沖縄は2016年の今、辺野古新基地建設を巡って、日本政府と沖縄県の厳しい対立の中にある。そして辺野古新基地建設は、単に米軍基地の建設をめぐる問題だけでなく、戦後70年の日米沖縄関係史の到達点でもある。1945年8月は、ポツダム宣言受諾によって連合軍に無条件降伏した日本の戦後史の始まりである。連合軍(実質的にアメリカ軍)の占領政策は、@天皇制の利用、A日本の非武装化、B沖縄の分離軍事支配という3点セットでスタートした。その後冷戦構造の中で日本の非武装化は「目下の同盟国化」へと変質したが、基本的構造は変わらなかった。この基本的枠組みは、対日平和条約(サンフランシスコ条約)と日米安保条約によって、日本の主権回復後も維持された。そしてこの枠組みは日本政府によって対米従属的日米関係の矛盾を沖縄にしわ寄せすることによって日米同盟を安定させる基本構造として戦後ずっと利用されてきた。60年安保条約改定にいたる本土米軍基地のしわ寄せはその顕著な現れであり、この仕組みは「構造的沖縄差別」と呼ぶことができる。1972年沖縄は日本に主権が返還された。日本本土の米軍基地は約1/3に縮小されたが、在日米軍基地の75%が沖縄に集中することになった。沖縄返還後も「構造的沖縄差別」は維持されてきた。1995年米兵の凶悪犯罪をきっかけに爆発した米軍基地縮小、日米地位協定の改定要求は、沖縄の構造的差別が可視化されてきたことを意味する。これに対して日米政府は、普天間基地や北部訓練場の基地返還で、在沖縄米軍基地を20%削減することで合意した。ただその本質は老朽化した普天間基地を新らしい機能的基地に置き換えるということに過ぎなかったので、民集の強い反発を招いた。沖縄の保守陣営は普天間基地代替え施設については、1999年12月「15年使用期限付き、軍民共用空港を辺野古に建設する」ということで、沖縄県知事、名護市長と政府の合意が成立し閣議決定した。ところが、在日軍再編成協議の過程で沖縄の頭越しに破棄され、日米政府によって現行案が押し付けられた。これにより「日本にとって沖縄とは何か」という問いが広がり、政権交代やオスプレイ配備によって、この基本的な自決、民主主義、平和が戦後の到達点として問われている。新崎盛暉氏の著書は初めて読むことになるので、まず氏のプロフィールをまとめる。新崎氏は1936年(昭和11年)東京生まれ。1961年東京大学文学部社会学科卒後都庁に勤務した。かたわら沖縄資料センターの活動に従事し、反戦運動家として活動、1978年伊波普猷賞、84年沖縄研究奨励賞、93年沖縄タイムス出版文化賞受賞。岩波新書編集部から琉球新報社に出向して赴任し、1974年沖縄大学教授、学長を務め、2007年定年退任、名誉教授。 沖縄現代史を論じる。「九条科学者の会」呼びかけ人を務めている。沖縄現代史に関する著作は特筆すべきは、英文学者・評論家の中野好夫氏との一連の共著である。「沖縄問題20年」〈岩波新書 1965)、「沖縄70年前後」(岩波新書 1970)、「沖縄戦後史」(岩波新書 1976)の3冊がある。中野好夫氏は1958年から1976年まで憲法問題研究会に参加。護憲、反安保、反核、沖縄返還、都政刷新を主張して社会活動を積極的に行った。沖縄問題への取り組みとして沖縄資料センターを設立、のち法政大学沖縄文化研究所に引き継がれた。新崎盛暉氏は沖縄返還までは東京で生活し、時折パスポートを得て沖縄を訪問していたという。沖縄返還後に1974年氏は沖縄に移住し、沖縄大学教授として社会運動、文化運動に加わった。1995年沖縄民衆の決起を体験した。沖縄問題への発言を著書で見ると、「戦後沖縄史」 日本評論社 1976 (戦後史双書)、「沖縄現代史 」1996.11 (岩波新書)、「沖縄現代史 新版」2005 (岩波新書)などがある。
私は沖縄問題については不勉強であったことをまず白状しておきます。この読書ノートを見ても、石川文洋著 フォトストーリー「沖縄の70年」 岩波新書(2015年4月)の1冊しか読んでいない。フォトストーリー「沖縄の70年」は文字通り、写真に語らせるものですが、新書では写真が小さいので、迫力がいまいちです。文章を取るか、写真を取るか迷うところです。そこで印象に残る総括に近い言葉を拾ってゆくことにします。
* 「戦争とは命を奪う。個人、公共の財産、自然を破壊する。軍隊は民衆を守らない。」
* 「沖縄の集団自決は捕虜になるよりは潔く死ねという日本軍の戦陣訓を民間人に強要したことが原因である」
* 「もし沖縄が今後どこからか攻撃を受けるとすれば、それは米軍基地と自衛隊の基地が沖縄にあるためであり、その時米軍も自衛隊も沖縄の民衆を守ることはできないだろう」
* 「この惨劇にまで民間人を追い込んだ皇民教育や日本軍を憎み、自決とは絶対に呼びたくはない」
* 「私は日本人である前に沖縄人であると思っている」
* 「私にとって天皇、日の丸、君が代は戦争と重なっている」
* 「第1次世界大戦後ドイツ領であったマーシャル、カロリン、マリアナ諸島は日本委託料統治領となり、砂糖以外に産業を持たない貧しかった沖縄人は南洋諸島へ移住した。その数は約6万人、うち1万2826人が戦争で悲惨な最期を遂げた。1944年サイパン、テニアンはアメリカ軍の空襲を受け、7月7日南雲総司令官が総攻撃を命じて、日本軍は壊滅し戦闘は終わった。民間人は自決を強いられた。」
* 「1964年8月4日、米駆逐艦が北ベトナムから魚雷攻撃を受けたとする「トンキン湾事件」が勃発した。北ベトナムへの北爆が開始される口実となった。これはアメリカ軍の謀略であることが外交資料より判明した」
* 「連日沖縄嘉手納飛行場より、黒い空の要塞B52が北ベトナムを目指して飛び立った。沖縄基地の動きは、ベトナム戦争の動きに一致していた」
* 「沖縄系の米兵當間さんはベトナム独立戦争に参加した。1975年3月解放軍の攻撃でサイゴン政府は崩壊しサイゴンは解放された」
* 「1969年1月命を守る県民会議は2月4日にゼネストで10万人を動員する計画を発表、基地包囲はアメリカに対する抗議だけでなく、沖縄に犠牲を強いてきた日本政府に対する怒りである」
* 「アメリカ民政府は綜合労働布令を出してゼネストを弾圧、公選で選ばれた屋良琉球政府政権は、日本政府のゼネスト中止要請を前に苦渋の選択を行い、中止のやむなきにいたる」
* 「1970年12月ゴザ事件が起こり、1971年11月には沖縄復帰日米声明反対やり直し・完全復帰要求ゼネストが決行された。こうして1972年5月15日沖縄の本土復帰の日を迎えた」
* 「1960年に改定された日米安全保障条約により、日本はアメリカの行動に常にイエスであり、常に追従してきた。日本の安全を守ってもらうために沖縄の基地はやむを得ないということは、本土の安全のために沖縄がまた犠牲になるということか」
* 「1989年の日本に存在した米軍基地の施設の約75%が、日本全土の0.6%に過ぎない沖縄に集中していた。沖縄の基地はまさにアメリカの言う太平洋の要石となっている。1996年にはアメリカ軍の日本本土の基地は縮小したが、沖縄基地は返還されていない。沖縄の基地関係からの収入は年間1628億円であった。沖縄経済の基地依存度は4.9%まで下がった」
* 「1996年9月8日大田知事のもと、沖縄基地県民投票が行われ、有権者90万票のうち投票率59.5%で、基地返還賛成票は48万2538票、反対票4万6332票、日米協定の見直し賛成89%という結果で、沖縄県人の意志は固かった。太田知事の功績は平和の礎の建設と、軍用地の代理署名拒否であった。辺野古埋立を承認した沖縄の裏切者仲井間知事とは決定的に違う」
* 「2012年9月オスプレイ配備反対県民集会が行われた。基地は40年前と変わらずに残り、県民の所得は全国最低、失業率は最高率である」
* 「2014年11月沖縄県知事選が行われ、辺野古移転反対の翁長雄志氏が当選し、辺野古移転工事を承認した仲井間氏を打ち破った。今辺野古海上は埋め立て工事阻止の市民とのボートと、海上保安庁の武装ボートで混戦している。今安倍政権は国家権力で反対する沖縄県民を抑え込み、基地建設を強行している。これは民主主義に対する不正義であり、不正義には勝利はない」
本書新崎盛暉著 「日本にとって沖縄とは」は沖縄現代史である。歴史は年表に沿って語られる。そこで石川文洋著 フォトストーリー「沖縄の70年」で用いられた年表より、本書の年表の方が1945年から一段と詳細であるので、石川氏の本の年表をもとにして年表を補充拡大した。本書の内容に入る前に沖縄の現代史年表をおさらいしておこう。
年 | 事項 | 年 | 事項 |
1879 | 尚秦 首里城を明け渡す。明治政府 琉球藩を廃し沖縄県を置く | 1970 | 11月国政参加選挙 12月ゴザ事件暴動 |
1892 | 宮古島で人頭税撤廃運動が起こる | 1971 | 6月沖縄返還協定に調印、8月ニクソンドル交換停止 11月返還協定批准反対のゼネスト |
1899 | 第1次ハワイ移民団27人が出発 | 1972 | 5月沖縄返還、翌年自衛隊が沖縄へ移駐 9月日中国交正常化 |
1903 | 土地整理事業が終わる。宮古・八重山の人頭税撤廃 | 1975 | ベトナム解放軍サイゴンに入城、沖縄海洋博開催 |
1909 | 府県制(特例)施行 | 1976 | 南北統一選挙により、ベトナム社会主義共和国成立 |
1937 | 盧溝橋事件勃発、日中戦争に突入 | 1977 | 5月公用地法期限切れ 地籍明確化法成立 |
1941 | 真珠湾攻撃、アジア太平洋戦争始まる | 1987 | 国民体育大会「海邦国体」開催 |
1944 | 米軍サイパン島上陸、8月学童疎開の対馬丸魚雷を受け沈没、10月那覇が空襲を受ける | 1991 | 湾岸戦争始まる |
1945 | 5月米軍沖縄本島上陸 6月米軍普天間基地建設、日本軍壊滅 8月日本無条件降伏 9月沖縄守備軍降伏に調印 | 1995 | 平和の礎完成 9月沖縄米兵少女暴行事件起きる 地位協定見直し要求 10月県民総決起集会 |
1947 | 5月日本国憲法施行 | 1996 | 4月日米政府が普天間飛行場の全面返還を発表 9月地位協定と基地問題で県民投票行われる、賛成89% |
1950 | 米国民政府が設置される。6月朝鮮戦争勃発 8月警察予備軍令公布 | 1997 | 1月名護市辺野古沖に海上ヘリ基地建設を発表 12月名護市民投票53%反対 比嘉名護市長辞任 |
1951 | サンフランシスコ講和条約 日米安全保障条約調印 | 1999 | 11月稲峰知事普天間代替えに辺野古沿岸移設表明 12月岸本名護市長15年使用期限付き軍民共用空港受け入れ表明 12月軍民空港閣議決定 |
1952 | 米国の施政権下に置かれる、4月琉球政府発足、日米安保条約発効 10月保安隊発足 11月米民政府軍用地の「契約権」公布 | 2001 | 米国で9.11多発テロ発生 ブッシュ大統領対テロ戦争宣言 |
1953 | 1月映画「ひめゆりの塔」公開 4月米民政府「土地収用法」公布 奄美諸島、日本に復帰 | 2004 | 4月防衛施設局辺野古移設事業に着手 8月沖縄国際大学に米軍ヘリ墜落 |
1956 | 6月プライス勧告発表 島ぐるみ闘争へ発展 12月瀬長亀次郎那覇市長に当選 | 2007 | 5月米軍再編成特措法成立 9月教科書検定意見撤廃を求める県民大会が開催 |
1959 | 3月日米安保条約改定阻止国民会議結成 6月石川市宮森小学校に米軍機墜落 | 2010 | 1月辺野古基地建設反対派稲峰氏が名護市長に当選 4月国外・県外移設県民大会 9月尖閣諸島で中国漁船と海上保安庁が衝突 |
1960 | 4月沖縄県祖国復帰協議会が結成される 5月立法院メースB持ち込み反対決議 5月政府安保改定法案強行採決 6月アイゼンハウアー大統領沖縄訪問 岸退陣、7月池田内閣誕生 | 2013 | 3月防衛局辺野古沿岸埋め立て申請 12月仲井間知事が名護市辺野古移設計画で埋め立てを承認 |
1962 | 2月立法院復帰決議採決 3月ケネディ大統領新沖縄政策発表 10月キューバ危機 | 2014 | 7月集団的自衛権閣議決定 11月仲井間氏を破って反対派翁長氏が知事に当選 12月辺野古移設反対派が衆議院選挙で勝つ |
1964 | 8月トンキン湾事件 ベトナム戦争北爆開始 | 2015 | 1月翁長知事が辺野古移設作業の中止を指示 4月菅官房長官と翁長会談 安倍首相と会談 7月第3者員会は埋め立て承認に問題ありとする 8月―9月政府と沖縄県による集中審議 10月翁長知事埋め立て承認取り消し |
1965 | 2月米北爆開始 B52戦闘機嘉手納基地よりベトナムへ爆撃 8月佐藤首相沖縄訪問 | ー | ー |
1968 | ベトナム解放軍テト攻勢、初の首席公選実施、屋良朝苗氏当選 11月嘉手納基地でB52墜落事故 | ー | ー |
1969 | 2月ゼネスト中止、11月佐藤ニクソン共同声明で72年本土復帰決まる | ー | ー |
まず象徴天皇制・非武装日本・沖縄の米軍支配の3点セットの占領政策が冷戦構造によって変質することを明らかにしよう。1945年近衛文麿は昭和天皇に和平交渉を奏上したが、軍部に囲まれた天皇には敗戦の判断ができなかった。3月約54万人の米軍が沖縄読谷海岸から沖縄島に上陸を開始した。迎え撃つ日本軍は約10万人、以降3ヶ月民間人を含んで激しい地上戦が行われた。米軍は沖縄島中央から二手に分かれ、主力は日本軍司令部がある首里城に向かって南下した。たった10Kmが主戦場になり50日の死闘で5月末には司令部は敗退した。降伏を拒んだ司令部は民間人を巻き込んで南下した。戦力・兵糧を欠きただ捨て石として、米軍の本土進攻を遅らせるだけの闘いに、約65000人の本土兵と、沖縄の兵約3万人、そして民間人約94000人が犠牲になった。この沖縄戦に学んだ米軍は消耗の大きい地上戦闘を避け、空軍・海軍中心の本土爆撃の方針に変更し、さらに8月6日・8日には原爆を広島・長崎に投下した。本土決戦は行われず、原爆に恐怖した日本の支配層はポツダム宣言を受諾し連合軍に無条件降伏した。ポツダム宣言(山田侑平監修 「ポツダム宣言を読んだことがありますか」共同通信社 2015))は、戦後日本の非軍事化と民主化を要求した。日本政府のサボタージュに関わらず、GHQは直接指示によって民主改革を進め、マッカーサー元帥は日本国憲法草案の起を指示した。占領政策の円滑な遂行には天皇制を利用すること、一切の軍備と戦争放棄、封建制度の撤廃の3点が新憲法の主眼であった。象徴天皇制は封建制と国民主権の妥協の産物であった。1946年3月、主権在民、象徴天皇制、戦争放棄を規定した憲法草案を日本政府が受け入れた。そして46年11月公布、47年5月3日施行された。衆議院議員選挙では沖縄は選挙区から削除され、国会に沖縄選出議員はいなくなった。沖縄の分離軍事支配と非武装国家日本の関係は表裏の関係にある。分かち難く結びついているのである。本土の非武装化、沖縄の米軍の軍事要塞化はセットになっている。1947年6月末マッカーサーは、日本の非武装化、日本と沖縄の分離を行い沖縄を米軍の軍事戦略拠点にすると発表した。46年9月に沖縄に関する天皇メッセージがGHQに伝えられた。米軍の有限期間沖縄を軍事支配することを認め、それが日米の利益にもなるという政治的発言で、アメリカはこれは天皇の個人的利益であるというコメントを付けた。主権在民を無視し象徴天皇にあるまじき発言であるが、日本の支配者はまだ民主主義のイロハも理解していなかった。GHQの占領政策は1949年の中華人民共和国の樹立が視野に入ってくる段階で修正を余儀なくされた。「非武装国家日本」を、アメリカの「目下の同盟国」として保護育成する政策への転換である。1950年8月警察予備隊が設置された。同年6月から始まった朝鮮戦争によって、マッカーサーは日本を「反共の要塞」とすると宣言した。警察予備隊は1952年保安隊に、1954年自衛隊に整えられた。非武装国家日本を「反共の砦」に転換するためには、米軍の恒久的な日本駐留政策が必要となった。東アジアにおける日本の戦略的重要性が謳われた。こうして日米の相互利用・相互依存関係を土台として戦後の日米関係がスタートすることになった。だが日本の再軍備と共に、非武装国家日本を宣言した日本国憲法との矛盾が表面化した。米軍が日本全体を基地化することが可能となった段階でも、沖縄の米軍支配は強化された。
米ソ冷戦による国際関係の緊張によって、日本の講和条約もアメリカの対日占領政策の延長線で準備され、1951年9月8日サンフランシスコ講和会議が行われ、対日平和条約が49か国間で調印された。対日平和条約第3条は「沖縄・小笠原・奄美を国連の信託統治制度の下に置くアメリカの提案に合意する。それまでアメリカは全権力および一分を行使する権利を有する」としたが、アメリカは国連は冷戦下では機能しないとして、暫定的に権力を行使する道を選んだ。吉田首相は「第2条(朝鮮、台湾、千島等権利権限の放棄)とは違って、第3条は日本の憲利・権限は不明瞭であるが、米国政府の善意を信頼して、これら諸島の地位に関する日米両国間の協定に待ちたい」と述べた。対日平和条約が締結された日に、日米安保条約も締結された。これは米軍が日本に駐留する権利を与えられた基地貸与協定みたいなもので、米国には日本防衛の義務はなかった。連合国は撤退するが、米軍は日本に駐留できるというものである。沖縄はもはや日本の安全を守る軍事拠点ではなく、アメリカの世界戦略における「太平洋の要石」となった。日米安保条約はフィリッピン、韓国、台湾との相互防衛条約の結び目としての役割を担わされた。1952年のサンフランシスコ講和条約締結から60年安保改定交渉が始まるまでの時期は、沖縄の問題が日本全体の問題として大きくクローズアップされた時代であった。日本全体に沖縄の問題が可視化されたということである。アメリカの対日講和七原則は、沖縄の日本からの分断を固定化し、アメリカを施政権者とする信託統治性の下に置くという方針であった。沖縄4島の群島議会決議では、沖縄民衆の圧倒的多数は日本復帰の希望を示したが、日米政府は一顧だにしなかった。米軍は広大な土地を軍用地として取り上げ、反対者には「アカ」のレッテルを張って弾圧し、親米勢力を有利にするため露骨な選挙干渉をおこなった。こうして日本の「主権回復」の日から、米軍政下に取り残された沖縄の暗黒時代が始まった。アメリカが接収した土地は1955年段階で約4万エーカーに達した。52年契約期間・貸借方法・使用料を決めた「契約権」を公布した。1953年新たな土地を接収するため「土地収用令」、1954年軍用地料一括払い計画を発表した。琉球立法院は54年4月一括払い反対他3つの要求を含む「軍用地処理に関する請願」(土地を守る4原則)を可決した。この決議と同時に立法府・行政府・市町村会・土地連合会は四者協議会を結成して、1955年6月米軍と交渉した。これに多子て米下院軍事委員会はプライスを委員長とする特別委員会を沖縄に派遣し、「プライス勧告」を公表した。これは従来の米軍の占領政策を正しとしたもので、期待を裏切る勧告であった。日本本土(著者はこれを「ヤマト」と呼ぶ)では、「血のメーデー事件」、砂川闘争、農婦射殺事件(ジラード事件)など、日本全土で反米反基地闘争が続発した。ところが本土では沖縄の実情をメディアが伝えることは全くなく、「沖縄の米軍基地の建設特需」という経済効果だけを好ましいものとして伝えるだけであった。ただ朝日新聞だけが55年1月13日の特集記事「米軍の沖縄民生を衝く」という記事を組んだ。「プライス勧告」が出された56年6月、沖縄では「プライス勧告」反対、四原則貫徹を叫ぶ「島ぐるみ闘争」が爆発した。6月20日、56市町村で一斉に市町村大会が行われ、16-40万人が参加したという。6月27日沖縄から四人の代表団が上京し7月4日日比谷音楽堂で「沖縄問題解決国民総決起集会」が開かれた。この時点でも本土の沖縄理解はまちまちで、沖縄の位置づけを正しく理解しているとは言えなかった。島ぐるみ闘争は2年かかって、結局一括払いの撤回と軍用地料の引き上げによって終止符を打った。
2) 60年安保から沖縄返還へ (1957−1969年)1957年2月石橋湛山首相が病気で辞任した後を、岸信介が首相の座を継いだ。岸政権は「日米新時代」を提唱し、6月に渡米した中心課題は、沖縄返還の時期の明示と、基地貸与協定としての旧安保条約を相互防衛条約に[近づける形での安保条約の改定であった。小笠原、沖縄返還についてはアイゼンハウアー大統領はこれを拒否し、条約改定についても明言はなかった。共同声明では、「一切の米地上戦闘部隊の撤退を含む在日地上軍の大幅削減」という文言が入った。これは日本本土から撤退した海兵隊を、沖縄に移駐させるだけのことであった。57年7月1日極東軍司令部をハワイの太平洋軍に統括させることに伴い、沖縄統治は高等弁務官制がとられることになった。米極東戦略の再編成は沖縄の位置をさらに高めることとなった。「本土撤兵」のしわ寄せが沖縄に来たのである。本土の基地は1/4になり、沖縄の基地は2倍になった。こうして本土:沖縄の基地の比は1:1となった。安保条約改定が合意されたのは1958年9月の藤山外相とダレス国務長官会談においてであった。結局日本政府はアメリカの単独沖縄支配を承認した上で日米協力体制を前進させる途を選択した。こうして日米関係は「構造的沖縄差別」の上に築かれたといえる。構造的沖縄差別とは「対米従属的日米関係の矛盾を沖縄にしわ寄せすることによって、日米関係を安定化する仕組み」である。日本側は沖縄・小笠原を含めて共同防衛地域にし、アメリカ側が日本防衛の義務を明確にすることとで双務性を確立することを望んだが、アメリカは極東戦略のフリーハンドを確保するため沖縄は安保適用地域外に置いた。ヤマト本土側からすると、沖縄を条約適用外に置くことで戦争になった場合沖縄だけが戦火にさらされることになることを暗に示している。1959年1月「安保よりもまず祖国復帰」をスローガンとする祖国復帰県民大会が開かれ、1960年4月「沖縄県祖国復帰協議会」が結成された。ヤマトでは1959年3月「日米安保条約改定阻止国民会議が、総評、社会党、原水協などで結成された。岸政権がいう「相対的平等性回復」なる言葉の欺瞞性を指摘したのが、「日本帝国主義の自立への胎動」と規定した全学連であった。「こんな指導者のために若者が死ぬのは嫌だ」という声に突き動かされ、阻止行動は大きな盛り上がりを見せた。5月20日の衆議院での強行採決後、国会周辺では労働組による実力行使・国会包囲が行われた。6月19日ハガチー大統領報道官がデモに包囲され、6月15日全学連による国会突入が行われた。6月19日に沖縄を訪れたアイゼンハウアー大統領を迎えたのは復帰協のデモであった。安保闘争が盛り上がっているとき、沖縄では高等弁務官がミサイル基地建設を発表し、下院はメースB核弾頭搭載ミサイルの基地設置を承認した。立法院がメースB持ち込み反対を決議しても、本土ヤマトでは何の反応もなかった。本土の反安保勢力が沖縄との具体的共闘関係になかったことが最大の要因である。6月23日安保条約の自然発効の日、岸首相は退陣し、池田隼人内閣が成立した。1960年御復帰協の結成には、沖縄自民党は参加を拒否した。それは新しい政治状況の下では交渉によって懸案事項の解決を積み重ねてすべての制度を本土並みにする「祖国との実質的一体化」を図る方が有効だとしたのである。このため復帰協は革新共闘の母体としての役割を担った。1961年から、対日平和条約の発効した4月28日を「屈辱の日」と位置付けた。その意味では「屈辱の日」はアメリカのみに向けられるものではなく、米国が作り出した構造的沖縄差別を内在化させた対米隷属路線の日本政府にも向けられた言葉であった。1962年2月1日琉球政府は「2・1決議」を可決した。これは植民地解放宣言をした国連加盟諸国に対して、沖縄での不当な支配に注意を喚起する復帰決議である。この「2・1決議」は1963年2月第3回アジア・アフリカ諸国民人民連帯会議で、4月28日を沖縄デーとして国際的連帯を行うよう呼びかける決議につながった。革新団体からなる沖縄連は、対日平和条約発効の4月28日を沖縄返還国民総決起の日とすることを決めた。
「2・1決議」の時期の沖縄統治で見逃せないおは「キャラウェイ高等弁務官の直接統治」である。1962年10月にキューバ危機が発生し、米ソは一触即発の危険に面した。また3月にアルジェリア民族解放戦争が勝利し、7月にアルジェリアはフランスから独立した。東南アジアでは南ベトナム民族解放闘争、ラオス内線が発生した。2月アメリカ国防省は南ベトナム内線に介入を決意した。こうした中で沖縄ではメースB基地建設等核基地化が進行した。ケネディ大統領は3月「新沖縄政策」声明を行い、沖縄軍政が必要なことを強調した。キャラウェイの直接統治とは、彼の軍事官僚としての合理性の完遂という側面に加えるに、「2・1決議」に対する支配者の反動的対応であった。彼は直接的に立法院の法案審議や人事に介入し、厳しく本土・沖縄離間政策をとった。このため沖縄自民党の「積み重ね方式」の破綻を印象づけた。自民党は分裂し、反主流派は野党勢力の首席公選制闘争に合流した。これに対して本土ヤマト自民党は63年8月の経済援助政策「沖縄産砂糖の買い上げ」で、本土と沖縄の系列下傾向が強めた。1964年2月7日「トンキン湾事件」をきっかけにして、アメリカは北爆を開始した。ベトナム戦争で沖縄は南ベトナム軍兵の訓練、兵員・物資の輸送などで中継基地として利用された。沖縄内部の対立も激化し、自民党保守勢力は教職員の政治活動を規制しようとして1967年2月「教公二法」の制定を試みたが、失敗した。1970年安保改定を前にして、佐藤内閣は沖縄返還?軸に安保体制強化を目指す方向に舵を切った。1967年1月時点で米軍のベトナム派兵は朝鮮戦争を上回る47万人以上に達し、ベトナム政策の失敗は誰の目に見ても歴然として、アメリカの極東戦略の破綻の中で、沖縄支配も破綻した。こうして沖縄返還は、極東戦略の立て直しのための日米協力強化の中心課題となり、70年安保闘争も沖縄闘争とならざるを得なかった。佐藤首相は1965年1月の日米首脳会議で沖縄の米軍基地が極東の平和にとって重要であることを前提として沖縄返還の希望を表明し、ジョンソン大統領も理解を示したという。それは北爆開始1か月前のことであった。8月佐藤首相は戦後初めての首相として沖縄を訪問した。沖縄の表情は複雑で、反米感情はに強さに比べると、反日感情はそれほどでもなかった。佐藤政権の対沖縄政策の特徴の一つは、情緒的な本土・沖縄一体化論に基づく沖縄の共同防衛論であり、もう一つは「基地と施政権の分離論」であった。そこには沖縄返還を利用した軍事力強化への帝国主義的意図が如実に示された。佐藤政権は沖縄返還の条件づくりという意味付けを行い乍ら、安保体制の強化を図った。1967年11月第2次佐藤・ジョンソン会談の共同声明で、日米首脳は中国の脅威を意識しながら、日米安保条約の堅持、沖縄軍事基地の日米にとっての重要制を強調し、日本による東南アジア援助拡大を前提とした沖縄の施政権返還を行う基本方針を確認した。そして佐藤首相はここ2,3年以内の沖縄返還の見通しを述べた。沖縄返還が日米の軍事協力の強化と一体になっていることが明らかになるにつれ、復帰協などは「即時無条件全面返還」という反対論を展開した。11月20日佐藤首相が帰国した時、沖縄では「日米両政府に対する抗議県民大会」が開かれた。翌年1968年1月米国は沖縄行政主席公選を認めた。主席選挙は革新共闘の屋良氏が自民党候補西銘氏を破って当選した。1968年11月嘉手納基地で離陸に失敗したB52が大爆発を起こした。明けて69年2月14日に「いのちを守る県民共闘」はゼネストを行うことを決定した。ゼネストに一番驚いて回避策に動き回ったのは日本政府であった。政府はB52撤去をほのめかしてゼネスト回避を屋良主席に迫った。1月31日屋良主席は「忍び難きをしのいで」ゼネスト中止を決意した。2月4日統一行動は嘉手納基地前でデモをおこなった。佐藤政権は「1972年沖縄返還、核抜き、本土並み」を掲げて、1969年11月佐藤・ニクソン会談となった。ここで「有事の際の核持ち込み」の密約が日米で交わされた。(密約の現物文書は2009年12月佐藤邸で発見された) 72年返還に反対する県民抗議集会と訪米抗議集会は全国120か所で行われたが、佐藤首相は12月衆議院を解散し、総選挙を行うと自民党は300議席近い議席を得て大勝した。日米軍事協力強化政策の中心に沖縄返還を位置づけた政策が本土ヤマトでは成功したといえる。沖縄返還を機に、在日米軍の再編成が行われ、沖縄基地はそのままにして本土の米軍基地は1/3に減ったため、在日米軍基地の75%が沖縄に集中するという状況となった。第2次「基地のしわ寄せ」である。(第1次基地しわ寄せは、1951年サンフランシスコ講和と対日平和条約締結時) 日本政府はいつも本土の米軍基地を減らして沖縄に集中するという構造的不平等もしくは構造的沖縄差別政策を国是として進めてきた。安保体制強化とは沖縄基地の強化に他ならなかった。
3) 1995年の民衆決起 (1970−2006年)沖縄返還前後には、国際情勢が大きく変化した。その第1が中国との国交回復である。返還協定締結直後1971年7月キシンジャー大統領補佐官の秘密訪中があり、ニクソン大統領訪中が発表された。米国はベトナム政策に完全に行き詰まり、中ソの不和に付け込むように中国との関係改善に乗り出した。これまでアメリカの中国封じ込めに協力してきた日本はアメリカの頭越しの中国接近に驚き、72年9月急きょ田中角栄首相が訪中し、日中国交正常化を行った。これにより中国は日米安保体制を攻撃しなくなり、安保問題は沖縄問題となった。第2のニクソンショックは「ドル防衛非常事態宣言」であった。これまで1ドル=360円の固定制が崩れ、変動為替相場制のもと円高に変化することになった。沖縄県民にとってドルの下落は自分の所持金の目減りにつながった。72年沖縄返還政策反対闘争は敗北した。沖縄の希望は「本土並み」の米軍基地であったが、返還後は自衛隊配備となった。返還に際して豊かな沖縄県を目指す構想である「沖縄振興開発特別措置法」、「沖縄における公用ちなどの暫定使用に関する法律」(公用地法)が制定された。公用地とはほとんどが米軍基地用地のことである。返還後は米軍用地h安保条約地位協定に基づいて、日本政府が借り受けて米軍に提供することになる。そこで政府は米軍用地の使用料を6倍に引き上げ、契約促進を図った。するとサトウキビ農業の買い上げ価格が用地料を下回るようなり、軍用地として貸すことの方にメリットが出て、70年後半には「土地連」は自民党の支持基盤に変わった。それでも基地用地を提供反対者対策として、沖縄返還まで米軍用地として使用されていた土地は、土地所有者の同意がなくとも復帰後5年間は軍用地として継続使用ができる「公用地法」を制定した。1979年に5年間の公用地法が切れる対策として「地籍明確化法」(沖縄島の9%を占め、そのうち82%は軍用地であった地籍不明地)を反対派の切り崩しに用いた。いかにも官僚らしい悪智恵を絞った、嫌がらせ、見せしめ返還が行われた。1980年代には、こうした反対勢力の切り崩し策によって、革新共闘、沖縄独自の課題に取り組む地域共闘が形骸化してきた。こうして復帰後の闘いの担い手になるのが、反戦地主、一坪反戦地主、生活を守る市民のネットワークであった。返還の直前に、沖縄琉球政府は石油備蓄基地CTS建設予定地として、三菱資本による金武湾埋め立てを計画した。1973年「金武湾を守る会」の生活圏の民衆運動が始まった。1995年9月沖縄で米兵による少女暴行事件が発生し、日米地位協定を盾に米軍が被疑者引き渡しを拒否したことから、地位協定や日米安保条約の見直し要求へ発展した。この頃は東西冷戦の終焉によって世界の政治状況が大きく変わる節目に当たっていた。1995年11月クリントン大統領の訪日を前に、日米安保体制の「再定義」と強化・拡大の全容が明らかになり始めたところであった。安保再定義とは、沖縄基地の維持・強化を前提としていた。基地のありようを見直すということは、日米安保体制と沖縄の関係を、そして復帰後の歩みを総括するということでもあった。米兵による少女暴行事件はそのようなレ?私的総括の必要性を、衝撃的な形で多くの人々に認識させた。大田昌秀知事はさっそく地位協定の見直し要求を引っ掲げて上京した。地位協定の見直しはこの時が初めてではなかった。1958年米兵による殺人事件においても県議会は見直しを要求した。沖縄県警がまとめた復帰後23年間(72−95年)の米兵犯罪は総件数4784件うち殺人22件、強盗356件、婦女暴行110件であった。(1996−2013年の17年間の総犯罪件数は5833件、うち殺人26件、強盗391件、婦女暴行128件と、最近のほうが増加している。) 県議会の抗議は実に125回にのぼっていた。しかし日本政府の返答は木に鼻をくくったような対応で、怒った大田知事は強制基地使用代理手続きを拒否を表明した。米軍基地の強制使用に対する非協力宣言であった。10月21日「少女暴行事件糾弾と日米地位協定見直し要求沖縄県民総決起集会」が開かれた。宜野湾海浜公園に85000人の人があつまり、実に40年ぶりの大規模大会となった。11月4日村山富市首相と大田知事の会談が行われた。閣議決定により地位協定見直しのため、沖縄県代表も加わる新協議機関が設置された。このような状況でクリントン大統領の訪日は中止され、代わってゴア副大統領と村山首相の会談で、「沖縄に関する日米特別行動員会SACO」が設置されることになった。その発足とひきかえに米軍用地強制使用の代理署名を村山首相が行った。
1996年4月12日、村山首相に代わった橋本首相は、SACO中間報告発表前に突然、普天間基地の全面返還を発表した。続いて15日「日米安保協議委員会2+2」は、普天間基地の返還を決定した。17日にはクリントン大統領と橋本首相によって日米安保共同宣言が発表された。そこには指針ガイドラインの見直しなどが明記され、太平洋における米軍の活動を自衛隊が後方支援することなど、日本の軍事的役割が増大する形での日米軍事協力の強化が明確にされた。これが「安保再定義」である。1996年6月県議会選挙が行われ。大田知事与党が25対23で多数派を占めた。自民と維新は野党になった。県議会は日米地位協定の見直しと基地の整理縮小について県民投票条例を採択した。自民党県連は「島ぐるみ闘争」の戦列を離れ、自民党中央の系列下に入った。最高裁は「代理署名訴訟」判決を、県民投票告示前日の8月28日に設定し、判決は上告破棄、県側の全面敗訴であった。これは司法官僚の悪智恵、嫌がらせの極地だが、9月8日の県民投票では投票率59%、賛成は89%、全有権者に占める賛成者の割合は53%であった。9月10日に橋本首相と大田知事の会談が行われたが、基地問題に関しては努力するという口約束だけで、沖縄特別振興対策調整費50億円の予算措置と沖縄政策協議会の設置が提案された。基地問題を新興開発政策にすり替える(いわゆる札束で頬を打つ金目政策)結果になった。この首相談話を評価した知事に対して、代理署名拒否から始まった島ぐるみ闘争は終わった。日本政府は沖縄基地所在市町村振興予算を7年間で1000億円をつける提案をした。つまり原発所在市町村に様々な振興費をつけるやり方と同じやり方である。1996年4月15日のSACO中間報告は普天間基地返還を次のように述べている、。「今後5−7年以内に、十分な代替え施設が完成した後、普天間基地を返還する。普天間飛行場の重要な軍事上の機能及び能力は維持される。それにはヘリポートの建設、嘉手納飛行場に追加の施設の整備、岩国へのKC130飛行機の移駐などを検討しなければならない」と述べ、沖縄の米軍基地は20%減少するとした。1996年12月SACO最終報告では、3つの具体的な代替え案を「@ヘリポートの嘉手納基地への集約、Aキャンプ・シュワブにおけるヘリポートの建設、B海上施設の開発及び建設)とした。1997年1月日米政府はその海上施設の設置場所をキャンプ・シュワブ沖、すなわち名護市辺野古沖とすることに合意した。地元自治体は猛反対したが、大田知事は地元自治体の問題と傍観者的な態度であった。もはや大田知事は代理署名拒否以前の知事に逆戻りしていた。名護市民はヘリポート基地建設の是非を問う市民投票条例請求に乗り出した。比嘉市長や市議会は海上基地を容認する代わりに振興策の引き出しに熱心であった。市長は請求が多数となって時点で、賛成か反対かの選択ではなく「現状維持か、振興策か」にすり替えた。12月21日の市民投票は、20%が不在投票という管理投票であったにもかかわらず、投票率82%、反対の2つの選択合計が53.8%、振興策に賛成の2つの選択合計が45.7%となり、金よりも人間としての誇りに票を投じた。1997年12月24日比嘉市長と橋本首相会談が行われ、振興策を取る比嘉市長は基地受け入れを表明し、市長を辞任した。比嘉市長の辞任に伴う市長選挙が1998年2月8日に行われ、「海上ヘリ基地は知事の判断に従う」とした岸本氏が接戦の末に反対派を破った。自民党は政府に反旗を翻した大田沖縄県知事を振興策のゼロ査定で兵糧攻めにし、稲嶺恵一氏を次期知事候補とした。稲嶺氏は海上ヘリポートに反対であるため、「臨空型産業とセットになった15年間の使用期限付き軍民共用空港」案を提案した。1998年11月15日の知事選挙では稲嶺候補が37万票、大田候補が33万票で稲嶺知事が誕生した。
1999年12月、稲嶺知事は15年期限付き軍民共用空港の建設候補地は辺野古沿岸が最適であると政府に伝え、名護市長に受け入れを要請した。政府はさっそく政策協議会を開き、10年間で1000億円の振興予算確保を表明した。12月23日名護市議会は辺野古沿岸に普天間基地代替え施設の移転促進を決議した。岸本名護市長は26日に青木官房長官と会談し、代替え施設受け入れを表明した。政府は28日閣議で普天間基地の関する政府方針を決定した。政府としては、「15年使用期限付き軍民共用空港」などという条件は米軍に受け入れられるはずはないにもかかわらず、沖縄県民に曖昧な幻想をもたせ、既成事実の積み重ねでなし崩し的に実施するつもりであった。この間世界情勢は大きく変化した。2001年9月11日同時多発テロを受けて、ブッシュ大統領の対テロ戦争が始まった。那覇防衛施設局は、辺野古漁港から事前調査に入ろうとしたが、反対する市民に阻止された。2004年8月普天間基地に隣接する沖縄国際大学に米軍のヘリが墜落した。こうした事件のあと辺野古移転を急いだ那覇防衛施設局と市民・漁民の実力攻防が始まった。2005年10月29日日米安保協議会(2+2)は、名護市の頭越しに「15年使用期限付き軍民共用空港」案を拒否し、辺野古沿岸に1800mV字型滑走路2本を持つ新基地の青写真を公表した。辺野古移転ロードマップでは、在沖米海兵隊8000人と家族9000人が14年までのグアムに移転することが決定された。基地移転費用の一部は日本の負担となった。稲嶺知事はこの沿岸案に猛反発して海兵隊の県外移転を主張し始めた。翁長那覇市長は硫黄島を訪問し、2600m滑走路を持つ硫黄島の自衛隊基地への移転案や那覇空港案を提案したのもこの時期であった。稲嶺知事の後継の仲井間知事は県内移転容認派であったが、沿岸ではなく沖に出すことを提案した。1996年のSACO合意は普天間基地の返還というより、老朽化しリスクの高い普天間基地を移転し米軍基地の機能共感を狙ったものであった。2006年11月1日井波宜野湾市長は「普天間基地安全不適格宣言」を出し、すみやかな危険性の排除を訴えた。危険性の除去が新基地建設促進の口実として強調されるようになったのは第1次安倍政権のころからである。基地の危険性が及ぶのは基地周辺の住民だけではなく、事故は基地から離れた海上や訓練場で起きている。事故の発生件数や被害ということでいうと、最も危険だったのは嘉手納基地である。日米政府が辺野古にこだわるのは60年代にキャンプ・シュワブ沖の埋め立て計画があったからで、普天間基地代替えとしてこの辺野古基地計画がよみがえったのである。そしてその移転経費はすべて日本が負担する。大浦湾から辺野古沿岸を埋め立て、2本のV字型滑走路をもち、強襲揚陸艇も接岸可能な港湾施設や弾薬搭載場も持つ現在案が最も理想的な形である。この頃には沖縄の基地容認派も、安保が必要なら日本全体で考えてほしい、普天間基地の代替え施設は県外へと主張し始めた。軍事専門家も、「軍事的には辺野古でなくてもどこでもいいが、政治的には沖縄県内が最もやり易い」、すなわち米軍基地は沖縄に閉じ込めておく方が、本土で政治問題化しにくいと考えたのである。一方で日米共用空港である那覇空港の第2滑走路の沖合展開という問題がある。これは直接の米軍基地問題ではないが、那覇空港が米軍基地のために沖へ追いやられた感が強い。那覇空港の沖合埋め立ても好ましことではない。那覇空港は民間専用空港化が理想である。それより世界一危険な嘉手納飛行場の返還の方が先であろう。
4) 「オール沖縄」の形成 (2007年ー2013年)2007年9月29日宜野湾市の海浜公園は、教科書検定意見の撤回を要求する11万人の人々で埋め尽くされた。全沖縄県人の1割に近い抗議集会であった。これは1995年10月21日「少女暴行事件糾弾と日米地位協定見直し要求沖縄県民総決起集会」の宜野湾海浜公園集会の85000人よりはるかに多い人が結集した。問題のおこりは、2007年3月30日文部省が、いわゆる「集団自決」から日本軍による強制の記述を修正・削除した検定結果を公表したことである。このような文部省の検定意見が出てくることは、大江健三郎氏の教科書裁判からは予測ができるのであるが、2006年9月安倍政権の出現で「歴史修正主義(書き換え)」が露骨に教科書に介入してきたのである。安倍首相は「戦後レジームから脱却」した「美しい日本」づくりを掲げ、「押しつけ憲法論」、「教育基本法改定」、「従軍慰安婦問題に軍の関与はなかった」とする見解など、矢継ぎ早にかっての支配者にとって都合の悪い歴史を抹殺し、修正するいわゆる「歴史修正主義」で中国や韓国から猛反発されていた。この「集団自決」問題でも軍の強制はなかったという安倍政権の意向が反映していた。2007年5月辺野古沖に自衛隊の掃海母艦「ぶんご」を派遣して威圧行為を行うなど、安倍政権は沖縄に直接的な暴力行為を行う凶暴な政権であることが明白となった。同じ5月には米軍再編関係自治体にカネをばらまく「米軍再編成特措法」が成立した。安倍首相の基地政策は、地元を無視する高圧的な性格を強めた。5月から7月にかけて沖縄の41市町村議会は検定意見撤回を求める意見書を採択した。県議会も県民に衝き上げられようやく7月に全会一位の決議が出た。8月16日県議会議長を委員長とする「教科書検定意見撤回をもとめる沖縄県民大会」実行委員会が発足した。7月29日の参議院選挙投票が行われ、革新陣営が自民党現職を破った。こうした政治情勢を受けて、態度をあいまいにしてきた仲井間知事も大会参加を明確にし、「島ぐるみ」の輪が広がった。教科書検定問題は沖縄の問題だけでなく、いわゆる従軍慰安婦問題などと軌を一つにする日本社会の歴史認識(狭く言えば日本政府支配者の歴史意識)の問題であった。この教科書問題こそ「オール沖縄」の出発点となった。2009年9月鳩山民主党政権が誕生した。民主党は普天間基地の移転先は「国外、最低でも県外」という公約をしていた。県内で移転したら必ず固定化することを危惧したからである。2009年の総選挙で沖縄選出の自民党議員は全滅した。このことで自民党沖縄県連や公明党沖縄県本部は中央統制の枠から解放されたと言える。つまり沖縄の自公は「条件付き県内移転」から「県外移転」へ方針を転換した。周知のように鳩山政権の「国外、最低でも県外」という公約は脆くも挫折した。それは@オバマ政権内で鳩山政権の政策変更を認めなかった。A外務・防衛官僚派対米追随路線を変えないで民主党政権をゆすぶった。B日米関係の微調整さえ考えようとしないマスメディアの思考停止 が主な要因である。こうして1年もたたないうちに民主党政権は辺野古移転問題を振り出しに戻してしまった。2011年6月菅直人首相のもと、日米安保協議委員会(2+2)では普天間の固定化をちらつかせながら、2014年度までに辺野古移転を実行すると合意した。2011年9月に成立した野田民主党内閣では関係閣僚が相次いで沖縄を訪問し、柔軟な対応を始めた。それは米側の財政難による軍事費削減によるグアム移転予算の凍結、普天間基地の固定化、嘉手納基地への移転代替え策の検討指示などが背景にある。12月12日米両院協議会で合意し、グアム移転予算全額削除で予算が決まった。10月25日パネッタ米国国防長官と一川防衛相の会談の結果、辺野古移転環境影響書を年内に提出することを約束した。11月14日県議会は全会一致で年阿提出を断念する意見書を可決した。なんという姑息な手段であろうか、沖縄防衛局は仕事納めの12月28日午前4時に県庁の守衛室に環境影響評価書を運び込んだ。仲井間知事はこれを受理せざるを得ず、2012年2月に意見書を提出し、「生活、環境の保全を図ることは不可能で、移転は事実上不可能、国内の他の地域への移転が合理的」と指摘した。野田政権は移転に伴う2012年度沖縄振興計画を予算編成の土壇場で2937億円にかさ上げした。
同じころ、2011年6月米国は垂直離陸機オスプレイの普天間基地配置を県や宜野湾市に通告した。それに対し2012年9月に95000人の県民が参加してオスプレイ配備に反対する県民大会が開かれたが、翁長結縄市長会会長、県議会議長、連合沖縄会長らが実行委員の代表であった。10月1日にオスプレイが配備された後、3年間連日の抗議行動が展開されてきた。2013年1月、150人規模の『建白書」代表団が上京し、1月27日日比谷音楽堂で「ノーオスプレイ東京集会」を開いた。約4000人が参加した。2013年2月の日米首脳会談で、替わったばかりの第2次安倍首相は、集団的自衛権容認とともに、辺野古新基地建設促進を約束した。日米同盟強化によって中国敵視政策を取ろうとする安倍政権は、歴史認識に警戒する米国へすり寄るため、辺野古移転促進を手土産にしたのである。そして3月政府は沖縄県に対して辺野古の公有水面埋め立て承認願書を提出した。これに対して仲井間知事は「県外移転が基本」の態度を維持していたが、11月石破自民党幹事長が記者会見し、辺野古移転強行を示唆したため、12月1日沖縄自民党県連は「辺野古移転を含むあらゆる選択肢を排除しない」(辺野古移転を最重点に進めるということ)と政策を変換した。2013年12月17日上京した仲井間知事は缶詰状態で、管官房長官、安倍首相らと会談し、帰沖下した12月27日辺野古の埋立承認を発表した。埋め立て承認の条件とは、沖縄振興予算の数百億円の増額(計3510億円)と5年以内の普天間基地の運用停止であった。沖縄振興予算は大田知事時代の98年度の約4700億円をピークにして、漸減傾向にあり、2011年度は2300億円であった。ところが2014年9月に開催された日米合同委員会では、米側はあっさりと普天間基地の運用停止は早くて22年と断言した。話は少し変わるが、尖閣諸島はもともと沖縄県に属していた関係で、当の沖縄県の頭越しに進められている日中懸案の領土問題を取り上げる。2010年9月7日、尖閣諸島沖で中国漁船が海上保安庁の巡視艇に衝突する事件が発生した。当時の管民主党政権は、中国船の船長を逮捕して拘留した。これに対して、尖閣の領有問題は日中国境回復の時に棚上げ合意がなされているという立場から中国は激しく反発した。そして中国は日本商社員を拘束し対抗措置をとった。このため日本政府は交際問題化することを恐れ、那覇地検の判断で船長を処分保留のまま釈放した。1885年明治政府は「無主地先占権」を行使しして日本領としようとしたが、外務大臣井上馨は清とのトラブルを恐れて却下した。国標建立が閣議決定されたのは日清戦争中の1895年1月のことである。その後4つの諸島を商人に無償貸与し鰹節工場の経営が行われた。1932年その子息に有償払い下げとなった。戦後米軍政下においては一つの島が米軍の射撃訓練場として貸与された。この辺のいきさつや尖閣諸島の所属問題の歴史は、豊下楢彦著「尖閣問題とは何か」(岩波現代文庫 2012年)に詳しく書かれているので、沖縄県の動き以外は本書では詳述しない。この無人島で忘れられた島々が再び脚光を浴びるのは、1968年国連アジア極東員会ECAFEが周辺海域に石油資源埋蔵の可能性を指摘してからのことである。1970年7月、尖閣諸島の領有を主張する台湾当局が、太平洋ガルフ社に鉱業権を与えた。沖縄返還によって、尖閣諸島問題の交渉は日本政府があたることになったが、1972年日中国交回復において周恩来と田中角栄首相はこの領有問題を棚上げにした。中国の棚上げ論は、1992年に来日したケ小平副総理によって再確認された。とは言うものの1992年中国は領土として領海を設定し、日本も1996年200海里の排他的経済水域を設定した。日中国交回復40周年(2012年)に、日中関係を最悪の状態に陥れたのは、石原東京都知事の尖閣諸島買い上げ発言であった。これに挑発された形で、野田民主党政権が国有化宣言をしたため、この無神経さに中国は激怒した。政権交代した第2次安倍自民党内閣は、2013年5月「日台漁業協定」を締結し、台湾のご機嫌を取り中国との乖離策を弄したものの、台湾は領有権を主張したままの全く児戯に等しい効果のない独り相撲を演じた。要するに尖閣諸島近海は沖縄と台湾の漁民の生活圏にあり、実質は無人島で領有権がどちらでもいいわけである。石油が発掘されという話もないのに、閉鎖的なナショナリズムの煽動だけが目立つ日本政府のやり方は賢いとはとても言えない。この動きの延長上に、2014年4月与那国町や、石垣島、宮古島に自衛隊を誘致する計画が出た。安倍首相は危険な火種を周辺海域に巻いて紛争の種を植え付けようとしている。日中衝突という戦争の既成事実を作るために必死となっている姿は、日中事変勃発時の陸軍のやり方に酷似している。
5) 沖縄、そして日本は何処へ (2014−2015年)2014年の沖縄は選挙が相次いだ。1月名護市長選挙、9月名護市議選挙、11月沖縄県知事選挙、那覇市長選挙、県議補選、那覇市議補選、12月衆議院議員選挙(さらに3月石垣市長選選挙、4月沖縄市長選挙、10月豊見城市長選挙)があった。これらの一連の選挙は、自民党の一部から共産党までが、辺野古基地反対を掲げて政府自民党と闘うという前代未聞の共闘であった。そして勝利した。1月の名護市長選挙では現職の稲嶺氏と自民党の末松氏の対決となり、末松氏応援のため東京から石破自民党幹事長が駆けつけ500億円の名護市振興基金という金目選挙に持ち込もうとしたが、市民の反発を招いただけとなった。自民党候補が敗れるとこの話も立ち消えた。公明党は埋め立て反対の態度で自主投票となった。1月7日の告示直前に海外の言語学者ノーム・チョムスキー氏ら29人が「埋め立て承認を批判し、普天間の即時返還を主張する」声明を発表した。1月10日県議会は仲井間知事の埋め立て承認に抗議して、知事の辞職要求を決議した。那覇市議会与党の「自民党新風会」は野党と連携して、埋め立て反対の市議会決議を行った。自民党沖縄県連は反対の党員を除名したが、除名された那覇市議は県知事候補に翁長那覇市長を擁立し出馬を要請した。革新側では翁長氏に対する懸念もあって、直接面談を行い「これ以上新しい軍事基地を受け入れるべきではない」という点で意見の一致を見て、「沖縄の未来を拓く市民ネット」が結成され、レ歴史的に例を見ない「オール沖縄」体制が形成された。自民党沖縄県連は仲井間氏を担ぎだした。そこで安倍政権は、埋め立て工事を強行し、後戻りできない既成事実を選挙前に作り上げ、市民雄無力感とあきらめムードを煽ることによって、辺野古新基地の是非を戦況の争点から外そうと画策した。戦後最も強権的な安倍政権が、露骨な沖縄蔑視・敵視政策をむき出しにしたのである。「集団的自衛権」行使容認を閣議決定した2014年7月1日、安倍政権は辺野古沿岸における「臨時制限区域」設定を防衛大臣名で告示した。常時立ち入り制限区域を現行の50メートルから2000メートルへと拡大した。海上では19隻の海上保安庁の巡視艇が辺野古・大浦湾を取り囲んだ。同時期の小笠原周辺海域の中国のサンゴ密漁船200隻に対応する海上保安庁の巡視艇はわずか5隻しかいなかった。安倍首相が防衛省幹部を読んで指示したという強権的措置は、県民全体の危機感を高めた。現地闘争と知事選挙戦の一体化こそが、党利的利害関係を超えて、前例を見ない共闘体制を成立させた。21014年11月16日の知事選投票の結果は、翁長氏の圧勝であった。投票率は64%で、翁長氏は仲井間氏に10万票の差をつけた。2014年12月争点不明で唐突な無条件信認選挙と言われる衆議院選挙が行われた。14日の投票結果は全国的には自公民の圧勝であったが、沖縄県の小選挙区第1から第4の選挙区では、共闘候補者が全員当選し、自民党候補は全員破れた(比例区で全員復活したが)。沖縄の民意ははっきり表明された。地元紙沖縄タイムスは12月18日社説で「確かに山が動き始めた」と伝えた。沖縄知事選後、翁長知事はまず「政府が民意を尊重して移設計画を断念するよう」に求めたが、菅官房長官は「辺野古移転は粛々と進める」と沖縄県の民意を無視すると公言した。12月10日翁長知事はあいさつのため政府関係者に面会を求めたが門前払いにあった。首相や官房長官、外務・防衛などの大臣は、埋め立て拒否の民意を晉知事から公式に伝えられることを拒絶した。都合の悪い話、耳の痛い話ははなから聞く耳を持たないらしい。2015年1月14日中断されていた埋め立て工事が再開された。翁長知事は政府関係者に公式に民意を伝えられずに、1月26日前知事の埋立承認の瑕疵の有無を検証する第3者検証委員会を立ち上げた。報告時期を7月とし、その間は工事を中止するよう政府に要請した。だが政府は知事も要請に応じる気配はなかった。政府としては検証結果が出る前に既成事実を積み上げることこそが必要だとしていたからだ。現地における抗議行動に足しても、海保、警察、米軍の弾圧が暴力性を強めてきた。まさに権力むき出しの暴力であった。また海保は、海上取り締まり強化を報道する沖縄地元紙の記事に介入し、誤報だとする宣伝活動を開始した。この問答無用の工事強行に対して、3月23日翁長知事は沖縄防衛局に対して、ボーリング調査の作業を1週間以内に停止する指示をした。それは2月26日に行った県の独自調査結果により「許可を得ずに岩礁破壊行為がなされた蓋然性が高い」と判断したからである。沖縄防衛局が投下した最大45トンもあるコンクリート構造物(防衛局はこれを錨というが)がサンゴ礁を傷つけていると沖縄県は判断した。知事の作業停止指示に対して、防衛局は行政不服審査法に基づいて農林水産大臣に対して指示の執行停止と審査請求を行った。この行政訴訟はおかしなトリックを含んでいる。国が国に審査請求を行い、国が採決を下すというものである。いかにも官僚が知恵を絞った独り芝居見たいな茶番劇である。
この茶番劇について広く批判や疑義が出され、かって「粛々と工事を進める」と言い放った菅官房長官は態度を改め、2015年4月5日に知事と菅官房長官の会談が実現した。話し合いは主張のぶつけ合いに過ぎなかったが、知事の主張は官房長官の頭を越えて、っメデァを通じて本土の世論に訴えた。知事は4月17日安倍首相と会談した。渡米を前にした安倍首相に、沖縄の圧倒的多数は辺野古新基地建設に絶対反対であるとオバマ大統領に伝えてほしいと訴えた。4月27日、知事は日本の都道府県として初めてワシントンに沖縄事務所を設置し、直接外交を開始した。知事自身と沖縄選出国会議員ら代表団は5月27日―6月5日に訪米し、各界の有力者らに自らの方針を伝えた。2015年4月28日に行われた日米首脳会談で、翁長知事は辺野古移設に反対している旨を伝え、その上で安倍首相は辺野古移設が唯一の解決策と考えると尾花大統領に表明した。その前日27日に日米安保協議委(2+2)が開かれ、新ガイドタインの改定が合意された。30日には安倍首相は米議会で演説を行い、夏までに安保法制整備を約束した。2年前の日米首脳会談とはだいぶ様相が変わっていた。こうしてアメリカを後ろ盾にして巨大化する中国に対抗しようとする安倍政権と、安倍の歴史修正主義的発言には目をつぶって、集団的自衛権容認という形で日本の軍事力拡大を歓迎するアメリカン側の利害が一致することになった。安保法制整備と辺野古新基地建設は密接な関係をもって同時並行で進められた。菅官房長官は8月10日から9月9日までの間工事を一時中断して、集中して政府と沖縄県との協議を行うことにした。安保法制整備の国会審議で違憲意見がでて内閣支持率が低下し、不支持率と逆転したからである。しかし安保法制整備が衆議院を通過した7月16日、沖縄県の第3者検証委員会は仲井間前知事の埋め立て承認に瑕疵がったとする報告書を提出した。菅官房長官と沖縄県との協議は東京と沖縄で計5回行われた。議事録は残さない約束で、協議は平行線のまま推移し、結局官房長官にあたらしい提案はなく、時間稼ぎか意見を聞いているというアリバイ作りか、官房長官が安倍首相への防波堤となっていると見られる。2015年9月12日知事は辺野古沿岸埋立工事承認を取り消すことを表明した。9月21日、翁長知事は国連人権理事会で、沖縄の人々が日米政府によって自己決定権や人権をないがしろにされていると訴えた。10月13日知事は、沖縄防衛局に埋立承認を取り消すことを通知した。10月14日沖縄防衛局は国交相に対して取り消し処分に対する審査請求と執行停を申し立てた。沖縄県、防衛局、国交省でやりとりが行われているとき、沖縄防衛局の環境監視等委員会の汚職が明らかになり、10月23日全国行政法研究者93名が「政府の行政不服審査制度の濫用を憂う」という共同声明を出した。しかし国交省は10月27日、知事の承認取り消しを執行停止にすると同時に国による代執行手続きに入った。これに対し知事は総務省の第3者機関「国地方係争処理委員会」に審査を申し立てた。いっぽう中谷防衛大臣は辺野古3区を対象に、名護市の頭越しに直接補助金を交付する仕組みを検討しているという分断策を公表した。また市民の抗議行動に対して警察庁の機動隊を投入した。反対している県や名護市を無視し、政府が地方自治体に直接介入するという、道理も順序も無視したなりふり構わない紛争介入である。確かに沖縄返還で、米軍の直接支配は解消したが、対米従属的日米関係を支える構造的沖縄差別は、基地機能の沖縄への集中という形で維持された。普天間基地を変換する代わりに新基地を提供するのみならず、安保再定義によって日米同盟を強化するという政策は、沖縄返還を利用して、沖縄への基地機能の強化集中と日米関係の強化を実現したやりかたに似ている。辺野古新基地建設阻止の闘いは、沖縄が構造的沖縄差別を打ち破り、自らを平和で文化的経済的な姿に転換させたいという「自己決定権」の行使にほかならない。しかも戦後歴代政府の中で、最も強権的で独善的な安倍政権は、恣意的な法解釈の下で暴力的に基地建設をおし進めようとしている。