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伊東光晴著 「ガルブレイス―アメリカ資本主義との格闘」 
岩波新書(2016年3月)

戦後経済成長期のアメリカ産業国家時代の「経済学の巨人」ガリブレイスの評伝ー現実を分析し、支配的通念と闘った

ジョン・ケネス・ガルブレイス(1908−2006年)はスコットランド移民のカナダ出身で、20世紀アメリカを代表する「経済学の巨人」と言われた。1930年代をハーバード大学で学び、経済学への道を歩み、一生この30年代のリベラルで革新的な思想を持ち続けてた経済学者であった。ルーズベルト大統領とニューディラー(ケインズ主義経済学)の経験は、よき政治によって社会は変わるという確信を若きガルブレイスに与えた。1960年代ジョン・F・ケネディ大統領に大きな期待を寄せ、シュレージンガー・ジュニアー ハーバード大学教授とともに、ケネディの政策立案にかかわった。ガルブレイスは20世紀後半のアメリカを代表する経済学者である。1949年から1975年までアメリカの経済学の中心でもあったハーバード大学の教授であった。ガルブレイスを著名にしたのは多数の著作によってである。大恐慌後のケインズ革命(総需要量の創出)はまさに既存の知的枠組みの大変化であった。かれは既存の知的枠組みを「通年」と呼んだ。彼の著作はいずれもその「通念」への挑戦であった。「アメリカの資本主義」1952年、「ゆたかな社会」1958年、「新しい産業国家」1967年、「経済学と公共目的」1972年、「不確実性の時」1977年がガルブレイスの主要著書と言われる。通念は必ずしも現実を表現してはいない。むしろ間違った現実認識である場合がある。ガルブレイスの通念に対する挑戦は、現実を分析し新しい事実を発見するという「ファクト・ファインディング」に立脚している。それが理論の発展とともに経済学をより豊かにしてきた。ガリブレイスの現代資本主義の特質を見抜く資質によるところが大きい。経済学は不確実な科学である。分からないところが多いが、ガルブレイスは1930年代の政策実験のなかより、通貨を増やしても不況対策にはならない結論を得た。通貨政策・金融政策はインフレを抑えることはできても、マネタリストの不況対策は無効であると主張した。ここにガリブレイスの経済学の今日的意義がクローズアップされる。ガリブレイスの経済学の師は、アルフレッド・マーシャル(1842−1924)に導かれ、そしてヴェブレン、ケインズに心酔したが、いずれの教えも事実に基づいて克服していった。ガルブレイスの経済学の目的は、現代資本主義を分析して、現実から遊離したアメリカの「新古典経済学」の非現実性を批判することである。ガルブレイスが依拠するアメリカの「プラグマティズム」とは、現実優先の経験主義に立つ哲学である。アメリカの自由は欧州のそれとも違い、アメリカの経済学は大陸のそれとも大きく違う。1980年代から始まるレーガン・サッチャーイズムの「新古典派経済学」または「新自由主義体制」、そしてソ連邦と東欧の崩壊による冷戦の終了、日・独の台頭はアメリカを産業国家から金融国家に変えた。そしてアメリカはますます実物経済から遊離し、強欲資本主義に傾斜していった。何度も金融危機を引き起こしながら、2008年リーマン危機で信用崩壊のピークを迎えた。この時点で本書の著者である伊東光晴氏が本書を刊行された意味は大きい。本書の「はしがき」において、伊東氏は一橋大学を離れるときに3つの課題を自らに課したという。@ケインズ研究を理論研究だけでなく社会思想史に高め、イギリス社会論を試みる。Aシュンペーターを借りてドイツ社会論を考える。Bアメリカの経済学者ガリブレイスを借りて、アメリカ現代資本主義を考える。とうことであった。ガリブレイスを選ぶことは師の都留重人先生の教示だという。伊東光晴氏のプロフィールを紹介する。伊東 光晴(1927年9月11日 生まれ )は、日本の経済学者。京都大学名誉教授、復旦大学(中国)名誉教授、福井県立大学名誉教授。専門は理論経済学である。経済学の理論的・思想的研究、現代資本主義論の研究を進めた。経済学に技術の問題、経営の問題が抜けていることをいち早く指摘。とりわけ、経済企画庁 国民生活審議会 では長年にわたり委員をつとめた。 また、「エコノミスト賞」選考委員会委員長をつとめた。最近の著書に「アベノミクス批判――四本の矢を折る」(岩波 書店)がある。


第1部  アメリカの対立する2つの社会・経済思想とガルブレイスの経済学者としての出発

1) アメリカの対立する2つの社会・経済思想

アメリカ社会の思想の特徴は、いつも自主独立の建国の思想や自己防衛の西部劇から説明されることが多い。なるほどと理解される人がほとんどであるが、それほどアメリカ社会は戯画的で簡単ではない。自由の国アメリカは同時に奴隷制度の国であった。プラグマティズムの祖ウイリアム・ジェームズが「アメリカは矛盾多き国である」といった理由の一つであった。アメリカの銃社会を400年前の開拓移民の精神だけから説明するには大きな無理がある。奴隷制度は1641年に、北部のマサチュセッツ州で生まれ広まったとされる。アメリカ社会の特徴は、自由な国が同時に奴隷制度の国であったと同時に、移民国家でもあり人種が階級を作った多民族国家であった。1776年イギリスの植民地13州が独立戦争によって独立を宣言した。その時のアメリカの人口は約490万人、約100年後には7758万人(16倍)に増加した。最初は西と北ヨーロッパから、19世紀前半にはアイルランドから、19世紀後半にはラテン系、ロシア、ポーランド、中国人の移民が流入した。階層化する人種社会が形成され、その最下層はかって奴隷であった黒人であった。重要なのはアメリカの貧困層はこうした移民によって維持されてきた。自由の女神が貧困層を作ったともいえる。そして自由のイデオロギーは支配層が自分の利益を擁護するために作り出したのである。自由といっても、西欧の自由とアメリカの自由は意味するところが違っている。西欧は公的分野では宗教色は一掃されている。政教分離はパブリックな問題で、アメリカでは公的分野でも政教分離が完全に話されていない。しかも宗教はカトリックである。「自由」の内容ではヨーロッパにおいては市民革命を経て、封建社会の束縛を排して、政治的、経済的、市民的自由が獲得された。市民的自由とはすべての人に思想と良心、信教、言論の自由が保障された。こうしてヨーロッパでは、自由の対極に、伝統の習慣をまもる「保守」が生まれた。ヨーロッパの共同体は個人を守るために存在し、不安定な個人は共同体への回帰の思想を持っている。この保守に対してヨーロッパの自由は「進歩」と『発展」の思想と結びつき、伝統主義に対する進歩主義となった。そしてヨーロッパの自由には、その前提として「平等」がある。それが進歩が生み出す格差を是正する力となる。ケインズが行った「自由の再定義」とは、自由の内容の修正のことである。アメリカに移民した人々はイギリスの束縛から自由になり、自立する自由の心は、自ら選ぶ政府も自らに干渉することのない小さな政府であるべきだというイデオロギーを作った。アメリカにおける自由は進歩主義とは直接結びつかない。そしてヨーロッパの自由は、その前提に平等があったが、アメリカ社会ではそれは保証されない。アメリカの社会は所得の不平等やあらゆる格差が是認される珍しい道徳を持った国である。1934年の調査では、所得分布の上位0.1%の人が国内所得の42%を占めていた。アメリカで平等が追求されのは、フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール期の時代だけである。ルーズベルトは累進課税(累進度の高い)と相続税の引き上げを行った。1980年代のレーガン大統領は税制改革を行い、ほぼフラットの所得税率が平等で公正だと見なされた。アメリカ社会には課税によって平等な社会に近づけようとするヨーロッパ流のリベラリズムが存在しない。ヨーロッパでは政治的には社会民主主義・福祉社会が成長してゆくのに対して、アメリカではそれは自由の侵害、社会主義と見なされて、福祉を拒否した。富者のおこぼれを「トリクルダウン」と称して、社会保障より「お恵み」という寄付行為で自分の道徳観を言い訳するのである。アーサー・シュレジンガー・ジュニアー ハーバード大学教授はアメリカ特有の哲学である「プラグマティズム」を「実証の上に有意な結論、役に立つ方法を導き出す」ことであるとしたうえで、「自由主義」イデオロギーがその哲学を殺していると批判した。アメリカのプラグマティズムの祖とは、パース、デューイ、ジェームズである。「自由主義」イデオロギーとは「減税、小さな政府、大きな自由」のことで政治的には共和党の精神である。2009年の「ティーパーティ―運動」がその極端なイデオロギーの例である。アメリカの議会内にはさらに極右の原理主義者が時折現れる。マッカーシズムの反共主義者である。「自由主義」イデオロギーは経済学的には、「アメリカは自由競争の社会であり、自由競争は最も良い経済状態を作り出す」という「新古典派経済学」(政治的には新自由主義)を信じて疑わない信条である。反対にアメリカ独自の経験主義プラグマティズムの上に立つ経済学は「制度学派」と呼ばれる。

伊東光晴氏は、その国の経済学が広く注目を集めるか否かは、その国の経済の興隆と深く関係しているという。スポーツの実力がその国の国力に比例するのと同じことです。スミスからマルクスまでのイギリス経済学が世界の中心であったのは、イギリスが世界帝國として世界の1/4を植民地化していたからです。19世紀末からのドイツ経済の躍進を背景として、多くのアメリカの経済学者はドイツに留学していた。19世紀後半から20世紀の2度の大戦まではアメリカは文化や学問の点で欧州に比べると後進国であった。ではなぜアメリカはイギリス経済学を学ばなかったのかといえが、日本と同様にアメリカは後進国としての共感からドイツに学んだというべきです。アメリカ経済学会の創立者たち、セリグマン、イリ―、クラークなどいずれもドイツ留学組であった。彼らはハイゼンベルグ大学でドイツ歴史学派に学んだが、影響されるところは少なく、むしろイギリス古典派経済学のマーシャルの流れにあった。そのことは日本の経済学者のドイツ留学組についてもいえる。アメリカの輸入経済学が根付くのは、第2世代の、ヴァイナー、ナイトからで、イギリスのマーシャル経済学の精緻化と自由主義化を確立した。アメリカに独自の経済学がなかったわけではない。「制度学派」経済学が、ヴェブレンを創始者とし、ミッチェル、コモンズ、J・Mクラークの流れが作られ、アメリカの現実を実証的に捉え、そこから有益な政策を引き出すプラグマティズムの方法の上に立った。ヴェブレン(1857−1929)はイデオロギーとしての、ダーウィ二ズムと自由主義を否定し、現実を実証的に経験主義的に捉えることであった。19世紀後半のアメリカ経済は北部の工業発展が始まり、西部へ向けての鉄道建設、カルフォニアでの石油発見が経済発展を促した。広大な国土で分散した企業はカルテル形成やトラスト運動(企業合同)を結んで巨大化した。それはスタンダードオイルによる石油産業の独占化となった。鉄道会社を傘下に入れてコスト競争に競り勝ったのである。ヴェブレンが見たものは。このような人為的操作による巨大独占企業の成立と、不当利益と富の蓄積、圧倒的な富の誇示であった。ヴェブレンは1904年に「営利企業の理論」を著し、企業が金儲け中心の社会を作り出したことを批判した。ヴェブレンは産業界の技術者連合社会を提案したが、「銀行資本主義」がウォール街・財務省複合体の中心としてグローバリズウムの社会となった。制度学派の第2世代を代表するJ・R・コモンズ(1862-1945)は、労使関係の近代化と市・州行政府の改革を行い、アメリカ経営学の祖と言われるのは人材教育と適用に優れていたからである。ルーズベルト大統領のニューディール政策を支えたのも、コモンズの制度学派の人材であった。「ブレーン・トラスト」と言われるレイモンド・モーリー、レックスフォード・タグウェル、アドルフ・パーリの3人のコロンビア大学教授が中心であった。経済学者が現実苧経済政策にm関与し、政策効果をあげた好例となった。彼らが構想した社会改造論はカルテルやトラストを禁止したので、アメリカの保守層が最も嫌う政府の経済への介入による社会改造論は途中で違憲とされ葬られた。戦後のアメリカ経済学の躍進を準備したのは1930年代後半のハーバード大学大学院の学派であった。J・シュペンター、ゴットフリート・ハーバラ、エドワード・チェンバレン、アルビン・ハンセン、ワシリ・レオンティエクらの教授連である。そしてハーバード大学には世界の俊才が留学してきた。彼らは「ケインズ革命」時代に生き、ニューディールの革新的社会的担い手となった。そこから多くの経済学者が育っていった。サムエルソン、トリフィン、マスグレイブ、トービン、ベイン、ポール・スウィージ、ガルブレイスらが戦後の制度学派を担う論客になったのである。一番先に頭角を現したのがサムエルソンで、マーシャル理論をミクロ理論とし、ケインズ理論をマクロ理論とした。ヴェブレンに学んだガルブレイスは、まず英国ケンブリッジ大学に留学してケインズ理論を学んだ。

2) ガルブレイスの経済学者としての出発

ガルブレイスは1908年10月カナダのオンタリオ州、五大湖に接するアイオワ・ステーションという小さな村に生まれた。村はスコットランドからの移民の子孫であり、なかでもガリブレイスの家は150エーカーの農場と150エーカの借地で地区牛を飼育していた。村で発言力があるのは100エーカー以上の自営農民で、家柄がよく、かつ頑丈な体躯を持つことであった。ガルブレイス家はリベラルな政党(自由党)支持者で、村のオピニオンリーダ−の一人であった。そしてスコットランド移民者は共同体を形成し、助け合いと協力関係で結ばれていた。アメリカはヨーロッパにように封建制(土地で結ばれた共同体)を持たない社会で、自らの努力だけが頼りの「フロンティア」社会であった。ガルブレイスが育ったスコットランド系農民社会はアメリカ社会と違って、互いが共生する社会であって、市場主義ではなかった。ガルブレイスの祖だった環境は、20世紀前半を代表する経済学者であるケインズやシュンペンターとはあまりにも違った環境であった。彼らは貴族出身で、ケンブリッジ大学とかウィーン大学で学んだエリート子弟であった。それに対してガリブレイスは農作業を手伝いながら高校を卒業しオンタリオ農業カレッジに通った。学んだ学科は畜産学、耕作法、園芸、農業工学といった農業関係の実学である。経済学者への道はまだまだ先のことであるが、農業大学で学んだことは決して無駄な寄り道ではなかった。彼の興味は畜産から農業経済に移り、卒業論文は「小作農の経済状態の実態調査」であった。アメリカの大学の水準はまだまだ低く、大卒だけでは使い道がなかったので、大学院が作られた。アメリカの大学は教養大学であり、その上に大学院が設置された。ガリブレイスは奨学金を得て、1931年カルフォニア大学バークレー(UCB)で、財団法人農業経済学研究所研究員として経済学の勉強を開始した。経済学の基礎をエイワルド・グレッサーと教授レオ・ローギン教授から学んだ。ガリブレイスのバークレー時代の師として財団研究所長のハワード・R・トーリーが重要である。彼の推薦で後にハーバード大学に移ることで運命を切り開くことができたからである。当時のバークレーの学生はリベラルから左翼までいて、ガリブレイスの思想形成に影響したと言われる。バークレー時代ガリブレイスは制度学派の祖ソースタイン・ヴェブレンの著書から学ぶところが多かったという。農業経済学から研究を進めたガリブレイスは経済の現実を変える政策提言を用意する姿勢を確立していった。農業の実学の中からアカデミズムに進むという二流から一流への道に進むのである。博士論文を契機として、1934年ハーバード大学経済学部講師となった。アメリカの政治が大きくリベラルに軸を移した時代に、しかもその第1期は農業政策が中心となって、ガルブレイスの専門とする農業問題が時代の脚光を浴びたのである。ガリブレイスの指導教授が農業経済のジョン・D・ブラックであったことから、彼と「流通過程のコスト分析」という共同論文を書いた。ブラックはガリブレイスの研究対象を農業から流通市場経済へ拡大変更させた。当時の市場理論はハーバードのE・チェンバリンの「独占的競争の理論」(市場の競争によって生産量は増え雇用は増すという理由)であった。しかしこの頃ガリブレイスはケインズの著書「雇用、利子および貨幣の一般理論」(1936年)を読んでから、不完全競争ないしは独占的競争論の現実に果たした役割とケインズが競争的市場を前提としたことに注目した。ケイインズの理論はハーバードだ学大学院学生によって支持され広まった。六うフェラー財団のヨーロッパ留学奨学金を得て(ブラックとトーリーの推薦があったから)、1937年英国のケンブリッジ大学留学が実現した。ジョーン・ロビンソン、オースティン・ロビンソン、ジェイムス・ミード、ピェル・スラッファー、リチャード・カーンらの「ケインズインナーサークル」ン人々との交流によって、ガリブレイスの眼は開けていった。又ロンドンスクールオブエコノミックスの保守派サークルとの交流も財産となった。ガリブレイスが、アメリカの経済学者に見られない、西欧的思想を感じさせるのはこの留学の故かもしれない。帰国後ハーバード大学では人事抗争事件があって、ガリブレイスの人事は進まず、1939年プリンストンの助教授として転出したが、3年後にはプリンストンを辞めた。第二次世界大戦が1939年に勃発してから、ルーズベルト政権も退陣し財政政策は戦争政策に突入した。経済顧問のラクリン・カリ―は1940年ガリブレイスをワシントン政府に招き、国家防衛諮問委員会顧問となった。そして物価管理局行政官補(1942年)から同局副長官(1943年まで)となった。実業界からの反発を受けて副長官を辞してから、雑誌「フォーチュン」に勤めた(1943−1948)。そして戦争が終わって再びブラックの援助によって1949年ハーバード大学の教授に就任することができた。


第2部  ガルブレイスの経済学

1) 「アメリカの資本主義」1952年ーガリブレイスの産業組織論

これからガルブレイスの四大著作の意義を一つずつ時代背景と共に見てゆくことにする。1949年ガルブレイスがハーバード大学経済学部の永久職を得て赴任した後、産業組織論を担当していたメイソン教授が行政学部大学院に転じたため、メイソンと親しかったガリブレイスが産業組織論講義を引き継いだ。これまで農業経済というマイナーな講座から、産業組織論というメジャーな講座に移ることになった。ハーバードのメイソンの流れにあるガリブレイスと、カルフォニア大学のベインは1950年代に産業組織論の体系化に努力することになったが、ベインは独占禁止法を基礎付ける経済理論を作ること、ガリブレイスは独占禁止法の欠陥を明らかにすることにあった。ベインは自由主義市場を理想としたが、ガリブレイスはそれは時に強者の論理に過ぎないと見る見解の相違があった。ガルブレイスは生涯にわたって初期ニューディールの理想を追い続けたのである。ルーズベルト大統領の百日議会は金融制度の改革と全国産業復興法など多くの改革法案を通過させたが、その中心となったのがルーズベルト大統領のブレーントラストとなったコロンビア大学教授のタグウェルの構想に基づく総合産業政策である。タグウェルは不況対策として、各産業に一種のカルテル的協定で下がり続ける物価を維持し、その代わり労働者の団結権、団体交渉権、最低労働条件を定めて所得の上昇と購買力の回復をめざしたものであった。タグウェルは制度派経済学の流れにあって、古典経済的な自由主義経済に批判的で、労働者の団体交渉を適法と認め、カルテルについては「条理の原則」で条件次第でこれを認める態度であった。全国復興局NRAと公共事業局によるケインズ流経済刺激策によって景気は次第に回復しだした。すると企業側はNIRA,NRAは従な経済活動を阻害するとして違憲裁判をおこし、1935年NRAは廃止された。タグウェルは1932年最重要課題であった農業政策の責任者としてヘンリー・ウォーレスを農務長官に任命した。ニューディール第1期の経済政策を指導したタグウェルは保守派の攻撃を受けて辞任に追い込まれたが、ガリブレイスは自由主義市場経済を信奉する保守派政治家を批判するために、この「アメリカの資本主義」を執筆した。ガリブレイスはアメリカの経済理論について、「アメリカ人は経済理論の分野で独創性を発揮したことは少なく、ほとんどは大陸からの借りものである。その理論とは19世紀にイギリスから輸入したままの古典派経済学である。」という。その古典派経済学理論は、競争が社会を律する基本原理であると考える。経済は市場価格が自動的に決まるもので、政府の権力は無用であるとして、累進課税に強く反対する。勤勉なものに罰金を科し、怠け者に補助金を出すという理屈で、競争モデルは福祉や生活のために行使される政府権力を否定したのである。今日でも、市場原理主義の考え方は政治的には共和党右派の考え方で政府の規制緩和、公益事業の民営化を主張する経済観である。だがこの競争市場というビジョンはアメリカ資本主義の現実ではない。ガリブレイスは1930年代のアメリカの実証研究に立って、この主張を論破してゆく。自動車産業を例にして、産業内の企業の数は技術の進歩による量産、コスト減につれて企業の数は着実に減少してゆく。最後には一握りの巨大企業と、それを取り巻く一群の中小企業だけが生き残って安定点に達するのである。多数の小規模企業からなる競争市場を前提とする競争市場論は重要産業分野において現実ではないという結論を得た。1921年には88社あった自動車製造企業は、1940年以降GM、フォード、クライスラーの3社が市場を独占した。ガリブレイスはミーンズの研究を取り上げ、寡占企業は市場価格をある程度支配することができるし、そこから超過利潤が生まれるという。競争万能といった自由経済のビジョンとは全く異なった現実が示された。それゆえ競争が一般的であるという競争モデルの考えは現実ではなくイデオロギーにすぎないという。消費者(買い手)はサプライヤーどうしの競争によって利益を得るという古典経済学の通説が競争モデルの考え方であった。ガルブレイスは市場の買い手どうしの結集力によって拮抗する力が働くことを示した。その典型的な例が労働市場である。労働者は組合に結集して、労働時間の短縮や賃金の引き上げを求めてきた。1935年ニューディール下でワーグナー法を制定させ、労働者の団結権と団体交渉権が保障されされた。ガリブレイスは「拮抗力」を流通関係の大規模小売販売組織の研究からヒントを得て、市場を調節メカニズムは競争と拮抗力にあると考えた。生協など巨大な小売組織や消費者協同組合が、生産者と消費者の間に入って第3の力としての拮抗力を発揮できるという消費者主権の萌芽が見られる。ガリブリスが「アメリカの資本主義」で明らかにしようとしたのは、古典的資本主義対現代資本主義の違いである。その前にアメリカの資本主義とヨーロッパの資本主義も同じではない。労使関係と資本主義の性格に違いがある。欧州大陸では労働者も含む利害関係者(ステークホルダー)が経営に参加するし、労働条件を協議する労使協議会が設けられている。1993年欧州連合条約ができて、94年11か国の合意の下に欧州労使協議会指令が成立した。2001年欧州会社法ができて利害関係者への配慮が義務付けられた。これを「ステークホルダー・カンパニー」と呼ぶ。それに対してアメリカでは、株式会社は株主のものであるという「ストックホルダー・カンパ二ー」である。2006年英国では会社法が改正され、従来の株主主権を維持しているが、取締役会はステイクホルダーのことも配慮するという義務が生じた。ドイツ由来の「法人擬制説」からさら進歩して「法人実在説」という会社法人に主権を持たせる大陸風の考えがある。日本でも2000年まではこの法人実在説に従った会社運営がなされてきた。会社は株主のものであるというアメリカ流の考えは、業績短期評価、株主配当優先、経営者超高給待遇、企業を売買対象とするM&Aの広汎な流行を生んだ。

2) 「ゆたかな社会」1958年ー現代資本主義論の提起

ガリブレイスは国の経済を二つに分ける。大規模の資本を持つ高度に組織された数百の法人企業が存在し、一方には何万という小規模な伝統的個人事業が存在する世界である。この二つの部門は行動原理が全く異なっており、努力それ自体の刺激要因、経済組織のすべての面で異なっている。この「ゆたかな社会」とは社会の窓のような象徴的な特徴を表現しようとするものである。1950年代は世界経済の中心はヨーロッパからアメリカに移り、アメリカは戦後の繁栄の中にあった。1950年の個人消費は1960年に70%も拡大する右上りの成長期であった。1960年代を「黄金の60年代」とすれば、50年代はその助走期にあたりガリブレイスは「ゆたかな社会」と呼んだ。大衆消費時代に入り、これまで手にしたことがなかった物、車、家電製品、食品などが生活にあふれだした。だがガリブレイスは豊かな生活を享受していると思っている大衆や中産階級の人々の貧困を発見する。1956年英国のJ・ストレイチは「現代の資本主義」を書き、アメリカのガリブレイスは1958年に「ゆたかな社会」を書いて、過去の経済学者の通念を検討し、現代の諸相を分析した。ストレイチはガリブレイスの「アメリカの資本主義」を引用して、寡占巨大企業を運営しているのは、昔の小規模資本家ではなく経営者であり、市場は規模の経済性から変質していることを明らかにした。ストレイチの視点は経済は悪を生み、政治がそれを正すという考えをとる。自由放任の市場経済は不平等を生み、貧困が生まれかねない。だからケインズ的政策に期待する。それはガリブレイスも同じ視点である。労働党による社会福祉政策が厚く行われている英国に対して、アメリカには福祉政策は敵という通念が支配している。それにはイギリスで生まれた「社会ダーウィニズム」のスペンサーの適者生存説がアメリカに大きな影響を与えたためである。19世紀のトラスト運動による巨大企業の成立時期に当たり、彼らの行動を正当化するものになった。ガリブレイスは「大企業の発展は適者生存に他ならない。しかし数えきれない人々の犠牲の上に成り立っている」といった。この適者生存、社会的ダーウィニズムの考えが、アメリカでは経済学の理論の中に入り込んでいる。市場原理主義者と結びついた需要・供給、価格決定理論は、こうして社会ダーウィニズムの支持理論となり、市場競争で敗れた者や貧困者の自己責任論が横行した。アメリカには欧州のような共同体という封建制度の時代はなく、アメリカ大陸に投げ込まれた人々は一足飛びにアトム化された個人となった。自立の思想が深く根ざしてスペンサーの思想を受け入れたのであろう。ガリブレイスはその生い立ちから大型家族農業的な生活スタイルに強く規定され、むしろヨーロッパ的な共同体的思想を重んじたため、市場経済一元論や社会ダーウィニズムに対して批判的な論説を展開した。市場原理主義や適者生存説を乗り越え、アメリカ人の所得水準を大きく引き上げ。現に「ゆたかな社会」を創り上げた現実の力を、ガリブレイスは技術の進歩による大規模生産性の向上にあると考えた。それは「乗用車を作る労働者が自動車を買えないのはおかしい。自動車の値段を下げると同時に労働者の賃金を引き上げる」というフォードの経営理念である。フォードはステイクホルダー型の経営者でもあった。貧しき時代の経済の通念である生産性の向上(生産優先)志向はスミスからマルクスまで共通した経済観であった。経済学は限界効用は逓減するという。所得が増大するにつれ、日知日とは必需度の高いものから、次第に必需度の低いものへ消費傾向が移行する。つまり欲望を刺激しながら市場を拡大してゆくのである。大量生産は、自動車、家庭電気製品を供給し、テレビ時代を作った。メディアを使って広告競争を経営の武器とする小売業が栄え、マスプロ、マスコミ、マスセールスの時代である。消費需要に広告の果たす役割が大きくなり、あたかも消費需要は、財の供給者の働きかけによって動いている。マスセールはマスコミと車の両輪の関係にある。貧しい時代なら人々は自らの必要に応じて消費生活を営む。したがって知性と理性を持ち行動する市民社会の中の個人という経済学上の消費者とは、貧しい時代を背景とした理念である。だが現実は市民社会ではなく大衆社会となっていた。マスコミによって動かされ、生活様式が画一化されると、人々は私的世界に埋没し社会性は薄れ、社会の全体の動きに流される。大衆社会は、マスコミによって動かされる画一的消費生活が作られるように、政治もマスコミが作る世論が社会を動かすのである。生産あるいは供給サイドの武器である広告宣伝によって消費者の欲望水準が変わることをガリブレイスは「依存効果」と呼んだ。消費が生産に、需要が供給に依存するという逆転現象となる。

通念は、生産の増大は人々の欲望を満たすと考えられたが、生産の増大は欲望水準を引き上げ、欲望が満たされることはない。「ゆたかな社会」における貧困とは、満たされることのない精神的窮乏である。全世界的に見ると物質的窮乏が無くなったわけではない。物質はアメリカによって独占されたのである。経済の中心にある生産の優位という通念は、新しい貧困を生み出したのである。ケインズは「絶対的な必要」と「相対的な欲望」を区別したが、前者による不況に対処するには生産優位が必要なことに疑問を挟まなかった。このケインズの考えが戦後の先進国で定着した。「資本主義は変わった」という現代資本主義論が提起された。1950年代と1960年代の先進国は、かってのような大きな不況は経験していない。そして代わりに、静かな物価上昇となった。産業間の不均衡からくる供給不足(ボトルネック)に際して物価は上昇する。軽い景気後退期にも経済の寡占的分野では価格上昇が起きる。1949年と1954年の景気後退時に起きた産業別労働組合の団体交渉によってコストが上がったのである。よく知られている寡占状態での価格の硬直化である。このようなことが起きるのは、生産水準が高く、完全雇用に近いこと、ケインズ経済政策の定着によってである。1960年代のアメリカがそれであった。「静かなインフレーション」である。戦争時の財政破綻による紙幣乱発によるスーパーインフレではない。それだけでなく経済成長率が適正成長率以下になると、不況感が現れる。これを「這いよるデフレ」という。「這いよるデフレ」と「静かなインフレ」は表裏をなして忍び寄るのである。日本でいうと1990年代後半から2008年の金融危機までの時期がそれにあたる。アメリカではニューディール期以後1980年頃までは格差縮小時代、すなわち平等化が進んだ。古い資本主義では貧困、不況、不平等であった。「ゆたかな社会」ではこうした不平等とは違うもう一つの社会のアンバランスが進んでいるとガルブレイスは指摘する。「ゆたかな社会」を作りだした生産優位の考えは、市場で提供される財のため、資本と労働を多く投入して豊かな物を提供しているが、利潤を生むことがない、政府が提供するサービスや財あるいは公共のための活動には資金は回さないため、両者の間に大きな不均衡が生まれる。「ゆたかな社会」の第3の病、公共サービス部門の遅れに対処するには、公共部門を支える財源(税)を確保しなければならない。基本は所得税と法人税の2種である。それでも足りない場合は、売上税が必要となる。フランスでは付加価値税を1954年に創設した。売上税は貧しい人には逆累進で負担を強いることになるので、ガリブレイスは売上税を社会福祉を始め公共福祉サービスを増加させ、普遍性のある公共サービスを確保すべきであると主張する。西欧では付加価値税(消費税)は20%を超える高率である。にもかかわrず国民の間に不平がないのは、基本的公共サービスが普遍的に受けられるからである。アメリカでは逆にそのサービスの多くが私的財として供給されている。その個人負担は重く、何百万円という高額医療費で破産する場合がある。高齢者用のナーシングホームは目をそむけたくなるほどお粗末な施設である。ガルブレイスは生産と保障を分離しようと考えた。完全雇用政策と公共サービスは相補的な関係にあるが、企業側の法人税を抑えた政府の財源で公共サービスが完全にやれるかどうか、それは極めて怪しい。日本では「ゆたかな社会」は、1960年代以降の高度経済成長の過程で実現していった。60年代の家庭用電化製品の普及の時代、それに続いてマイカー時代が続いた。スーパーマーケットが全国で拡大して、マスプロ、マスコミ、マスセールの時代が到来した。1960年から1980年までの日本の経済成長は例を見ないほどで、経済成長と雇用の安定、平等化を同時に実現した。社会保障制度・健康保険制度・年金制度も世界に類を見ない制度として定着し、日本は最先端の社会主義国だと言われた。しかし社会的アンバランスは米国と形を変えて現れた。大都市の地価の高騰、住宅政策の貧困、公害列島が進行した。20世紀から21世紀にかけて先進国は緩やかなインフレよりも慢性デフレに悩まされた。1980年代よりアメリカのレーガン大統領とイギリスのサッチャー首相が進めた新自由主義政策(小さな政府運動、サッチャー・レーガンイズム)は、税制を法人と高額所得者に有利とし、反労働組合政策、福祉政策に代わって自己責任を重視する政策をとった。バリブレイスは、豊かさの増大によって貧しい人が少なくなって政府が切り捨てたためであるという。それと同時にアトム化された個人が、内に閉じこもり精神の安定を得たが、社会的政治的問題には無関心を装った。選挙にも行かない人が急増し、これがメディアの政治諦めムード誘導効果もあって、小選挙区制では保守政党に有利に働いた。それによって政治が右傾化した。1990年代初めのソ連邦と東欧の崩壊が政治の右傾化に拍車をかけた。冷戦用軍事費の縮小はデフレ傾向を助長した。豊かさの道は社会の保守化をもたらし、市場優位の経済政策、反福祉政策という新自由主義傾向が、英国・米国・日本で顕著になった。経済理論もガリブレイスの時代からフリードマンの時代になった。先進国では所得と富の不平等が拡大し、格差拡大が進行して中産階級の没落と貧困層の増加、特に若い労働者の貧困化が顕著となった。

3) 「新しい産業国家」1967年ー成熟した巨大企業体制

「新しい産業国家」は現代資本主義の中枢をなす巨大企業の行動と構造の分析であり、ガリブレイス経済4著作の中心をなしている。かれがケネディ大統領時代にインド大使として赴任し、帰国後に執筆された。ガリブレイスは「アメリカの資本主義」でも述べたように、経済二分法をとる。第1は大企業によって支配される部門であり、少数の大企業からなる寡占市場と、その巨大企業二分品などを供給する企業集団を含む。第2は各地に分散している個人企業、農業、サービス業で市場に従属している部門である。経済二分法の先駆者はM・カレツキである。カレツキはケインズ理論の同時発見者であり、不完全競争市場、次いで小数大企業からなる寡占市場を前提として、ケインズと同じ新しい経済学を作った。それはコストによって価格が決まる製造業製品市場と、市場の需給によって価格が決まる第1次生産品(農業)などの市場という価格論二分法を背景とする。他方、価格論で一元論をとるのは、すべての需要量と供給量が価格の関数であるとするレオン・ワルラスの流れであり、制度化されたマーシャルの経済学と合同してアメリカ経済学の教科書(通説)の主流になっている。ガリブレイスの二分法は、価格決定のメカニズムの背景にある経済構造の違いによる二分法である。それは、アメリカは自由競争の社会であるとする神話を実証的に否定したバーリとミーンズの「近代格式会社と私有財産」1932年の流れを受け継いでいる。ガリブレイスは集中した産業分野を、「成熟した法人企業からなる分野」(経営者支配)、「寡占市場」、「計画化体制」(市場の計画的支配)などと呼んだ。大企業は市場に適応するのではなく、次のような手段をとって市場をその支配下に置こうとする。
@ 市場を無効にする。:材料から燃料、運輸、販売までを垂直的統合(合併)することによって「高度に戦術的なコスト要因を内部化する」 過程における製品価格のすべてを熟知することで、部品から完成品までを自ら行う産業体制になっている。これを「産業の統合度」という。日本ではアメリカほど徹底していない。中小企業製品を安く買うとか、安いなら他社製品を導入するという誘因が強く働くからである。
A 供給者あるいは購入者として市場をコントロールする。:購入する財の価格の原価計算を行い、数社と価格交渉を含め折衝を行う。比較検討の上決定する。こうした購入者の意思が反映されてゆく。大企業の製品を販売する時の市場管理が重要になる。製造業の場合生産者が価格を決定する。農水産物は市場の競りで値がつけられる。自由競争市場とは農産物市場ぐらいで通用する理論で、ガリブレイスは寡占状態から管理価格を分析し、いったん決まった価格はかなりの期間硬直する。価格を引き上げることも、引き下げることも不利となるので価格競争は行われないのである。なぜなら飽和した市場では価格を下げても需要はわずかしか増えないし、価格を引き上げると常は大きく減少するからである。これを「スウィージ―の屈折需要曲線」という。大企業が市場を計画的に管理することを「計画化体制」と呼んだ。
B 売買当事者間の契約にとって、一定期間または無期限に市場の機能を停止させる。:長期間継続契約といわれる。電力などエネルギー契約が含まれるが、アメリカの自動車産業では部品の70%が汎用品である。トヨタでは逆に70%が特注品で、コストを下げるために専用機による量産体制と長期間の購入保障を行い価格交渉で安く抑えるのである。
現代の大企業は複雑な経営組織をつくり上げている。アメリカの新古典派の企業観は、企業は個人の意思決定で動いているもので企業は組織を持っていない点のようなもので捉えている。しかしげんじつの大企業は組織の上に成り立ち、経営学の主要な分野は「組織は目的に従う」組織論である。大企業を生み出したのは大量生産と高度な機能と品質を可能とした技術の進歩であった。科学技術の進歩に勝ち抜くため、大企業では研究開発体制と人材育成を行い、その成果は特許で保護される。工場は熟練した生産技術者を擁し、「計画化、専門家、組織化」これが大企業体制を支えている根幹である。経営のトップは企業経営の専門家に移った。この専門知識を持つ集団によって大企業の経営が行われ、ガルブレイスはこの専門集団を「テクノストラクチュア」と呼んだ。経営者の上に行くほど決定するより承認する立場に移行する。企業支配力は、現代資本主義の下では集団としての専門知識という希少資源に移行した。これが「新しい産業国家」の考え方である。個人の組織内での「刺激要因」は、下から上の立場の人の順に強制、金銭、一体感、適合だと言われる。現代資本主義下の大企業の労働者に企業との一体感があると見るガリブレイスは、テクノストラクチュアと企業との一体感で支えられていると考えた。従って経営者の並外れた高給は、経営への寄与に比べて不当な報酬で、公正ではないという。例えばGEの会長だったウェルチの報酬は、超有名なスポーツ選手よりもはるかに高かった(年収20億円)。大企業は株主のためにのみにあるのではなく、経営者のためにのみあるのではない。大企業は社会的な存在で、労働者を含むステーキホルダーや地域社会、環境との関係が重要であるとガリグレイスは結論した。

4) 「経済学と公共目的」1972年ー経済的弱者を守る公共国家のすすめ

本書は前半部において、現代資本主義の外側にある農業、個人企業、サービスの分析をおこない、後半部においてそれが理想とする国家像、企業像、そしてあるべき政策を示している。アメリカの経済学者の多くは小規模多数の企業からなる競争市場を前提として、消費者が市場を通じて企業を支配していると説くが、これは大企業体制の市場ではない。また大企業体制の中に入らない分野(市場体制)は多数の個人企業であるので競争市場になっているかと言えばこれも当てはまらないとガリブレイスは分析する。そこでは利潤極大を実現するように価格に対応して生産量を決めるという行動は見られないからである。ガリブレイスはこの個人企業の行動の特徴を「自己搾取」(自己犠牲の上に立つ経済)と呼んだ。例えば独立自営農民は「勤勉」という美徳で、自分で自分を鞭打って働き続ける。この社会にとってたいせつな「自己努力」も度が過ぎれば「自己搾取」となる。この分野の経済状態の悪化には、自己搾取に進む前製作介入が必要であるとガリブレイスは提案する。大組織化がかならずしもすべての企業体に必要なのではなく、個人企業や自営農民にはそれにふさわしい働き方がある。この自己搾取という働き方は、マーシャルが述べる労働者の行動分析に現れている。アルフレッド・マーシャルはケンブリッジ大学経済学部教授としてリカードの経済学を受け継ぎ、それを近代化して新古典派経済学を打ち建てた人である。ところがアメリカの真古典派経済学のサムエルソンとでは労働曲線(縦軸に賃金、横軸に労働供給量)の傾きが逆であることに気が付く。サムエルソンは「賃金が上がれば労働供給量は増し、賃金が下がれば労働供給量は下がるという右上がりの曲線になっている。つまり個人の行動が即社会全体と一致するという仮定である。ところがマーシャルは労働曲線は右下がりとなっているとした。賃金を引き下げれば労働供給量は増加するのだ。賃金が下がれば生活を維持するために労働時間は増加すると考えた。賃金をあげれば労働する必要性が減退する。労働者にとって貨幣数量説(貨幣供給量をあげると生産が増加する)は妥当しない。そして労働市場は自己調節メカニズムを持たない。もし労働供給量が過剰で賃金が下がるとさらに労働供給量は増える。そして嫌でも自己搾取の段階になるという。どんどん労働状況は赤のスパイラルに入る。その対策には労働組合という仲介組織が必要になる。ここに労働組合是認の経済学的根拠は、この労働曲線の形にあり、労働市場は自己調節機構(フィードバックメカニズム 元に戻す力)を持たないことである。そういう意味でガリブレイスの労働市場の捉え方はマーシャルに似ている。労働者は団結し使用者に「拮抗力」(抵抗力 ブレーキ力)を持たなければならない。サムエルソンを含めアメリカの新古典派経済学はマーシャルを誤読したのである。ガリブレイスは、大企業体制の外にある「市場体制」内の労働者にも労働組合を結成できるように政府が積極的に援助しなければならないと提案した。サービス業では同時に最低賃金制の導入とその引き上げが必要である。農民にとって穀物過剰はその価格を下落させ農民に経済的打撃を与えてきた。政府が計画的に作付面積制限を導入し、協力する農家には補償金を支払うことが必要で、第1期ニューディールで農業不況対策は成功した。「市場体制」内の小企業。個人企業には「反トラスト法」の禁止項目を免除することが必要である。小規模小売業には参入規制が欧州では実施されている。ガリブレイスは関税に関して大胆な提案を行う。大企業には保護関税は必要ないが、市場体制内の小企業は保護関税で保護する必要があるという。つまり小企業や個人企業、サービス業、農業などは過度の市場原理に曝しては自滅するから保護政策が必要であるということである。ガリブレイスはGATT、WTO、TPPには輸入数量制限が必要だという論になる。関税で国内産業を守るか、数量制限で守るか、市場原理主義者は「経済を律するのは価格であるから、国内では自由競争、外国から国内産業を守るには輸入価格を操作する関税政策」を主張するが、ガリブレイスは数量制限を主張する。しかしGATT、WTO、TPPの流れは関税化とそして引き下げする方向で進んできている。ガリブレイスは地域性の濃厚な農業を自由貿易の中へ入れ込むということは、戦前の植民地モノカルチャへ逆戻りさせると言う理由で反対する。ガリブレイスは「公共性の認識」を強調する。それは企業の公共性の認識であり、「企業の社会的責任」を求める視点である。ヴェブレンのいうとおり、インダストリー物づくりは社会的意味を持ってるのであり、ビジネスは金もうけは公共性を持たない。GMの再建は2009年の法的措置が必要であった。それは社会的意味が強かったからだ。ただ金融機関がいたずらに合併を繰り返し、「大きすぎて潰せない」という論理はプラス面の社会性はない。大企業はストックホルダ―カンパニー論の否定であり、広く利害関係者のためのステイ九ホルダーカンパニーを要請している。経営者の異常な高給は許されないだろう。ガリブレイスの公共性の強調は、こうしたアメリカの社会基盤への警鐘・批判である。アメリカ人にとって切実な問題は、医療、老後、福祉問題であろう。今は私的解決に委ねられているが、格差社会では公的解決ができていない。教育についても豊かな地域では教育税が豊富であるが、移民者の地域では貧弱な教育しかできない。日本のような全国規模での平等な教育制度になっていない。これは公共国家のなすべきことである。住宅バブルのサブプライムローン問題は金融危機を引き越したが、ガリブレイスは公的解決を西欧を例にとって示した。都市住宅の大分部分を公有制とし、政府の全額出資・公有制を提案している。家賃や公共料金を市場メカニズムから外し、政策料金にすることを提案した。

5) 産業国家から金融国家の中でーガリブレイスの晩年

アメリカの産業国家はその最盛期と言われる1960年代にすでに衰退の兆候が表れ出していた。たとえばアメリカの製鉄業は平炉から短時間で大量かつ良質の製鋼を得るLD転炉で後れを取り始めた。1950年代の平炉では炉の容量は300−400トンで、1回の工程時間は7−8時間が必要であったが、転炉の容量は200−300トンで工程は30分と革命的な効率となった。1958-1968年のLD転炉設置基数は日本が68台、年生産能力は6372トンとなったが、アメリカは65台、5853トン、西ドイツが432台、2071トンである。転炉の高生産性は高炉の大型化を促し、世界の10大高炉のうち日本に8台が設置された。製造機械の中核ともいえる数値制御自動旋盤の可点数は日本で2−3万RPM、アメリカは8000RPMで性能に大きな差がついていた。アメリカの生産性優位が揺らいだのである。アメリカの国内産業にとって1980年代に空洞化が進行した。低賃金の国外へ部品生産を移したことが始まりで、ついには製品そのものの生産を発展途上国に移した。電化製品の数々は輸入品に取って代った。自動車のアメリカ市場に日本車とドイツ車が大きく割り込んできた。小型・低燃費車・低公害車がアメリカのビッグ3と肩を並べた。そしてついに2009年クライスラーの倒産につづいてGMが連邦破産法の適用を申請した。1970年代から80年代にかけて、アメリカ・イギリスの社会と政治はその中心軸がリベアラルを離れ右へ移動した。(サッチャー・レーガノイズム)アメリカの民主党政権はニクソン共和党大統領に取って代られた。世界経済も大きく様相が変わった。短期の投機資金が債券や株価の値上がりを期待して大量に動き、コンピューター取引によって激しく短時間で先物と現物を組み合わせて利益を出すというものに変わった。金融取引の中心は投資銀行であり、資金を供給するものは保険会社、年金基金、投資ファンドなどである。彼らは進んで政府の中枢に入り込み、行動を制限する金融規制やを取り払い、「金融ビックバン」という金融天国を実現した。これを「ウオール街=財務省複合体」と呼ぶ。投資銀行の役員は政府の高官となったり、また投資銀行に戻るという「回転ドア―」で出入りした。こうしてアメリカのリベラルもイギリスの労働党も変質した。投資の運用者には成功報酬が与えられるので、投機に走る誘因となった。1929年恐慌の主体は銀行のレバリッジであった。20世紀末から21世紀初頭の主役は投資銀行(日本の証券会社)に変わった。住宅バブル債権は2008年にリーマンショックを招いた。これを契機にアメリカの大手証券会社はすべて銀行と一体化した。だから証券会社の破綻は中央銀行によって救済されるという安心感からさらに投機は活発化した。ガリブレイスの時代は1960-1970年代まであり、その時期に「経済学と公共目的」を書き、アメリカ経済学会会長にも選出された。1976年イギリスのBBC放送から「不確実性の時代」という番組を企画放映した。1980年代は新自由主義者レーガン大統領と保守派経済学者ミルトン・フリードマンの活躍の舞台となった。1987年ガリブレイスは「経済学の歴史」、1989年「政治経済学の復活」を書いた。ガリブレイスが経済学の知的遺産に残したものは「経済学を、現実との格闘の場において、少数の巨大企業、他方でその外にある多数の個人企業と農業のそれぞれの行動様式と市場について実証的解明をしたこと」である。



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