160322

吉田千亜著 「ルポ 母子避難ー消されゆく原発事故被害者」 
岩波新書(2016年2月)

子供を守るため自主避難した原発事故被害者への、住宅供給政策と生活支援策の切り捨て

東電福島第1原発事故の直後から、子どもに対する目に見えぬ被曝を恐れて避難した人々のことを「自主避難者」と呼んでいるが、その人々は「原発事故後に、政府の支持もなく非難した自分を、誰が避難者として認めてくれるのか」という不安を抱えて5年間他府県で避難生活を余儀なくされている。「国会事故調報告書」を読むと、この事故の最大の要因は人災であったことを告発している。そして原発事故にまつわる不条理は、事故から時間がたつほど増え続けている。「自主避難」という言葉は「強制避難」に対しての言葉である。政府の指示によって強制された避難ではなく、「自らの判断で避難」したことであるので、「勝手に避難」したというニューアンスにとられて、支援対策の上で区別・差別されることになるので、むしろ「避難指示区域外避難」というべきであろう。またここで問題とされる被曝とは低線量被曝のことで後年になってガンなどの障害が発生する可能性がある被曝であり、原発関係者や核燃料作業者、原爆被害者のように直ちに生死にかかわることではない。事故直後から時の枝田官房長官はテレビで「直ちに生死にかかわる事ではありませんので・・・」とお念仏のように繰り返していた。だから安心できることではなく、「パニックに陥らず冷静に対応してください」と言いたかったのだが、はたして官房長官にどれほどの知識があっての発言なのか、政府から避難指示が出る前に、放射線プルーム(風向き、気流)によって飯館村のようにすでにかなりの高濃度被曝していた地域もあった。「自然放射線」とは福島県では0.03μSv/hr程度であり、その数十倍―数千倍の濃度の線量を被曝することある。避難指示のあった区域とそうでない区域では、国による支援施策や東京電力の賠償で明確に分けられている。避難区域と賠償内容は以下に示す。
@ 帰還困難区域 年間積算線量50mSv以上の区域(双葉町・大隈町の大部分、浪江町・富岡町・飯館村・葛尾村・南相馬市の一部) 避難慰謝料月10万円 帰還不能・税活断念加算700万円
A 居住制限区域 年間積算線量20−50mSvの区域(飯館村の大部分、大熊町・浪江町・富岡町・川内村・葛尾村・川俣町・南相馬市の一部) 避難慰謝料月10万円(解除後1年まで)
B 避難指示解除準備地域 年間積算線量20mSv以下が確実となる地域(南相馬市・楢葉町・葛尾村・双葉町・大熊町・浪江町・富岡町・川内村・田村市・飯館村・川俣村の一部) 避難慰謝料月10万円(解除後1年まで)
C 自主的避難等対象区域 県北(福島市など)・県中(郡山市など)・相馬市・いわき市  避難慰謝料+生活費増加 子ども・妊婦48万円 避難68万円 そのほか大人8万円 雑費4万円
国の自主避難者対策の問題点は、第一に自主避難者の数を国は正確には把握していないことである。福島県は独自に自主避難者を調査したが、それも公表されていない。福島県以外(宮城県、茨城県北、栃木県北など)で自己申告していないとカウントもされない。第二の問題は、政府・福島県は「復興加速化」という名の下で、避難者の切り捨て(分母切り)を始めている、2015年6月福島県は「2017年3月末で自主避難者の借り上げ住宅の提供打ち切り」を発表した。約9000世帯、2万5000人が対象となる。これに対する抗議を受けて県は、引っ越し費用の負担や、2年間程度の一部居住費補助を決めた。原発事故から5年経って強制避難者や自主避難者の「強制帰還」、「強制退去」が行われようとしている。5年かかってようやく積み上げた暮らしが奪われ、「被曝を避ける権利」さえ奪われるのである。自主避難は夫を福島に残して母子避難した家庭のように、子どもの健康問題だけでなく、女性に大きな負担を強いるジェンダーの問題も色濃く含んでおり、母子家庭のような生活困窮化や家族の分散と別居生活を余儀なくさせた。

本書が取り上げた問題は主として自主避難者の借り上げ住宅の問題である。原発事故避難者、地震や津波被害者も含めて災害被害者の視点から見た行政の施策の問題点はいろいろ指摘されている。特に阪神淡路大震災と、東日本大震災の復興における住宅問題は深刻である。何度やっても経験が生かされているようには思えないからである。二つの大震災の住宅復興を取り上げた、塩崎賢明著 「復興災害ー阪神淡路大震災と東日本大震災」(岩波新書 2014年12月)から住宅供給の問題点を見てゆこう。東日本大震災では、死者1万5889人、行方不明者2609人にのぼり、その後の関連死は3089人で福島県が47%を占める。原発事故による最も過酷な移動と避難生活のために亡くなったからである。避難者は24.7万人、福島県の避難者は12.7万人となった(2014年8月、復興庁調べ)。住宅被害は、前回12万7390戸、半壊27万3048戸、一部損壊74万3599戸である。住宅復興を考えるうえで、東日本大震災の重要な特徴は、避難者が3年半を経てもなお24.7万人もいることである。住宅再建や地域再生は被災者の復興のかなめである。復興とは何か、誰のために何をするのが復興なのか、東日本大震災の復興政策を検証しよう。本書の半分以上をこの第2部に費やしている。本書の眼目は東日本大震災の復興施策の点検であって、阪神・淡路大震災復興はその導入役であったともいえる。復興の主体は「災害対策基本法」では、災害時の応急対策の第1次的責任は市町村にあるとしている。住民避難の指示を出すのは市町村である。政府は「緊急災害対策本部」を設置し、3月17日には「被災者生活支援特別対策本部」を置くことが決定された。4月11日には首相の諮問機関として「東日本大震災復興高層会議」が設置され、6月25日には「復興への提言」が提出された。6月20日「東日本大震災復興基本法」が国会で成立した。この法に基づき政府は内閣び「復興対策本部」を設置し7月29日に「東日本大震災からの復興の基本方針」を決定した。12月2日には「復興財源確保法」ができ、「復興庁設置法」が12月16日に成立し、翌年2月10日に復興庁が発足した。復興庁とはしっかりした官僚機構かと思われがちだが、トップは復興大臣ではなく総理大臣であり、関係各省の出先機関という縦割り行政を踏襲していた。つまり復興庁とは10年の期限付きの各省庁の綜合調整機関であったと言える。許認可権は各省庁が握っており、復興庁は窓口的な予算分捕り機能に過ぎないという批判がある。復興予算を検証しよう。東日本大震災の復興予算は、集中復興期間の5年間に19兆円、10年間で23兆円が必要とされたが、最初の2年間(2012年度)ですでに19兆円が配分された。この費用を賄うため2011年11月に増税法が可決され復興債で予算を組んだ。復興税により総額10兆6700億円の増税となった。企業の法人税の増税は2年(2013年)で切り上げてしまっている。2014年4月からの消費税増税を見込んだ処置である。この消費税は福祉に使われるはずであったが、もはやその約束も反故にされた。政府は2011年の第1次・第2次補正予算で約6兆円の予算措置を講じた。第3次補正予算9.2兆円を全省庁の(488事業)のチェックシートから仕分けすると(NHK番組制作チームによる)、@被災地向け6.8兆円 74%  A全国対象 2.1兆円 23%  B被災地以外 0.3兆円 3% である。全国対象事業とはそもそも通常予算で行うべきもので在って、被災地向けに確保された復興予算を使うべきではない。これを便乗型予算流用と呼ぶ。復興法制の目玉として「東日本大震災復興特区法」(2011年)がある。法は次の3つの部分からなり、@復興推進計画では大規模な規制緩和、税制上・金融上の特別措置、A復興整備計画では国交省と農水省が所管する土地利用の認可手続きの簡素化・ワンストップ化、B復興交付金では被災地自治体の自由裁量部分が大きい交付金財源制度である。「借地借家法」(1991年)の特別法である「罹災地都市借地借家臨時処理法」(1996年)が阪神淡路大震災後に制定された。これは私人関係法であり、「優先借家権」、「優先借地権」、「借地権優先譲受権」からなるが、高額の権利金を支払う必要から阪神淡路大震災では実現した例はなかったという。むしろ借家人は権利を放棄し地主から解決金を得る形で解決した。こうして東日本大震災でも罹災法の適用は見送られた。マンションの建替えについては「マンションの建替えの円滑化などに関する法律」(2002年)があるが、2重ローン問題から合意を得るハードルが高く東日本大震災後では「解消」という形に進む例が出た。津波で被害を受けた零細事業者に対する産業支援復興法は無いに等しく非常に冷たい。政府系の金融機関による融資という仕組みしかなかった。むしろ災害で貸出債券が一気に不良債権化して地元の金融機関も深刻な打撃を受けた。そこで地元金融機関に対する資本注入の緩和のために「東日本大震災に対処して金融機関などの経営基盤の充実をはかる特別措置法」(2011年)が制定された。そして「産業復興機構」、「事業者再生支援機構」による債権買取が図られ、「東日本大震災事業者再生支援機構法」(2011年)が制定された。 2011年東日本大震災復興構想会議は2011年6月に「復興への提言」を取りまとめた。しかしこの提言には、被災地の復興の主体が被災者である視点が欠如していること、産業界による都市型復興の視点しかないことなど、「人間の復興」という基本理念が見られなかった。東日本大震災で崩壊したものは、防災神話と原子力安全神話であった。公共工事業界と原子力村の共同幻想がもろくも崩壊したのだ。回復すべきは人間とコミュニティの視点である。災害便乗型資本主義はもうこりごりである。なぜなら経済恐慌と同じく、同じ過ちを何回も繰り返すからである。

つぎに東電福島第1原発事故の被災者の生活の復興政策について、日野行介著 「福島原発事故被災者支援政策の欺瞞」(岩波新書 2014年9月)によって見てゆこう。2012年6月21日に成立した民主党政権時代の議員立法「子ども・被災者生活支援法」がある。支援法の特徴は「年間20ミリシーベルト」を下回るが、「一定の基準以上の放射線量」が計測される地域を『支援対象地域」と名付け、避難・残留・帰還のいずれを選択しても等しく支援するとした点である。しかし内容や基準はすべて政府(官僚)にお任せという法案であった。無視することを含めて、骨抜き、趣旨変更も自由自在というあまりにお粗末な議員立法だったという矛盾が内在していた。そして政権交代で2012年12月自民党が政権に復帰すると原発事故対策自体が大きく変更され、原発再稼働に立った原子力行政が主流となった。 その仕組みは、一定の基準以上の被ばくが見込まれる地域を支援対象地域とし、住民が避難・滞在・帰還のいずれを選んでも等しく支援することである。この法は理念だけの法で、一定の基準となる被曝線量や、支援対象地域はどこか、何を支援するかという中身を決める「基本方針」の策定は復興庁に任された。ところが制定から1年もたつのに、基本方針は示されなかった。被災者の支援法に対する疑念が燃え広がった。復興庁が発表した基本方針案では、一定の基準は示さず、避難指示区域周辺の33市町村に限定し、盛り込まれた119施策(ほとんどは他の法で実施中)のうち、自主避難者向け支援は4つに過ぎなかった。復興庁は2012年8月より避難者に足して意向調査を行ってきた。選択肢から選ぶ調査法にはおのずと誘導がつきものである。世論調査と同じ思惑が仕組まれている。その時点では戻りたいとも戻らないとも判断がつかないが30−40%を占めていた。戻りたいという意見が上位を占める自治体はなかった。帰還に必要な情報としては、放射線量の低下、社会インフラ復旧のメドが一位で、帰還しない人の理由の第1は放射線量に対する不安が一位であった。もともと何ミリシーベルト以下という基準については設問を避けていた。原子力規制委員会の田中俊一委員長は、2013年8月28日「帰還に向けた安全・安心対策に関する検討チーム」の設置を決めた。3月の原子力災害対策本部会議の要請を受けた形である。しかし規制委員会の委員からは「これは規制委員会の役割から踏み出した内容である。規制機関が安全安心の広報活動を行うのはいかがなものか」という批判が出た。検討チームはたった2ヶ月で恥ずかしくも最終提言をまとめた。そしてその提言とは、20ミリシーベルト以下になった地域の避難解除を妥当と結論付けた。個人線量計を重視することなど最初からの政府の方針通りに決められていった。このような提言に手を貸した田中規制委員長の政治的立場は明確となった。これでは政府の宣伝マンであり、原発再稼働認可のはんこを次々押してゆくことだろう。早稲田大学辻内准教授の「深刻さ続く原発被災者の精神的苦痛」と題する調査研究がある。東京都と埼玉県への避難者と福島県内の仮設住宅に住む避難者に対する2012年と2013年のアンケートを2回実施した。2012年度は490回答/1658世帯、2013年度は499回答/4268世帯であった。この調査で避難者は心的ストレス障害PTSD症候が極めて高いことがわかったという。避難解除に当たって許容できる年間被ばく量を尋ねたところ65−70%の人は、追加線量ゼロか1ミリシーベルト以下を選んでいる。政府避難基準の20ミリシーベルト未満を選んだ人はわずか2-6%に過ぎなかった。専門家は住民に線量基準を聞くことは避けているが、知識を与えるという尊大な態度の裏返しに住民をモルモット視しているためで、住民は明確に新たな線量負荷を拒絶している。元に戻せと言いているのであって、どこまでなら辛抱するではないのである。2013年10月放射性医学総合研究所と原子力機構は、避難指示のあった6自治体の調査を7月ごろから行ってきたが、特に解除の近い田村氏と川内村に絞って測定―データを中間報告という形で復興庁支援チームに提出した。ところがこの報告書は公表されていない。なぜかというと、住民の関心が強すぎて結果が思わしくないのでとても出せなかったというのが実情であろう。一番情報を知りたかった人(田村市の帰還住民)には知らせなかったのは許せないという批判が相次いだ。「自らの誤りは決して認めず(官僚無誤謬性の原則)、批判する報道は許さない(知る権利・批判する権利の制限)」という戦前の官僚体質がそのまま維持されている。田村市に続いて、川内村は4月には役場機能を川内村に戻したが、2013年8月1日現在帰還者は1666人/全住民3000人にとどまっている。川内村内は避難指示解除準備区域と居住制限区域が混在する村である。川内村は帰還に向けた準備宿泊が何回か行われたが、だいたい対象者の1−2割の参加率であったという。2013年8月17日政府は川内村東部の避難指示を解除すると決定した。

次に、福島原発事故直後、ベント開放によって高濃度の放射線が大気の流れに乗って北西方面の飯館村を襲った。その時点では被曝予想システムSPEEDIは発生源インプットデーターがないため動作しなかった。その時飯館村のほとんどの住民は被曝し、強制避難を余儀なくされ、避難生活に入った。千葉悦子・松野光仲著 「飯館村は負けない」(岩波新書 2012年3月)には、飯舘村は福島第一原発の北西部にあり、村の地域の殆どは原発より30Km圏外にあったが、3月11-15日の原発の爆発に伴う高濃度放射能プルームが南東の風に乗って飯舘村を襲い、4月11日に「計画的避難地域」に指定され、国の管理下に入った。そして6月には全村民避難となった。8月上旬には村民の避難は完了したが、2世代、3世代家族は仕事、狭い住居、子供の教育問題でバラバラにならざるをえない。仮設住宅や公営宿舎に入れたのは3割にとどまり、約7割の村民は県の民間借り上げ住宅に散在することになり家族の絆や村の絆を失った。村は復興に向けて日夜奮闘して入るが、村が最初掲げた「2年で帰村」ははたして可能なのだろうか。本当にあのような高濃度汚染地区に人が帰ることが出来るのだろうか、国の除染対策が遅遅として進まない中で村民の不安は増すばかりである。このような計画的避難地域の全村避難徒いう現実では、「反原発・脱原発」という問題意識だけでなく、今これからをどう生きるかという、ひとりひとりの生活再建が前面に出てくる。 飯舘村は1ヶ月で避難しろという指示に対してなかなか従おうとはしなかった。それはこれまで取り組んできた村づくりを無にしたくない思いと、その経験が生んだ強い根性にあったようだ。飯舘村は上の放射線汚染地図に見るように、福島県浜通りより北西部に位置する。阿武隈山系の北部にあるため、75%は林野が占める山間の村である。気候は年平均気温10度前後で寒さが厳しい。冷害が度々襲い、近年では1980年と1993年の大冷害が記憶に新しいという。村は1956年の合併(飯曾村と大舘村)以来、比較的霜害の少ない畜産の振興を進め「飯舘牛」のブランドを確立した。人口は合併時1万1403人であったが、2010年には6588人に減少し、高齢化率は29%である。村の基幹産業は農業で主要産物は米、畜産、葉タバコ、野菜、花卉である。2005年の就業人口比率では1次産業が30%、2次産業が39%、3次産業が31%である。世帯数でいうと農家が70%である。村おこしは、国の言葉でいうと1983年から10年間の「第3次総合振興計画」(第3次総)から始まる。新たな産業振興策として肉用牛を主とする畜産と高冷地野菜の振興を打ち出した。1984年から村営牧場を興し「ミートバンク」事業となって、「飯舘牛」のブランド化と会員制牛肉宅配便をおこなった。このなかで地域づくりへの取り組みは「夢創塾」結成へ繋がった。ここから村長や村議員が誕生した。1989年「若妻の翼」という海外研修が実施され、農村主婦の自立と活性化につながった。竹下内閣の「ふるさと創生1億円」事業には、飯舘村は「農村楽園基金」として、「人つくり」、「地域づくり」、「景観づくり」を推進した。2011年 4月11日コンパス規制に拘っていた国は避難基準の見直しを行い、年間積算被爆量が50ミリシーベルトから20ミリシーベルトに切り下げて、飯舘村は「計画的避難区域」となった。村では13日ー16日に村民への説明会を開き、牛をどうする、設備移転はできるのかなどの意見がでたが、17日枝野官房長官は村を訪れ、時間がかかっても全村避難を促した。国からは補償の約束は一切なく、4月22日村は計画的避難区域に指定され、何をするにも国の許可が必要となり国の監督下に入った。4月26日「愛する飯舘村を返せ!村民決起集会」が開かれ、5月25日村で最後の「村民の集い」が開かれた。4月25日村は川又町と共同で首相への10項目の要望書を提出した。特例として、被爆量を村が管理するとして村内の8つの事業所と特老施設の継続を認めさせた。村への人の出入りは許可されているので、村としてはセキュリティ対策として「いいたて全村見守り隊」を組織し、雇用対策も兼ねて8億円の事業費を充てた。また村民が避難先で行政サービスを受けられるように2つの住民票を総務省に要望した結果、8月に「原発避難者特例法」が制定され、避難自治体に行政サービスの実施を義務付けた。農村として除染・土壌改良は第一の要望である。9月には村は「飯舘村除染計画書」を国に提出した。住環境として年間1ミリシーベルト以下に、農地は5年以内に放射性セシウムを土壌1Kgあたり1000ベクレル以下にするとし、その費用は3000億円を要望するものであった。村民の避難は、緊急度の高い1041戸の第1次避難が5月中旬から始まり(避難済み285戸、自主避難531戸)、福島市に230戸の仮設住宅を建てたりしたが、バラバラに分散した避難となり6月22日には終了した。 本書は震災1周年を期して出版されたが、避難生活は始まったばかりで、仮設住宅と借り上げ住宅に住む村民の軋轢、県外避難者の疎外、村行政と村民の不満に亀裂が深まり村は存亡の危機に直面している。賠償金と村を売り払って新たな大地で生活再建を求めようとする人々も増えてきている。放射線汚染が短時間で収まるはずもなく、帰村できるまでに何年かかるか誰にも分からない期待を抱き続けても生活が出来ないので、早く生活できるように一人ひとりの復興を図らないといけない。農村の基盤を失った村民が都会で一労働者になれるか、農民として復活したい、そして国は飯舘村の高濃度汚染地区を「棄村」するかもしれないという葛藤が毎日繰り返されている。

1) 原発事故直後から避難までの恐怖

さて上記の3冊は、避難者(自主・強制避難者)の住宅問題、福島原発事故被災者支援政策、福島原発事故計画的避難地域飯館村の生活再建問題を論じてきたが、本書、吉田千亜著 「ルポ 母子避難ー消されゆく原発事故被害者」(岩波新書2016年2月)は東電福島第1原発からかなり離れた避難地域に指定されなかった場所ではあるが、子どもの低線量被曝を恐れた人々が自主的避難(避難指示地域外避難者)した場合の問題点、おもに母子避難をルポ的にまとめられた書である。2011年3月11日午後2次46分マグニチュード9の大地震が東日本(東北地方)を襲った。地震に因る津波がいわき市海岸線に到着したのは午後3時39分のことである。津波による冠水で東電福島第1原発(もちろん第2原発も含めて)の原発4基は海水冷却機能を喪失し、暴走状態に陥った。そのことは原発周辺の住民の誰が知らなかった。夕方NHKが福島第1原子力発電所で2機の原子炉の冷却機能が停止したと伝えた。枝野官房長官が記者会見を始めたのが7時半のことであった。午後9時頃政府は「原発から半径3Km圏内の住民には避難を、半径3-10Kmの住民には屋内避難を呼びかけた。状況は刻一刻悪化していた。冷却停止から3時間で炉内の水はなくなり、燃料棒のメルトダウン(溶融)、次には反応容器の底に落ちた燃料によるメルトスルー(原子炉の破壊)が起きていた。原子炉によって緊急対策の状況が異なるが、それは午後8−12時のころと思われる。1号機から3号機(第4号機は運転停止中)は冷却機能を失い、第1号機の圧力容器の圧力が上昇し、ベントから放射性物質が外部に漏れ出ることが予想さた。避難指示の範囲は半径10Km圏内に拡大された。しかし12日早朝には原発に最も近い浪江町、高瀬地区で15μSv/hr(平常時の約500倍)の空間線量を記録した。午前10時には双葉町で32μSv/hrがモニタリングポストで記録された。1号機のベント(圧力逃がし弁)が行われ、午後2次40分には双葉町で4600μSv/hrが記録された。これらの放射線量のデータはメディアは報じてはいない。12日午後3時36分1号機の原子炉建屋が水素爆発をした。12日夜には避難指示は第1原発より半径20Km圏内に拡大された、第2原発でも半径10Km圏内の住民に避難指示が出た。第1号機の爆発後第1原発敷地内では1015μSv/hrが記録された。この章でルポはいわき市北部に住むある家族の避難経過を伝えている。孫の被曝のことが心配で、3月12日夕方親戚全員10名は最初は第1原発から30Km離れたいわき市南部の親戚の家に避難した。14日朝、娘夫婦と子供の3人と妊娠中の妹さらに遠くへ避難させることを家族で話し合って決めた。その日の午前11時第3号機の原子炉建屋が爆発した。14日午後1時過ぎ第2号機の冷却装置も停止した。燃料棒のメルトダウンの危険が迫った。15日午前6時10分第2号機化や衝撃音と黒煙が噴出し、大量の放射線もれが発生した。午前9時38分には運転停止中だった陀4号機からも出火した。これは3号機から漏れ伝わった水素による出火であった。家族は一般道で茨城県北部を経て埼玉県を通過し、静岡県の親せき宅を目指した。立ち寄ったコンビニで「いわき」ナンバーを見て店員がたじろいだという。避難者と車を放射能を帯びているという差別の目であった。3月13日いわき市は独自に県北部の一部住民に避難を要請した。しかし政府はいわき市に避難指示を出していないので、これは自主避難である。いわき市から避難した人は3月15日で推計15377人に上った。4月19日福島県内で子供たちが屋外活動を行ってよい基準値1mSvが年間20mSv(3.8μSv/h)に20倍も引き上げられた。5月に娘夫婦は一度いわきに戻った。1年間は被曝を避けるため、夫の通勤のこともあり週末に通えることも考えて6月に埼玉県の古い雇用促進住宅に避難した。

2) 避難生活と崩れゆく家族

前章に引き続き、いわき市から埼玉の雇用者促進住宅に避難してきた母と子の避難生活をルポしている。団地住まいも初めての経験であった母子避難家庭のお話である。母子家庭は弱い存在であるので、母子家庭であることが分かるとそれだけで危険だし、肩身の狭い思いで、人目を避けた生活が始まった。娘には唯一体操教室に通わせたことが世間とまじわるばであったという。古い雇用者促進住宅は狭く、機器も古くて不便なことが多い。そこに住んでいる人々にも不満があったとしてもよそに移るわけにもゆかなかった。災害救助法に基づいて供給される借り上げ住宅は、一度転居すると「避難の終了」と見なされ、それ以降には家賃が発生する。借り上げ住宅はプレハブのように建築型仮説住宅だけでなく、全国の公営住宅や民間賃貸住宅も「みなし仮説住宅」として無償供給される。一度住んだ借り上げ住宅は条件を満たさないと住み替えは認められない。じっくり周囲の状況や住宅空間と設備を検討する余裕もなく、選択肢も少ない中で借り上げ住宅に入った。自主避難者は避難にかかる費用はj子負担した。無償の借り上げ住宅の供給があったから避難を継続できた。福島県んp「自主的避難等対象区域」に指定された地域には定額の賠償が2012年に2度あったが、避難費用を賄える額ではなかった。隣人とのトラブルなどで住み替えを要求すると、「避難先の自治体の判断」とか「住民票のある自治体の判断」の間に問題は宙ぶらりんとなる。平等を理由にして我慢すべきだという論理が見え隠れする。「避難指示がない避難は自主的なもので、自己責任である」という論理にすり替えられ世間の空気が多くの避難者を苦しめる問題の根幹にあった。母子避難者の子育ては困難を極める。夫の協力が順調に行かないと、妻への負担が大きくなり妻の精神的肉体的疲労度が増すだけでなく子供の体調もおかしくなる。避難をきっかけにはじまった別居生活は夫婦の間に隙間風が吹き、意志の疎通もままならぬことになり離婚になるケースもある。すると母親の生活が崩れ始め、鬱からアルコール依存症になり、母親の体調に異変が起き何もできないという状態になる人もいる。最悪のばあい「自殺したい」と口走るようになったら要注意である。離婚した母子家庭の最大の問題は貧困であり、生活保護を受けるケースもある。これで借り上げ住宅が無くなり家賃が発生すると、一家心中になってしまう。次の問題は残された夫である。母子避難をさせた夫は、一人被災地に残り生活している。そして避難することはなかったのだと思うようになると、母子避難に対して「わがままだ」というような否定的な気持ちを持つようになる。特の夫側の両親の不満は大きいようだ。そして夫の様子もおかしくなるようだ。第一に別居生活の問題は「夫の浮気」である。それは妻を苦しめ生活が投げやりになり、行き着く先は「離婚」である。

3) 避難者支援と被害の矮小化

自主避難者には、東京電力から定期的に支払われる賠償は一切ない。月10万円の精神的慰謝料が支給されるのは政府による「自主的避難等対象区域」のみである。2011年8月「原子力損害賠償紛争審査会」から賠償指針が出されたが、そこには自主避難者の賠償の枠組みは示されていない。つまり自主避難は避難ではないという切り捨てがある。2011年10月に開かれた原陪審は自主避難中の当事者の意見を聞いた。ヒアリングに応じた人は「自主ではありません。恐くて逃げたのです」とこたえたという。原陪審の員は、原発事故直後に線量があがるのを恐れて避難した人と、事故からしばらくして妊婦や子供への影響に対する不安から避難した人に分けたがっているようだった。そしてその時期を20011年4月前半に設定しようとしていた。こうした分断政策は官僚の常套手段であって、区切りをつけるための「合理的理由」を求めて、恣意的な閾値を設定するのである。原爆病裁判でもよく用いられた手法である。もともと恣意的な値であるから、その値を巡って裁判は長期化し、国は次第に追い詰められてゆくのである。2011年5月から2912年4月まで、郡山市の小中学校の屋外活動は「3時間ルール」が適用された。原発事故の影響は子供の教育の機会をも奪ったのである。原賠審は2012年12月に「自主的避難等対象区域」に指定された地域の住民の対する賠償を発表した。自主避難者の場合、妊婦と18歳未満の子どもは一人につき68万円、大人は一人につき12万円を基本とし、家族4人(夫婦と子供二人)の世帯だと総額は160万円程度であった。原発事故がなければ発生しなかった費用に比べて、とうてい補えるものではなかった。この賠償金を元手に新潟県に避難した人もいた。緊急時に慌てて避難したのではなく、十分情報を得たうえで避難をする人が数多くいた。復興庁が公表した避難者数推移では、2012年4月にかけて避難者は増加している。事故後1年後の避難である。2012年6月議員立法の法律「原発事故子ども・被災者支援法」ができた。日野行介著 「福島原発事故被災者支援政策の欺瞞」(岩波新書 2014年9月)に詳しくかかれており、その概要は上に記述した通りである。法律ができてから1年経っても政府の基本方針は示されなかった。法律制定2年後の、この法律の認知度は被災者の15%程度と非常に低い。被災者の要望で「意見書・要望書を復興庁へ届ける」運動は2013年12月に190通の意見を集めて議員に届けた。こうした動きを受けて復興庁は2013年3月15日「原発災害被災者支援施策パッケージ」なるものを発表したが、それはすでに行われている施策の羅列に過ぎず、新規な母子避難者の生活支援はなにもなかった。そしてわずか2週間のパブコメ期間を置いて、当事者の意見をくみ取る努力もしないで2013年10月に基本方針を発表した。支援を受けられる自主避難者の地域は32市町村のみを「支援対象地域」に指定した。「住民票」はいろいろな証明(カードを作る、車登録を避難地にするなど)にひつようなものであるが、いわき市は避難者に対して「届出避難場所証明書」を発行しているが、カード会社はそんなものは知らないと言って受け付けなかったりする。住民票を移動しない自主避難者は多い。郷里への愛着だけでなく、福島県人であれば受けられる行政サービスを失うことを恐れるからである。健康診断、放射線測定器や個人累積線量計ン貸し出しや、避難先での18歳以下の医療費無料化などである。2012年12月8日をもって、福島県は県外に避難する人に提供する借り上げ住宅を新たに受け付けないと発表した。しかし被災者支援団体からの抗議や延長要請によって、古保方針を撤回し継続した。これは「福島県外への人口流出を防ぐため、新たな借り上げ住宅受付を打ち切れ:という厚生労働省からの要請に基づいた方針であった。そして政府内部では復興庁の「福島県民の福島県への帰還を促進しなければならない」という厚生労働省への圧力があった。厚労省は「打ち切りを周知するつもりはない。周知期間を取れば駆け込み需要が増え、自主避難を促す結果となる」といい、「受付の打ち切り」は抜き打ちでやる方針であった。自主避難者の生活サポートについては、厚労省は復興庁に、復興庁は東電に、経産省は拒否」という責任のなすりつけ合いであった。また福島県は「国の枠組みで」、市町村は県でやるべきだといい、典型的なたらいまわしの泥試合を演じている。これが日本の縦割り行政の弊害となって自主避難者のサポート問題は矮小化され、行政の無作為となっている。復興庁は自主避難者の数さえ自主的に把握していない。総務省が所轄する「全国避難者情報システム」からの借りものである。これは登録は任意で、避難先自治体に申告しないとカウントされない。特に自主避難者は分母から漏れやすい。例えば岡山県では福島県からより、関東圏の人の避難者の方が多い。岡山県全体で1079人の避難者を受け入れたが(2015年11月時点)、福島県からの避難者は28%、それ以外の県から避難者が70%以上であった。避難者数を公表しない自治体もあう。埼玉県では借り上げ住宅に住む人だけを避難者とし、実家や親せき、或いは自費で避難しているひとはこの避難者情報システムでは把握できていない。埼玉県では避難者団体の調べた結果は、埼玉県が公表した結果の2倍となっていた。そこで埼玉県は2014年7月に避難者を数え直し、それまでの2992人から5639人に訂正した。自主避難者に対する賠償の手段として、「原発ADR」(裁判外紛争解決手段)がある。2011年9がつより原発ADRへの申し立てが始まった。新潟県や山形県ではADRが活発に利用されたが、埼玉県では認知度が低くかった。これには弁護士団の対応姿勢に温度差があったためである。埼玉県では2013年以降にADRの利用が始まった。

4) 帰還か避難継続か 自主避難者への住宅提供打ち切り

自主避難者が悩む問題に、子どもの幼稚園とか小学校入学を区切りにして帰還するか、このままもう少し避難を継続するかが重く自問自答する日々が続くことである。2013年11月「いわきの初期被曝を追求するママの会」はいわき市長に「地産地消の取り組みを辞める要望書」を手渡した。学校給食による内部被ばくの危険性は、自主避難者の母親にとっていわきに帰るか帰らないかの重要な基準になる。2014年12月いわき市教育委員会は学校給食に使用していた北海道産米をやめ、いわき産米を使用する方針を出した。夫が避難先で職を求めて同居して避難を継続するか判断は極めて難しい。だから家族一緒の生活が望ましい観点で子供の入学期に合わせて帰還する避難者もいる。福島県に戻る場合は、元居た家には帰れない人には借り上げ住宅を新たに無償で利用できることになっている。しかしいわき市でも北部に自宅がある人が、被曝が多少とも少ない南部を希望した場合、「自宅と同じ市内に戻る場合は借り上げ住宅の無償利用は適用されない」ということであった。2014年8月「子ども脱被曝裁判」が、国と福島県の責任を追及するため提訴された。自主避難をしたのは、身勝手な判断という自己責任ではなく、原発事故の恐怖による行動であるということを「自主避難者のための原発ADR説明会」で避難者は訴え、東電の責任を問うた。2014年3月東京郊外の公営住宅に住む自首避難者の母親に、「老朽化した公営住宅を数年後に取り壊すので、都営住宅に移っていただきたい」という説明会の案内が東京都から届いた。2015年4月東京都は都内の全避難者に対して「都営住宅の申し込みについて」というお知らせを発送した。都営住宅の当選倍率が天文学的に高く、ほとんど「ここから出ていけ」と同じようである。借上住宅の終了が、そのまま避難生活の終了になるという不安を多くの避難者が口にしていた。高い家賃を払って東京に住むには、それなりの収入が必要であるが、夫が東京で職を得ることはさらに難しい。2015年5月17日朝日新聞が「自主避難者への住宅供給終了、2016年度内に」というニュースを、福島県より先に報じた。住宅供給打ち切りの報道の後、多くの市民団体の抗議活動が始まった。東京に住む「ひなん生活をまもる会」は署名44978筆を福島県庁へ届けたばかりのことであった。5月20日環境NGOが衆議院会館内で「住宅供給打ち切り方針撤回を求める緊急集会」を開催した。5月24日福島県二本松市で「原発事故被害者団体連絡会(ひだんれん)」の発足集会が開かれた。そこで避難者の切実な発言があった。5月28日全国の避難者支援団体集会が行われ「県外避難者の生活再建に関する要望書」を福島県に提出した。日本弁護士会も「無償提供終了に反対する声明」を発表した。集会や要請行動は6月以降も続けられた。6月9日には「ひなん生活をまもる会」は院内で反対集会を開いた。これに対して、原発の終息宣言と同じように、避難終了を印象付ける復興方針を2015年6月12日の閣議で決定した。そのなかで「避難指示の解除と帰還に向けた取り組みを拡大する」ことがあった。その3日後の6月15日福島県は、自主避難者に対する避難先での住宅無償提供を2017年3月で打ち切ることを正式に発表した。福島県は打ち切りと同時に、福島県への引っ越し費用の補助、低所得者への家賃補助、公営住宅確保、コミュニティ強化の4つの施策を発表した。7月10日復興庁は「子ども・被災者生活支援法」の基本方針の改定案を発表した。そこには「避難指示区域外の地域から避難する状況にはない」と明示し、指定地域外からの自主避難の根拠を否定した。福島県は2015年12月7日、県外の自主避難者が県内に戻るための引っ越し費用補助を最大10万円とし、期限は2017年3月町までとすると発表した。これに対して自主避難者は「私達自主避難者は棄民です」と抗議した。「今避難しているのは原発事故のせいだし、国と東電と福島県の責任でもあります。」という。



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