年の教育令の発令により10年後の読み書き能力は男性で40%、女性で20%となった。もちろん読書環境としての個人空間である書斎を持つ人はほとんどいなかったようで、家庭内の団欒の中で小新聞の連載記事を読んでいたようです。さらに「新聞縦覧所」とか「新聞会話会」が各地に出現し、「共同体的な読書」空間はありました。親から子へ、先生から生徒への伝統的な音読文化の基盤は明治時代も続いていました。学校などもその音読教育の場でした。それが「本は一人で黙って読むもの、自室で、しかも自発的に」という習慣はいつ頃から始まったのだろうか。それは1890年前後(明治20年代)ではないだろうかと前田愛は推測している。その象徴が1888年二葉亭四迷によるツルゲーニフの「あいびき」の翻訳であるという。これに猛烈な影響を受けた若者には、国木田独歩、島崎藤村、田山花袋らがいました。確かにこの本は声を出して読むものではないでしょう。そっと耳にささやくような文体です。二葉亭四迷、山田美妙らは「言文一致体」の模索を始め、自然な日常的な文章で語りかけてきたのです。そうして音読から黙読へ、共同体的読書から個人的な読書へ変化していきました。こうして「近代読者」が誕生したと言います。1960年ごろ前田愛が「近代読者の成立」を書いた同時期に、西郷信綱が「源氏黙読論」を展開しています。個人的集中的な読み方でないと楽しめない小説としての「源氏物語」の登場という説です。平安時代中頃から1000年間も続いた「読書の二重性(音読と黙読の共存)」に変化が起きた根本的な原因は、識字率の向上、読者層の量的拡大であるとされます。1903年それまで検定制であった教科書を国定化し、文部省作成の「尋常小学校読本」が全国で一律に使用されました。日本人の読み書き能力がこの時期に全国規模で急速に拡大していった。


第2部  読書の黄金時代
5) 20世紀読書の始まりー大正時代

20世紀という時代は読書社会のど真ん中へ「大衆」が登場してきたことです。それが出版業界にとって「読書の黄金時代」をもたらしました。読書とは一人で読むことが「個人の確立」にあるとすれば、多くの大衆が読むことは「読書の平等化」に直結します。この平等化を支えたのは、一つは出版業界の多種多様な本の供給と大量流通システムの保証です。二つには明治維新以来の識字教育の成果です。読み書き能力の向上によって潜在的読者層は飛躍的に拡大しました。この二つが相まって発行点数は増加しました。1900年(明治33年)識字率は80%で発行点数は民と官を合わせて18281点だったのが1915年識字率は98%、発行点数は24448点となりました。1920年識字率は99%で、発行点数統計から官を排除すると民間だけでは9848点となりますが、1925年(大正14年)に識字率は99%で飽和していますが発行点数は18028となり。、1936年には発行点数は32000点と増加しました。この読書環境の激変は日本に限らず、欧州、アメリカにおいて先行して見られた変化でした。産業革命による出版技術の近代化を背景に、大衆化した(読者)書物消費者の出現を吸収すべく出版事業の資本主義的再編・勃興が急速に進んだせいです。1923年の関東大震災後日本の出版業界の再編が次の3つの分野で開始されました。@1924年講談社が大衆総合誌「キング」を創刊し、「百万・大衆雑誌」の誕生です、A1926年改造社が「現代日本文学全集」63巻の予約制配本を開始、全国的な「円本ブーム」が始まった、B1927年岩波文庫という質の高い小型廉価本の発行です。明治時代が新聞の時代だとすると、大正時代から昭和時代に、雑誌から書籍という段階をたどって出版と流通の近代化が進んだことになり、日本人の読書環境がガラッと一変しました。大衆雑誌の部門でリードしたのが博文館の「太陽」でした。知識人向けには「中央公論」、「改造」があり、「百万・大衆雑誌」として「キング」、「太陽」に次いで子供向け・女性向け・大衆向けに多くの雑誌が生まれました。「キング」の発行部数は1926年に90万部、1928年(昭和3年)に140万部と飛躍的に増えました。円本分野では、1926年(昭和元年)改造社の「現代日本文学全集」が発刊されました。円本とは一円均一の全集本(箱入り本)のことです。この販売方法は予約販売制度をとり、電通という広告代理店と組んで派手な広告を行い予約を取りました。こうして全集物が次々と各書店から発刊されました。しかしこの円本ブームは1930年にブームが去り、各社は膨大な在庫を抱え、いっせいにたたき売りを行いました。皮肉なことにこれが全集もの価格破壊につながり、買えなかった大衆には朗報となって2次的な円本ブームが起きました。意外にも本を読む側にとって日常的に読書する習慣の大衆的規模の契機となりました。同じころ岩波文庫による「文庫ブーム」が起きました。1913年(大正2年)に設立された岩波書店は「大正教養主義」の中心的出版社として名声を高めました。文庫という名の小型廉価本で、阿部次郎、夏目漱石、倉田百三、西田幾多郎、和辻和郎、中勘助らの出版を行いました。これらの3つの出版事業は、大衆をキーワードンした「大正デモクラシー」時代の気分が生み出したものです。雑誌や全集物書籍の出版は大々的宣伝・大量販売といったアメリア型ビジネスモデルだとすると、岩波書店の戦略はヨーロッパ型、ドイツのレクラム文庫をモデルとしています。

6) 我らの読書法ー昭和時代(戦前)

大正教養主義とは、、内外の古典を読んで自らの品格を高めるという理念であった。阿部次郎の「三太郎の日記」には読書の目的は「個性を高めるために、内外の古典を読み漁り、時空を超えた普遍的な人間としての豊かな人格形成をはかる」ことであった。大正教養主義の要は熱烈な読書奨励運動であった。ところが彼らの読書を支えたのは、明るい電灯ではなくろうそくやランプの燈火であった。大都会の電化は20世紀初頭にははじまっていたが、市内全域の電灯がともるのは大震災の直前1920年頃であったという。それと同期して、高学歴の中間階層のサラリーマン向けに震災後郊外の建売住宅の新築ラッシュが起こり、「文化住宅」に書斎が出現した。和洋折衷方式の住宅の小さな洋間に書斎兼応接間が設けられ、電灯がともり、洋風の机といす、本棚、蔵書を置くことが流行しました。この本棚の中に円本の全集物や文庫本などが並んでいました。読んだ形跡はなかったのですが、これもステータスシンボルであったようです。出版界のリーダーである、改造社の山本実彦、岩波書店の岩波茂雄、講談社の野間清治氏らは、教養主義読書を標榜して「家庭図書館」というスローガンで教養主義の民衆化・大衆化を目指した。大正教養主義に円本全集物・文庫ブームが重なった昭和初期には、明治の知的産物の保存も併せて行われた。つぎに知的中間層以外の底辺ン大衆の読書環境はどうだったのだろう。20世紀初め公的な図書館サービスが普及し、地域住民向けのミニ図書館も併設された。夜間閲覧可能、館外貸し出し、無料原則で働く労働者向けに大衆的利用をはかった。そこで読まれていた本には、大衆文学として通俗小説や時代小説が多かった。又郊外のサラリーマンが通勤電車内で読む「社内読書」として堅い物は敬遠され、随筆や座談会・実話・手記など「雑文」と呼ばれる軽読み物のジャンルが好まれた。1923年に創刊された菊池寛編集の国民雑誌「文芸春秋」や、大衆小説・時代小説や通俗小説が読まれたようである。知的階層の読書は基本的に多読であり、かつ早読みをモットーとしていた。読みやすい活字で翻訳本も入れて、古今東西の大量の本を読むことは教養主義的読書にとって必須の前提でした。東西の古典を原文で読むことは学者以外の一般読者にはできない相談なので、文学の翻訳ものが大量に出回りはじめたのも昭和初期の事でした。

7) 焼け跡からの出発ー昭和時代(戦後)

太平洋戦争時代の出版界の状況は悲惨を極めた。1941年に約3万点あった出版数が、1945年終戦年には878点にまで激減していた。その最大の原因は紙飢饉であった。日本の製紙業は樺太(サハリン)の針葉樹林に頼っていた。ところが1937年日中戦争が起き翌年「国民総動員法」が制定されると、国家統制は戦争に向かって強化された。非軍需産業であった製紙業や出版業は資源供給を大幅にカットされ、それまで2241社あった出版社は10分の1に、2千誌あった雑誌も半分に削減された。資源供給だけでなく、出版社には言論統制で出版社や雑誌が次々に統廃合に追い込まれていた。戦争が終わった1945年はすべてを破壊された国土の荒廃により、さらに樺太の放棄によって日本の製紙業は麻痺状態に陥っていた。戦中・戦後時代、読者は本に飢えていた状況が、戦没学生の手記「きけわだつみの声」や水木しげる氏の日記を編集した荒俣宏著の「戦争と読書ー水木しげる出征前手記」に記されている。戦前期に形成された教養主義的読書の習慣が戦後の読書まで生き延びていたことが分かります。川合栄治郎編「学生と読書」が戦中の学生たちの指針となっていたようです。1947年岩波書店が「西田幾多郎全集」19巻を刊行したとき、徹夜の行列ができたと言われています。大正教養主義は戦後まで生きのびていたのです。1950年の朝鮮戦争特需の好景気は全経済分野に広がり、1950年の発刊点数は13000点に回復し、1970年には2万点になりました。戦後の出版事業の再開は、関東大震災後の出版業の資本主義的再編成の繰り返しの形で行われました。全集・雑誌・文庫本や新書・週刊誌の順で見てゆこう。1952年新潮社に「現代世界文学全集」、角川書店の「昭和文学全集」をかわきりにして、1950年代前半は予約購読方式の全集物の出版が相次ぎました。岩波書店の「日本古典文学大系」といったアカデミックなものも発刊されました。これらは空襲で焼失した大量の文字資産を補充するという意味があって、学校や公的図書館などで一括購入されたのでしょう。文庫本では新潮文庫、角川文庫など70種を越える文庫が創刊され、同時に岩波新書、角川新書、三一新書など90種を超える新書も創刊されました。岩波新書に始まる既存の新書は主に知識層相手でしたが、カッパブックスは一般大衆まで対象を広げました。雑誌部門では週刊誌ブームがおこり、1954年「週刊朝日」の発行部数が100万部を越えました。週刊朝日の成功の一因に、1951年から始めた「週刊図書館」という書評欄の魅力があります。週刊朝日の読者には高学歴のサラリーマンに代表される知的中間層がいたと思われます。そして主に新聞社系の週刊誌に加えて出版社の週刊誌が加わりました。1956年創刊の「週刊新潮」を先頭に、「週刊女性」、「週刊現代」、「週刊文春」など数多くの大衆向け週刊誌の発刊があい次ぎました。企画も多彩で、五味泰祐、柴田錬三郎の時代小説が人気を博しました。松本清張の「社会派ミステリー」が大ヒットしました。朝鮮戦争後の「神武景気」がこのブームを支えたようです。「暮らしの手帖」、「平凡」、「文芸春秋」など名編集長が発刊した一般誌も100万部を越えました。大衆文学のみならず、いわゆる純文学の分野でも戦後の花が咲きました。永井荷風、志賀直哉、中野重治、太宰治、高見淳らの戦前派をはじめ、三島由紀夫、大岡昇平、野間宏、武田泰淳、椎名鱗三、安部公房、中村信一郎、井上光晴、安岡章太郎、阿川弘之、吉行淳之介、遠藤周作らの戦中派がつづき、有吉佐和子、瀬戸内晴美、開高健、大江健三郎らの戦後派が世に出た。1950年後半から1960年初頭にかけて、個性的な評論家の活動が目立った。福田恆存、加藤周一、江藤淳、吉本隆明、鶴見俊輔、竹内好、丸山真男らが輩出した。彼らの活動の場となったのが、「世界」、「展望」、「改造」、「中央王論」などの総合雑誌でした。サンフランシスコ条約締結後GHQの検閲が終わり、欧米の新刊書の輸入や翻訳が堰を切ったかのようにあふれ出しました。サルトル、カミュの「実存主義ブーム」が起り、「マルクス資本論・近代経済学と実存主義文学」が1960年代の大学生の流行となりました。こうして1960年をへて1980年代中頃に至る25年こそが、「読書の黄金時代」と言われます。

8) 活字離れ

1960年代後半には団塊世代の学生たちが、「少年マガジン」、「少年サンデー」、「少年ジャンプ」、「ガロ」などのマンガ雑誌を盛んに読む風景が際立ちました。作品でいえば「カムイ伝」、「天才バカボン」、「あしたのジョー」、「巨人の星」などです。読んだ方も多いだろうと思います。同時に書物の権威主義的支配に対抗する形で、寺山修司の「書を捨てて、街に出よう」といったカウンターカルチャーやサブカルチャーの時代になったのです。書だけではだめだという主張は前からありました。1955年京大人文化科学研究所の桑原武夫氏は「写真、映画、ラジオ、テレビなどのコミュニケーション手段が有力となって、本の持つ影響力が低下している。そろそろ本の普及はピークを過ぎたのではないか」といい、読書という手段だけでは人間形成には不十分だと言っていました。読書だけに頼って経験をおろそかにしがちな教養主義読書法の欠点を指摘したのです。京大人文科学研究所の鶴見俊輔氏は大衆文学や漫画と共に生きた最初の哲学者でした。また同じ人文科学研究所の梅棹忠夫氏は、岩波新書「知的生産の技術」で、フィールドワーカーの実践技術で人類学を切り開きました。現場主義の社会学です。1960年代の特徴は高度経済成長によって消費社会化が進んだことです。その時代の担い手は団塊の世代です。出版界に生じた象徴的な出来事が二つあります。ひとつはマガジンハウス社による雑誌メディアの革新です。「平凡パンチ」、「クロワッサン」、「ブルータス」、「an・an」といったセンスのいい大型ビジュアル誌が立て続けに創刊されたことです。二つは角川書店による文庫の大衆化です。角川映画と連動するメディアミックス戦略が成功し、文庫の路線も文学や古典から大衆文学に切り替えました。文庫が一斉に柔らかい内容になりました。文庫にせよ雑誌にせよ、本屋の一番目立つ入り口付近の場所に華やかに展示されました。1970年代の終わりには雑誌の売り上げが戦後初めて書籍の売り上げを上回りました。大量消費時代をうけて出版点数が驚くべき急増ぶりを示しました。1971年に2万点をこえ、1982年には3万点、1990年に4万点、1996年に6万点、2001年に7万点、2010年に8万点になりました。本の生命がどんどん短くなって90年代には大量に売れる本(雑誌)がいい本になり、売れ筋でない本は動かなくなりました。20世紀前半のベストセラーはミッチェルの「風と共に去りぬ」でアメリカだけで300万部を売りました。20世紀末にはローリングの「ハリー・ポッター」シリーズが爆発的に売れました。世界同時発売戦略で一日で900万部を売り、全7巻の総計は4億万部以上を売ったと言われています。日本での翻訳本は静山社が総発行部数2360万部を売り上げた。アメリカ式市場のグローバル化、新自由主義経済体制の社会の風潮と無縁ではありません。これはまさにバブルです。度を越えた読者の同調を煽った戦略です。それにしても本を読む人若い人の数は減少し続けています。柔らかい本が高度経済成長の消費文化に乗って、飛躍的に拡大し、反面堅い本の売れゆきが減少しました。学生が読む本においてこの傾向が支配的になり、1973年には岩波書店の本が第1位から新潮社へトップの座を譲り渡しました。さらに一般社会人層向けの本は、趣味・娯楽・スポーツ・ハウツーもの・経済本に重心が移ってゆきました。文庫や新書においても、「昭和軽薄体」と言われる軽い内容の「読むマンガ本」となってゆきました。また「満腹時代の読書」には、堅い本の関係でいうと、吉本隆明から山口昌夫にバトンタッチし、丸谷才一、大江健三郎、井上ひさし、司馬遼太郎らが1970年代に活躍しました。1980年代の左翼関係本の様変わりは顕著で、マルクス主義の枠組みをはずして、浅川彰、栗本慎一朗、中沢新、上野千鶴子などの本が流行しました。1980年代のバブル景気の中、読書傾向は多読と博識の教養主義読書法は、肩の力を抜いた「知の楽しみ」、「読書の悦楽」といった趣味性の高い読書法に変わりました。1996年書籍の年間売り上げ総額は1兆0931億円に到達しました。ところが橋本内閣の時消費税増税がおこなわれたのをきっかけに、売り上げ高は下降に転じました。雑誌の落ち込みが一番ひどかった。1980年代から2010年までの出版点数と総売上高の推移を見ると、出版点数だけは先に書いたように、右上がりに増加していますが、総売上高は1996年の1兆円をピークに下降し、2010年には8831億円の減少傾向にあります。出版業界の市場規模は縮小しているのに、出版点数だけはふえているのは、ジャンル内容の激変ぶりとデフレ傾向を止められない業界の悩みを表しています。これも内容を無視して過激な新自由主義競争に邁進した結果です。既刊本の売れゆきが激減し、新刊本しか売れなくなったのです。「すぐに大量に売れる本が勝ち、売れるのに時間がかかる本は負け」という風潮でロングセラー商法が成り立たなくなっているのです。この出版界の状況は市民図書館の置かれた状況変化にも通じています。小泉内閣に始まった新自由主義政策は、小さな政府を目指して公的予算の削減となり、図書館運営に迫りました。図書館「改革」は専任の図書館員を派遣や契約社員に置き換え、外部企業に運営を丸投げすることでした。するとどうなるでしょうか。読みやすい本が占める率が圧倒的になり、ほとんどは読み捨て型のハウツー本になったのです。図書や書籍、教育そして文化まで考えたことがない代理運営がなすあきれ果てた図書館です。

9) 紙の本と電子の本ー21世紀の今

2007年アマゾンの電子本リーダー「Kindle」が発売され、2010年アップルが電子本リーダーを兼ねるタブレット型のパソコン「iPad」を発売したことがきっかけになって、電子本がにわかにクローズアップされた。電子本の原型は1970年代アメリカで始まっていた。900年代にはかなりの量の本が無料で読める状態になっていた。日本でも「新潮文庫100冊」のCDが売り出された。とにかくアマゾン、アップルの動きから、電子本ビジネスが可能かどうかが大きな話題になった。本は古くから、メソポタミアの粘土の本、インダス文明の「木の葉の本」、エジプト・ギリシャの「パピルスの本」、中国の「竹簡、絹の本」、中東や欧州の「獣皮の本」があったが、今日の紙の本は8世紀の中国で出現した。読む側にとっての本の最大の特徴は消すことができない「定着」という特性です。ところが電子本は表示はするが定着はできません。物質としての本(紙)に対して、物質でない本が出てきたということです。吉田健一は「本という道具を使うには、専門的な知識は必要でない。字が読めればいいだけである」と言いました。ところが電子本リーダーは絶え間ない新製品開発やバージョンアップによって、読者へ大変な再学習を要求する。陳腐化をすることはIT経営にとって致命てきであるからだ。1970年代アメリカで発足した「プロジェクト・グーテンブルグ」、1990年に始まる議会図書館の「アメリカの記憶」計画の試みがあった。後者は壮大なインターネット・アーカイブ構想で、電子化された文書、本、音声、映像、画像などの保存倉庫であった。ただし問題はその実現や管理に膨大な資金が必要です。国家や自治体でさえ簡単に手が出せないくらいです。そこへ2004年グーグル社は「グーグル・プリント(ブックス)」という新プロジェクトを発足させた。全世界図書館の夢を現実化できるという期待が膨らみました。しかし著者の期待は無残にも失速しました。グローバルIT企業であるグーグル社の野望が余りに露骨であったためです。人類の知的資源を自分ッちの手で根こそぎデジタルデータ化して、それへのアクセス権を独占して、グルーバルな情報権力を握ろうとする欲望だけであったということが判明したからだといいます。つまりはハリーポッターと新自由主義経済手法による知的財産の制覇です。ハーヴァード大学図書館長で著名な書誌学者ロバート・ダーントンがグーグル社を訪れてわかったことは、この企画に書誌学者が一人もいないので必ず失敗するだろうという確信したということです。ところが「今すぐ売れる本はいい本」という出版業界のセオリーは電子書店そのまま引き継がれ、日本位おいては電子書店にある本の8割はコミックで、残りは売れ筋のやわらかい本が占めるという惨憺たる状態です。アマゾンの電子本リーダー「Kindle」は45万点の膨大な電子本を揃え、無料でダウンロードできる仕組みを作った。同じ趣旨で日本ではボランティアの手で電子化し、私設電子公共図書館「青空文庫」が1977年から始められた。結局グーグルの企ては、データの独占を放棄して原則無料の電子公共図書館構想に合流する以外に生きる道はないとロバート・ダーントンは予言しています。紙の本への信頼が揺らいでいるのは、ダイレクトにデジタル革命のせいではない。電子本が全面的に紙の本にとって代わる恐れは全くない。両者は別々の媒体メディアと考えた方が正しいようだ。かって20世紀前半に映画が読書を追い出すと心配したことが杞憂であったように、20世紀末から21世紀初めのインターネットが読書を追い出すと心配することも杞憂ではないかと考えられます。映画やインターネットの流れから遁れて息抜きを求める「本に戻る人」が存在します。本を読まなくなったのは若者だけではありません、中高年も若者以上に本を読んでいないのです。多くの日本人がやはり一斉に本を読まなくなった理由を考えるべきです。市場原理ビジネスとしての出版界によって本の良さが見えなくなっているだけかもしれません。この種の硬い本(人文書)を隠蔽しようとする政府官房筋のたくらみが見え隠れする中で、やはり本の良さを再発見する人が増えています。おびただしい数の人々が同じ本を読むハリー・ポッター現象の方が異常で、病んでいると言えます。ハメルンの笛吹きに誘導されて断崖から飛び込む子供の群れのようで不気味です。「いそいでじたばたせずに、嫌な時代が過ぎて行くのをじっと待つことにしよう」という判断が求められます。



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