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加藤典洋著 「戦後入門」 
ちくま新書(2015年10月)

安倍首相の復古的国家主義の矛盾を批判し、対米従属と憲法9条の板挟みであえぐ日本の戦後を終わらせる試論

本書は、日本だけが、いまだに「戦後」を終わらせられないのはなぜかという問いに始まる。戦後70年を迎え、「戦後」がはげかかってきている。金ぴかの経済大国というメッキが21世紀に入って誰が見ても無残にも剥げてきたという。現政権にとってだけでなく、現在の社会思想の枠組みにとっても破壊的な考えが提出されている。だから著者は全方位的な展望を持たなければならないという。「日米同盟」(日米安保条約体制)は動かし難い現実だとしても、その基盤が失われ、綻びばかりが目立ってきた。しかし日本には憲法9条という世界の平和構築の範となる大きな理想を掲げている。現政権は憲法を無視し、かってに解釈してそれと正反対のことをやろうとしている。この踏みにじられた憲法9条もまた哀れに見えて仕方がない。こうして日本の戦後体制を支えた条件が無くなりつつあることが「戦後の崩壊」の大きな要因である。鳩山民主党政権が沖縄の米軍基地を自分たちの意志として動かそうとしたことが、アメリカの怒りを買い政権は辞任に追い込まれた事実がさらけ出された。戦後70年を経てなお米国との間の従属的な関係からいまだに脱することができず、そのことの裏返しの現象として、現在もなお中国、韓国、ロシアとの堅実な信頼関係を打ち建てることができないままです。本書に入る前に、著者加藤典洋氏という社会思想家のプロフィールを見ておこう。氏は1948年山形県山形市生まれ、山形県立山形東高等学校を経て、1972年東京大学文学部仏文学科を卒業。国立国会図書館職員(1978年から1982年はモントリオール大学東アジア研究所に派遣)としてスタートした。1985年に「アメリカの影」でデビューする。1986年 明治学院大学国際学部助教授、1990年 - 2005年3月 同 教授となった。2005年4月 - 2014年3月 早稲田大学国際教養学部教授であった、現在は早稲田大学名誉教授である。現代文学、思想史、政治、歴史認識と幅広く発言している文芸評論家でもある。1995年に「群像」誌上で「敗戦後論」を発表。日本の戦後をどう認識するかを問いかけた。日本の侵略や植民地支配によるアジア地域等の被害者に謝罪する主体、すなわち「日本人」という主体が欠如しつづけているという議論を展開した。これらは歴史認識に於いて右派のそれと真っ向から対立した。1997年には論考をとりまとめ「敗戦後論」を刊行した。2007年5月には、憲法記念日を直前にして、憲法「選び直し」の論をさらに深めた論文「戦後から遠く離れて」を「論座」6月号に発表している。小説家の高橋源一郎や文芸評論家の神山睦美と親交が深いといわれる。ポストモダン系の思想家(柄谷行人や浅田彰等)に対しては、西洋思想の輸入者であり独自性がないとして、かなり批判的である。一方、高橋哲哉からは戦後清算の方法論がナショナリズム的に過ぎるとして批判を浴び、言論界に論争を巻き起こした。著者は鶴見俊輔氏に私淑しているとあとがきに書いてある。受賞歴としては、1997年「言語表現法講義」で第10回新潮学芸賞。1998年「敗戦後論」で第9回伊藤整文学賞(評論部門)。2004年「テクストから遠く離れて」と「小説の未来」で第7回桑原武夫学芸賞を受賞した。本書は5部から構成され、第1部「対米従属とねじれ」(60頁)、第2部「世界戦争とは何か」(110頁)、第3部「原子爆弾と戦後の起源」(150頁)、第4部「戦後日本の構造」(65頁)、第5部「ではどうすればいいのか―私の9条強化案」(150頁)、終章―新しい戦後へ(33頁)となっている。本書は新書としては異例の約600頁の大部な本であり、その中心は(力の入れ方)は第3部「原子爆弾と戦後の起源」と第5部「ではどうすればいいのか―私の9条強化案」にあるようだ。
最近日本の対米従属はあまり人の意識に登らなくなっているが、国土の中に無視できぬほどのの米軍基地施設が存在し、沖縄は米国の戦略基地として東アジアで重要な位置を占めており、国際的な外交舞台でも国際間の経済協議においても、日本はアメリカに異を唱えたことは無く、米国の力の下にあることが歴然としています。このことを著者は1985年「アメリカの影」に著わしています。認めたくはないけど事実なんだ、なぜ隠しているのだろうかという設問が本書の入り口に掲げられます。もう一つの著者の本書の問題意識は、この対米従属からの出口を憲法9条の原則に立脚する逆転の思想に求めることです。日本では戦前と戦後で主権者が完全に入れ替わっていないため、対米従属からの独立というとどうしても右翼ナショナリズムが台頭します。戦後の国際秩序を否定して戦前御日本立場を主張することに帰着します。従って戦争への反省は見られないし、侵略した近隣諸国への謝罪も見られません。米国政府の日本管理担当者たちは、政府にそのようなそぶりが見られる場合、民主原則に反した復古的国家主義だと国際社会に宣伝するでしょう。すると日本は孤立する。対米従属からの独立要求は正当だとしても、その正当性が戦後の国際秩序の民主原則に基づくものでなければ、国際的な同意は難しい。しっかりと戦前と戦後のつながりを切断し、戦前を否定しなければ孤立を免れないという「ねじれ」に立ち往生しているのが現自民党政府なのです。1997年にまとめた「敗戦後論」にはそのねじれ現象を明らかにしました。第2次世界大戦は西欧社会の価値論である自由、民主、平等、人権をめぐって争われた世界大戦であったことを再度かみしめ、その価値観を共有しなければ問題は解決しない。対米従属からの独立が単に戦前への回帰であったならば、もう一度戦争をやりなおすことになりかねないので、米国や欧州社会はこれを拒否し、賛同を得ることはできない。それは主権者が戦前と戦後で同じ者なら、日本を対米従属から解き放つことは危険ですらあると考えるでしょう。日本支配層が対米従属からの独立ができないからこそ、現実の対米従属を隠すのである。本質的な解決はフィリッピンの例に見る様に、日本の支配層を打倒して民主革命をなしとげ、あたらしい主権者が米国と契約を結びなおすことです。民衆側の民主革命が戦後一度も成功しなかったことが、問題を複雑で陰湿なバブルスタンダードで、主権者と被主権者の両方を隠蔽してきたのです。第1部は2冊の著者の著作のまとめからなります。対米従属について1985年の「アメリカの影」より述べ、ねじれについては1997年の「敗戦後論」より述べています。いわば本書の序論に当たります。

第1部 対米従属とねじれ

1985年の著書「アメリカの影」をまとめておきましょう。1951年のサンフランシスコ講和条約と日米安保条約そして行政協定の時点では、誰の目で見ても対米従属は明らかでした。独立と言っても実質的には対米従属的な体制でしかないことは国民は明確に理解していました。日本の戦後はポツダム宣言受諾に始まります。ポツダム宣言には「占領目的(民主化、非軍事化など)が達成され、・・・責任ある政府が樹立された時には連合軍の占領軍は撤収される」と明示してあります。ところが1951年9月のサンフランシスコ講和条約第6条には@占領軍は90日以内に撤退するだけでなく、A2か国条約などによる外国軍隊の日本駐留は可能であるという規定も入っていました。こうして日本は翌1952年4月に連合軍からは独立したのですが、日米安保条約も発効され、連合軍(実質的に米軍)の代わりに米軍がそのまま日本に駐留しました。この日米安保条約には米国に対して日本防衛の義務は明記されておらず、また米国が同意しなければこの米軍の駐留は永久に続くという不平等条約そのものでした。当時、日本の独立は形式的なもので実質的な米軍支配は継続されるという風に国民は理解していたが、1960年代の後半ごろから国民の意識から対米従属は徐々に見えにくくなっていった。1959年に始まった安保条約改定闘争(60年安保)は対米従属からの脱却を目指した国民規模の運動に発展しますが、強引な岸信介首相を退陣追い込むものの自然成立しました。池田新首相のもとで始まった高度経済成長政策は、政治的対立を避け経済繁栄の方向へ大きく舵を切りました。対米従属の現実が日本の経済的自立によって緩和され、心理的に自分をアメリカの繁栄と文化になぞらえて内面化していった。世界の覇者としての政治的軍事的抑圧的存在としてのアメリカという面が沖縄という例外(基地を沖縄に集約することによって)を作って、次第に国民の視界から遠のいていった。ここで著者の加藤典洋氏は文芸評論家として江藤淳の戦後喪失論(アメリカへの屈服と屈辱感)を取り上げて、江藤淳氏の親米ナショナリズムの空回りを指摘します。同時に村上春樹氏の「なんとなく クリスタル」を取り上げ、豊かさの肯定からアメリカへの従属をアメリカ文化への所属に切り替える論理を指摘しました。従属しつつなお、自尊心を失わない豊かな生活を謳歌したものです。江藤淳氏は憲法9条二項を削除し、「交戦権」を回復するということが彼の反戦後論の骨子です。それによって自由な主権国家間の同盟(親米路線)に変質させるというものです。はたして米国がそれに同意するかどうかは怪しい。その場合日米関係が悪化し、日本政府は核武装によって自主防衛の道を進むというもので、いわば反米路線の採用になる。米国との価値観の共有によって、反民主主義的な日本の動きを封じる(反岸、反安倍路線)ことで、民主原則によるインターナショナリズムの立場が志向されなければならないということが、江藤淳氏の反戦後論への加藤典洋氏の回答です。
次に1997年の著書「敗戦後論」をまとめておきましょう。その国の政治はその国の住民の意志によって決定されるという民族自決権は民主原則に一つの柱であると言われます。無論日本はアメリカの植民地ではありませんが、対米従属―米国の日本牽制力はそれに近いものがあります。2009年民主党の鳩山内閣は沖縄の米軍普天間基地の国外移転を要求しました。歴代政府ではかってなかった現状変更の米国への主張です。しかしアメリカはこれを拒否し、逆に政権自体が米国政府と国内の基地現状維持派によって追い込まれ、2010年6月鳩山由紀夫政権は崩壊しました。第2次世界大戦の敗戦国である日本はドイツと同様に民族主義的なナショナリズム政策をとることはできなかった。それは戦後体制の否定につながるからでしょうか。日本が戦前の立場に回帰しようとしているという戦勝国側の懸念を打ち消すことができないからです。これを敗戦国側の「ねじれ」、「トラウマ」、「ストレス」です。永久敗戦国論につながるジレンマです。第2次世界大戦という初の本格的な世界戦争であること、また世界戦争としての固有の問題からもたらされているようです。戦勝国にとって「今日享受している自由や民主主義や経済的繁栄は、70年前にアドルフ・ヒトラーの第3帝国への突撃に勝利していなければあり得なかった」という認識が根底にある。敗戦によって価値観や政治体制の断絶があったとしても、戦前の主権者が今日も居座り続けていると、それが「ねじれ」という心理現象となって現れるのだ。社会と政治の主権者がすっかり入れ替わり、戦後の民主原理が戦前の自分をすっかり否定するものでないかぎり、この独立要求の理由の正統性は主張できないという。戦争の死者をいまだに弔うことができていない「首相の靖国神社参拝」問題、為政者にとってはいまだに居こごちが悪い憲法9条の問題が「ねじれ」の小骨となってのどに引っかかっています。ところが戦後の日本人にとって戦前の価値観からの解放をもたらした憲法は大変理想的に良いものでした。このギャップは支配者と被支配者の根本的差異であります。為政者にとって戦争での死者を弔うことと戦死者の家族を厚遇することは、戦争遂行の基本です。でなければ誰も闘おうとはしないでしょう。こうした戦前の戦争政策に同意し戦死した人々はやはり基本的には侵略戦争先兵でした。戦死者に対して為政者は荒れは間違った戦争だったとは言えないものですから、価値観がすっかり変わった戦後になっても歴史の現実を直視することができないのです。直視することを「自虐史観」だと言って逃げるか、謝罪そのもをのを無視するのです。戦死者を弔うことと、侵略をした隣国のj人々への謝罪は表裏一体で行わなければなりません。為政者は謝罪をすることが自虐だと思い込んでいるようですが、侵略された人々の無念・憤りを想像できないのです。被支配者を人間とは見ていないようで、搾取の対象としか見ていないことです。こういった90年代以降の右派イデオロギー(日本会議の主張)が、保守陣営の日本政府が中国や韓国に謝罪できない流れを作ってきました。戦後70年談話で安倍首相は口だけの謝罪をいやいやの心情みえみえで、しかも歴代政府の談話の口を借りてさらーっと流しました。謝罪にはそれを行う人の人間の声と顔が必要です。自分に発する理由がなければ人は納得しません。吉本隆明は1994年の従軍慰安婦問題でちゃんとした補償を行うことは革命であるといっています。「押し付けられた憲法」が「良い憲法」であることからくる問題は、自分たちが主権者(憲法制定権力)である憲法に作り替えることです。このため護憲だけでは自民党保守層のなし崩し的憲法無視政策に押し流されます。憲法の選びなおし、或いはよい憲法の強化策が制定権力を我々の手に取り戻す事になります。これらは第5部で議論することです。

第2部 世界大戦とは何か

第2部「世界大戦とは何か」では、T第1次世界大戦、U第2次世界大戦、V遅れてきた国日本の大義、W戦後の源、から構成されます。まず世界戦争の準備としての第1次世界大戦をみてゆこう。戦後の「ねじれ」は、日本が戦争に負けたという事実からやってくるものではなく、その戦争が第2次世界大戦という初の本格的な総力戦である世界戦争であったからです。戦争の総力戦化、そして世界戦争化、その結果としての敗戦国民の全体的な価値転換の受け入れがあったから、それになじめない人々(戦前の権力者)の「ねじれ」が起きたのです。権力者の総追放と国民の主権の確立(市民革命)があったなら、こんな心理的・情緒的「ねじれ」はなかったでしょう。戦前と戦後の権力主体が連続していたからこそ、民主原則を受け入れられない支配層の面従腹背からジレンマが発生したのです。国民は天皇制国家の下で悲惨な戦争体験をしました。もう嫌な戦争はないという開放感に国民は浸りました。それはしっかりと戦後社会に根付いています。だから国民は「押しつけ憲法」は非常に望ましい憲法として全面的に受け入れました。戦争放棄の憲法9条は輝かしい理想を示しました。しばらくするとこの陶酔感は醒め、そろそろ占領軍は出て行ってほしいという感情になります。第2次世界大戦に日本とドイツに起ったことは、国民ごとの戦前と戦後の価値観の断絶です。それは一過性の変化ではなく、不可逆的、永続的なイデオロギー転換であり、旧に復する動きはがあれば、戦後の国際秩序からの逸脱。反逆と見なされます。第1次世界大戦と第2次世界大戦を画する大きな相違点は、第2次世界大戦ごにはじまる核兵器を中心とする東西冷戦です。自由主義と共産主義の世界的イデオロギー抗争が起きたことです。戦争が君主戦争の相互尊を旨とする軍人と君主どうしの戦争から、近代総力戦のナショナリズムどうしの戦に移行しました。そこには一定のルールはありません。まじにガチンコ勝負で妥協の余地はありません。相手の悪を最終的に壊滅するか永久に無害化するまで選択肢はありません。そこに「無条件降伏」という概念が生まれました。無条件降伏は1885年の米国の南北戦争に始まるとされます。第1次世界大戦までは、物理的破壊に加えて敗戦国の精神的・倫理的な基盤までもが破壊されることはなかった。それで敗戦国に怨嗟を残さなかった。しかし第2次世界大戦ではナチスのユダヤ人虐殺という「人道に対する罪」がドイツ国民の精神的・倫理的な基盤までも破壊した。戦前の考えと価値観を否定し、戦勝国の価値観に宗旨替えをすることが求められ、このことを条件として戦後の国際秩序に復帰が認められることになった。世界戦争がそれまでの古典型戦争と違う点は、1国と1国の戦争ではなく、第1次世界大戦からグループ間の戦争だということです。そしてそれは同時に価値観とイデオロギーの戦争だということです。古典型戦争は領土紛争で、国益と国益のぶつかり合いです。戦争は他の手段をもってする政治の延長でした。しかしグループ間の戦争は違います。国益は濃厚に絡んでいますが、国益よりは上位の概念、つまり大義(イデオロギー)が必要です。またそこにあるのは君主国ではなく、民衆・労働者を主体とする国民国家があります。イデオロギーが浸透する国際コミュニティが存在しなければならない。第1次世界大戦は、この国際的な概念の共同体を背景として、国民一人一人を結び付けたのです。第1次世界大戦は1914年サラエボでオーストリア皇太子がセルビア人の民族主義者によって殺害された事件に端を発します。オーストリアがセルビアに宣戦布告して1ヶ月半くらいで、イギリス、フランス、ロシア(協商国)とオーストリア、ドイツ、、オスマントルコ(同盟国)のグループに分かれた世界大戦に変貌を遂げました。銃・大砲型の戦争から、戦車、飛行機、毒ガス兵器を投入した総力戦となり、飛躍的に戦死者が増える長期戦となりました。すると軍事力は兵站の確保という経済戦の問題になった。近代軍事技術が投入され、戦場と銃後の区別が無くなり国内全体が戦争状態になった。戦闘員と非戦闘員は無差別に殺害されました。19世紀後半は西欧では広い意味での近代国民国家の形成期にあたり、ナショナリズム、労働者運動と社会主義党派の国際組織が生まれた。1889年には第2インターナショナルが結成された。1907年のシュトゥガルト決議で内戦から革命へという戦略が出された。まだ第1次世界大戦では同盟国と協商国のイデオロギーの明確な差異はなかった。国際コミュ二ティの素地が市民・労働者階級の勃興という形で整ってきたいわば形成途上期にあったというべきでしょう。国際的な郵便制度や航海規則をまとめる条約締結の動きが活発化した時代でした。戦争中・戦後に提唱された米国のウイルソンの「14か条の平和原則」1918年、国際連盟1920年、国際司法裁判所1922年、パリ不戦条約1928年などが次々と締結されました。そして第1次世界大戦後、一連の平和志向の国際協調の動きが理念として国際政治の課題となった。第1次世界大戦の中で最大の出来事はレーニンの革命によって1917年ソビエト連邦が成立したことです。レーニンは「平和に関する布告」を出して、「即時停戦」、「無賠償」、「無併合」、「民族自決」、「秘密外交の廃止」を全交戦国に提案した。レーニンの「平和に関する布告」発表の二ヶ月後、自由主義陣営から米国大統領ウイルソンは「14か条の平和原則」を公表しました。第1次世界大戦はlこれまでと地続きの戦争と考えられたのですが、間にロシア革命を挟んで、戦争が終わった時には、もう理念とイデオロギーなしでは解決できない世界大戦の様相を示していたのです。

次の節では、第2次世界大戦の特徴を分析する。第2次世界大戦がはじまったとき、それは連合国対枢軸国といった二項対立のイデオロギーの戦ではなく(そもそも枢軸国側には共通のイデオロギー理念といったものは最初から最後までなかった、場当たりの野合に過ぎなかった)、イデオロギーが仮象でしかないことが明白な現実があった。この戦争は1939年から始まりますが、日本が最初から大きく関与していた。1939年5月日本は内モンゴルのノモンハンでソ連と境地戦争を行います。小手調べとは言えない大規模な総力戦になり日本軍は完璧に敗北します。この事実は日本国内では隠蔽されました。この前に日本は日独防共協定を足場にしてソ連をドイツと挟み撃ちにしようと持ちかけますが、ドイツは独ソ不可侵条約を結び、9月にポーランドに進攻しました。そしてここから第2次世界大戦の始まりとなります。前の年1938年に英国・フランスは反共を標榜するドイツを対ソ連共産主義の防波堤にしようと画策しますが、ヒトラーもそしてスターリンもイデオロギーを信奉するより、現実の利害(国益)だけで動いていました。しかし英米はこの戦争を理念に基づく世界戦争だと認識していました。もともと孤立主義(モンロー主義)の米国外交を参戦に導くには国民を納得させる理念が必要だったからです。戦争の始めドイツ軍の進行はすさまじく、40年4月よりベルギー、デンマーク、フランスに進出し、イタリアもドイツに合流して英米に宣戦布告しました。その間ソ連はポーランドに侵入。フィンランド、バルト3国を占領しました。ところが1941年6月になると、突然ドイツはソ連に進撃を開始し、自由主義陣営/共産主義ソ連/枢軸国3国同盟陣営の三すくみ状況が、自由主義陣営+ソ連共産主義陣営/三国同盟陣営の二項対立の構図に変わりました。英国はドーバー海峡を挟んで米国の参戦を頼りにドイツの空襲に必死に耐えていました。1941年8月米英二国が「大西洋憲章」を発表しました。戦争目的とは次に則るものとするというような喧嘩のやり方、仁義に相当します。第1次世界大戦後の国際秩序は英米二国を中心に作り上げられました。米国は第1次世界大戦には国内の反対で参加しなかったものの、ウイルソン大統領の提唱した国際連盟を作りました。枢軸国、およびソ連が次々と国際連盟を脱退・除名するなかで、英米は現在の国際秩序を担っているという自覚がありました。そこに、米英二国と他の国々を隔てる、国際コミュティに関する大きな認識の落差があったのです。米英二国が戦争遂行のために「世界戦争」の定義を行いました。国際秩序をつくりあげているのは理念である、その理念を味方につけてこそ戦争に勝利することができるという信念です。彼らの作った「大西洋憲章」は、戦争目的と国際社会への誓約を次のようにまとめました。@合衆国と英国の領土拡大意図の否定、A領土変更における関係国の人民の意志の尊重、B政府形態を選択する人民の権利、C自由貿易の拡大、D経済協力の発展、Eナチ暴政の最終的破壊と恐怖と欠乏からの自由の必要性(豊かな生活)、F航海の自由、G一般的安全保障のための仕組みの必要性であるが、実はこれは第1世界大戦中に提唱されたウイルソンの「平和14か条」を踏襲しています。こうして米国は参戦の国民的支持を取り付け、1941年12月8日の日本の真珠湾攻撃を契機として、対日独伊の宣戦布告を行った。ルーズベルトとチャーチルは瞬く間に連合国という巨大戦争遂行グループをつくりあげ、1942年1月1日の連合国共同宣言には26か国が署名し、1945年3月には47か国にまで拡大し、それが国際連合の母体となったのである。第2次世界大戦は連合国と枢軸国がイデオロギーを掲げてブツカッタ世界戦争と理解されていますが、「自由主義」と「全体主義」という二項対立概念です。「国際秩序」と「新秩序建設」(日本では大東亜共栄圏構想)との戦いとか、「もてる国」と「もたざる国」との戦いともいわれています。第1の「自由主義」と「全体主義」との戦とは。戦争が終ってからの複雑な戦争の性格を隠ぺいするために作られた後付け理由のように思われます。完全な意味でのイデオロギー戦争とは1947年に始まった東西冷戦からです。戦争の「再定義」のために、あのニュルンベルグと東京での国際戦犯裁判が必要だったのです。問題は「枢軸国」には共同性が皆目なかったことで、かつ共通のイデオロギーは到底存在していなかった。イタリアが元祖の「ファッシズム」とドイツの「ナチズム」(反ユダヤ主義ナショナリズム)とは同じものではなかった。日本の「天皇制軍国主義」とも縁がなかった。したがって「自由主義」対「ファッシズム」とは意味のないネーミングでした。1940年の日独伊三国同盟には通告の共有もなく、他国が攻撃された場合の参戦の義務もない緩やかな実体のない軍事同盟であった。三国防共協定も1939年ドイツがソ連と不可侵条約を締結したため無効となってしまった。英米の既得権限への挑戦「新秩序建設」だけが共通の心情であった。米英ソの連合国間の戦争協力は物資の援助、首脳会議に基づく大掛かりな共同作戦行動が行われているのに、枢軸国間には首脳会議の例はなかった。枢軸国の各国の軍事行動には何の相談と協力もなく、宣戦布告さえ互いに通告していなかった。つまり連合国対枢軸国という1対1の戦争ではなく、連合国対ドイツ、連合国対日本、といった各個撃破戦争に過ぎなかった。理念・イデオロギー上からいえば、米英仏の民主主義・自由主義経済体制に対する、日独伊の非民主的全体国家主義のほかに英米が最も恐れている共産主義の鼎構造があったというべきです。

では第2次世界大戦で日本の大義とは、どのようなものであったのだろう。日本が日清戦争、日露戦争によって欧州の権益の舞台に顔を出すようになって、急にヨーロッパに広まったのが「黄禍論」でした。共感・反感入り混じった複雑な感情です。20世紀初めの国際コミュティの形成時には、英仏ドイツ帝国の国際社会に市民層・労働者階級が新たに加わり、女性層の声がそこに加わってゆくと同時に、白人主体の国際コミュニティに日本・中国・インド中東が参入しました。第1次世界大戦後、日本が英仏伊の西欧列強三国に加え第4の国際連盟常任理事国に選ばれた。後にはドイツが国際連盟に加わり常任理事国に選ばれた。ヴェルサイユ条約採択の協議には日本は局外無関心を示し、1919年2月の国際連盟委員会で、米国・カナダでの日系移民排斥運動に絡んで、「人種差別撤廃条項」を提案しました。この提案は確かに普遍性を持つ世界最初の人種差別撤廃ではありました。ところが日本人が行っている朝鮮・中国への植民地化は欧米と同じレベルの身勝手なもので、この提案の普遍性とは無縁でした。差別されたことに対するカウンターパンチに過ぎず、欧米の賛同を得られず尻つぼみになって消滅しました。1943年第2次世界大戦の最中、日本政府は遅まきながらこの「人種差別撤廃」を戦争目的に掲げました。新しい戦争の目的として、「自存自衛」だけではなく、日中戦争の戦争目的としていた「東亜新秩序」を加えました。この戦争目的は1943年11月に行われた「大東亜会議」で採択された「大東亜共同宣言」に示されました。会議の主催者は重光薫という開明の外交官でした。英米の植民地からアジアの解放、そして人種差別の撤廃の再主張が明言されました。連合国のブロックに対する、日本中心のブロックの設立宣言でしたが、日本は1943年時点では戦争自体の主導権をなくしていたためこの宣言の求心力は限定的であった。アジアの解放という日本の「大義」は、全くのウソだったにしても、総力戦を戦う国民を動員する力にはなっていました。敗戦予測が濃厚だったころ、重光薫のセンスは世界戦争の理念というものをはっきり意識したものでした。重光薫の宣言は、第2次世界大戦は連合国対枢軸国との戦い、市民的自由と全体主義との戦いと米英が描いた世界戦争のシナリオに一石を投じました。英米による世界戦争の理念の「再形成」によって、隠蔽されたものがあります。第2次世界大戦の実質的な戦勝国は米英ソですが、最終的な戦勝国は米国です。この戦争が終わった時、英国を含めユーロッパは疲弊しきっていましたヨーロッパの復興を主導したのは米国1国でした。マーシャルプランという経済復興策、NATO創設という安全保障の土台を作ったのは米国です。ソ連は2000万人という戦死者を出しながら、2年後の1947年に始まる自由主義陣営によるソ連封じ込め政策(東西冷戦)によって最大の国難を迎えました。米国は原爆の威力をもって、社会主義国の圧殺を開始したのです。第2次世界大戦が終わってみれば、実質的な世界の覇者は米国1国だったのです。世界戦争の理念の「再形成」によって隠蔽されたものとは、@この戦争の勝者は米国1国であった事実、A原爆の効果(被害)の規模という二つの事柄のことです。1949年ソ連原爆開発を受けて、非米活動員会による「赤狩り」マッカーシズムが米国社会のリベラルな伝統を回復不可能なくらい傷つけました。狂信的な共産主義恐怖を植え付けることによって、原爆に対する市民の不安感も見えにくくなった。日本占領に当たったのは連合軍総司令部GHQですが、それを支配したのは米国政府です。サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の調印によって、日本は連合国ではなく、新たな主人として米軍との二国間関係に入りました。原爆という「無差別大量殺戮兵器」の被投下国日本からの避難や抗議を封印するため、米国トルーマン大統領は無条件降伏という方策を日本に押し付けました。無条件降伏をポツダム宣言から読み取る事できません、つまり後付けの条件でした。「人類に対する悪」である原爆使用への非難を隠ぺいするため、こうして世界大戦の理念は劣化してゆきました。米国の「原子爆弾の使用が国際法に抵触しないかどうか」を論外において、東京戦犯裁判が行われたのです。ニュルンベルク裁判、東京裁判は戦勝国と敗戦国との対等関係に代わる、いわゆる無条件降伏といった考えに則て国際戦犯裁判が行われた。この段は米国の理念の劣化だけを問題視するわけではなく、日独ソ連の劣化も著しいものがった。仁義なき戦い(やくざの抗争)という国益第一という側面が大きかったというだけにとどめておこう。東京裁判では従来の国際法にはない「人道に対する罪」と「平和に対する罪」が問われた。1942年1月の連合国共同宣言の「世界を征服しようとする野蛮で獣的な軍隊に対する共同の闘争」といった連合国の戦争目的が東京裁判で貫かれ、天皇の戦争責任を免訴すること自体が茶番であったが、東条英機ほか13人が処刑された。1943年の戦争理念から終戦における数々の劣化が、この連合国対枢軸国の戦争という図式の完成の影に、見えなくなってしまった。

第3部 原子爆弾と戦後の起源

1941年大西洋憲章の連合国の理念は勝つためには次第に変質(劣化)するということを第2部で見てきた。著者は理念が大義化すると言います。1941年の戦争開始から終戦まで、米英協力の下に原爆開発は極秘裏に進められてきた。著者は連合国の無条件降伏要求と原爆使用には関係があるのではないかと問いかけます。無条件降伏政策とはそもそも民主主義原則にもとる奴隷化である。まず無条件降伏政策は1943年1月14日米英首脳による「カサブランカ会議」後の記者会見でさりげなく明らかにされた。1968年外交文書の公開によってその舞台裏が明らかになった。1942年10月北アフリカでの対独作戦会議の準備過程で、チャーチル首相は米英ソの軍事階段を提案したが、ルーズベルト大統領はナチスの攻撃をスターリングラード攻防戦で必死に耐えているソ連を除いて、ドイツ崩壊時に適用する試験的な手続きについて相談したいことをチャーチルに提案しました。その裏には原爆開発の進展があったからだということです。12月2日米国シカゴ大学のフェルミが「マンハッタン計画」で核分裂連鎖反応実験に成功したいう報告をルーズベルトは受け取ました。つまり予測していたより早くドイツを打倒できそうなので、ドイツ降伏条件の詰めを行いたいという意味です。無条件降伏政策は、ルーズベルトの戦争政策が、世界の民主原則と正義と市民的自由を枢軸国から守るという大西洋憲章の戦争目的を実現するため、とにかくも勝利し、戦後の圧倒的優位を買う保するための手段へと変質したことを示します。大西洋憲章では無条件降伏策は想定していません。原爆を使用する予定の米国が無条件降伏政策を必要としたのです。事態は政治家達の思惑通りには進みません。開発に関与した科学者たち、なかでもデンマークの理論物理学研究所長の二―ルス・ボーアによる米英首脳への働きかけがあったのです。1944年6月ボーアはチャーチルを訪問し、8月にはルーズベルトとの会見を行い、@核開発情報は本来秘密ではありえない。A大国間の調和のとれた協調と国際協力機関の設置を訴えたのですが、両首脳の受け入れる所とはならなかった。9月米英は「最高機密」とし、ボーアを監視する覚書を交わしました。この会談で「日本にも使用するだろう」ことも確認されたという。科学者側では1944年7月アーサー・コンプトンが原子力将来計画「ジェフリーズ委員会」の報告書を提出し、原爆開発の必要性は認めるが、国際的管理機構の設置を強く要求した。1945年の6月シカゴ大学で原爆開発にかかわった7人の科学者による「フランク報告」がある。原爆の使用が科学の手を離れ政治的課題であることに科学者は容喙できないが、市民として意思表示するというものです。原爆使用の直前7月に、原爆開発に関わったシカゴ冶金研究所シラードが研究者76人の署名を得てトルーマン大統領に要請書を出しました。対日原爆使用が準備されているが、日本への事前通告と幸福への機会を与えないままの原爆投下は正当化されないし、米国の道徳的責任は大きいというものです。しかしこの要請書はトルーマン大統領まで届きませんでした。無条件降伏と東京裁判によって、原爆使用の同義的責任を覆い隠しましたが、原爆は国連創設と憲法第9条をもたらしました。(酷い反面教師ですが) さて次に原爆投下が落とした方(米国)、落とされた方(日本)に深刻な社会的・思想的影響を与えました。まず投下した米国における影響を見てゆきましょう。トルーマンは回顧録の中で次のように述べている。「1945年の秋、日本の降伏と同時に、戦時体制から平時体制に移行するときまだやるべきことがあるにもかかわらず、多数の官公吏が民間へ帰ってしまった。戦時中の役人たちは、自分たちに対する批判を恐れていたからだ。批判の対象は原爆投下のことでした。バーンズ国務長官、ウォーレス商務長官、ステイムソン陸軍長官らです。この3人はいずれも原爆の国際交渉をめぐる対ソ交渉に深くかかわっていました。1945年4月12日ルーズベルト大統領は激務のなか63歳で急死しました。バーンズ国務長官、ステイムソン陸軍長官の二人はソ連に原爆の情報を共有することで国際秩序を確立する「宥和策」を、トルーマン大統領の意向を無視した形で進めため、ステイムソンは解任され、バーンズは辞任しました。二人はもともと頑強な反共論者であったのですが、原爆投下という現実を見て「回心」してソ連宥和策に転じました。トルーマン大統領は無条件降伏追及派でした。トルーマンとぶつかったバーンズは、国連の原子力委員会に国務次官のアチソンとTVA総裁のリリエンテールを責任者としてその創設に尽力しました。アチソン・リリエンテール報告は科学者オッペンハイマーの手になるもので、科学者の良心が示された最後の提案になりました。3月「トルーマンドクトリン」の発表で東西冷戦が始まり、トルーマンは1947年末に国連原子力委員会構想はとん挫しました。トルーマンはステイムソンの提言にも、バーンズの反対行動にも動かされずに対ソ強硬路線遺進みました。米国政府内の動揺は1年半で終息し、原爆投下による「覚醒」は捨て去られました。原爆の投下は政府内のみならず米国の国民内に大きな衝撃を与えました。一方では熱狂的な歓迎・歓喜となり、ギャラップ世論調査では85%が賛成、反対は10%以下でした。同時に米国社会の道義的責任と良心の動揺と懐疑が起ったのです。それは米国社会の最も保守的なキリスト教会の信仰の基底部で起きたのです。反共の仕組みを作ったダレスが懸念を表しました。1946年3月キリスト教会連邦協議会の22名が「倫理的に弁解の余地はないと言明しました。さらに保守・リベラルの双方から批判が出ました。そこで米国社会の動揺に反論する意見がハーバード大学総長のコナント氏を動かし、コナント氏は政府・知人に働きかけ作業チームを組織して、1947年2月退役した陸軍長官だったスティムソンの寄稿文「原爆使用の決断」を発表し、原爆使用批判論に効果的な一撃を加えました。「予定されていた日本上陸作戦を回避し、百万人以上の米軍兵士の犠牲者を出さないために、原爆使用という選択肢が最も有望であった」とするものです。ソ連の参戦がなくとも、原爆を使用しないでも、B52による本土爆撃で日本は間もなく降伏することは、ソ連を介した日本の終戦工作でも明らかだったことには一切触れていません。これ以降「原爆神話」ともいわれる原爆投下に関する公式見解が、米国社会に行き渡りました。

次に原爆を投下された日本の深刻な影響を見てゆきます。原爆を投下されて4日後、日本政府は8月10日、スイス政府を通じて国際社会に向けて抗議声明を出しています。声明の要旨は、広島・長崎は軍事目標ではなく地方都市であること、目標にしてはその威力が広大であること、無差別殺戮で戦時国際法違反にあたるということでした。この抗議を発した5日後、8月15日日本政府はポツダム宣言受諾を表明した。米国政府としては戦後の国際社会での原爆による覇権の確立に向けて、この抗議をどう無力化するかという答えが「無条件降伏」説だった。この点を指摘したのが、1970年代後半の評論家江藤淳であった。かれは、もともと無条件降伏でないものを、戦後の日本人は占領時代の言論統制によって無条件降伏と思い込まされてきたと主張しました。連合軍最高司令官マッカーサーは9月2日の戦艦ミズーリでの降伏文書署名式の翌日、重光葵外相と会談し、ポツダム宣言に沿った日本の間接統治方式に合意しました。しかし同日米国本土ではバーンズ国務長官は「物的武装解除だけでなく、精神的武装解除も一層重要である」という声明を出しました。そして9月6日にはマッカーサーにトルーマン大統領の指令が届きました。大統領指令には「我々と日本関係は契約的基礎に立つものではなく、無条件降伏を基礎とするものである」旨が記されていた。大統領は連合軍を無視して、日本を無条件にアメリカの従属下に置くと宣言しているのです。9月中にGHQはメディアを日本政府から切り離し、直接統制下に置き言論統制政策を開始しました。まず第一に、9月10日に「新聞報道取り締まり指針」について言及し、そして9月18日、占領軍兵士の非行記事や原爆投下に触れた鳩山一郎氏の談話記事を掲載した朝日新聞を24時間の発行停止処分にした。この発行停止処分に対する朝日新聞の対応には、その後の日本社会特有の定型を先取りする、戦後型思想転換が見られた。(戦前では官憲の圧迫による思想、信条の放棄を転向といったが) 8月23日の朝日新聞の社説「自らを罪するの弁」には、敗戦という厳しい現実を前に「同胞の意志と利益を代弁すべくしっかりと抵抗してゆくことがメディアの使命」と書いておきながら、発行停止あけの9月21日の社説「重臣責任論」には、軍国主義糾弾の論調に変じ、矛先は内に向かいます。「既往に対する峻烈な批判を必要とする。厳正な自己批判、これこそ転換への真実の踏切りたらねばならない」といいます。朝日新聞が発行停止処分に遭ったのは同社に抵抗の姿勢があったからです。戦争体験が日本人の内奥から自身を変えたのだろうか。江藤はこれを米国による戦後日本の思想改造の企てといいます。(歴史にタラレバは禁物ですが、もし米国の強い民主化の指令がなければ、日本の戦前支配層による社会の民主化は永久に期待できず、何十年か何百年か先の民主革命に依らざるを得なかったでしょう) こうして9月中に大統領指令に基づいた無条件降伏政策の占領方針が完成してゆきました。日本国民を国際秩序の価値観のメンバーから排除し、一時的な禁治産国とすることが米国の狙いでした。ここで日本の国益から抵抗すれば、米国を国益を押し付けられるだけです。だから米国とおなじ民主原則と自由という国際秩序を基礎づける価値観に立ったうえで、無条件降伏論や言論統制をはじめとする占領政策または東京裁判への批判を行わうという道が、唯一我々日本人に可能でした。普遍的な米国と同じ言葉を持たなければならないということです。そのためには戦前と戦後のつながりをきっぱりと断つ必要があります。我々は変えられたのではなく、変わったのだでなければ合理的な話し合いはできないでしょう。GHQの占領下の検閲指針にはとくに「原爆」を禁止用語にした形跡はありません。しかし占領期間中は原爆はタブーであり不思議に見えないものであり続けた。原爆投下を批判した鳩山一郎が1946年5月に公職追放を受け巣鴨刑務所に収監された。国内の新聞から、GHQの介入によって原爆の記事はほぼ見あたらなくなった。同年9月に発表された米国戦力爆撃調査団の報告書には、1945年9月から12月に日本人を対象に行われた全国アンケート調査結果で、原爆投下に対し米国に憎悪を感じる」人は日本全体で12%、広島・長崎で19%でした。文学作品には被爆体験を描く作品はありましたが、非難する内容ではありません。この原爆投下への「無力」。「沈黙」の典型的な現れは1952年に完成された広島平和公園の「原爆死没者慰霊碑」です。「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しません」と刻まれています。インドのパ−ル判事はこれはおかしいと発言しています。原爆を落としたのは日本人ではない。終戦記念碑ならともかく、原爆で亡くなった人の慰霊碑において、原爆を落とされた側の一般市民の日本人の過ちとは何だろうか。原爆を落とした人々の手は清められていないとパール氏は指摘したのです。広島市は復興を願う心から、米国批判はしない、過去を振り返らないというGHQの鉄則の前に屈したのでした。抵抗の意志を放棄したのです。原爆が日本降伏の決め手であるなら支配者と日本政府がいる東京に落とすべきでした。それなら一発で済んだはずです。二つの地方都市が犠牲になる必要はなかった。占領後の支配を考えたところから東京を避けたのであり、この構図は原発設置の論理と同じです。

原爆投下に対する批判は孤立した戦いでした。1955年に始まる原爆訴訟(下田判決)です。1963年東京地裁で結審しました。原告側は米国の原爆投下は国際法違反と認定し損害賠償を求めましたが、地裁は損害賠償は棄却しましたが原爆投下は国サウ法に違反すると判決しました。日本政府は米国の立場を擁護し弁解に終始しました。本来、国際法違反を訴えることは個人ではなく日本政府がなすべきことです。世界で唯一の国際法違反の判決例となりながら、国内でも国際社会でも孤立しています。日本側の無力と沈黙が支配していたからです。この判決には1955年の「ラッセル・アインシュタイン宣言」の平和主義の論理が影響しています。1954年に米国は原爆より3桁殺傷力が大きい「水爆」(原爆+重水素核融合)実験をビキニ環島で行いました。このビキニ水爆実験によるり危険水域外で操業していた第5福竜丸の乗船員が死の灰を受けて死亡しました。ラッセル・アインシュタイン宣言のは11人の科学者が署名し核兵器廃絶に向けて各国の協定を勧告しました。この宣言を支えているのは「世界連邦運動」と異理想主義的な精神です。世界連邦の基本6原則を見ると@全世界加入、A世界連邦への主権一部委譲、B個人を対象、C軍備全廃、世界警察軍、D原子力管理、E経費は個人負担という理想主義で貫かれていました。1947年に設立された国連が第2次世界大戦の戦勝国連合に過ぎなくなり、東西冷戦の闘争の場でしかなかったことへの失望が現れていますが、世界連邦構想は結局は淡い夢で、幻滅の彼方に消え去りました。原爆慰霊碑も世界連邦運動も現実に世界を動かす力を持っていません。というより当初からそういう権力から逃避しています。1957年イギリスのアスコムが「トルーマンの学位授与」という題で、数理論理学よりラッセル流の絶対的平和主義運動の矛盾を批判しました。論理の展開は長くなるので省略しますが、トルーマンの原爆投下の罪を批判する道徳論理哲学を構成するためには絶対平和主義は無力だということの証明です。戦争、殺人はいかなる場合も悪という論理でこの社会は動いていません。なぜ原爆投下への批判が孤立するのかという問い理由には、現在の戦後の国際秩序が原爆投下を否定しないという合意の上に立っているからです。国連自体が原爆の使用を違法とはしていません。ここで1994年国連総会は「核兵器の使用は国際法上許されるのか、国際司法裁判所ン判断を求める」という決議を可決し、1996年国際司法裁判所は「核兵器の威嚇・使用は国際法特に国際人道法に違反する」という決議を採決しました。しかし「国家存亡がかかる自衛のためには、合法か違法か判断できない」という但し書きが付きました。もしいかなる場合でも核兵器の使用が違法なら、核兵器の国際管理が必要となり、NPT(核拡散防止条約)体制が否定され、国際秩序の基礎が崩壊するからだとしています。「原爆は最終的にはあらゆる非搾取階級と人民から悉く反逆の力を奪った。2,3のスーパー国家の支配者の仲間内の協定で世界を支配するようになろう。我々の社会は古代の奴隷帝国のような恐怖に基づく安定お時代に向かっているのかもしれない。」というジェームス・バーナムの理論があります。そこからでてくる結論は、科学のさらなる進歩によって、原爆程度なら市民が作ろうとすれば誰でも作れる時代になれば、中央集権警察国家は終末を迎えるとジョージ・オーウェルは1945年10月に「あなたと原爆」という本に書いた。原爆が容易に作れないほど高度な科学的秘密からできているからこそ威力があるので、その独占が世界を支配できると当時の米国政府は考えた。その独占体制が戦後の国際秩序を作った。しかし2000年初頭の現在、核兵器を持つ国は米国、英国、フランス、ロシア、中国、イスラエル、スイス、インド、パキスタン、北朝鮮であり、開発中の国はイラン、潜在プルトニウム保有大国日本(核兵器の製造は政治的判断のみのスタンドバイ状態)など核は随分拡散した。そのうち核兵器製造技術のレベルが低下し、半導体の製造技術と同じように核兵器は製造設備さえ導入すれば開発途上国ならどこでも作れる時代は目の前にある。製造する製造しないは政治的見解による。そんな時代になるだろう。ジョージ・オーウェルが言う野蛮状態(自然状態)となり、スーパー国家による奴隷支配よりはましだということになるのか、世界の壊滅になるのかは分からない。国家主体に考える人は国際協調主義の創設を叡智というだろうが、国家ではもう解決は不可能という人は個人主体の絶対平和主義をめざすだろう。小田実は広島の慰霊碑の絶対平和主義を、戦後日本の無条件降伏政策に抵抗しない、疑似的・絶対的平和主義の特徴なのであると言います。絶対平和主義は核兵器に基づく国際秩序にとっては痛くもかゆくもない主張であり、むしろ国際秩序の補完物に過ぎないと見なしています。戦前の国家主義と戦後の国家主義の違いは、戦前の国家主義が天皇が普遍的原理で会ったのに対して、戦後は民主原則が普遍的原理となった。日本には戦前、国際社会で通用する普遍原理というものはなかった。今日、自由と民主主義という普遍原理を共通の原則として社会が構成されています。これは連合国が自分たちの戦争獲得目的とした基礎原理=国家原理としていたものです。この戦後の事実は、普遍原理が個人の体験をくぐらないで手にしたものは、容易に国家原理に吸収されてしまうのです。理念から大義に変質するのです。民主原則を信じていても、イラク戦争に手を貸す(自衛隊を派遣する)ことに何の抵抗も感じていない。これが日本の戦後社会の現実です。

第4部 戦後日本の構造

日本国憲法の格調高い前文には1941年8月の大西洋憲章、1942年1月の連合国共同宣言、1943年10月のモスクワ宣言、1944年10月のダンバートン・オークス提案、1945年6月の国連憲章と続いてきた「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想の実現を目指す」第1次世界大戦以来の国際社会の平和理念の流れが結晶しています。そして憲法9条に戦争の放棄がうたわれました。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国産紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」 新憲法の策定を指示された1945年10月の時点では日米の認識には大きな隔たりがった。GHQは東久米内閣副総理近衛文麿(国務相松本烝治委員会)と幣原喜重郎首相に指示を与え、日本政府として2本立ての検討が始まりました。いずれの案も、日本の非武装、戦争放棄などは一顧だにしていませんでした。この状態を察したGHQは急きょ自分で草案の準備にかかりました。1946年2月末に予定されるソ連を含む極東委員会の前に憲法草案を作るべく、2月12日に完成させ13日に日本政府に開示された。2月3日に作業チームに示したマッカーサーの指示書は3項目からなっていました。@国民と憲法の下での天皇制の維持、A戦争の放棄、B封建制の廃止です。日本側の見込み違いはBの戦争の放棄に在りました。マッカーサーは戦争の放棄に関して「紛争解決の手段としての戦争の放棄のみならず、自国の安全を維持する手段としての戦争をも放棄する。防衛と保全はいま世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる」と考えていました。つまり進行しつつあった国連構想に合体させて日本の防衛を任せる考えです。2月13日のGHQ憲法草案の日本政府への開示検討時間は15分でした。これは大西洋憲章の最期の項目に述べられているように、侵略を試みた国(枢軸国)は、一般的安全保障制度(国連安全保障)が確立されるまでこれらの国に対する武装解除(非軍事化)は欠くことができないということです。1946年1月にうぶ声をあげた国連は、多くの難題を前にしていました。安全保障理事会が国連の共同軍事行動を検討し、原子力委員会の設置が決まったばかりでした。この意義を理解したのは当時の日本では、東洋経済新聞主筆の石橋湛山氏一人でした。憲法草案は日本政府の憲法改正草案要綱として1946年3月6日に公表されました。4月17日国民に憲法改正案が提示されました。世論調査では賛成70%、反対28%という戦争放棄条項への圧倒的支持が得られた。この戦争放棄を支持した勢力は、@GHQ、マッカーサーらの占領軍、A敗戦国日本の指導層の保革ニ様の考え(自衛権だけは否定されていないだろう)、B世界で唯一の戦争放棄条項を含む自衛権の放棄を全面的に支持する絶対平和主義知識人層であった。この憲法9条への支持はその後、安保闘争を経た60年代以降、いわゆる「護憲論」の形成母体になった。憲法制定後10年ほどは再軍備・軍隊保有のための憲法改正の賛否を巡って、世論は二つに割れました。この状況が変わったのは、1955年11月の保守合同で自民党が党綱領に憲法改正を掲げると、護憲勢力(9条改正反対)が多数を占める様になりました。憲法9条を支えた勢力の内、GHQの考えが冷戦のために急速に変質しました。1947年トルーマンドクトリン発表、1949年中華人民共和国の成立、1950年朝鮮戦争と続いたため、GHQは日本の再軍備へとかじを切りました。日本政府の保守層がこの流れに同調しましたが、対米従属派だった吉田茂の路線(吉田ドクトリン)が再び主流となり、国民の戦争体験にねざす平和主義を組み込むことで、安定した戦後政治の正統的経済優先ナショナリズム路線(保守本流)をつくりあげました。自主外交を目指す鳩山一郎氏、対米対等を目指す岸信介氏らの路線は、岸氏の強引な非民主的手法が60年安保で破綻し、吉田・池田・佐藤の路線が国民の支持を得て憲法擁護の流れも取り組んで、安定な保守本流の55体制をつくりあげました。それが高度経済成長路線に乗って豊かな国民生活の向上になりました。

日本の戦後社会を規定したものは、親米・軽武装・経済中心主義の吉田ドクトリン(55体制)でした。GHQの憲法草案をもとに憲法を制定しなければならなかった幣原喜重郎及び吉田茂内閣は、非武装平和主義を掲げざるを得ませんでした。ある意味では面従腹背路線でしたが、憲法9条が国民の支持を得るようなることを見た吉田首相は、これを自分の政策に取り込み経済優先・軽武装の路線を重視し、東西冷戦下米国の再軍備要請に答えられない口実に使いました。ダレスが日本再軍備と軍事費の分担を要請すると、吉田は憲法9条を盾にこれを拒みました。吉田は護憲勢力としての社会党と組んで、憲法9条が対米抑止力として機能したのです。講和条約終結後吉田内閣は退陣しますが、後を継いだ自民党保守派の政策が、自主憲法制定・対米自立・どこか古い日本の再建を目指しますが、戦後のねじれの自覚に乏しく効を奏しません。平和憲法を利用して経済優先・軽武装の路線の経済ナショナリズムが吉田ドクトリンの後継者に受け継がれ、日本を高度経済成長に乗せました。こうして日本は建前と実質という2枚舌路線(ねじれ)を国是としました。これを55体制といいます。これに野党(特に社会党)が呼応したことは明白です。このことは伊藤博文が確立した明治時代の建前である絶対天皇制(顕教)、実質権力の立憲君主制(密教)という2枚舌路線と同じ構造です。昭和に入って軍部が明治国家システムを破壊してしまうのです。吉田が作り、池田、佐藤の政権担当者を通じてできた政治システムは明治時代の顕教・密教システムに酷似しています。吉田はちょっとまやかしであることは分っていたのですが、戦後の急激な変化に国民がついてゆけないことを見越して緩衝材として発明した政治システムです。建前(顕教)とは、日本と米国はよきパートナーで、日本は三条件降伏によって戦前とは違う価値体系の上に立ち、憲法9条の平和主義を信奉しているという政治システム、本音(密教)とは、日本は米国の従属下にあり。戦前と戦後の支配者は継続しており、しかも憲法9条の下で自衛隊と米軍基地(米軍基地は沖縄に集中させ、本土国民には見えにくくさせている)をおく政治システムを意味している。こうして軍事的負担を最小限にして、もっぱら経済大国化をめざすのです。対米従属からくる政治的ストレスを経済大国化による自尊心の醸成によって緩和するという狙いでした。1960-1972年の高度経済成長を可能にした最大の要件が、憲法9条でした。すぐ折れやすいタカ派的ナショナリズムに比べて、吉田ドクトリンはなんという粘り腰、したたかな戦略だったことだろうか。しかし吉田路線・保守本流は自民党綱領(対米独立・憲法改正)に反しています。江藤淳が指摘したように「ナショナリズムを実現するには米国の撤退を求めなければならず、安全保障のためには米国の核の傘の下に居なければならない」という二律背反があります。アメリカを怒らさせないで退場を願うのはかなりの高等戦術が必要です。怒らせてしまうとたとえ独立できても米国との友好関係はなくなり、安全保障は期待できません。現在日本が対米従属の下にあり、政治的自由を持っていないことは明白です。吉田ドクトリンが有効なのは、経済成長が順調であり、そして平和主義が社会を安定させていることが必要です。この経済優先システムの魔法が解ければ、すぐにでも対米従属という現実が露出してきます。このことを最初に明らかにしたのは、政治学者高坂正尭でした。日本の経済成長が日米間の経済摩擦を引き起こし、1970年代以降日本経済が米国を脅かし始めると、「対米従属」という対立点が顕在化しました。江藤淳が1978年に「日本は無条件降伏などしていない」と主張するのはこの時期です。1982年中曽根康弘が総理になり「戦後政治の総決算」をさけび、2000年小泉首相が「自民党をぶっ潰す」と吼え、2006年安倍第1次内閣、2012年第2次安倍内閣が「アンシャンレジームから日本を取り戻す」を政治スローガンとするのは、新自由主義の主張というよりこの「ねじれ」に自民党タカ派による解決策を求める主張にっほかありません。吉田ドクトリンは政治の相対における「政経分離」にあります。主権回復という政治課題を封印し先送りすることで、高度経済成長を優先し社会の安定と繁栄を実現しました。政治システムのねじれの起源は、実は自民党の保守合同劇の中に内蔵されていました。自民党タカ派(岸、安倍、中曽根ら)は、政治主体が戦前と戦後のつながりの上に「安保条約」があることに我慢がならないのです。戦前の誤りを認めることに後ろ向きで、いまだに敗北に向き合わないのです。そういう意味では自民党ハト派(保守本流 2000年以降は影もなくなりましたが)はタカ派と袂を分かち、分党し、しっかり戦前の価値の否定と戦後の平和・民主原則の価値の提言に踏みこむべきでした。野党(社会党)の急速な退潮は国民意識の変化とも密接に関係していました。それは1990年代以降のバブル崩壊からデフレという「失われた20年」の進行の下、経済成長が止まり追い風が無くなって失速した社会の構造改革(改革はいつもいいとは限らない)によって、格差の助長、社会保障や社会システムの後退、グローバル企業の海外移転にょる労働環境の悪化という激烈な変化によって国民の意識が閉塞感を強くしたためです。自民党内の穏健親米派、良識派、ハト派の解体が始まり、「加藤の乱」の挫折が決定的に自民党タカ派(小泉・安倍・福田・麻生)の時代到来となりました。高度経済成長を背景とした吉田ドクトリン(日米安保、経済大国、平和主義)はすっかり消えてしまいました。1960年以来の対米従属の姿が露見することになったのです。

第5部 ではどうしたらよいのかー私の9条強化策

第6部では憲法9条を強化するため、@国連中心主義を貫く事、A核の廃絶に向けて憲法に非核条項を入れる事、B対米独立のため憲法に基地撤廃条項を入れる事、の3つの案について検討します。1945年8月9日の最高戦争指導者会議及び同夜の御前会議において、ポツダム宣言受諾が決定されたのですが、誰も占領期間や外国軍の撤退時期については明確な降伏条件とはならずに、「皇室の安泰」だけを条件とすることになった。近代国家間の戦争では植民地化はあり得ないので、占領はそれほど長引かないというのが一般的でした。再び日本が完全な独立国家に戻ることは誰の眼にも当然と見なされたのです。ところが連合軍の占領は1951年のサンフランシスコ講和条約後に終わりましたが、同時に日米安全保障条約が発足し米軍はそのまま日本に駐留し(特に沖縄に)、外国人基地は常態化し戦後70年も続くとは誰一人予測できた人はいませんでした。それは東西冷戦によって米国の日本占領目的が民主化・非軍事化から大共産主義戦略に重点を置いた日本再建にシフトしたからです。1949年吉田首相はソ連を除く片面康和の実現と平和条約締結後の米軍駐留の継続希望を表明しました。これに対して南原茂東大総長は全面講和論を述べ、また安部能成、和辻哲郎、高木八尺、矢内原忠雄、都留重人、桑原武男、丸山眞男、久野収らリベラリストは「平和問題談話会」によって全面講和を主張しました。あわせていかなる国にも軍事基地を与えることに絶対反対し、国連中心主義による対米独立の考えを表明しました。革新側の反対は60年代初頭まで各地で基地反対闘争と訴訟が展開されました。1955年に保守合同がなされ、自民党保守派から吉田体制への反対がおこります。鳩山一郎の自主外交、岸信介のタカ派からの安保条約改正論が巻き起こりますが、吉田路線を対米従属度が過ぎるとして、ほぼ国家主義ナショナリズムによる反対でした。著者は憲法9条に関しては「平和問題談話会」声明に強い共感を示しています。その理由は対米独立についてはナショナリズムに立脚していては成功はおぼつかないことです。それは反米に結び付き、国際秩序から離反し孤立する恐れがあるからです。国際主義に徹すること、そのために国連中心主義を選ぶという点にあります。これが米国と敵対関係に入ることなしに米国から独立し、友好関係に移行する唯一無二の方法だからです。憲法9条がこの国際主義の最重要根拠になるからです。自衛権を含む戦争の放棄案はいわば国連と一体化するほかに生きる道はありません。ここに憲法9条の戦争放棄条項に関して3つの方向が考えられます。@スイスのような局外中立策、A対米従属策、B国連中心主義による平和主義ですが、自民党はAを選択し、革新陣営のBは政党の支持が得られず消滅しました。しかしなお著者は第3の道に活路を見出そうとします。国連中心外交に関して著者はロナルド・ドーアの著作に影響を受けたといいます。それは1993年の「こうしようと言える日本」という本です。冷戦が終わった時点で、日本のとるべき世界戦略を提言しています。今こそ日本は国連の平和構築の理想を実現すべく、過去の挫折を経験にして国連改革の中心的存在になって世界に貢献すべきだと語ります。ドーアが根拠とするのは憲法9条と国際連合の初期の理想追及の行為にあります。国連憲章第43条を実行に移す際の軍事行動から見た基本原則です。国連常備軍を持つことの可能性検討を行った軍事参謀委員会の構想を思い出すべきだということです。1989年に石原慎太郎による「NOと言える日本」の反動性にあきれ果て、ドーアは日本に名誉回復のプライドをもって今こそ国連中心主義をとるべきだとはっぱを掛けました。著者は対米独立のためには日米同盟から国連中心主義への転換が唯一の方法になると主張します。ドーアは憲法前文にある「平和を維持しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」から日本人の誇りを大切にします。著者は2012年2月以降の自民党政権の徹底した対米従属主義の外装の下での復古型国家主義的な政策は、きっと日本を誤った方向へ導くという信念のもとにこれを阻止したいという意気込みで本書を書いたという。ドーアの「こうしようと言える日本」が書かれた1993年以降の20年間は「失われた20年」と言われる経済成長の鈍化とデフレの進行に悩まされた(今も同じ)時代でした。閉塞した社会に活路を求める市民の感情を捉えて安倍内閣は今も支持率が反支持率を上回っています(2015年夏以降安保法制整備法案、アベノミクスの成果?を見て現在は不支持率が高まり、支持率と拮抗しています)。この政権が表向きは対米協調(従属)を基調としながら、その実、復古的で国家主義的政策によって、「美しい日本を取り戻す」という意味不明の言葉で日本人の誇りを刺激してきたことによります。今安倍政権の別動隊として幅を利かせている「日本会議」は国会議員の右翼化の精神的支柱となっています。そこでは民族差別、ヘイトスピーチ、大東亜共栄圏、歴史修正主義、平和憲法を放棄する憲法改悪などが大手を振って横行しています。まるで日本帝国が再興した感があります。庶民の感覚からは遊離して、昭和維新の軍将校のように威張っています。このような時代錯誤的集団を放置していては、日本の国際的孤立化は免れません。安倍政権はかってな憲法解釈で集団的自衛権容認の閣議決定を行い、なりふり構わない米国へのすり寄りで政権基盤を強化しています。しかしこの露骨な対米従属路線は、そもそも「日本会議」の対米独立の復古型国家主義と両立しません。いずれ安倍政権は自己崩壊を遂げるでしょう。ドーアは憲法9条の改正案を次のように示しています。「日本が保持する陸海空軍その他の戦力は次の目的外にはこれを発動しない。@国境に侵入するものに対する防衛、A国内外の災害救援、B国連雄平和維持活動た、国連憲章第7条による国連の直接指揮下における平和回復運動への参加」 これに対して著者は憲法9条改定の試案を次のように示します。戦争放棄と日本は軍隊を持たないことを基本とします。そのために自衛隊の組織を他国の軍隊と連携作戦行動をとる軍事組織(国際聯合待機軍として国連の直接指揮下におく)と、国の防衛と国内・国際災害救助に当たる国土防衛隊に再編する。そして国民に向けた治安出動を禁じる。国の交戦権は国連に委譲する。

戦後の国際組織「国連」には3つの使命がありました。@平和維持の国際組織、A戦勝国連合をそのまま国連の中核に置く事、B原爆の国際管理組織の設立です。1946年国連原子力委員会の設置を決めましたが、米ソの対立のまま冷戦が始まり機能停止に陥りました。1955年アインシュタインら科学者側から世界連邦運動が起きますが、その絶対平和主義は現実の政治を動かすには至りませんでした。米国主導によって1957年国際原子力機関IAEAの設立、次に1970年核拡散防止条約NPTの締結(62か国)がなされました。核兵器の廃棄を最終目的とする初の国際条約でしたが、1967年1月1日時点で核保有国と非核保有国に分け、核保有国には核兵器の譲渡禁止と核軍縮の履行を義務付け、非核保有国には核兵器の製造と取引を禁止しIAEAの保障受けながら核の平和利用を認めるというもので、国連安全保障会議常任理事国5か国(米英仏ソ中)が核兵器所有国であったなど、問題含みの条約でした。理由の一つは敗戦国である日本・ドイツの経済力をもってしては核兵器所有は容易なことでありそれを防止することが目的でした。日本では1967年佐藤首相が非核三原則(製造せず、保有せず、持ち込まない)を明言します。米国の核の傘が有効であることを確認して1970年にNPTに加盟しました。つまり日本ではNPTと非核三原則は表裏一体の関係にあったわけです。2013年8月NTP委員会提出の「核兵器の非人道性を訴える共同声明」には日本政府は米国と歩調を合わせて署名しなかった。何故なら日本政府の立場は核保有による核抑止政策の上の立つものであったからです。核の有効性を認めながら、核兵器を非難することはできないという理由です。2011年の東電福島原発事故のあと、2012年ドーアが「日本の転換」と題する書物を著し、新しい核国際管理案を提案します。2009年4月オバマ大統領はプラハ演説で「核のない世界をめざす」と述べました。核のない世界とはどのようなものであるかは不明ですが、反核活動家ジョナサン・シェルの著書「核廃絶」によると、1980年代の米ソ戦略核兵器削減交渉(START)では、核兵器ゼロとは米ソがいつでも核兵器を再製造し再武装できる態勢を持ちながら核兵器保有をゼロすることでした。ところが今や核保有国は9か国になり、シェルが考えた限定された5大国の約束では収拾がつかない状態です。他方非核国が目指している核廃絶のロードマップも核保有国のそれと変わりません。スウェーデン政府案や科学者側のキャンベル会議の提案、そして反核NGOのロードマップなどがありました。核エネルギーというパンドラの箱は開かれてしまいました。「核のない世界」の戻ることは不可能です。ドーアは「核兵器のない世界」から「核兵器行使のない世界」を実現するために、核抑止力を無効にするという考えを示しました。逆転の発想で核拡散防止ではなく、核拡散の平等化によって通常兵器化することです。それで本当に人類が滅亡するかどうかは賭けになります。日本の科学者(核物理学者)の湯川秀樹氏、豊田利幸氏らは「核抑止力」を否定し、核絶対悪論(核違法論)を取りますが、ゼロに向かう削減過程で、核抑止論のバランスを利用することは否めません。この移行過程における国連の管理は永久に続くかもしれません。ドーアの、現在の核拡散防止条約に代わる新しい国連を中心とした核兵器管理体制について述べてゆきましょう。アインシュタインらは核を廃絶することができないなら、戦争を廃絶するしかにと考えました。冷戦後の「核兵器の国際管理」は核抑止論に立っています。抑止論は核を相手に使わせないために自分も持つという考え方です。すると核兵器をなくするためには全員で核を持たなければならないという逆立ちした論理が生まれることは先に示しました。あきらかに核抑止論は内部矛盾を持っています。米国を始めとした核兵器所有国は、NPTを一層徹底的に管理することで、自分たちの核独占の下で平和を維持しようという考えです。ドーアはNPTにはもはや期待できないといいます。ドーアは米国のケネス・ウオルツの、中東平和のためにはイスラエルが核を独占する現体制は危険であり、イランも核を持たなければ安定しないという論を採用します。またケネス・ウオルツは「広島・長崎以来、核兵器が使用されていないのは、核兵器は事実上使えない兵器だからだ」という仮説に立っています。つまり究極の核抑止論です。そしてここからドーアは米ソ冷戦時代の「相互確認破壊MAD」の普遍化を主張します。米ソは核先制攻撃を始めても「報復の確実性」によってどちらも灰燼に帰すことは承知していました。ドーアは「外国からの攻撃を抑止してくれる報復の確実性を、現在の核保有国及びその同盟国ばかりでなく、世界のあらゆる国に与えることにある」と言明します。大国中心の核の傘による「核不拡散」ではなく、「核拡散」による一本化された核国際管理という提案です。その骨子は、@新システムの加盟国は、核保有国または被保護国のいずれを選択する、A核保有国は求めに応じて被保護国に核の傘を提供する、B被保護国は三カ国の核保有国と「代行確証復讐条約」を結ぶ、C「代行確証復讐関係」が結べない国にはl国連が斡旋する、DIAEAの検査権を強化するというものです。米ソ2か国が「代行確証復讐条約」に選ばれ、あと一国は中国や英仏となるでしょう。これは抑止力による「核全廃論」です。著者は原子力の平和利用は軍事利用と分かち難く結びついてきたという。使用済み核燃料サイクルはプルトニウム備蓄策に過ぎず極めて危険である。日本では「プルトニウム抑止力」ということさえ言われています。したがって現行のNPT核技術抑止政策を放棄し、核燃料サイクル政策を停止し、高速増殖炉の閉鎖・廃炉、現存のプルトニウムをすべてIAEAの国際管理に移管することが必要です。ここで憲法9条と非核政策の関係ですが、日本政府はかって行ったアジア諸国への侵略という過ちについて、アジア諸国にしっかりと謝罪して、日本政府は原爆投下という誰の目から見ても非人道的な行為について、米国政府に抗議し、謝罪を要求しなければなりません。ここで何も反米の立場に立つことはありません、日米社会の友好信頼関係に基づいて行うことです。

1950年のサンフランシスコ講和以来65年間、棚上げされてきた日米間の最期の政治的課題が基地撤去です。日米安保条約、日米地位協定によって、日米両政府の合意の下に、国内(特に沖縄)におかれた米軍基地が未だに存在しています。イラク、アフガニスタン、シリア、クエートなど中東諸国の戦地を除いて、3000人以上の米軍兵士が駐在する国は、日本(5万人)、ドイツ(5万人)、韓国(3万人)、イタリア(2万人)、英国(9000人)の5か国です。日独伊は第2次世界大戦の旧敗戦国です。ドイツ・イタリアはNATOの枠内で、日本・韓国は二国条約で要請によって駐在しているという形です。これらの基地は地位協定によって治外法権になっています。部分的な占領が70年間続いているということでは日本の主権に直接かかわっています。この節で著者は、基地の問題が憲法9条の問題に直結することを指摘した矢部宏冶著「日本はなぜ基地と原発を止められないのか」を取りあげます。著者加藤氏は矢部氏の憲法9条への提案を「矢部方式」と呼び、自分の主張を補完する重要な環とします。その提案を結論的に言いますと「基地撤去を憲法9条に書き込む、そのことによって日米安保条約、日米地位協定の法的拘束を乗り越え、米国との交渉に臨み、基地撤廃を実現するというフィリッピン方式を手本とする方法です」ということです。安倍政権は、国民の声を聴かず、憲法も無視する強権的な性格を持つかということの理由の一つは、岸信介特有の政治手法(官僚的独断専行)の模倣にあります。安倍は岸の孫になりますのでこの性格が遺伝したのでしょう。そしてさらに建前としての吉田ドクトリン(保守本流55体制 経済優先主義)を否定する自民党反主流派の使命感が、党内クーデターをおこしたドン・キホーテのようにか彼を突き動かしているのでしょう。これが彼の言う「アンシャンレジームの克服」、「美しい日本を取り戻す」ということなのでしょう。何が美しいのか意味不明ですが、我々にとっては被害甚大です。彼の使命とは日米の申し合わせ(対米従属)を絶対とする路線が建前を征伐することです。保守本流の建前路線は1990年来の経済不況によって、見る影もなく衰退しました。小泉元首相の「自民党をぶっ潰す」という見栄を切った発言は「日本を衰退に持って行った保守本流をぶっ潰す」という意味です。新自由主義路線が経済を回復させたかというと、それはできませんでした。安倍の「美しい日本を取り返す」とは「経済成長で輝いていた日本に戻したい」ということですが、アベノミクスの失敗は明白で経済は著しく縮小しました。印刷された金だけが投資先のないまま踊っています。民主党鳩山内閣の対米従属路線からの離脱は米国を慌てさせ叩き潰されました。ふたたび政権を奪取した自民党政権(第2次安倍内閣)は民主党内閣の逆に出ました。徹底的に対米従属で、自衛隊をアメリカにどうぞお使いくださいとばかりに差し出す政策(集団的自衛権の容認)を憲法を踏みにじってまで強行しました。2014年7月から1年余り、米国の世界戦力に積極的に加担し、協力し、迎合することをためらわない姿勢を国内外に示しました。そして党内で秘密にしていた「戦前と戦後のつながり」(支配者は替わっていないこと)を露骨に全面にだして、平和主義の衰退の後に現れた排外的ナショナリズム勢力(右翼的勢力)の支持を得て、靖国神社参拝、中国・韓国への強硬姿勢と謝罪の拒否という反動的政治姿勢に転じました。メディア統制強化と特定秘密保持法の果たした役割も重要です。米国が与えた戦後の秩序である憲法の改正は米国によって止められており、徹底的に米国に従属することで迎合姿勢の見返りとして(米国の内諾を得た形で)憲法無視と歴史修正主義を進めました。これは安倍の勝利でしょうか。結局はパンドラの箱を開けることにほかならず、そこに潜んでいた内的矛盾は拡大して施政者に迫ります。対米従属で居直れば居直るほど、この屈辱感を払うように(鬱憤を拭うように)「復古的国家主義政策」も連発せざるを得ません。上にいじめられた人間が、下の人間をいじめることで憂さを晴らすような心理状態です。福沢諭吉はこのことを武士階級の「権力の連鎖反応(過剰)」と同じと表現しました。下とは日本がかって侵略した朝鮮、中国、台湾、東南アジアの諸国のことです。A級戦犯を祀る靖国神社参拝とは、文字通り「敗北」を認めない行為にほかならない。安倍は右翼集団の「日本会議」を手下にして意の通りに動くと思っているでしょうが、対米従属路線は欧米と闘った戦前の政府の支配者の考えとは矛盾します。この二律背反はいずれ安倍の足場を崩すでしょう。経済成長路線に立った保守本流の55体制(対米従属、軍備最小・経済優先、平和主義)は東西冷戦の終了、「失われた20年」尾経済成長の停止とデフレ、および社会制度崩壊によってその存立条件を失いました。著者加藤氏は第1次安倍内閣の成立の時、2007年に「戦後から遠く離れて―私の憲法9条論」の論文を発表しました。内田樹の「憲法がこのままで何か問題でも」という護憲論を出しました。憲法9条と自衛隊の存在は対立するものではなく補完するものである、統一する必要はないということです。憲法9条の平和主義8建前)と自衛隊の軽武装(申し合わせ実情)は表裏一体関係にあるという戦後の構造論と同じ関係であると言います。内田の主張はつまり憲法9条を口実にした経済第1主義の吉田ドクトリンであったのです。もう少し内田氏の考えを進めますと、憲法9条と相補的だったのは自衛隊ではなく米軍基地であったことが分かります。最大の問題はこの憲法制定権力(米国)が自分の制定した憲法に対してこれを遵守する義務を持たないことにあります。むしろ米国の国益に従って政策を決めることの方が重要であったのです。そしてこのことが平和の理想からの変質(冷戦下の再軍備、日米安保条約、地位協定、集団的自衛権など)をもたらしたのです。もはや護憲のままでは、この憲法制定権力(米国)から離脱することはできないのは、鳩山民主党内閣の例から明らかです。そこで著者加藤氏は「憲法の選び直し」を主張するのです。

矢部宏冶氏の憲法に関する主張は次のようになります。
@現在の沖縄基地問題など米国の日本支配の根幹は安保条約というより、もっと露骨な日米地位協定に基づく米軍基地体制にある。
Aこの根拠は国連憲章107条にある旧敵国に対しては憲章は適用されない。
B憲法9条第1項の平和主義と第2項の武装解除条項の矛盾である。
C従って米軍基地体制を脱するには、国連憲章の敵国条項の廃止、憲法9条第2項を「必要最小限の防衛力は持つが、集団的自衛権は放棄する」と改定し、かつ「今後は国内に外国軍事基地を置かない」と憲法に明記する。
これを「矢部方式」とよび、憲法9条にフィリッピン方式を採用し外国の基地撤廃条項を明記するという提案です。加藤氏が問題とするのは、憲法9条第2項の評価にあります。9条第2項の「戦力と交戦権の放棄」は、本来国連が世界政府として機能することを念頭にして国連軍の創設とセットにして構想されました。冷戦が始まった時点では日本は米軍の庇護下に入るしか日本の防衛はできなかった。そして国連憲章第51条の集団的自衛権の翻弄される結果になったのです。「戦力と交戦権の放棄」と「集団的自衛権」の行使(日米安全保障条約)という絶対矛盾として恒常化してしまった。そこで加藤氏は独自の憲法9条に非核条項と基地撤廃条項を入れた提案をします。その骨子は次のようになります。
@9条:日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国産紛争を解決する手段ついては、永久にこれを放棄する。
A以上の決意を明確にするため以下のごとく宣言する。日本が保持する陸海空その他の戦力はその一部を別組織として分離し、残りの全戦力はこれを国連待機軍として、国連の平和維持活動及び国連憲章第7条による国連雄直接指揮下における平和回復運動の参加以外には使用しない。国の交戦権はこれを国連に委譲する。
B前項で分離した組織は国土防衛隊に編成し、悪意を持って国境に侵入したものに対する防衛の用に充てる。国土防衛隊は国民の自衛権の発動であるから、治安出動は禁じられる(自衛隊の中立性)。平時は災害救助隊として広く国内外の災害救援にあたるものとする。
C今後我々日本国民は、どのような様態であっても核兵器を作らず、持たず、持ち込ませず、使用しない。
D前四項の目的を達するため、今後、外国の軍事基地、軍隊、施設は、国内のいかなる場所においても許可しない。
加藤案で問題なのは、第2項の内容は、日本だけでは何一つ決められないことである。全世界がそうなるかどうか実現性は疑わしく見果てぬ夢に終わりそうである。それからもう一つの私の懸念は、憲法9条改正案を出すこと自体が、憲法改正機運を盛り上げ、これを権力側が利用し憲法改正(改悪)運動に利用する可能性が大であることだ。権力を握っている方がすべてを決めることができるので、権力を持っていない側の提案は利用され無視され、権力側の憲法案を押し付けられるだけである。権力者の交代こそが第1条件であって、憲法改正はその後でやらなければならない。権力を持たない側から権力者に憲法改正案を出すことは愚かである。潰されるか利用されるだけである。



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