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今井むつみ著 「学びとは何か―探究人になるために」 
岩波新書(2016年3月)

教育学・言語学・脳科学より認知科学の視点から、生きた知識創造を考える

初めて今井むつみ氏の著作を読むので、まず今井氏のプロフィールをみてみよう。今井 むつみ(1957年生まれ)は、日本の心理学者で専門は言語発達、認知発達、言語心理学。1989年慶應義塾大学博士課程を卒業後、1994年ノースウエスタン大学心理学部にてPh.Dを取得した。現在は環境情報学部教授である。著書には「ことばの学習のパラドックス」(共立出版 1997 )、「ことばと思考」(岩波新書 2010)、「ことばの発達の謎を解く」(ちくまプリマー新書、2013)がある。慶応大学今井むつみ研究室のホームページに、今井氏の研究の関心事についてこう記されている。「研究を始めてからずっと言語の研究を続けています。人はどのように言語(母語)を学習しているのか。 その前提・基盤となる認知的能力は何なのか。そもそも人の心(脳)の中にある辞書はどのような性質のもので、どのような構造で語の意味が書き込まれ、それぞれの語のつながりはどのように表されているのか。言語を学ぶことによってわれわれの概念・思考はどのような影響を受けるのか。  私はこれらの問題に対し、乳幼児と大人の双方を研究対象にし、アメリカ、中国、ドイツなどの研究者チームを組んで発達・異言語比較の視点から取り組んでいます。 研究に用いるパラダイムは多岐にわたります。例えば赤ちゃんを対象にした研究では選好注視法、馴化・脱馴化法、馴化スイッチ法など赤ちゃんの視線、注意を利用した方法を用いています。今後は脳も使っていく予定です。 大人を対象にした研究では認知心理学の標準的なパラダイム(反応時間の測定や記憶、類似性の評価、ソーティングなど)の他、脳波の測定やfMRIを使ったイメージング手法なども使っています。 もうひとつの研究のコアになっているのは、人の学習の認知プロセスを明らかにし、教育へ応用することです。 「学び」という、人間の存在そのものに関わる重要な問題について認知心理学・認知科学は数多くの基礎的な知見を明らかにしています。それらの知見は直接的・間接的に「よりよい学びとは何か」、 「よりよく学ぶためにはどうしたらよいのか」を考える上で大きなヒントになるはずのものです。」 本書はこの著者の研究の応用として「学び」について総合的に論じています。本書は認知科学の視点から「学び」について述べる。認知科学とは人の心の動きとその背後にある仕組みを理解することを目的とした学問のことです。心はどこにあるかと問うてみると、ある人(文科系)は胸を指す、ある人(理科系)は頭を指す。どちらが正しいのかということではなく、こころは「綜合的」、「経験的」なのである。学校で私たちはいろいろなことを万出来た。そのとき「学ぶ」を「覚える」と置き換えて考えてる人も多い。認知科学では「学習」という言葉は非常に広い意味で使われている。運動、言語、数の数え方、数学・物理の学習、将棋・囲碁の学習、掃除、日常作業の学習、機械の使い方、楽器の演奏の仕方、スポーツ熟練練習など、頭の先から足の筋肉まですべての活動を必要とします。一番姑息な学習方法である「記憶」ひとつをとってしても、目で覚え、耳で覚え、声を出して復唱し、書いて手で覚え、五感を総動員して頭に焼き付けるものです。人は誰もが本来「自分で学ぶ力」を持っている。乳幼児から論理的・系統的に母国語を教える方法は存在しないと言って間違いない。文法や言葉の意味を親や先生から学んでいるわけではない。そもそも言語を知らない乳幼児に言葉を教えることは不可能である。子供が母国語を学習する時に発揮する能力は、まさに「自分で問題を発見し、考え、解決策を見つける」という「学習力」そのものであると著者はいう。そういう能力を備えているのが人間なのだといってもいい。あることを長い間続けていると、そのことに習熟し、熟達する。学習するということは熟達に向かう必須の過程である。特にスポーツや競技ごとになくてはならない過程である。筋肉や神経の発達、記憶による大局の直感的把握はこの熟達のことである。学びの仕組みを理解することで「より良い教育」を考える事が可能になる。何を学ぶかということは「知識とは何か」と同意味である。雑多な知識の貼り合わせは「生きた知識」ではない。「問題解決能力」といっても曖昧模糊としている。「良い学び」は学び手の目的によって異なる。学力テストの成績を上げるためという目的は本書の考察対象ではない。学びの目的はその人の価値観、興味の対象によってさまざまであろう。「よい学び」を実現するために良い方法を考え実践し続ける人を「学びの探求人」と呼ぼう。本書に関連する認知科学や言語論については、私は次の3冊の著書を挙げる。酒井邦嘉著 「言語と脳科学」(中公新書 2002年)山鳥重著 「分かるとはどういうことかー認識の脳科学」(ちくま新書 2002年)川島隆太・安達忠夫著 「脳と音読」(講談社現代新書 2004年)

1) 知識のシステム

「学ぶ」ということを「記憶」とか「知識」などに関連付けて考える人が多い。「記憶力」には、@瞬間的に覚える型、A雑多なことを覚える型、B必要なことを目ざとく覚える型、C総合的な大局・状況をよく覚える型がある。@の瞬間記憶力とは動物的に覚え込む訓練に長けた人で、数字の羅列を覚えることが得意な人である。Aの記憶力に優れている人とは、記憶すべき情報を後で取り出しやすいような形(ストーリー)に変換することが得意な人であろう。我々凡人は√2を「人よ人よの人見ごろ」 1.4141356の歌で覚える程度であるが、対数表、円周率などを恐るべき桁数まで覚える人は、短期記憶を長期の記憶に移すことに長けた人なのであろう。Bは普通の人が全く気に留めない事柄を職業柄必要な事項を記憶する人のことである。シャーロックホームズのように観察力に優れた人は多くの情報を記憶する能力というよりは、職業柄どのような情報が重要かを見極めその情報だけを抽出することに優れた能力のことである。Cは意味のある状況を経験的に覚えており、局面ですぐに思い出せる人である。棋士がみせる驚異の記憶力とは、棋譜の膨大なデーターベースから目の前の局面を一瞬にして見つけることができる能力である。自分がどのような職業を目指すかによって、その分野について膨大な知識をもつように努力しなければならない。それがスキルとうものである。私達は日常で起こっていることを理解するとき、つねに自分の想像の翼で補いながら理解してゆく。これを心理学では「スキーマ」(掬い取るもの)と呼ぶ。経験と想像のスキーマがないと、物語の筋・展開を追うことができない。理解できないと記憶・学習もできない。理解する努力を放棄することは学習では「落ちこぼれ」につながる。私達は物事を客観的に理解しているかどうかは怪しい。解釈した結果を記憶してしているのだろう。つまり自分の知識のフィルターを通して解釈され、構築されたものなのである。実際人の記憶には、想像のスキーマが入り混じっている。記憶と知識はどう違うかというと、知識は生きて使えるものでなくてはならないということに尽きる。知識は体の一部にならなければならない。人が瞬時に対応できるということは、からだが「手続きの知識」を記憶していることである。子供の言語の習得の過程とは単語や知識の断片をためてゆく過程ではなく、知識をシステムとして作り上げてゆ過程に他ならない。まず胎内で母国語のリズムを学ぶことから始まる。つまり赤ちゃんは自分の母国語の韻律の特徴についての知識とともにこの世に誕生するのである。人が何を言っているのかが理解できるには、乳児はまず人の声を単語に区切っていくことから始める。単語はいくつかの音素からできている。音の違いの組み合わせが言葉の意味を決める。音の洪水が赤ちゃんを襲うが、音素の違いが母国語であれ外国語であれ、赤ちゃんは音の違いを識別できる能力を持っている。乳児は辞書を引くわけではないから、大人から言葉の意味を教えてもらう。1歳半を過ぎたころから、子どもは「思い込み」を使って、言葉の指す対象と範囲をすぐに決めることができる。言葉の指す対象の形をまず想定する(類別)ことを「形ルール」といい、「形ルール」によって最初に名前を付けたものを、「ターゲット」と呼ぶ。「形ルール」から入った新しい言葉をどんどん覚え、語彙を爆発的に成長させる。子供は語彙に含まれるパターンを発見し、言葉の学習のスキーマを作る。それぞれの単語の境界はその領域に属する他の単語との関係によって決まる。語彙は膨大な単語からなるシステムなのである。単語どうしの関係(システム)を知って始めてつかうことができる。言葉の関係には「対比」の関係があり、類別されるグループ(動物、食べ物・・・)内の言葉は対比される。二つの違う言葉が同じ意味を持つことはないという原則も学ぶ。たくさんの図形の中で、類別できるグループ(仲間)の識別が重要なポイントである。ボール(野球ボール、ドッジボール)と靴は同じ仲間ではないこともわかる。微妙な場合について、すでに知っていた言葉の修正もおこなう。幼児にとって「数の概念」の発生は重要である。2歳ぐらいからまず3つくらいまでは容易に識別するが、5以上になると「たくさん」という量で捉えてしまう。つぎに数と指の対応を教えると10までは容易に数えられる。つまり数という抽象的な概念でも、言葉を足掛かりとしてパターンを学び、「数のスキーマ」を作るのである。量という塊とは違う、整数としての数を理解することができる。

2) 学ぶということ

子供の作るスキーマとは、複雑な要因を考えるものではなく、目立った特徴のみに頼って直感的に作り上げた「思い込み回路」である。外界の様々な現象について子どもなりのスキーマということについて、筆者は、子どもは物体の物理的な性質を直感的に理解しているというが、子どもがニュートンの力学の第1から第3法則を理解しているところ(物理専攻以外の大学生でさえ理解していない)は私はとても信じられないから、割愛したい。こういった話は理科を学ぶ中高校生以上で問題となるが、小学校以下の子どもで理解できるものではないからだ。従って発達心理学で議論すべきではなく、科学としての物理・数学で理解の程度を議論すべきと思われる。母国語のスキーマと外国語のそれはかなり異なると思わなければならない。例えば英語のwearという一語が、日本語では着る、履く、かぶる、付けるなどに対応する。英語のholdは中国語で13種類の漢字に対応する。対応する言葉が多いということが言語の学習困難性を示している。外国人の中国語学習者はその一部しか使いきれていない。スキーマは情報を取り入れ記憶するために重要な働きをする。人は理解できない情報を記憶に取り込むことはできない。従ってスキーマは情報の取捨選択を行う。その結果「誤った思い込み知識」が強化されることもある。自分の信念と一致しない情報は無視されやすい。これを「確証バイアス」と呼ぶ。これを是正することは非常に困難であるが、誤った知識を修正し、それとともにスキーマを修正しなければならない。学びと熟達は表裏一体です。人間はほとんどすべてのことを生まれてから学習によって身につけてゆきます。熟達するということはその分野のシステムをつくりあげるていくことです。熟達には二つの意味があります。一つは最初はできなかったことでも繰り返して経験を積み、早く正確にできるようになるレベルの熟達で、第二にはその分野で一流になり、もっと高度なレベルの熟達です。筆者は物理学の初歩的問題の解放を考えるとき、初心者がたどる道と熟達者がたどる思考の流れは随分違うことを示します。熟達者は問題を見て何が本質かを素早くつかみ、迷いなく解を出します。これは認知科学で「スキルの自動化」と呼びます。無意識に複雑かつ精緻な情報処理が行える能力のことです。熟達者の神髄は「カン」にあると言われます。将棋や囲碁では「大局観」という先を読む力のことです。それは持っている知識によって状況が認識できる「認識力=識別力」にあります。優れた判断や行動を可能にしている心の中の判断基準を認知科学では「心的表象」と言います。このような認知機能は脳のどのような変化によってもたらされるかを研究する分野を「脳科学」と言います。脳の機能分担(部位)については多くの著書があり、大脳生理学は本書の主要な目的ではないので、ごく大まかに認識と記憶に関する脳の仕組みをみてゆこう。脳の皮質は、前頭部、頭頂部、側頭部、後頭部という4つの部位に分けられる。後頭葉は視覚野であり、側頭葉は物体の形の認識、聴覚処理に、頭頂葉は空間的視覚処理(位置関係)、運動の処理、注意のコントロールに、前頭葉は高次の認知機能のコントロールに関わっていることが知られている。とはいうもののそれほど単純ではなく、相互の関係がまだよくわからないだけである。一般的認知機能の制御に関する脳内ネットワークとしては、前頭前野背側、全帯状皮質/補足運動野、頭頂葉後部、島皮質前部、大脳基底核、視床、小脳などが関わっているとされる。脳は皮質から内部に行くにつれ、運動・感情を支配する部位になり、皮質と内部の緊密な連携によって複雑な機能を発揮するのである。何度も繰り返し行うことにより、そのスキルに関する連絡網が発達し固定化された制御システムが作られる。その代わり特定のスキルの情報以外は学習の中に入ってこなくなる。これは「専門バカ」と言われる現象である。学者に多い症候群である。高度な自動処理と普通の処理がバランスを保つことが賢明な人間である。特定スキルの初心者・中間・熟達者の脳活動を見ると、初心者はあちこちの活動が見られ「悩み多い」混乱状態であり、熟達者になるにつれ活動部位の数は減少し、少数の部位のみが活動する。音楽のプロは側頭部の一次聴覚野の活動量が多くかつその体積も大きい。音楽演奏家の親指に対応する一次感覚野の活動が多い。脳磁図(MEG)測定によるとプロ音楽家の皮質の体積を見ると、演奏運動に関与する感覚運動野、補足運動野、小脳などの部分と、音符を読む上頭頂小葉、下頭測葉部位の体積が大きくなっている。学習は模倣からというように、「習うより慣れろ」といわれる。人を見て憶えることが重要である。それには「ミラーニューロン」の存在が学習にはなくてはならないものである。部位を特定することはできないが、運動前野、下頭頂小葉、上側頭溝を含むネットワークではないかと言われている。「身体化された手続きの記憶」である直感には、脳の深部に位置する「尾状核」にあると言われる。プロ棋士に協力を求めた理研の研究では、意味のある駒の配置に対してのみ反応する前頭部と頭頂部は全体的な意味の理解に関わり、意味があってもなくても反応する側頭部は全体を構成する要素情報の認識に関わっている。頭頂部において情報が統合される。

3) 生きた知識

前半の2章で学びの熟達と認知の仕組みの概略を考えた。後半は「生きた知識とは何か」という価値に関する議論である。知識とは驚くほど多様であり、その学び方も多様である。文部省が言う「望まれる人間像」が曖昧模糊であるように、「論理的思考能力」を養うという教育理念も捉えようがない。これは思考力・判断力を束ねている「知識」の意味が人によって様々であるからだ。知識観、つまり知識についての認識のことを「エピステモロジー」と呼ぶ。現在は知識は客観的なものであり、事実であるという「知識についての認識」エピモロジーが共有されている。知識=事実問う考えが広く行き渡り、日本人は「覚えた事実の量」を学力として評価されるという教育を小さい時から受けてきた。ここで知識が切り取ったり貼り付けたりできる「客観的事実」であるという知識モデルを筆者は「ドネルケバブ・モデル」と呼ぶ。しかし「生きた知識」は「ドネルケバブ・モデル」ではない。生きた知識の代表と言える言語は、多くの要素が互いに意味を持って関係づけられて作られたシステムであう。常にダイナミックン変動してシステムである。例えば英単語豆辞典でbreak=破壊といった1対1に対応する訳語では、生きた知識にならない。その訳語を増やしただけでは結局英語は使い物にはならない。子供は音韻の規則、文法の規則、単語の意味など言語という大きなシステムを構成する要素をほとんど自分で見つける。乳児は自分の母国語の単語の音の最小単位である音素を発見する。自然物、絵や写真を見てどう解釈するかは極めて主観的であって、それをもとに習得される知識もまた「客観的事実」ではありえない。「生きた知識」は知識どうしが結合して新たな知識を生むのだ。間違いを起す危険があっても「思い込み」によって施行するのは、未完成であれ知識のシステムの枠組み(スキーマ)をとにかく作るためである。そして後でまた別の知識によってゆっくり修正するという学びの過程の一部となる。思い込みスキーマが間違っていた場合、土台から組直さなければならない。これを認知科学では「概念変化」と呼ぶ。「エピステモロジー」は絶対主義ー相対主義ー評価主義という発展段階をたどる。そしてさら高い水準の発展段階になると、知識は単なる考えとは違う実証的仮説による「科学的知識」となる。自然科学的思考を身に付けるには、理論の検討の仕方、仮説の立て方、仮説の検討のための実験のデザイン、データの解釈、結論の導き方などの論理を組み立てるスキルの訓練が必要なのである。社会科学においても理にかなった意思決定をするためには、論理構成スキルに則った思考が必要である。批判的思考つまり正当性を主張するための証拠(エビデンス)を積み上げて論理を作ることが必要である。もちろん論理構築には「直感」も必要なことは言うまでもない。教育の現場で、各分野の第1線で第一人者になるための一般的方法などあるわけもないのだが、といって個人の天才に帰すだけでは今までの議論が無に帰すわけになる。様々な分野での超一流の達人(熟練者)の実践方法を考察することは大いに意義がある。国際的に活躍できるようになるにはどのような分野でも練習時間は1万時間以上必要で、これを「10年修行の法則」と呼ぶ。さらに練習中の集中度(練習の質)によって達成度は異なる。疲れたまま練習を続けても効果は少ない、ぼんやり休息をとることも必要で要は諦めずに追い続ける耐久力がものをいう。持って生まれた才能=「努力では到達できない能力」というものがあるのかどうか、特に運動選手の分野では「遺伝子」と言われる生まれつきの才能が云々される。自然科学の分野では「思考力」の遺伝子があるのだろうか。芸術や運動分野で目的を追い続ける(継続する)「意志の強さ」といった性格も話題になる。知能指数IQだけは相関はないそうである。運動選手の場合、長年の集中的な訓練の結果身体的な特徴が適応してゆくことがある。熟練の先にある「創造性」のありようは分野によって随分違う。科学者の創造性、音楽家の創造性・・・は同一には論じられないが、他の人には真似できない自分独特のスチルでパフォーマンスをする音ができる人は創造的であるという定義はある。今まで持っていた知識は新しい知識を創るベースになるし、軛にもなる。天才と言われた人は、予期せぬデータに直面したとき自分の仮説に縛られず、最終的にそのデータを説明できる別の理論を考えられる人である。移動説を唱えたケプラーがその人であった。ケプラーはブラーエの膨大なデータを照査し、誤差に目をつぶらず計算を繰り返して、円運動ではなく楕円運動であれば誤差を説明できることを発見した。自分の予想と違う現象を見た時、それを見逃さず、そこに別の可能性を見出すことを「セレンディピティ」と呼ぶ。生きた知識を追い求めることを「探究エピステモロジー」という。子供を教育する人(教師・親)自身も探究し続ける人で有ってほしいと著者はいう。子供は本来自分で知識を発見するようにできているにもかかわらず、探究心を失ってしまうのはなぜだろう。それは知識の断片を大事にする「ドネルケバブ・モデル」に大人が毒されているからである。知識を子供に押し付けるから子供は自ら発見することをしなくなるのである。遊びの中で子供の象徴能力(想像力)を大事にし、自発性を養うのである。良い絵本を繰り返し聞くことも大事である。そのたびに新しい発見がある。子供はホメることが大事であるが、褒美を与えてはいけない。などなど筆者の児童教育学上の知見が披露されている。



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