160402

R・P・ファインマン著 大貫昌子訳 「ご冗談でしょう、ファインマンさん」 
岩波現代文庫 上・下(2000年1月)

量子電磁力学のノーベル賞物理学者の奇想天外なお話、 科学への真摯な情熱

この本は、自伝とするほど時系列に並べてはいないし、彼の生涯を語ってはいない。彼の興味の赴くままに並べた回想録または逸話集と理解しておこう。この本はファインマン氏( 1918年5月11日 - 1988年2月15日)の、謎と言われれば首を突っ込まざるを得ない好奇心の塊、恐ろしいくらいの執着力(集中力)、人々をあっと言わせ、先を走る茶目っ気、見せかけの偽善に対する憤慨などに満ちている。そしてこの本からファインマン物理学の解説を期待しても無駄である。物理学についてはチラッとのぞき見すえる程度にしか言及されていない。私が読んだファインマン氏の著書では、ファインマン著 釜江常好訳 「光と物質の不思議な理論ー私の量子電磁力学」 (岩波現代文庫 2007年)ファインマン著 江沢洋訳 「物理法則はいかに発見されたか」 (岩波現代文庫 2001年)がある。
「光と物質の不思議な理論ー私の量子電磁力学」 (岩波現代文庫 2007年)という本は、1983年5月カルフォニア大学UCLAにおける「アリックス・モートナー記念講演」をもとにしている。ずぶの素人向けの「量子電磁力学」QEDの講演である。本としては1985年に刊行され、専門外の翻訳者大貫昌子さんにスタンフォード大学教授(線形加速器センター)釜江常好氏が相談に乗って日本語に翻訳され、1987年に岩波書店から刊行された。2007年6月岩波現代文庫に組み入れられた。「アリックス・モートナー記念講演」は4回に分けて講演会が持たれ、章立ては1)初めに(光子の確率論序論) 2)光の粒子の性質 3)電子との相互作用 4)未解決の部分(原子核物理 素粒子論)となっている。数式は一切用いない物理モデルでの解説なので、分かったような気にさせるが、どこまでがたとえ話でどこまでが実体的な物理学なのか、理解の程ははなはだ怪しい。しかしここに述べられている物理現象は光子の性質だけなので、非常にすっきりした理解が得られる。用いる手法は確率論の常套手段である、@一つの事象の興る確率は最終矢印の長さの自乗に等しいということ。 A矢印の向き(角度)は光の移動距離(時間)に比例し、反射と透過という反対事象の向きは180度変える。この二つだけというアプリオリに与えられた手法で魔法のように光の反射、屈折、干渉、回折、レンズ、分光、などを確率の数学だけで解き明かすのである。この手法は昔私が大学2年で学んだ「確率統計学」の酔歩問題に似ている。碁盤の目の街で前後不覚の酔っ払いは果たして家に帰れるだろうかという問題である。答えはでたらめに歩けばゼロに戻るのである。量子力学は本質的に確率論や不確定性原理に基礎を置いている。光は光学(レンズ)の世界では光線というように粒子の動きのように理解されていた。しかし光は電磁波であり波の性格を持っている。回折や回り込みもするのであるが、光電効果に見るようにその粒子数(塊)としてカウントすることも出来る。電子も最初粒子の運動と理解された。電子線回折現象を起こすことから波の性質も現れた。いったい電子は波なのか粒子なのかに決着をつけるべく、1925年ハイゼンベルグが行列力学を、1926年にシュレージンガーが波動方程式を提出したことで量子力学が誕生した。ここで目を通じて見て来た世界が全く通用しない事を思い知らされたのである。これを理解するには想像力が必要だ。相対性理論を理解した人は1ダースはいたが、量子力学を本当に理解できた人はいなかった。アインシュタインも生涯理解できなかったらしい。喩話として有名な「2つ孔の実験」がある。私は若い頃朝永振一郎の本で読んだ。同じ話をファイマン教授がしているところを見ると、1960年代の量子力学の理解が推し量られて面白い。ここでは繰り返さないが2つの孔を潜り抜けた、粒子、波、電子の様子を示したものである。粒子では確率分布の和として、波では干渉縞として、電子ではひとつの孔では確率分布として、2つの孔では干渉縞が現れるという話である。電子は粒子の様でもあり、波の様でもあり同時に二つの顔を持つことを「ハイゼンブルグの不確定性原理」という。要は決められないということだ。科学を発展させようとすると、実験をするには能力が、結果を報告するには正確さが要求され、結果を解釈するには知力が必要なわけである。

「物理法則はいかに発見されたか」 (岩波現代文庫 2001年)という本は、大きくは二つの講演会からなる。ひとつは1964年コーネル大学のメッセンジャー講演会「物理法則の性質」、もうひとつは1965年ノーベル賞受賞講演会「量子電磁気学の発展」である。前者の講演会は7回にわけて話された内容で、分量からすると1回がノーベル賞受賞講演会分とほぼ同じであるため、本書をなべて8回分の内容として考える。
@ 重力の法則 : ファイマン教授によると物理法則とは、自然の営みのリズムやパターンのことである。そしてこの法則の持つ一般的な性格について考察するという。まず第1に「人間精神が成し遂げた最も偉大な一般化」といわれた「重力の法則」(ニュートンの「万有引力の法則」)を取り上げる。電磁気の場と重力の場のメカニズムの解明は難しい。極微の世界(核内)で重力はどうなるかは、重力の量子化は今後の課題であるとファインマン教授は言っているが、最近の進歩は著しいようだ。それにしても重力の法則の数式は単純で美しいとファイマン教授はいう。
A 数学と物理学の関係:  物理学は最初からすでに数学が必要なように出来ているところが面白い。化学や生物・医学などでは特にそういうことはない。数学の記号と推論法を使えば、手っ取り早く情報を伝えるばかりでなく、展開も速い。高いところに立ったように急に見通しがよくなるのだ。重力理論のモデルは数学的形式以外には存在しない。数学の記号化というものは単に言葉の言いかえではなく、数学は言葉プラス推論である。ファインマンは「"本当にわかった"と思うのは、物事に二通り以上の説明が出来た時だ」と語っている。自然を解釈するのに様々な体系が可能であると云う事実、これは自然の驚異的特徴のひとつである。「盲目の人が象をなぜる」式のことは、ようするに物理が自然をよく分っていないのである。数学と物理の関係については、数学者はもっぱら推論の仕組みを議論するものであってその実体については無関心である。しかしその推論法は大変強力で物理学を導いてくれる。数学を知らないと本当の自然の姿は感じ取ることは出来ないであろうとファインマン教授はいう。
B 保存則ー保存される自然量: 物理学は数多くの法則から成り立っているが、これらの法則を貫く「大法則」というものがある。それは保存則、対称性、そして数学的であるという性質である。この章で扱う保存則は以下の6つである。 電気量(電荷)の保存則、 重粒子数の保存則、超核子数(ストレンジネス)の保存則、エネルギーの保存則、角運動量(運動量)の保存則、対称性の保存則である。
C 対称性ー物理法則の保存性: ここで述べることは物体の形状の対称性ということではなく、物理法則それ自体の対称性である。正方形を中心を軸に90度回転しても同じであるように、ワイル教授の定義によると「ある対象に何かの働きかけをすることが出来て、それをした後でも対象が以前と同じように見えるなら、その対象は対称である」というのと同じ意味である。空間における平行移動の対称性、時間における対称性、空間における中心をきめた回転の対称性、直線状の等速運動の対称性は相対性原理を生み出した。
D 過去と未来ー可逆と不可逆過程 : 物理法則は時間の平行移動でも成り立つかというと、これまでのところ過去と未来の区別は見当たらない。重力、電磁気、粒子崩壊などは可逆的である。非可逆の現象を見ると、摩擦による運動量の減少、偶然が引き起こす拡散現象を元に戻す手は無い。分子の衝突のような自然界の不規則な作用は、非可逆現象である。秩序から無秩序への移行も非可逆である。
E 確率と不確実性ー量子力学の誕生:  科学の歴史とは、単純な経験に基づく直感が自然現象を解き明かしてきた。ところが物理法則は最近直感から遠ざかってきた。相対性理論も狐につまされた類の人を食った話である。自然界の理解では直感に頼る部分が少なくなり、原子のような目に見えない世界にはまさしく存在する物を理解するために想像の翼を伸ばさなければならない。光は光学(レンズ)の世界では光線というように粒子の動きのように理解されていた。しかし光は電磁波であり波の性格を持っている。2つの孔を潜り抜けた、粒子、波、電子の様子を示したものである。粒子では確率分布の和として、波では干渉縞として、電子ではひとつの孔では確率分布として、2つの孔では干渉縞が現れるという話である。電子は粒子の様でもあり、波の様でもあり同時に二つの顔を持つことを「ハイゼンブルグの不確定性原理」という。
F 新しい法則とはー高エネルギー物理学の混沌 : 1970年以降の高エネルギー物理学(昔でいうと素粒子論)が著しく進展し、素粒子が数百個も現れて「素」という言葉が意味を成さなくなった。今ではクォークという言葉で整理されている。それについては南部洋一郎著 「クォーク」(講談社ブルーバックス)に整理して書いてある。原子を形づくっている材料としては電子、中性子、陽子、光子、クラヴィトン、ニュートリノ、ミュー粒子、ミューニュートリノ、反粒子、中間子、ラムダ粒子、シグマ粒子・・・など4ダースの種類がある。これだけの粒子があり、幾つかの物理法則をすべて取り入れて計算すると物理諸量が無限大になるという矛盾が生じるようになった。そこで編み出されたのが「くりこみ理論」(朝永振一郎、ファイマン教授らがノーベル賞を受賞)である。
G ノーベル物理学賞受賞講演「量子電磁力学の発展」 :最終的な形の理論を矛盾無く教科書風に解説するということではなく、ファインマン教授の研究者生活の開始からノーベル賞受賞にいたるアイデアの経過を述べている。ノーベル賞受賞理由のひとつである「繰りこみ理論」とは、数学的手品で難点を隠すだけのことで物理的にはいまだに分らないとファインマン教授に白状されてまたびっくりするだけである。ファイマン教授はいかにもアメリカ流の実用主義で、役に立たない哲学(物理像、モデル)よりは直感的(証明はあとまわし)数学方程式の提案に終始してきた。うまく難点をクリアーできる方程式が見つかれば、そして色々検証して矛盾が少なければそれで大成功という。量子論への移行において作用積分Sをラグランジアンの積分であればハミルトニアンを組み立てて量子力学を作ることが出来るだろうという企てである。数学的ひらめきはディラックの数式の援用でAexp[iε/h L]を用いることでシュレージンガー方程式が出てきた。ラグランジアンと量子力学の橋渡しができた。作用積分を解して量子力学とつながったのである。これが量子電磁気学への貢献というノーベル賞受賞理由である。

1) ファインマン氏の年譜
* 1918年5月11日: ニューヨーク市クイーンズのファーロッカウェイという小さな海辺の町のユダヤ人家庭に生まれる。2歳頃から驚くほど多弁な子になり父親が購入した大英百科事典をむさぼり読む。父メルヴィルの生業はベンダー・アンド・ゴールドシュタイン社の制服販売業。
* 1918年 - 1935年: ファーロッカウェイに居住。 息子を科学者にしたいと考えていた父親は、幼いファインマンに自然科学の面白さを熱心に教え、一方ではユダヤ教の日曜学校に通わせヘブライ語まで習わせた。
* 11歳か12歳のころ、ラビ達が言っていたユダヤ教の奇跡を少年なりに強引な解釈をして理解、納得に努めていたが、死にゆく登場人物の回想シーンという説話に整合性が見出せなかったリチャード少年は大泣きしてしまう。驚いたラビは「これは作り話なんだよ」と説明するが、これをきっかけにファインマンの宗教嫌いが決定的なものになり無神論を大っぴらに標榜するようになった。
* 11歳か12歳のころ、自宅に「実験室」を作り、色々な実験をして遊ぶようになった。特にラジオには大きな関心を示し、壊れた古ラジオを直すなどの特技を持つようになった。これが評判となり、大人が子供のファインマンにラジオの修理を依頼することが度々あった。化学と数学は高校まで学年でトップの成績であった。
* コロンビア大学を受験したが、当時アイヴィー・リーグを中心に設けられていた「ユダヤ人学生上限枠」のため不合格となったため、MITに進学することになった。
* 1935年 - 1939年: MIT(マサチューセッツ工科大学)で物理学を学ぶ。 MITを卒業した1939年の夏休みの間、プラスチックに金属メッキをするメタプラスト社にアルバイトで入り、それまでよりはるかに多くの種類のプラスチックにメッキできるようにしたり、何時間も掛かっていた作業をたったの5分に短縮するなどの才能を発揮した。ファインマンが化学においても優れた知識とセンスを持っていた証拠である。
* 1939年 - 1943年: プリンストン大学の大学院生となり、ジョン・ホイーラー教授の助手を務める。 1941年: 最初の妻アーリーン・グリーンバウムと結婚する。ホイーラーの勧めにより、電気力学の量子論についてのゼミをすることになったが、ゼミの前評判を聞きつけてユージン・ウィグナー、ヘンリー・ノリス・ラッセル、フォン・ノイマン、パウリ、アインシュタインなどのそうそうたるメンバーが出席した。原子爆弾開発プロジェクトマンハッタン計画への参加を持ちかけられ、当初は断ったが、ヒトラーが原子爆弾を先に開発する恐れがあると思い直し、結局この計画にたずさわることになった。このため自分の研究をしばらく諦めて、しばらくはプリンストン大学内でこの計画に協力した。最終的にはロスアラモスに行くことになったが、行く直前に6週間休暇をとって電磁波の先進波についての博士論文を書き終え、博士号を取得。
* 1943年4月 - 1946年11月: ロスアラモス国立研究所に移ってマンハッタン計画の任務を遂行。理論グループに所属していたが、下っ端の雑用からテネシー州オークリッジにあるウラン濃縮工場の視察、および、計算機を使った膨大な計算等々、様々な任務に携わった。
* 1945年: 妻アーリーンが結核で亡くなる。
* 1946年11月6日 - 1951年: コーネル大学の教授。 1947年の夏ブラジルで過ごす。1951年の半年間ブラジルに滞在。
* 1951年 - : カリフォルニア工科大学の教授 1951年末: 2週間ほど日本訪問。2回目の結婚、しかしすぐ破局。
* 1953年: 国際理論物理学会 東京&京都で来日。
* 1959年: 3回目の結婚
* 1965年: 量子電磁力学の発展に大きく寄与したことにより、ジュリアン・S・シュウィンガー、朝永振一郎とともにノーベル物理学賞を共同受賞した。
* 1972年: エルステッド・メダル受賞。
* 1978年: 腹部の癌の1回目の手術を受ける。
* 1979年: アメリカ国家科学賞受賞。
* 1986年: この年の1月28日に起きたチャレンジャー号事故に際しては、調査委員の一人として事故原因の究明に参加。
* 1988年2月15日: 午後10時34分UCLA医療センターで癌により死去(69歳)。

2) 本書に書かれたファインマン氏の逸話
* ファインマンが生まれる前、父親は母親に向かって「もし男の子が生まれたら必ず科学者になるぞ」と予言した。父親は「身分」なんぞというものに決して頭を下げないという考え方があった。このため、法王だろうが皆と同じ人間であり「違うところは着ているものだけさ」とファインマンに言い聞かせていた。また、父親はセールスマンではあったが、人間は嘘をつくよりも正直でいた方が結局は成功するという信念があり、これらの考え方はファインマンが受け継ぐようになる。 また父親は物理や科学の知識を持っていたわけではないのだが、子供の「なぜ?」という質問に対して説得力のある説明を与えることが得意だった。後にファインマンは「"本当にわかった"と思うのは、物事に二通り以上の説明ができた時だ」と語り、自身優れて分かりやすい説明能力で人気を集めたが、こうした姿勢も父親から受け継いだものである。科学的知識は大した事は無かったが、何故こうも特別興味を持っていたかについては兄妹共に常々疑問に感じていた。父は科学的素養があったがそれを学ぶ機会が無かったのではないかと推察している。
* ひとたび物理のこととなると没頭してしまうので、相手が誰であるかなど忘れてしまい、どんな大物であろうとも意見が変だと思えば『いや、違う、違う。君は間違っているぞ』とか『気でもふれたか(You must be crazy.)』などと、とんでもないことをつい言ってしまう癖があった。しかしロス・アラモス研究所に在籍中、ハンス・ベーテや、当時物理界の大物として知られたニールス・ボーアは、彼らの名声におののいて本音を言おうとしない周囲と相対して本音しか言わないファインマンを気に入り、個人的な相談相手として起用していた。ファインマンの喋るクイーンズやブルックリン辺りの英語は、知識層とはかけ離れた労働者階級が喋るような野卑な言葉遣いであった。当人は気にもかけてないが、他学者の気分を害するような下卑た表現であり、「するってぇと」「そりゃ全くとんでもねぇ考えだぜ!」「驚いたぜ!(hot dog!)」というような下町言葉を用いて、目上も目下も関係無く率直に自分の感想を述べていた。スウェーデンの百科事典出版社がボンゴを叩くファインマンの写真を掲載したい旨を打診すると「物理学に対する明らかな侮辱である。"くそったれ!"」と返信した。
* 何につけても自分が正しいと思ったことは実証しなくては気が済まない性格だった。あるとき大学のフラタニティ(私的な集団)と、小便は重力によって体から自然に出てゆくのかどうかという議論で喧々囂々となり、ファインマンが逆立ちして小便できるところを見せ、そうでないことを実証した。
* 不誠実な態度、特に科学者自身が科学に対して不誠実な態度をとることにはとても厳しい態度を示した。例えばカリフォルニア工科大学のある年の卒業式での講演ではカーゴカルトサイエンスと題して、科学者が自身の思い込みや過去の結果に囚われて、それと異なる結果や他者の意見がでてもそれを無意識に無視したり軽視する態度を、電子の電荷測定結果の歴史的経緯やネズミの行動に対する実験とその反応など、実例をいくつか挙げてとても強く批判している。また、ある天文学者が「自分の仕事が世の中に役立っているような説明をしなければならない」と言ったことを挙げて、これこそが自分自身を偽る不誠実な態度であると断じている。トンチンカンな結論しか出せない哲学も嫌っていた。ユリ・ゲラーに招待されて彼の泊っているホテルに出かけていったとき、読心術と鍵を曲げる術の実演を見せてもらうことになった。ところが、ファインマンの心を読みとることはまったくの失敗に終わり、また、ファインマンの息子が持っていた鍵をゲラーがいくら指でこすっても少しも曲がらなかった。するとゲラーは、水の中でこすると曲がりやすいと言い出し、洗面所で水をザーザーとかけながらこすったが、やはり少しも曲がらなかった。
* 打楽器ボンゴの名手であった。サンフランシスコのバレエ団の公演でパーカッションを担当したり、彼が音楽を担当した創作ダンスがパリで行われたバレエの国際コンテストで2等を取ったりしている。
* ロスアラモス国立研究所所属中は、ユーモアで様々なイタズラをしたと著書の中で語っている。まず研究所で行われた機密保持目的の検閲に対して不満を抱き、妻(アーリーン)や両親との手紙でのやり取りをパズルにして検閲官を困惑させ、からかった。また内容よりもその機密性にばかり気を使う上司が気に入らず、ある日重要機密書類の入ったキャビネットを趣味の金庫開けの技術で破ってみせた。その上司がキャビネットを新しいものに変えるとすぐさままた金庫破りを繰り返し、機密への固執に対する無意味さを逆手に取ってその上司をからかった。他にも無意味に時間をかける施設の入り口の検問に嫌気がさし、地元の労働者が出入りに使っていた金網の穴から短時間の間に何度も入っては同じ検問を内側から何度も出て警備の無意味さをからかったが、結局警備員に捕まってお説教をされている。 鍵開けについては、同一形式のナンバー式ロックのキャビネットを片っ端から試したところ、約半数が工場出荷時のデフォルトのナンバーで開いてしまった。
* 兵役に就く際に行われた精神鑑定の結果、「精神異常」のため不採用になった。これは彼が元々精神科医というものが嫌いで、鑑定医の質問に少々いたずら心を持って応対したためと思われた。が、後日いたずらを懺悔する文を提出したところがすでに遅く、「健康不良」のため兵役免除となった。
* ノーベル賞受賞の知らせの電話が朝の3時半前後にかかってきた事に腹を立て、賞を受けるかどうかも言わず、「今眠いんだ」とだけ言い放ち、すぐに電話を切ってしまった。その直後から次から次へと電話がかかってきてうんざりし、ノーベル賞を受けなければこんな目に遭わずに済むのかと考えて受賞を断ろうと考えたが、断った方が余計ことが大きくなると『Time』誌の記者に諭されて、受け取ることにしたという。
* コーネル大学の教授時代、原爆開発の反動で研究意欲を失っていた。その間も来るいろいろな研究所や大学からのオファーにストレスを感じていたが、あるとき「自分は遊びながら物理をやっていこう」と決心した。その頃たまたまカフェテリアに居合わせた男性が皿を使ってジャグリングしている場面に遭遇、皿が回転するときは横に揺れている事に気づき、その運動を解明するために、皿を構成する質点の運動をすべて計算するなど単なる好奇心から計算を行った。そのときは全く意味がなく、ただの「遊び」でニュートンの法則だけを用いてその事象の計算を行い証明した。その計算をベーテに披露するも「それが何の役に立つんだ?」と訝られ「だけど面白いだろう?」と答えるとベーテも得心した様子だったという、結果としてその時の洞察が基になって、後々ノーベル賞を受賞する布石になる。
* カリフォルニア工科大学の同僚であったマレー・ゲルマンとは強力なライバル、論敵関係にあった。ゲルマンが命名したクォークのことをファインマンは「パートン」(部分子)と呼び、「ファインマン・ダイアグラム」のことをゲルマンは「ステュッケルベルク図」と呼んでいた。
* シカゴ大学で研究所の所長を務めていたエンリコ・フェルミが他界した後、その後任として就任の要請が来たが、カリフォルニア工科大学の環境の良さを気に入っていた為に待遇も聞かずに断った。後日にその給料が知人から知らされたが、その高さに驚き、逆に断ってよかったと懐古している。物理に関係の無い雑事に関わることを酷く嫌がり自らを「社会的無責任論者」と称し、秘書ですら「胸がすくくらい、好条件の要請や招聘を殆ど断っていた」と感嘆していた。結果、30年余りに渡ってキャルテクに在籍、教鞭を取り研究に没頭出来る環境で過ごした。
* フリーマン・ダイソンは英国の両親に宛てた手紙の中でファインマンの事を「半ば天才、半ば道化」と評して、事実ファインマンの一般的イメージも「自由奔放で愉快な天才科学者」で認知される。ただダイソンは自分で軽々しく形容したファインマンに対する上記の第一印象を後々酷く後悔している。正しくは「完全な天才、完全な道化」。
* 可愛い娘には目がなく、女性の心理を色々と研究して、どのようにすれば女性にモテるかをよく知っていたし、実際よくモテた。カリフォルニア工科大学で教鞭を執っているときはほとんど毎日のように自宅近くのストリップバーに通っていて、ダンスを眺めたりダンサーの気を引いたりしていた。また、ラスベガスが好きだったが、その理由のひとつもダンサーに会えることだった。
* ファインマン・ダイアグラムがそこかしこに描かれたマスタードカラーのバンに乗っていた(ナンバープレートはQANTUM:ナンバープレートの文字数制限(6文字)のため)。このバンは現在カリフォルニア工科大学に寄贈されている。
* 物理学会で初来日した際はわざわざ日本語を(片言ながら)覚えてきている。また、日本式のホテル(旅館)に興味を持ち、和式の旅館に泊まりたいと主催者に無理を言って泊まらせてもらった。別の機会に来日した時にも、とあるリゾートホテルから三重県の山側にある町の小さな宿屋にわざわざ変えてもらったりした。
* 海産物が大嫌いで、一度カキを試してみたが、あまりの不味さに耐えられなかったという。ただし来日した際に食べた魚は美味しかった(新鮮で生臭くなかった)ので食べることができたが、帰国してから魚料理を食べに行ったらやはりまずかったと語っている。魚の腐敗臭g嫌いだったようだ。
* 3度の結婚を経験した。最初の妻(アーリーン)とは結核により死別、2番目の妻(メアリ・ルー)とは離婚。最終的な家族には3番目の妻のグウェネスのほか、実の息子にカール、後に養子として迎えたミシェルがいる。カールは幼い頃から父親同様に数学に多大な興味を示したが、同じように生活してきたはずのミシェルは全く興味を示さず、ファインマンはその違いに驚いた。
* NASAのチャレンジャー事故調査委員になるべきかどうか悩んでいたとき、夫人のグウェネスに、12人の調査員はみんなでぞろぞろ連れ立って、色々な処を調べるが何も見つけられないけど、あなたが行けば、ひとりで飛びまわって、ひとの考えないようなことを調べ、きっと事故原因を見つける。あなたみたいなやり方のできる人は、他にはいないから」と諭され、委員になる事を決意したと話している。
* 晩年、友人との談話中にたまたまソ連の「クズル」(現・ロシア連邦トゥバ共和国)という地を知り、どうにかして訪れたいと、何年にもわたって交渉を重ねていた。肝心の理由は「変わった地名だから」というものであった。
* 理論物理学の分野で八面六臂の活躍をしたファインマンであったが、一度「故障」を起こしている。1984年IBM社製パーソナルコンピュータの購入でパサディナまで出かけた時、興奮のあまり歩道の段差に躓きビルの壁面に頭部を打ち付け大量出血、通行人に病院に行くよう促されるも大したことはないと自己判断。後日、庭先にある車を探すのに45分も費やしたり、深夜に突然起きて息子の部屋を通り抜けたり、講義内容が支離滅裂になっている事に気づいて謝罪するなど奇妙な挙動を起こすようになる。脳走査の結果、脳組織を圧迫するほどの大量の硬膜下出血をし、手術以前3週間の記憶は欠落したままであった。
* 生涯を通じてユーモア溢れる語り口で有名であったが、それは死に際まで変わらず、最後に口にした言葉は"2度と死ぬなんて、まっぴらだよ。全くつまんないからね(I'd hate to die twice. It's so boring.)"であった。
* 彼の3癖というか悪趣味は、パーカッション打ち、絵描き、暗号解読、錠前明け、女遊びなどである。
* 彼が幼少の頃に過ごしたファーロッカウェイのコーナガ・アベニューは、彼にちなみ2005年5月11日にニューヨーク市により『リチャード・ファインマン・ウェイ』と改名されている。



読書ノート・文芸散歩に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system