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平野芳英著 「古代出雲を歩く」 
岩波新書(2016年7月)

風土記に沿って弥生時代から古墳時代の出雲を散策する

本書は古代歴史の本ではない。むしろ地理とか考古学に近い本である。もっと砕けて言えば「古代出雲地方を歩こう」というガイドブックともいえる。著者平野芳英氏のプロフィールは詳細なものはないので、巻末の著書紹介に従って記す。平野氏は1951年島根県生まれ、熊本大学院文学研究科修了。「島根県八雲立つ風土記の丘」勤務を経て、2005年から「荒神谷博物館」の首席学芸員として勤務。現在荒神谷博物館副館長、NPO法人「出雲学研究所」理事を務める。専攻は考古学である。1984年7月日本中を驚かした「銅剣358本発見」で一躍有名になった「荒神谷遺跡」にある斐川町立「荒神谷博物館」のホームページには、遺跡の概要が書かれているので参考になる。実際に出土した青銅器:銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本(一括国宝指定) は現在、文化庁が所蔵し、島根県立古代出雲歴史博物館〔出雲市大社町杵築東〕に常設展示されています。古代出雲の歴史については、村井康彦 著 「出雲と大和」(岩波新書 2013年 )、出雲国風土記については、三浦祐之著 「風土記の世界」(岩波新書 2016年)中村啓信監修・訳注 「風土記」(角川ソフィア文庫 2015年)、そして出雲神話については古事記上巻 倉野憲司校注 「古 事 記」(岩波文庫)が参考になる。古事記にも出雲神話は語られてるが、これは大和側から見た出雲の側面で「出雲国引き神話」は語らえない。出雲風土記は出雲側が書いた古事記と言える。大和と出雲の関係については村井康彦 著 「出雲と大和に詳しくその政治的関係が推論されている。本書平野芳英著 「古代出雲を歩く」は出雲の政治、歴史、神話はあまり多くは語らない。著者の専門外の事だからである。だから主として「出雲国風土記」に則て地名と神社、遺跡の関係を探す旅に出ようというわけである。713年風土記編纂の詔が出て733年「出雲風土記」が完成した。その中心となったのは意宇郡郡司出雲国造の果安と広嶋の親子二代であった。本来統括者は国司であるのだが、出雲風土記だけは郡司出雲国造が統括した。当然風土記は大国主神を中心とする出雲世界の歴史を描くことが目的であった。風土記編纂の過程で、古事記(712年)、日本書紀(720年)が完成しているので、各地の豪族は天皇家との位置距離関係の記述に心血を注いだに違いない。記紀と連動して風土記は 編纂されていった。風土記編纂の過程で716年出雲国造果安は平城京の朝廷に「神賀詞奏上」(かむよごと)が行なわれた。これは服従の儀礼というよりは、出雲の国としての誇りをぎりぎりのところで主張する内容となっていた。「神賀詞奏上」は出雲国造家ー国守忌部氏ー中央の中臣氏の連携プレーによる一大イベントであった。最大の眼目は大国主神の口を通じて語られる4つの守り神(大神、葛城高鴨の神、伽夜流神、宇奈堤の神)を「皇孫の命の近き守神」としておいたことである。そして意宇郡の熊野大社を大国主神のミケ(食事)の神に置いた。伊勢神宮は天照大神を内宮とし、ミケの神として外宮に豊受大神を配するのと同じ構造である。「神賀詞奏上」は8世紀の国造出雲の意宇郡の大領時代の約100年に10回奏上された。これが出雲国造の全盛時代といえる。出雲風土記の記述と地名から大国主神の拠点は斐伊川流域の来次あたりと思われる。出雲国はヤマト政権のアメノホヒが作った国であるとした点がみそである。ヤマト政権が大国主の出雲を征服する構図が、意宇の出雲臣であるアメノホヒが出雲の国造りをする構図にすり替えられたのである。そこから出雲国の統一と国作りが始まるのである。国造の拠点は意宇郡にあった。つまり出雲の東端から西の豪族を併合していったというストーリーである。西部の豪族の拠点は、出雲大社が鎮座する出雲郡と神門郡がその中心であった。日本書紀につたられるミマキイリヒコ(崇仁天皇)60年の記事が出雲国の神宝をめぐる出雲豪族の内紛を伝えている。出雲の地には東の意宇を中心にした勢力と西の神門を中心にした勢力があり、意宇豪族はヤマト政権に取り入り、神門豪族は九州の筑紫と通じていたとされる。神門郡には巨大な四隅突出型墳丘墓に見られる豪族の勢力があったという考古学上の裏付けもある。その中心の杵築大社にはオオムナジが祀られている。東の意宇臣はヤマトの軍勢の力を借りて西の神門臣を滅ぼし、ヤマトの庇護を得て出雲を統一する。そしてヤマト政権から与えられたのは、「出雲臣」という氏姓と「国造」という統治権であった。出雲国風土記が出雲臣の広嶋を責任者として編まれたことを考えると、出雲臣の本拠地である意宇群の伝承が大きく取り扱われるのは当然のなりゆきである。それを象徴するのが「国引き詞章」である。この詞章は漢文ではなく、音仮名(万葉かな)を多用し、語りとしての性格が濃厚である。国引き譚の初めと終わりは意宇という地名の由来を語る地名起源譚になっている。ヤツカミズオミゾノという巨神が4回の国引きによって島根半島全域を意宇の社に西から東へ移動させたという話である。意宇(淤宇)の地を支配する意宇一族の支配の根拠を語る神話である。出雲風土記には御祖神魂命(カムムスヒ神)は一度しか出てこないが、御祖神魂命の御子は地名起源譚として島根半島を取り囲むようにして語られる。@加賀の郷ー支佐加比売、A生馬の郷ー八尋鉾長依日子命、B法吉の郷ー宇武加比売、C加賀の神埼ー枳佐加比売、D楯縫ー天の御鳥命、E漆治の郷ー天津枳佐可美高日命(志都治)、F宇賀の郷ー綾門日女命、G朝山の郷ー真玉着玉邑日女命という具合に御子が配置されいる。出雲の県主をはじめとした豪族の系譜に母系的な性格が濃厚に存在していたことを示している。「土着の女首長の存在」はシャーマンという特殊な存在ではなく、邪馬台国「ヒミコ」に出雲系母系社会を関係づけることが可能である。カムムスヒ神が海の彼方、スサノヲが根の堅洲の国というような水平的な世界を想像させる。出雲風土記は古事記の出雲神話を語らない。古事記の出雲神話は、服従の証としてのカムムスヒ神の天への引き上げと消滅は決して認めない。古事記は出雲の繁栄と服従という物語であるが、出雲風土記は島根半島の各地に生き続ける母系の郷を置く。国譲り神話においてヤマトが約束したオオクニヌシを祀る者として、意宇郡にいた出雲臣を選び、出雲西にあった神門を含む出雲全体を支配させたといえる。
なお本書が対象とする地域は島根半島の部分で、中湖、宍道湖周辺に限定される。出雲国風土記では出雲国の郡は東の意宇群から始め(反時計回りに)西南の大原郡に至る9つの郡を記述する。
意宇郡: 郷11(余り1戸)、里33、駅家3、神戸3
島根郡: 郷8(余り1)、里25、駅家1
秋鹿郡: 郷4、里12、神戸1
楯縫郡: 郷4(余り1)、里12、神戸1
出雲郡: 郷8、里23、神戸1
神門郡: 郷8(余り1)、里22、駅家2、神戸1
飯石郡: 郷7、里19
仁多郡: 郷4、里12
大原郡: 郷8、里24
本書が対象とする内容と風土記の記述との対応は、風土記の郡でいえば、島根郡(4.闇見の国と三穂の埼)、秋鹿郡(3.狭田の国)、楯縫郡(2.支豆支の御崎)の三郡が中心で、意宇郡の一部国府のあたりのみ(5.意宇川)、出雲郡の一部斐川あたりのみ(6.銅剣と銅鐸と荒神谷遺跡)である。本書の対象「郡」は風土記全体の1/3の郡に過ぎない。それは風土記や古事記の「国引き神話」の対象範囲であるからだ。

1) 国引き神話

宍道湖と島根半島は出雲の国風土記のl国引き神話」の舞台である。713年元明天皇の詔によって地誌が各国で編纂された。現存する風土記は、常陸、出雲、播磨、肥前、豊後の5つである。出雲国風土記は733年に出来上がったという。完成までに20年と費やしているが、完成度が最も高く、記載項目も完ぺきであり、ほぼ完全に遺っていると考えられる。出雲風土記の冒頭の意宇郡の条に「古事記」や「日本書紀」には書かれていない、出雲独自の国生み神話がある。それが「国引き神話」といわれ、出雲国の国府がある意宇郡が四つの国を島根半島の部分に引き寄せる物語である。国引き神話の概要をまとめておこう。国引き神話の主人公は八束水臣津野命である。水(海)の神様であろう。この命は「出雲の国は狭い帯のように、若い小さな国である。領土を引き寄せ拡大しよう」と決意した。目に付けた@栲衾志羅紀の三埼(→支豆支の御崎)、A北門の佐伎の国(→狭田の国)、B北門の良波の国(→闇音の国)、C高志の都都の三埼(→三穂の埼)であった。志羅紀は新羅、北門は隠岐の国、高志は越の国と言われる。そこの国に縄をつけて出雲国に引き寄せるという大ぼら吹きの話である。出雲国風土記の4つの国引き物語の記述の繰り返し部分は「・・・を、国の余りありやとみれば、国の余りありと詔りたまひて、童女の胸鋤取らして、大魚の支太衝き分けて、波多須々支穂振り分けて、三身の綱打ち掛けて、霜黒葛くるやくるやに、川船のもそろもそろに国来、国来と引き来縫えへる国は・・・」である。用いた綱は三本撚りの引き綱で支豆支の御崎を佐比売山(三瓶山)を杭にして固定し、三穂の埼を火神山(大山)を杭にして固定した。こうして4つの島を固定して(島根半島を構成して)国造りをおえた八束水臣津野命が意宇の社で杖を突きたてて「おえ」と叫んだので、意宇と言う地名が付いたという。この杭にした二つの山は、三瓶山が石見国との境にあり、大山は伯耆国との境にある。国引きをした4つの国からなる島根半島の地形を見てゆこう。島根半島は一続きのなだらかな山地のように見えるが、地形的には西から弥山山地、本宮山山地、三坂山山地の3つの山塊から構成されている。風土記国引き神話がいう支豆支の御崎は弥山山地に、狭田の国は本宮山山地に、闇音の国は三坂山山地西部に、三穂の埼は三坂山山地東部に対応する。弥山山地は出雲大社の背後にある山々で400−500mほどの山が連なっている。その南は山麓から穀倉地帯広がり、大社参道を縫う「天平古道」として親しまれている。そして支豆支の御崎の東端が去豆の折絶(こずのおりたえ)である。その東に引き寄せた国は狭田の国で本宮山山地がそれにあたる。本宮山山地は東西35Kmで、300m前後の高さである。北側の海岸線は海岸まで崖面が迫り、小さな漁村集落がある。本宮山山地の南側は宍道湖岸で狭い、東側は佐陀川によって切られている。佐陀川の東側は平野になって水田地帯である。この断層を多久の折絶である。闇音の国をなす三坂山山地西部は400−500mの山で、さらに東へゆくと200−300mの山が連なる。三坂山山地の東西を分断する形で宇波の折絶という標高差のある山間になっている。この折絶から東部の半島の先端までを三穂の埼という。三穂の埼は島根半島の中では最も細長い山地で200−300mほどの山が続き平地はほとんどない。島根半島は、ひとつづきの陸地のようではあるが、実際は3つの山塊でできており、そして3か所の断層地帯にできた谷底平野によってはっきり区切られている。その区分帯を風土記では「折絶」と呼んだ。国引き神話で国の境界線が折絶である。そして折絶には島根半島を代表する古代遺跡が集中している。西から折絶を見てゆくと、去豆の折絶は出雲市平田町の丘陵のことであり、陰事故岸と日本海の十六島湾を結ぶ。上島古墳、大寺古墳、中村古墳、四隅突出型墳丘墓が発掘された青木遺跡などがひしめいている。去豆の折絶は古代から日本海交流の回廊であったと考えられる。第2の多久の折絶は本宮山山地と三坂山山地を分かつもので、いまの松江市鹿島町に鎮座する佐多神社がある。広々とした水田地帯が広がっている。風土記では「佐太水海」と言われた。多久の折絶の北の入り口は風土記では「恵曇郷」と呼ばれた。ここで弥生時代の埋葬遺跡、古浦遺跡、堀部第1遺跡や縄文時代の貝塚である佐太講武貝塚がある。この恵曇郷には弥生時代から西日本各地との交流や、楽浪系の土器から朝鮮半島との交流も認められる。第3の折絶である宇波の折絶は、三坂山山地の西にある枕木山(453m)を境に東の高雄山(322m)の間に標高差がある、この標高差が生じる狭い谷間にある。宇波の折絶の出入り口には古代遺跡が確認されている。寺の脇遺跡、縄文時代の大手遺跡、千酌の古代古墳遺跡がある。奈良時代以降では千酌駅家が置かれ、出雲と隠岐諸島を結ぶ枉北道の拠点となった。
出雲国風土記の冒頭に「国引き神話」を持ってくるのは、奇異に映る。9郡の記載がマニアルに沿って整然と書かれているのに、国引き神話は唐突に意宇郡の条に織り込まれてゆくのである。八束水臣津野命はどの立場にいたかは興味あることである。出雲国の名を出雲郡に端を発することは間違いない。そして八束水臣津野命を祀る神社は風土記の出雲郡、神門郡など西出雲を中心に分布が見られる。そして出雲が国引きの最初の原点であった。八束水臣津野命が意宇の杜に御杖を立てることは古事記、日本書紀ではその地の支配権を宣言することであった。出雲郡が大国主命の初期出雲国の由緒ある土地であるが、意宇郡は拡大出雲国の国の中心としたことを宣言している。その間には国譲り神話が横たわっている。大国主命と八束水臣津野命の間に何十年、何百年の歳月が隔たっているかはわからない。この新生出雲国は大和朝廷の了解なしには存在を合理づけることはできない。それでも律令制の国司制に抗して出雲の国は国造制という二重制度を一定期間保っていたことに、出雲国の自主性を名目でも維持したい意向があったことが風土記から読み取れる。

2) 支豆支の御崎

支豆支(きづき)の旅は宍道湖畔で島根半島の付け根である、「去豆の折絶」に位置する出雲市平田駅から西に向けて出雲国歴史ウォーキングを始めよう。弥山山地を歩くことになる。風土記でいうと楯縫郡沼田郷である。仁多もしくは努多と呼んでいたが、神亀3年地名の命名法の詔で「沼田」に変わった。江戸時代沼地であった土地を排水するため高畆作りが行われ今の水田地帯となったという。次の順に沿って数か所の歴史ポイントを巡るわけであるが、かならずしも年代順ではないし、テーマ別でもない。
@ 鍔淵寺: 浮浪山鍔淵寺は弁慶伝説で有名な天台宗の古刹である。三門から石段を上がると、浮浪の滝の崖の洞窟にある蔵王権現は修験の場である。延暦寺を本寺とする末寺関係にある。鍔淵寺は別所であり地名の由来となっている。寺の創建は594年推古天皇の勅願といわれる。鍔淵寺には仏像・神像・絵画・文書の文化財が所蔵され、「観世音菩薩立像」の銘に「壬辰五月出雲国若倭部」と記され、692年出雲国の主帳であった若倭部が作ったとされる。
A 韓竈神社: 鍔淵寺をさらに西へゆき唐川集落に韓竈神社がある。韓竈神社と出雲市斐川町が一躍脚光を浴びたのは、1984年に荒神谷遺跡から358本という大量の銅剣が出土したからである。韓竈神社の近くは昔は銅の鉱山があった(今は石膏を産する)。風土記にも神祇官社58社の一つに韓竈社がある。韓竈神社は素戔嗚命を祀る。素戔嗚命が乗ったとされる「岩船」という巨岩があり、さらに上には帆柱岩があって修験道の場である。唐川町は弥山山地のほぼ中央にある。
B 猪目洞窟遺跡: 島根半島の日本海海岸にある猪目湾には、太古の地層が大きく開口している洞窟(幅30m、高さ15m)が猪目洞窟遺跡である。風土記の出雲郡宇賀郷にこの洞窟を黄泉野の坂と呼んでいる。弥生時代の埋葬人骨、土器、古墳時代の舟葬らが発見された。
C 鷺浦: 猪目湾の西の湾が風土記において鷺浜と記されている。江戸時代にはちなりの宇竜と並んで北前船の寄港地として知られた浜である。鷺浦湾の入口にある島が柏島である。風土記には「脳島(なづきしま)」と記されている。7月31日は柏島権現の祭礼である。鷺浦に伊奈西波岐(いなせはぎ)神社がある。稲背脛命を主祭神とし、日本書紀の出雲国国譲り神話に大己貴神の使者であるが古事記には登場しない。鷺浦から南西に八千代川に沿って山地を横断すると海岸にある日御碕神社に出る旧道の途中に巨岩からなる御領神社がある。その由来は何も分からないが、「塞の神」として信仰されてきた。
D 日御碕神社: 弥山山地の西端にある。風土記に神祇官社「美佐伎社」が日御碕神社とされる。「美佐伎社」は古事記には見えないことから、地方神であった。この海を舞台に生活する人々海の守り神である。神社の上宮は素戔嗚尊を祀り、下宮は天照大神を祀る。風土記には神社の前の浜は「御前浜」と記されている。浜の前には「御巌島」と風土記に記された「経島(ふみしま)」がある。風土記には海藻がとれたとされるが、今はウミネコの繁殖地である。
E 稲佐の浜: 稲佐ノ浜は古事記の国譲り神話の舞台になった。天照大神と高木神の使者(派遣軍)として遣わされた建御雷神と天鳥船神は、稲佐の浜にに剣を立てて大国主命に国の支配権の委譲(降伏)を迫った。大国主命は二人の息子の意見を聞いてからということで、天鳥船神は美保の埼に出かけていた事代主命を呼んで意見を聞くと彼は譲渡を受け入れて逃亡したが、もう一人の子である建御名方神は建御雷神との戦いに敗れて、諏訪に逃亡した。日本書紀の国譲り神話では使者の天鳥船神は登場せず稲背脛命(否か是かという意味)になっている。風土記の国引き神話で最初に引き寄せた国は支豆支の御崎で、それを引っ張った綱は薗の長浜とされている。白く長く続く長浜はいかにも綱のようである。
F 出雲神社: 出雲大社は、2008年に始まった平成の大遷宮は2016年3月に終了した。高床式大社造の神坐は中心にある心御柱の仕切り壁によって拝殿または階段正面からは見えない。拝殿と神坐は対面しているように思いがちだが、出雲大社の神坐は西向きで、拝殿は北向きである。同じ構成は八重垣神社、熊野神社にも見られる。神坐が東向きは神魂神社など、神坐が南面し拝殿が北向きは対面関係にあるのは六所神社などである。出雲大社から天平古道を東に向かうと巨岩で有名な命主社がある。府風土記に記された出雲郡の神祇社として「企豆伎社」の同社5社の一つである。ここから弥生時代の青銅製鉾と翡翠が発見された。鉾は九州に見られる形である。
G 天平古道: 弥山山地の山裾に「天平古道」という、出雲大社への参拝道がある。山裾の高所には中世以来の鍔淵寺の修験者の末裔が住み着いている。古道は川を渡らずに谷沿いに進むのだが、その谷の一つに神門谷があり、来坂神社という社がある。鳥居の近くに「腰掛岩」という巨岩があり、素戔嗚尊が腰を掛けた伝説で有名な岩である。
H 大寺薬師収蔵庫: 鍔淵寺の東に「大寺」がある。大寺は594年鍔淵寺と同じく智春上人が創建したと伝えられる。741年僧行基がこの寺に滞在し、仏像や堂塔を建立した。1650年の大洪水で堂塔が埋没したが、9体の仏像が大寺薬師収蔵庫に保管された。薬師如来、日光・月光菩薩立像、観音菩薩像二体、四天王像、いずれも重要文化財である。

3) 狭田の国

狭田の国は島根半島のほぼ中央に立地する。出雲市平田駅から西に向かわず、去豆の折絶に沿って日本海に向かい十六島湾に向かう。
@ 十六島(うっぷるい): 十六島湾は西に向かって開口する。南北の沿岸には岩礁が発達している。日本海の荒波に洗われて格好の海苔の産地である。風土記でも楯縫郡許豆浜(こずのはま)は海苔は楯縫のものが一番優れていると記されている。十六島の地名の由来には諸説あり、風土記では「許豆振」、「於豆振碕」の「うちふるい」という読みが訛って「うっぷるい」となったという説、アイヌ語説、古代朝鮮語説もある。江戸時代の学者黒沢石齋は「懐橘談」(1653年)は「海苔を打ち振るい、日に干すことから」打ち振い海苔が訛ったという説を出した。十六島という言葉が文献に現れたのは1399年の京都吉田神社の社家である鈴鹿家の記録である。料理の献立に、海苔のことを十六島と書いている。十六島岬の先端に経島に、むかし「大般若経」という文字を石に彫り岩礁の頂に置いたが、長年の波によってくだかれ流された。古来この地域は航海の難所で、安全祈願の16善神信仰が根付いていた。お経を彫った石の島から経島となずけられた様だ。石を指す古代朝鮮語の「ブルイ」の巨大な物(ウル、ウツ)という意味で「ウップルイ」であるという説がある。風土記楯縫郡の記す「許豆碕」、「許豆島」、「許豆浜」は各々、十六島の鼻、経島、小津浜である。
A 立岩さん: 十六町から東へ山道に入り峠を越した途端、眼前に日本海の絶景が広がる。左は海、右は断崖の道を更に行き塩津町に入ると、岩を御神体とする石上神社が集落の路地の奥にある。社はなく幣帛に囲まれた石だけが立つ。平安時代の中頃海から引き揚げられた岩を「石上さん」と呼んでいた。石上神社から山に入り2つのトンネルを抜けると、「日本のアマルフィ―」と言われる子伊津の家並みの景観が見える。高台の佐香地区に立石神社がある。立石さんは3つの岩からなる山神である。岩の高さ10−13m、周囲は36mである。元は一つの岩塊であったが3つに割れたのだ。出雲国10郡には山神は69か所ある。祭神がいるのは大山祇命、大山昨、大山津見命らが14か所、神木などを入れても20か所である。また石神は78か所、岩屋45か所、神体山41か所、岩船18か所などが信仰の対象となっている。現在の立石さんは多伎都比古命という滝の神であり五穀豊穣を願う水の神である。日本海の海岸坂浦地区には「与市伝説」とそれにまつわる景勝地「千把が滝」がある。894年地元赤浦(坂浦)の漁師であった与市が木造の仏像を発見し、自分の信仰心を試すため、体に千把の茅を巻き付け百丈が滝から海に飛び込んだという伝説である。与市は浦然法師となり一畑薬師の開基となったとされる。
B 神名樋山: 立石さんの南にある大船山を風土記では神名樋山と記されている。高さ358mで、山頂近くに石神(鳥帽子岩)がある。地元の伝説では石神は多伎都比古命で雨の神様である。石神さんに向かう尾根道には、風土記には「小石神」と書かれている大小の石群が現れる。大船山の山腹に祭祀の跡が見つかった。何か所か祭祀跡がある。土師器片から古墳時代後半のものである。
C 佐太神社: 「狭田の国」の東から「多久の折絶」までは、松江市を出発点とする。松江城の北の武家屋敷や小泉八雲旧居跡や、赤山台には旧制名門中学や高校が建つ文教地区である。日本海側の松江市鹿島には中部電力島根原子力発電所がある。鹿島町に向かう水田地帯は、風土記では「佐太水海」と記されていた。この水田地帯が日本海に向けて急に狭まったところに佐太神社がある。風土記秋鹿郡が記すところによると、佐太神社は神名火山(朝日山)の下に、四大神の一つである佐太大神を祀る。本殿三殿、彩絵檜扇、竜胆瑞花鳥蝶紋扇箱は重要文化財である。彩絵檜扇の制作時期は平安時代末期である。扇を神紋とする神社は出雲地方の神社637社のなかでわずか15社に過ぎない。神紋とは殿の瓦に描かれた紋所で、佐太神社はそれが扇紋である。佐太神社の神事は11月20日から行われる神在祭である。南方海上から遡上したという「龍蛇」が仮本殿に安置される。この神送り神事は声を出さないとして、「口祝詞」奏上は秘事である。
D 多久の折絶: 佐太神社から佐陀川を渡り北上すると日本海にでる。古浦の海岸に恵曇(えもと)神社がある。見事な巨岩三体がある。祭神を素戔嗚の御子磐坂日子命とする。風土記には秋鹿郡恵曇郷に神祇官社「恵杼毛(えとも)」と記されてる。この神社横に銅鐸・銅剣出土地である「志谷奥遺跡」がある。銅剣は荒神谷遺跡とおなじ型式であった。長さもほぼ同じである。日本海の古浦砂丘に古浦遺跡がある。弥生時代前期から古墳時代に属する人骨60体以上が出土した。埋葬は土坑墓や配石墓でつくられ、貝小玉、翡翠勾玉、管玉、鹿角装身具、土器などが出土した。多久の折絶には古浦遺跡とほぼ同時期の弥生前期の「堀部第1遺跡」の埋葬遺跡がある。「長者の墓」と呼ばれる円丘から木棺60基が発掘されている。棺を整列して規則的に配置するという特徴がある。また「堀部第1遺跡」の北に「北講武氏元遺跡」があり、遠賀川式土器が出土し、この多久の折絶の水田で初期の農耕が始まったと考えられている。この地帯から出土した土器には、縄文時代後期の地層から朝鮮半島の孔列文土器や松菊里式土器、楽浪郡製の土器が出土しているので、国内だけでなく朝鮮半島を含む東アジア地域との交流の跡がうかがえる。

4) 闇見の国と三穂の埼

「闇見の国」とは多久の折絶から東、宇波の折絶までをいう。宇波の折絶から東、美保関灯台のある地蔵碕までが「三穂の埼」である。風土記国引き神話では二つの国として別々に引き寄せられたのですが、風土記島根郡では一つの郡として記述されている。島根郡を日本海に沿って歩いてみよう。
@ 日本海の浦々: 風土記では「大崎浜」と記される大芦浦には「大埼川辺神社」と「大崎神社」があり、いずれも非神祇官社である。大埼川辺神社の鳥居の横に大岩があり、石神信仰であったかもしれない。神紋は佐太神社と同じ扇紋である。大埼川辺神社より日本海に沿って東に行くと加賀浦になる。地名加賀の由来は支佐加(きさか)比売命からくる。加賀湾の先端にある潜戸鼻に二つの海蝕洞窟がある。賽の河原と言われ子どもの冥福を祈る場所である。湊から東にゆくと加賀神社がある。支佐加比売命と猿田彦を祭神とし、加賀神社の神紋も扇紋である。加賀湾を過ぎて東にゆくと野波浦に出る。そこの小高いところに「努那弥社」がある。野波と野井の間に「瀬埼戍(まもり)」があったとされる。千酌の駅が近くにあり、国境警備の要所であった。海岸は千酌浜と言われ隠岐の国に渡る津であった。千酌浜の対岸には麻仁祖山(まにそやま 172m)の美しい山容が見える。尓佐神社は海岸近くにあり、その周りは水田が広がっている。宇波の折絶の北の出入り口にあたる稲積浦は「稲上浜」と風土記に記されている。伊奈頭美神社が奈倉鼻の付け根にある。かっては麻仁祖山山中に社殿があったとされる伊奈阿気神社は麓に降りている。麻仁祖山は大変目立った山で海上遠くからでも山頂を確認することができる。昔からこの山は航海の安全を祈願する信仰の対象であったようだ。宇波の折絶から海岸をさらに東へゆくと片江浦がある。地名は島根郡片結郷に由来する。風土記では素戔嗚尊の御子国忍別命がこの国を褒めて「かたちがよい」から名づけられたという。片結神社が集落の中央にある。この集落は「片江の墨付けトンド祭り」として知られる。さらに海岸線を東に行くと玉結浜がある。碁石の産地だそうだ。ここには玉結社がある。玉結社には二つの水ガメが口を開けたまま埋められている。これが荒神さんである。水の神(蛇神)であり、わら蛇が樹木に結わえ付けられている。古墳時代には勾玉など玉類の生産加工地であった。この地は製塩業が衰退してから人家がすっかりなくなった。三穂の埼を更に東に行くと七類浦に着く。奈良時代には隠岐航路で賑わったというが、今はその面影もない。
A 美穂浦: 風土記島根郡美保郷には、大国主命が奴奈宜波比売命(ぬながはひめ)と結婚して生まれた子御穂須須美命(みほすすみ)が鎮座するので美保と名が付いたとされる。美保神社は重要文化財で、二つの社殿を社殿が繋ぐ「美保造」治なっている。右社殿んは事代主神、左社殿は三穂津姫命を祀る。御穂須須美命は御穂社と地主社で祀られている。美保神社では4月7日に「青柴垣神事」、12月3日には「諸手船神事」が行われる。この神事は記紀神話の国譲り神話に基づていている。青柴垣神話は古事記神話の正文により、事代主が国譲りに同意して船を傾け海中の青柴垣に隠れる(海に身を投げて自殺する)ことを反映している。「諸手船神事」は日本書紀正文により、事代主のもとに派遣される使者は熊野の諸手船に乗った稲背脛になっている。美保浦の東の山裾に仏谷寺がある。元弘の乱の後後醍醐天皇が隠岐に流される際に行在所となったことで知られる寺院である。仏谷寺には薬師如来他四体の仏像が重要文化財である。
B 久良弥神社: 三穂の埼をぐるっと一周してふたたび闇見の国に戻り中海の西岸に久良弥神社がある。伎豆伎の御崎には大国主命が鎮座し、狭田の国には佐太大神が、そして三穂の埼には御穂須須美命がそれぞれの国神としてあるのに、闇見の国にはこの国全体で祀る神名が見当たらない。久良弥神社は南にある嵩山からのヴィるいくつかの谷の一つにある。水田に恵まれた地域である。祭神は、闇於加美神と速都牟自別神である。それぞれの谷にそれぞれの神がいた。

5) 意宇川

意宇川は松江市の南の熊野山から流れ出し、意宇平野を潤して中海に注いでいる。風土記において、意宇郡は出雲国の新しい中心となった郡であり、国府がおかれている。
@ 熊野山: 熊野山(610m)はいまは天狗山(天宮山)と呼ばれている。若松谷に入ると「かもじが滝」という禊ぎの滝があり、川の反対側に熊野大社となり、意宇川の水源もある。さらに上ると熊野大社の元宮とされる磐座がある(斎場)。風土記には「熊野山・・・熊野大神社座す」と記されている。熊野山は南の安来市山佐との境界である。風土記意宇文の神社列記では、筆頭が熊野神社、次いで夜麻佐社と12番目にも夜麻佐社がある。いま山佐には上山佐と下山佐神社があるが、どちらがどちらかは分らない。
A 熊野大社: 出雲において古代から大社と名がつくのは熊野大社と出雲大社の二社だけである。古事記では意宇郡の筆頭は熊野大社で、主祭神は伊邪那岐の御子熊野加武呂命が熊野大神である。「出雲国造神賀詞」では熊野加武呂命は素戔嗚尊のことである。この神は櫛御気の命すなわち食料をつかさどる最高神となる。風土記で大神と祀られるのは、熊野、杵築、佐太、野城の四神である。出雲国で五か所ある神戸(神々に納税する民部)は、熊野加武呂命、大穴持命のために存在する。磐座の本宮が中世以降里に下りた上の宮跡が意宇川沿いにある。いまの熊野神社は下の宮である。熊野大社本殿に向かって右に稲田神社(櫛名田比売と足名椎命)、左に伊邪那岐神社がある。古代より出雲の新嘗祭はこの熊野神社で行われとぃたのだが、戦国時代に大内氏と毛利氏の戦いで熊野神社は焼失し、新嘗祭は神魂神社に移り、明治時代に出雲大社で行われた。大正天皇即位を記念して1914年再び熊野神社で新嘗祭が復活した。そのとき「御火所」を模して熊野仁じゃの鎮火殿が造営された。毎年10月15日熊野本殿内で鎮火祭が挙行される。熊野の地の地名由来伝説として、風土記飯石郡熊谷郷に、奇稲田姫がお産の場所を探していたが「いたくくまくましき谷」としてこの地を選んだことによる。
B 意宇川の支流: 意宇川は熊野の谷を北上するが、この間に桑並川、東岩坂川、川原川の支流が流れ込む。西岩坂の桑並川に志多備神社がある。スダジイの密生する林の中にある。神社本殿の右に周囲11m、樹高20mで地上3mで9本に別れるスダジイの巨木がある。それにわら蛇が巻き付けてある神木は五穀豊穣を祈念するものである。東岩坂の谷は昔から「祖父越え」といって出雲八雲町と安来を結ぶ険阻な道であった。古くから和紙の里で手漉雁皮紙が有名である。谷が平野に出たところに1995年に発掘された「前田遺跡」がある。土師器土器、勾玉、古代琴、木製品が発見され祭祀跡であることが分かった。中でも古代琴は長さ160cmの最大級の琴で、古墳時代前期以降のものであることが分かった。前田遺跡には葬送の儀礼が行われていたと思われる遺跡もあった。北上する3本の支流の領域は古代から祭祀の場所で信仰心の篤い地域であった。
C 意宇平野: 3本の支流が合流しまとまった意宇川は意宇平野に流れ込み、急に東に向きを変え中海に注ぐ。このため意宇平野(南北2Km、東西4Km)が形成され古代出雲の中心地になってゆくのである。意宇川は少なくとも3回も川筋を変えている。3回目の川筋に出雲国庁跡遺跡がある。六所神社の近くの国府跡は大舎原地区と呼ばれ、発掘調査によって律令時代の建築物遺跡が見つかっている。須恵器台の7割以上がこの大舎原地区から出土した。首長の館跡や灌漑遺跡から、古墳時代中期の意宇平野西部は水田耕作のため、意宇川の水を灌漑し、それには渡来系の人々がその工事の担い手となったと言われる。意宇平野の古墳遺跡や遺物を紹介する「島根県立八雲立つ風土記の丘展示学習館」が、岡田山古墳群の丘陵地帯にある。「額田部」の銘が入った鉄刀や埴輪「見返りの鹿」が有名である。
D 神名樋野: 風土記には、意宇郡の「神名樋野」(松江市の茶臼山)、秋鹿郡の「神名火山」(松江市の朝日山)、楯縫郡の「神名樋山」(出雲市の大船山)、出雲郡の「神名火山」(出雲市の仏経山)の4つの山が記されている。意宇郡の「神名樋野」は標高171mで、この岡から宍道湖と去豆の折絶、意宇平野が360度展望できる。茶臼山の南の裾に真名井神社と真名井の滝がある。「神名樋野」の湧水は3mの落差の滝になり、水質がいいことから酒醸造に用いられている。真名井神社参道の民家の前の木立に注連縄が張られ、樟の巨木に藁蛇が巻き付けられている「本郷の総荒神」とその奥に「原の総荒神」がある。

6) 銅剣と銅鐸と荒神谷遺跡

荒神谷遺跡は、宍道湖の西、出雲市斐川町神庭西谷にある。荒神谷の名がにわかに脚光を浴びたのは、1984年7月のことである。この日を記念して「ひかわ銅剣の日」(7月12日)が定められた。筆者はこの日ビデオ記録係りとして参加され、この章には筆者の興奮が伝わってくるようだ。
@ 荒神谷遺跡: 荒神谷遺跡がある西谷は左右の丘陵が迫り谷奥に吸い込まれる場所で出土した。発掘は公開で進められ、最終的に確認された銅剣は四列に358本、約2000年前の弥生時代に作られ、埋納されたものである。現地は1500人を越える見学者であふれていたという。翌年銅剣が発掘された場所から数メートル離れた場所で銅鐸が22本が発掘された。11年後の1996年隣町の旧加茂町でも全国最多の銅鐸39本が発見されて、出雲の青銅器ブームは一気に過熱した。2000年には出雲神社境内で直系1mもある巨木を3本まとめて1本にした巨大柱が出土した。古代の巨大な大社建築をものがたる新発見に沸いた。それらを記念して「県立歴史博物館」が出雲大社の東隣に新築され、荒神谷遺跡には「町立荒神谷博物館」が2005年に誕生した。筆者は「島根県立八雲立つ風土記の丘展示学習館」から「荒神谷博物館」に移籍した。「常陸国風土記」行方郡手賀里曽尼村に「夜刀神神話」がある。「継体天皇の時代、箭活の麻多智が、この地を開拓して水田を開いた時、多くの蛇の神(夜刀神)がその邪魔をしたので、境界を決めて夜刀神を長く丁寧に祀るので、人の領域の水田に祟らないようにした。また孝徳天皇の時代に壬生連麿が谷を開拓し池を築いた。池の周りの椎木にたくさんの夜刀神(へび)が出るので、ここは民の生活の為に必要なのだとして悉く殺した。」という。ここに夜刀とは谷戸のことである。谷の神である蛇と人間の生活である水田の領域を分かつことから開墾が始まったという伝説である。この伝説とに西谷新田開発の話は重なる。だから自然の神をなだめるため祭祀が行われる。いま銅剣・銅鐸発掘現場は模型遺物を置いて保全されている。銅剣を埋納するため土坑が掘られその上に銅剣類は四列に並べられた。刀身は長年の浸水のため腐食していた。銅剣銅鐸は本州が多いことや形式が出雲型であることから、出雲で製作されたと考えられるという。荒神谷の銅矛16本のうち7本の刀部には綾杉状の研磨厚跡が見られ、北九州の吉野ケ里遺跡と同様の文様から、北九州からもたらされた可能性が高いという。銅鐸には近畿からもたらされた物もあった。
A 加茂岩倉遺跡: 1996年に発掘された加茂岩倉遺跡は雲南市加茂町岩倉にあり、銅鐸39個が発見された。荒神谷銅剣358本のうち344本の茎にはタガネで×印が刻されたいた。当時存在して全国の銅剣約300本にはない×印であった。ところが加茂岩倉遺跡で発見された銅鐸39個中14個の鈕に×印があった。全国出土の500本の銅鐸には全くない印である。古墳時代の遺物に土器や瓦に×印がある例は多い。また弥生時代にも×印はある。しかしこれまで銅剣・銅鐸・銅矛に×印はなかった。理由は全く分からないそうだ。
B 神名火山: 風土記出雲郡に神名火山の記述がある。高さ366m、佐比佐加美高日子命の社が峰にあることから神名火山という。宍道湖の西南に在って、中世以降、尼子経久がこの山に12の寺を建てたことから仏経山と呼ばれている。仏経山には数々の石神(磐座)が確認されている。確認された磐座は9か所である。しかしまだ全容は何もわかっていない。



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