160317

田中浩著 「ホッブス」 
岩波新書(2016年2月)

民主主義的近代国家論の基礎となったホッブスの政治理論

本書は「リヴァイサン」の解説書かと思って読み始めたが、最初は各項目の取り扱いがいかにも浅いのでびっくりした。辞書の項目の解説程度の量で展開されるので、系統的理解が困難であると感じた。岩波新書の分量で160頁なので、深い説明は不可能であるとしても、対象を絞ることはせず、近代政治思想史の全体を把握することが目的であった。つまり本書は近代政治思想史の背景とホッブスの多面的な思想と評伝であるからだ。では駆け足でホッブスの政治思想を閲覧してゆくことになる。著者田中浩氏のプロフィールを本書あとがきから見てゆく。1926年(昭和2年)佐賀県生まれ、戦争中は陸軍経理学校に入学し、戦後は旧制佐賀高等学校文科乙類を卒業し、務台理作教授や自然哲学の権威下村寅太郎教授がおられた東京文理科大学文学部に進学した。1951年卒業論文は「ホッブス自然法理論におけるエピクロス的性格ー国家と個人の関係」であったという。戦後の民主改革の中で、河井栄次郎東大教授の「自由主義の擁護を読み、純粋哲学ではなく「社会哲学」を志したという。イギリスの「市民革命(ピューリタン革命)」期の思想家ホッブスを出発点に選んだ。ホッブスについては一橋大学の太田可夫教授(哲学)、名古屋大学の永田洋助助教授(社会思想史)、東大の福田歓一助教授(政治思想)の指導を受け、ギリシャ哲学については京都大学の田中美知太郎教授(スコラ哲学)、高田三郎教授(アリストテレス)、社会科学については重松敏明教授(社会学、ホッブス)、キリスト教については国際基督教大学の武田清子助教授(政治思想、ニーバー)の指導を得たという。東京文理科大学を卒業後、東京教育大学教授、一橋大学教授を歴任して、現在聖学院大学客員教授だそうである。専攻は政治思想。法学博士である。主な著書には、「国家と個人」、「近代日本と自由主義」(岩波書店)、「日本リベラリズムの系譜」(朝日新聞社)がある。今年2016年で90歳となられる。90歳で岩波新書に政治思想史の祖ホッブススの評伝を書かれるエネルギーに感服します。今日日本では、ロックやルソーの名前は民主主義思想の先駆者として広く知られている。これに対してホッブス(1588−1679年 享年91歳 著者田中氏も御長寿)は1651年「リヴァイサン」を著したが、主権在民論者なのか絶対君主論者なのか明確でないところを捉えて日本では誤解されているところがある。しかし、ホッブスこそが近代国家論の真の創始者であるというのが、本書の言いたいことである。ホッブスは、史上初の「市民革命」であるイギリスのピューリタン革命期(1640−1650年)に、人間にとって最高の価値(最高善)は「生命の安全」にあり、これを確保するためには「平和」が最優先されるべきであると主張していた。ホッブスはキリスト教義から離れて、政治の主体は「人間」であり、「生命の安全」も「平和」も人間中心に考えられてる。ホッブスは人間中心の自己保存という考えから、有名な「社会契約論」によって「近代国家論」を構築した。人間が生きる権利はアプリオリに自然権であり、これを自然の闘争状態に任せていたら、生存権さえ確保できない。そこでホッブスは闘争状態の自然権を放棄し(武装解除)、互いの力を合わせて「社会契約」を結び、「共通権力」(国家)を作るとした。契約に参加した全員の多数決(民主政治の決定原理)によって代表者(政府、権力)を選出する。この代表者が選出されて初めて国家=コモンウェルスが成立したとホッブスは考えた。コモンウェルスとは最小限の抑止力を持つ政治体(共同体)のことである。それは群衆とは違う、代表が作る法律が人民が守って「法の支配」が実現していることである。17世紀中頃イギリスに市民革命が成功して近代民主国家ができた時代に生まれたホッブスの政治思想である。ホッブスはイギリスの伝統である国王と議会の伝統的二重権力構造(立憲主義)を排して、国家の平和を保持するためには主権者(代表)に強い力を与えよと述べた「リヴァイサン」が誤解される理由がここにある。誰に一元的強権を与えよとは言っていないので、絶対王権派ともクロムウエル革命の恐怖政治のどちらも当てはまる。ホッブスが近代民主主義の創始者として評価されはじめたのは、ベンサム主義者のモールズワース(1810-1855)がホッブスを取り上げた1840年以降のことである。つまり「リヴァイサン」が刊行されてから200年後の19世紀中頃のことになる。この時代の特徴は、イギリス国内で産業革命期に入りブルジョワジーが形成され、国際的にはアメリカ独立戦争、フランス革命後の欧米における中産市民層が台頭してきたことである。ベンサムがフランス革命後の1979年に「最大多数の最大幸福」と述べたことは、この中産市民階層の政治参加を援護した。アダム・スミスが1776年に著した「諸国民の富」(国富論)は資本主義的生産様式を描き出し、200年前の「市民革命」の時代とは違う格段の実力を備えた中産市民階層の台頭があってのことである。スチュアート・ミル(1806−1873)は「自由論」の中で、「思想・言論・宗教に自由」、「人身の自由」、「財産権の自由}、「労働者の結社・団結の自由」の4つの自由を掲げた。トマス・ヒル・グリーン(1838−1882)はピューリタン革命を正しく評価して、自由は手段であって政治の目的は人格の成長であるとのべ、ロックの「私有財産の不可侵性」を修正し、公共の福祉のために自由の制限があるとした。これは今日の福祉国家の生存権の重視にあたる。それより前にルソーは「人間不平等起源論」を1755年に書いているし、1791年ペインの「人間の権利」において「平等」という観念が初めて現れた。ドイツの社会学者マンハイム(1893−1947)は「保守主義」のなかで、台頭する労働者階級の政治的進出を阻む思想を保守主義と定義した。これらの思想家のいう「自由・平等」之考えは、実はホッブスが提起した万人共通に認められるべき「自由・平等」という政治原理に端を発するものであった。イギリスでホッブス思想を民主主義において捉えた最初のホッブス研究は、、ロバートソンの「ホッブス」(1886年)であろう。しかしホッブス研究が盛んになってきたのは、第1次世界大戦後のことである。イギリス政治思想史の権威グーチ(1873-1968)は、ホッブス、ロック、ベンサムをイギリス三大政治思想家と定義し、ホッブスを最初でオリジナルな、そして最もイギリス的でない思想家だいった。ドイツでは社会学者テニエス(1855−1936)、レオ・シュトラウス(1899−1973)、イタリアでは哲学者ボッビオ(1909-2004)はホッブスを民主主義の先駆者として位置づけた。カナダのマクファーソン(1912−1987)は「リヴァイサン」を編纂した。日本では明治期に最も研究された西洋思想家は、ルソー、ミル、スペンサーであるが、そもそも自由民権運動を抑圧した明治政府下ではホッブスを研究するものはいなかった。大正デモクラシーにおいて憲法学者市村光恵、法哲学者恒藤恭らがホッブス・ルソーを研究した。いずれにせよホッブス研究が開花したのは、第2次世界大戦後の民主化改革時代になってからのことである。

ホッブスの政治思想を生んだ時代の背景を概観しておこう。偉大な思想はいつも「危機の時代」とか「変革期」に生まれるものであるから。近代においては、ピューリタン革命期にホッブスやハリントンが、名誉革命期にロックが、ベンサム、スミス、ペインがイギリスの産業革命期やアメリカの独立戦争に現れ、フランス革命前夜には百貨全書派のヴォルテール、ディドロ、ルソーらが輩出し、欧州全体を巻き込んだ「1848年革命期」にはマルクス、エンゲルス、J・Sミルに登場した。イギリスにおいて資本主義が発展し、その矛盾が顕在化した19世紀後半期の帝国主義の時代には、労働問題・植民地問題・奴隷制問題・福祉国家を考察したトマス・ヒル・グリーンが現れた。20世紀のロシア革命期にはレーニンが、中国革命期には孫文や毛沢東が現れた。日本では明治維新期に啓蒙主義者の福沢諭吉、植木枝盛。中江兆民たちが、自由民権期・欽定憲法制定・日清日露戦争期にはそれを批判した田口卯吉、陸葛南、などのリベラリストを生んだ。大正デモクラシー期、日中戦争期には抵抗の知識人長谷川如是閑が現れ、戦後の民主改革期には丸山眞夫が活躍した。ホッブスは晩年に二篇の自伝を書いた。「ラテン詩自伝」(1672年)と「ラテン語自伝」(1674年)であるが、いずれも小篇で、内容的にも抽象的である。むしろオーブリーの書いた「名士小伝」がホッブスの思想と行動をに関する貴重な資料となった。オーブリーは16−17世紀のイングランドや欧州の名士を紹介している。ホッブスは1588年4月5日イングランドのウイルトシャ―州マームズベリで生まれた。スペイン艦隊とイギリス艦隊が決戦を迎えた7月中旬の直前であった。イギリスの覇権が確立し、イギリス資本主義の発展期とともにホッブスは成長した。92年に及ぶ生涯は、デヴォンシャ―伯爵家の庇護のもとにあった。ホッブスはピューリタン革命を挟む17世紀のイングランドと欧州の激動期のすべてを経験できたのである。ホッブスは52歳の時に最初の政治学書「法の原理」(1640年)を書き、2年後に「市民論」(1642年)を書き、チャールズ一世が斬首され、クロムウエル(1599−1658年)が政権を取ったピューリタン革命のときに「リヴァイサン」(1751年(を書いた。そしてイギリスの共和制時代の60歳代から70歳初めにかけて、「物体論」(1655年)、「人間論」(1658年)を書いた。80歳を前にして「哲学者と法学徒との対話」(1666年)、「ビヒモス」を書いた。ビヒモスもリヴァイサンも旧約聖書に出てくる怪獣の名前である。ホッブスは近代イギリスの出発点である「市民革命」の真の生き証人であった。ホッブスが生まれた家庭は12歳のとき(1600年)、貧乏牧師であった父親が蒸発し、叔父方に預けられ、秀才の誉れ高かったホッブススはオクスフォードのモードリン・カレッジの学校に入った。これがホッブスの幸運の第1の契機となった。ホッブス14歳の時オックスフォード大学に入学した。1606年に大学を卒業し、名門貴族キャベンディッシューハードイィック男爵の長男の家庭教師となった。1616年にはデヴォンシャー伯爵家の家庭教師になった。当時のオックスフォード大学・ケンブリッジ大学の学生は貴族や地主階級の子弟で、生まれながらの地方の支配者であった。中産階層出身学生は多くは学者や医者を志した。ホッブスが貴族の家庭教師に推薦されたのは幸運中の幸運であった。仕事は午前中の語学の教師となり、住居・生活費・年金まで保証され、時間はたっぷりあってホッブスを世界的な思想家に成長する第2の契機となった。これからホッブスの政治思想の進展を彼の生涯にあわせて4期に分けてまとめる。第1期:ホッブス政治学の確立ー「法の原理」、第2期:近代国家論の誕生ー「市民論」、「リヴァイサン」、第3期:哲学体系の完成ー「物体論」、「人間論」、第4期:近代政治思想史上のホッブスの意義である。ホッブスの各論に入る前に、見通しを得るためこれまで私が読んだ「社会契約論」の2冊の本の概要を紹介する。@重田園江著 「社会契約説ーホッブス、ヒューム、ルソー、ロールズ」ちくま新書、Aルソー著 「社会契約論」岩波文庫である

重田園江著 「社会契約説ーホッブス、ヒューム、ルソー、ロールズ」ちくま新書は次のような問いかけで始まる。私たちが暮らすこの社会は、そのそもどうんな風に生まれたのか。社会の形成、維持に不可欠なルールとは何か。政治的秩序の正当性はどこにあるのだろうか。社会契約論とはそのような問いを根源まで掘り下げて考える思考実験装置である。普段は誰も意識しないで、その必要性も感じないし、誰がいつ定めたのか誰も知らない、実証性・実在性の極めて乏しい社会科学である。本書はこの「社会契約論」という近代思想を切り開いた巨人達、ホッブス、ヒューム、ロック、ルソー、ロールズの思索の軌跡をたどろうとする現代思想・政治思想の歴史である。まず社会契約論とはどんな思想なのだろうか。それは社会の起源を問う思想である。そして社会契約論は、社会が作られ維持されるために最低限必要なルールを問う思想である。そして社会は自然に成立したもので動かしがたいという考えを捨て、秩序はルールは人工的で状況次第でご破算でき新たな社会を創造しうるという前提に立つ思想である。社会契約はホッブスでは「信約」、ルソーは「合意」、ロックは「社会契約」と呼んだ。約束の思想は、人が社会で取り結ぶ関係とその条件を、約束を交わす人々の目に見えるようにする。約束の思想は秩序の条件を明瞭にし、現にある不平等や不正を、等価交換の神話で隠すことをできなくする。社会契約を政治的秩序と共同体をつくる始まりの瞬間における約束として考えようと重田氏はいう。約束は人に何をさせ、約束がなければできない関係とは何だろうか。社会契約は、「一般性」という社会的ルールの正しさを考える上で重要な理念となる。個々の利害から超越した自分が、集団のために社会ルールを思考することが「一般性」である。重田氏は4人の社会契約説を解説しているが、ホッブスについては次のように述べている。人の行為がいいとか悪いとかはさておいて、ホッブスは最も重要な基本的な事柄として「自己保存」を置く。生身の人間の激しいぶつかり合いからどうして秩序が生まれるのか。ホッブスは必ずしも明確に語っていない。後世これを「ホッブス問題」と称する。ホッブスは自然状態を「万人の万人に対する闘争」と考えた。自然状態を脱して法が強制力を発揮する政治社会に至る道、きっかけを考えるのが「ホッブス問題」である。人々が一斉に武装解除をするのでなければ、いつまでたっても契約は成立せず政治社会が現出することはない。ホッブスはここで「理性の命令」という概念を出してくる。これは別名「囚人のジレンマ」と呼ばれる問題に等しい。ホッブスは「ホッブス問題」をどう解決したのだろうか。リバイサンの記述は不明瞭である。ホッブスは「人々が戦争状態を脱して平和と安全を手に入れる唯一の方法は、自分たちの権力と強さを、一人に人または一つの合議体に与えることである」と考えた。構成員が相互性をもって、この合議体に権威を与え、私自身を統治する権利を与えることが条件である。ずるいやつがいて権力への距離が異なる場合、約束する人々の間で非対称性は許されない。そんなことがどうして可能になるのか、ホッブスは何も言及していない。ホッブスにおける政治とは、人間がその共存の条件を自分たちで決め、共同性の行く先をその都度修正してゆく初めもなければ終わりもない永遠の活動である。ホッブスの条件付き政治社会の再構成とは、社会契約論の典型であろう。永遠に鉄砲を放棄できないアメリカ人には社会契約論は今もなお不要である。この自己防衛の権利を放棄した秩序は、人間たちが結びつくという社会の中でしか根拠を持てない。すべての人が自分押し全権を譲り渡して、主権者は同意した全員の力の総計と同じ力を得る。ここに権利は主権者に結集し、国家権力が成立する。当事者ではない主権者が登場する。主権者との契約には、結合契約と、支配服従契約の2種類の契約が続いて発生する。この契約は何らかの集団を単位とする契約ではない(部族社会の長老支配)、だから個人はお互いにそれぞれ別々に無数の契約をすることになる。ホッブスは二人の人間が結ぶ「信約」をもとに、社会的結合へ時間と拘束力を導入することで「契約」を説明する。信約は契約の一種である。契約とは当事者双方が利益を見出す時のみ交わされる約束である。二人の当事者が自分お利益を互いに譲渡しあうと「契約」が成立する。即時履行の場合である。ところが将来履行するという約束では「信約」という。延期された約束履行(信約)に不安が生じたとき消滅する性格である。信約が反故にされる理由として「合理的な疑い」があげられるが、平和と安全に対する脅威から結ばれた社会契約は無効になることはない。社会契約には強い義務が発生する。ホッブスは契約が法とは違うことを強調している。法とは上下関係に基づく命令であり、これに対して社会契約は自由意思に基づく対等な人間の約束なのである。自由な合意と約束を通じて当事者双方を未来に向けて拘束する。その強い力は契約の中にある。つまり約束は約束する人間を時間制を伴って拘束の内に引き込むのである。これは個人間を互いに引きつけ合う引力である。契約とは人が何かを譲ることである前に、人と人とが約束を通じて関係の内に入ることである。それは政治的共同体の始まりだけではなく、それが維持されるためにも力を与え続けるのだ。「約束だけが政治社会に力を与え続ける」これが社会契約論の核心であり、ホッブスが社会契約論の創始者である由縁である。ホッブスを近代政治理論の創始者と呼んでも過剰評価ではない。ホッブスの政治理論は近代人権思想であるかもしれない。ホッブスは、人間は崇高で冒すことのできない存在であるとは一言も言わなかった。むしろ誰でも等しくくだらないものだという認識からスタートしている。本当の意味での近代的平等の深さと強さがあるのではないだろうか。それでもなお作られる秩序があるとするならば、それはすべての人を受け入れる秩序となるであろう。碌でもない人間から秩序を作るために、ホッブスは人間同士の約束と当事者の対等性という関係に着目したのである。人間に対するこれほどの信頼の思想が他にあるだろうか。

重田園江著 「社会契約説ーホッブス、ヒューム、ルソー、ロールズ」ちくま新書では、重田氏はルソーの社会契約論について、『ルソーが描く「社会契約」のハードルは高く理想的で次の条件を満たすものであること。第1に契約は限りなく強いこと、第2に普遍的でシンプルでなければならない、第3に政治社会には寿命があるが社会契約は持続性がなければならない、第4に社会契約は拘束を生むが個人は依然として自由であることである。契約の条項は「我々は身体とすべての能力を共同のものとし、一般意思の下に置く。それに応じて我々は団体の中で各構成員を分割不可能な全体の一部として受け入れる」というものである。これは「全面譲渡」に相当する。自由と平等と相互性の理念は、一般性あるいは一般意思と不可分に結びついている。ルソーは主権者が第3者(絶対主義的国王、官僚など)であることは絶対に忌避されなければならない。命さえ守ってくれるなら誰でもいいとするホッブスのようなあいまいさは避けるべきだとする。主権者は人民でなければならない。「社会構成員」とは「一つの精神的で集合的な団体」とされる。そしてその構成員は共同の自我と生命、意志をもつという、抽象的な内容に昇華される。社会契約を結んで新しい社会を作ろうと考えた瞬間、その人は契約当事者で政治体の一員としての自己となる。その内部で自分を含む全体との間で結ばれる契約が「社会契約」なのである。さらにこの共同体、政治体が担う意志が「一般意思」なのである。一般意思とは法を作る意志であり、個々の意志の総和ではないのだ。ルソーの政治体の内部にいる人は3つの名称で呼ばれる。第1は法を作り政治に参加し、共同体を動かす「市民」、第2に自ら進んで法やルールに従う「臣民」、第3に政治体参加者である市民の集団を全体として見たら「人民」と呼ばれる。人民を国家のアクターとみると「主権者」となり、主権者が人民である時人民主権(主権在民)が成立している。このような「一般的な自分」が特殊存在としての自分と約束を結ぶのだ。人は政治体の参加者あるいは主権者としては、一般的な視点に立ち、一般意思に従って行動しなければならない。「一般意思」はルソーが言い始めた概念ではない。そこで「一般意思」の概念の歴史を繙こう。一般意思とはアウグスティヌスを通じて中世神学に流れ、マンブランシュによってフランス哲学に影響を与えたとされている。中世キリスト教は当然ながら神の完全性から創造主の意志を意味した。神は一般意思としてはすべての者の救済を意図し(建前上)、だが原罪以降は神の特殊意志は特定の者の救済を拒んだ(実情)。ここで一般性と特殊性の対比が、マンブランシュからモンテスキューを経てルソーに受け継がれたと見ることができる。永遠不変の一般意思に対する、個別事象の「特殊意志」という対比である。ルソーは一般意思は自分の特殊な利益に左右されてはならないとして、一般意思は特殊意志と鋭く対立する構図を描いた。モンテスキュー(1689−1755)は「法の精神」において、法を作る事、立法権力は一般意思に属するが、司法権力は個々の事件を裁く特殊意志であると考えた。この3権分立の考えはルソーに継承されている。ルソーはそれを「人民主権」といい、どうしたら人民の意志である一般意思を発見できるかに苦心した。ルソーは一般意志には神を必要としない近代性を徹底させたのである。人間が自由意思によって社会を形成し、人間が約束する力によって一般意思が現れると考えた。一般性は、多様性と自由を抑圧するものではなく、自由を実現しまた多様性を尊重するためにあるということである。社会契約においてこそ政治が生まれり場所であり、人民が政治的自由を手に入れる場所である。そしてルソーは一般意志は重力の法則と同じレベルにおいて成立する普遍性を持つので、過つことはないと確信した。』とまとめた。 ルソー著 「社会契約論」岩波文庫では、ルソーは「不平等起源論」では、自由で平等な孤立人である自然状態を構想し、この原始自然状態から社会状態に移行すると、財産の不平等が起き私有財産が生まれたとした。現状の社会がいかに矛盾に満ちた救いがたいものであるかを描いたのだ。鋭い社会批判となるのは当然であった。これに対して「政治経済論」は政治の問題を取り上げ、「社会契約論」で論じる理論のすべてはこの「政治経済論」に含まれていた。しかし「政治経済論」では政治体制または国家組織論としては未完成であった。主権在民の非拘束性、絶対性は「社会契約論」で初めて確立された。ルソーが革命的民主主義の国家理論をとなえた初めの人となったのはこの点である。人は生まれた自然状態では自由であるのに、社会状態では奴隷になるのはなぜだろうかという「社会不平等起源論」の問いは、社会契約論において約束することで自由と平等を取り戻すことができるという革命的展開を遂げた。それには個人的な意思ではなく「一般意思」という観点で約束することであるというのが社会契約論のミソである。この人民の一般意思は、絶対的であり、誤まることもない普遍的原理である。主権は他人に譲り渡したり分割したりすることはできない。一般意思の行使が主権であるとする主権の絶対性理論はルソー独自というよりホッブスを引き継いだものであるが、ホッブスが絶対君主でもいいとしたのに対して、ルソーは人民権力の絶対性を主張した。こうして、「各構成員の身体と財産を、共同の力をすべて結集して守り保護するような結合の形式を見出す事、そしてそれによって各人が人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず自由であることが根本的な問題であり、社会契約がそれに解決を与える」というルソーの命題が宣言される。社会契約の本質的なことは「われわれは身体とすべての力を共同のものとして、一般意思の最高の指導の下に置く。そしてわれわれは各構成員を全体の不可分の一部として、ひとまとめのものとして受け止める」であるという。この結合行為からその統一、その共同の自我、その生命、その意志が生まれるのである。その結合体を、「共和国」、または「政治体」と呼び、国家、主権者とも呼ばれる。構成員は「人民」、主権に参加する者は「市民」、国家の法律拘束される者は「臣民」と呼ぶ。ここで各個人は二重の関係で、主権者(人民)の構成員でありかつ国家の構成員(臣民)で約束している。自分に対して義務を負うことと、全体に対して義務を負うことが発生する。各個人は人間として一つの特殊意志を持ち、彼が市民として持っている一般意思とは異なる。一般意思へ服従するよう強制される。自然状態から社会状態への移行は、各人に正義と道徳、理性に従った行為をすることを要求し、また自分が自分であるという道徳的自由(奴隷状態でない)を獲得できる。社会契約によって自然的平等が破壊されるものではなく、かえって肉体的不平等に替えて道徳上及び法律上の平等に置き換えること、契約によって権利が平等になることである。

1) ホッブス政治学の確立ー「法の原理」

ホッブスは大学卒業後、キャベンディッシュ男爵家の家庭教師に就任しました。オーブリーによるとホッブスの人となりは「大柄で、人好きがする快活な青年で、知力と洞察力は鋭く過つことがなかった」という。学芸保護を重んじた伯爵家では国内外の学者や政治家と知り合うことが多く、収集された古典・歴史書・法学書・哲学書を読むことができた。そして貴族の子息の付き添いで3度にわたる外遊がホッブスの知見と見識をおおいく成長させたといえる。1608年から1640年までの約30年間のデヴォンシャー伯爵家の時代が、ホッブスの学問形成にとって決定的に重要である。ホッブスは1610年に青年貴族の世界旅行に付き添ってフランス、イタリアの旅に出かけた(1610−1613)。ホッブスはヴェネチアでモンテーニュやベイコンの愛好者であったパオロ・サルピ(1552−1623)にあった。ホッブスはアリストテレス哲学を嫌い、ローマ教皇を批判し、ベイコンの秘書としてラテン語翻訳を手伝ったりしたにはこの第1回海外旅行に深く関係していた。ホッブスは貴族家の住み込み秘書・家庭教師という職業から生涯独身であった。ホッブスはエウリピデス、ソフォクレス、プラトン、アリストテレスを研究した。中でもエウリピデスの「メディア」の詩を翻訳し、人間中心主義を学んだことがのちに「人間の本性から出発して国家論を構築したことにつながるようである。又ホッブスはギリシャ・ローマ時代の歴史をを研究し、ツキジデスの「歴史」の翻訳を出版した。ペリクレス時代のような安定した民主政治が国内平和の条件であることを発見し、「哲学者と法学者の対話」やピューリタン革命を分析した「ビヒモス」につながった。スコットランドの貴族ジャヴェス・クリフトンの子息の大陸旅行の付き添いで、フランスパリやイタリアを訪れた(1629−1631)。この旅行中ホッブスはユークリッドの「原論」に夢中になったと言われる。また2代目デヴォッシャー伯爵と3回目の大陸旅行へ出かけ(1634−1937)、フランスの学術サロンのホストであるミニモ会修道士メルセンヌ(1588-1648)のサロンに出入りした。フランスの哲学者・物理学者ガッサンディ、デカルトなどと交流した。またイタリアフィレンッツェにガリレイを訪問した。1937年に大陸外遊から帰国したホッブスは、「物体論」、「人間論」、「市民論」の三部作からなる哲学体系の執筆準備に取り掛かった。しかし当時のイングランドはチャールズ1世の「船舶税」を巡って国王と議会の対立が最高潮に高まり、下院のハムデンが指導する反税闘争が深刻な状況となっていた。「船舶税」こそがピューリタン革命の導火線となった。このためホッブスは哲学体系の順番をひっくり返して、1640年5月に「市民論」と「人間の本性」、「政治体」を内容とする「法の原理」を書き上げた。ホッブスは「社会の哲学」は私から始まると自負している。当時の王党派はこの書を「制限・混合王政論」を擁護するものと理解していたようである。すなわち国王の権限は制定法やコモン・ローによって、また議会によって二重に制限されというイングランド伝統の政治思想であった。しかしホッブスの「法の原理」は、「生命の安全」を守るための「主権の欠如」が内乱の要因であると考え、チャールズ1世に直接の擁護するものではない。革命議会は王党派への弾劾を強め、王党派とみられたホッブスは身の危険を感じて1640年末にいち早くフランスへ亡命した。リヴァイサンの序文で、ホッブスは大きな権力を欲しがる王党派と大きな自由を欲しがる議会派の間をすり抜けて、人間の生命と安全と平和のためになぜ権力は一つでなければならないのかを述べている。そしてこの政治姿勢と政治原理は、革命前に書かれた「法の原理」と革命後に書かれた「リヴァイサン」においても変わってはいない。ホッブスの政治学の三部作「法の原理」、「市民論」、「リヴァイサン」を通じて一貫した政治理論は、生命の安全と平和の確保という原則を保持し続けたことによって、現代にいたるまで影響を与え続ける近代政治学の創始者としても栄誉をホッブスに授けた。イングランドの政治は、国王と議会の協同による伝統的な二重権力論(制限・混合王政論)にこだわっている限りは、両者の闘争は終結せず、安定な政治は望めないというホッブスの信念があった。イギリスに議会ができたのは1295年の「マグナカルタ」(課税は議会の承認を必要とする)以来のことである。以降中世から近代におけるイングランドの民主主義の発展は、国王の権限をいかに縮小し、議会の権限をいかに拡大するかという争いであった。ジェームス1世(1566−1625)は17世紀になって「王権神授説」を高言して、国王と議会の対立を招いた。議会は1628年「権利の請願」を国王に突きつけ、1640年まで国王は議会を招集しなかった。1640年に議会が招集されると、議会は国王の大権に反対し内乱状態となり、1642年「ピューリタン革命」となった。国王は「絶対君主主権論」を唱え、議会は「議会主権論」を唱えて革命に向かって先鋭化したのであった。

「法の原理」(1640年)
「法の原理」の内容は、第1部「自立的人格としての人間について」、第2部「政治体としての人間について」となっている。第1部で人間の本性を分析し人間にとっての最高善は「生命の安全」にあること、そのためには人間が力を合わせて「共通権力」を作り、「自然権」を放棄して、共通権力を作ることを契約した全員の多数決で「代表(主権者)を選び、代表の作る法律に従って平和に生きることを述べている。第2部は「宗教と政治」の問題の解決策を述べている。ではどのようにして「国王大権論」でもなく「制限・混合王政論」でもない政治学を組み立てるのであろうか。ホッブスは古代ギリシャ末期の思想家エピクロスの政治学を用いて、ピューリタン革命期の王権と議会の対立の解消をはかる、新しい「近代国家論」の原理を提唱する。ドイツの哲学者ディルタイやカッシーラらはホッブスの思想にはエピクロス的性格があると指摘している。ベイリの「エピクロス」(1926年)を読むと、人間の本性、自己保存本能、自然状態、自然権、自然法、社会契約などエピクロスの理論はホッブスの政治学や国家論とほとんど同じであることが分かると著者は指摘する。ホッブスは、ヨーロッパ中世社会における市街的思想であるキリスト教思想に対抗する最強の思想としてエピクロスの哲学を採用したとみられる。「自然法」と「市民法」を組み合わせて「生命の安全」と「国家の安全」を体系描いた政治学はそれまで存在しなかった。ホッブスが近代国家論の創始者と言われるのはこのためである。ここでホッブスの政治学の特徴をまとめる。
@ 人間中心: デカルト(1596−1650)「方法論序説」やカント「純粋理性批判」は、認識の主体は人間にあると主張した。二人は人間の主体性を主張した近代最初の哲学者と言われる。ホッブスこそが近代において人間の主体性を主張した最初の人ではないかと著者は力説する。人間が国家や社会の主体である。人間を出発点とする点ではデカルトもホッブスも無神論になる。
A 生命の安全: 人間を運動の主体として捉えると、人間にとっての最高善は「生命の安全」であるという考えにつながる。生命活動を助長する行為は善、疎外する行為は悪である。従って戦争は最高の悪である。
B 自然状態: ホッブスは国家や法もないエピクロス的「自然状態」を持ってきた。それは人間の生命の安全を図るうえで国家を作ることが必要なわけを説明するためである。自然状態はもともと平和であるが、人間の本性には欲望がありこれが紛争の原因をなす。「万人の万人に対する闘争状態」という「自然状態」を出発点として、ホッブスは不安定な闘争状態から人間が主体的に抜け出す方法を示したのである。アリストテレスやボダンの政治学では人間は「社会的動物」であるから国家を作るとされる。
C 自然権の放棄と社会契約: 人間は自然状態でも理性を持っているから、自分は自分で守るという「自然権」の考えを放棄し、各人が力を合わせて「共通の力」を形成する契約を結ぶ方が利口であるという考えを提案した。
D コモンウエルと主権者の設立: 共通権力に参加した全員の多数決により「代表」を選び、この代表を主権者と呼ぶ。 そしてこの主権者には強い力を与えるのである。ホッブスの主権者は後のルソーの「一般意思」と同じく国民主権主義に支えられている。こうしてホッブスは人間が「自分の生命を守るため」には強制力を持つ国家を形成することが必要であるという近代国家論の原理を提示した。
E 政治と宗教の問題: ホッブスは原理主義に陥りやすい宗派の争いを憂慮し、「イエスは救い主である」という点において和解せよと呼びかける。のちの「宗教の自由」という考えに行き着くのであろうが、ホッブスから200年後J・Sミルの「自由論」(1859年まで待つ必要があった。キリスト教国家においては教会が主権国家に干渉する行為を否定している。ホッブスは「個人の自由」と「生命の安全」を保持するという「近代国家の原理」を構築したのである。

2) 近代国家論の誕生ー「市民論」、「リヴァイサン」

1640年革命議会(長期議会ともいう 1640−1653年)が始まった直後、長期議会の圧迫を予知してフランスへ亡命した。ホッブスが亡命した理由は「法の原理」で一国の平和を保つためには主権者に強い力を与えなければならないと書いたことで、国王擁護派だと見られ議会派から追及されるおそれがあったからである。ホッブスは代表(主権者)に強い力つまり法を制定する力を与え、国民はそれに従うべきだということで、特段国王を擁護したものではない。フイルマーの「神権授与説」とは全く違う。ホッブスは、当時の国王と議会の対立の中で、一国の主権は一つでなければならず、主権者は全国民の利益を代表しなければならないことを説いた。当時の革命の状況ではそのような社会契約説はとうてい両派に受け入れがたいものであった。長期議会はホッブスの説を説いた人を投獄したり又は処刑した。ホッブスは11年間フランに亡命せざるを得なかった。亡命中に「市民論」(1642年)、「リヴァイサン」(1651年)を書くことができたので、亡命生活は成功したというべきであろう。「市民論」は欧州の知識人に読んでもらうためにラテン語で書かれた。当時のイングランドではホッブスと革命詩人ミルトン(1608−1674年)の二人がラテン語の名手と目されていた。本国イギリスでは1644年マーストンムァの戦い、1645年ネイズビーの戦で王党派が破れ、王党派の貴族が続々フランスに亡命してきた。ホッブスの主人デヴォンシャー伯爵も1642年にフランスに亡命した。1646年にはチャールズ皇太子がパリに来て亡命宮廷を開いた。ホッブスはそのチャールズ皇太子の数学の家庭教師になった。宗教的にはホッブスは国王が教会の上に立つイギリス国教会を支持しており、国王を攻撃するピューリタン長老派とは仲が良くなかった。イギリス本国では1648年で内戦は終了し、独立派クロムウエル派が下院議員がイギリスの最高権力を掌握し、1649年チャールズ1世が処刑され王政が廃止された。こうしたなか1649年ホッブスは帰国の決意をした。パリでの亡命生活も危なくなる中で、ホッブスはスチュアート王朝への忠誠よりは、新政府への帰順を選択したようである。ホッブスの政治理論からして当然の帰結であり、現実政府に従うべしと心を決めた。こうして1649年後半から「リヴァイサン」の執筆にとりかかった。この「リヴァイサン」を皇太子に献呈したが、王党派や国教会聖職者らのホッブスへの批判が高まり、亡命宮廷の出入りが禁止された。1652年ホッブスは11年ぶりにロンドンに着いた。クロムウエルから帰国を許可された。「市民論」と「リヴァイサン」は欧州全体の国々の統治者と人民に向けて、人々が平和と安全に生きる政治とは何かを発信するために書かれた。ホッブスの政治原理(自由・平等・平和)はそれぞれの国でそれぞれの時代に渡って、ロック、プーフェンドルフ、スピノザ、ルソー、ペイン、ベンサム、ミル、トレルナなど第1級の思想家によって受け継がれている。また日本憲法の3原則(基本的人権の尊重、国民主権主義、平和主義)はまさに、ホッブスの政治原理そのものである。亡命生活の最後に書いた「リヴァイサン」は、「市民論」は王党派のために書いたとして、「リヴァイサン」はクロムウエルのために書いたとして、ホッブスはごうごうたる非難を受けた。この周辺の非難は当たらない。ホッブスは社会契約論によって、主権者は全人民の代表であり王党派とか革命派とかに限定したわけではない。すなわち「人民主権」の近代政治原理を主張したのである。この国民主権主義、人民主権主義はホッブスより一世紀後のペインやルソーによって受け継がれ開花したのである。次に「市民論」(1642年)と「リヴァイサン」(1651年)について、まとめておこう。

「市民論」(1642年)
「市民論」は18章からなり、第1から第4章までは「自由について」、第5章から第14章は「統治について」、第15章から第18章は「宗教と国家について」となって、分量でいうと「法の原理」の2倍くらいである。内容的には「法の原理」とほとんど同じであるが、イギリス人だけでなく欧州全体の統治者と人民に対して「正しい政治とは何か」を分かりやすく解説したものである。民主主義の原理、すなわち権力の基礎は人民の契約に基づいているという「人民主権論」を正当化した「社会契約論」について述べている。「社会契約論」はホッブス、ロック、ルソーなどの近代の代表的思想家によってとなえられたものと考えがちだが、実のこの考えはギリシャ時代のエピクロスの政治思想に見られる。ローマ共和国のキケロから中世のルクレチウスを経て、ルネッサンス期に受け継がれ17世紀に入ってガッサンディによって再生された。そして、社会契約説論が「人民主権論」として近代民主主義の政治原理にまでなったのはホッブスによってである。なぜホッブスかというとイギリスのピューリタン革命に遭遇して、「二重権力論」を克服してはるかに民主的なものに高められたからである。イギリスで「社会契約論」を用いて政治論を論じたのはホッブスとフィルマ―(1589-1653年)であった。フィルマ―は「権利の請願」(1628年)を前にして国王権力絶対化の理論を構築した。家父長制を根拠にしてその延長に国王の権利を祀りあげた。この家父長制論を真っ向から粉砕したのはロックの「統治二論」(1689年)であった。フィルマ―は権力の基礎ないし起源は人々の同意による。従って人間はそお統治形態を自由に選択できるという点で近代的な政治理論、すなわち「社会契約論」であった。この「社会契約論」は欧州大陸ではホッブスより半世紀も早く、絶対君主とローマ教皇との対立の際に用いられた。スペインのジェズイットの宣教師スアレス、モリーナ、マリアナなどの「サラマンカ学派」はローマ教会の権威と財産を暴君から守るために「社会家約説」により正当化した。さらのイタリア、イングランドのジェズイットも法王の権威は世俗的政府の権威より優先するとした。16−17世紀の全欧州における宗教改革以来のローマ教皇と各国の世俗的主権者の争いにおいてフィルマ―は国王の権力は人民の選択によるとしてジェズイット派を攻撃し、ホッブスは神が優先するか人が優先化の問題に対して、最終決着をつけるために「人間による、人間のための」権力の代表の社会契約論を再生した。ホッブスの政治理論で最も論争点となるのは、代表(主権者、最高権力者)にはコモンウエルスの安全を図り、人々の生命の安全を図るために強い力を与えなければならないし、又代表には反抗してはいけないという文言である。これはホッブスが絶対的君主を擁護しているに見えるが、カルヴィン主義の「抵抗権」理論(暴君には抵抗しても良い)は教会の中世的権力は世俗国王の権力に反抗しても良いことである。ノックス、ランゲ。モルネ、ブカナン、アルトジウス、グロティウスらは「反抗の権利」や「暴君の殺害」を公然と訴えたし、所有権や財産権という自然権は国王たりとも犯せないという立場である。こうしたジェズイットとカルヴィンは野理論は、国王の権力は人民の同意によってつくられたものであるという共通点を持っていた。しかしジェズイット派は神の集団であるカトリック教会や教皇の権威が世俗的各国君主に対して優越するという論理を展開した。カルヴィン派は、人民の君主に対する反抗権を主張した。ホッブスの政治学は「社会契約論」と「国家と宗教との関係」という二つの部分を解明して、世界初の「近代的国家論」を構築するものである。神の世界が優先するという宗教優先理論に対しては、ホッブスは「主権者権力」が絶対であるとして、それが宗教権力に優先するとした。すなわちホッブスは、権力の基礎は「人民の同意」によるという社会契約論を主張しただけでなく、国家の宗教からの解放という課題を提唱したのである。ここで真に近代国家論の創設者たりうる資格がホッブスにある。宗教界がホッブスを無神論者だと攻撃する理由もここにある。それに対してホッブスは「キリストが救世主である」点だけで結束しようと呼びかけた聖書主義の立場をとった。

「リヴァイサン」(1651年)
ボシュエが近代フランス語の創始者なら、ホッブスは近代英語の創始者と言われる。「リヴァイサン」は平易な英語で書かれた。「リヴァイサン」を一言で言うと、近代国家の原理を最初に系統化した国家理論の書である。「リヴァイサン」の最大の功績は生命の安全を達成するための社会契約論を構築したことである。ホッブスの社会契約論では、国家の基本的構成単位は「人間」である。カトリック教会や教皇から国家を解放し、国家と宗教を切り離す一大偉業をやってのけた。その背景には「マグナカルタ」以来のイギリスの民主主義の発展があった。リヴァイサンの構成は、第1部「人間について」、第2部「コモンウエルスについて」(国家論、政治社会論、主権論)、第3部「キリスト教のコモンウエルス」、第4部「暗黒の王国」となっており、「法の原理」や「市民論」を内容的に発展させ体系化したものであるが、宗教と政治に関する部分が多くなっている。第1部と第2部は近代国家論の原理と形成、第3部と第4部は聖書学である。「市民論」は「自然状態」から話を進めるが、「リヴァイサン」は「法の原理」と同じように、人間本性部分を繰り返して、そこから自己保存のために自然状態からコモンウエルスの設立に移る必要性が述べられる。人間本性は「十戒」のようなもので、命を守ることが最高善に設定されることがホッブスの自然法論の最大の特徴である。「主権者には強い力を与えよ」ということは、当時のイギリスの国情をあらわしているように見える。福沢諭吉の「文明論之概略で強調された、弱い国力では他国に侵略され独立を保てないという懸念と同じである。イギリスで常備軍が整備されたのは18世紀以降のことである。いずれにせよ近代国家には人民の生命と自由を守るための権力が必要である。民主主義の原理が、国民全体にいきわたっているかが最も大切なことである。時の権力者の恣意によって「法と制度」は、緊急事態とかによっていくらでも変えられる危険性があるからである。現在の議会制民主主義国家では、議会が国民の利益を代表しているとされる。大衆社会では国益と人民の利益には様々な矛盾と衝突が起きる。オーストリアの法学者ケルゼンはこれを「代表の擬制概念」と呼んだ。そして選挙で議会の多数意見を作るというが、議会の多数派意見が必ずしも国民の意見を時間差なしに代表しているとは言えない時には「直接民主主義方式(国民投票、リコール)」が採られる。ホッブスの時代はまだ議会民主主義制度が十分発展しておらず、代表とは誰の意見を代表するのかはっきりしなかった。権力の抑制は社会契約の原理によって担保できるとされた。ホッブスの政治学で問題とされるのが「主権者には抵抗してはいけない」という文言である。これに対してロックの「抵抗権」が対比される。ホッブスは二重権力の存在は混乱の原因だと考えていたからこういう文言が出てきたのであって、ホッブスの政治学の原理からは生命の保存、自然権から「個人的抵抗権」は当然容認されてる。ロックも名誉革命(1688年)を擁護して、人民全体の生命の危険があったときのみ反乱は正統化されるという。「リヴァイサン」第3部「キリスト教のコモンウエルス」の中で、ローマ教皇とカトリック教会を徹底的に批判した。メシア救世主の再来までは自然法思想でなんとかやっていけると考えた。理性の戒律である自然法とともに、すべての人民が政治的主権者の命令(法律)に従うことが必要であるという。各国の最高権力者である主権者が、聖俗両方の支配者であるとホッブスが述べている。国家と教会ひいては国家と宗教の分離と共存の論理を展開し、近代政治思想の基礎を築いた。第4部「暗黒の王国」は聖書論であるので、ここではもう述べない。

3) 哲学体系の完成ー「物体論」、「人間論」

ロンドンに帰ってからのホッブスは政治活動を注意深く避け研究を続けて、かねてからの念願であった「物体論」を1655年に、「人間論」を1658年に出版した。ホッブスは「哲学体系」を、「物体論」、「人間論」、「市民論」の順に構築する途上で、1640年にピューリタン革命に遭い、「市民論」を優先した。しかしホッブスの業績を不朽ならしめたものは、結局は「社会の哲学」(市民論、政治学、国家論)であったから、帰国してから亡くなるまでの30年間は「リヴァイサン」の補完作業であった。「物体論」(1655年)、「人間論」(1658年)のほかに、「哲学者と法学徒との対話」(1666年)、「ビヒモス」(1668年)にホッブスの余生が費やされた。「物体論」、「人間論」を含めて彼の哲学体系三部作が完成したのはホッブス70歳のときであった。物体論や人間論の基本部分は「法の原理」や「市民論」、「リヴァイサン」で言及しているのだから、さらに物体論や人間論を書く必要はなかったといえるが、彼の形式性(完成性)がそうさせたのであろう。ようするにホッブスは彼の政治学は「物体論」、「人間論」を踏まえていることを言いたかったのであろう。「物体論」、「人間論」の発展の上に彼の政治学があるとも思えない。むしろ歴史、先人政治・哲学思想家の書物、カトリック教義、法学、自然科学などすべての学問の集積の上に立たなければならない。1660年5月チャールズ二世がイギリスに帰国し王政復古となった。もはや時代は変わったので王政復古がどれほどの意味を持つかは分からないが、名誉革命の下準備が始まっただけかもしれない。ホッブスは1675年にデヴォッシャー伯爵家の本宅にうつるまで、ロンドンでは読書と研究にふけって、晩年の二大傑作「哲学者と法学徒との対話」(1666年)「ビヒモス」(1668年)が生まれた。「哲学者と法学徒との対話」は、エドワード・クックの「コモン・ロー至上主義」に対して、政治・国家においては全人民の契約による最高権力者=主権者の制定した法律が優越することを主張し、世界初の民主主義的政治システム理論を提起したのである。「ビヒモス」は世俗的主権者と宗教権力との対立原因を革命分析から明らかにした。両書はプラトンの対話形式という形で書かれている。一見落ち着いた学者生活をしているホッブスの周辺では論争が絶えなかった。一つはブラムホールとのスコラ哲学に関する論争、数学者のジョン・ウォリスや物理学者ロバート・ボイルとの論争があった。政治家のクレランドの「異端者法」攻撃などもあった。しかしホッブスを支えた人々がいた。新政府のアーリントン大臣、コジモ・デ・メディチ、ジョン・ヴォーン、マシュー・ヘイルラはホッブスを擁護した。ホッブスは87歳にして1675年にデヴォッシャー伯爵家の本館があるチャツワースに移り住んだ。そのまえにホッブスは「イリアス」、「オディッセイア」の英訳を完成した。そして1679年12月4日、風邪をこじらせて亡くなった。享年91歳であった。聖ジョン・バプティスト教会に眠っている。

4) 近代政治思想史上のホッブスの意義

17世紀イギリスの二つの市民革命は、その後の近代全体に関わる政治・経済・思想の民主主義モデルを形成した。(日本では一度も民主革命を経験していない) ホッブスはピューリタン革命(1640−60年)から名誉革命(1688年)に至る時代の息吹をいっぱいに吸った思想家であった。ホッブスの思想がその後のヨーロッパに与えた影響を検証しよう。まずホッブスと同時代の思想家について見てゆく。17世紀には3人の偉大な政治思想家、ハリトン、ハリントン、ロックがいた。クロムウエル時代にオックスフォード大学総長であったハリトン(1600-81年 )は、「モナーキー論」を著して「制限・混合王政論」を「議会主権論」という近代的政治論に組み替え、ホッブスとロックの橋渡した政治思想家である。ハリトンは不安定な「制限・混合王政論」を克服するため、国の主権を「国王・上院・下院」の3身分からなる議会にあるとした。この「議会主権主義」はロックに引き継がれ、今日の「議会制民主主義論」へと発展した。ハリントン(1611-77年)は名門貴族の出で、「クロムウエルの独裁」に反対し「オシアナ」を著して、「くじ引き」と「交代制」を柱にする政治制度と二院制の代表制を提案した。これは政治制度論によって権力を抑制する考えである。ハリントンはホッブスの政治論を高く評価したが、ホッブスには権力を抑制する制度論がないという。ロック(1632-1704年)はホッブス、ハリトン、ハリントンの政治論を巧みに接合して、私的所有権を自然法によって正当化し、所有権を守るために「社会契約」を結び政府を作るという、近代政治・経済思想モデルを打ち建てた。ロックの政治理論は、ジョンロック著 「統治二論」岩波文庫において、「私は政治権力とは固有権の調整と維持のために、死刑を含むあらゆる刑罰を伴う法を作る権利であり、またその法を執行し外国の侵略から政治的共同体を防衛するために共同体の力を行使する権利であって、しかも公共善のためだけにそれを行う権利であると考える」 という定義で始まる。ホッブスの政治思想はイギリスではロックによって受け継がれたが、欧州大陸ではドイツの政治思想家ぷーへんドルフ(1632-94年)が普及させた。プーヘンドルフはホッブスの社会契約を採用し、近代国家論を展開した。そこにロックと同じように「所有権の安全」を入れ、当時の領邦国家であるドイツの特殊事情によって2段階契約論に変えている。ドイツにはまだ市民階級不在であったためである。オランダのスピノザ(1632-77年)はホッブスの思想を後のルソーに受け渡したという点で注目すべき思想家である。国家と宗教との分離、生命の保全のための社会契約論はホッブスから受け継いだ。共和国オランダの政治風土から、最高権力者の権力をチェックする必要を考えていた点がホッブスとは違う点である。大陸フランスでは、ルソー(1712-78年)の「社会契約論」がフランス革命の導火線となった。18世紀中頃イギリスでは産業革命によって資本主義が発展し、フランスでは資本主義が創成期にあった。そこでは富の不平等という矛盾が顕在化し、自由と平等が同時に問題となっていた。自然法思想家たちの中で、不平等問題を世界で最初に取り上げた人がルソーであった。民主主義がまだ進んでいなかったフランスでは封建的絶対君主制と資本主義の矛盾という二重苦にあえいでいた。1755年に「人間不平等論」を書いたが、マルクスのような分析ができなかった。「社会契約論」では「人民主権論」を提起し、人民の意志と力を「一般意思」と呼び、この一般意思がすべての権力より優先するとした。ホッブスの「主権論」を「一般意思」に置き換えてすっきりさせ、主権者と契約者の利害の乖離という誤解を解いた。次にロック以降のイギリスの「社会契約論」を発展させた政治思想家として、「コモン・センス」を書いたペイン(1737-1809年)はアメリカ独立運動を支援した。イギリスの民主主義は実質的に不十分である(下院の選挙権は成人男子の1/7以下)として選挙権の拡大や経済的平等を訴えた。ベンサム(1748-1832年)は市民社会にふさわしい新しい政治思想を意識して、「最大多数の最大幸福原理」という「数の原理」を導入し普通選挙法を提案した。ベンサムの政治思想は19世紀半ば以降、労働者の要求を考慮した福祉国家への道(J・Sミル)へと発展し、植民地政策・帝国主義批判や社会民主主義の提案(E・Hカー、ラスキ〉へと進んでいった。

欧州において、イギリス・フランス系の思想とドイツの思想はかなり異なっている。遅れて連邦国家を統一し、皇帝による立憲政治の道を採ったドイツでは、「社会契約論」や「自然法思想」の重要性が認識されたのは第一次世界大戦のドイツ敗戦後のことである。(日本では第2次世界大戦敗戦後のアメリカによる民主革命を待たなければならなかった) トマス・マンは自然法思想の重要性を認識した。その中でテニエスはホッブスの再評価を行った。ドイツの二大哲学である、カント(1724-1804 年)とヘーゲル(1770-1832年)もホッブスやロックの政治思想を十分理解するこてゃできなかったという。フランス革命は隣国ドイツにも影響を与え、カントはルソーの「エミール」を愛読したという。ヘーゲルはフランス革命を支持するクラブに入って、ドイツにおける近代的統一国家の夢を見た。だがドイツの封建的割拠状態を見て、「とうていドイツは国家とは言えない」と嘆息した。カントやヘーゲルにも見られたように、ホッブス、ロック、ルソー的な近代自然法思想を理解できなかったことが、第二帝政滅亡後にヴァイマール共和国が作られたにもかかわらず、わずか4年でヒトラーの独裁を生み出したことは、「市民社会」の成熟が不十分で官僚制統治国家から一歩も出られなかったことの原因である。それは日本の軍国主義政府の出現と同じである。遅れた国の運命であったといえる。主権者と人民が乖離し、人民が主権者ではなかったことである。第1次世界た戦後のドイツではゲルマン民族の優秀性を強調する「ドイツロマン主義」を克服し、ドイツ民主化を進めることが課題となった。宗教社会学者エルンスト・トレルナ(1865-1923年)は偏狭な民族主義や権威的国家主義の思想を痛烈に批判し、「近代自然法思想」に見られる「自由・平等・平和」を台とする普遍的思想の確立を提唱した。トマス・マン(1875-1955年)も「魔の山」ではドイツ的思考と自然法思想との対比した。ドイツは民主党で憲法学者フーゴ・ブロイスト(1860−1925年)が起草したヴァイマル憲法を制定し共和国制となったが、わずか14年でナチによって制覇され第2次世界大戦を起した。民主主義の遅れた国(ドイツ・日本・ソヴィエト)では「危機回避」の為という理由でいったん権力が集中されると、そのまま独裁的権力が永続的なものになる。つまり「大統領の独裁」はそのまま「ヒトラーの独裁」にすり替わったのである。人民による権力の抑制機能、監視機能が不十分なのである。この欠点を見抜いたカール・シュミット(1888−1985年)は一連の著作において、強いドイツを再建するため大統領に強い権限(非常大権)を与え、反対党との共存にたつ「西欧型議会民主主義」を否定した。日本では明治維新から太平洋戦争敗北に至る道はまさにドイツの後塵を拝する蚊たちで後追いした。民法をはじめドイツの法制をそのまま移殖し、極めて人民の力を軽視した国家主導型官僚主義による主権者独裁政治を貫いたための当然の敗北であった。明治維新後の啓蒙期に果たした福沢諭吉の役割は大きいが、西欧デモクラシーを紹介するにあたって、近代自然法思想や社会契約論などの紹介はほとんどない。西欧がなぜ民主主義を勝ち取ったのかという歴史的考察がなかったのである。大正デモクラシーで一時咲いたあだ花は昭和に入って軍靴によって簡単に踏みにじられた。



読書ノート・文芸散歩に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system